白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

言語化するジュネ/流動するアルトー85

2020年01月10日 | 日記・エッセイ・コラム
ジュネにとって書くということは或る種の「軽やかさ」に《なる》ことだ。「言葉においてまでも一種の発狂に身を委ねる」ことだと述べる。

「書くという行為が面倒くさくなることもある。書くということーーーそして書くに先立って一種の軽やかさ、大地に、固体に、つまり現実と呼びならされているものに密着しない恩寵状態を手に入れるということーーー書くということは、態度と、動作と、そしてさらに言葉においてまでも一種の発狂に身を委ねることを強要する」(ジュネ「葬儀・P.346」河出文庫)

一方、泥棒の作業はどうか。それは実証主義的実直さに満ちた「実際的動作によって」完徹されている。

「盗むほうはーーー盗人にまじって暮らすほうはーーー生身の身体と、実証精神の現存を要求し、それらは簡潔な、節度ある、真剣な、必要な、実際的動作によってあらわされる」(ジュネ「葬儀・P.346」河出文庫)

だから泥棒仲間の明確な「身振り」をそのまま言語化すると、創作に必要な「軽やかさ」になれない。泥棒の真剣さを見つめるジュネの目に泥棒の、裏切りの、倒錯の、身振りは一つ一つが美しく見えている。だがそれを世間一般で使用されるステレオタイプ(固定観念)な言葉にしてしまうと美しさは消えてなくなる。それはジュネが考える「泥棒、裏切り、性倒錯」ではなく、したがって何らの美も映し出さなくなってしまう。それこそ逆に「泥棒、裏切り者、性倒錯者」に対する本当の裏切り行為になってしまわないか。ジュネはそれを不安におもうのである。

「かりに私が連中の身振りに、その明確な言葉に屈服するとすれば、もはやなにも書けず、天界の消息をさぐらせてくれた恩寵を失うことになるだろう。選ぶか、交互に行なうかどちらかにせねばならぬ。それとも沈黙するか」(ジュネ「葬儀・P.346」河出文庫)

というふうにダブルバインド(二重拘束)されてしまう。だからジュネの作品はどれも極限的苦悶を切り裂いて、半ば力づくで書かれている。なぜなら、言語は、どの言語も、加工=変造された後でしか意識化されないからである。ジュネにはジュネ固有の言語化過程を逃れることができない。その上で書くのだ。できなければ「沈黙する」ほかない。
ーーーーー
さて、アルトー。ヘリオガバルスの変身は尽きない。アルトーはそのアナーキー性に或る種の危険な「偏執狂」が宿っているのを見抜く。

「毎日衣を変え、それぞれの衣の上に一個の宝石を、けっして同じものではなく、天の徴に対応する宝石をつける行為のなかに、他人にとっても、それに身を委ねる彼にとっても危険な偏執狂を私は見る」(アルトー「ヘリオガバルス・P.201」河出文庫)

ところが、この種の「危険」なしにヘリオガバルスの「変身」はない。アルトーが「魂」と呼んでいるのは「強度の流れ」のことだ。それはいつも流れている限りで、絶え間ない限りで始めて、変身という生成変化を可能にするのである。

「巨大で、飽くことを知らぬ精神の熱を、感動や動きや移動を渇望し、変身の趣味をもつ魂を証明する証明するものがある」(アルトー「ヘリオガバルス・P.201」河出文庫)
ーーーーー
演劇論の中でも注目すべき箇所を引用したいとおもう。

「ダンス、歌、パントマイム、音楽を思わせるバリ島演劇のはじめてのスペクタクルはーーーしかもここヨーロッパでわれわれが理解しているような心理的演劇とは似ても似つかぬものであるが、幻覚や恐怖という角度から自立した純粋な創造の次元にひき戻す」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.84』河出文庫)

まず第一にニーチェの影響は避けて通れない。

「美的状態は、《伝達手段》をあふれるばかり豊かにもっており、同時に、刺激や徴候に対する極度の《感受性》をもっている。この状態は生物の間で伝達と伝送のおこなわれうる絶頂である、ーーーそれは言語の源泉である。言語は、身振りや目くばせによる言語と同じく音声による言語も、ここにその発生地をもつ。より豊満な現象がつねに発端である。すなわち、私たちの能力もより豊満な能力の洗練されたものにほかならない。しかも今日でも私たちは、いまだ筋肉でもって聞き、いまだ筋肉でもって読みさえする」(ニーチェ「権力への意志・下巻・八〇九・P.324〜325」ちくま学芸文庫)

とはいえ、ちなみにドゥルーズは「意味の論理学」を執筆しているとき、「役者やダンサー」という言葉に自嘲的な意味合いを込めて用いている。

「被害者や真の患者の特徴である全き実現に用心しながら、出来事の反ー実現、役者やダンサーの単純な平面的表象〔=上演〕だけに止めておくなどということが可能だろうか」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・P.273」河出文庫)

というのは次のような事実が横たわっていたからである。

「ブスケが傷の永遠性について話すとき、自分の身体が抱える忌まわしい個人的な傷の名において話しているのである。フィッツジェラルドやラウリーが非物質的な形而上学的裂け目について話すとき、また、思考の場所と支障、思考の源泉と涸渇、意味と無-意味をそこに同時に見出すとき、二人は、飲み干されて身体の中に裂け目を実現させたアルコールのすべてをもってそうしているのである。アルトーが、思考の侵食について同時に本質的で偶然的な何ごとかとして話すとき、また、根底的な無力でありながら高度の力であることとして話すとき、既に分裂病のどん底から話しているのである。各人が、何らかのリスクを冒し、リスクの果てまで行って、そこから不可侵の権利を引き出す」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・P.273」河出文庫)

ところがガタリとの出会いがドゥルーズを変えた。もちろん批判した思想家は数多い。ドゥルーズはそもそもヨーロッパ思想界のエリートとして尊敬されていたわけだが、社会活動家肌のフェリックス・ガタリとタッグを組むのはドゥルーズ思想を政治化してしまうことになるとして警告する研究者が出てきた。たとえばジジェクなどはその代表格として大いに批判した。しかし結果的に「アンチ・オイディプス」はその難解さにもかかわらずドゥルーズとしては世界的著作として歓迎された。ジジェクは「アンチ・オイディプス」をドゥルーズ最悪の著書として断罪したわけだが。ところがドゥルーズは政治的に変わったのか。実はそうではない。ドゥルーズはニーチェ、マルクス、フロイト、ラカン、フーコーなどの著作をたいへん深く読んできた形跡があちこちに見られる。とりわけフーコーの権力論には注目している。そしてフーコーの権力論がいずれ袋小路に迷い込んでしまうだろうと予言的な見方をしていたことも事実だ。そんな経過を経て「役者やダンサー」という言葉を否定的なものから肯定的なものへの転化を果たす。インタビューの中ではとりわけニーチェの影響を上げている。

アルトーが「変身」、「ダンス、歌、パントマイム、音楽」と呼ぶものは何のことなのだろう。何度も言われていることだが、ドゥルーズとガタリが作品に「千のプラトー」と名づけた「プラトー」と大いに関係がある。

「リゾームは、序列的でなく意味形成的でない非中心化システムであり、<将軍>も、組織化する記憶や中心的自動装置もなく、ただ諸状態の交通においてのみ定義されるシステムなのだ。ーーープラトー〔高原・台地〕はつねに真ん中にある。始めでもなければ終わりでもない。リゾームはもろもろのプラトーからなっている」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.53」河出文庫)

絶対的中心というものは《ない》。リゾームはいつも「非中心化システム」として作動しており、非中心的である以上「始めでもなければ終わりでもな」く、「もろもろのプラトーからなっている」。放置しておけば無限に増大して破局を起こす「累積的」運動ではない。強度をどんどん増大させることしか考えない累積型の社会はいずれ破局することは目に見えている。どうすればよいのか。ベイトソンは「クライマックス」と書いているが、この「クライマックス」を「破局」に置き換えて読み直すことができる。センテンスごとに引用する。とりわけ注目すべきは「1」と「3」、そして「4」の最後だろう。まずプラトー(高原)について。強度を一定に保ったまま持続させる方法が述べられる。バリ島ではこの方法が紛争解決に応用されている。「3」は演劇や音楽について。そこでもクライマックスを何らかの介入によって調停したり回避するというより、「クライマックスをプラトーで置き換える」、という方法の有効性が論じられる。

「1 バリの社会で例外的に見られる累積的相互作用のうち、もっとも重要だと思われるものが、大人(とくに親)と子供との間で起こる。その典型的なシークェンスを述べてみよう。まず母親が、子供のちんちんを引っぱるなどして、戯れの行為を仕掛ける。刺激された子供は、その反応を母親に向け、二人の間に短時間の累積的な相互作用が生起する。だが、そこで子供がクライマックスに向かって動きだし、母親の首に手を回したりするなどすると、母親は自分の注意をサッと子供からそらしてしまう。この時点で子供は、別の累積的相互作用(感情の爆発に向けて相互に苛立ちをつのらせていくタイプのもの)を仕掛けることが多いが、これに母親はのらず、見る側に回って子供の苛立ちを楽しみ、子供が攻撃してきたときも表情ひとつ変えずにサラリとこれをかわしてしまう。これは、子供がもっていこうとする種類の相互作用を母親が嫌悪していることのあらわれではあるが、同時にそれが、他人とそのような関わりをもっても報われないことを子供に教え込む、学習のコンテクストになっている点に注意したい。仮に人間が、累積的相互作用に走る傾向をもともと具えているとするなら、それを抑え込む学習がここでなされていくわけである。ともかく、バリの生活に子供たちが組み入れられていくにつれて、彼らの行動からクライマックスのパターンが消えていき、それに代わって高原状態(プラトー)ーーー強度の一定した持続ーーーが現われていくと論じることは可能だ。バリ社会ではトランスも《いさかい》も、こうしたプラトー型の行為連鎖にそって進行する傾向を持つ」(ベイトソン「精神の生態学・P.177~178」新思索社)

「2 子供たちが競争と張り合いへ向かおうとする傾向が抑え込まれる例は、他にもよく観察される。たとえば、バリの母親は、わざと他人の赤ん坊に乳をふくませ、我が子がその侵入者を躍起になって引き離そうとするのを見て楽しむということを、よくする」(ベイトソン「精神の生態学・P.178」新思索社)

「3 バリ島の音楽、演劇、その他の芸術形態の一般的特徴として、クライマックスの欠如ということが挙げられる。音楽に関して言えば、その進行は型式的な構造に基づき、また強度の変化は、これらの型式的関係の展開のしかたと時間的長さによって規定される。近代の西洋音楽に特徴的な、強度を次第に増しながらクライマックスへと盛り上がっていく構造はなく、よりフォーマルな規則性にしたがって楽音が流れていくのである」(ベイトソン「精神の生態学・P.178」新思索社)

「4 バリ島の文化には、争いごとを処理する技術が確固として存在する。いさかいを起こした二人はきちんとその地区の代官のもとに出頭して、その事実を登記し、こののち最初に口を出した方のものが、科料を払うか、神に奉納することに同意する。この取り決めは、いさかいが収まった時点で正式に破棄される。この措置は『プイッ』と呼ばれるが、小さな子供の喧嘩にもこれを小型にした措置がとられるのは興味深い。ここで重要なのは、当事者の憎しみを取り除いて友好関係に導き入れようという意志が全然働いていないという点だ。むしろこれは、互いの敵対関係を正式に確認する、さらに言えば、関係を一定の敵対状態に凍結する、試みのようである。この解釈が正しければ、バリ島ではいさかいの処理にも、クライマックスをプラトーで置き換える方式が採用されているということになるだろう」(ベイトソン「精神の生態学・P.180」新思索社)

村落共同体を蓄積過剰による破局ではなく常に一定の流れへ置き換えること。個人的自己目的の追求ではなく村落共同体の共存に必要な経済の最低ラインの確保に務めること。どんな「争い/いさかい」の処理においても「クライマックスをプラトーで置き換える」こと。それがバリ島では伝統的に残っていた。近代社会を生んだ暴力的資本主義の到来によって解体されるまでは。今なおバリには皮肉なステレオタイプ(決まり文句)が残っている。

「白人到来以前の時代を、バリの慣用表現では、『世界がつり合っていたころ』という」(ベイトソン「精神の生態学・P.189」新思索社)

だからドゥルーズとガタリはいうのである。非中心的なリゾームからなる「千のプラトー」と。軍縮をただ単に空洞化した合言葉だけで済まさないためにはもうそれしかないようにおもえる。

さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

BGM

言語化するジュネ/流動するアルトー84

2020年01月10日 | 日記・エッセイ・コラム
銃殺刑は一度に七人。処刑対象は二十八人なので計四回ですっかり済んでしまう。刑務所の暴動はそもそも収容されていた政治犯が起こしたわけだが、処刑されるのは政治犯でなくフランスの未成年の少年ばかりなのはいかにも奇妙である。ピエロの気まぐれだから仕方がない。隊長はピエロが「天の声」を演じていたときの言動に従ったまでのことだ。それに実際のところ、日増しにドイツの敗北が切迫してくるフランスの中で政治犯を処刑したとなると後々どうなるか。隊長はそこまで馬鹿ではない。

「一回目は刑務所の雑役夫らが七つの死体を運び去った。同じ場所に、最初の連中の血潮の上に、自分たちの順番を待つ七人の若者が並ばされた。壁の前でこんなに朝早く行なわれる遊びに彼らはあっけにとられていた。自分の心臓の個所につけられた白い貼札にあっけにとられていた」(ジュネ「葬儀・P.344」河出文庫)

少年たちは「あっけにとられていた」。「遊び」。余りにも気まぐれな「遊び」。「心臓の個所につけられた白い貼札」が的である。死の恐怖でなく、現場にいる誰もが少年たちのことを主犯格でも何でもないと知りながら機械的に処理されていく「遊び」と化した銃殺に、「あっけにとられていた」。作者ジュネにはアウシュヴィッツを初めとする絶滅収容所で行われた「機械的処理」が念頭にあったのかもしれない。かといって社会的善悪の価値基準を持ち込んでいるわけではさらさらない。

「顔からは驚きが失せなかった。彼らも運び去られた。代りに別の七人がやってきて立った、不安げに、寒さに震えながら。射てーーー彼らは息絶えた。とうとう、最後の七人も」(ジュネ「葬儀・P.344」河出文庫)

機械的処理について淡々と述べるジュネ。何らの欲望も引き起こさない行為の消息を述べるに当たって、ふだんのジュネはまったく書かないか、書くとしても少なくとも筆は鈍る。華々しい死刑の場面でありながら死刑執行人の側に「増大する力の感情」がこみ上げてこないようなとき、逆にジュネは鬱勃たる「力の減少」におちいってしまう。

「三十五人の死刑執行人は蒼ざめていた。彼らは歩調をとって行進しようとした、が脚がよろめき、うまく進めなかった。何人かの形相はすさまじかった、それにたぶん誰ひとり二十八人の殺害された連中の眼つきと《つるいちそう》のような顔色を一生忘れ去ることはできないだろう」(ジュネ「葬儀・P.344」河出文庫)

ベルリンの死刑執行人がエリックに与える力の増大のような身体感覚がこのシーンでは微塵も見られない。ただひたすら順々に処理されていく機械的処刑には余りにも魅力がないとジュネは感じている。緊張の極点として悪への階段をのぼる孤独で苦痛に満ち儀式化された試練などかけらもない。合法化された悪はもはや悪ではない。裏切りでもなければ倒錯でもない。逆に密告を始めとして裏切りや倒錯行為は法的に安全な位置に移動している。殺人も非合法ではないのだ。そうなってくるともはや、そこからジュネは何らの快感も引き出すことができない。一人殺すのも千人殺すのも同じだという隊長の論理は立場上、現実に実行されると無限の責任を生じる。けれども無限の責任はあくまでも建前であって、それは容易に無限の無責任へと転化する。ゆえに「あっけにとられていた」のはむしろ未成年の間のほとんどを刑務所で暮らしたジュネなのだ。そこで、ジュネが持つ道徳感情はいつどこでどのような地盤の上で形成されたか振り返ってみる。

「私たちは私たちの徳のために最も苛酷に罰せられる。されば、どこに君の徳があるかを推測するすべを、学べ。それは、君が最も苛酷に罰せられたところなのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・六〇三・P.309」ちくま学芸文庫)
ーーーーー
さて、アルトー。見るべきところはほかにある。そうアルトーはいう。というより、ずっとそう言ってきたわけだが。

「彼はありとあらゆる価値とあらゆる秩序の堕落と破壊を徹底的に追求するのだが、賞賛に値するのは、そして古代ローマ世界の取り返しのつかない退廃を証明するのは、連続した四年間のあいだ、この組織的な破壊を、誰の抗議も受けずに、公然と追求し得たのを見ることである」(アルトー「ヘリオガバルス・P.199」河出文庫)

次の一節で連発される「渡り歩く」という動作。

「ヘリオガバルスが、御者から御者へと渡り歩くように女から女へと渡り歩くとしても、彼はまた石から石へ、寛衣から寛衣へ、祝祭から祝祭へ、そして装飾から装飾へと渡り歩く」(アルトー「ヘリオガバルス・P.200」河出文庫)

というように、「石」に、「寛衣」に、「祝祭」に、「装飾」に、《なる》。実に器用だ。

「石の感覚、衣の形、祝祭の勅令、彼の肌をじかに打ちつける宝石を通して、彼の精神は奇妙な旅をする」(アルトー「ヘリオガバルス・P.200」河出文庫)

ヘリオガバルス「の精神は奇妙な旅をする」とある。遊牧民の暮らしを参照しつつドゥルーズとガタリは述べている。

「移動しないで同じ場所で強度として行われる精神の旅が語られてきたことは驚くには及ばない。このような旅は遊牧生活の一部分である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.72」河出文庫)

何度か述べてきた。「力の移動/移動の力」ということについて。

「まさにここに彼の深い不安が燃え上がる一種の高度なアナーキーが現れる。そして彼は、石から石へ、輝きから輝きへ、形から形へ、そして火から火へと駆けぬける、かれの後には誰も再びやることのなかった神秘的な内面のオデュセイアのなかで、あたかも魂から魂へと駆けぬけるかのように」(アルトー「ヘリオガバルス・P.200」河出文庫)

ヘリオガバルスは自分の《身体において》たいへん器用になんでもこなす。スピノザはいう。

「人間身体はきわめて多くのことに有能である。ーーー人生において、我々は特に、幼児期の身体を、その本性の許す限りまたその本性に役立つ限り、他の身体に変化させるように努める。すなわちきわめて多くのことに有能な身体、そして自己・神および物について最も多くを意識するような精神に関係する身体、に変化させるよう努める」(スピノザ「エチカ・第五部・定理三九・備考・P.133」岩波文庫)

変化は脱領土化の動作なのだが同時に再領土化の動作でもある。変化はいつも両方である。

「脱領土化そのものにおいて再領土化する」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.72」河出文庫)

要するに「生成する」ということは、物質と強度との融合を指し示しており、そして生成はいつも変化とともにあるほかない。だから生成変化とは流動する創造性のことをいうのである。
ーーーーー
さらに演劇論。危険のない現代演劇はすでに失われた。演劇における現代性とは危険なものだったのであり、危険性を取り除かれるやいなやそこからはユーモアも同時に失われた。ユーモアは笑いを発生させる。笑いは時として見た目の残酷さより遥かに危険なものだからだ。残酷な行為に耽る犯罪者がいるとしよう。そしてさらに、その様子をじっくり観察しながら笑いをこらえている人間がいるとしよう。ブラックユーモアのように思われるかもしれない。だがそうでなく、どちらが残酷なのか誰にもわからない、決定不可能性という最大限のアポリアあるいは逆説が想定されている。そこで重要になってくるのが《変身》のイメージである。先にスピノザから引用したように。

「いましがた私は危険について語った。さて、この危険の観念を舞台の上で最もうまく実現するはずだと思われるのは、客観的な意外性であり、状況ではなく事物のなかにある意外性、思考されたイメージから真のイメージへの突然の時ならぬ移行である」(アルトー「演出と形而上学」『演劇とその分身・P.67』河出文庫)

アルトーがいっている「時ならぬ移行」。世間の人々は普段から余りにもごく自然にやっていることなので、ほとんどの場合、不意打ちされないと気がつかない。次のように。

「冒瀆の言葉を吐く男が、突然自分の前に冒瀆のイメージが現実の線となって物質化されるのを見るといったことである(ただし、つけ加えておくが、このイメージが完全に根拠のないものではなく、それが同じ精神的感興の別のイメージを生み出すという条件つきで、等々)」(アルトー「演出と形而上学」『演劇とその分身・P.67~68』河出文庫)

次にアルトーが「古い演劇」といっているのは定期的に上演された古代ギリシア悲劇のこと。

「もうひとつの例は、木や布でできていて、隅から隅まで創造された、考え出された『存在』であろうが、それは何に対しても応答せず、それでも生来不気味なもので、古い演劇すべての基盤にあるあの大いなる刑事上学的恐怖のちょっとした息吹を舞台に再び導き入れることができる」(アルトー「演出と形而上学」『演劇とその分身・P.68』河出文庫)

悲劇の上演が文字通り悲劇の反復だった時代。かつてのように熱狂的祝祭空間のうちにカタルシスをもたらすような悲劇は今やどこにもない。それこそ現実が悲劇そのものに取って代わったからかもしれない。

さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

BGM