ジュネは感動する。冷淡な認識意志の持ち主であると同時に情動に揺さぶられやすい感性の持ち主でもある。感受性が高いといってしまえばそれだけのことかも知れない。ところが、ただ単に感受性の高い人々であればそこらへんに幾らでもいる。今の日本も例に漏れない。日本では性別や学歴あるいは職業を問わず特に十代に多い。感受性が高過ぎてしばしば精神状態が不安定になり、それが継続的あるいは定期的に反復されるようになれば精神科受診へ向かうことになる。何も世界中でたった一人ジュネだけが突出して感受性が高かったとは単純に言えないのだ。さらに昨今急速な増加傾向を描いているのは、特に感受性が高いというわけではなく、むしろ平均的であるような場合、平均的であるがゆえに生じてくるとしか考えようのない精神不安定状態の多発である。
日本ではかつて、高度経済成長期の終わり頃、思春期心身症という精神的不調を訴える若年者がしばしば出てきた。それは何も感受性の高い低いに関係なく、家庭環境あるいは生育環境の違いに関係なく発症する病気として出現した。主に東京を中心とする首都圏、さらに大阪や福岡といった大都市で多く見られた。地方都市に比べて診療機関が多いため、大都市に限って患者数も多く計算されるだけなのではという見解もできるが、実際はそうではない。精神医療では日本より一歩も二歩も先んじていた欧米諸国の研究発表を考慮に入れると、とりわけ大都市に多いという傾向は弊害というより以上に実態を反映したものであった。その特徴的な症状は思春期にありがちな不安や悩みの次元を越えていて、一般の医療機関では対処不可能と見なされたからこそ精神科受診という事態が生じてきたわけであって、始めから精神科が引き受けることになるとはほとんどの医療機関では想定されていなかった。
一九七〇年代の時点すでに、そのような若年者がおいおい日本でも出現してくるだろうと見越していた医療関係者はほんのごく僅かな一部の精神科医に限られる。しかし病の進行状況は八十年代バブルの狂騒の下へ覆い隠されてしまった。バブル終焉、東西冷戦集結、新自由主義の世界的台頭、長引く不況、そういった報道が流れるようになって或る程度世の中が落ち着きを取り戻したとき、精神医療の現場で一体何が起きていたか、少しずつではあるもののようやく実状が取り上げられるようになった。自殺、依存、鬱病、不登校、DV、解離性障害、過食症、拒食症、ADHD、PTSD、統合失調症者の増大、等々。なお、諸外国では冷戦集結以前からそれら精神疾患に応じた対応のマニュアル化が進められ随時更新されている。というのも、必ずしも善意からそうしているとは限らず、むしろそのように対応マニュアルを随時更新していかないと国家そのものが持たないような危機に瀕しているからである。また日本国内での統合失調症者の増大は早期発見が可能になったことで計測値が上昇したことが上げられる。
けれども、そもそも早期発見できるようになった理由は、日本人特有の偏見に基づく隠蔽体質が徐々に払拭されてきた傾向による部分が大きい。それまでは病者に対する差別的というほかない徹底的な偏見が日本社会の中に充満しており、病者を屋外へ出すことをためらわせる同調圧力が暴力的なまでに働いており、専門医療に繋がったときすでに病状は回復不可能なほど進行し、何も反応せず何も答えず呼吸するほか何も動かないといった廃人状態に達していることが稀ではなかった。少なくとも二〇年〜四十年に達する長期入院を余儀なくされるような症状に立ち至っているケースが大半だった。今はそのような類別には該当せず、逆に幻聴や妄想、無関心、無表情が半年以上続くといった傾向が増えてきているようだ。かつては華々しく出現していた幻覚だが、幻覚は減少し逆に幻聴と妄想が圧倒的に増大しただけでなく全国規模で大量発生したことは注目される。ただ単なる物音が人の声、なかでも自分に対する悪口や陰口になって聞こえてくるばかりかそうとしか聞こえないといった症状が半年から一年半以上、症状が長期化している場合は十年以上続く。幻聴や妄想は長期化しているとかなり有効とされる新型治療薬を五年以上用いてもこれといった改善は見込めない。幻聴や妄想が起こるたびに家族の中の信頼できる人、近い人、親しい人は、その都度、今の音は洗濯機からバケツが落ちた音でとか、小学生らの集団帰宅の声でとか、冷静に説明しなくてはいけない。それで一旦は落ち着くけれども不安は消えることなく再び心底から湧き起こってくる。日々その繰り返しである。長い目で見なくてはいけない。東西冷戦を見てきたように長い目で見守る態度こそが要求される。
