あの日から一月経った。
暖冬から一変してこの冬一番の寒さとなった大寒直前の厳しい寒さが、ワンコに堪えたのかもしれない。
鉛色の空から小雪が舞ったあの日
寒風は吹き荒ぶも晴天のもとワンコを見送ったあの日
あの日が、いかにも冬らしい日だっただけに、最近急速に日が長くなり光が春めいてきたことが、悲しい。
季節は移ろい、ワンコがいない春が来ようとしていることを、それぞれが何とか受け留めようとしている。
ワンコ愛用のクッションや水飲みオアシスを身近に使い続ける方法を考えたり、年表つきアルバムを作るため写真を整理したり・・・・・と。
学校でワンコの話をしたのか、また貸してもらったものらしき「魔女犬ボンボン」 (廣嶋玲子・作 KeG・絵)(最終巻?)を枕元に置いている。笑顔のボンボンが眩しすぎるのか読む気配はなく、この休みは、家庭科だか手作りクラブだかで覚えたフェルト細工で、ワンコマスコットを作るそうだ。
ワンコの毛と爪をフェルトで包み、お守りを作ってくれるらしい。
私は、最初の予防接種から17年お世話になったワンコ病院にお礼の挨拶に伺った。
「医療者から云えば、痛みや苦痛があったわけではなく穏やかで安らかな老衰で、見事に天寿をまっとうした。
ワンコに与えられていた命の器を十分に生ききった立派な一生だった」 と。
「与えられた命の器を生ききる」
この言葉が胸に響き、再度「14歳のための時間論」(佐治晴夫)を読み返した。
「これからが、これまでを決める」という言葉に惹かれて検索しているなかで知った本書には、今の私には辛い一文があった。
『生きること=時間』
それは当然のことなのかもしれないが、生きている私のなかでワンコは生き続けると思っている私は、断絶を突き付けられた気がしたのだ。
が、ワンコの後押しもあって読んでみれば、違った味わいも感じられた。(参照、「空の星にも庭の草木にも」)
ワンコ先生の「命の器」の言葉と佐治氏の時間論
宇宙や原子の謎が解明されるに従い、時間を空間と関係のないものとするニュートンの「絶対的時間」では説明がつかなくなってきた、そこで生まれたのが、アインシュタインの時間と空間を結び付けた「相対性理論」。
「一般相対性理論」によれば、重力を受けることによって時間の流れの速さが遅くなり、「特殊相対性理論」によれば、自分が住んでいる世界の運動状態によって時間は伸びたり縮んだりするそうだ。
佐治氏によると、『この宇宙には、「絶対時間」というものは存在しないようです』ということになる。
佐治氏の時間論を私の理解に応じてアトランダムに引用して導く私見には、誤解や曲解や我田引水はあると思うが、最終的には「命の器を生ききる」に繋がるのではないかと感じている。
佐治氏は「生きている=時間だ」としながら、絶対時間というものは存在しないとし、生きている生命それぞれに流れる時間の感覚は異なると述べている。
それは過ごす時間の内容によっても異なる。
『私たちはいつも、時間を感じながら生きています。
素敵な時間、悲しい時間、せつない時間、苦しい時間、そして幸せな時間……
それらの時間の長さは、物質でつくられた機械時計で、誰にでもわかるような数値で計ることができます。
でも、その数値と、あなたが感じている時間の長さがぴったり一致することはないでしょう。』
また、年齢によっても時間の流れは異なってくる。
『5歳の子どもにとっての1年間は、これまで生きてきた人生の長さの、5分の1です。しかし、30歳の人にとっての1年間は、その30分の1にしかなりません。
つまり、これまで過ごしてきた人生の長さに比べると、年を重ねれば重ねるほど、一年という長さが占める割合が、少なくなるわけです。そのため、同じ一年間、同じ一日であっても、過ぎ去る時間が早くなったように感じるのかもしれません。』
『5歳の子どもの1日は、30歳の人の6分の1です。ですから、その子どもにとっての1日の量は、30歳の人の1日の量よりも、6倍多く感じている、と考えてもいいでしょう。』
更には、同じく生を受ける生き物であっても、時間の感覚は異なるかもしれない。
『私達は、生まれて三年ほどで一生を終えてしまう動物を「早く死んでかわいそうだ」と思ったりします。でも、ひょっとしたら、それは人間の一方的な尺度からの見方で、すべての動物にしてみれば、それぞれが感じている一生の長さは、同じなのかもしれません。』
最終章では、これらをまとめて、宇宙の始まりと時間の始まりについて書かれている。
『宇宙のはじまりは、まさに「はじまり」なのであって、それまで、くりかえし現象があったわけではありません。
ですから、宇宙のはじまりとともに、時間も始まったのでしょう。
私たちの人生も、同じです。
生まれる前のことは、わかりません。終焉を迎えた後のことも、わかりません。
さらに言えば、生まれる瞬間のことも、終焉を迎える瞬間のことも、残念ながら霧の中です。
とすれば、私たちの人生は、いつ始まり、いつ終わるのでしょうか?
機械時計で生存期間を示すことはできても、その本人にはわかりません。
わかっているのは、「いま」、「この瞬間」、「ただいま」しかありません。
そして、生きている限り、今、いま、イマ……の連続です。
人生の始まりも終わりの瞬間もわからないのであれば、その人にとっては人生の長さを測ることができないのですから、
極端な言い方をしてしまえば「すべての人にとっての人生の長さは同じだ」といってもいいのかもしれません。』
3年が寿命の生き物からすれば、17年生きたワンコは長寿かもしれないが、平均寿命が80を超える人間からすれば、
17年は短すぎる。
だが、どの生き物もそれぞれの個体に応じた寿命があり、又それぞれは自分固有の寿命を分からないまま生きている。
分からないまま生きているなら、その生きれる限りの時間は、17分の3でもなければ、80分の17でもなく、皆等しく「1」となる。
つまり、与えられた命の器を生きれば、それは正しく永遠の時間の流れに乗ったということ、と私は理解した。
この理解が佐治氏的に正しいのかは、分からない。
分からないが、ワンコのおかげで一度は投げ出した物理学的時間論を注意深く読み、ニュースやワンコ先生の言葉をしっかり考えることができ、ワンコが自らの命の器を十分に十二分に生ききってくれたことを気付かせてくれた。
それが、寂しさと悲しさと淋しさで縮こまっている私達の慰めとなった。
ここにワンコの気配を感じている。
ここにワンコの愛を感じている。
私の命の器を1にするため、ワンコの気配と愛に導かれながら、一瞬の大切さを肝に銘じて新たな時間を過ごしていきたいと思っている。
暖冬から一変してこの冬一番の寒さとなった大寒直前の厳しい寒さが、ワンコに堪えたのかもしれない。
鉛色の空から小雪が舞ったあの日
寒風は吹き荒ぶも晴天のもとワンコを見送ったあの日
あの日が、いかにも冬らしい日だっただけに、最近急速に日が長くなり光が春めいてきたことが、悲しい。
季節は移ろい、ワンコがいない春が来ようとしていることを、それぞれが何とか受け留めようとしている。
ワンコ愛用のクッションや水飲みオアシスを身近に使い続ける方法を考えたり、年表つきアルバムを作るため写真を整理したり・・・・・と。
学校でワンコの話をしたのか、また貸してもらったものらしき「魔女犬ボンボン」 (廣嶋玲子・作 KeG・絵)(最終巻?)を枕元に置いている。笑顔のボンボンが眩しすぎるのか読む気配はなく、この休みは、家庭科だか手作りクラブだかで覚えたフェルト細工で、ワンコマスコットを作るそうだ。
ワンコの毛と爪をフェルトで包み、お守りを作ってくれるらしい。
私は、最初の予防接種から17年お世話になったワンコ病院にお礼の挨拶に伺った。
「医療者から云えば、痛みや苦痛があったわけではなく穏やかで安らかな老衰で、見事に天寿をまっとうした。
ワンコに与えられていた命の器を十分に生ききった立派な一生だった」 と。
「与えられた命の器を生ききる」
この言葉が胸に響き、再度「14歳のための時間論」(佐治晴夫)を読み返した。
「これからが、これまでを決める」という言葉に惹かれて検索しているなかで知った本書には、今の私には辛い一文があった。
『生きること=時間』
それは当然のことなのかもしれないが、生きている私のなかでワンコは生き続けると思っている私は、断絶を突き付けられた気がしたのだ。
が、ワンコの後押しもあって読んでみれば、違った味わいも感じられた。(参照、「空の星にも庭の草木にも」)
ワンコ先生の「命の器」の言葉と佐治氏の時間論
宇宙や原子の謎が解明されるに従い、時間を空間と関係のないものとするニュートンの「絶対的時間」では説明がつかなくなってきた、そこで生まれたのが、アインシュタインの時間と空間を結び付けた「相対性理論」。
「一般相対性理論」によれば、重力を受けることによって時間の流れの速さが遅くなり、「特殊相対性理論」によれば、自分が住んでいる世界の運動状態によって時間は伸びたり縮んだりするそうだ。
佐治氏によると、『この宇宙には、「絶対時間」というものは存在しないようです』ということになる。
佐治氏の時間論を私の理解に応じてアトランダムに引用して導く私見には、誤解や曲解や我田引水はあると思うが、最終的には「命の器を生ききる」に繋がるのではないかと感じている。
佐治氏は「生きている=時間だ」としながら、絶対時間というものは存在しないとし、生きている生命それぞれに流れる時間の感覚は異なると述べている。
それは過ごす時間の内容によっても異なる。
『私たちはいつも、時間を感じながら生きています。
素敵な時間、悲しい時間、せつない時間、苦しい時間、そして幸せな時間……
それらの時間の長さは、物質でつくられた機械時計で、誰にでもわかるような数値で計ることができます。
でも、その数値と、あなたが感じている時間の長さがぴったり一致することはないでしょう。』
また、年齢によっても時間の流れは異なってくる。
『5歳の子どもにとっての1年間は、これまで生きてきた人生の長さの、5分の1です。しかし、30歳の人にとっての1年間は、その30分の1にしかなりません。
つまり、これまで過ごしてきた人生の長さに比べると、年を重ねれば重ねるほど、一年という長さが占める割合が、少なくなるわけです。そのため、同じ一年間、同じ一日であっても、過ぎ去る時間が早くなったように感じるのかもしれません。』
『5歳の子どもの1日は、30歳の人の6分の1です。ですから、その子どもにとっての1日の量は、30歳の人の1日の量よりも、6倍多く感じている、と考えてもいいでしょう。』
更には、同じく生を受ける生き物であっても、時間の感覚は異なるかもしれない。
『私達は、生まれて三年ほどで一生を終えてしまう動物を「早く死んでかわいそうだ」と思ったりします。でも、ひょっとしたら、それは人間の一方的な尺度からの見方で、すべての動物にしてみれば、それぞれが感じている一生の長さは、同じなのかもしれません。』
最終章では、これらをまとめて、宇宙の始まりと時間の始まりについて書かれている。
『宇宙のはじまりは、まさに「はじまり」なのであって、それまで、くりかえし現象があったわけではありません。
ですから、宇宙のはじまりとともに、時間も始まったのでしょう。
私たちの人生も、同じです。
生まれる前のことは、わかりません。終焉を迎えた後のことも、わかりません。
さらに言えば、生まれる瞬間のことも、終焉を迎える瞬間のことも、残念ながら霧の中です。
とすれば、私たちの人生は、いつ始まり、いつ終わるのでしょうか?
機械時計で生存期間を示すことはできても、その本人にはわかりません。
わかっているのは、「いま」、「この瞬間」、「ただいま」しかありません。
そして、生きている限り、今、いま、イマ……の連続です。
人生の始まりも終わりの瞬間もわからないのであれば、その人にとっては人生の長さを測ることができないのですから、
極端な言い方をしてしまえば「すべての人にとっての人生の長さは同じだ」といってもいいのかもしれません。』
3年が寿命の生き物からすれば、17年生きたワンコは長寿かもしれないが、平均寿命が80を超える人間からすれば、
17年は短すぎる。
だが、どの生き物もそれぞれの個体に応じた寿命があり、又それぞれは自分固有の寿命を分からないまま生きている。
分からないまま生きているなら、その生きれる限りの時間は、17分の3でもなければ、80分の17でもなく、皆等しく「1」となる。
つまり、与えられた命の器を生きれば、それは正しく永遠の時間の流れに乗ったということ、と私は理解した。
この理解が佐治氏的に正しいのかは、分からない。
分からないが、ワンコのおかげで一度は投げ出した物理学的時間論を注意深く読み、ニュースやワンコ先生の言葉をしっかり考えることができ、ワンコが自らの命の器を十分に十二分に生ききってくれたことを気付かせてくれた。
それが、寂しさと悲しさと淋しさで縮こまっている私達の慰めとなった。
ここにワンコの気配を感じている。
ここにワンコの愛を感じている。
私の命の器を1にするため、ワンコの気配と愛に導かれながら、一瞬の大切さを肝に銘じて新たな時間を過ごしていきたいと思っている。