Dr.K と 優しさの夢物語

輝きの明日のために、思春期と思秋期の更年期障害の女性のための健康余話/ときには蕎麦談義とワン子のお話を

奥能登ぶらり旅2日間 ~ そのⅠ

2016-07-01 07:20:37 | ゆるゆる旅日記

奥能登ぶらり旅2日間

 先月G.W.に金沢~福井を探訪したばかりだと言うのに 今月も金沢です
と 言っても今回は金沢を起点に能登半島を一周します
サブタイトルは「能登半島の豊かな自然が育んだ秘境の絶景にご案内」となります

行程は
【第1日目】
JR広島駅(のぞみ118号) → JR新大阪駅(サンダーバード13号) → J R金沢駅
= 金沢市内 =のと里山海道 = 千里浜なぎさドライブウェイ = 気多大社 = 能登金剛・巌門 = 能登羽昨・志賀の郷温泉
【第2日目】
のと里山道路 = 輪島朝市 = 白米の千枚田 = 禄剛崎 = いしる鍋の昼食 = 見附島 = のと里山海道 = JR新高岡駅(つるぎ725号) → JR金沢駅(サンダーバード42号) → J R新大阪駅(のぞみ123号) → JR広島駅

《 6月某日 》
 特急サンダーバードの車窓からは 京都山科のサントリー そして京都鉄道博物館などが懐かしく過ぎてJR金沢駅に定刻着
早速BUSは金沢市内を走ります
駅前の鼓門 尾山神社の神門 玉泉院丸庭園 成巽閣 そしてひがし茶屋街 などが記憶に新しい
垣間見た旧制第四高等学校の四高記念文化交流館は 次回にはじっくりと見学したいものです
BUSは のと里山海道を走り千里浜なぎさドライブウェイへ向かいます 
高速道路ですが現在は全線無料なのだそうです

■千里浜なぎさドライブウェイ(ちりはまなぎさドライブウェイ)
石川県羽昨郡宝達志水町今浜から千里浜町に至る約8kmの砂浜を自動車で走る自然の観光“道路”である
日本で唯一 一般の自動車やBUSでも海岸線の砂浜の波打ち際を走ることができる“道路”なのです
このような“道路”は世界的にも珍しくアメリカのディトナビーチ ニュージーランドのワイタレレビーチを含めて3ヶ所だけだそうな
一般的な海岸の砂の粒径は0.5mmから1mmくらいであるが千里浜の砂は細粒で4分の1mm程度しかなくしかも一様であるのが特徴なのだとされる
海水を吸って舗装道路のように固くなるため自動車や大型車が走行できるということである
近年は日本中の他の砂浜と同様に周辺の河川の護岸工事などにより堆積する砂の量が減少し砂浜の浸食が深刻な問題となっているのを聴くと悲しくなるのですなぁ
砂浜のハマナスやハマヒルガオなどの海浜植物そして砂丘のクロマツ林など ぜひ残しておきたいものなのですが
そう言えば『懐かしい想い出』の千葉の九十九里浜海岸のことが浮かびました
防砂林の松林のなかに 高村光太郎や伊藤左千夫の詩碑があったのですが どうなっているのでしょうか
九十九里海岸と並行して「波乗り道路」ができてからは便利にはなったが景観は激変しました
日本の海岸線は総延長が約5,000Kmであることが知られているが護岸工事などで約3分の1が人工海岸へと姿を変え景観のみならず生態系への影響が大きい

■気多大社(けたたいしゃ)
能登半島の付け根 羽昨市の日本海に面して鎮座している
祭神の大己貴命(おおなむちのみこと)は出雲から舟で能登に入り国土を開拓した後に守護神としてこの地に鎮まったとされる
若い巫女さんの説明でした
古くから北陸の大社として知られ中世・近世には歴代の領主から手厚い保護を受けた
そして境内裏手には原生林の社叢が広がっております
「入らずの森」として立ち入りは禁止されているのです
社叢内は一般の参拝はできないが奥宮が安置されていると言う
これを神秘的と言うのでしょう
思わずお守りを求めてしまいました 病気平癒!

■能登金剛(のとこんごう) ■巌門(がんもん)
石川県羽昨郡志賀町に位置している景勝地である
約30kmにわたって奇岩 奇勝 断崖が連続している海岸である
一帯の海岸は日本海の荒波によって浸食されたもので 名称は朝鮮半島有数の景勝地である金剛山(現在の北朝鮮)に因みそれに匹敵する景観とされているそうです
巌門 関野鼻 機具岩(はたごいわ) ヤセの断崖 碁盤島 吹上滝 増穂浦 玄徳岬など
断崖の下まで急な階段を下りて遊覧船でこれらを巡りました 
さすがに日本海の荒波は豪快に揺らしてくれます また階段を上って戻りましょう 
いやぁ~下りで足がヨロヨロ 上りでは息切れゼェーゼェー 足がガクガク なんとも情けないことです
巌門は波食によって形成された天然の洞門です
高さ15m 幅6m 奥行き60mの穴があいており遊歩道があり近くまで行くことができます 
松本清張の小説 映画「ゼロの焦点」のロケ地として記念碑が立っております
歌川広重は六十余州各所図会の「能登・滝之浦」に巌門 不動の滝 鷹ノ巣岩を描いております

■白米千枚田
白米千枚田(しろよねせんまいだ)は輪島市白米町の棚田です
数が多いので千枚田と呼ばれておりますが“狭い田”から転じたものでもあるようです
田植えそして稲刈り時には広くボランティアを募って作業をしている
日本海に向かってなだれ落ちるような美しい景観は能登の観光スポットでしょう
“日本の原風景”ともいわれるのですなぁ
季節ごとにTVや雑誌で紹介されますが 絵になる風景です
売店でこの千枚田で収穫したコメを用いたソフトクリームをいただきましょう
なかなか美味しいのです もっとも予想気温30℃の夏日ですから

■揚浜塩田
  揚浜式製法とは平安時代の終わりから江戸時代にかけて行われた製円塩方法
当時土木技術が未発達であったため塩田は海岸より高い所にしか作れなかった
塩田の表面に粘土を敷き詰めその上に砂を撒く 海岸で桶に海水を汲んで塩田まで運び撒布し蒸発を促進させるため撒布撹拌を繰り返し風と太陽の力で砂を乾燥させ砂の表面の塩分を洗い流して濃い海水が出来 塩を結晶させるという労苦の多いものであったでしょう
重要無形民俗文化財に指定されており この地では観光客が製塩を体験できるイベントが毎年夏に開催されているようです
珠洲市清水町の揚浜塩田は『まれ』のロケ地でもありました

== 能登羽昨・志賀の郷温泉の能登ロイヤルホテルで一泊します

    

   


金澤 ゆるゆる旅日記~そのⅡ

2016-05-28 13:32:48 | ゆるゆる旅日記

【5月某日 2日目】

 今日は金沢市から北陸自動車道を南下 東尋坊と永平寺を目指します
ガイド兼ドライバーは昨日と同じOさんです 穏やかな66歳のベテランです
快晴です ドライブ日和でしょうか 白山は雪をいただいてキラキラ輝って見えます
小松空港に離発着する飛行機も気持ちが良さそうですなぁ
加賀温泉郷を通り東尋坊へ向かいましょう

■東尋坊
福井県坂井市位置する云わば海岸の崖です
海食によって海岸の岩肌が削られ高さ25mの岸壁が続いている
この岩は輝石安山岩の柱状節理であり これ程の規模を持つものは世界に僅か3箇所だけであり地質上極めて貴重とされ国の天然記念物及び名勝に指定されているのです
ところで東尋坊の地名の由来は 乱暴或いは恋愛関係で恨みをかって此処から突き落とされた平泉寺の僧の名前によるものだと言うのが面白いのです

 久々に日本海を眺めました 外気温は28℃です 初夏の陽気です
東尋坊から丸岡町を通って永平寺へ
福井市のベットタウンである丸岡町には 日本で最も古い天守閣を持つ丸岡城がありました
また 日本一短い手紙と呼ばれている『一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ』は 戦国武将の本多重次が息子の仙千代 後の初代丸岡藩主の本多成重のために送ったものだそうです
そして 日本を代表する銘米「コシヒカリ」は この丸岡町出身の石墨慶一郎博士が長年の研究によって開発したものなのです 生みの親の福井県丸岡町 育ての親の新潟県北魚沼郡でしょうか 

■永平寺(えいへいじ)
永平寺は福井県吉田郡永平寺町に位置しております
今から約770年前の寛元2年(1244)に道元禅師によって開かれた座禅修行の道場です
境内は三方を山に囲まれた深山幽谷の地に大小70余りの建造物があります
永平寺を開いた道元禅師は正治2年(1200)に京都で出生 14歳の時に比叡山で出家し 24歳の春には中国に渡り天童山で修業し4年余りの歳月を得て「座禅」を受け継いで日本に帰ってきたのでした
現在は曹洞宗の大本山として僧侶の育成と檀信徒の信仰の源となっている
本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏である
主な伽藍のなかで目をひいたのは 鐘楼堂でした
そうですNHK-TV 「ゆく年くる年除夜の鐘」で有名ですが そのものが在りました
伽藍の一番奥に位置し説法や各種の法要が行われるのが法堂(はっとう)ですが 永平寺は山間に階段状の廊下が続いており法堂まで登るのは息切れをしそうなので途中で諦めました 法堂の上部には菊の紋章が見えました 
傘松閣の絵天井の大広間には著明な画家の花や鳥の230枚の色彩画が描かれており見上げているうちに首が痛くなるほどです

 越前竹人形館はスキップして 20~30分程で平泉寺へ
平泉寺白山神社は 盟友H氏の情報で苔が綺麗なところなので是非訪れてその感想を聞かせてくれるように とのことでしたので立ち寄ってみましょう
途中で「永平寺そば亭」で“おろし蕎麦”で昼食

■平泉寺白山神社(へいせんじはくさんじんじゃ)
 福井県勝山市平泉寺町に位置している神社
本殿には伊装冊尊 本殿右の別山社には天忍穂耳尊 左の越南知社(おおなむちしゃ)には大巳貴尊(いわゆる大国主命)を祀っているそうな
養老元年(717年)泰澄大師によって開かれたという
中世以降は比叡山延暦寺の勢力下に入り霊応山平泉寺として知られるようになる
白山信仰の越前側の拠点として最盛期には48社36堂6千坊 僧兵8,000人の巨大な宗教都市を形成したそうな
明治時代になって神仏分離令により寺号を捨て現在に至っている
従って お寺もあるし神社もある という不思議な気がしないわけでもない と言うのが本音でしょうか
境内に入るところに「東尋坊跡」があります 件の強力で乱暴者の東尋坊の屋敷跡なのだそうです
境内の苔は西芳寺と共に有名なのだそうで庭園は国の名勝に指定されております
また「美しい日本の歴史的風土100選」に選定されているのです
苔の庭園は最近のNHK-TVで紹介されていたそうです
本殿までの距離は山登りの如しとガイド兼ドライバーのOさんが優しく(?)教えてくれましたので 既に永平寺で足腰に負担がかかり過ぎましたので鳥居のあたりで失礼しました
いわゆる観光寺などと異なりザワザワしていない良いところです
健脚の友人H氏にはスニーカーでくるように教えてあげましょう

 車は山越えをして金沢市へ戻ります
途中 “そばの里” “はぶたい餅の里” “ごま豆腐の里”などの「○○の里」の野立て看板が目につきます 門前町なのでしょう
山藤(やまふじ)が見ごろでした

 近江町市場に寄って 甘エビをお土産に送ってもらいました

 夜ご飯は 折角に金沢に来たのですから魚料理か或いはいわゆる加賀の郷土料理を と言うところでしょうが「東山 ロベールデュマ(CUISINE FRANSAISE  Robelt Dumas)」でフレンチのコースをいただきました
このレストランを選択したのは少し前に東京在住の愚妹夫婦が北陸新幹線に乗って金沢を楽しんだ折に素晴らしかったと推薦してくれたことによります
お店は東山茶屋街の往時の趣はそのままにスタイリッシュに改装した町屋で堪能しました
鴨やフォアグラはヨーロッパから直送 日本海の魚類や加賀野菜といった北陸の旬の食材を融合した本格的なフレンチでしたなぁ
加賀美人のサービスマナーもよし そしてまたお勧めの赤ワインもなかなかのものでした
食器もまた素晴らしい ワイングラスは譲って貰いたいくらいでした
『東京では味わえない!』と愚妹が言っていたのは本当でした 100点満点!を差し上げましょう
お店を出ると 茶屋の軒先には行燈のような灯りがともり茶屋街としての顔をのぞかせているようです

【5月某日 3日目】
JR金沢駅兼六園口を彩るガラスとアルミ合金でできた巨大なドームを“もてなしドーム”と名付け その正面にある“鼓門”は高さが約14mです そのデザインは金沢で盛んな能楽の鼓をイメージしており温かみのある木材の素材でできております
記念撮影をする観光客が多いのですなぁ
世界でもっとも美しい駅14選に選ばれたこともあるそうですが納得でした
駅ナカの金沢百番街でお土産を買って帰路につきましょう
 特急サンダーダードは加賀温泉駅のあたりで強風ために緊急停止 その後も徐行運転を続け結局JR新大阪駅で新幹線の乗り継ぎには間に合わず後続の新幹線に変更して予定よりも遅れて広島着
まぁ愉しかったのですから このぐらいは由としましょう

 

 旅というものはいいものです 一種の現状逃避とも言えるから人は旅に出ると誰しも『ホッ』とするのでしょうか
家から離れること 仕事または職場から離れること 住んでいる土地から離れること と言うことは 新しい世界への展開或いは解放感や期待感が生まれてくるのでしょうか
臨床医の処方のひとつに『転地』があるそうですが 何処かへ出掛けて来ることが 気分転換に行って来た ということなのでしょう

 

               

   

 


金澤 ゆるゆる旅日記~そのⅠ

2016-05-19 14:46:04 | ゆるゆる旅日記

金澤 ゆるゆる旅日記

今年の5月G.W.連休は大型連休です 東京在住の子どもたち家族と旅行に出掛けましょう と計画していたのですが 彼らは既に家族で海外旅行を計画しており日程の折り合いがつきません
 まぁそれでは家人とのんびり北陸路を … それがまぁなんと 義父が急遽やや体調不良のため止む無くジイさん(私のことです!)の“ひとり旅”になってしまいました
JR山陽新幹線は新大阪駅で乗り換え特急サンダーダードでお昼には金澤へ着きました
金沢駅前のHOTELに2連泊で 金沢~福井を廻りましょう

【5月某日 1日目】

初日は金沢市内観光です
観光タクシーのガイド兼ドライバーはOさんです コースはあらかじめ決めてあったのですがお任せにしました これが良かったのですなぁ

■成巽閣(せいそんかく)
成巽閣は江戸時代末期の文久3年に前田家13代齋泰が母堂にあたる12代奥方眞龍院(鷹
司隆子)のために造営した奥方御殿です 兼六園に隣接しております
歴史博物館として一般公開されており 加賀人形の展示が美しい
障子の腰板や欄間にはオランダ渡りのギヤマンが細工されており これもまた美しい
時代を考えるとかなり斬新的なものであったことが伺えます
柱の無い長さ20mの縁側 つくしの縁 は聞いてみて驚きでした
縁側の軒先は“桔木(はねぎ)”によって支えられ庭を開放的に眺めることができるようになっております 梃子の原理で屋根を支えているのだそうです

■尾山神社(おやまじんじゃ)
兼六園の近隣です
加賀藩祖・前田利家公とその正室・まつの方を祀っているのです
1873(明治6)年に建立したものですが 和洋漢を折衷した三層アーチ型の新門は珍しいのでしょう 五彩のステンドグラスを配しております 夜のライトアップが綺麗でしょう
前田家は外様大名の立場であったのでしょうが利家公の神威の然らしめるところなのか或いは前田家300年の仁政によるものなのでしょうか雄大な社殿が残されております

■玉泉院丸庭園(ぎょくせんまるていえん)
石垣に囲まれ高低差22mの立体的な構成になっております
藩主の私的な庭であったそうな

■ひがし茶屋街
加賀藩が1829(文政3)年に城下にあるお茶屋を集めたことが始まり
重要伝統的建造物群保存地区で南北約130m 東西約180mの広さです
金沢は「空から謡(うたい)が降ってくる」といわれているのですが そんな風情が色濃く残っているような気がします
往時の街並みが残されており 神社仏閣とはまた異なったレトロな感覚が楽しいのです
茶屋によく使われている隙間の狭い格子で木虫籠(きむすこ)と呼ばれる格子戸は外からは見えにくく内側からは見えやすい造りが面白い
金沢には3つの茶屋街  ひがし茶屋街 にし茶屋街 主計町茶屋街がありますがひがし茶屋街がもっとも格式が高いとか 三味線や太鼓の音が聞えてくるようですが連休中は休業だそうです
レトロなデザインが茶屋街の雰囲気になじむガス灯があちらこちらに 夜の光景がすてきでしょうに
それにしても観光客の多いこと 案内してくれているドライバーのOさんによると北陸新幹線が開通してからの休日は混雑します とのこと
北陸新幹線が金沢まで伸びたことで北陸観光が活況を呈しているのでしょう

■長町武家屋敷跡
江戸時代にタイムスリップしたような街並みが保存されている
下駄の歯に挟まった雪を落としたり馬をつなぐために使われた“がっぽ石”や土塀の脇を流れる大野庄用水などは注目すべきでしょう
加賀藩の重職の屋敷跡は目を見張るものがありますが 足軽の長屋が面白いものがありました 足軽長屋と言っても一戸建てなのですが足軽の日常生活と職務が手に取るように保存されております 現在の3LDKでしょうか 人の営みは現代と変わっていないことが判ります

 夜ご飯は 石川県金沢市の代表的な郷土料理である治部煮(じぶに)をいただきました
治部煮は 鴨肉(もしくわ鶏肉)をそぎ切りにして小麦粉をまぶしだし汁に醤油 砂糖 味醂 酒をあわせたもので鴨肉 麩 椎茸 青菜などをにたものです 汁にはとろみをつけて薬味は山葵を使っておりますな
“じぶ”の名前の由来は
・豊臣秀吉の兵糧奉行だった岡部治部右衛門が朝鮮から持ち込んだことに因んだ
・材料を『じぶじぶ』と煎りつけるようにして作ることから
・野生の鴨肉を使うことからフランス料理のジビエから変化した
などの諸説があるのですが由来は定かではないようです

   

   

 


京都 春の西山 再発見

2016-04-14 14:55:09 | ゆるゆる旅日記

ときは昨年2015年11月“文化の日” 秋晴れの休日 
京都は紅葉狩りコースの京都定期観光BUSで 古都の秋の装いを探してきたものでした
前回は【秋の西山 再発見】
なんどか訪れている京都ですが長岡京方面はまだ未知の名所がありました
光明寺 ~ 京料理いっぷく亭(お昼) ~ 小倉山荘(お土産) ~ 善峯寺 ~ 
勝持寺のコースで廻りました

日帰りで観光そして散策には京都定期観光バス(KYOTO SIGHTSEEING BUS)が手軽であり出掛けることが多いのです
今回は 【 春!旬!いっぷく亭たけのこ料理と国宝・石清水八幡宮「書院」特別拝観 】と題した京都定期観光バス1週間期間限定のプレミアムシリーズである
光明寺 ~ 京料理いっぷく亭(お昼) ~ 男山ケーブル ~ 石清水八幡宮
と巡ります

■光明寺(長岡京市)
光明寺(こうみょうじ)は 京都府長岡京市粟生に在る寺院で西山浄土宗の総本山です
法然が初めて「念仏」の教えを説いた地なのだそうです
山内の講堂をお寺の人が案内してくれます
寺院の由緒は 文治元年(1185年)に あの源平の戦いで有名な熊谷蓮生(れんせい)法師(熊谷次郎直実)が戦いの明け暮れから積もる罪業を償い極楽往生の路を求めて法然上人を訪ねたそうです 
そしてこの地に念仏三昧堂を建立したのが始まりなのです
後の嘉禄の法難の際にはここで法然の遺骸を荼毘に付し 廟堂が建てられました
法然の石棺からはまばゆい光明が発せられたといいます 石棺が残ってあります
四条天皇はそのことを聞いて光明寺の勅額を与えたそうである

釈迦堂(方丈)の前の白州は大小18個の石を配した信楽庭(しんぎょうてい)で 阿弥陀の慈非に包まれながら生死の大海を渡る念仏行者の姿を表していると言われているのです
釈迦堂の本尊は「頬焼の釈迦如来」です 淀の水津村の漁師で悪次郎とあだ名された乱暴者が托鉢の僧(実はこの御釈迦様なのです)と出会って心を入れ替えると言う物語に登場する仏像なのだそうです 
頬には悪次郎によって焼火箸で傷つけられた跡があるそうです よく見えませんでしたが

 御影堂(みえどう)の本尊は法然上人の自作(!)の「張り子の御影」です 
法然上人が75歳の時 「建永の法難」と呼ばれる弾圧により四国へ流罪になったとき弟子の願いに答えて大切にしていた母親からの手紙を張り合わせて自らの姿を像に造り形見として与えたものなのです
75歳ですから当時としては長命であったでしょう
今回は 大勢の女子高校生の団体が「法要」?と言うことでなにか行事をしていたために拝観できなかった

 阿弥陀堂の本尊の阿弥陀如来像は六尺七寸(約2m)以上もある大きな仏像です
熊谷蓮生法師が琵琶湖畔堅田の浮御堂から背負って帰ってきたとか
 
総本山光明寺は境内およそ18,000坪 建物は33棟あるそうです
山内とくに諸堂案内は「随身学生」という“小坊主”が修業がてら担当しております
小坊主といっても成人したいわゆる修業僧なのですが小坊主たちは早朝から“作務”という作業をしながら学校にも行って一人前の僧侶になるように修業をしているのだとか その修業の一環として伽藍内の建物や歴史そして西山浄土宗の法然上人の教えなどを解説してくれます
マニュアルがあるのでしょうが熱がこもっていて好感です

そしてまた光明寺は紅葉の名所としても広く知られております
総門から薬医門を経て玄関に至るゆるやかな坂道の参道は両側から楓の木々が枝を延ばしておりもみじ参道と呼ばれておりますが昨年の探訪の際には錦秋の紅葉トンネルには時期が少しだけ早かったようでした


■いっぷく亭
 「京都塚原産の白子竹の子」の小懐石をいただきました
今年の初物です やわらかくて美味しくいただきました

ここでBUSは移動して八幡市へ 男山ケーブルで山上へ登ります
 京都府八幡市の八幡市駅~男山山上駅間の往復で京阪電気鉄道のケーブルカーです
正確には京阪鋼索線であるが男山ケーブルと呼称されている
男山の山頂にある石清水八幡宮への足で約1,000mの距離の約3分で結んでいる
山頂への八幡市の眺望がよろしい

■石清水八幡宮
 特別参拝と神職による特別案内 また皇族の貴賓室である書院を特別案内する
戦国三大武将の秘蔵や重森三玲作の書院石庭は貴重なのだそうです

 “やわたのはちまんさん”と呼称されている石清水八幡宮が鎮座している八幡市男山は木津川・宇治川・桂川の三つの川が合流して淀川となる地点を挟んで天王山と対峙する位置に在り京~難波間の交通の要地であると言われている 
南北朝時代の様々な合戦とくに羽柴秀吉と明智光秀の天王山の合戦はよく知られている
祭神は本殿中央に応神天皇 西に比大神様 東に神功皇后を祀つております
この三座を総称して八幡大神というのです
社殿は徳川3代将軍家光による造営で昨年2015年に国宝に指定されております
廻廊には色彩鮮やかな動植物の彫刻がなされていて それぞれ意味があるのだろう
この八幡大神を祀る神社は全国に数万社あるともされている

エジソン記念碑
 今から100年以上も昔 トーマス・エジソンは最初の白熱電球を発明した
フィラメントの材料に最も適した植物繊維が日本のこの境内の真竹であることを知りえたのだそうです
エジソンに対する評価は様々のようであるが 何千種類もの植物繊維を探し試みて白熱電球の基礎を作り得た努力は凄いものがあります
《 1%のひらめきと99%の努力 》には違いないのでしょう

 京都の西南に位置し 西山連峰がたおやかな稜線を描いているこの地は 古くは西山三山と呼ばれた光明寺・善峯寺・柳谷観音を結ぶ西山古道と言う信仰の道であったそうである
交通が不便であるからかやや忘れられたような感があるのですが 光明寺をはじめ京都西山の古刹は再訪したいものです

     

    

      


San Franciscoから来てくれた“日本人”

2016-01-28 15:10:23 | ゆるゆる旅日記

San Francisco から来訪の“日本のお客さま”です

お正月と言っても 昔のようにとくに何か準備するわけでもなく世間が慌ただしいというのでなんとなく気忙しく感じてしまうのです まぁお飾りの注連縄は用意しましょう
昨年の年末年始は 幼少の頃まで日本で育ち現在は米国に在住している広島M市出身の遠戚の兄弟(姉弟)2人が墓参と義父のお見舞いに急遽来訪したので家人は大忙しでした 何年か前になりますが Yosemite を案内してもらいました~
折角ですから今度は広島をご案内しましょう と~

さて“広島観光”と言われて何処がお勧めか?と問われるとなかなか答えがでてこないのが常である
家人が“黄金山”がよいと思うというので展望という意味では宜しかろうと答えるのがせいぜいです
しかしながら幼少の頃は広島に在住していて 渡米してしまった客人に満足してもらうのは難しい
そこで観光タクシーのドライバーに主旨を相談して 日帰り観光を委ねた 
“呉市海事歴史科学館”と“広島平和記念資料館”はどうでしょうかとの提案で なるほどと妙に納得してしまいました
とくに予てから一度は行ってみたかった 大和ミュージアム を訪れることになったのは私的には思わぬ喜びでもありましたが

呉に向かう途中で【 黄金山 】に立ち寄りましょう
黄金山は 広島市南区の南東部に位置する標高221mの山です
東は呉方面 北は安佐南区方面 西は西区方面 南は広島湾と太田川デルタを一望することができます 広島に入る際のランドマークになっているのでしょうか
天気はまずまず晴れ 眺めはよし マツダの工場が近くに見えます
山麓の狭い旧道沿いは原爆投下に際して大部分が山蔭に入り爆風の被害を免れたという

【 呉市海事歴史科学館 】
愛称は 「大和ミュージアム」で正式な名称である呉市海事歴史科学館よりも「大和ミュージアム」愛称の方が一般的に広く知られているようである
この「大和ミュージアム」は明治時代以降の造船の街或いは軍港・鎮守府としての呉市の歴史や基幹となった製鋼や造船などの科学技術を展示することを目的として 日露戦争・日本海海戦から100年目そして太平洋戦争の終戦から60年目にあたる2005年(平成17年)に開館したそうである
呉市は被爆地の広島に近接しているのにJR呉線ではやや不便なところに位置しているが 現在はトンネルが出来て道路が整備され車では便利になったようである
海上自衛隊と在日アメリカ陸軍の施設が現役で活動しているという安全保障問題をかかえている現場の情勢から 修学旅行生などの“平和学習”の場として活用されているのだそうな
構想或いは建設については“戦争責任”について多々意見があったのであろうが いまや“観光地”としての役割が大きいのかも知れない
実物の兵器や当時の映像フィルムなどの歴史的資料を淡々と展示する形式をとってあり 政治的にニュートラルな立場をとるような姿勢が強いように思われましたが
なお この「大和ミュージアム」に隣接して2007年(平成19年)に 海上自衛隊呉資料館があります これもまた「てつのくじら館」の名称のほうが広く定着しているでしょうか
退役した海上自衛隊の展示用潜水艦旧あきしおの実物なのだそうです 潜望鏡を覘いてみました

展示内容では 実物の10分の1に縮小された「戦艦大和」の模型が眼を惹きました
また映画「男たちの大和/YAMATO」の撮影の際の資料として使われたようです
大和の模型の他にも 戦艦陸奥や重巡洋艦青葉に実際に搭載されていた主砲身 戦艦金剛の英ヴィッカース社から輸入した当時のボイラーなどがあります
零式艦上戦闘機六二型 “人間魚雷”回天10型 特殊潜航艇“海龍”の実物には言葉が詰まりました 特攻隊員の遺書(!)とその録音された肉声を聴いて胸が痛くなりました

【 広島平和記念資料館 】
建築家 丹下健三の設計で 1955年に「広島平和会館原爆記念陳列館」として開館
「原爆資料館」或いは「平和資料館」とも呼ばれることが多い
現在2016年春までの予定で東館を閉館して改修工事をしている その後に2918年春までに本館を改装する予定だと聞く
原爆投下直後に熱線で全身の皮膚を焼けただれさせながら炎の中を彷徨う被爆者の等身大ジオラマ(被爆再現人形)などがよく知られている
「想像力を遮断して 誤った固定観念を作り上げる危険」などの意見もあることから 改修工事に伴い2016年度までに撤去する計画だと言う しかしながら「被爆再現人形は原爆の恐ろしさや悲惨さを後世の人々に理解させるために必要」との声も多いことは事実である
事実を残して伝えることが肝要だと思うのですが
 「外国人に人気の日本の観光スポットは」第1位が安芸の宮島 第2位が平和公園や原爆ドームではなくこの「平和記念資料館」 第3位が松本城 第4位が東京ディズニーシー 第5位が沖縄美ら海水族館 第6位が伏見の稲荷大社であるとする統計がある
そして米国人による評価では この「平和記念資料館」がトップであることはなにを物語るのであろうか

 数年前に義父のお供でSan Franciscoを訪れたときにはヨセミテなどを案内してもらい感動したものでした その答礼をも含めていたのでしたが 幼少の頃に日本で育ちアメリカ国籍をも持つ(二重国籍)2人はなにを感じたのであろうか 気になるところです

ぜひ また来てください 

ところで Yosemiteに また行ってみたいなぁと思っているのですが ……

         

           

 


遥かなり めんそーれ沖縄

2016-01-23 07:39:06 | ゆるゆる旅日記

遥かなり めんそーれー沖縄

アメリカ合衆国に依る沖縄統治は 1945年(昭和20年)のアメリカ軍に依る沖縄占領から 1972年(昭和47年)5月15日の沖縄本土復帰に至るまでのアメリカ合衆国に依る統治時代のことである 沖縄ではアメリカ世とも言われているそうな
 はっきりした記憶は薄れてしまっているのですが 1965年~1971年の間に大学在学中にクラブ活動の一環としての夏季合宿で訪れているのです
数度の引越しで記録として残っているものがないのですが 返還前のことですのでビザが必要であったことは間違いがないので まぁ初めての海外旅行(?)であったのかも知れません 同行した者たちと ひめゆりの塔 南部戦跡を巡り胸が痛くなり そして米軍基地のフェェンスに恐怖を感じ 国際通りあたりをMPと日本の警察官が一緒にパトトールしている日常に驚いたものでした
従って強烈な印象があったことは覚えているのですが 悲しいことに具体的なことは記憶にないのです

 広島空港からは直行便で那覇空港までひとっ飛びで お正月休みの気分転換に三が日を出掛けました 東京からの子どもたち家族と那覇で合流です
初日は 琉球王国の栄華の証しを訪ねて【 首里城(しゅりじょう スイグスク) 】へ
那覇市の首里に位置し かっては海外貿易の拠点であった那覇港を見下ろす丘にあった城です
琉球大学の移転に伴い復元されたものだそうです
ここで特筆すべきは ぺりー提督の首里城訪問の記録があったことでしょうか
マシュー・カルブレイス・ペリーの「アメリカ艦隊の中国海域および日本遠征記(1856年)」で知ることができます
日本遠征途上の1853年 琉球に立ち寄ったペリーは王国側に首里城訪問を打診するも拒否される そこでペリーは軍楽隊を先頭に総勢200人以上の武装した水兵を引き連れて強引に入城して開国を促したのだそうな
ハイネによるこの首里城「守礼の門」に於けるペリー一行の絵は有名でありアメリカの博物館には原画が保存されていると言う
首里城正殿だけをみても 琉球建築の粋を集めた色彩と構造であろうと思われます
正殿大龍柱の吽形と正殿大龍柱の阿形は ここに原点があったのかと思ったものでした
琉球王国の息遣いが感じられます
沖縄は琉球王国に還したらどうでしょう

宿は 恩納村にあるOKINAWA SPA RESORT EXES いわゆるリゾートホテルで2連泊です

翌日は【 海洋博公園 沖縄美ら海水族館 】へ
外気温は26℃です 亜熱帯なのでしょうかブーゲンビリアの甘い香りがあたりに漂っております ハイビスカスの黄や紅い色が眼に優しく飛び込んで来ます
海岸に位置しておりますので ぱいかじ(南風)が吹き抜けるのがなんとも心地よい
沖縄美ら海水族館(おきなわちゅらうみすいぞくかん)は 沖縄本島北西部の本部半島備瀬埼近くにある国営沖縄記念公園の海洋博覧会地区にある水族館です
「チュらうみ」とは 沖縄の方言で「清(きよ)ら(しい)海」と言う意味なのです
 この沖縄美ら海水族館では見どころはたくさんありますが何と言っても7,500?の水量を誇る「黒潮の海」大水槽でしょうか 
ここではジンベエザメが長期飼育記録世界一を更新中なのだそうです
また世界初の繁殖に成功したマンタなどの多くの世界記録が生まれているのだそうです
ジンベエザメの巨大なことに驚きました
数匹が悠々と泳いでいるのは圧巻です 形態の個体は最大10m以上とされているが この水槽の中の数匹はそれを凌ぐものであろうか
ジンベエザメ(甚平鮫 Whale shark)はサメとしても軟骨魚類としても現生最大であり そして現生最大の魚なのです
動きは緩慢なのですがゆったりと泳ぐ様は王者のようです
サメと言っても性格はいたっておとなしく(?)臆病であり人にとっては危険度が低いサメようですが海中で遭遇したらやはり恐怖なのではなかろうか
大水槽のなかには マンタやエイや多種の魚たちがいるのですが ジンベエザメの生態の特徴としてプランクトン(オキアミを含む小型甲殻類やその幼生 頭足類の幼生など)のほか 小魚 海藻などを摂食する 海水と一緒にそれらの生物を口腔内に吸い込み吸い込んだ水の中から微細な生物だけを濾し取り食べるためのくし状の器官を有している濾過摂食をしているのだ

今回の短い小旅行は 家族が一緒にお正月休みをのんびりしたいことが目的でしたが 触れ合った数少ないウチナー(沖縄のひと)たちは 皆気だてのよい穏やかな人たちばかりでしたので気持ちの良い休暇でした
わずかな心残り(?)は 沖縄そばを食すことを忘れたことでしょうか “すば”或いは“うちなーすば”と呼ばれ蕎麦粉は一切使われず小麦粉のみで造られ麺はかん水を加えて打たれると言う
さぁ 明日はハイビスカスの扇情的なまで紅い花を写真に撮って帰りましょう

    

                                 

 


晩秋の九州路に紅葉は~

2015-12-04 15:49:44 | ゆるゆる旅日記

晩秋の九州路に紅葉を楽しみましょう と家人と連休に出掛けましたが

「 九年庵秋の一般公開と御船山楽園ライトアップ2日間 」1泊2日の小旅行です
【 第1日目 】
JR広島駅 = (こだま721号) = JR小倉駅 = 青の洞門 = 深耶馬渓 =
マリンセンターおさかな村(夕食) = 御船山楽園(たまゆらの夕べ) =
唐津ロイヤルホテル泊
【 第2日目 】
ホテル = 九年庵秋の一般公開 = 柳川(昼食) = 菊池渓谷 = 
観光会館はかた = JR博多駅 = (こだま764号) = JR広島駅

JR小倉駅から 早速BUSで廻ります
○耶馬渓
耶馬渓(やばけい)は大分県中津市にある山国川の上・中流域及びその支流域を中心とした渓谷である
景勝地として知られており日本三大奇勝や日本新三景のひとつに選ばれている
新生代第四紀の火山活動による凝灰岩や凝灰角礫岩 熔岩からなる台地の浸食によってできた奇岩の連なる絶景で 1818年(文政元年)に頼山陽がこの地を訪れ 当時の「山国谷」という地名に中国風の文字を宛て「耶馬渓天下無」と漢詩に詠んだのが耶馬渓という名前の起こりだそうな
凝灰岩や凝灰角礫岩の山には風食作用や河川の洗掘作用によってできた洞窟も多い
 本耶馬渓(ほんやばけい)は 青の洞門や競秀峰を中心とする山国川の上流一帯
青の洞門より500mほど下流にある8連アーチの石橋である耶馬渓橋は全長116mの日本最長の石造アーチ橋です
その西洋的な外見と石積み方式によることからオランダ橋の愛称があるそうな
大分県内には500を超える石橋が現存しているのが珍しい

○青の洞門
青の洞門(あおのどうもん)は 大分県中津市本耶馬渓町樋田に在る洞門いわゆる隧道・トンネルである
名勝耶馬渓に含まれ山国川に面してそそり立つ競秀峰の裾に位置している
全長は約342mで そのうちトンネル部分は約144m であるそうです
晩秋の紅葉時期には観光客が多いので人々の行列です
諸国遍歴の旅の途中に立ち寄った羅漢寺の禅海和尚が 断崖絶壁に鎖のみで結ばれた難所で通行人が命を落とすのをみてここにトンネルを掘り安全な路を作ろうと托鉢勧進によって掘削の資金を集め石工たちを雇ってノミと槌だけで30年かけて掘り抜いたといわれている
江戸時代の僧・禅海和尚がノミと槌をふるい掘ったトンネルの明かりとりの窓などの手掘り部分が残されており難工事であったことが伺えます
現在でも断崖絶壁を鎖を頼りに渡ることができないことはないそうですが 見上げただけでもご免こうむりたい!と思いました
1750年(寛延3年)に第Ⅰ期工事の完成後には通行人から人4文 牛馬8文の通行料を徴収したという話が伝わっており まぁこの洞門は日本最古の有料道路であったことになります
この禅海和尚の史実にもとずいて 大正8年(19191年)に発表された菊池寛の短編小説が『恩讐の彼方に』です 戯曲に書き直したのが『敵討以上』である
この小説とは別に 1923年(大正12年)の『尋常小学国語読本 巻十二』でも教材として取り上げられ 青の洞門は広く知られるようになったそうです
~ 市九郎は 親の仇を名乗る実之助の前で 素直に斬られることを望むが 石工たちが必死に止めに入ったため 石工の統領の計らいで 洞門の開通まで敵討は日延べすることとなる
実之助は 本懐を遂げる日を一日でも早めるべく 石工たちに混じって掘削を始めた
市九郎が掘り始めてから21年目 実之助が来て1年6カ月 延亨3年(1746年)9月10日の夜九つ近く ようやく洞門は開通する
約束通り市九郎は実之助に自分を討たせようとするが 市九郎の大慈大悲に心打たれた実之助は仇討ちの心を捨て 市九郎に縋り付いて号泣するのだった ~
いわゆるラストシーンですね 敵討の是非を問うているのでしょうか
青の洞門 = 恩讐の彼方に とされてはおりますが 禅海和尚の逸話を基にして書かれた菊池寛の創作であることは言うまでもない

○深耶馬渓
深耶馬渓(しんやばけい)は山国川支流山移川支流に位置する渓谷
狭い谷に絶壁や石柱が屏風のように連なり壮観
耶馬渓一番の景勝地である一目八景があります
一目八景とは 海望嶺・仙人ヶ岩・嘯猿山・鳥帽子岩・雄鹿長尾嶺・鷲の巣山の8つの景色を一目で眺望できることから名付けられた
秋の紅葉はとくに美しい景観であるそうです 名物の手打ちソバが有名らしい

○虹の松原
虹の松原(にじのまつばら)は 佐賀県唐津市の唐津湾沿岸に広がる松原で 日本三大松原のひとつです
長さ約5Kmにわたって弧状にクロマツの林が続いております
この地は以前来たことがありましたので懐かしい記憶が未だ残っておりました
名所旧跡を再訪するのも悪くはないようです

マリンセンターおさかな村で早めの夕食です
呼子が近いせいかイカの活き造りをいただきました

○御船山楽園(みふねやまらくえん) - たまゆらの夕べ
佐賀県武藤市に在ります
鍋島藩第28代武藤領主の鍋島茂義が 狩野派の絵師を京都から招いて完成予想図を描かせ 約3年をかけて造られた池泉回遊式庭園で壮大で荘厳な美しさがあるそうです
東京ドームが10個分の広さがあるといいます
とくに御船山が湖面に映えるひょうたん池やふりむき坂での夜間の紅葉ライトアップの演出がみものですが
とは言っても陽がとっぷりと暮れてライトアップも薄暗く人が多すぎて見るものも見えないので早々と出口へ向かい休憩でした
どうやら家人も私もライトアップというものは苦手のようです
老齢には足元が危ない!のでした

さぁ 翌日は早や起きです

○九年庵
九年庵(くねんあん)は 佐賀県神崎市に在る数寄屋造りの邸宅及び日本庭園です
佐賀県出身の実業家伊丹弥太郎の旧別邸
神仏分離で護国寺が廃寺になった後 三十六坊のひとつ 吉祥院の土地を所有していたが 生き残った地蔵院の土地と交換
その土地を久留米の作庭家である誓行寺の阿(ほとり)和尚により1900年から9年の歳月をかけて築造したことから九年庵の名前で呼ばれることになったらしい
現在は土地は佐賀県が購入し建物は所有者から佐賀県に寄贈されており 11月の紅葉の時期に9日間だけ一般公開されているのです
この9日間だけ!と言う短期間であるのが人気のもとになっているのでしょう
小さな庵ですが話題になるのも その期間によるものでしょうか
早い時間にHotelを出たせいかあんまり待たなくてすみました
今日が一般公開の最終日なのだそうです
 九年庵の駐車場近くの広場で“猿廻し”が芸?をみせておりました 4才だそうですが人間では何才にあたるのでしょうか
来年は“申年”ですねぇ 私の干支です

※昼食は
柳川の 柳川藩主立花邸「御花」で“うなぎせいろ蒸し”をいただきました
ご飯が味付けしてあり美味
邸内と庭園を散策 西洋館に大広間と言う明治建築を代表する建築物です 
豊富な山石・海石と松の樹を配置した庭は目を見張るものがありました
資料館を見学します
 近隣に 北原白秋の生家がありますが行きそびれてしまいました
白秋と最もゆかりの深い酒造業北原家の広大な旧跡地に建設されている北原白秋記念館をも行きそびれました
詩集「思ひ出」の柳川版が買えたのに残念でした

○菊池渓谷
菊池渓谷(きくちけいこく)は 熊本県の菊池川上流その水源にある渓谷で阿蘇市と菊池市に位置している 紅葉の名所として近年訪れる人が多いのです
一帯は阿蘇外輪山を取り囲むモミ ツガ ケヤキなどの広葉樹の原生林に覆われている
阿蘇くじゅう国立公園の特別保護地区 菊池水源として名水100選に選定されている
水源の森100選でもある
ここは渓谷に沿った遊歩道を漫ろ歩くくまもと自然休養林で 癒しコースが約30分 マイナスイオン満喫コースが約1時間の歩道がありますがアップダウンがきつい山路で
もちろん?癒しコースをしかも片道半分で切り上げましたなぁ ゼーゼーです

紅葉狩りを楽しみに訪れた紅葉の名所でしたが 何処へいっても紅葉はさっぱりで枯れ葉もしくは落葉ばかりでしたなぁ
これも温暖化の為せる業でしょうか
まぁ それでも菊池寛の“恩讐の彼方に”に触れ「青の洞門」の岩穴のノミの跡に当時の
苦労を思い そして話題の九年庵を眺めたことで晩秋の行楽を楽しみました

そして心残りと言えば
今回もまた 北原白秋の詩歌に触れることができなかったことでしょうか

「曼球沙華」
     北原白秋作詞 山田耕作作曲
GONSHAN  GONSHAN  何処処へゆく
赤い 御墓の曼球沙華(ひがんばな)
けふも手折に来たわいな
GNSHAN  GONNSHAN 何本か
地には七本 血のように
血のように
ちょうど あの児の年の数
GONSHAN  GONNSHAN  気をつけな
ひとつ摘んでも日は真昼
日は真昼
ひとつあとからまたひらく
GONSHAN  GONNSHAN  何故泣くろ
何時まで取っても曼球沙華(ひがんばな)
曼球沙華
恐や 赤しや まだ七つ

この詩歌は 島崎藤村の「初恋」など 暗唱していたものでした 今でも諳んじることができます
私にも青春の頃の感性がまだ少しばかり残っているのでしょうか
もう戻れませんが

               

 

 

 


再会 友遠方より来る名古屋の夜に

2015-11-19 15:17:52 | ゆるゆる旅日記

再会 友遠方より来る名古屋の夜に

 例年この時期に学会が開催されるが 今秋は名古屋市のメルパルクホテルを会場として2日間の日程でおこなわれた
新幹線のぞみで 東京へ行くことに比べれば半分の時間で行くことができるので気楽であり疲れが軽減される
ちょうどこの日にジャニーズ嵐のコンサートが名古屋ドームであったことから混雑のため宿泊ホテルが中々決まらなかったがどうにか駅前のこじゃれたホテルを予約できた
東京またはその近郊への学会出張では 横浜在住のH氏と【夜学会】で再会することが愉しみなのであるが H氏は名古屋出身と言うことでわざわざ名古屋まで出掛けてくれて春以来の再会である
そしてまた定年退職後に愛知在住のI氏が出向いてくれて同席してくれて思いがけない再会を果たした I氏はH氏とM会社研究所の同期であり 私も随分世話になったものである
彼とは30数年ぶりか~40年ぶりの再会であろうか
お互いにその間にはいろいろなことがあったのだろう 彼は脳疾患でくも膜下出血で手術をしたと言う 最近では肺疾患で肺がんの手術をしたと言う 肺上葉部の扁平上皮がんで予後は比較的良いのだそうである それでも抗がん剤療法は大変であったと語るのです
そうだろうなぁ
まぁ健診で見つかったのだから幸運と言うべきなのだそうです
元来明るい性格のひとでしたからこのまま健康を維持できることを祈りましょう
他人事ではないか!

 夕刻には早速3人で酒宴に突入!
出身地元H氏のお勧めで中区栄に在る「蔵人厨(くろうどくりあ)ねのひ」の本店へ
蔵元「盛田」直営の本店です 東京に支店がありますなぁ
盛田の歴史は 1665年に酒造を創業してから八丁味噌・溜・醤油の醸造を行い地元食文化を340年以上担ってきた 人々の生活を豊かにするものづくりのスピリットは15代当主でありながらソニー株式会社を創業した盛田昭夫氏に続いているのだといわれます
スタッフの袢纏に“盛田”の文字が入るのが物語っております
尾張・三河の食材が酒肴に合っております
名古屋コーチンの鳥つくねや飛騨牛のステーキは美味であった
酒器にもこだわり錫の酒器を用い温度を一定に保ち雑味をとる性質を利用している
和らぎ水をいただくのを忘れた程でしたなぁ
3人は昭和18~19年生まれの同年代なのであるが M会社の研究所で私ともども診断薬の開発に携わった共通の話題もありついつい酒量オーバーかな
ゆるやかに心地よい名古屋の【夜学会】の時は流れます

病後を語るときに 鴨長明の随筆『方丈記』の書き出しに凝縮された無常観を思うのであった 
「 ゆく河の流れは絶えずして しかももとの水に在らず / よどみに浮かぶうたかたは かつ消えかつ結びて / 久しくとどまりたるためしなし / 世中(よのなか)にある人とすみかと 又かくのごとし 」
いつの頃からか生きかた 身の処し方についての自訓をさり気無く語ってしまったようです
酔いに甘えて講釈めいたことをグダグダと吠える癖がでてしまいました
まぁ久々に気を許したということでご寛容の程を~

 まだ11月の初めだというのに名古屋の街はX’masの色合いが濃かった
帰りの新幹線を待つ間に駅ビルのデパートではクリスマスソングが流され 人目を引くクリスマスデコレーションが飾られている 街はもう歳末なのです
X’masと言えば子どもの頃には 本物のモミの木でクリスマスツリーを飾ってもらい折しも初雪がチラチラ舞い季節感を覚えたものでした
 そしてHalloweanの季節でもありますが TVでは渋谷のハロウィーン騒ぎが伝えられその馬鹿騒ぎを見るためにオーストラリアから来た観光客がいた 
まぁ渋谷のスクランブル交差点の混雑は外国でも有名らしいがなんとも物好きというべきだろう
日本がハロウィーンに狂う(?)習慣は ここ数年のことであり表参道の玩具屋「キデイランド」から出たのであるという説がある
Hallowmasつまり万聖節の前夜に「騒ぐ」ことの意味を知るものがどれくらいいるだろうか
いつかアメリカの何処かで日本人の青年が他人の庭に入り込んでしまい射殺されたのがハロウィーンの夜のできごとであった 「騒ぐ」と言うことはそのようなものであろう
 そして終戦後に入って来たアメリカ文化にSt.Valentine’Dayがあります
世界各地で男女の愛の誓いの日とされているのです
バレンタインデーにチョコレートを渡すのがいいのでは?と最初に考案したのは大田区の製菓会社であったという説があります 日本独自の発展(?)を遂げたものでしょう 
ここのところ「本命」チョコは勿論のこと「義理」チョコさえも貰うことがなくなってしまった
戦後の日本の歴史の流れに沿って今日に至る身としては X’masの感傷的なメロディーを懐かしむくらいがちょうど良いのかも知れない
名古屋の街には 早くもX’masの輝きがありました

            


2015 秋の西山 再発見

2015-11-05 15:31:41 | ゆるゆる旅日記

【秋の西山 再発見】
ときは“文化の日” 秋晴れの休日
京都は紅葉狩りコースの京都定期観光BUSで 古都の秋の装いを探してきました

■光明寺(長岡京市)
光明寺(こうみょうじ)は 京都府長岡京市粟生に在る寺院で西山浄土宗の総本山です
法然が初めて「念仏」の教えを説いた地なのだそうです
寺院の由緒は 文治元年(1185年)に あの源平の戦いで有名な熊谷蓮生(れんせい)法師(熊谷次郎直実)が戦いの明け暮れから積もる罪業を償い極楽往生の路を求めて法然上人を訪ねたそうです 
そしてこの地に念仏三昧堂を建立したのが始まりなのです
後の嘉禄の法難の際にはここで法然の遺骸を荼毘に付し 廟堂が建てられました
法然の石棺からはまばゆい光明が発せられたといいます 
四条天皇はそのことを聞いて光明寺の勅額を与えたそうである

釈迦堂(方丈)の前の白州は大小18個の石を配した信楽庭(しんぎょうてい)で 阿弥陀の慈非に包まれながら生死の大海を渡る念仏行者の姿を表していると言われているのです
釈迦堂の本尊は「頬焼の釈迦如来」です 淀の水津村の漁師で悪次郎とあだ名された乱暴者が托鉢の僧(実はこの御釈迦様なのです)と出会って心を入れ替えると言う物語に登場する仏像なのだそうです 頬には悪次郎に焼火箸で焼かれた跡という傷がありました
きっと本当のことなのでしょう
 御影堂(みえどう)の本尊は法然上人の自作の「張り子の御影」です 法然上人が75歳の時 「建永の法難」と呼ばれる弾圧により四国へ流罪になったとき弟子の願いに答えて大切にしていた母親からの手紙を張り合わせて自らの姿を像に造り形見として与えたものなのです 
きっと本当のことでしょう
 阿弥陀堂の本尊の阿弥陀如来像は六尺七寸(約2m)以上もある大きな仏像です
熊谷蓮生法師が琵琶湖畔堅田の浮御堂から背負って帰ってきたとか

そしてまた光明寺は紅葉の名所としても広く知られております
総門から薬医門を経て玄関に至るゆるやかな坂道の参道は両側から楓の木々が枝を延ばしている あと1~2週間もすれば錦秋の紅トンネルとなりましょう
もみじ参道と呼ばれております

○ここで休憩
 昼食は 光明寺の山門を出た直ぐ隣の“京料理 いっぷく亭”
 京阪バス特別料理と題した「錦秋御膳」です 湯葉 紅葉麩 出し巻き玉子など京都らしい御膳でしたなぁ
○そしてまた休憩ついでにお土産やなどへ
 門前から間もなくの“小倉山荘”です
 ここは「百人一首のおかき」が全国展開しておりますが 「京・ちりめん山椒せんべい」を味見してみました 京都限定品と唄っておりますがなかなかの美味でしょうか
 おかき「冬をぐら山春秋 花に雪」をお土産に少々求めました

BUSはのどかな田園風景の田舎道をぐんぐん走ります
そしてかなり急勾配の坂道を登っていきます 
今回の観光バスが小型であることがわかりました
大型のいわゆる観光バスではこの狭い山道を通りぬけることが難しいのだそうです

■善峯寺
善峯寺(よしみねでら)は 京都府京都市西京区大原野にある寺院で山号は西山
西国三十三所第20番札所 善峰観音宗(天台宗系単立)
寺に伝わる「善峯寺縁起絵巻」(江戸時代)などによれば長元2年(1029年) 源信の弟子にあたる源算が創設したとされている
長元7年(1034年)には後一条天皇から「良峯寺」の寺号を賜ったという
応仁の乱に巻き込まれて伽藍が焼失したが江戸時代になってから桂昌院の寄進によって再興された

 おちないお守り
平成7年1月の阪神淡路大震災の時 阪神高速道路の高架でバスの前輪が落ちながらも 奇跡的にバスは宙吊りの状態で乗客ともども助かったことはTVでなんども放映されたものでした そのバスの運転手が善峯寺の釈迦如来のお守りを持っていたことから入試合格や交通安全などの「おちないお守り」として評判になっているそうです
 そして当病悉除のお守り
石仏釈迦如来が釈迦岳から釈迦堂に遷座した時に玉の汗をかいていたのでその汗を布で拭いて後 その布を体の病気のところや痛むところに当てると病や痛みが癒えたのだそうです 当病悉除に霊験あらたかな釈迦如来としての信仰です
おちないお守りと願意を分けておりましたので こちらを授かりました 
階段坂道が多い境内でしたが“腰痛”が軽減しますように!

紅葉の名所となっているとともに 山腹の高台に位置していることで境内の各所から京都市街そして比叡山を一望できます 大文字焼きの跡が見えました
八重の秋明菊 遊龍の松(国指定天然記念物 樹齢600年以上 全長37mの五葉松)が知るところでしょうか

■勝持寺
勝持寺(しょうじじ)は 京都市西京区にある天台宗の寺院でこじんまりとしたお寺です
本尊は薬師如来です 西国薬師四十九霊場第42番札所
通称“花の寺”として知られております
勝持寺は古くから桜の名所として知られ 西行ゆかりの寺とされているが創設についてはあまり明らかにされていないようである
応仁の乱で焼失し天正年間に再建 江戸時代には桂昌院の帰依を受けた

京都の西南 西山連峰がたおやかな稜線を描いている粟生の里は 交通は不便であるがゆったりとした気持ちにしてくれました
春の花の頃にはまた訪れましょう
光明寺をゆっくり散策して そうだ今度は小倉山荘のレストランでランチをいただきましょう と 桜花の境内を夢想しつつひとつ早い新幹線で帰りました

       

   


香港~マカオ 4日間  懐かしの澳門は今… 【Ⅱ】

2015-10-03 09:48:28 | ゆるゆる旅日記


■澳 門(マカオ)
中華人民共和国マカオ特別行政区 香港と同じく一国二制度
総面積は約28.2k㎡(東京の世田谷区の半分ほど) 人口は約55万人
中国と陸続きになったマカオ半島とタイパ&コロアン&コタイが一つとなった島から出来ている マカオ半島と島は3本の橋で結ばれている
香港からは西南西に約60kmの距離 フェリーで約1時間ほど

聖ポール天主堂跡

マカオにあるポルトガルの17世紀の大聖堂の遺跡でありマカオの最も有名な歴史的建築物の一つである 2005年にユネスコの世界遺産に登録された
1582年~1602年にイエズス会士によって建築された天主堂は 当時のアジアでは最大のカトリック教会であった
1835年の台風時の火災により焼失してしまったのである 現在はファザードが残るのみであるが火災に逢わなければさぞかし立派な教会であったろうことが想像できます
ファザードの彫刻には七つの頭のヒドラを踏みつける女性が 「龍の頭を踏みつける聖母」と描写されている その一つが「マリアがキリスト教禁止令を出した徳川家康を踏みつけている絵」とされているのです そう見えなくもない!


世界遺産マカオ歴史地区
セナド広場 Largo do Senado 議事亭前地
中心に位置するセナド広場はポルトガル統治時代の名残を色濃く残す美しい石畳やパステルカラーの建物が美しい 美しく波打つモザイクの石畳が有名なのですが狭い広場にややがっかりです
広場は目抜き通りの通称「新馬路」に面して1929年に建てられた郵便局や新古典主義様式の仁慈堂大楼などの歴史を感じさせる建物が並んでいる小さな広場である
ここが観光の拠点なのです
聖ドミニコ教会 ?瑰堂
中国でもっとも古い教会の一つなのです
1587年にカトリックのドミニコ会修道士によって建てられた小さな礼拝所が起源と言われる 現在の建物は1828年に再建されたものと言われており建物正面のクリーム色の壁と緑の窓が南欧的な雰囲気を醸し出しているであろうか 祭壇には「バラの聖母像」と呼ばれるマリア像が祭られている コロニアル風バロック様式のファサード(正面壁)はちょうど外壁の改修工事中でその全体像を眺めることはできませんでした


Casino
マカオと言えば何と言ってもカジノでしょうか
16世紀に東西貿易の中継地として東アジアに於けるキリスト教の宣教の拠点として繁栄したマカオは 長くポルトガル領として知られているが中国に返還されて売上世界一のカジノを有するエンターテイメントシティとして変貌を遂げたのでしょう
宿泊したTHE VENETIAN MAKAO RESORT HOTELは約3,000室の客室を擁してイタリア・ルネッサンス調で統一されている
2007年開業以来マカオの人気を牽引しているのであろう 広大な一つの街を形成している
世界最大級のカジノがありヴェネチアの街を再現しているのです
ホテルの中に在る巨大モールのショップス・アット・ヴェネチアンはゴンドラ・ライドのアトラクションがあったり名所的な存在なのだろう 鞄に入れ忘れた不足の靴下を購入しました
ただ前回宿泊した記憶に比べるとなにかしらこじんまりとなったような気がしたものでした 
と言うのも近隣にコタイ地区に3番目に開業したリゾート GALAXY Macauが最新のラスベガススタイルで人気を集めているからであろうか
3つのホテルを擁して4,000室のメガホテルなのです
金色に輝くタワーがシンボリック
早速見物に行きましたが最新のラスベガス・スタイルのカジノなんだろうなぁと思いました
マカオ = カジノというイメージは大いにあったのですがホテルを広々と使うカジノに集まる中国人の熱気を眼の当たりにすると中国の富裕層の広がりを感じずにはいられない
と言うのもマカオはカジノの売り上げでラスベガスの約7倍を誇りカジノ客の7割超は中国人だという
大人はカジノで遊び儲けたらショッピングに興じ子どもはドリームワークスのキャラクターと一緒に食事を楽しみホテルで一夜を過ごすのがマカオ流の愉しみ方らしい
とはいってもカジノからの上がり(つまり税収)はマカオ市民に還元されていて 市民の税金は安く抑えられていて医療費・教育費などは無料と聞く さらには年間いくらかの年金が支給されるそうである
近年 日本でもカジノを!と言う声が高まってきている 一考に値するかとも思う
私は生来ギャンブルにまったく興味を持たない人種のようである と言うよりも賭博才がないと言うべきなのかも知れない
第一ルールを覚えるのが面倒であるし少しばかり理解しても燃えるものがないのである
所詮胴元が儲かるように出来ているに違いないのだ と決めつけてしまっているのだ
もっぱら見学することになります ただあの豪華な雰囲気は嫌いではないし豪華な雰囲気には心躍るものがあります
それにしてもカジノの雰囲気は以前と比べてなんとなく淋しいように思える 客層の大半の中国人の所謂大金持ちはシンガポールへでも行っているのであろうか あの世界一高層のプールがある絢爛豪華なホテル マリーナ・ベイ・サンズのカジノで遊んでいるのに違いない などと思ったりしましたが…
 マカオの通貨はパタカである 香港$はマカオで自由に使うことが出来るのだが マカオのパタカは香港では使用できない 帰国してもパタカは両替出来ないのです
マカオの先々を物語っているように思えるのですが


“MACAU”の語源は
前回訪れた際の観光で媽閣廟に行った際のことを思い出しました
媽閣廟(マアコウミュウ)寺廟の山門を潜ると 地元の人々が吊り下がった巨大な渦巻き型の線香の下で祈りを捧げている
媽閣廟は早くに建てられた道教寺院で 航海や漁業の守護神として道教の女神媽祖を祀っているのだそうな  
澳門の仏教は500年余りの歴史を持ち民間信仰は皆仏教と密接な関係があるのでしょう
400年前にポルトガル人が初めて船着き場に到着し 此処は何と言う場所かと尋ねた折に漁民達は廟のことを訊いているものだと思い「媽閣」をその地の方言で「マッコウ」と答えたのだそうな それ以来ポルトガル人たちはこの半島のことを「マカオ」と呼ぶようになったとか~
中国は阿片のために香港を失い 竜涎香(りゅうぜんこう)のために澳門を失ったのだと言う 
竜涎香とはマッコウクジラの腸内に出来る結石からとれる麝香のような香料であり非常に貴重なものであったらしい ポルトガル人たちは澳門の特別居住権を与えてくれたら欲しいだけ供給すると後宮の女性たちを騙して(!)澳門を手に入れたそうな


今回はギア要塞を訪れませんでしたが あの高台の眺望からまだ見ぬポルトガル想ってみたかったのですが…
変わらない澳門の街を楽しめましたでしょうか…
そして現地ガイドの男性が“中国 香港”“中国 マカオ”と呼称していたことが記憶に残るのでした