ジュネは崩壊していくナチスドイツを、ではなく、ナチスドイツを構成していた無数のフェチ的象徴の系列とそれらを接続させていた陶酔の力を始めとする極限的強度が急速に失われ、欠け落ち、朽ち果てていく光景から目を離すことができない。過酷壮麗を極めたドイツ帝国の敗兵たちはまたたく間にパリの地下に張り巡らされた下水管の中へ逃げ込み、声をひそめてあがき抜き、悪臭まみれの汚辱に満ちた地下活動に追い込まれる。だがしかし、見るも惨めな潜伏生活を記憶に焼き付けておかねば気がすまないというわけではない。下水管の中で汚辱まみれになってなお、敗北したとわかっていてもなお、ありもしない巻き返しを狙って行動する奇妙な兵士たちの言葉や仕ぐさがジュネには美しく見える。あたかもそれはジュネがまだ若年者だった頃、「泥棒、裏切り者、性倒錯者」としてヨーロッパのあちこちを放浪して歩いた、あの懐かしい日々が圧縮され転移し反復されているかのようだったろう。ジュネは愛から愛へと渡り歩いていた。泥棒として、裏切り者として、性倒錯者として。ぼろぼろの安下宿で横になっていると、身体中にたかりつき衣服の隅々で生き生きと増殖する虱(しらみ)。虱(しらみ)が増殖すればするほどジュネ自身は今どの程度まで下降線を描いているか。その見間違いようのない明確な基準になっていた、あの懐かしい日々。そして支配者として乗り込んできた筋骨隆々たる人間の群れがその社会的地位を追われ、ずたずたに傷つきながら加速的に転落していくのを見るという何ものにも代えがたい快感。ジュネは汚辱そのものの立場に立って、また別の人間がたちどころに汚辱にまみれ果てていく場面を悦びとともに目撃したいがために居残る。
「打ち負かされ、敗走するドイツ兵の美しさを、なおも私は示したい」(ジュネ「葬儀・P.327」河出文庫)
ジュネは力に満ち溢れていた輪郭明瞭な人間が輪郭明瞭なままたちまち下水道を棲み家とするどぶ鼠と化して悲劇的状況に叩き込まれ解体されていく光景にふるえるような快感をおぼえつつ書き付けている。
「彼らの厳しい目つき、こわばった表情、ときおり浮かべる果てしない悲しみの微笑を、もはや彼らは望みを抱いていなかった。もはや勝てる見込みはないだろう、それでもまだ彼らは闘っていた」(ジュネ「葬儀・P.327」河出文庫)
敗戦が決定的となった時期にフランスの数カ所に残っているドイツ軍の行動。下水道に充満する湿気のなか、埃まみれ糞まみれになりながら最も細かな諸細胞の次元から急速に腐敗していくドイツ兵士の身体。腐敗という侵食が王宮の絨毯あるいは宮殿の庭園を埋め尽くす薔薇の饗宴を思わせる色鮮やかな壮麗さを薄暗がりの奥底へ陰影深く押し広げつつ、ほかでもない花の都パリの中で最も汚れた最も臭い場所へと自分で自分自身を詰め込み死体と化して再びパリという花を咲き誇らせるためのふんだんな肥料になるのかと、ジュネは感慨深さを隠しきれない。対独協力兵士たちはそんなドイツ軍の破滅に向けておそらくは兵士同士の間でのみ可能な性行為としての情動から、ひたすら地下活動を支援する。ただ単にフランスの不良少年であり不良少年のままフランスを裏切りナチスドイツに忠誠を誓った若年者たちが、フランスのちんぴらとドイツのごろつきとの類稀なる情事に耽りこむために未曾有の献身に奔走する。
「下水の中でもでも情事を行なうために、家庭も、家族も打ち棄て、鼠を、悪臭を、飢えを相手どって格闘していた、対独協力兵たちはカムフラージュして彼らに援助の手を差し延べるのだった。どの協力兵もひたすら友愛の絆から、困難な仕事を自分から進んで買って出るのだった」(ジュネ「葬儀・P.327~328」河出文庫)
そんな中でも相変わらず孤独を貫き、自分固有の悪への階段を上り下りし、あくまで「泥棒、裏切り者、性倒錯者」として振る舞う尊大な勇気の持ち主は逆にうとまれる。対独協力兵士のはずなのになぜ一致した行動を取らないのか。周囲から見ればそのような態度は敵が取る身振り仕ぐさであり、単独行動は敵の行動であり単独で泥棒に励むことは敵に変わったということだ。けれども殺されることはない。状況は確実に変化していた。
「誰とも組むことを拒んで、ひとり、自由にとどまっている若者は、そのような態度だけでも、みんなから避難の目で見られるのだった。おまけに、それは競争相手(ライバル)でもあった。判事に変った対独協力兵の眼からすれば、一人で稼いでいる泥棒は敵だった」(ジュネ「葬儀・P.328」河出文庫)
ところでリトンだが、二十八人を銃殺処刑する人員に選ばれた若年者らの中で、ともすれば意気消沈してしまいそうな雰囲気が監獄の隅っこをちらほら横切るように見える。そんなときリトンは銃殺から引き出てくるに違いない魅惑的快感獲得のために、仲間たちのまえで精一杯の虚勢を張ってじゃれて見せる。残酷な気分を盛り上げようと騒いでみる。けれども中から決定的な言葉が洩らされる。というのも、裏切りを身上とするリトンたち対独協力兵にとって、ドイツ軍隊長から正式に任命された責務を果たすことはもはや裏切りではなくむしろただ単に合法化された密告と同様の行為に過ぎず、そこでは何らの裏切りも拒絶も締め出しも消えてしまっているからだ。もう冒険はない。
「班全体の残酷気分を代表することで、彼は強烈な悦びが身内にみなぎるのだった。若い協力兵が一人、同輩と連れ立って部屋から出ていった、こんなふうに言い残して。『革命的とはいえんな』」(ジュネ「葬儀・P.328」河出文庫)
さて、アルトー。ヘリオガバルスの行動の一貫性についていったんまとまった記述が挿入される。一つの行為における意味の二重化という特徴。
「ヘリオガバルスの残酷さには奇妙なリズムが介在している。秘儀を授けられたこの人物はすべてをノウハウをもって、すべてを二重に行う。つまりすべてを二つの面で行うのである。彼の身振りのひとつひとつが両刃の剣である」(アルトー「ヘリオガバルス・P.193」河出文庫)
なるほど「両刃の剣」といえばいえる。だれこれらは現代社会の中ではもはや区別できないほど混じり合い、一つの動作の二重化どころか、多層的で幾重にも折り畳まれたカーテンの襞にように多様化されている。とはいえ、ヘリオガバルスの行為はとりあえず対立する両極に置いて捉えることができる。
「《秩序/無秩序》
《統一/アナーキー》
《詩/不協和》
《リズム/不調和》
《偉大/幼児性》
《寛大/残酷》」(アルトー「ヘリオガバルス・P.194」河出文庫)
なかでも注目したいのは「幼児性」だ。現代社会が同時に大人主導の資本主義社会であることは自明だとしても、子どもが完全に大人になることはけっして許されない或る限界が設けられている。資本主義はそもそも「幼児性」からの脱却を許さないシステムだという点に留意しておきたい。資本は常に脱コード化し幾重にも分裂する「幼児性」をけっして失ってしまわない限りで始めて再土地化する。一方の手で脈略なく脱コード化し、もう一方の手でそれを公理系化する。そしてこの作業は同時に一つの同じ動作だからである。巨大都市整備事業などはその実例としてわかりやすい。揺りかごから墓場までみな揃っている。資本が立案し国家を通じて実現しそこから利潤を生み出す。同じ一つの動作なのだ。ところで、ヘリオガバルスによる去勢された男性器の大盤振る舞いについて。
「性器を入れた袋は、ピュトーの神の祭りの日に、この上なく残酷なことに大量に塔の上から投げ捨てられる」(アルトー「ヘリオガバルス・P.195」河出文庫)