個人的に車を運転しないので被害に合ったことはないが、日本のマスコミが盛んに「煽り運転」報道を繰り返すことで、「モリカケ問題」、「桜を見る会問題」、等々、政権与党(自民公明連立政権)に対する野党側の追及を覆い隠す形になっていた時期。「煽り運転」する加害側がなぜ「煽り運転」を何度も繰り返し《反復する》のかほとんど問題にされていなかったことは重要だろうとおもわれる。反復が病的領域に達していると見なされるケースでは、実はPTSDとの関連性が疑われるという点である。PTSDの世間的一般的理解は、ただ単に外傷を受けた場所を避けたり外傷に関連あるいは類似した人物、場所、活動を回避する、またはそれらの想起が不可能になる、といった理解が大半だろうと思われる。消極的で否定的な印象が強い。だが逆に、精神的活動の爆発的覚醒亢進症状が現れることも少なからずある。「(外傷を受ける以前にはなかった)易刺激性または怒りの爆発」、「未来短縮感覚」(仕事、結婚、子供、または通常の人生を期待しない傾向)、「孤立感」。そしてPTSDの被害者の特徴であるが、PTSDを与えた側もその場にいたという事情を考慮すれば次の条件が入ってくる。「反応は強い恐怖、無力感または戦慄に関する」、特に子供の場合は「出来事についての反復」という事項が顕著である(「DSM-4」参照)。年金二〇〇〇万円問題はなるほど問題なのでそれと関連する。PTSD被害者にとっては受動的であり加害者にとっては積極的に出現する「未来短縮感覚」(仕事、結婚、子供、または通常の人生を期待しない傾向)。「通常の人生には期待できない」というレベルを通り越してもはや「通常の人生には期待しない」という顕著な傾向。普段ならささいに思えるようなことであってもいとも容易に爆発的で覚醒的な激怒を生じる傾向。さらに「煽り運転」被害者の記憶に対して決して忘れられないほど徹底的に「強い恐怖、無力感または戦慄」を刻み込み植え付けようと猛進する暴力的言動。このように相手は誰でも構わないが、自分が過去のどこかで受けたような取り返しのつかない強烈な暴力的被害と同じ目に合わしてやりたいという再帰的シーケンスを考えてみると、加害者はもしかしたら過去に何らかのPTSDあるいはそれに相当する逃げ場のない「強い恐怖、無力感または戦慄」体験を持っていたのではという可能性を排除できなくなる。加害者の側に立っていうつもりはまったくない。そうではなく、加害者もまたこの日本社会の中で過去に一度はPTSDに匹敵する被害者であった可能性を排除できないという点が報道の中から排除されてはならないとおもうのである。そうでないと、「煽り運転」がなぜ「《反復》という《再帰的シーケンス》」を特徴とするのか、さっぱりわからないまま置き去りにされてしまいかねないと危惧を覚えるわけだ。
さらに、これから明らかにされるだろう「女性参議院議員ウグイス嬢公選法違反問題」。どこへ行ってしまったのだろうか。マスコミは中国で発生した「新型ウイルス」の話題で持ちきりだ。それはとても大事な話題であり問題であり今後の貴重な研究材料でもある。だからといってすべての日本国民が北方領土や沖縄の米軍基地のことをまるっきり忘れているわけではないのと同様に、「女性参議院議員ウグイス嬢公選法違反問題」も同様に忘れられてしまっているわけではまったくない。むしろ逆に「年金二〇〇〇万円問題」発覚と同時に選挙活動のための金銭の流れに対する有権者の目は途端に厳しさを増した。
そしてなお、二〇二〇年の最先端医療技術を誇る日本の医学界においてさえ、あれほど身近な「摂食障害」(過食症/拒食症)については今なお医師との対話ならびに医薬品頼みなのはどうしてだろう。遺伝子情報の組み換えさえ可能になっているにもかかわらず、さらに人クローンなら法的には違法であっても作ろうとおもえばいつでも作れるにもかかわらず、それよりずっと身近な病気に関してその回復/治療に対する日本政府の意欲は日増しに失われているようにおもえるのはなぜだろうか。たとえば過食症の場合、糖尿病発症の恐れは常にある。災害時、人工透析患者はどこへどのようにしてたどりつけば良いのか。拒食症の場合、事態はますます急を要する。拒食が続くケースでは点滴も選択肢の一つだが患者は点滴のチューブなどいつでも好きなときに抜いてしまう。災害時の避難所ではどのように振る舞えというのか。周囲はどうすればよいのか。資本主義はどのような労働力商品であってもけっして無駄にしてはいけないということを肝に命じている。そのためにわざわざ資本主義みずから公理系を創設した。しかし資本主義みずから創設した公理系としての医療体系であるにもかかわらず有効活用されていないというのなら、資本主義は今の政権運営に見切りを付けるしかない。資本は自己目的なのであって、とうぜん日本だけで動いているわけでは何らなく、労働力商品を死に追いやって剰余価値の獲得を阻止するというのであれば、そのような諸国家の政権運営手法はすべて廃棄される。実際、廃棄されてきた。ソ連のことをもう忘れたのだろうか。それともソ連消滅とともに旧西側陣営は一斉に学ぶことを止めたのだろうか。ちなみにジュネはほぼ始めから世の中を見切っている。
「ある夜明け、私はベルト通りの冷え切った手すりに対象のない愛ゆえに自分の唇を押しつけたことがあったし、またいつだったか自分の手にキスしたことがあったし、それからまた感動でへとへとになって、自分の頭の上に極端に開いた口を裏返しながら自分自身を呑み込んでしまいたいと思って、そこに私のからだ全体を、それから宇宙を通過させ、もはや少しずつ消えていくことになる食べたものの一個の玉にすぎなくなることがあった。それが世界の終わりを見る私の見方である」(ジュネ「花のノートルダム・P.41」河出文庫)
そこにジュネの強みがある。フランス人としては確かに身体的に貧弱だったかもしれないが、ジュネはいつもどのような事柄からでも何か学ぶものを引き出す。引き出すだけでなく精一杯有効活用する。作品にある通りだ。
「ミニョンは輝くような顔をしていた。美しい男だった、暴力的で優しく、生まれながらのヒモで、物腰にはあまりに気品があったので、いつも裸でいるように思えた」(ジュネ「花のノートルダム・P.48~49」河出文庫)
どこにでもいる「ヒモ」。ジュネはミニョンがあたかも「ヒモの鏡」あるいは「神としてのヒモ」ででもあるかのように描く。しかしミニョンについて時おり「けちなミニョン」と書いていたりもする。人間は周囲の見方によって違って見える。周囲の人々の立場、思想、信条次第でいかようにも変化する。差異化されて見える。けれども人間はその本人自身によっても差異化するのである。
ーーーーー
さて、アルトー。ステレオタイプ(決まりきった形式、常套句、固定観念)から縁を切ること。しかし言語はデリダが指摘したように身体を構成する情報(遺伝子情報)として根底から立ち働いている。人間は身体の最も深いレベルにおいてすでに言語化されている。だからアルトーの主張は身体がどのような身振り仕ぐさで振る舞い踊るにしても、結局のところ身体言語という言語に依拠するほかないではないか。その意味でデリダの分析は正当だ。もう結果が出ているように、アルトーとデリダとは最後まで一致し合えない。
「台本と《書かれた》詩というこの迷信と手を切らねばならない。書かれた詩は一度は価値があるが、続いてそれを破壊すべきである。死んだ詩人たちは他の者たちに席を譲るべきだ」(アルトー「傑作と縁を切る」『演劇とその分身・P.127』河出文庫)
アルトーは「書かれたもの」を断罪しようとする。デリダにとっては「書かれたもの」(エクリチール)こそが先行しているのであり「書かれたもの」(エクリチール)なしに何ものもない。ヘーゲルは「書かれたもの」はコピーに過ぎず「声」(フォネー)こそが真実を告げる唯一のものだと述べるのだが、その文章の真っ只中でヘーゲルは自分で自分自身の学説を思わず裏切る。思考するためには物質的なもの(名前、記号)を必要とする、とヘーゲルは語ってしまっている。「書かれた文字」はあくまで外面的なものに過ぎないと述べつつ、同時に内面に「横たわっている」と認めるほかない。
「《記憶》としての知性は、表象一般としての知性が最初の直接的直観に対して行なう内化作用(想起作用)の諸活動と同じ諸活動を、《言葉の》直観に対して行なう。ーーー(1)あの結合(直観とそれの意味との結合)が記号なのであるが、知性はこの結合を自分のものとしながら、この内化(想起)によって《個別的な》結合を《一般的な》結合すなわち持続的な結合に高める。そしてこの一般的持続的な結合においては名前と意味とが知性に対して客観的に結合されている。知性はまたさしあたり名前である直観を《表象》にする。その結果、内容すなわち意味と記号とが同一化され、《一つの》表象になる。そして表象作用はそれの内面性において具体的であり、内容は表象作用の現存在として存在する。ーーーこれが名前を《保持する》記憶である。ーーー《名前》はこうして、《表象界》において現存し、そして効力をもっているような《事象》である。(2)《再生産的》記憶は、直観や心像なしに、名前のなかで《事象》をもち且つ認識し、また事象と共に名前をもち且つ認識する。内容が知性のなかでもっている《現実存在》としての名前は、知性のなかにある知性自身の《外面態》である。そして、知性によって作り出された直観としての名前を《内化(想起)する》とういことは、同時に《疎外する》ということであって、知性はこの疎外において自己自身の内部に自己を措定するのである。もろもろの特殊な名前の連合(連想)は、感覚する知性・表象する知性・または思惟する知性がもっているもろもろの規定の意味のなかに含まれており、知性は感覚するもの等々として自己内でこれら幾系列もの規定を経過して行くのである。ーーーライオンという名前の場合には、われわれはそのような動物の直観を必要とせず、また心像をさえ必要としない。そうではなくて、われわれが名前を《理解する》ということによって、名前は心像を欠いた単純な表象である。われわれが《思惟する》のは名前においてである」(ヘーゲル「精神哲学・下・P.144~146」岩波文庫)
しかしその言い訳がましさにもかかわらず、ヘーゲルは実際の現象についてより深い部分を見ていたとおもわれる。見えていないので外面的なものに過ぎないというのでなく、見えてしまっているがゆえにかえってヘーゲルは自分の思想信条を打ち固める方法へ向かった。そしてそれはキリスト教的ヨーロッパ世界からの要請でもあった。さらにアルトーは身体言語を強調しながら実は「叫び」という「声」を重要視している。とはいえ、人間は生まれたときからあらかじめインプットされてきた「声」しか出せないのだろうか。「叫び」もまたその一つでしかないことはわかっている。わかっていてもなお、いまだ見出されていない「叫び」を追求することは無意味な態度だろうか。もっとも、この時点でアルトーが批判しているのは演劇界に蔓延してしまった偶像崇拝である。その凝固し固定しステレオタイプ化された演劇に安堵してこと足れりとする怠惰である。
「そしてそれがどんなに美しく価値があろうと、すでに為されたことを前にした崇拝は、われわれを石化させ、われわれを安定させ、思考するエネルギー、生命力、交換の全決定要因、月経、その他好きなように何と呼ぼうと構わないが、要するにわれわれが隠れている力との接触をもつことを妨げるのだということをわれわれはもうわかっていいはずである」(アルトー「傑作と縁を切る」『演劇とその分身・P.127』河出文庫)
人間を怠惰にしたのは人間自身である。とにかく人間は、少しでも手を抜こう、楽をしよう、あさるのは仕事より快楽だ、という本音を隠さない。しかし人間が怠惰を謳歌するためには謳歌している時間を遥かに越える労働力の発揮とその反復を必要としてきた。徐々に高度化する機械の発明。それは人間を怠惰にする以上に人間を機械の一部分へと再編してしまう。人間が機械を所有するのではなく、人間が機械の一部分に過ぎないような世界が打ち立てられるに至った。このような転倒の発生はアルトーの時代にはもう目の前にあらわに出現していた。アルトーはなおのこと「台本」(書かれたもの)より、書物より、身体における詩(ポエジー)を、と呼びかける。
「台本の下には、形式も原文もない単なるポエジーがある」(アルトー「傑作と縁を切る」『演劇とその分身・P.127』河出文庫)
この流れは直接的な政治色とは随分距離を置いて述べられたのだが、なぜか危険なものとして感じられた。アルトーの賛同者にとってよりも、むしろ一九六〇年代から一九七〇年代の治安当局にとって危険ではないかと捉えられた。これといった礼儀作法を持たず、いつも違うことを叫んだり喚いたりする。治安管理者は自分にとって理解できない「未知のもの」がアンテナに引っかかると、ともかく一旦括弧入れして観察することにしている。だが治安当局はなぜそうするのか。
「何か未知のものを何か既知のものへと還元することは、気楽にさせ、安心させ、満足させ、しかのみならず或る権力の感情をあたえる。未知のものとともに、危険、不安、憂慮があたえられるが、ーーー最初の本能は、こうした苦しい状態を《除去する》ことにつとめる。なんらかの説明は説明しないよりもましである、これが第一原則にほかならない。根本において、問題はただ圧迫する想念から脱れたいということのみにあるのだから、それから脱れる手段のことは、まともに厳密にはとらない。未知のものを既知のものとして説明してくれる最初の思いつきは、それを『真なりとみなす』ほど気持ちよいのである。真理の標識としての《快感》(「力」の証明)。ーーーそれゆえ、原因をもとめる衝動は恐怖の感情によって制約されひきおこされる。『なぜ?』という問いは、できさえすれば、原因自身のために原因をあたえるというよりは、むしろ《一種の原因》をーーー一つの安心させ、満足させ、気楽にさせる原因をあたえるであろう。何かすでに《既知のもの》、体験されたもの、回想のうちへと書きこまれているものが原因として措定されるということは、この欲求の第一の結果である。新しいもの、体験されていないもの、見知らぬものは、原因としては閉めだされる。ーーーそれゆえ、原因として探しもとめられるのは、一種の説明であるのみならず、《選りぬきの優先的な》種類の説明であり、見知らぬもの、新しいもの、体験されていないものの感情が、そこでは最も急速に最も頻繁に除去されてしまっている説明、ーーー《最も習慣的な》説明である。その結果は、一種の原因定立が、ますます優勢となり、体系へと集中化され、最後には、《支配的となりつつ》、言いかえれば、《他の》原因や説明を簡単に閉めだしつつ、立ちあらわれるということになる」(ニーチェ「偶像の黄昏」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.62~63』ちくま学芸文庫)
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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日本ではかつて、高度経済成長期の終わり頃、思春期心身症という精神的不調を訴える若年者がしばしば出てきた。それは何も感受性の高い低いに関係なく、家庭環境あるいは生育環境の違いに関係なく発症する病気として出現した。主に東京を中心とする首都圏、さらに大阪や福岡といった大都市で多く見られた。地方都市に比べて診療機関が多いため、大都市に限って患者数も多く計算されるだけなのではという見解もできるが、実際はそうではない。精神医療では日本より一歩も二歩も先んじていた欧米諸国の研究発表を考慮に入れると、とりわけ大都市に多いという傾向は弊害というより以上に実態を反映したものであった。その特徴的な症状は思春期にありがちな不安や悩みの次元を越えていて、一般の医療機関では対処不可能と見なされたからこそ精神科受診という事態が生じてきたわけであって、始めから精神科が引き受けることになるとはほとんどの医療機関では想定されていなかった。
一九七〇年代の時点すでに、そのような若年者がおいおい日本でも出現してくるだろうと見越していた医療関係者はほんのごく僅かな一部の精神科医に限られる。しかし病の進行状況は八十年代バブルの狂騒の下へ覆い隠されてしまった。バブル終焉、東西冷戦集結、新自由主義の世界的台頭、長引く不況、そういった報道が流れるようになって或る程度世の中が落ち着きを取り戻したとき、精神医療の現場で一体何が起きていたか、少しずつではあるもののようやく実状が取り上げられるようになった。自殺、依存、鬱病、不登校、DV、解離性障害、過食症、拒食症、ADHD、PTSD、統合失調症者の増大、等々。なお、諸外国では冷戦集結以前からそれら精神疾患に応じた対応のマニュアル化が進められ随時更新されている。というのも、必ずしも善意からそうしているとは限らず、むしろそのように対応マニュアルを随時更新していかないと国家そのものが持たないような危機に瀕しているからである。また日本国内での統合失調症者の増大は早期発見が可能になったことで計測値が上昇したことが上げられる。
けれども、そもそも早期発見できるようになった理由は、日本人特有の偏見に基づく隠蔽体質が徐々に払拭されてきた傾向による部分が大きい。それまでは病者に対する差別的というほかない徹底的な偏見が日本社会の中に充満しており、病者を屋外へ出すことをためらわせる同調圧力が暴力的なまでに働いており、専門医療に繋がったときすでに病状は回復不可能なほど進行し、何も反応せず何も答えず呼吸するほか何も動かないといった廃人状態に達していることが稀ではなかった。少なくとも二〇年〜四十年に達する長期入院を余儀なくされるような症状に立ち至っているケースが大半だった。今はそのような類別には該当せず、逆に幻聴や妄想、無関心、無表情が半年以上続くといった傾向が増えてきているようだ。かつては華々しく出現していた幻覚だが、幻覚は減少し逆に幻聴と妄想が圧倒的に増大しただけでなく全国規模で大量発生したことは注目される。ただ単なる物音が人の声、なかでも自分に対する悪口や陰口になって聞こえてくるばかりかそうとしか聞こえないといった症状が半年から一年半以上、症状が長期化している場合は十年以上続く。幻聴や妄想は長期化しているとかなり有効とされる新型治療薬を五年以上用いてもこれといった改善は見込めない。幻聴や妄想が起こるたびに家族の中の信頼できる人、近い人、親しい人は、その都度、今の音は洗濯機からバケツが落ちた音でとか、小学生らの集団帰宅の声でとか、冷静に説明しなくてはいけない。それで一旦は落ち着くけれども不安は消えることなく再び心底から湧き起こってくる。日々その繰り返しである。長い目で見なくてはいけない。東西冷戦を見てきたように長い目で見守る態度こそが要求される。
