ジュネが「ドラマのシステム」と呼ぶもの。ステレオタイプ(固定観念、常套句、お約束的ストーリー)的なもの。その慣習化に伴う既成事実路線に従って整えられる舞台装置。
「計画されたそれぞれの殺人を司っているのは、予備のしきたりと、つねに、後からは、贖罪のしきたりである。両者の意味は殺人者の意識にはのぼらない。すべては整えられている。彼女にはちょうど火刑裁判所に出廷する時間がある。彼女は引き金を引いた」(ジュネ「花のノートルダム・P.28」河出文庫)
ドラマのシステムが立ち働いている社会の中では必ず習慣がもたらす悲劇あるいは悲喜劇が例外なく発生する。繰り返し反復されることでパターン化しステレオタイプ化し慣習化してしまった悲劇の濫用。古代ギリシア悲劇はこうではなかった。何がこうも容易に濫用され落ちるところまで価値下落しそれでもなおドラマ作りのための舞台装置は休みなく創設されようとしてばかりで止まることを知らないのか。ところでしかし、逆説的だが、近現代以降のドラマの視聴者は本当に悲劇あるいは悲喜劇を見たい聴きたいと思っているのでは《ない》。悲劇かどうかが問題ではまったく《ない》。逆に悲劇あるいは悲喜劇に触れるやいなやそれに伴って全身を駆け抜ける快楽の反復を《欲する》。視聴者は「悲劇への意志」ではなく「快楽反復への意志」として情動化している。そしてもし視聴対象から一定あるいは一定以上の快楽を得られたと感じた場合に限り、自分が視聴しているものは悲劇あるいは悲喜劇であると、後になって、あくまで事後的に承認する。あるいは絶賛する。時系列的には転倒している。快楽の享受とその承認以前にはどんな悲劇、喜劇、悲喜劇も存在しない。たとえばネットゲーム。勝利することが目的とされているが実状はそうでない。勝利にともなって湧き溢れる快楽の感じ、「増大する力の感じ」で満たされる全身、それを得るために勝利するのであって、それを得るために勝利しなければならず、さらにそれを何度も繰り返し反復して「増大する力の感じ」を保っておかないと不安におちいるため、そうする。ただそれだけのことだ。
しかしただそれだけのことでしかないにもかかわらず、人間の脳は快楽を繰り返し反復させようと脳自体の作用機序を脳自体が変形させる。依存症発症過程の決定的転回点はどこにあるか。それは人間の脳が或る種の快楽を繰り返し反復しなければならないというシグナルを脳自身の作用機序に従って創設し、脳が脳自身によって脳機能を《書き換え》てしまうやいなやたちまち発生する。しかしギャンブルにしてもネットゲームにしてもアルコールや薬物のように直接身体に摂取していないではないかという問いが発生する。ところがギャンブルにしてもネットゲームにしてもその興奮過程においてドーパミンを始めとする様々な物質が全身を駆け巡るようにできている。
人間は普段であれば、何か差し迫った危険に追い詰められたときドーパミンを分泌する。ドーパミンはただちにノルアドレナリンへ変化しノルアドレナリンはアドレナリンへ変化し人間の身体を極めて高度な緊張感で一杯に漲らせる。それはそのような危険な状態に置かれたときにのみ作動する身体の変容であり、もともと人間の身体に備わっている動作である。アルコールや薬物を直接摂取しなくても外部からの刺激の種類によって、なおかつ刺激の種類に即して、身体は様々な物質を分泌するようにできている。ギャンブルにせよネットゲームにせよ、なるほど外部からは何らの脳内伝達物質も摂取されてはいない。ところが逆に外部刺激によってもともと内部で発生する種々の脳内伝達物質が生産され、その反復が依存症発症を加速させるわけである。もちろん脳機能の変化は脳の形態をも変化させる。アルコールや薬物の場合、CTスキャンを見れば脳の一部が破壊され変形も顕著であるため、一目瞭然、そこに水が溜まって黒く写っている部分を見つけることができる。さらに脳機能の損傷は人格を変化させる。「別人のようだ」という表現があるけれども、それどころかまるで「別人」になってしまっていることも稀ではない。その点で自然と人間とは大いに異なる。
「自然は何も欲しないが、しかし自然はつねに何かを達成する。ーーー《私たちは》何かを欲して、《つねに何か別のものを達成する》」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七二五・P.356」ちくま学芸文庫)
エルスティーヌが放った弾丸は部屋のあちこちにぶち当たって散乱した。子どもは死なずに済んだ。キュラフロワ(彼)は生き残り、パリでディヴィーヌ(彼女)として変身する過程が開かれた。
二〇年後、ミニョンはディヴィーヌのことを思い返す。ディヴィーヌは、したがってその母エルスティーヌの狂態もまた、「美しかった」。二人とも美女だった。美の前でミニョンは自分の美男子ぶりが脅威にさらされていると感じる。
「ミニョンはこんな風に悲劇に酔い痴れた彼女を見た。彼は気おくれした、というのも彼女は美しく、狂っているように見えたからだが、どちらかといえば彼女が美しかったからである。彼自身美男だったのに、彼女を恐る必要がどこにあったのだろうか?」(ジュネ「花のノートルダム・P.29」河出文庫)
人間は「美しい」ものを見ると、その瞬間、何か「普通でない」閃光に出くわしたと感じるものだが、それはあらかじめ予告されていない不意打ちという形を取って出現すると、とつぜん狂気に襲われでもしたかのようにありもしない「つっかい棒」を手探りする。身振り仕ぐさを用いて何か「これ」といったものを見つけようと立ち振る舞う。なぜそうするのだろう。目に見える身振り仕ぐさでなくても頭の中で何か「これ」といった根拠を得ようとすべての記憶を動員して原因を究明しようとする。が、そんなものはどこにも見あたらない。予告された美は不意打ちにならないしなれない。あらゆる予告は不意打ちとしての美から美の諸要素を必ず幾分か損なう。逆に予告以上の動揺を受けたとき、そのとき突然到来する不意打ちはあらゆる予告にもかかわらず、すべての予想を裏切って、予告されていたどんな予想も叩き潰してしまわずにはおかない。しかし閃光には何か確固として主体があり、その主体が何か閃光のようなものを発するという作用機序を持つわけではない。閃光という主体は存在しない。閃光は閃光としてしか捉えることができない。
「あたかも一般人が稲妻をその閃きから引き離し、閃きを稲妻と呼ばれる一つの主体の《作用》と考え、活動と考えるのと同じく、民衆道徳もまた強さを強さの現われから分離して、《自由に》強さを現わしたり現わさなかったりする無記な基体が強者の背後に存在しでもするかのように考えるのだ。しかしそういう基体はどこにも存在しない。作用・活動・生成の背後には何らの『存在』もない。『作用者』とは、単に想像によって作用に附け加えられたものにすぎないーーー作用が一切なのだ。実際を言えば、一般人は稲妻をして閃めかしめるが、これは作用を重複させるのだ。それは作用=作用とも言うべきものであって、同一の事象をまず原因として立て、次にもう一度それの結果として立てるのだ。自然科学者たちは、『力は動かす、力は原因になる』などと言うが、これもより勝れた言い表わしではない。ーーーあらゆる彼らの冷静さ、感情からの自由にも拘らず、現今の科学全体はなお言語の誘惑に引きずられており、『主体』という魔の取り換え児の迷信から脱却していない」(ニーチェ「道徳の系譜・P.47~48」岩波文庫)
閃光《としての》美もまたそうだ。あらかじめ準備された美女がそこらへんの道端で待機しているわけではない。或る人間の動作がそれを取り巻くすべての条件によってたまたま偶然的に整えられた瞬間、その《身体において》美という閃光としてそう見える。そしてそう見えた瞬間、逆に或る人間が美しい閃光として見えるという転倒した現象が起こる、という事情でなくてはならない。目に見えたときすでに事態は転倒した後なのだ。次の文章はジュネ作品の中でしばしば出てくる人間同士の相関関係の鏡のような変容について。力の自在な流動性については作品「葬儀」の中で、またとりわけ「ブレストの乱暴者」の中で、たびたび触れた。
「私は、美しくて、自分たちがそうであることを知っている存在たちの秘密の関係について、あまりにもわずかなことしか(何も)知らないのだ。美少年たちの、友好的に見えているが、しかし恐らくは憎しみに満ちた接触については何ひとつ」(ジュネ「花のノートルダム・P.29」河出文庫)
小説に目を通す場合、「知らない」ということには有り余るほどの魅力があるけれども、なぜなのかということも合わせて考えていきたいとおもう。
ーーーーー
さて、アルトー。バリ島演劇の破壊力について語るアルトー。しかしそれが破壊力を持って見えるのはアルトーが近代欧米の目でしか事物を捉えることしかできないという文化的差異による壁がそそり立っている限りにおいてである。
「戦士たちは恐怖の轟音とともに心の森へと入っていく、とてつもない戦き、磁気を帯びたかのような分厚い回転が彼らをとらえ、動物や鉱物の流星がなだれ込むのを感じる」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.109』河出文庫)
世界はインターネットによって制覇された。ネット社会を作ったのは人間である。もっとも、始めは人間がネットを利用した。次第に人間はネットなしに暮らしていけなくなってきた。今やネットの側が人間を利用しネットに依存することなしには何もできないような社会を打ち立てた。この流れは不可逆的でありもはや元に戻すことはできない。溶け始めた北極圏の氷を以前と同じように復元することはできない。そこでもし、今の悪循環を作ったのは大人のやったことだと喚き散らして、もう一度、今度は子どもの目線に合わせて再構築することが許されるとしよう。ところがそれはどのような結果を生むだろうか。
「たとえば為政者が、心の描く理想社会の実現を目指し、その妨げとなるような傾向を一掃するために、子供たちを仕込んで親の行動を見張らせたとしたら、事態はどのように進んでしまうだろう。その子たちは人間であるために、教えられたふるまいを身につけるだけで終わりはしない。その経験の上に立って、世の中に対する構えの全体を築いていくはずである。権力からそのように使われたという経験が、その後の生きる姿勢にことごとくはね返ってくるのだ。人間は、自分が遭遇した状況を、それ以前に慣れ親しんでいるパターンにしたがって構造づける。そしてそれを習慣化していく。子供たちを道具として使うやり方は、はじめのうちはその目的を果たしたとしても、結局、その子たちの心の中に不都合なプロセスを引き起こすことで挫折に終わる公算が高い」(ベイトソン「精神の生態学・P.243~244」新思索社)
一九四一年アメリカで発表された論文の一部である。日本が米国に宣戦布告した太平洋戦争勃発の年に当たるが、欧米の専門家らは第二次世界大戦後の世界を見据えた上ですでにそのような逆説発生の不可避性について知っていた。だがまだその時点で逆説的に働くはずのパターンが妥当しない事例としてナチスドイツの生成過程が上げられている。無限に多様な諸条件(政治的、経済的、地理的、等々)があのような事態を結果したと述べるのはたやすい。ただ、通常なら出現するはずのパターンが妥当しなかった例として、なぜナチスには妥当しなかったのかについて、後にドゥルーズとガタリはこう述べている。
「奇妙なことに、自分たちが何をもたらすのか、ナチスは最初からドイツ国民に告げていた。祝宴と死をもたらすというのだ。しかもこの死には、ナチス自身の死も、国民の死も含まれている。ナチスは、自分たちは滅びるだろうと考えていた。しかし、どのみち自分たちの企てはくりかえされ、全ヨーロッパ、全世界、全惑星におよぶだろうとも考えていた。人々は歓呼の声をあげた。理解できなかったからではなく、他人の死をともなうこの死を欲していたからである。これは、一回ごとにすべてを疑問に付し、自分の死とひきかえに他人の死に賭ける、そしてすべてを『破壊測定器』によって計測しようとする意志である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.141~142」河出文庫)
ところで、ナチス党にイデオロギーと呼ぶに足るような十分な思想内容はあっただろうか。もし確固たるイデオロギーが一貫して貫徹されていたとしよう。とすればベイトソンらの研究通りにナチスドイツも例外なく途中で逆説におちいっていたのは明らかである。しかしそうはならなかった。というのも問題はイデオロギーではないからだ。では何がナチスドイツを駆り立てたのか。戦時用語である。「死に栄光あれ!」。日本の戦時用語「死して護国の鬼となれ」もそれに近い。ただ単に死んで終わり、ではなく、死んでなお何度も繰り返し戦場へ舞い戻ってきて国家のために死を反復させるところに独創性があるとジュネには思えた。ゆえにパリで小説執筆に打ち込んでいた一人の「泥棒、裏切り者、性倒錯者」でしかなかった頃のジュネの目に止まった。作品「葬儀」はドイツ軍占領下のフランスを舞台としているにもかかわらず、そのラストを飾る言葉としてはドイツの戦時用語ではなく日本の戦時用語「死して護国の鬼となれ」が引用されるに至った。ヒットラーを演じるヒットラーは西部戦線の戦況悪化と同時に考える。政治の美学化は美としての自己破壊を正当化する。ゆえにもし連合軍がパリを奪還しドイツがパリを引き渡すことになるのなら、そのときパリは廃墟として引き渡されねばならないと電信を打っている。ヨーロッパの美の殿堂たるパリにとって廃虚化こそが、廃墟と化して死臭でむせ返る黄金色の落日だけが美と呼ぶにふさわしい。イデオロギー以下のキャッチコピーが、あるいはどこにでもあるような言語の組み合わせが、諸外国の緻密なイデオロギーに支えられた戦争を遥かに凌駕する破局的惨事を欧州全土にもたらした。
バリ島演劇に戻ろう。
「それは物理的な嵐以上のものであり、精神の粉砕であるが、彼らの手足と彼らの転がる目玉の散乱する震えがそれを意味している。かれらの逆立った頭の音響的周波数は時おり恐るべきものである」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.109』河出文庫)
注目すべきは「音響的周波数」として捉えることができるというアルトーの言葉だろう。どんな音響なのか。音楽の研究は電子音楽や実験音楽の研究を通して世界各地でなされている。以前述べたように、そもそも統合失調症者の幻覚に関する研究から、その一部分の研究室内でほんのたまたまLSDは発見された。ところがLSDが精神にもたらす作用が統合失調症者の幻覚と一致するかというとほとんどの場合、そうではない。病者の見る幻覚は余りの多様性に満ちているからである。そして病者の幻覚/幻聴がなぜ病者にとって苦痛なのか。それは幻覚/幻聴がたいへん苦痛や苦悶に満ちたものだからであって、LSDのような多幸感を催すものではけっしてないからである。その意味でLSDは失敗だった。しかしLSDのもたらす精神状態を音楽を用いた別の方法で再現することは可能になりつつある。音楽にはまだまだ未知の世界が開かれているといえる。また、そのような特異的精神状態をもたらす物質は色々とあり医学的分野ではその特定と応用も進んでいるのだが、接種するものが薬物の場合、一般的には「副作用」と呼ばれる症状、俗に「バッド・トリップ」はつねに発生の余地を持つ。ところがバリ島演劇研究の中でアルトーがバッドトリップしてしまい、繰り返し襲いかかる悪夢と何度もこみ上げてくる嘔吐や糞便にまみれ果てるということはない。古来から伝承されてきた儀式を、遊びではなく、その儀式性が有する尊厳に則って正確に反復するかぎりでのみ、演劇を演じる俳優は不自然にではなくニーチェのいうように「宇宙の全実存と共演」することができるのであろう。
ふだん人間は自然との絶え間ない新陳代謝の中にいる。けれども近代以降の社会ではどのように振る舞うとしても直接的に自然と交感することはできない。できると主張する人間はいるが、そのような場合はただ単なるカルトに過ぎない。自然との直接性はすでに失われてしまっているからだ。失われてしまっていてすでに《ない》からこそ逆に《ある》と称するカルト教団が発生してきたのであってその逆ではない。だからもし自然との直接的新陳代謝を目指すというのであれば、仕方なくではあるものの何らかの薬物を介入させなければ不可能である。そしてそれができたとしても本当にそれは直接的なのかどうかを証明することはできない。この実験的作業を延々続けていくことは可能だが、それは証明の証明の証明のーーーというふうにいつまで経ってもきりのない計算問題を生じさせるばかりだ。メタレベルのメタレベルのメタレベルのーーーと、どこまで行っても終わらない。終わる必要はないと乱暴に決めてかかることもまたできない。もし本当に終わらない場合、実験台になった人間はおそらく永遠に元の状態に戻ることができなくなる恐れがあるからである。それではただ単なる無責任なだけであって少なくとも医療とはいえない。だが問題はなぜ、資本主義上陸以前のバリ島演劇にはバッドトリップという概念がなく、むしろ自然と人間との区別を消去すること、「無意識のまま魔力のまっただなかを通り過ぎ」つつ、身体がそのような身振り仕ぐさを取って過酷な状況のただなかを通り過ぎているということさえ「まったくわかっていない」でいられたのか、という問題は検討に値するだろう。
「そしてすさまじい宇宙嵐によって逆毛立った戦士の背後に『分身』がいて、それは子供じみた嘲笑の他愛なさへ委ねられて胸をそらし、ざわめく嵐の余波を受けてもち上げられ、無意識のまま魔力のまっただなかを通り過ぎるのだが、彼にはその魔力がまったくわかっていないのである」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.109』河出文庫)
ただ思うのは、「トランス状態」という言葉は同じでも資本主義上陸以前と以後とでは「トランス状態」そのものの内容が大きく変化したのかもしれないということである。人間身体は実に器用に変化するものなのだから。
「人間身体はきわめて多くのことに有能である。ーーー人生において、我々は特に、幼児期の身体を、その本性の許す限りまたその本性に役立つ限り、他の身体に変化させるように努める。すなわちきわめて多くのことに有能な身体、そして自己・神および物について最も多くを意識するような精神に関係する身体、に変化させるよう努める」(スピノザ「エチカ・第五部・定理三九・備考・P.133」岩波文庫)
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM
「計画されたそれぞれの殺人を司っているのは、予備のしきたりと、つねに、後からは、贖罪のしきたりである。両者の意味は殺人者の意識にはのぼらない。すべては整えられている。彼女にはちょうど火刑裁判所に出廷する時間がある。彼女は引き金を引いた」(ジュネ「花のノートルダム・P.28」河出文庫)
ドラマのシステムが立ち働いている社会の中では必ず習慣がもたらす悲劇あるいは悲喜劇が例外なく発生する。繰り返し反復されることでパターン化しステレオタイプ化し慣習化してしまった悲劇の濫用。古代ギリシア悲劇はこうではなかった。何がこうも容易に濫用され落ちるところまで価値下落しそれでもなおドラマ作りのための舞台装置は休みなく創設されようとしてばかりで止まることを知らないのか。ところでしかし、逆説的だが、近現代以降のドラマの視聴者は本当に悲劇あるいは悲喜劇を見たい聴きたいと思っているのでは《ない》。悲劇かどうかが問題ではまったく《ない》。逆に悲劇あるいは悲喜劇に触れるやいなやそれに伴って全身を駆け抜ける快楽の反復を《欲する》。視聴者は「悲劇への意志」ではなく「快楽反復への意志」として情動化している。そしてもし視聴対象から一定あるいは一定以上の快楽を得られたと感じた場合に限り、自分が視聴しているものは悲劇あるいは悲喜劇であると、後になって、あくまで事後的に承認する。あるいは絶賛する。時系列的には転倒している。快楽の享受とその承認以前にはどんな悲劇、喜劇、悲喜劇も存在しない。たとえばネットゲーム。勝利することが目的とされているが実状はそうでない。勝利にともなって湧き溢れる快楽の感じ、「増大する力の感じ」で満たされる全身、それを得るために勝利するのであって、それを得るために勝利しなければならず、さらにそれを何度も繰り返し反復して「増大する力の感じ」を保っておかないと不安におちいるため、そうする。ただそれだけのことだ。
しかしただそれだけのことでしかないにもかかわらず、人間の脳は快楽を繰り返し反復させようと脳自体の作用機序を脳自体が変形させる。依存症発症過程の決定的転回点はどこにあるか。それは人間の脳が或る種の快楽を繰り返し反復しなければならないというシグナルを脳自身の作用機序に従って創設し、脳が脳自身によって脳機能を《書き換え》てしまうやいなやたちまち発生する。しかしギャンブルにしてもネットゲームにしてもアルコールや薬物のように直接身体に摂取していないではないかという問いが発生する。ところがギャンブルにしてもネットゲームにしてもその興奮過程においてドーパミンを始めとする様々な物質が全身を駆け巡るようにできている。
人間は普段であれば、何か差し迫った危険に追い詰められたときドーパミンを分泌する。ドーパミンはただちにノルアドレナリンへ変化しノルアドレナリンはアドレナリンへ変化し人間の身体を極めて高度な緊張感で一杯に漲らせる。それはそのような危険な状態に置かれたときにのみ作動する身体の変容であり、もともと人間の身体に備わっている動作である。アルコールや薬物を直接摂取しなくても外部からの刺激の種類によって、なおかつ刺激の種類に即して、身体は様々な物質を分泌するようにできている。ギャンブルにせよネットゲームにせよ、なるほど外部からは何らの脳内伝達物質も摂取されてはいない。ところが逆に外部刺激によってもともと内部で発生する種々の脳内伝達物質が生産され、その反復が依存症発症を加速させるわけである。もちろん脳機能の変化は脳の形態をも変化させる。アルコールや薬物の場合、CTスキャンを見れば脳の一部が破壊され変形も顕著であるため、一目瞭然、そこに水が溜まって黒く写っている部分を見つけることができる。さらに脳機能の損傷は人格を変化させる。「別人のようだ」という表現があるけれども、それどころかまるで「別人」になってしまっていることも稀ではない。その点で自然と人間とは大いに異なる。
「自然は何も欲しないが、しかし自然はつねに何かを達成する。ーーー《私たちは》何かを欲して、《つねに何か別のものを達成する》」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七二五・P.356」ちくま学芸文庫)
エルスティーヌが放った弾丸は部屋のあちこちにぶち当たって散乱した。子どもは死なずに済んだ。キュラフロワ(彼)は生き残り、パリでディヴィーヌ(彼女)として変身する過程が開かれた。
二〇年後、ミニョンはディヴィーヌのことを思い返す。ディヴィーヌは、したがってその母エルスティーヌの狂態もまた、「美しかった」。二人とも美女だった。美の前でミニョンは自分の美男子ぶりが脅威にさらされていると感じる。
「ミニョンはこんな風に悲劇に酔い痴れた彼女を見た。彼は気おくれした、というのも彼女は美しく、狂っているように見えたからだが、どちらかといえば彼女が美しかったからである。彼自身美男だったのに、彼女を恐る必要がどこにあったのだろうか?」(ジュネ「花のノートルダム・P.29」河出文庫)
人間は「美しい」ものを見ると、その瞬間、何か「普通でない」閃光に出くわしたと感じるものだが、それはあらかじめ予告されていない不意打ちという形を取って出現すると、とつぜん狂気に襲われでもしたかのようにありもしない「つっかい棒」を手探りする。身振り仕ぐさを用いて何か「これ」といったものを見つけようと立ち振る舞う。なぜそうするのだろう。目に見える身振り仕ぐさでなくても頭の中で何か「これ」といった根拠を得ようとすべての記憶を動員して原因を究明しようとする。が、そんなものはどこにも見あたらない。予告された美は不意打ちにならないしなれない。あらゆる予告は不意打ちとしての美から美の諸要素を必ず幾分か損なう。逆に予告以上の動揺を受けたとき、そのとき突然到来する不意打ちはあらゆる予告にもかかわらず、すべての予想を裏切って、予告されていたどんな予想も叩き潰してしまわずにはおかない。しかし閃光には何か確固として主体があり、その主体が何か閃光のようなものを発するという作用機序を持つわけではない。閃光という主体は存在しない。閃光は閃光としてしか捉えることができない。
「あたかも一般人が稲妻をその閃きから引き離し、閃きを稲妻と呼ばれる一つの主体の《作用》と考え、活動と考えるのと同じく、民衆道徳もまた強さを強さの現われから分離して、《自由に》強さを現わしたり現わさなかったりする無記な基体が強者の背後に存在しでもするかのように考えるのだ。しかしそういう基体はどこにも存在しない。作用・活動・生成の背後には何らの『存在』もない。『作用者』とは、単に想像によって作用に附け加えられたものにすぎないーーー作用が一切なのだ。実際を言えば、一般人は稲妻をして閃めかしめるが、これは作用を重複させるのだ。それは作用=作用とも言うべきものであって、同一の事象をまず原因として立て、次にもう一度それの結果として立てるのだ。自然科学者たちは、『力は動かす、力は原因になる』などと言うが、これもより勝れた言い表わしではない。ーーーあらゆる彼らの冷静さ、感情からの自由にも拘らず、現今の科学全体はなお言語の誘惑に引きずられており、『主体』という魔の取り換え児の迷信から脱却していない」(ニーチェ「道徳の系譜・P.47~48」岩波文庫)
閃光《としての》美もまたそうだ。あらかじめ準備された美女がそこらへんの道端で待機しているわけではない。或る人間の動作がそれを取り巻くすべての条件によってたまたま偶然的に整えられた瞬間、その《身体において》美という閃光としてそう見える。そしてそう見えた瞬間、逆に或る人間が美しい閃光として見えるという転倒した現象が起こる、という事情でなくてはならない。目に見えたときすでに事態は転倒した後なのだ。次の文章はジュネ作品の中でしばしば出てくる人間同士の相関関係の鏡のような変容について。力の自在な流動性については作品「葬儀」の中で、またとりわけ「ブレストの乱暴者」の中で、たびたび触れた。
「私は、美しくて、自分たちがそうであることを知っている存在たちの秘密の関係について、あまりにもわずかなことしか(何も)知らないのだ。美少年たちの、友好的に見えているが、しかし恐らくは憎しみに満ちた接触については何ひとつ」(ジュネ「花のノートルダム・P.29」河出文庫)
小説に目を通す場合、「知らない」ということには有り余るほどの魅力があるけれども、なぜなのかということも合わせて考えていきたいとおもう。
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さて、アルトー。バリ島演劇の破壊力について語るアルトー。しかしそれが破壊力を持って見えるのはアルトーが近代欧米の目でしか事物を捉えることしかできないという文化的差異による壁がそそり立っている限りにおいてである。
「戦士たちは恐怖の轟音とともに心の森へと入っていく、とてつもない戦き、磁気を帯びたかのような分厚い回転が彼らをとらえ、動物や鉱物の流星がなだれ込むのを感じる」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.109』河出文庫)
世界はインターネットによって制覇された。ネット社会を作ったのは人間である。もっとも、始めは人間がネットを利用した。次第に人間はネットなしに暮らしていけなくなってきた。今やネットの側が人間を利用しネットに依存することなしには何もできないような社会を打ち立てた。この流れは不可逆的でありもはや元に戻すことはできない。溶け始めた北極圏の氷を以前と同じように復元することはできない。そこでもし、今の悪循環を作ったのは大人のやったことだと喚き散らして、もう一度、今度は子どもの目線に合わせて再構築することが許されるとしよう。ところがそれはどのような結果を生むだろうか。
「たとえば為政者が、心の描く理想社会の実現を目指し、その妨げとなるような傾向を一掃するために、子供たちを仕込んで親の行動を見張らせたとしたら、事態はどのように進んでしまうだろう。その子たちは人間であるために、教えられたふるまいを身につけるだけで終わりはしない。その経験の上に立って、世の中に対する構えの全体を築いていくはずである。権力からそのように使われたという経験が、その後の生きる姿勢にことごとくはね返ってくるのだ。人間は、自分が遭遇した状況を、それ以前に慣れ親しんでいるパターンにしたがって構造づける。そしてそれを習慣化していく。子供たちを道具として使うやり方は、はじめのうちはその目的を果たしたとしても、結局、その子たちの心の中に不都合なプロセスを引き起こすことで挫折に終わる公算が高い」(ベイトソン「精神の生態学・P.243~244」新思索社)
一九四一年アメリカで発表された論文の一部である。日本が米国に宣戦布告した太平洋戦争勃発の年に当たるが、欧米の専門家らは第二次世界大戦後の世界を見据えた上ですでにそのような逆説発生の不可避性について知っていた。だがまだその時点で逆説的に働くはずのパターンが妥当しない事例としてナチスドイツの生成過程が上げられている。無限に多様な諸条件(政治的、経済的、地理的、等々)があのような事態を結果したと述べるのはたやすい。ただ、通常なら出現するはずのパターンが妥当しなかった例として、なぜナチスには妥当しなかったのかについて、後にドゥルーズとガタリはこう述べている。
「奇妙なことに、自分たちが何をもたらすのか、ナチスは最初からドイツ国民に告げていた。祝宴と死をもたらすというのだ。しかもこの死には、ナチス自身の死も、国民の死も含まれている。ナチスは、自分たちは滅びるだろうと考えていた。しかし、どのみち自分たちの企てはくりかえされ、全ヨーロッパ、全世界、全惑星におよぶだろうとも考えていた。人々は歓呼の声をあげた。理解できなかったからではなく、他人の死をともなうこの死を欲していたからである。これは、一回ごとにすべてを疑問に付し、自分の死とひきかえに他人の死に賭ける、そしてすべてを『破壊測定器』によって計測しようとする意志である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.141~142」河出文庫)
ところで、ナチス党にイデオロギーと呼ぶに足るような十分な思想内容はあっただろうか。もし確固たるイデオロギーが一貫して貫徹されていたとしよう。とすればベイトソンらの研究通りにナチスドイツも例外なく途中で逆説におちいっていたのは明らかである。しかしそうはならなかった。というのも問題はイデオロギーではないからだ。では何がナチスドイツを駆り立てたのか。戦時用語である。「死に栄光あれ!」。日本の戦時用語「死して護国の鬼となれ」もそれに近い。ただ単に死んで終わり、ではなく、死んでなお何度も繰り返し戦場へ舞い戻ってきて国家のために死を反復させるところに独創性があるとジュネには思えた。ゆえにパリで小説執筆に打ち込んでいた一人の「泥棒、裏切り者、性倒錯者」でしかなかった頃のジュネの目に止まった。作品「葬儀」はドイツ軍占領下のフランスを舞台としているにもかかわらず、そのラストを飾る言葉としてはドイツの戦時用語ではなく日本の戦時用語「死して護国の鬼となれ」が引用されるに至った。ヒットラーを演じるヒットラーは西部戦線の戦況悪化と同時に考える。政治の美学化は美としての自己破壊を正当化する。ゆえにもし連合軍がパリを奪還しドイツがパリを引き渡すことになるのなら、そのときパリは廃墟として引き渡されねばならないと電信を打っている。ヨーロッパの美の殿堂たるパリにとって廃虚化こそが、廃墟と化して死臭でむせ返る黄金色の落日だけが美と呼ぶにふさわしい。イデオロギー以下のキャッチコピーが、あるいはどこにでもあるような言語の組み合わせが、諸外国の緻密なイデオロギーに支えられた戦争を遥かに凌駕する破局的惨事を欧州全土にもたらした。
バリ島演劇に戻ろう。
「それは物理的な嵐以上のものであり、精神の粉砕であるが、彼らの手足と彼らの転がる目玉の散乱する震えがそれを意味している。かれらの逆立った頭の音響的周波数は時おり恐るべきものである」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.109』河出文庫)
注目すべきは「音響的周波数」として捉えることができるというアルトーの言葉だろう。どんな音響なのか。音楽の研究は電子音楽や実験音楽の研究を通して世界各地でなされている。以前述べたように、そもそも統合失調症者の幻覚に関する研究から、その一部分の研究室内でほんのたまたまLSDは発見された。ところがLSDが精神にもたらす作用が統合失調症者の幻覚と一致するかというとほとんどの場合、そうではない。病者の見る幻覚は余りの多様性に満ちているからである。そして病者の幻覚/幻聴がなぜ病者にとって苦痛なのか。それは幻覚/幻聴がたいへん苦痛や苦悶に満ちたものだからであって、LSDのような多幸感を催すものではけっしてないからである。その意味でLSDは失敗だった。しかしLSDのもたらす精神状態を音楽を用いた別の方法で再現することは可能になりつつある。音楽にはまだまだ未知の世界が開かれているといえる。また、そのような特異的精神状態をもたらす物質は色々とあり医学的分野ではその特定と応用も進んでいるのだが、接種するものが薬物の場合、一般的には「副作用」と呼ばれる症状、俗に「バッド・トリップ」はつねに発生の余地を持つ。ところがバリ島演劇研究の中でアルトーがバッドトリップしてしまい、繰り返し襲いかかる悪夢と何度もこみ上げてくる嘔吐や糞便にまみれ果てるということはない。古来から伝承されてきた儀式を、遊びではなく、その儀式性が有する尊厳に則って正確に反復するかぎりでのみ、演劇を演じる俳優は不自然にではなくニーチェのいうように「宇宙の全実存と共演」することができるのであろう。
ふだん人間は自然との絶え間ない新陳代謝の中にいる。けれども近代以降の社会ではどのように振る舞うとしても直接的に自然と交感することはできない。できると主張する人間はいるが、そのような場合はただ単なるカルトに過ぎない。自然との直接性はすでに失われてしまっているからだ。失われてしまっていてすでに《ない》からこそ逆に《ある》と称するカルト教団が発生してきたのであってその逆ではない。だからもし自然との直接的新陳代謝を目指すというのであれば、仕方なくではあるものの何らかの薬物を介入させなければ不可能である。そしてそれができたとしても本当にそれは直接的なのかどうかを証明することはできない。この実験的作業を延々続けていくことは可能だが、それは証明の証明の証明のーーーというふうにいつまで経ってもきりのない計算問題を生じさせるばかりだ。メタレベルのメタレベルのメタレベルのーーーと、どこまで行っても終わらない。終わる必要はないと乱暴に決めてかかることもまたできない。もし本当に終わらない場合、実験台になった人間はおそらく永遠に元の状態に戻ることができなくなる恐れがあるからである。それではただ単なる無責任なだけであって少なくとも医療とはいえない。だが問題はなぜ、資本主義上陸以前のバリ島演劇にはバッドトリップという概念がなく、むしろ自然と人間との区別を消去すること、「無意識のまま魔力のまっただなかを通り過ぎ」つつ、身体がそのような身振り仕ぐさを取って過酷な状況のただなかを通り過ぎているということさえ「まったくわかっていない」でいられたのか、という問題は検討に値するだろう。
「そしてすさまじい宇宙嵐によって逆毛立った戦士の背後に『分身』がいて、それは子供じみた嘲笑の他愛なさへ委ねられて胸をそらし、ざわめく嵐の余波を受けてもち上げられ、無意識のまま魔力のまっただなかを通り過ぎるのだが、彼にはその魔力がまったくわかっていないのである」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.109』河出文庫)
ただ思うのは、「トランス状態」という言葉は同じでも資本主義上陸以前と以後とでは「トランス状態」そのものの内容が大きく変化したのかもしれないということである。人間身体は実に器用に変化するものなのだから。
「人間身体はきわめて多くのことに有能である。ーーー人生において、我々は特に、幼児期の身体を、その本性の許す限りまたその本性に役立つ限り、他の身体に変化させるように努める。すなわちきわめて多くのことに有能な身体、そして自己・神および物について最も多くを意識するような精神に関係する身体、に変化させるよう努める」(スピノザ「エチカ・第五部・定理三九・備考・P.133」岩波文庫)
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM