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白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

言語化するジュネ/流動するアルトー88

2020年01月14日 | 日記・エッセイ・コラム
女中ジュリエットの姿は強度が低下しているときのジュネの姿だ。そのためジュネはジュリエットを見ても力が湧いてこない。むしろ「嫌悪」が湧いてくる。自己嫌悪におちいるジュネ。この「嫌悪」はただちに埋め合わせられなければならない。そうでないとジュネは二十歳のレジスタンス闘士ジャンが持っていた力を自分の中で維持することができなくなってしまう。と、そこにドイツ軍兵士エリックがいるのを見つける。

「嫌悪でこじあけられた私の心に愛がなだれ込んだのだ。見境なしに私は<ドイツ野郎>に惹きつけられるのだった」(ジュネ「葬儀・P.371」河出文庫)

実際ジュネはドイツでもフランスでもスペインでも、今はなきユーゴスラビアでもチェコスロバキアでも、さらに戦後パレスチナでも「見境なし」だった。

「頭の中で彼にすがりつき、彼の美貌と、堅さが、このむかつきに耐え、克服する力を私に授けてくれるよう彼の身体に自分の身体を接ぎ木するのだった」(ジュネ「葬儀・P.371」河出文庫)

とはいえ、女中ジュリエットとドイツ軍人エリックとの強度の比較は、必ずしも対立的なものだとは限らない。ジュリエットの強度が増大しているときジュネの頭の中にはエリックのことなどまったくない。むしろジュリエットとして振る舞うことでジュリエットに《なる》。たとえば、ジュリエットの死んだ幼児の父親がジャンであるということをあえて秘密にして周囲の愚劣な探究心を一身に集中させるときのジュリエットの心情の魅惑的揺れ動き。そのような瞬間が到来するやいなやジュネはジュリエット化せずにはおれない。また以前、死んだ幼児を埋葬する墓地でジュリエットが二人の墓掘り人夫に犯される場面に触れた。そのときはどうだったか。ジュネは墓掘り人夫がジュリエットを犯すに当たって女性器を問題としていただろうか。そうではなく肛門を問題としていた。ジュリエットの女性器ではなく肛門が串刺しにされることになれば満足だと明確に語っていた。このときジュネはまず第一に肛門を差し出すジュリエットでなければ我慢がならず、そして《同時に》ジュリエットの性器ではなく肛門を串刺しにする墓掘り人夫でもなければならなかった。あくまで《同時に》であって第二は《ない》のだ。

彼(ジャン)の形見として残されたジュリエットの「うす汚い髪ふり乱した女中の外見」とジュネは書く。それは産後間もなく母に捨てられたことから来る怨恨感情だけではない。もとより父はとうの間に行方不明のどこの誰だかさっぱりわからず、気づいたときすでに見るも惨めな「見捨てられた」孤児だった事実から来ている。次の文章で「彼」とあるのは二十歳のレジスタンス闘士であり対独協力兵の機銃掃射を受けて死んだジャンのことだ。ここでもまたジュリエットとジュネの同一化が生じている。強度が最低レベルに落ち込んだときのジュネ。非力で無力で「疲れはてた」孤児としてのジュネ。いつも女中は女中身分として固定されているため、どこから見てもひと目で<奥様>の下僕としてわかる衣装と振る舞いとでしか現われることができない。<奥様>以下でしかないが、<奥様>に恥をかかせるほどぼろぼろの衣装や振る舞いでもまたいけない。そんな宙吊り状態に耐えている女中を見てジュネはその宙吊り状態に耐えられない。

「彼が私に想い出のよすがとしてこんな浅ましい姿で働く小娘を残していったことで彼にたいして腹立たしさをおぼえるのだった。自分が見捨てられ、疲れはてた、みじめな存在に感じられた」(ジュネ「葬儀・P.371」河出文庫)

ところがずっと極端な汚辱の中に身を沈めて世間から爪弾きされた女性には逆に感嘆と尊敬そして畏怖の念さえ隠せない。

「わたしは、ふた目と見られぬ化け物のような娘、四つん這(ば)いになって獣のように唸(うな)りながら歩き回る、白痴で、無垢(むく)な異形(いぎょう)な娘を、世間から庇(かば)って家の中で守り育てた、あの女のようになりたかったのだ。この子供を生んだとき、彼女の絶望があまりにも大きかったため、おそらく、絶望がそれ以後彼女の人生の本質となったのだ。彼女は、この怪物を愛すること、徐々に形成された後、彼女の胎内から生まれでた、この醜悪さを愛し、それを敬虔(けいけん)に建立(こんりゅう)することを決心したのだ。彼女は怪物という観念を大切に納めた聖体遷置所(ルポゾワール)を彼女自身の裡に設けた。そして、日々の仕事に硬く荒れているにもかかわらず限りなく優しい手の、献身的な世話と、絶望した者たちのあの我武者羅(がむしゃら)な執拗(しつよう)さとをもって、彼女は世間に対抗し、世間に対して彼女の怪物を擁立したのだった。それはやがて彼女の裡で世間そのものの規模と力とを獲得した。そしてこの彼女の怪物を中心としてまったく新しい原則による別個の秩序が形成されたのであり、それを破壊しようとして世間のもろもろの力が絶えず彼女にぶつかってきたが、それらの力も彼女の娘を匿(かくま)っていたその住居の壁の中へは一歩も入ることはできなかったのである。

原注 わたしは新聞によって、この母親が四十年にわたる献身の後、まず睡眠中の娘に、それから家全体に揮発油ーーーか石油ーーーをふりかけて火をつけたということを知った。怪物(娘)は死んだ。人々は燃えさかる炎の中から老婆(七十五歳)を運び出し、彼女は救われた。つまり、重罪裁判所にひきだされたのである」(ジュネ「泥棒日記・P.32~33」新潮文庫)

そのような場合には「別個の秩序が形成され」る。それには並々ならぬ力が注がれる必要があった。ではその力はどこからやって来たか。この女性が産んだ「四つん這(ば)いになって獣のように唸(うな)りながら歩き回る、白痴で、無垢(むく)な異形(いぎょう)な娘」に対する愛の建立から、である。だから、世間から興味本位の眼でじろじろ見られたり同情をかけられたりすることを拒否し、自分と自分の娘とを世間から隔絶して闘いきった女性の毅然たる態度とジュリエットの宙吊り性との違いは、対立ではなく強度の違いなのだ。

ただ単に強度あるいは程度の「差異」しかないところになぜかいつも「対立」を見てしまわずにはいられない、という人間の呆れ果てた習慣についてニーチェはいう。

「《さまざまな対立を見る習慣》。ーーーふつうの不精確な観察は、対立が存在するのではなくて程度の差があるにすぎない自然の至るところに対立(例えば『温暖と寒冷』といった)を見る。この悪習は更にわれわれを誘いこんで、こんどは内的自然、つまり精神的、道徳的世界をもこうした対立にしたがって理解し、分析させるに至った。こうして、段階的推移のかわりに対立を見ると思いこむことによって、言い知れぬ多くの苦悩、傲慢、苛酷、疎隔、冷却が人間の感情のなかに入りこんできたのである」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・六七・P.325」ちくま学芸文庫)

それにしても「美貌」とは何なのか。たとえば犯罪者が男性の場合、どこにでもいそうな犯罪者ではなく、目を見張るような美貌の持ち主の場合。何度刑務所に入っても出所するときすでに何人もの女性があたかも機動隊のような連帯の精神で美貌の犯罪者を守ってくれる。犯罪者を守っているのか犯罪者の美貌を守っているのかわからないが警察の手で美が傷つけられ損傷を受けることをけっして許さない。このとき女性たちは力への意志を謳歌しているように見える。犯罪者の美貌は女性たちが自分自身の力への意志を謳歌するために利用価値がある限りでのみ、美として承認されるに留まるかのようだ。さらに現在の日本では男性から美貌が去った後もなお女性に向けて今度は、未来の見えない年金制度が待ち構えているという事態に叩き込まれることになる。また、性別が逆であっても事情はほとんど変わらないだろう。むしろ性別に関わらず起こってくる問題は今なお未知の次元に隠されたままだ。

「ポーロは、どうやら、パリの解放者たちと共に蜂起したらしかった、けれども私には彼がドイツ軍と気脈を通じているとしか考えられなかった」(ジュネ「葬儀・P.373」河出文庫)

ジュネはポーロの裏切り癖をよく知っている。だから多分フランスの側へ寝返ったのだろう。しかしフランス人がフランスの側に立って闘う姿には何らの魅力もない。集団の中の一要素でしかなくなる。それ以上でも以下でもない。「異質なもの/差異的なもの」がまるでない。その時点でポーロから裏切り者独特の魅力は失われる。だからジュネは無理にでもこう考える。

「蜂起がはじまるとさっそく<抵抗軍>(レジスタンス)に加わった<対独協力兵>(ミリシャン)のひとりとにらんでいた。彼らは真面目なフランス人と肩を並べて戦ってはいたが、戦列の内側で工作をつづけているのだった」(ジュネ「葬儀・P.373」河出文庫)
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さて、アルトー。ユリア・マンマエアの地下工作は順調にはかどっていたようだ。すでにローマの民衆はユリア・マンマエアと彼女が支配下に治めた軍隊の側に寝返っている。太陽信仰によって無秩序に叩き込まれたローマ市民は、もたらされた無秩序から得られる快楽的要素を引き出せるだけ引き出して享楽する。その意味ではヘリオガバルスは解放者である。皇帝として当然のことを実行しただけのことだとヘリオガバルスは思っている。もっとも、それ以前から無政府状態化していたローマだが、しかしキリスト教を破棄して太陽信仰へ帝国じたいを転倒させたことは、本来的に無方向的な無秩序の実現以上の何か、質的に異質で途方もない破壊力に満ちたアナーキーを流通させることでもあった。そのようなことはローマ市民にとって未経験であるという不安をかき立てることにもなる。ユリア・マンマエアはキリスト教の教えに従って行動したからということになっているけれども、実をいえばマンマエアはヘリオガバルスの太陽信仰とそれがもたらす未経験者特有の不安感情を政治利用したに過ぎない。

「詩的アナーキストの氾濫によってひき起こされ、不実なユリア・マンマエアによってひそかに培われた全般的な憤懣を前にして、彼はなすすべもなく代役を立てられた。ヘリオガバルスは彼を甘んじて受け入れ、彼自身の粗悪なひと形、いわば第二の皇帝、ユリア・マンマエアの虫籠であるアレクサンドル・セウェルスを皇帝補佐としたのである」(アルトー「ヘリオガバルス・P.204」河出文庫)

地下工作に励んでとうとう軍隊と民衆の力を引き寄せたマンマエアは自分の息子を皇帝補佐の地位に付かせる。ヘリオガバルスはそれを承認しなくてはならない。しかし承認するにしても論理的におかしいのではとヘリオガバルスは考える。皇帝は一人の男でなくてはならず、二人の男が同時に皇帝になることは不可能だからだ。

「だがエラガバルスが男にして女であるとしても、彼は同時に二人の男ではない。そこには物質的二元性があり、それはヘリオガバルスにとって原理への侮辱であり、しかもヘリオガバルスが受け入れることのできないものである」(アルトー「ヘリオガバルス・P.204」河出文庫)
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演劇論。アルトーはバリ島の演劇について「驚異」だと連発する。しかしバリ島での演劇の何がどのように「驚異」なのだろうか。

「驚異であるのは、豊かさや、空想力や、出し惜しみしない浪費の感覚が、驚くべき細心さと意識でもって調整されたこのスペクタクルから発散しているということである」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.88』河出文庫)

アルトーのいう「驚くべき細心さと意識」による「調整」ということ。ちなみにベイトソンの次の記述は、バリ島の人々のバランス感覚が重視されているように見える。だがバリ島の中で重視されているのはバランス感覚の維持という目的よりも遥かに多く、もしそうしないなら「バランスが崩れてしまうしくみに、システム」じたいが「なっている」ということではないだろうか。

「実際に体が差し上げられる場合、全体のバランスを保つ役目は下で支える側が担うことになるが、方法の指示は、上に乗ったものに任せられる。この写真の女の子は、トランス状態のまま男の人の肩の上に乗っているのだが、望む方向にちょっと体を傾けるだけで、男の足がついてくる。そうでないとバランスが崩れてしまうしくみに、システムがなっている」(ベイトソン「精神の生態学・P.186」新思索社)

バリの人々は常に何かを恐れている。ベイトソンもバリの人々の日常生活の中で特徴的に見られる不安感情について盛んに触れている。隣人に襲いかかった破局がいつどんな形で次は自分とその家族、大事な人、大切な人に襲いかかるかわからない、ということをいつも意識していることから到来する不安だろうとベイトソンはいうのだが。果たしてそれだけだろうか。またバリのあちこちで見られる芸術(彫刻)についてもこう記している。

「われわれが収集した千二百体の彫刻のうち、バランスへのこだわりを示しているものが、大きな役割を占めている」(ベイトソン「精神の生態学・P.188」新思索社)

さらに資本主義導入以来、かつてバリ島に実在した不安感情は消えてなくなったか。そうではなく、むしろ増大した。しかしバリの人々は不安の増大にもかかわらずむしろそれをがむしゃらに打ち消すかのようにより一層深く資本主義にのめり込んでいく。のめり込めばのめり込むほど日常生活は加速的に不安定化する。アルトーがバリ島の演劇に見出したものは何なのだろう。

「関節の戯れ、腕が前腕に対してなす音楽的角度、下に落ちる足、弓なりになる膝、手からはずれるように見える指、そういったすべてがわれわれにとって永遠の鏡の戯れのようなものであり、そこでは人間の手足が谺や音楽を自分に送り返すように見える」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.88~89』河出文庫)

アルトーが取り出している言葉。「音楽的」、「角度」、「下に落ちる」、「弓なりになる」、「手からはずれる」、等々。先に述べられた「細心さと意識でもって調整されたこのスペクタクル」ということ。バリ島演劇に顕著な「このスペクタクル」は極めて機械的だという点に注目しなければならない。機械的というのは西洋で機械的というときの機械性ではない。西洋の宗教儀式の際に実際に行われる機械的な身振りや仕草の反復と比較するとなるほど機械的に見える。しかし内容という点で根本的に異なる《他者》によって行なわれ反復される機械性である。機械的という言葉だけが同じであって、内容はまるでちがう。

「バリ島の宗教を調査すれば、その外観は(ひざまづいて祈り、香を焚き、吟唄の合間に鐘の音をさしはさむなど)われわれのとよく似ているのに、儀式に臨む感情のあり方は根本から違っていることが見て取れる。キリスト教では、宗教儀式にしかるべき感情をもって臨むことが重要視されるのに対し、バリでは、あらかじめ決まった行為を機械的に、感情を交えずとり行なうのがよいとされる」(ベイトソン「精神の生態学・P.240」新思索社)

ベイトソン自身がよく考えた上で述べている「感情を交えず」というフレーズ。バリ島演劇の熱狂性に熱狂するアルトー。しかしベイトソンの目には演劇に限らずバリ島の宗教的儀式的な行為からは一切の感情が失われて始めて「よい」とされる制度が重要な点として見えている。極めてシステマティックで強固に形式化された演劇ならびに儀式。にもかかわらずそこには西洋演劇からはとうの昔に排除された無類の熱狂がある。単純化していえば、そこには儀式化されたトランス状態が発生しているということができる。

アルトーとベイトソンとでは、立っている場所が違うために記述方法が異なってくるわけだが、見ているものは一つの同じ行為であって、同時に二つの別々の行為を見ているわけではない。そしてこのことは、紀元前から連綿と受け継がれてきた歴史以前的舞踏が、ダンスが、古代ギリシアに忽然と出現したアジアから来た神ディオニュソス信仰が、かつてのバリには生き残っていたということをまざまざと物語っている。またなぜ「しばしば崩れるバランス」を固定させ「安定させるシステム」が選択されたのでなく、逆に「バランスが崩れるシステム」を日常的に前提した上でそれを《儀式や演劇の上演において》その都度「調整するシステム」が採用されたのか。欧米の合理性から見れば二度手間に映って見えるものも、バリの人々の伝統では抜き差しならぬ必要不可欠な装置として考えられている。人間《が》バランス感覚を重視しているというわけではなく、人間《に》そう仕向ける力の働きが重要視されているということ。ニーチェのいう「人間はいつも全宇宙の実在と共演している」という言葉がそこでは実践において反復されている。

「楽団の音や、管楽器の息吹はやかましい鳥小屋の観念を喚起し、俳優たち自身はそのきらめきであるのだろう」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.89』河出文庫)

その「きらめき」としての「俳優たち」。各瞬間ごとに俳優たちはそれぞれ「稲妻/閃光」としてしか存在しない。俳優がいてそれが「きらめく」わけではない。事情はこうだ。

「あたかも一般人が稲妻をその閃きから引き離し、閃きを稲妻と呼ばれる一つの主体の《作用》と考え、活動と考えるのと同じく、民衆道徳もまた強さを強さの現われから分離して、《自由に》強さを現わしたり現わさなかったりする無記な基体が強者の背後に存在しでもするかのように考えるのだ。しかしそういう基体はどこにも存在しない。作用・活動・生成の背後には何らの『存在』もない。『作用者』とは、単に想像によって作用に附け加えられたものにすぎないーーー作用が一切なのだ。実際を言えば、一般人は稲妻をして閃めかしめるが、これは作用を重複させるのだ。それは作用=作用とも言うべきものであって、同一の事象をまず原因として立て、次にもう一度それの結果として立てるのだ。自然科学者たちは、『力は動かす、力は原因になる』などと言うが、これもより勝れた言い表わしではない。ーーーあらゆる彼らの冷静さ、感情からの自由にも拘らず、現今の科学全体はなお言語の誘惑に引きずられており、『主体』という魔の取り換え児の迷信から脱却していない」(ニーチェ「道徳の系譜・P.47~48」岩波文庫)

さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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