「ゆずり葉」(4/22) 「運が向いてきたぞ、夢」(4/25)のつづき
良いニュースなので再掲する。
<ホンダジェット、ブランド背負い 空舞う宗一郎の夢> 産経新聞 4月24日(金)7時55分配信より一部引用
ホンダは、23日に日本で初披露した小型ビジネスジェット機「ホンダジェット」で、世界的に成長の続くビジネスジェット市場に本格参入する。二輪車メーカーとして創業し、国内最後発で四輪事業に参入したホンダが、今度は航空機開発で世界の空に打って出る。極めて厳しい安全性が求められる航空機事業で成功できれば、相次ぐ四輪のリコール(商品の回収・無償修理)問題で傷ついたブランド力の復活が期待できる。(松岡朋枝)
「(本田)宗一郎の夢でもありホンダマンの夢でもある。空にわれわれの夢が広がった象徴的な日だ」
23日に記者会見したホンダの伊東孝紳社長は感慨深げに語った。同社の航空機事業の歴史は長い。
昭和37年には、新聞に航空機の設計コンテストを開催する広告を掲載し、航空事業参入を計画していたとされる。
61年には航空機用エンジンなどの基礎研究に着手し、平成9年にホンダジェットの開発を開始。基礎研究開始から約30年でようやく“おひざ元”日本での飛行にこぎつけた。
ホンダの本田宗一郎氏といえば、「官僚たちの夏」(城山三郎)の主人公である通産省事務次官の風見を向こうに回して大見得を切った大人物というイメージがある。
今となっては信じられないことだが、貿易自由化に向けて国家をあげて国際競争力の強化をはかろうという1960年代前半は、自動車は「特定産業」に指定される業界で、メーカーは一社か二社でよい(ホンダは二輪車を作っておればよい)というのが通産省の考えだった。
このような時勢にあっては、ホンダはただ車を作り売るというだけで、通産省の後の事務次官となる官僚と大喧嘩をしなければならなかった。
本田氏が後の通産省事務次官に対して啖呵を切る。
「あんた方役人に何がわかる!? オートバイだって外国製品に立派に太刀打ちできた。厳しい競争があるからこそ、企業は必死になって努力するし、成長もするんです。自由競争のみが、競争力強化の真の手段なんだ」
「なんだと? 俺が私利私欲で会社をやっているとでも思っているのか! 俺たちが、オートバイで世界一位になったとき、お前らはなんて言った。日本のために日の丸を揚げてくれて感謝しています、なんて言ってやがったじゃないか。いいか、俺がもし自動車で日の丸を揚げたときには、お前は切腹するぐらいの覚悟をしておけ」 (本田宗一郎物語より)
自動車産業に参入するだけでも、これだけ大変な時に、本田宗一郎氏が空をも見据えていたのは「車を見るより先に飛行機を見ていた」という本田氏の特異な経験によるものだろうか。
本田氏の「いつか本田が空を飛ぶ」という夢が、「ホンダマンの夢」として受け継がれ、本田氏の没後24年目にして実現した。
老葉と若葉の相違点を探し、今と次を比較ばかりしていては、老若相食んで弱体化するばかりではないか。
ホンダジェットの成功から考えるに、夢と理想の共有こそが、老葉と若葉、前の時代と次の時代を継ぐものではないだろうか。
そのあたりを、もう少し考えるとして、今日の庭いじり。
人間とは勝手なものだとつくづく思う。
「穀物を育てる穀雨だといっても、こう雨ばかりでは何も出来ないではないか」と毒づいたのが効いたのか、
週末は抜けるような青空。すると今度は、
「作物にお日様は必要だといっても、こう日差しがきつくては、しんどくて作業がはかどらないではないか」とボヤいてる。
その昔、農耕民族にとって天候を知るというのは死活問題だったと思う。
「天地明察」(沖方丁)は暦つくりに情熱をかける男の物語だが、鎖国していた日本が天文学や暦つくりや算術に秀でていたのは、それが農業にとって重要だったからに違いない。
限られた土地であげる収穫量の多さは、日本人の勤勉さと優秀さの賜物でもあり、その生活に密着した「生きた知恵」こそが、代々受け継がれる地に足のついた「夢」の源泉だったのだと思う。
庭いじりを始めた頃は、やたらと野菜作りの本を読んでは工夫を重ね、それはそれで楽しいのだが、実際に土や苗を見ながら教えて下さるご近所の元農家さんの意見は「生きた知恵」だと感じている。
最近、野菜も魚も非常に高いし、品薄感もある。
天候不順や燃料費高騰のせいなら仕方がないが、後継者不足で問題が生じているなら、ここらで真剣に考えなければ日本の食が危なくなる。
書物もよいが、共にお天道さまの御機嫌を伺いながら土や作物にふれ「生きた知恵」を伝授するのに勝るものはない。
庭いじりをしながら、そんなことも考えていた。
つづく
良いニュースなので再掲する。
<ホンダジェット、ブランド背負い 空舞う宗一郎の夢> 産経新聞 4月24日(金)7時55分配信より一部引用
ホンダは、23日に日本で初披露した小型ビジネスジェット機「ホンダジェット」で、世界的に成長の続くビジネスジェット市場に本格参入する。二輪車メーカーとして創業し、国内最後発で四輪事業に参入したホンダが、今度は航空機開発で世界の空に打って出る。極めて厳しい安全性が求められる航空機事業で成功できれば、相次ぐ四輪のリコール(商品の回収・無償修理)問題で傷ついたブランド力の復活が期待できる。(松岡朋枝)
「(本田)宗一郎の夢でもありホンダマンの夢でもある。空にわれわれの夢が広がった象徴的な日だ」
23日に記者会見したホンダの伊東孝紳社長は感慨深げに語った。同社の航空機事業の歴史は長い。
昭和37年には、新聞に航空機の設計コンテストを開催する広告を掲載し、航空事業参入を計画していたとされる。
61年には航空機用エンジンなどの基礎研究に着手し、平成9年にホンダジェットの開発を開始。基礎研究開始から約30年でようやく“おひざ元”日本での飛行にこぎつけた。
ホンダの本田宗一郎氏といえば、「官僚たちの夏」(城山三郎)の主人公である通産省事務次官の風見を向こうに回して大見得を切った大人物というイメージがある。
今となっては信じられないことだが、貿易自由化に向けて国家をあげて国際競争力の強化をはかろうという1960年代前半は、自動車は「特定産業」に指定される業界で、メーカーは一社か二社でよい(ホンダは二輪車を作っておればよい)というのが通産省の考えだった。
このような時勢にあっては、ホンダはただ車を作り売るというだけで、通産省の後の事務次官となる官僚と大喧嘩をしなければならなかった。
本田氏が後の通産省事務次官に対して啖呵を切る。
「あんた方役人に何がわかる!? オートバイだって外国製品に立派に太刀打ちできた。厳しい競争があるからこそ、企業は必死になって努力するし、成長もするんです。自由競争のみが、競争力強化の真の手段なんだ」
「なんだと? 俺が私利私欲で会社をやっているとでも思っているのか! 俺たちが、オートバイで世界一位になったとき、お前らはなんて言った。日本のために日の丸を揚げてくれて感謝しています、なんて言ってやがったじゃないか。いいか、俺がもし自動車で日の丸を揚げたときには、お前は切腹するぐらいの覚悟をしておけ」 (本田宗一郎物語より)
自動車産業に参入するだけでも、これだけ大変な時に、本田宗一郎氏が空をも見据えていたのは「車を見るより先に飛行機を見ていた」という本田氏の特異な経験によるものだろうか。
本田氏の「いつか本田が空を飛ぶ」という夢が、「ホンダマンの夢」として受け継がれ、本田氏の没後24年目にして実現した。
老葉と若葉の相違点を探し、今と次を比較ばかりしていては、老若相食んで弱体化するばかりではないか。
ホンダジェットの成功から考えるに、夢と理想の共有こそが、老葉と若葉、前の時代と次の時代を継ぐものではないだろうか。
そのあたりを、もう少し考えるとして、今日の庭いじり。
人間とは勝手なものだとつくづく思う。
「穀物を育てる穀雨だといっても、こう雨ばかりでは何も出来ないではないか」と毒づいたのが効いたのか、
週末は抜けるような青空。すると今度は、
「作物にお日様は必要だといっても、こう日差しがきつくては、しんどくて作業がはかどらないではないか」とボヤいてる。
その昔、農耕民族にとって天候を知るというのは死活問題だったと思う。
「天地明察」(沖方丁)は暦つくりに情熱をかける男の物語だが、鎖国していた日本が天文学や暦つくりや算術に秀でていたのは、それが農業にとって重要だったからに違いない。
限られた土地であげる収穫量の多さは、日本人の勤勉さと優秀さの賜物でもあり、その生活に密着した「生きた知恵」こそが、代々受け継がれる地に足のついた「夢」の源泉だったのだと思う。
庭いじりを始めた頃は、やたらと野菜作りの本を読んでは工夫を重ね、それはそれで楽しいのだが、実際に土や苗を見ながら教えて下さるご近所の元農家さんの意見は「生きた知恵」だと感じている。
最近、野菜も魚も非常に高いし、品薄感もある。
天候不順や燃料費高騰のせいなら仕方がないが、後継者不足で問題が生じているなら、ここらで真剣に考えなければ日本の食が危なくなる。
書物もよいが、共にお天道さまの御機嫌を伺いながら土や作物にふれ「生きた知恵」を伝授するのに勝るものはない。
庭いじりをしながら、そんなことも考えていた。
つづく