キリスト教の晩餐のしきたりに従い、死んだジャンの肉に食らいつくジュネ。「美/力」として君臨したジャンの肉がジュネの身体内で醸造される。機銃掃射の的になり血しぶきとしてばらばらに砕け散ったジャンの死体を食べているとおもうと、ジュネは、自分の体内からアフリカのタムタムの音が、というより「ぐつぐつ煮え立つ」アフリカの舞踏そのもののがじわじわ湧き起こってくるのを感じる。
「私の全身は、きっと、後光でつつまれていたにちがいない。自分が光りかがやいているのを感じてた。<黒人>たちは竹笛と、タムタム太鼓を奏(かな)でつづけている。やと、いずこからともなく、死んだ裸のジャンが現われ、うやうやしい足どりで、ほどよく煮えた自分の死体を私のもとへ運び、食卓の上に横たえ、退きさがった黒人たちが正視するのもはばかる神の身分で、その食卓にただひとり坐して、私は食らうのだった」(ジュネ「葬儀・P.378」河出文庫)
舞踏するアフリカの鼓動そのものを喰い平らげるジュネ。晩餐を通して、肉(パン)を頬張り血(ワイン)を飲み干したジュネの身体はすでにアフリカの諸部族のものである。だが同時に晩餐に捧げられているのはフランスのために死闘を演じて死んだジャンの肉である。だからこの場合、フランスへ所属することにもなる。ジュネはアフリカとフランスとへ二重化する。
「私は部族に属していた。それもそのなかで生まれたという事実だけによる皮相なかたちではなく、帰化を認められ、宗教的饗宴にあずかるこおとを許されたが故に。つまりジャン・Dの死が私を根づかせたのだ。ついに私は自分が呪いつつも渇望していたフランスに所属するに至った」(ジュネ「葬儀・P.378」河出文庫)
戦後にフランスで撮影されたジュネの有名な顎髭の映像。かなり無口な印象を受ける。照れも見せる。インタビュアーがフランス国家公認の報道機関だからだろう。妙に有名になってしまって当惑ぎみでもある。そんな顎髭のジュネ。無精髭を少しばかりお洒落に整えた程度に過ぎないのだがなかなか似合っている。それはどうでもいいとして、聖餐に臨んでいるジュネは自分の顎髭が「刈り取られたライ麦畑ーーー切株ばかりの畑ーーーにな」るのを感じる。そこではフランスのために闘って死んだ愛人ジャンが「はだしの足で駆け廻」る。ジャンが踏み締めているのは紛れもなくフランスだ。フランスで孤児として生まれフランスに捨てられたジュネは今やフランスの子どもたちを駆け回らせて微笑む「刈り取られたライ麦畑ーーー切株ばかりの畑ーーーにな」る。
「顎髭の剛い毛が皮膚に植わっているためにいっそう切実な鳥肌立つような感覚とともに、とつぜん私は自分が刈り取られライ麦畑ーーー切株ばかりの畑ーーーになり、二つの小さなはだしの足で駆け廻られるような思いがする。たぶん私の顎は悲嘆にくれた子供の顎のように打ちふるえたことだろう。私にはフランスのために命を捧げた死者たちがいるのだ、そして捨て子はいまや市民権を手に入れたのだ」(ジュネ「葬儀・P.378」河出文庫)
というように。
ーーーーー
ヘリオガバルスは容赦を知らない。他人の言動には寛大だが自分の思想に妥協の余地を与えるような決定的裏切りはできない。考えられもしない。地下工作に熱心だったユリア・マンマエアのことなど余り眼中にない。マンマエアがキリスト教徒なのは始めから誰もが知っていたわけでありヘリオガバルスはそれを知っていて放置していた。不実なマンマエアはいずれ裏切るだろう。そんなことは計算のうちだ。
「受け入れること、服従すること、それは時間を稼ぐことであり、自分の人生の休息を保証することなく自分の失墜を是認することである、というのもユリア・マンマエアの工作が行われているからであり、しかも彼女が降参しないことを彼はよくわかっているからである」(アルトー「ヘリオガバルス・P.205~206」河出文庫)
ユリア・マンマエアがこっそり作り上げた反体制勢力によって孤立した皇帝ヘリオガバルス。両者のあいだに入り、もったいぶりつつ仲介して見せるマンマエア。軍事衝突は一旦回避される。「親衛隊の兵士たちは落ち着きを取り戻した」。だがヘリオガバルスは太陽信仰が不可避的にもたらすアナーキーの意味の何たるかもさっぱりわかっていないマンマエアの政治的地下工作などどうでもよいのだ。ヘリオガバルスの名前の中に含まれている“GABAL”そして“GIBIL”。
「そしてそいつは GABAL とともに形づくられるが GABALとは可塑的で形成的事物。形をなし、形を与える語。 そして EL-GABAL のなかには GABAL があり それは名前を形づくる。 だが GABAL のなかには GIBIL(アッカド語の古い方言としての) がある GIBILは、破壊し、変形する火であるが、火から生じ、そして女の紋章、赤=火の月経のための女の紋章である赤いフェニックスの再生を準備する」(アルトー「ヘリオガバルス・P.138~140」河出文庫)
したがってヘリオガバルスは忠実に太陽信仰を押し進める。
「最初の脅威の後、親衛隊の兵士たちは落ち着きを取り戻した。すべては秩序に復した。だがヘリオガバルスはあらためて火事を起こし、無秩序に火を放ち、こうして彼が自分のやり方に忠実なままであることを証明するのを引き受ける」(アルトー「ヘリオガバルス・P.206」河出文庫)
ユリア・マンマエアのような馬鹿女に、皇帝の、そして帝国の、なおかつバッシアヌス一族の何がわかるというのか。
ーーーーー
数は激減していたが、一九八〇年代の日本でも、アルトーの影響を受けた劇団はそこそこ残っていた。アングラ演劇。パワフルでエネルギッシュで活力に満ち、観客を巻き込む。演じられる言語はだんだん意味を変えていき、発声される言語の側から肉体の言語の側へ、さらにその逆へと、常に重心は可変的であった。寺山修司と三島由紀夫とのあいだの境界線は消え去り、両者はただ一つの流動する力の戯れへと還元されていた。
「絶えず彼らが慎重に立て直しを行うのが見える。彼らが錯綜した拍子の迷宮のなかに迷い込んだと思われ、いまにも混乱に陥ってしまうかと感じられるとき、彼らには均衡を立て直す彼ら特有のやり方、からだを弓なりに押し出し、脚をねじるやり方があって、水を含みすぎた雑巾を拍子に合わせて絞るような印象を与える」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.92』河出文庫)
混乱しそうになるとき「均衡を立て直す」。「特有のやり方」で。ベイトソンが「姿勢のバランス」と呼ぶもの。個人的利益ばかりを目指すのではなく、村落共同体の集団的価値観に狙いを合わせた動的平衡の取り方がある。個人が個人的利益を追求できるのはほかでもない村落共同体全体が個人を支えている限りで可能なのであり、同時に個人は村落共同体の一部分を構成してもいるからである。互いが互いを支え合い、互いが互いのうちに自分の根拠を持つ。どちらか一方が破滅すれば全体も破滅する。だからこそ取られる動的平衡への意志。この方法は村落共同体内での紛争解決にも用いられる。ベイトソンは「クライマックス」と書いているが、この「クライマックス」を「破局」に置き換えて読み直すことができる。センテンスごとに引用する。とりわけ注目すべきは「1」と「3」、そして「4」の最後だろう。まずプラトー(高原)について。強度を一定に保ったまま持続させる方法が述べられる。バリ島ではこの方法が紛争解決に応用されている。「3」は演劇や音楽について。そこでもクライマックスを何らかの介入によって調停したり回避するというより、「クライマックスをプラトーで置き換える」、という方法の有効性が論じられる。さらに「2」は、技術にせよ労働にせよ、後々に学習過程に入ってくる「代理可能性/交換可能性」の先取りとして役立つ。
「1 バリの社会で例外的に見られる累積的相互作用のうち、もっとも重要だと思われるものが、大人(とくに親)と子供との間で起こる。その典型的なシークェンスを述べてみよう。まず母親が、子供のちんちんを引っぱるなどして、戯れの行為を仕掛ける。刺激された子供は、その反応を母親に向け、二人の間に短時間の累積的な相互作用が生起する。だが、そこで子供がクライマックスに向かって動きだし、母親の首に手を回したりするなどすると、母親は自分の注意をサッと子供からそらしてしまう。この時点で子供は、別の累積的相互作用(感情の爆発に向けて相互に苛立ちをつのらせていくタイプのもの)を仕掛けることが多いが、これに母親はのらず、見る側に回って子供の苛立ちを楽しみ、子供が攻撃してきたときも表情ひとつ変えずにサラリとこれをかわしてしまう。これは、子供がもっていこうとする種類の相互作用を母親が嫌悪していることのあらわれではあるが、同時にそれが、他人とそのような関わりをもっても報われないことを子供に教え込む、学習のコンテクストになっている点に注意したい。仮に人間が、累積的相互作用に走る傾向をもともと具えているとするなら、それを抑え込む学習がここでなされていくわけである。ともかく、バリの生活に子供たちが組み入れられていくにつれて、彼らの行動からクライマックスのパターンが消えていき、それに代わって高原状態(プラトー)ーーー強度の一定した持続ーーーが現われていくと論じることは可能だ。バリ社会ではトランスも《いさかい》も、こうしたプラトー型の行為連鎖にそって進行する傾向を持つ」(ベイトソン「精神の生態学・P.177~178」新思索社)
「2 子供たちが競争と張り合いへ向かおうとする傾向が抑え込まれる例は、他にもよく観察される。たとえば、バリの母親は、わざと他人の赤ん坊に乳をふくませ、我が子がその侵入者を躍起になって引き離そうとするのを見て楽しむということを、よくする」(ベイトソン「精神の生態学・P.178」新思索社)
「3 バリ島の音楽、演劇、その他の芸術形態の一般的特徴として、クライマックスの欠如ということが挙げられる。音楽に関して言えば、その進行は型式的な構造に基づき、また強度の変化は、これらの型式的関係の展開のしかたと時間的長さによって規定される。近代の西洋音楽に特徴的な、強度を次第に増しながらクライマックスへと盛り上がっていく構造はなく、よりフォーマルな規則性にしたがって楽音が流れていくのである」(ベイトソン「精神の生態学・P.178」新思索社)
「4 バリ島の文化には、争いごとを処理する技術が確固として存在する。いさかいを起こした二人はきちんとその地区の代官のもとに出頭して、その事実を登記し、こののち最初に口を出した方のものが、科料を払うか、神に奉納することに同意する。この取り決めは、いさかいが収まった時点で正式に破棄される。この措置は『プイッ』と呼ばれるが、小さな子供の喧嘩にもこれを小型にした措置がとられるのは興味深い。ここで重要なのは、当事者の憎しみを取り除いて友好関係に導き入れようという意志が全然働いていないという点だ。むしろこれは、互いの敵対関係を正式に確認する、さらに言えば、関係を一定の敵対状態に凍結する、試みのようである。この解釈が正しければ、バリ島ではいさかいの処理にも、クライマックスをプラトーで置き換える方式が採用されているということになるだろう」(ベイトソン「精神の生態学・P.180」新思索社)
村落共同体を蓄積過剰による破局ではなく常に一定の流れへ置き換えること。個人的自己目的の追求ではなく村落共同体の共存に必要な経済の最低ラインの確保に務めること。どんな「争い/いさかい」の処理にも「クライマックスをプラトーで置き換える」こと。それがバリ島では伝統的に残っていた。
「彼らにあってすべてはこんな風に非人称的に調整される。筋肉の運びも、目玉の回転も、すべてを導き、それにすべてが通る熟考された一種の数学に属さないものはただのひとつもない」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.92~93』河出文庫)
アルトーは「非人称的に調整される」と述べる。非人称的に調整されるとしても、この「調整」は非人称化しておくための調整であってあくまで非人称性を保っておくだけのために調整される非人称性である。その間、問題になっているのは非人称化の維持継続ということであり、非人称化への意志が解かれるわけではけっしてなく、ましてや儀式のあいだに限り、「固有名」などあるはずがない。
「固有名というものは、一個人を指示するのではない。ーーー個人が自分の真の名を獲得するのは、逆に彼が、およそ最も苛酷な非人称化の鍛錬の果てに、自己をすみずみまで貫く多様体に自己を開くときなのである」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.88」河出文庫)
生成変化していく流れの中でその都度瞬間的に与えられる「固有名」。そしてそれは「多様体に自己を開くとき」に限る。無限に変化可能な多様体の瞬間的な把握としてのみ固有名は与えられる。各瞬間ごとにそれはまた別のものになっているということでなくてはならない。無限に多様な諸商品の系列があるとしよう。それらは貨幣と交換されるとき、貨幣との交換が成り立つその瞬間に限り、諸商品はそれぞれ諸商品の系列として出現する。貨幣特有の非人称性は個別的であることを自ら捨て去って逆に特権的象徴性を得ている。それはどこまでも非人称的な仮面に似る。
「そして奇妙であるのは、この徹底的な非人格化において、仮面のように顔に張りついた純粋に筋肉的なこれらの表情の戯れにおいて、すべてが最大の効果をもち、それを取り戻させることである」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.93』河出文庫)
このとき演劇の俳優がもし非人格的なものでなかったとしたら俳優の象徴化はどこまでいっても不可能であろう。だから調整とは俳優を人間一般から切り離しておくための調整という意味で捉えられなければならない。それは儀式のあいだじゅうずっと非人称化された特権的貨幣でなくては意味をなさない。
ところで、かつてアングラ劇団に所属していた劇団員の多くは社会へと戻った。残されたわずかな人々はアングラ演劇の衰退とともにどうなったか。身体芸術を演じる芸術家としての過程を選んで生き残り、幾つか芸術関連の公的な賞を獲得し、現在に至っている。プライバシーに関わる事項なので個人名を上げることはできない。
ーーーーー
なお、余りの長期政権ゆえあちこちで隠蔽に次ぐ隠蔽がまかり通っていることを指摘しておかねばならない。今の日本について何か述べようとするだけですでに監視対象化されているか少なくとも犯罪者予備軍と見なされているかどちらかであるような状況の中に叩き込まれているらしい。日本の政権はアメリカ(共和党/民主党)というよりむしろ見る見るうちに中国共産党化してきた。都合のよくないテレビ報道、新聞記事、ネットでの意見、見解、書籍紹介など、ありとあらゆる分野へ介入している兆候があちこちで見受けられる。抜け切れないアジア性をもろに露呈しているように見えて仕方がない。日本の警察を欧米の警察と比較してみると日米安保にもかかわらず遥かに中国人民解放軍に近い。日本中いたるところに「監視/防犯」と称して無数の小型カメラが設置されている。今の日本政府(自民公明連立政権)はもはや中国共産党中央本部と何ら違わないように見える。だから香港は日本よりむしろ欧米に期待するのである。
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM
「私の全身は、きっと、後光でつつまれていたにちがいない。自分が光りかがやいているのを感じてた。<黒人>たちは竹笛と、タムタム太鼓を奏(かな)でつづけている。やと、いずこからともなく、死んだ裸のジャンが現われ、うやうやしい足どりで、ほどよく煮えた自分の死体を私のもとへ運び、食卓の上に横たえ、退きさがった黒人たちが正視するのもはばかる神の身分で、その食卓にただひとり坐して、私は食らうのだった」(ジュネ「葬儀・P.378」河出文庫)
舞踏するアフリカの鼓動そのものを喰い平らげるジュネ。晩餐を通して、肉(パン)を頬張り血(ワイン)を飲み干したジュネの身体はすでにアフリカの諸部族のものである。だが同時に晩餐に捧げられているのはフランスのために死闘を演じて死んだジャンの肉である。だからこの場合、フランスへ所属することにもなる。ジュネはアフリカとフランスとへ二重化する。
「私は部族に属していた。それもそのなかで生まれたという事実だけによる皮相なかたちではなく、帰化を認められ、宗教的饗宴にあずかるこおとを許されたが故に。つまりジャン・Dの死が私を根づかせたのだ。ついに私は自分が呪いつつも渇望していたフランスに所属するに至った」(ジュネ「葬儀・P.378」河出文庫)
戦後にフランスで撮影されたジュネの有名な顎髭の映像。かなり無口な印象を受ける。照れも見せる。インタビュアーがフランス国家公認の報道機関だからだろう。妙に有名になってしまって当惑ぎみでもある。そんな顎髭のジュネ。無精髭を少しばかりお洒落に整えた程度に過ぎないのだがなかなか似合っている。それはどうでもいいとして、聖餐に臨んでいるジュネは自分の顎髭が「刈り取られたライ麦畑ーーー切株ばかりの畑ーーーにな」るのを感じる。そこではフランスのために闘って死んだ愛人ジャンが「はだしの足で駆け廻」る。ジャンが踏み締めているのは紛れもなくフランスだ。フランスで孤児として生まれフランスに捨てられたジュネは今やフランスの子どもたちを駆け回らせて微笑む「刈り取られたライ麦畑ーーー切株ばかりの畑ーーーにな」る。
「顎髭の剛い毛が皮膚に植わっているためにいっそう切実な鳥肌立つような感覚とともに、とつぜん私は自分が刈り取られライ麦畑ーーー切株ばかりの畑ーーーになり、二つの小さなはだしの足で駆け廻られるような思いがする。たぶん私の顎は悲嘆にくれた子供の顎のように打ちふるえたことだろう。私にはフランスのために命を捧げた死者たちがいるのだ、そして捨て子はいまや市民権を手に入れたのだ」(ジュネ「葬儀・P.378」河出文庫)
というように。
ーーーーー
ヘリオガバルスは容赦を知らない。他人の言動には寛大だが自分の思想に妥協の余地を与えるような決定的裏切りはできない。考えられもしない。地下工作に熱心だったユリア・マンマエアのことなど余り眼中にない。マンマエアがキリスト教徒なのは始めから誰もが知っていたわけでありヘリオガバルスはそれを知っていて放置していた。不実なマンマエアはいずれ裏切るだろう。そんなことは計算のうちだ。
「受け入れること、服従すること、それは時間を稼ぐことであり、自分の人生の休息を保証することなく自分の失墜を是認することである、というのもユリア・マンマエアの工作が行われているからであり、しかも彼女が降参しないことを彼はよくわかっているからである」(アルトー「ヘリオガバルス・P.205~206」河出文庫)
ユリア・マンマエアがこっそり作り上げた反体制勢力によって孤立した皇帝ヘリオガバルス。両者のあいだに入り、もったいぶりつつ仲介して見せるマンマエア。軍事衝突は一旦回避される。「親衛隊の兵士たちは落ち着きを取り戻した」。だがヘリオガバルスは太陽信仰が不可避的にもたらすアナーキーの意味の何たるかもさっぱりわかっていないマンマエアの政治的地下工作などどうでもよいのだ。ヘリオガバルスの名前の中に含まれている“GABAL”そして“GIBIL”。
「そしてそいつは GABAL とともに形づくられるが GABALとは可塑的で形成的事物。形をなし、形を与える語。 そして EL-GABAL のなかには GABAL があり それは名前を形づくる。 だが GABAL のなかには GIBIL(アッカド語の古い方言としての) がある GIBILは、破壊し、変形する火であるが、火から生じ、そして女の紋章、赤=火の月経のための女の紋章である赤いフェニックスの再生を準備する」(アルトー「ヘリオガバルス・P.138~140」河出文庫)
したがってヘリオガバルスは忠実に太陽信仰を押し進める。
「最初の脅威の後、親衛隊の兵士たちは落ち着きを取り戻した。すべては秩序に復した。だがヘリオガバルスはあらためて火事を起こし、無秩序に火を放ち、こうして彼が自分のやり方に忠実なままであることを証明するのを引き受ける」(アルトー「ヘリオガバルス・P.206」河出文庫)
ユリア・マンマエアのような馬鹿女に、皇帝の、そして帝国の、なおかつバッシアヌス一族の何がわかるというのか。
ーーーーー
数は激減していたが、一九八〇年代の日本でも、アルトーの影響を受けた劇団はそこそこ残っていた。アングラ演劇。パワフルでエネルギッシュで活力に満ち、観客を巻き込む。演じられる言語はだんだん意味を変えていき、発声される言語の側から肉体の言語の側へ、さらにその逆へと、常に重心は可変的であった。寺山修司と三島由紀夫とのあいだの境界線は消え去り、両者はただ一つの流動する力の戯れへと還元されていた。
「絶えず彼らが慎重に立て直しを行うのが見える。彼らが錯綜した拍子の迷宮のなかに迷い込んだと思われ、いまにも混乱に陥ってしまうかと感じられるとき、彼らには均衡を立て直す彼ら特有のやり方、からだを弓なりに押し出し、脚をねじるやり方があって、水を含みすぎた雑巾を拍子に合わせて絞るような印象を与える」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.92』河出文庫)
混乱しそうになるとき「均衡を立て直す」。「特有のやり方」で。ベイトソンが「姿勢のバランス」と呼ぶもの。個人的利益ばかりを目指すのではなく、村落共同体の集団的価値観に狙いを合わせた動的平衡の取り方がある。個人が個人的利益を追求できるのはほかでもない村落共同体全体が個人を支えている限りで可能なのであり、同時に個人は村落共同体の一部分を構成してもいるからである。互いが互いを支え合い、互いが互いのうちに自分の根拠を持つ。どちらか一方が破滅すれば全体も破滅する。だからこそ取られる動的平衡への意志。この方法は村落共同体内での紛争解決にも用いられる。ベイトソンは「クライマックス」と書いているが、この「クライマックス」を「破局」に置き換えて読み直すことができる。センテンスごとに引用する。とりわけ注目すべきは「1」と「3」、そして「4」の最後だろう。まずプラトー(高原)について。強度を一定に保ったまま持続させる方法が述べられる。バリ島ではこの方法が紛争解決に応用されている。「3」は演劇や音楽について。そこでもクライマックスを何らかの介入によって調停したり回避するというより、「クライマックスをプラトーで置き換える」、という方法の有効性が論じられる。さらに「2」は、技術にせよ労働にせよ、後々に学習過程に入ってくる「代理可能性/交換可能性」の先取りとして役立つ。
「1 バリの社会で例外的に見られる累積的相互作用のうち、もっとも重要だと思われるものが、大人(とくに親)と子供との間で起こる。その典型的なシークェンスを述べてみよう。まず母親が、子供のちんちんを引っぱるなどして、戯れの行為を仕掛ける。刺激された子供は、その反応を母親に向け、二人の間に短時間の累積的な相互作用が生起する。だが、そこで子供がクライマックスに向かって動きだし、母親の首に手を回したりするなどすると、母親は自分の注意をサッと子供からそらしてしまう。この時点で子供は、別の累積的相互作用(感情の爆発に向けて相互に苛立ちをつのらせていくタイプのもの)を仕掛けることが多いが、これに母親はのらず、見る側に回って子供の苛立ちを楽しみ、子供が攻撃してきたときも表情ひとつ変えずにサラリとこれをかわしてしまう。これは、子供がもっていこうとする種類の相互作用を母親が嫌悪していることのあらわれではあるが、同時にそれが、他人とそのような関わりをもっても報われないことを子供に教え込む、学習のコンテクストになっている点に注意したい。仮に人間が、累積的相互作用に走る傾向をもともと具えているとするなら、それを抑え込む学習がここでなされていくわけである。ともかく、バリの生活に子供たちが組み入れられていくにつれて、彼らの行動からクライマックスのパターンが消えていき、それに代わって高原状態(プラトー)ーーー強度の一定した持続ーーーが現われていくと論じることは可能だ。バリ社会ではトランスも《いさかい》も、こうしたプラトー型の行為連鎖にそって進行する傾向を持つ」(ベイトソン「精神の生態学・P.177~178」新思索社)
「2 子供たちが競争と張り合いへ向かおうとする傾向が抑え込まれる例は、他にもよく観察される。たとえば、バリの母親は、わざと他人の赤ん坊に乳をふくませ、我が子がその侵入者を躍起になって引き離そうとするのを見て楽しむということを、よくする」(ベイトソン「精神の生態学・P.178」新思索社)
「3 バリ島の音楽、演劇、その他の芸術形態の一般的特徴として、クライマックスの欠如ということが挙げられる。音楽に関して言えば、その進行は型式的な構造に基づき、また強度の変化は、これらの型式的関係の展開のしかたと時間的長さによって規定される。近代の西洋音楽に特徴的な、強度を次第に増しながらクライマックスへと盛り上がっていく構造はなく、よりフォーマルな規則性にしたがって楽音が流れていくのである」(ベイトソン「精神の生態学・P.178」新思索社)
「4 バリ島の文化には、争いごとを処理する技術が確固として存在する。いさかいを起こした二人はきちんとその地区の代官のもとに出頭して、その事実を登記し、こののち最初に口を出した方のものが、科料を払うか、神に奉納することに同意する。この取り決めは、いさかいが収まった時点で正式に破棄される。この措置は『プイッ』と呼ばれるが、小さな子供の喧嘩にもこれを小型にした措置がとられるのは興味深い。ここで重要なのは、当事者の憎しみを取り除いて友好関係に導き入れようという意志が全然働いていないという点だ。むしろこれは、互いの敵対関係を正式に確認する、さらに言えば、関係を一定の敵対状態に凍結する、試みのようである。この解釈が正しければ、バリ島ではいさかいの処理にも、クライマックスをプラトーで置き換える方式が採用されているということになるだろう」(ベイトソン「精神の生態学・P.180」新思索社)
村落共同体を蓄積過剰による破局ではなく常に一定の流れへ置き換えること。個人的自己目的の追求ではなく村落共同体の共存に必要な経済の最低ラインの確保に務めること。どんな「争い/いさかい」の処理にも「クライマックスをプラトーで置き換える」こと。それがバリ島では伝統的に残っていた。
「彼らにあってすべてはこんな風に非人称的に調整される。筋肉の運びも、目玉の回転も、すべてを導き、それにすべてが通る熟考された一種の数学に属さないものはただのひとつもない」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.92~93』河出文庫)
アルトーは「非人称的に調整される」と述べる。非人称的に調整されるとしても、この「調整」は非人称化しておくための調整であってあくまで非人称性を保っておくだけのために調整される非人称性である。その間、問題になっているのは非人称化の維持継続ということであり、非人称化への意志が解かれるわけではけっしてなく、ましてや儀式のあいだに限り、「固有名」などあるはずがない。
「固有名というものは、一個人を指示するのではない。ーーー個人が自分の真の名を獲得するのは、逆に彼が、およそ最も苛酷な非人称化の鍛錬の果てに、自己をすみずみまで貫く多様体に自己を開くときなのである」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.88」河出文庫)
生成変化していく流れの中でその都度瞬間的に与えられる「固有名」。そしてそれは「多様体に自己を開くとき」に限る。無限に変化可能な多様体の瞬間的な把握としてのみ固有名は与えられる。各瞬間ごとにそれはまた別のものになっているということでなくてはならない。無限に多様な諸商品の系列があるとしよう。それらは貨幣と交換されるとき、貨幣との交換が成り立つその瞬間に限り、諸商品はそれぞれ諸商品の系列として出現する。貨幣特有の非人称性は個別的であることを自ら捨て去って逆に特権的象徴性を得ている。それはどこまでも非人称的な仮面に似る。
「そして奇妙であるのは、この徹底的な非人格化において、仮面のように顔に張りついた純粋に筋肉的なこれらの表情の戯れにおいて、すべてが最大の効果をもち、それを取り戻させることである」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.93』河出文庫)
このとき演劇の俳優がもし非人格的なものでなかったとしたら俳優の象徴化はどこまでいっても不可能であろう。だから調整とは俳優を人間一般から切り離しておくための調整という意味で捉えられなければならない。それは儀式のあいだじゅうずっと非人称化された特権的貨幣でなくては意味をなさない。
ところで、かつてアングラ劇団に所属していた劇団員の多くは社会へと戻った。残されたわずかな人々はアングラ演劇の衰退とともにどうなったか。身体芸術を演じる芸術家としての過程を選んで生き残り、幾つか芸術関連の公的な賞を獲得し、現在に至っている。プライバシーに関わる事項なので個人名を上げることはできない。
ーーーーー
なお、余りの長期政権ゆえあちこちで隠蔽に次ぐ隠蔽がまかり通っていることを指摘しておかねばならない。今の日本について何か述べようとするだけですでに監視対象化されているか少なくとも犯罪者予備軍と見なされているかどちらかであるような状況の中に叩き込まれているらしい。日本の政権はアメリカ(共和党/民主党)というよりむしろ見る見るうちに中国共産党化してきた。都合のよくないテレビ報道、新聞記事、ネットでの意見、見解、書籍紹介など、ありとあらゆる分野へ介入している兆候があちこちで見受けられる。抜け切れないアジア性をもろに露呈しているように見えて仕方がない。日本の警察を欧米の警察と比較してみると日米安保にもかかわらず遥かに中国人民解放軍に近い。日本中いたるところに「監視/防犯」と称して無数の小型カメラが設置されている。今の日本政府(自民公明連立政権)はもはや中国共産党中央本部と何ら違わないように見える。だから香港は日本よりむしろ欧米に期待するのである。
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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