個人的に車を運転しないので被害に合ったことはないが、日本のマスコミが盛んに「煽り運転」報道を繰り返すことで、「モリカケ問題」、「桜を見る会問題」、等々、政権与党(自民公明連立政権)に対する野党側の追及を覆い隠す形になっていた時期。「煽り運転」する加害側がなぜ「煽り運転」を何度も繰り返し《反復する》のかほとんど問題にされていなかったことは重要だろうとおもわれる。反復が病的領域に達していると見なされるケースでは、実はPTSDとの関連性が疑われるという点である。PTSDの世間的一般的理解は、ただ単に外傷を受けた場所を避けたり外傷に関連あるいは類似した人物、場所、活動を回避する、またはそれらの想起が不可能になる、といった理解が大半だろうと思われる。消極的で否定的な印象が強い。だが逆に、精神的活動の爆発的覚醒亢進症状が現れることも少なからずある。「(外傷を受ける以前にはなかった)易刺激性または怒りの爆発」、「未来短縮感覚」(仕事、結婚、子供、または通常の人生を期待しない傾向)、「孤立感」。そしてPTSDの被害者の特徴であるが、PTSDを与えた側もその場にいたという事情を考慮すれば次の条件が入ってくる。「反応は強い恐怖、無力感または戦慄に関する」、特に子供の場合は「出来事についての反復」という事項が顕著である(「DSM-4」参照)。年金二〇〇〇万円問題はなるほど問題なのでそれと関連する。PTSD被害者にとっては受動的であり加害者にとっては積極的に出現する「未来短縮感覚」(仕事、結婚、子供、または通常の人生を期待しない傾向)。「通常の人生には期待できない」というレベルを通り越してもはや「通常の人生には期待しない」という顕著な傾向。普段ならささいに思えるようなことであってもいとも容易に爆発的で覚醒的な激怒を生じる傾向。さらに「煽り運転」被害者の記憶に対して決して忘れられないほど徹底的に「強い恐怖、無力感または戦慄」を刻み込み植え付けようと猛進する暴力的言動。このように相手は誰でも構わないが、自分が過去のどこかで受けたような取り返しのつかない強烈な暴力的被害と同じ目に合わしてやりたいという再帰的シーケンスを考えてみると、加害者はもしかしたら過去に何らかのPTSDあるいはそれに相当する逃げ場のない「強い恐怖、無力感または戦慄」体験を持っていたのではという可能性を排除できなくなる。加害者の側に立っていうつもりはまったくない。そうではなく、加害者もまたこの日本社会の中で過去に一度はPTSDに匹敵する被害者であった可能性を排除できないという点が報道の中から排除されてはならないとおもうのである。そうでないと、「煽り運転」がなぜ「《反復》という《再帰的シーケンス》」を特徴とするのか、さっぱりわからないまま置き去りにされてしまいかねないと危惧を覚えるわけだ。
さらに、これから明らかにされるだろう「女性参議院議員ウグイス嬢公選法違反問題」。どこへ行ってしまったのだろうか。マスコミは中国で発生した「新型ウイルス」の話題で持ちきりだ。それはとても大事な話題であり問題であり今後の貴重な研究材料でもある。だからといってすべての日本国民が北方領土や沖縄の米軍基地のことをまるっきり忘れているわけではないのと同様に、「女性参議院議員ウグイス嬢公選法違反問題」も同様に忘れられてしまっているわけではまったくない。むしろ逆に「年金二〇〇〇万円問題」発覚と同時に選挙活動のための金銭の流れに対する有権者の目は途端に厳しさを増した。
そしてなお、二〇二〇年の最先端医療技術を誇る日本の医学界においてさえ、あれほど身近な「摂食障害」(過食症/拒食症)については今なお医師との対話ならびに医薬品頼みなのはどうしてだろう。遺伝子情報の組み換えさえ可能になっているにもかかわらず、さらに人クローンなら法的には違法であっても作ろうとおもえばいつでも作れるにもかかわらず、それよりずっと身近な病気に関してその回復/治療に対する日本政府の意欲は日増しに失われているようにおもえるのはなぜだろうか。たとえば過食症の場合、糖尿病発症の恐れは常にある。災害時、人工透析患者はどこへどのようにしてたどりつけば良いのか。拒食症の場合、事態はますます急を要する。拒食が続くケースでは点滴も選択肢の一つだが患者は点滴のチューブなどいつでも好きなときに抜いてしまう。災害時の避難所ではどのように振る舞えというのか。周囲はどうすればよいのか。資本主義はどのような労働力商品であってもけっして無駄にしてはいけないということを肝に命じている。そのためにわざわざ資本主義みずから公理系を創設した。しかし資本主義みずから創設した公理系としての医療体系であるにもかかわらず有効活用されていないというのなら、資本主義は今の政権運営に見切りを付けるしかない。資本は自己目的なのであって、とうぜん日本だけで動いているわけでは何らなく、労働力商品を死に追いやって剰余価値の獲得を阻止するというのであれば、そのような諸国家の政権運営手法はすべて廃棄される。実際、廃棄されてきた。ソ連のことをもう忘れたのだろうか。それともソ連消滅とともに旧西側陣営は一斉に学ぶことを止めたのだろうか。ちなみにジュネはほぼ始めから世の中を見切っている。
「ある夜明け、私はベルト通りの冷え切った手すりに対象のない愛ゆえに自分の唇を押しつけたことがあったし、またいつだったか自分の手にキスしたことがあったし、それからまた感動でへとへとになって、自分の頭の上に極端に開いた口を裏返しながら自分自身を呑み込んでしまいたいと思って、そこに私のからだ全体を、それから宇宙を通過させ、もはや少しずつ消えていくことになる食べたものの一個の玉にすぎなくなることがあった。それが世界の終わりを見る私の見方である」(ジュネ「花のノートルダム・P.41」河出文庫)
そこにジュネの強みがある。フランス人としては確かに身体的に貧弱だったかもしれないが、ジュネはいつもどのような事柄からでも何か学ぶものを引き出す。引き出すだけでなく精一杯有効活用する。作品にある通りだ。
「ミニョンは輝くような顔をしていた。美しい男だった、暴力的で優しく、生まれながらのヒモで、物腰にはあまりに気品があったので、いつも裸でいるように思えた」(ジュネ「花のノートルダム・P.48~49」河出文庫)
どこにでもいる「ヒモ」。ジュネはミニョンがあたかも「ヒモの鏡」あるいは「神としてのヒモ」ででもあるかのように描く。しかしミニョンについて時おり「けちなミニョン」と書いていたりもする。人間は周囲の見方によって違って見える。周囲の人々の立場、思想、信条次第でいかようにも変化する。差異化されて見える。けれども人間はその本人自身によっても差異化するのである。
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さて、アルトー。ステレオタイプ(決まりきった形式、常套句、固定観念)から縁を切ること。しかし言語はデリダが指摘したように身体を構成する情報(遺伝子情報)として根底から立ち働いている。人間は身体の最も深いレベルにおいてすでに言語化されている。だからアルトーの主張は身体がどのような身振り仕ぐさで振る舞い踊るにしても、結局のところ身体言語という言語に依拠するほかないではないか。その意味でデリダの分析は正当だ。もう結果が出ているように、アルトーとデリダとは最後まで一致し合えない。
「台本と《書かれた》詩というこの迷信と手を切らねばならない。書かれた詩は一度は価値があるが、続いてそれを破壊すべきである。死んだ詩人たちは他の者たちに席を譲るべきだ」(アルトー「傑作と縁を切る」『演劇とその分身・P.127』河出文庫)
アルトーは「書かれたもの」を断罪しようとする。デリダにとっては「書かれたもの」(エクリチール)こそが先行しているのであり「書かれたもの」(エクリチール)なしに何ものもない。ヘーゲルは「書かれたもの」はコピーに過ぎず「声」(フォネー)こそが真実を告げる唯一のものだと述べるのだが、その文章の真っ只中でヘーゲルは自分で自分自身の学説を思わず裏切る。思考するためには物質的なもの(名前、記号)を必要とする、とヘーゲルは語ってしまっている。「書かれた文字」はあくまで外面的なものに過ぎないと述べつつ、同時に内面に「横たわっている」と認めるほかない。
「《記憶》としての知性は、表象一般としての知性が最初の直接的直観に対して行なう内化作用(想起作用)の諸活動と同じ諸活動を、《言葉の》直観に対して行なう。ーーー(1)あの結合(直観とそれの意味との結合)が記号なのであるが、知性はこの結合を自分のものとしながら、この内化(想起)によって《個別的な》結合を《一般的な》結合すなわち持続的な結合に高める。そしてこの一般的持続的な結合においては名前と意味とが知性に対して客観的に結合されている。知性はまたさしあたり名前である直観を《表象》にする。その結果、内容すなわち意味と記号とが同一化され、《一つの》表象になる。そして表象作用はそれの内面性において具体的であり、内容は表象作用の現存在として存在する。ーーーこれが名前を《保持する》記憶である。ーーー《名前》はこうして、《表象界》において現存し、そして効力をもっているような《事象》である。(2)《再生産的》記憶は、直観や心像なしに、名前のなかで《事象》をもち且つ認識し、また事象と共に名前をもち且つ認識する。内容が知性のなかでもっている《現実存在》としての名前は、知性のなかにある知性自身の《外面態》である。そして、知性によって作り出された直観としての名前を《内化(想起)する》とういことは、同時に《疎外する》ということであって、知性はこの疎外において自己自身の内部に自己を措定するのである。もろもろの特殊な名前の連合(連想)は、感覚する知性・表象する知性・または思惟する知性がもっているもろもろの規定の意味のなかに含まれており、知性は感覚するもの等々として自己内でこれら幾系列もの規定を経過して行くのである。ーーーライオンという名前の場合には、われわれはそのような動物の直観を必要とせず、また心像をさえ必要としない。そうではなくて、われわれが名前を《理解する》ということによって、名前は心像を欠いた単純な表象である。われわれが《思惟する》のは名前においてである」(ヘーゲル「精神哲学・下・P.144~146」岩波文庫)
しかしその言い訳がましさにもかかわらず、ヘーゲルは実際の現象についてより深い部分を見ていたとおもわれる。見えていないので外面的なものに過ぎないというのでなく、見えてしまっているがゆえにかえってヘーゲルは自分の思想信条を打ち固める方法へ向かった。そしてそれはキリスト教的ヨーロッパ世界からの要請でもあった。さらにアルトーは身体言語を強調しながら実は「叫び」という「声」を重要視している。とはいえ、人間は生まれたときからあらかじめインプットされてきた「声」しか出せないのだろうか。「叫び」もまたその一つでしかないことはわかっている。わかっていてもなお、いまだ見出されていない「叫び」を追求することは無意味な態度だろうか。もっとも、この時点でアルトーが批判しているのは演劇界に蔓延してしまった偶像崇拝である。その凝固し固定しステレオタイプ化された演劇に安堵してこと足れりとする怠惰である。
「そしてそれがどんなに美しく価値があろうと、すでに為されたことを前にした崇拝は、われわれを石化させ、われわれを安定させ、思考するエネルギー、生命力、交換の全決定要因、月経、その他好きなように何と呼ぼうと構わないが、要するにわれわれが隠れている力との接触をもつことを妨げるのだということをわれわれはもうわかっていいはずである」(アルトー「傑作と縁を切る」『演劇とその分身・P.127』河出文庫)
人間を怠惰にしたのは人間自身である。とにかく人間は、少しでも手を抜こう、楽をしよう、あさるのは仕事より快楽だ、という本音を隠さない。しかし人間が怠惰を謳歌するためには謳歌している時間を遥かに越える労働力の発揮とその反復を必要としてきた。徐々に高度化する機械の発明。それは人間を怠惰にする以上に人間を機械の一部分へと再編してしまう。人間が機械を所有するのではなく、人間が機械の一部分に過ぎないような世界が打ち立てられるに至った。このような転倒の発生はアルトーの時代にはもう目の前にあらわに出現していた。アルトーはなおのこと「台本」(書かれたもの)より、書物より、身体における詩(ポエジー)を、と呼びかける。
「台本の下には、形式も原文もない単なるポエジーがある」(アルトー「傑作と縁を切る」『演劇とその分身・P.127』河出文庫)
この流れは直接的な政治色とは随分距離を置いて述べられたのだが、なぜか危険なものとして感じられた。アルトーの賛同者にとってよりも、むしろ一九六〇年代から一九七〇年代の治安当局にとって危険ではないかと捉えられた。これといった礼儀作法を持たず、いつも違うことを叫んだり喚いたりする。治安管理者は自分にとって理解できない「未知のもの」がアンテナに引っかかると、ともかく一旦括弧入れして観察することにしている。だが治安当局はなぜそうするのか。
「何か未知のものを何か既知のものへと還元することは、気楽にさせ、安心させ、満足させ、しかのみならず或る権力の感情をあたえる。未知のものとともに、危険、不安、憂慮があたえられるが、ーーー最初の本能は、こうした苦しい状態を《除去する》ことにつとめる。なんらかの説明は説明しないよりもましである、これが第一原則にほかならない。根本において、問題はただ圧迫する想念から脱れたいということのみにあるのだから、それから脱れる手段のことは、まともに厳密にはとらない。未知のものを既知のものとして説明してくれる最初の思いつきは、それを『真なりとみなす』ほど気持ちよいのである。真理の標識としての《快感》(「力」の証明)。ーーーそれゆえ、原因をもとめる衝動は恐怖の感情によって制約されひきおこされる。『なぜ?』という問いは、できさえすれば、原因自身のために原因をあたえるというよりは、むしろ《一種の原因》をーーー一つの安心させ、満足させ、気楽にさせる原因をあたえるであろう。何かすでに《既知のもの》、体験されたもの、回想のうちへと書きこまれているものが原因として措定されるということは、この欲求の第一の結果である。新しいもの、体験されていないもの、見知らぬものは、原因としては閉めだされる。ーーーそれゆえ、原因として探しもとめられるのは、一種の説明であるのみならず、《選りぬきの優先的な》種類の説明であり、見知らぬもの、新しいもの、体験されていないものの感情が、そこでは最も急速に最も頻繁に除去されてしまっている説明、ーーー《最も習慣的な》説明である。その結果は、一種の原因定立が、ますます優勢となり、体系へと集中化され、最後には、《支配的となりつつ》、言いかえれば、《他の》原因や説明を簡単に閉めだしつつ、立ちあらわれるということになる」(ニーチェ「偶像の黄昏」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.62~63』ちくま学芸文庫)
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM