何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

煩悩具足せる凡夫なり② 立春

2018-02-04 23:37:14 | ひとりごと
「煩悩具足せる凡夫なり①」より

土塀に掲げられた「今、いのちがあたなを生きている」の意味を考えながら歩いていると、多くの外国人がカメラを向けて何かを熱心に撮っている。
冬の風物詩ともいえる鴨川のユリカモメとは明らかに異なる嘴の長い、鳥。
 
「東本願寺、鳥」で検索すると、どうやらアオサギらしい。
しかも このアオサギかなり有名なようだ。
なるほど、多くの観光客に取り囲まれようが物ともせず、呼びかけられれば、そちらを向き、レンズにポーズをとっているようにさえみえる。

阿弥陀堂門をくぐると迎えてくれるのが、歴史の重みを感じさせる阿弥陀堂なのだが、ふと視線を南に移すと、京都タワーが聳え立っている。
京都の景観を保護するための条例は、長く仏教会を中心に裁判沙汰になってきたが、こうして歴史的建築物と現代?建築物が並び立つことを、「それも悪くない」と思うのは、おそらくここが京都駅前だからに違いない。

   
東本願寺には、そこかしこに御仏の教えが記されているのだが、その中でも特に印象に残ったのは、
「我等は絶対的に 他力の掌中に 在るものなり」というものだ。

五木寛之氏の「他力」がベストセラーだった頃、少し反発をもって、この本のタイトルを見ていた。
努力が全てを解決すると全面的に信じるほど青臭くはなかったが、意固地なほどの真面目さは、’’他力’’ を旨とすることを許さなかったし、’’他力’’ の恩恵?に与ったこともなかったからだ。
今もって、このように書く程度にしか ’’他力’’ を理解していないが、「他力」に繰り返し書かれている親鸞の「わがはからいにあらず」という言葉が、立春の今日、身に沁みる。
 
雲間草 花言葉 活動

この半年、思いがけない方向にどんどん勝手に進んでいく事が嫌でしかたがなかった。
少しばかり立場が重くなろうと実入りが良くなろうと、それは自分の望む道では全くなかった。
そちらに進めば進むほど、これまで自分が望み努力してきた方向から遠ざかるようで、嫌で嫌で仕方がなかった。
だが、この半年望みもしない方向に道が拓けていく、そのただなかにいると、’’他力’’は兎も角 「わがはからいにあらず」を強く感じざるを得ない。
そして、立春の今日、「わがはからいにあらず」の道を、とりあえず頑張って歩いてみようと思わせてくれることが、あった。

頑張ろう 春よ来い!


煩悩具足せる凡夫なり①

2018-02-03 12:00:00 | ひとりごと
京都へ行ってきたのだが、仕事がらみなので、名所旧跡美味しいもの巡りというわけにはいかない。
せめて一つぐらい京都らしいところをと、久しぶりに駅前の東本願寺にお参りしてきた。
東本願寺は、云わずと知れた浄土真宗の本山で、知恩院・浄土宗に御縁を頂いている我が家とは、宗派を異にするのだが、東本願寺はいつ訪れても、いいお寺だ。

一頃、東本願寺に凝った時があった。

我が家は知恩院に御縁を頂いているので、年に数回はお参りするのだが、その足が重く感じられる時期があった。
それは、ある電器メーカの創業者が寄贈した大きな太鼓が、御影堂でキンキラ金の光を放っていた頃だ。
あれを見る度、「地獄の沙汰も金次第」という言葉が浮かび辟易としたものだが、あのキンキラ金に中てられた目には、東本願寺の渋さは、心地よかった。
その後、線香の煙のおかげかキンキラ金が いい塩梅に燻されるに従い、私の東本願寺参りは遠のいていったのだが、先日久しぶりにお参りした東本願寺は、やはり いいお寺だった。

京都駅からつづく地下道の最北(七条)出口から地上へ上がると、すぐ目の前に、東本願寺の白い土塀が目に入るのだが、そこには心に残る言葉が掲げられている。

東本願寺の佇まいが好きだと云いながら、親鸞というと悪人正機説しか知らないので、この「今、いのちがあなたを生きている」について東本願寺のHPをあたってみた。
我流で解釈するのは憚れるが、HPを読み解くに、「今、いのちがあなたを生きている」とは、「太古の昔から伝えられる’’南無阿弥陀仏’’(の教え)が、(過去も當来も含んだ)今現在のわたし(の中)に生きている」ということのように思われる。
http://www.higashihonganji.or.jp/sermon/radio/detail22_01.html

そのように理解した時、思い浮ぶ法話がある。
東本願寺の宗祖 親鸞聖人が師と仰いだという法然上人の法話・一紙小消息だ。
久しぶりに一紙小消息を聞きながら、東本願寺の写真を眺めようと思う。

<一紙小消息>
末代の衆生を、往生極楽の機にあてて見るに、行すくなしとても疑うべからず、一念十念に足りぬべし。
罪人なりとても疑うべからず罪根ふかきをもきらわじと宣えり。
時くだれりとても疑うべからず法滅以後の衆生、なおもて往生すべし況や近来をや。
我身わろしとても疑うべからず、自身はこれ煩悩具足せる凡夫なりと宣えり。
十方に浄土おおけれど西方を願うは十悪五逆の衆生の生るる故なり。
諸仏の中に弥陀に帰したてまつるは三念五念に至るまで、みずから来迎し給う故なり。
諸行の中に念仏を用うるは、かの仏の本願なる故なり。
いま弥陀の本願に乗じて往生しなんに、願として成ぜずと云う事あるべからず。
本願に乗ずる事は、信心のふかきによるべし。
うけがたき人身をうけて、あいがたき本願にあいて、おこしがたき道心を発して、はなれがたき輪廻の里をはなれて、生まれがたき浄土に往生せん事、悦びの中の悦びなり。
罪は十悪五逆の者も生ると信じて、少罪をも犯さじと思うべし。
罪人なお生る、況や善人をや。
行は一念十念なおむなしからずと信じて、無間に修すべし。
一念なお生る況や多念をや。
阿弥陀仏は、不取正覚の言を成就して、現に彼の国にましませば、定んで命終の時は来迎し給わん。
釈尊は善哉、我が教えに随いて生死を離ると知見したまい、六方の諸仏は、悦ばしき哉、我が証誠を信じて、不退の浄土に生ると悦び給うらんと。
天に仰ぎ、地に臥して悦ぶべし、このたび弥陀の本願にあう事を。
行住坐臥にも報ずべし、かの仏の恩徳を。
頼みても頼むべきは乃至十念の詞。
信じても、猶信ずべきは必得往生の文なり。

つづく

愛の為に立て あんちゃん

2018-02-01 21:33:55 | 
「その金に愛はあるのか」より

「アキラとあきら」(池井戸潤)の印象に残る文や、ドラマ「ひとつ屋根の下」のセリフを引き、「その金に愛はあるのか」の最後を私は、こう締め括っていた。

『融資だけでなく、正しい仕事・業務というのは、いつの時代でも、どんな景気の下でも、きちんとした原則に基づいているのだと思う。
仕事や業務により原則は異なるが、その根幹が「人のため」であるのなら、全ての原則の根幹を問うに相応しいセリフが、以前よく見たドラマにある。
「そこに愛はあるのかい」(「ひとつ屋根の下」あんちゃん名言)』

ずっと後になり読み返した時、銀行業務の話で何故に突然「ひとつ屋根の下」?という疑問を持つかもしれないので、理由を書いておくことにする。

「アキラとあきら」には、二世代にわたり、強欲でプライドばかり高い無能な弟が、人格能力ともに優れる兄への対抗心から奸計をめぐらし、家業を破綻の瀬戸際まで追いつめる場面がある。

主人公の一人である彬 の叔父たちは、兄(彬の父)の人格と優秀さに嫉妬し、いつか兄(彬・父)を出し抜こうと画策し、兄(彬・父)亡き後は、同じく兄・彬の優秀さに嫉妬する弟を焚きつけ、兄・彬から跡継ぎの座を奪わせようとする。

彬父と彬が王道をゆけるのは、王道(長男)に据えられているからであり、その能力や人格ゆえのこととは思いたくない弟たちは、神輿は軽いバカがよいと考える取巻きと共に、兄を出しぬくためにあの手この手を使うが、結局は、自らが寄生している本体・家業の屋台骨が揺らぐまで弱体化させてしまう。
事ここに至り、家業から距離をおいていた彬は、銀行を辞め、バンカーとして培った経験と人脈をたよりに家業を立て直しにかかるのだが、そこで取った方法の一つが、嫉妬に狂った弟たちのせいで分散化した家業を(切り捨てるのではなく)一つにまとめあげることだった。

その姿に、「そこに愛はあるのかい」と問う あんちゃんを思い出したのだ。

もっとも「ひとつ屋根の下」の ちいにいちゃんは、人望ある兄を少し疎んじてはいても、出し抜こうとか追い落とそうなどとは思っていない。ただ、あんちゃんの下で一つにまとまることを疎ましく思っていただけなのだが、両親を亡くし散り散りに別れていた家族が一つになり世間に立ち向かえたのは、この ちいにいちゃんの協力を取り付けたことが大きい。
だがそもそも何より大きいのは、あんちゃんが大切なものを守るため、立ち上がったことだと思う。

兄・あんちゃんは、優秀な兄に敵愾心を燃やす弟たちや 人望ある あんちゃんに捻くれた感情をもつ弟を、ただ恩情と人情で宥めすかし迎合するのではなく、冷静に分析し戦うべき所は戦い、我慢強く説得するのだが、それは大切なものを守るため。
その真ん中にあるのは、愛

世の あんちゃんよ ’’愛’’ のために 立て!!!と 声を大にして言いたい今日この頃である。