何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

一瞬の輝きの結実 命の器

2016-02-20 09:51:25 | ひとりごと
あの日から一月経った。

暖冬から一変してこの冬一番の寒さとなった大寒直前の厳しい寒さが、ワンコに堪えたのかもしれない。
鉛色の空から小雪が舞ったあの日
寒風は吹き荒ぶも晴天のもとワンコを見送ったあの日

あの日が、いかにも冬らしい日だっただけに、最近急速に日が長くなり光が春めいてきたことが、悲しい。
季節は移ろい、ワンコがいない春が来ようとしていることを、それぞれが何とか受け留めようとしている。

ワンコ愛用のクッションや水飲みオアシスを身近に使い続ける方法を考えたり、年表つきアルバムを作るため写真を整理したり・・・・・と。
学校でワンコの話をしたのか、また貸してもらったものらしき「魔女犬ボンボン」 (廣嶋玲子・作 KeG・絵)(最終巻?)を枕元に置いている。笑顔のボンボンが眩しすぎるのか読む気配はなく、この休みは、家庭科だか手作りクラブだかで覚えたフェルト細工で、ワンコマスコットを作るそうだ。
ワンコの毛と爪をフェルトで包み、お守りを作ってくれるらしい。

私は、最初の予防接種から17年お世話になったワンコ病院にお礼の挨拶に伺った。
「医療者から云えば、痛みや苦痛があったわけではなく穏やかで安らかな老衰で、見事に天寿をまっとうした。
 ワンコに与えられていた命の器を十分に生ききった立派な一生だった」 と。

「与えられた命の器を生ききる」
この言葉が胸に響き、再度「14歳のための時間論」(佐治晴夫)を読み返した。

「これからが、これまでを決める」という言葉に惹かれて検索しているなかで知った本書には、今の私には辛い一文があった。
『生きること=時間』

それは当然のことなのかもしれないが、生きている私のなかでワンコは生き続けると思っている私は、断絶を突き付けられた気がしたのだ。
が、ワンコの後押しもあって読んでみれば、違った味わいも感じられた。(参照、「空の星にも庭の草木にも」

ワンコ先生の「命の器」の言葉と佐治氏の時間論
宇宙や原子の謎が解明されるに従い、時間を空間と関係のないものとするニュートンの「絶対的時間」では説明がつかなくなってきた、そこで生まれたのが、アインシュタインの時間と空間を結び付けた「相対性理論」。
「一般相対性理論」によれば、重力を受けることによって時間の流れの速さが遅くなり、「特殊相対性理論」によれば、自分が住んでいる世界の運動状態によって時間は伸びたり縮んだりするそうだ。
佐治氏によると、『この宇宙には、「絶対時間」というものは存在しないようです』ということになる。  

佐治氏の時間論を私の理解に応じてアトランダムに引用して導く私見には、誤解や曲解や我田引水はあると思うが、最終的には「命の器を生ききる」に繋がるのではないかと感じている。

佐治氏は「生きている=時間だ」としながら、絶対時間というものは存在しないとし、生きている生命それぞれに流れる時間の感覚は異なると述べている。
それは過ごす時間の内容によっても異なる。
『私たちはいつも、時間を感じながら生きています。
 素敵な時間、悲しい時間、せつない時間、苦しい時間、そして幸せな時間……
 それらの時間の長さは、物質でつくられた機械時計で、誰にでもわかるような数値で計ることができます。
 でも、その数値と、あなたが感じている時間の長さがぴったり一致することはないでしょう。』

また、年齢によっても時間の流れは異なってくる。
『5歳の子どもにとっての1年間は、これまで生きてきた人生の長さの、5分の1です。しかし、30歳の人にとっての1年間は、その30分の1にしかなりません。
つまり、これまで過ごしてきた人生の長さに比べると、年を重ねれば重ねるほど、一年という長さが占める割合が、少なくなるわけです。そのため、同じ一年間、同じ一日であっても、過ぎ去る時間が早くなったように感じるのかもしれません。』
『5歳の子どもの1日は、30歳の人の6分の1です。ですから、その子どもにとっての1日の量は、30歳の人の1日の量よりも、6倍多く感じている、と考えてもいいでしょう。』

更には、同じく生を受ける生き物であっても、時間の感覚は異なるかもしれない。
『私達は、生まれて三年ほどで一生を終えてしまう動物を「早く死んでかわいそうだ」と思ったりします。でも、ひょっとしたら、それは人間の一方的な尺度からの見方で、すべての動物にしてみれば、それぞれが感じている一生の長さは、同じなのかもしれません。』

最終章では、これらをまとめて、宇宙の始まりと時間の始まりについて書かれている。
『宇宙のはじまりは、まさに「はじまり」なのであって、それまで、くりかえし現象があったわけではありません。
 ですから、宇宙のはじまりとともに、時間も始まったのでしょう。
 私たちの人生も、同じです。
 生まれる前のことは、わかりません。終焉を迎えた後のことも、わかりません。
 さらに言えば、生まれる瞬間のことも、終焉を迎える瞬間のことも、残念ながら霧の中です。
 とすれば、私たちの人生は、いつ始まり、いつ終わるのでしょうか?
 機械時計で生存期間を示すことはできても、その本人にはわかりません。
 わかっているのは、「いま」、「この瞬間」、「ただいま」しかありません。
 そして、生きている限り、今、いま、イマ……の連続です。
 人生の始まりも終わりの瞬間もわからないのであれば、その人にとっては人生の長さを測ることができないのですから、
 極端な言い方をしてしまえば「すべての人にとっての人生の長さは同じだ」といってもいいのかもしれません。』

3年が寿命の生き物からすれば、17年生きたワンコは長寿かもしれないが、平均寿命が80を超える人間からすれば、
17年は短すぎる。
だが、どの生き物もそれぞれの個体に応じた寿命があり、又それぞれは自分固有の寿命を分からないまま生きている。
分からないまま生きているなら、その生きれる限りの時間は、17分の3でもなければ、80分の17でもなく、皆等しく「1」となる。
つまり、与えられた命の器を生きれば、それは正しく永遠の時間の流れに乗ったということ、と私は理解した。
この理解が佐治氏的に正しいのかは、分からない。
分からないが、ワンコのおかげで一度は投げ出した物理学的時間論を注意深く読み、ニュースやワンコ先生の言葉をしっかり考えることができ、ワンコが自らの命の器を十分に十二分に生ききってくれたことを気付かせてくれた。
それが、寂しさと悲しさと淋しさで縮こまっている私達の慰めとなった。

ここにワンコの気配を感じている。
ここにワンコの愛を感じている。
私の命の器を1にするため、ワンコの気配と愛に導かれながら、一瞬の大切さを肝に銘じて新たな時間を過ごしていきたいと思っている。

見えないものを瞳に映して

2016-02-18 12:30:00 | 自然
「空の星にも庭の草木にも」のつづき

最近あまり良いニュースがないので、国産ロケット打ち上げ成功のニュースは嬉しかった。

<天体観測衛星の打ち上げ成功 「ひとみ」と命名>NHK2月17日 20時19分配信より一部引用
ブラックホールなど宇宙の謎に迫る日本の新しい天体観測衛星が17日午後5時45分、鹿児島県の種子島宇宙センターからH2Aロケット30号機で打ち上げられ、打ち上げは成功しました。JAXA=宇宙航空研究開発機構は、これまで「アストロH」と呼んでいた衛星の名前を17日夜、新たに「ひとみ」と命名しました。
JAXAは、「ひとみ」と名付けた理由について、宇宙を見る新しい目としてさまざまな発見を期待したいという思いを込めたとしています。
地球上では大気に吸収されて観測できない「エックス線」を、これまでより最大100倍高い感度で捉えることができ、ブラックホールの成り立ちなど宇宙の謎の解明につながると期待されています。


14日(日曜)NHKラジオで「見えないものを見る」というテーマで重力波についても語られていたと書いたが、「14歳のための時間論」(佐治晴夫)を注意して読んでいると、やはり「見えないものを見る」という表現に出くわした。
物理学や天文学を修めると、目の前に見えている事象だけでなく、今は見えてはいないけれど現実・現在を成り立たせている根本的原理を見たくなる(知りたくなる)のかもしれない。
物理学にも天文学にも縁がない私なので、宇宙の原理は分かるはずもないが、それでも夜中にワンコのチッチで夜空を見上げたとき、そこに永遠の時間を感じ(例え現世でワンコと別れる時が来ようとも)何時か必ず夜空でワンコに出会える日がくると信じることができたのは、見上げた先にあるのが犬星だったからばかりではないことが、相対性理論によって裏付けられたと云えば、曲解・誤解・我田引水と方々からお叱りを受けるだろうか。
「14歳のための時間論」によると、宇宙や原子が解明されるに従い、時間を空間と関係のない「絶対的時間」とするニュートンの論理では無理が生じてきた、そこで生まれたのが、アインシュタインの時間と空間を結び付けた「相対性理論」だったそうだ。
見ることの出来ない時間を空間の変化により感じること、それが、膨張する宇宙(空間)と時間の原理の根っこにあるようだ。

だから、夜空を見上げると誰しも、ただ星が美しいと感じるだけではなく、永遠の時間までも感じるのかもしれない。
だから、ワンコと夜空を見上げる度に、永遠に時間を共有していけると感じたのかもしれない。
如月の宵の犬星を仰ぎ見て、ワンコと語り合う

「14歳のための時間論」より
『私たちが夜空を見上げるとき、そこにはたくさんの星が見えます。赤い星、青い星、明るい星、暗い星…、その姿はさまざまです。しかも、遠い星、近い星も、同時に見ています。 そして、遠 い星ほど、より昔に 、その星を旅立った光を、私たちは見ていることになります。
ですから、いま、この瞬間に、たくさんの星を同時に見ているということは、遠い過去から近い過去までの時間の「ひろがり」を、いまという瞬間に見ているということになります。
その一方で私たちは、遠いところにある星と、近いところにある星を、“いまという瞬間”に見ています。ですから、遠いところから近いところまでの、宇宙という空間の「ひろがり」を、見ていることにもなります。
そこで、ひとつの結論です。
星を見上げるということは、広大無辺な宇宙の「時間」と「空間」を、“いまという瞬間”にまとめて体験している、ということにほかならないのです。』

ところで、皇太子ご夫妻の趣味の一つに天体観測があることは、雅子妃殿下が誕生日の会見で何度か述べておられる。
夜空を見上げ永遠の時間を体感しておられるお二方だから、長きにわたる病の時・苦しみの時を、静かに穏やかに受け留めておられるのかもしれない。
それは、もちろん辛く苦しい時間であるに違いないが、時間の長さを人の営みと権力の儚さという点から学んでおられる歴史学者の皇太子様と、地球規模の視野と物理を解する頭脳を有する雅子妃殿下だからこそ、御自身の苦しみや困難の意味を長い歴史的時間と地球的摂理に照らしあわせて考えておられるのだと思っている。
だからこそ、のたうちまわりたくなるような苦しみの連続のなかにあって、知性と品格の砦を守りとおしておられるのだと思う。
春はあけぼの ジュピターに皇太子御一家のお幸せを祈っている。

ところでpart2
アメリカの研究チームが米国2カ所にある装置「LIGO(ライゴ)」の性能を大幅に高めて、昨年9月から今年1月上旬まで観測・分析してきた結果、アインシュタイン最後の宿題ともいえる重力波をとらえたことを、ノーベル賞級だとニュースが伝えている。
岐阜県飛騨市の神岡鉱山跡に建設中の大型低温重力波望遠鏡「KAGRA(かぐら)」が稼働さえしておれば、後塵を拝することはなかったろうにと悔しいが、失望することなかれ、(NHKラジオによると)「LIGO」が二点で測量しているため重力波の存在しか証明できていないのに対して、来月15日に試運転を開始する「KAGRA」は三点測量の原理を用いて、重力波の存在だけでなく、その出所まで明らかに出来るというのだ。
夜空を見上げ、見えないものを見るべく探究する人々の健闘を祈っている。

「ひとみ」(ASTRO-H)




写真出展
宇宙航空研究開発機構JAXA http://www.jaxa.jp/
http://www.jaxa.jp/topics/2016/index_j.html#news6956

空の星にも庭の草木にも

2016-02-17 09:51:25 | ひとりごと
「神だけが知る時間」のつづき

「神だけが知る時間」で「つづく」と書いた時には、「これからが、これまでを決める」という言葉に惹かれた理由や、この言葉で思い出した話を書こうと思っていた。

その後この言葉の出典を検索しているなかで、物理学者の佐治晴夫氏が「14歳のための時間論」でアインシュタインの一般相対性理論を用いながらこの言葉を説明していると知ったが、そこにある一文が今の私には身に堪え、書きあぐねていた。

もとより一般相対性理論から解き明かす時間論を私が理解できるはずもなく、物理学と時間と空間の理解を心情的な面から助けてくれる「パラドックス13」(東野圭吾)を思い出し、曲がりなりにも考えらしきものをまとめた事を以て自分なりの「時間論」は完結していたはずだが・・・・・
「もう一度考えてみろ」とワンコが言う。

14日(日曜)の夜ラジオを聴いていると、重力波のニュースについて「見えないものを見る」というテーマで話している。
まず、この題名に惹かれて聴きはじめた。
実は、「見えないものもあるんだよ、大切なものは心で見なくちゃ」と去年の秋書いた時、「そう遠くない何時か別れの時が訪れ、ワンコに触れることができなくなっても、見えなくてもワンコはいるんだよ、大切なワンコをずっと心で見続けるよ」との想いを込めていた。(参照、「自由 平等 博愛」「感謝の乾杯と祈りの献杯」
ラジオのテーマ「見えないものを見る」はあの時の想いを甦らせ、しかも理解を諦めていた相対性理論について語っているので、耳を澄ませたのだ。

数えきれないほど多いという事を例えて「星の数ほど」と云うが、実は人が肉眼で見ることができる星の数はさほど多くはないそうだ。
その数 3000。
しかし、実際には、それこそ星の数ほどの星が実在している。
ただ、どれほど輝いていようとも遠すぎる星や昼間の星は、見えない。
見えなくとも確かに存在しているものの解明に心血を注ぐ科学の話でもあり、負けるな「KAGRA(大型低温重力波望遠鏡)」などと思いながら聞いていた番組の最後にかかった曲が、ワンコとの思い出の曲だった。

ワンコが語りかけてくる
しっかり読んで考えろ
見上げる空にも、足元の庭にも僕はいる



『ぼくは、あの星のなかの 一つに住むんだ。
 その一つの 星のなかで 笑うんだ。
 だから、きみが夜、空をながめたら、
 星がみんな笑ってるように 見えるだろう。
 すると、きみだけが、笑い上戸の星を見るわけさ。』
 「星の王子様」(サン=テグジュペリ)


・・・・・ワンコのお伴をした庭のフリージアが蕾を膨らませている。

見上げる空にはワンコ星が、足元の庭にはワンコの心の種は育っている。

そも、波動砲は

2016-02-13 23:07:55 | ニュース
「これからが、これまでを決める」の出典を検索している時、アインシュタインの一般相対性理論から「時間」について解き明かしたうえで、この言葉を説明している文章(本の引用)に出くわした。
物理では、「これは何点満点のテストですか」という点をとった苦い経験がある私には、そもそも一般相対性理論の正確な理解などできようはずもないが、それが示すところに大いにショックを受けたので、ともかくその本をあたろうと思っていた矢先、一般相対性理論が正しいことが証明される世紀の大発見があった。

<重力波>世界初観測 国際研究チーム 宇宙誕生のなぞに光  毎日新聞 2月12日(金)0時46分配信より一部引用
◇一般相対性理論の正しさを改めて裏付け
物理学者のアインシュタインが100年前に予言した「重力波」を探索している米マサチューセッツ工科大など米国を中心とした国際研究チーム「LIGO(ライゴ)」は12日未明、宇宙からやってきた重力波を初めて直接観測することに成功したと発表した。重力波の存在を予言したアインシュタインの一般相対性理論の正しさを改めて裏付けると共に、宇宙誕生のなぞや、光や電波では観測できない天体現象の解明に期待がかかる。
重力波は、ブラックホールなど質量の非常に大きな物体が動く際、周りの時空(時間と空間)がゆがみ、そのゆがみが波のように伝わる現象だ。アインシュタインが1915~16年に発表した一般相対性理論に基づき予言した。この理論は、宇宙の膨張やブラックホールの存在を示す数多くの観測などから正しさが確かめられてきたが、重力波による時空のゆがみは極めて小さいため、観測に成功した例はこれまでなかった。
重力波は、ブラックホールなど質量の非常に大きな物体が動く際、周りの時空(時間と空間)がゆがみ、そのゆがみが波のように伝わる現象だ。アインシュタインが1915~16年に発表した一般相対性理論に基づき予言した。この理論は、宇宙の膨張やブラックホールの存在を示す数多くの観測などから正しさが確かめられてきたが、重力波による時空のゆがみは極めて小さいため、観測に成功した例はこれまでなかった。
http://mainichi.jp/articles/20160212/k00/00m/040/109000c

このニュースを聞いて、「パラドックス13」(東野圭吾)が真っ先に浮かぶのだから、ほとほと私は物理に縁がない。
図書館で借りて読んだためストーリーを正確には記せないが、ある日ブラックホールに異変だか歪みだかが生じたため、13秒消えてしまうという現象(P-13)がおこる。
P-13現象を事前に予測した世界の指導者たちは、パニックを避けるためにそれを一般人に知らせず、危険な作業は止めさせるとだけ決める。
だが、P-13と呼ばれる現象が引き起こしたのは、それでどうにかなるものではなかった。
世界から人が消えてしまったのだ。
正確には無人になったわけではなく、わずかに残されうちの13人が廃墟となった東京で何を考えるのか、という話だったと思う。

東野氏は自身が電子工学を学んでいるので、作者の主眼は別のところにあるのだろうが、当時「携挙」について書かれた「レフト・ビハインド」(ティム・ラヘイ、ジェリー・ジェンキンズ)を読んだばかりだったので、P-13現象で人類が消えるという事象を「携挙」に重ねて読んでしまった。
手前勝手な発想で読んだが、その発想で読んでみれば、意外なほどに双方の理解に役立ったのは、「パラドックス13」のなかに繰り返し、「天は自ら助くる者を助ける」という聖句が出てきたからだと思われる。
「レフト・ビハインド」では、全き信仰者だけが大患難を前に天に救われ(この世から突然消える)、信仰足りぬ残された者が邪悪な誘惑と闘いながら正しい道を模索する話であるのに対し、「パラドックス13」は、結果的には消えた側からの物語だが、極限状態におかれた人間の行動を考える意味においては通ずるものがあったと思う。

ともかく「パラドックス13」
P-13現象で世界が廃墟となった後も間断なく大地震と洪水は続く。
管理する人間を失えばインフラは全てストップし、街に溢れている物もやがては朽ち果てていくしかない。
P-13現象を経て存在を確認し合った者たちも、たちまち「生きる」ことが困難となる。
ただ「生きる」ことが困難となった時、それでも自分だけは生き残ろうとする者、他人の足手まといにならぬよう自ら生きることを止めようとする者、そもそも人間が消え失せ廃墟となった町で生きることに意味があるのかと悩む者が思う。
『せめて目標がほしい、と思った。
 生き続けることで何かを得られるのなら、それが何かを知りたかった。』

ただ生きるだけでも困難な状況で、その先にある目標を望む人間の姿は「人はただパンのみにて生きるにあらず」という言葉を思い起こさせたし、「天は自ら助くる者を助ける」という聖句が何度も書かれていることも併せ考えれば、東野氏はSFジャンルの作品に止まらない思いを込めて書かれたのだろう。
この言葉を裏付けるような登場人物の言葉もある。
『幸運を得たいのならば、まず自分の出来る最大限の努力をしろということだ。
 そのうえで俺は結果を受け入れる。
 行き着く先には死しかないということなら、その時初めて俺は観念する。
 しかしそれまでは諦めない。』
『生き抜こうとしない者には、奇跡なんか起きないと思え』

「レフト・ビハインド」と同時期に「パラドックス13」を読んだので、倫理や価値観に比重をおく読み方に繋がったが、理解しようにも分からない物理的現象という設定は、その状況下での心情の理解を曖昧にする面はあったかもしれない。だが、重力波のニュースを知り、その重力波の規模が大きければP-13は起り得るのではないか、であれば、そのとき自分はどうするのか、どうなっているのかと現実感をもって考えさせられた。
・・・・・このニュースを、このように受け留めていると書くことで、自分の物理音痴を曝け出しているのは情けないが、東野氏をはじめ理科系専門家による小説は、思わぬところで思わぬ気付きを与えてくれると感謝している。

というのも今、私がどうしても受け入れることが出来ずにジタバタしている本の作者が物理学者だからだ。
「14歳のための時間論」(佐治晴夫)
物理学から時間を解き明かそうという本で、14歳の子に理解できるように書かれているので、さすがに理屈は掴めているはずだが、それでも心が納得せずに困っていた。
それが、小説「パラドックス13」を思い出すことで少し視点が変わり、物理学的時間論を理解する心情的な助けとなっている、これが小説の良いところかもしれないと物書きの方々に感謝している。(参照、「家長ワンコが連れてくる春」

しかし、物語の世界に置き換えてもらわなくとも、世界が見えている人たちには、私とは全く違う世界が広がっているのだろうと思う。
違う視点や世界観という点で、雅子妃殿下を思い出した。
最近同時通訳者が、雅子妃殿下が皇室内で苦労されるのは帰国子女特有の「個性の“a”が、周囲の“the”に滲み込むことができ」ない点にあると書いているものを読んだ。雅子妃殿下は多くの皇族の方々と親しく交流されており、帰国子女ゆえに滲み込むことができない状態では全くない。
が、仮に雅子妃殿下が少し異なる視点をもっておられ、それゆえ相互理解が難しい点があるとすれば、その理由を帰国子女だけに求めることが誤解を拡大させているのだと思う。
雅子妃殿下は五か国語に堪能なだけでなく実は理科系にも秀でておられ、アメリカの高校時代には数学部に所属しておられ、得意科目は物理であったという。
物理音痴な私が物理学的時間論の理解に苦しむのと同様に、物理学を修めた人から見れば、それを理解しない人間の(屁)理屈は理解に苦しむものがあるのかもしれない。
その間にある、どうしようもない教養と理解の深度の溝を、優しい雅子妃殿下は御自身が埋めようとされたので、心が疲れてしまわれたのかもしれない。

ただ、どのように理解しようとも、「これからが、これまでを決める」ということは事実だと思う。

雅子妃殿下には辛く厳しい「これまで」の時間があったが、「これから」が素晴らしいものとなることで、「これまで」の時間の持つ意味も変わってくる。

雅子妃殿下には、これまでの時間を塗り替えるような素晴らしい時間を重ねていかれるよう祈っている。

恥の上塗りで、も一つ疑問を書いておく。
「重力波」と云うと「パラドックス13」以外にも実は、宇宙戦艦ヤマトの波動砲を思い出していた。
宇宙のエネルギーを動力にする兵器だが、確かワープの時にも利用していたはずで、物理の授業で「理論上はあり得る」と習った記憶があるような、ないような、あるような。

家長ワンコが連れてくる春

2016-02-11 12:30:00 | ひとりごと
「神だけが知る時間」で、「これからが、これまでを決める」という言葉を契機に時間(現在・過去・未来)について考えている、と書いたが、「これからが、これまでを決める」という言葉の出典を検索しているなかで、今の自分にはショックな文章(ある本からの引用)を見つけたので、とにかくその本を読んでから、時間については再度考えようと思う。

昨夜、この冬はじめて梅の香を感じた。
正月前には必ず御大が、庭の隅から松と梅を掘り起し、小奇麗な鉢に寄せ植え苔と白砂で飾り、下駄箱の上に鎮座させる。
今年は梅の蕾が多いと喜んでいたが、一月後半から、にぎやかに咲けども一向にあの独特の香が漂ってこなかった。
玄関には、香りのない賑やかな梅と、主のないリード。
・・・・・
二月にはいり、「たくさん蕾をつけたはいいが、花の数ほど賑やかな香りを出しても良いものかと、梅も迷っているのかもしれない」そんなことを話していたところ、昨夜帰宅すると、玄関が梅のあの独特の香りで包まれていた。

その香りに包まれるなり、浮かんだ歌がある。

東風ふかば にほい起こせよ梅の花 主なしとて 春なわすれそ (菅原道真)

ワンコは我が家の家長だった。
ワンコ実家の両親は、我が家の人間とワンコの関係性を見るなり、「この子は自分を四本足の人間だと思っているし、
家長だと自認している」と宣言された。

たしかにワンコは立派な家長だった。
東に泣いている者があれば、行ってその涙をぬぐい
西に疲れた者あれば、行って傍らでなぐさめ
南に喜ぶ者あれば、行って共にはしゃぎ
北に喧嘩する者あれば、行って的確に仲裁し
みんなに心から愛され
みんなを心から愛してくれた
そんなワンコのような存在に 私はなりたい 

しかし今でもワンコは我が家の家長だ。
触れることはできなくとも、大切なことは、花の香にのせて伝えてくれる。

姿なしとて ワンコ 主だ