去勢は避妊手術ではなくあくまで男性の身体から男性器を切除することなのだが、逆説的なことに、何人もの男性の性器を去勢すればするほど逆に男性器は重要性を増す。というのは、なぜそれほどまで男性器にこだわるのかという問いを何度も繰り返し執拗に投げかけ反復させるからである。反復は学習に変わり、民衆の意識は男性器に集中することを余儀なくされる。それはあたかも機械操作のような集中を出現させ、集中の利益を増大する。同時に機械的集中は反復されるたびに慣習化する。儀式において機械化された去勢作業。儀式の慣習化とその機械化的集中。その結果は去勢の意味を転倒させる。大量去勢され袋詰めされた男性器は年中行事の祝祭空間の中での儀式的大盤振る舞いによって逆に象徴化されるのだ。機械的な動作としての去勢の周期的反復は逆に男性器があるものからないものへと変わることができるという変幻自在な象徴性をすべてのローマ市民に向けて「教えることである」。男性器の需要ならヘリオガバルスの配下から気まぐれに選べば幾らでもあるが、去勢行為に儀式的な周期性、回帰性を与えるのは「月経の宗教」たる女性崇拝を押し進めることによってである。
「《教師としての機械》。ーーー機械は、群集的人間のーーー各人がただひとつのことだけをすればよいような動作がなされるときのーーー歯車の噛み合い(一致協力)を身をもって教える。つまり機械は党派の組織や作戦用兵の模範となる。他方機械は、個人的な自主性を教えない。かえって機械は多数の人間から《一つの》機械を作り、個々の人間からは《一つ》目的への道具を作る。機械の最も一般的な効果は、集中の利益を教えることである」(「人間的、あまりに人間的2・二一八・P.433」ちくま学芸文庫)
なお、演劇の問題は言語への問いと切り離して考えることを許さない。どの演劇も言語なしに演じることはできない。無言劇における或る種の動作一つ取ってみても、それは何をかを意味しないではいられない。そして意味が捉えられたときすでに無言劇は無言でなくなっている。だが差し当たりアルトーは言語を問うだけでなく、言語の限界についてそれを計測し、手持ちの言語だけではけっして演じることができない肉体の言語を目指すことになる。
「すべての言語とすべての芸術のうちで、演劇は自らの限界化を打ち砕いた影をいまなおもっている唯一のものなのだ。最初から、影たちは限界化を我慢できなかったのだと言うことができる」(アルトー「演劇と文化」『演劇とその分身・P.17』河出文庫)
人間は言語によって形式化されている。だがニーチェのいうように言語は明らかに、何かを言い現わすと同時に別の何かを覆い隠す。あたかも貨幣のようにそれぞれ異種の商品Aと商品Bとのあいだにあった差異を抹消し等価化してしまう。貨幣が通り過ぎた後は諸商品の個別的多様性は消えてしまって跡形もない。それなら人間もまた一人いればよいのであって、個別的多様性を保存する意味は消えてなくなる。金太郎飴のようにどこを切っても同一のものしか取り出すことができないのなら、多様性の側は無用になる。ところが人間の身体は精神のように同一化することはできない。同一化しようとすると同時に「同一的でないもの/差異的なもの」が一斉に意義を唱える。だから反復は同一化を目指しながらも同時に「同一的でないもの/差異的なもの」の実在を一挙に暴露し可視化する。
たとえば、いま話題の中から一つだけ取り上げるとすれば、中国と香港との関係を見れば一目瞭然だろう。中国は中国全土を同一化しようと何度も繰り返し党大会を反復する。そのたびに香港という「同一的でないもの/差異的なもの」が一斉に意義を唱える、というように。一方、アメリカもまた世界最大の多民族国家でありながら、なぜか数千万人ものマイノリティに対して一方的な同一化を迫る。他の国家を実際に軍事攻撃することでアメリカ在住の他民族に圧力をかけるという狡猾な方法を取ることにしてはいるのだが。自国内の「白人富裕層」を軒並み優遇して見せつけるわけではない。しかし他国の他民族を直接軍事攻撃に晒すことで、逆に自国内の「白人富裕層」への同化圧力はより狡猾に同一化を迫るのである。置き換えられた同調圧力の使用方法としてはすでに使い古された手段なので誰も驚かない。ところが現実は冷酷である。迫られた側は英語で考え行動するアメリカの内部で労働力商品として質的にも量的にも重要な位置を占めつつ同時に「同一的でないもの/差異的なもの」として一斉に異議を唱える。さらに米中は米ソ対立以前からこっそりと、米ソ冷戦が終わってからは大っぴらに、それぞれの側から実質的多国籍企業を派遣し土地化し領土化し米中ともにもはや切っても切っても切り離せない骨絡みの再生産関係に入っている。何が米中摩擦なのであろうか。アメリカは中国に、中国はアメリカに、互いが互いを支え合い、互いが互いのうちに自分の根拠を持つ資本主義的諸関係を打ち立ててしまっているではないか。米中は対立し合い排除し合う両極に置かれているわけでは何らない。ただ単一の資本主義的覇権闘争があるだけなのだ。それをマスコミは改めて米中貿易摩擦などと、何を今さら馬鹿げたことを言い放っているのだろうか。
「生に触れるために言語を粉砕すること、これこそが演劇をつくり、あるいはつくり直すことである。そして重要なのは、この行為が神聖なまま、つまり運命づけられたままでなければならないと信じないことである」(アルトー「演劇と文化」『演劇とその分身・P.17~18』河出文庫)
言語を粉砕したとしてもなお厳密な意味での言語はエクリチュールとして残されるのであり、むしろ逆に声より先に書かれた文字としてのエクリチュールがあるのだとデリダは言った。その通りだ。そしてデリダのいうエクリチュール、書かれた言語はすでに遺伝子情報においてさえ言語として形成されているということを指摘した。さらに専門分野では遺伝子情報が言語であるからこそ置き換え可能であり実際に置き換えることに成功している。だからといってアルトーの提唱する「固定されない」《力への意志》は不可能となったのか。まったくそうではない。むしろ種々の多様性は《力への意志》としてしか存在しない以上、それは常に既に生成変化することを止めない。停止することを知らない。
「演劇は、言語のなかに、そして諸々の形式のなかに固定されないし、事実によってまやかしの影を破壊するのだが、しかしそれは別の影の誕生への道を準備し、そのまわりに真の生の光景が凝集される」(アルトー「演劇と文化」『演劇とその分身・P.18』河出文庫)
同一的なものの暴力的反復は同時に「同一的でないもの/差異的なもの」の反復をともなってでしか不可能である以上、それはいつも暴発可能性の位置を保存しつつ極めて危うい均衡を人間社会に向けて要求してくるのである。
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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「打ち負かされ、敗走するドイツ兵の美しさを、なおも私は示したい」(ジュネ「葬儀・P.327」河出文庫)
ジュネは力に満ち溢れていた輪郭明瞭な人間が輪郭明瞭なままたちまち下水道を棲み家とするどぶ鼠と化して悲劇的状況に叩き込まれ解体されていく光景にふるえるような快感をおぼえつつ書き付けている。
「彼らの厳しい目つき、こわばった表情、ときおり浮かべる果てしない悲しみの微笑を、もはや彼らは望みを抱いていなかった。もはや勝てる見込みはないだろう、それでもまだ彼らは闘っていた」(ジュネ「葬儀・P.327」河出文庫)
敗戦が決定的となった時期にフランスの数カ所に残っているドイツ軍の行動。下水道に充満する湿気のなか、埃まみれ糞まみれになりながら最も細かな諸細胞の次元から急速に腐敗していくドイツ兵士の身体。腐敗という侵食が王宮の絨毯あるいは宮殿の庭園を埋め尽くす薔薇の饗宴を思わせる色鮮やかな壮麗さを薄暗がりの奥底へ陰影深く押し広げつつ、ほかでもない花の都パリの中で最も汚れた最も臭い場所へと自分で自分自身を詰め込み死体と化して再びパリという花を咲き誇らせるためのふんだんな肥料になるのかと、ジュネは感慨深さを隠しきれない。対独協力兵士たちはそんなドイツ軍の破滅に向けておそらくは兵士同士の間でのみ可能な性行為としての情動から、ひたすら地下活動を支援する。ただ単にフランスの不良少年であり不良少年のままフランスを裏切りナチスドイツに忠誠を誓った若年者たちが、フランスのちんぴらとドイツのごろつきとの類稀なる情事に耽りこむために未曾有の献身に奔走する。
「下水の中でもでも情事を行なうために、家庭も、家族も打ち棄て、鼠を、悪臭を、飢えを相手どって格闘していた、対独協力兵たちはカムフラージュして彼らに援助の手を差し延べるのだった。どの協力兵もひたすら友愛の絆から、困難な仕事を自分から進んで買って出るのだった」(ジュネ「葬儀・P.327~328」河出文庫)
そんな中でも相変わらず孤独を貫き、自分固有の悪への階段を上り下りし、あくまで「泥棒、裏切り者、性倒錯者」として振る舞う尊大な勇気の持ち主は逆にうとまれる。対独協力兵士のはずなのになぜ一致した行動を取らないのか。周囲から見ればそのような態度は敵が取る身振り仕ぐさであり、単独行動は敵の行動であり単独で泥棒に励むことは敵に変わったということだ。けれども殺されることはない。状況は確実に変化していた。
「誰とも組むことを拒んで、ひとり、自由にとどまっている若者は、そのような態度だけでも、みんなから避難の目で見られるのだった。おまけに、それは競争相手(ライバル)でもあった。判事に変った対独協力兵の眼からすれば、一人で稼いでいる泥棒は敵だった」(ジュネ「葬儀・P.328」河出文庫)
ところでリトンだが、二十八人を銃殺処刑する人員に選ばれた若年者らの中で、ともすれば意気消沈してしまいそうな雰囲気が監獄の隅っこをちらほら横切るように見える。そんなときリトンは銃殺から引き出てくるに違いない魅惑的快感獲得のために、仲間たちのまえで精一杯の虚勢を張ってじゃれて見せる。残酷な気分を盛り上げようと騒いでみる。けれども中から決定的な言葉が洩らされる。というのも、裏切りを身上とするリトンたち対独協力兵にとって、ドイツ軍隊長から正式に任命された責務を果たすことはもはや裏切りではなくむしろただ単に合法化された密告と同様の行為に過ぎず、そこでは何らの裏切りも拒絶も締め出しも消えてしまっているからだ。もう冒険はない。
「班全体の残酷気分を代表することで、彼は強烈な悦びが身内にみなぎるのだった。若い協力兵が一人、同輩と連れ立って部屋から出ていった、こんなふうに言い残して。『革命的とはいえんな』」(ジュネ「葬儀・P.328」河出文庫)
さて、アルトー。ヘリオガバルスの行動の一貫性についていったんまとまった記述が挿入される。一つの行為における意味の二重化という特徴。
「ヘリオガバルスの残酷さには奇妙なリズムが介在している。秘儀を授けられたこの人物はすべてをノウハウをもって、すべてを二重に行う。つまりすべてを二つの面で行うのである。彼の身振りのひとつひとつが両刃の剣である」(アルトー「ヘリオガバルス・P.193」河出文庫)
なるほど「両刃の剣」といえばいえる。だれこれらは現代社会の中ではもはや区別できないほど混じり合い、一つの動作の二重化どころか、多層的で幾重にも折り畳まれたカーテンの襞にように多様化されている。とはいえ、ヘリオガバルスの行為はとりあえず対立する両極に置いて捉えることができる。
「《秩序/無秩序》
《統一/アナーキー》
《詩/不協和》
《リズム/不調和》
《偉大/幼児性》
《寛大/残酷》」(アルトー「ヘリオガバルス・P.194」河出文庫)
なかでも注目したいのは「幼児性」だ。現代社会が同時に大人主導の資本主義社会であることは自明だとしても、子どもが完全に大人になることはけっして許されない或る限界が設けられている。資本主義はそもそも「幼児性」からの脱却を許さないシステムだという点に留意しておきたい。資本は常に脱コード化し幾重にも分裂する「幼児性」をけっして失ってしまわない限りで始めて再土地化する。一方の手で脈略なく脱コード化し、もう一方の手でそれを公理系化する。そしてこの作業は同時に一つの同じ動作だからである。巨大都市整備事業などはその実例としてわかりやすい。揺りかごから墓場までみな揃っている。資本が立案し国家を通じて実現しそこから利潤を生み出す。同じ一つの動作なのだ。ところで、ヘリオガバルスによる去勢された男性器の大盤振る舞いについて。
「性器を入れた袋は、ピュトーの神の祭りの日に、この上なく残酷なことに大量に塔の上から投げ捨てられる」(アルトー「ヘリオガバルス・P.195」河出文庫)
去勢は避妊手術ではなくあくまで男性の身体から男性器を切除することなのだが、逆説的なことに、何人もの男性の性器を去勢すればするほど逆に男性器は重要性を増す。というのは、なぜそれほどまで男性器にこだわるのかという問いを何度も繰り返し執拗に投げかけ反復させるからである。反復は学習に変わり、民衆の意識は男性器に集中することを余儀なくされる。それはあたかも機械操作のような集中を出現させ、集中の利益を増大する。同時に機械的集中は反復されるたびに慣習化する。儀式において機械化された去勢作業。儀式の慣習化とその機械化的集中。その結果は去勢の意味を転倒させる。大量去勢され袋詰めされた男性器は年中行事の祝祭空間の中での儀式的大盤振る舞いによって逆に象徴化されるのだ。機械的な動作としての去勢の周期的反復は逆に男性器があるものからないものへと変わることができるという変幻自在な象徴性をすべてのローマ市民に向けて「教えることである」。男性器の需要ならヘリオガバルスの配下から気まぐれに選べば幾らでもあるが、去勢行為に儀式的な周期性、回帰性を与えるのは「月経の宗教」たる女性崇拝を押し進めることによってである。
「《教師としての機械》。ーーー機械は、群集的人間のーーー各人がただひとつのことだけをすればよいような動作がなされるときのーーー歯車の噛み合い(一致協力)を身をもって教える。つまり機械は党派の組織や作戦用兵の模範となる。他方機械は、個人的な自主性を教えない。かえって機械は多数の人間から《一つの》機械を作り、個々の人間からは《一つ》目的への道具を作る。機械の最も一般的な効果は、集中の利益を教えることである」(「人間的、あまりに人間的2・二一八・P.433」ちくま学芸文庫)
なお、演劇の問題は言語への問いと切り離して考えることを許さない。どの演劇も言語なしに演じることはできない。無言劇における或る種の動作一つ取ってみても、それは何をかを意味しないではいられない。そして意味が捉えられたときすでに無言劇は無言でなくなっている。だが差し当たりアルトーは言語を問うだけでなく、言語の限界についてそれを計測し、手持ちの言語だけではけっして演じることができない肉体の言語を目指すことになる。
「すべての言語とすべての芸術のうちで、演劇は自らの限界化を打ち砕いた影をいまなおもっている唯一のものなのだ。最初から、影たちは限界化を我慢できなかったのだと言うことができる」(アルトー「演劇と文化」『演劇とその分身・P.17』河出文庫)
人間は言語によって形式化されている。だがニーチェのいうように言語は明らかに、何かを言い現わすと同時に別の何かを覆い隠す。あたかも貨幣のようにそれぞれ異種の商品Aと商品Bとのあいだにあった差異を抹消し等価化してしまう。貨幣が通り過ぎた後は諸商品の個別的多様性は消えてしまって跡形もない。それなら人間もまた一人いればよいのであって、個別的多様性を保存する意味は消えてなくなる。金太郎飴のようにどこを切っても同一のものしか取り出すことができないのなら、多様性の側は無用になる。ところが人間の身体は精神のように同一化することはできない。同一化しようとすると同時に「同一的でないもの/差異的なもの」が一斉に意義を唱える。だから反復は同一化を目指しながらも同時に「同一的でないもの/差異的なもの」の実在を一挙に暴露し可視化する。
たとえば、いま話題の中から一つだけ取り上げるとすれば、中国と香港との関係を見れば一目瞭然だろう。中国は中国全土を同一化しようと何度も繰り返し党大会を反復する。そのたびに香港という「同一的でないもの/差異的なもの」が一斉に意義を唱える、というように。一方、アメリカもまた世界最大の多民族国家でありながら、なぜか数千万人ものマイノリティに対して一方的な同一化を迫る。他の国家を実際に軍事攻撃することでアメリカ在住の他民族に圧力をかけるという狡猾な方法を取ることにしてはいるのだが。自国内の「白人富裕層」を軒並み優遇して見せつけるわけではない。しかし他国の他民族を直接軍事攻撃に晒すことで、逆に自国内の「白人富裕層」への同化圧力はより狡猾に同一化を迫るのである。置き換えられた同調圧力の使用方法としてはすでに使い古された手段なので誰も驚かない。ところが現実は冷酷である。迫られた側は英語で考え行動するアメリカの内部で労働力商品として質的にも量的にも重要な位置を占めつつ同時に「同一的でないもの/差異的なもの」として一斉に異議を唱える。さらに米中は米ソ対立以前からこっそりと、米ソ冷戦が終わってからは大っぴらに、それぞれの側から実質的多国籍企業を派遣し土地化し領土化し米中ともにもはや切っても切っても切り離せない骨絡みの再生産関係に入っている。何が米中摩擦なのであろうか。アメリカは中国に、中国はアメリカに、互いが互いを支え合い、互いが互いのうちに自分の根拠を持つ資本主義的諸関係を打ち立ててしまっているではないか。米中は対立し合い排除し合う両極に置かれているわけでは何らない。ただ単一の資本主義的覇権闘争があるだけなのだ。それをマスコミは改めて米中貿易摩擦などと、何を今さら馬鹿げたことを言い放っているのだろうか。
「生に触れるために言語を粉砕すること、これこそが演劇をつくり、あるいはつくり直すことである。そして重要なのは、この行為が神聖なまま、つまり運命づけられたままでなければならないと信じないことである」(アルトー「演劇と文化」『演劇とその分身・P.17~18』河出文庫)
言語を粉砕したとしてもなお厳密な意味での言語はエクリチュールとして残されるのであり、むしろ逆に声より先に書かれた文字としてのエクリチュールがあるのだとデリダは言った。その通りだ。そしてデリダのいうエクリチュール、書かれた言語はすでに遺伝子情報においてさえ言語として形成されているということを指摘した。さらに専門分野では遺伝子情報が言語であるからこそ置き換え可能であり実際に置き換えることに成功している。だからといってアルトーの提唱する「固定されない」《力への意志》は不可能となったのか。まったくそうではない。むしろ種々の多様性は《力への意志》としてしか存在しない以上、それは常に既に生成変化することを止めない。停止することを知らない。
「演劇は、言語のなかに、そして諸々の形式のなかに固定されないし、事実によってまやかしの影を破壊するのだが、しかしそれは別の影の誕生への道を準備し、そのまわりに真の生の光景が凝集される」(アルトー「演劇と文化」『演劇とその分身・P.18』河出文庫)
同一的なものの暴力的反復は同時に「同一的でないもの/差異的なもの」の反復をともなってでしか不可能である以上、それはいつも暴発可能性の位置を保存しつつ極めて危うい均衡を人間社会に向けて要求してくるのである。
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM