石川門あたりで石版に明治30年ごろ、1987年と石川門下の百間掘りの古写真があったので撮影してアップした。画像右手の橋の上の一本木あたりから手前の堀に向けて撮影したのが下の写真。水はなくなり、車が行きかう。観光バスが目につく。この通りは、市電も走っていて狭隘な道だった。この写真はどこかで見かけて、鮮明な画像をパソコンに保存してある筈だ。今の写真の左側が兼六園で、木々に多くの茶店が隠れているから、水を入れたら昔の風景に近いのではなかろうか。電車が走っていた頃の写真はここ。
犀川大橋から法島にある上菊橋までを往復歩いた。右岸、左岸共に絨毯の芝が歩きを心地よくする。ゴルフで言えば、いわばフェアウエーの真ん中、王道をゆったり歩く気分だった。片町、長町に流れる用水取り込みの堰に鷺が一羽、微動だにせずたたずむは瞑想にふけているようにも。用水取り込み口は画像の正面。雨上がりだから相当の量の水が激しく音を立てていた。用水は金石の海まで約10KMあり、市内を流れていく。合鴨が懸命に川魚を漁っている光景も楽しめ、男川、犀川の荒っぽい気分も楽しめた。多少ぱらつく雨は気にもならない。
昼だから、男女計3名の入場者しかいなかったから大当り。大樋焼きの夏茶碗はぼってりしていなく、陶芸師だったおじさんから形見分けにもらった九谷焼茶碗と似ているのはびっくりした。京焼の棗も珍しく、現代の作品から利休ゆかりものもあり、揃っているという印象だった。館内から茶室を眺めるとともに、200円での干菓子付抹茶とともにゆったりできた。画像は目玉の利休在判棗。左下記載の夏茶碗、右下10代大樋長左衛門の寄贈現代作品。撮影禁止と撮影してから、係の人から言われたがアップまで。
再建なった河北門からから金沢城に入った。正式には金沢城公園、菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓が再建された。いづれかの日に、本丸もできたりしてしまうかもしれない。城内の芝の手入れは立派で整備が行き届いている。石川門手前には百間堀をまたいで兼六園につなが石川橋がある。子供のころ母親から聞かされたのはお堀には明治の時代には堀には水が入っていたという。石川橋下は狭く、子供のころは市電も走っていて、電車が通ると怖かったのを記憶している。画像は記述通り順で撮影した。石川門は別に記述予定。
金沢の街の中は町並みが近年杜撰になってきている。城下町の風情が続かない。建物の色や高さの凹凸の差が激しいし、民家の隣りがパチンコ屋があるような感じ。郊外と市内観光スポットだけが整備されているが、市内は取り残されている。子供の頃から見ている家屋をアップした。十間町にある有名旅館の斜め前の2軒並びの家は左が骨董屋、右が旅館。その昔、中学時代の修学旅行で泊まった宗右衛門町の宿の風情がある。商人宿というべきか。もうひとつは犀川に建つ何と4階建ての料理屋の山錦楼、大正時代は2階建が昭和初めには4階になったらしい。知っている人で、お店を利用した人はいないので、ネットのコメントをみるしかないが。そういえば兼六園のそばの県庁の建物が迎賓館に。中にはリヨンの3つ星ポールボキューズが出店。彼の店は日本にあちこちある。リヨンの本店が垂涎のまとでは。金沢で4つ星にはならないが、不似合いな感じ。地産地消の地物はどれだけ使うのか、今度の機会にランチで行ってみよう。
当ブログで閲覧の多いものの一つに食物記事が多いとアクセス解折にあったので、金沢に帰ったらよくいく店の品書き黒板写真をわかり易いようにもっと大きい画像にしてをアップした。アクセスの多い記事はこれ「金沢、夏の食べ物」らしい。