【秋の西山 再発見】
ときは“文化の日” 秋晴れの休日
京都は紅葉狩りコースの京都定期観光BUSで 古都の秋の装いを探してきました
■光明寺(長岡京市)
光明寺(こうみょうじ)は 京都府長岡京市粟生に在る寺院で西山浄土宗の総本山です
法然が初めて「念仏」の教えを説いた地なのだそうです
寺院の由緒は 文治元年(1185年)に あの源平の戦いで有名な熊谷蓮生(れんせい)法師(熊谷次郎直実)が戦いの明け暮れから積もる罪業を償い極楽往生の路を求めて法然上人を訪ねたそうです
そしてこの地に念仏三昧堂を建立したのが始まりなのです
後の嘉禄の法難の際にはここで法然の遺骸を荼毘に付し 廟堂が建てられました
法然の石棺からはまばゆい光明が発せられたといいます
四条天皇はそのことを聞いて光明寺の勅額を与えたそうである
釈迦堂(方丈)の前の白州は大小18個の石を配した信楽庭(しんぎょうてい)で 阿弥陀の慈非に包まれながら生死の大海を渡る念仏行者の姿を表していると言われているのです
釈迦堂の本尊は「頬焼の釈迦如来」です 淀の水津村の漁師で悪次郎とあだ名された乱暴者が托鉢の僧(実はこの御釈迦様なのです)と出会って心を入れ替えると言う物語に登場する仏像なのだそうです 頬には悪次郎に焼火箸で焼かれた跡という傷がありました
きっと本当のことなのでしょう
御影堂(みえどう)の本尊は法然上人の自作の「張り子の御影」です 法然上人が75歳の時 「建永の法難」と呼ばれる弾圧により四国へ流罪になったとき弟子の願いに答えて大切にしていた母親からの手紙を張り合わせて自らの姿を像に造り形見として与えたものなのです
きっと本当のことでしょう
阿弥陀堂の本尊の阿弥陀如来像は六尺七寸(約2m)以上もある大きな仏像です
熊谷蓮生法師が琵琶湖畔堅田の浮御堂から背負って帰ってきたとか
そしてまた光明寺は紅葉の名所としても広く知られております
総門から薬医門を経て玄関に至るゆるやかな坂道の参道は両側から楓の木々が枝を延ばしている あと1~2週間もすれば錦秋の紅トンネルとなりましょう
もみじ参道と呼ばれております
○ここで休憩
昼食は 光明寺の山門を出た直ぐ隣の“京料理 いっぷく亭”
京阪バス特別料理と題した「錦秋御膳」です 湯葉 紅葉麩 出し巻き玉子など京都らしい御膳でしたなぁ
○そしてまた休憩ついでにお土産やなどへ
門前から間もなくの“小倉山荘”です
ここは「百人一首のおかき」が全国展開しておりますが 「京・ちりめん山椒せんべい」を味見してみました 京都限定品と唄っておりますがなかなかの美味でしょうか
おかき「冬をぐら山春秋 花に雪」をお土産に少々求めました
BUSはのどかな田園風景の田舎道をぐんぐん走ります
そしてかなり急勾配の坂道を登っていきます
今回の観光バスが小型であることがわかりました
大型のいわゆる観光バスではこの狭い山道を通りぬけることが難しいのだそうです
■善峯寺
善峯寺(よしみねでら)は 京都府京都市西京区大原野にある寺院で山号は西山
西国三十三所第20番札所 善峰観音宗(天台宗系単立)
寺に伝わる「善峯寺縁起絵巻」(江戸時代)などによれば長元2年(1029年) 源信の弟子にあたる源算が創設したとされている
長元7年(1034年)には後一条天皇から「良峯寺」の寺号を賜ったという
応仁の乱に巻き込まれて伽藍が焼失したが江戸時代になってから桂昌院の寄進によって再興された
おちないお守り
平成7年1月の阪神淡路大震災の時 阪神高速道路の高架でバスの前輪が落ちながらも 奇跡的にバスは宙吊りの状態で乗客ともども助かったことはTVでなんども放映されたものでした そのバスの運転手が善峯寺の釈迦如来のお守りを持っていたことから入試合格や交通安全などの「おちないお守り」として評判になっているそうです
そして当病悉除のお守り
石仏釈迦如来が釈迦岳から釈迦堂に遷座した時に玉の汗をかいていたのでその汗を布で拭いて後 その布を体の病気のところや痛むところに当てると病や痛みが癒えたのだそうです 当病悉除に霊験あらたかな釈迦如来としての信仰です
おちないお守りと願意を分けておりましたので こちらを授かりました
階段坂道が多い境内でしたが“腰痛”が軽減しますように!
紅葉の名所となっているとともに 山腹の高台に位置していることで境内の各所から京都市街そして比叡山を一望できます 大文字焼きの跡が見えました
八重の秋明菊 遊龍の松(国指定天然記念物 樹齢600年以上 全長37mの五葉松)が知るところでしょうか
■勝持寺
勝持寺(しょうじじ)は 京都市西京区にある天台宗の寺院でこじんまりとしたお寺です
本尊は薬師如来です 西国薬師四十九霊場第42番札所
通称“花の寺”として知られております
勝持寺は古くから桜の名所として知られ 西行ゆかりの寺とされているが創設についてはあまり明らかにされていないようである
応仁の乱で焼失し天正年間に再建 江戸時代には桂昌院の帰依を受けた
京都の西南 西山連峰がたおやかな稜線を描いている粟生の里は 交通は不便であるがゆったりとした気持ちにしてくれました
春の花の頃にはまた訪れましょう
光明寺をゆっくり散策して そうだ今度は小倉山荘のレストランでランチをいただきましょう と 桜花の境内を夢想しつつひとつ早い新幹線で帰りました