リトンは隠れ家に身を潜めてはいる。だが行動をともにしているのはすべてドイツの軍人である。リトンだけがドイツ人ではなくドイツ軍に協力するフランスの対独義勇兵だ。しかし大通りを行進する大規模デモの中に紛れ込んで逃げることはできなくはない。十六歳のリトンにすれば潜伏している建物の中でふつうの普段着を揃えてふらりと街頭に出ればよいだけのことだ。もし見つかってドイツ兵に射殺されるようなことになったとしてもリトンの身体はまた別の価値を生むことになる。
「ドイツ野郎どもはきっと射ってくるだろう。そこで彼は真剣にドイツの弾丸で死ぬ危険をおかすことを考えるのだった」(ジュネ「葬儀・P.357」河出文庫)
敗北濃厚な地下活動に苛立ち始めてきた数人のドイツ兵の中で、リトンは仲間であるにもかかわらず、ドイツ人でないという理由で背後から肛門目掛けて強姦される。というより何ら無抵抗のままレイプされる役割を担う。リトンにとってこの姿勢は間違いなく一つの殉教である。
「浄化と贖罪の気持がその考えにからまって、彼の眼瞼に涙が浮かんだ、がこぼれはしなかった。彼はフランスを裏切ったかもしれないが、フランスのために死ぬことになるのだ」(ジュネ「葬儀・P.357」河出文庫)
リトンはフランスを裏切ってドイツを支援したのだがけっして妥協したのではなく意識的に裏切ったという自覚がある。ところがフランスが勝利すればフランス人リトンのフランスに対する裏切りの価値は下落する。リトンはそれを避けるため、逃走する機会が目の前にありながらそれを冷淡に眺めて過ごし、わざわざドイツ軍と行動をともにする。リトンは裏切り行為に殉教する。しかしリトンだけをフランスから切り離せばそれで済まされることなのか。ドイツ人はもとより、むしろフランス人の中からナチスドイツの協力者を何人も出したという事実、とりわけ首都パリを中心としてフランスは大量の軍事力を所有しておりイギリスやソ連と並んでドイツより遥かに先に全体主義国家の先進国になっていたわけだが、それでもなおナチスドイツに対して「数々の妥協を余儀なくされた」のみならず「それをさまたげる可能性も力ももちあわせていなかった」。第一次大戦の多額の戦後賠償をドイツのみにふっかけてアメリカとともにドイツ人労働者から搾り上げられる限りの労賃を絞り上げて遊んでいた。そこから生まれた憎悪の団結力として出現したナチスドイツの前で、そしてまたそのようなナチスドイツとの「妥協に屈した」という「恥辱」の集積を、フランスはフランス自身の歴史として持ってしまった。取り返しのつかない奇跡的恥辱としてのフランスあるいはヨーロッパ。
「ナチスの強制収容所は私たちの心に『人間が人間であるがゆえの恥辱』を植えつけたと述べるプリーモ・レーヴィの文章に、深い感銘を覚えたことがあります。レーヴィによると、まことしやかに語られていることは間違いで、私たち全員にナチズムの責任があるのではなく、私たちがナチスによって汚された。強制収容所を生き延びた人たちですら、たとえそれが生き残りをかけた窮余の一策だったとはいえ、やはり数々の妥協を余儀なくされた。ナチスになるような人間がいたという恥辱、それをさまたげる可能性も力ももちあわせていなかったという恥辱、そして妥協に屈したという恥辱、こうした恥辱が集まったものを、プリーモ・レーヴィは『グレーゾーン』と呼ぶわけです」(ドゥルーズ「記号と事件・P.345」河出文庫)
だがパリ市民は何もまったく労働していないわけではない。むしろごく普通に勤めている労働者たちである。常識に従って職場におもむいていたまでのことだ。ところがしかし、この「常識」というものが、そもそも曲者(くせもの)なのである。
「人間はただ常識にしたがって行動してきた。その結果が現代の混乱です。どうしてこんなはめになったのか、いまもってわからない。フェアではないという気がするわけです。自分と世界とをひとつにしたシステムにこそ混乱の原因があるのに、それがわからず、自分自身か、またはシステムから自分を除いた残りの部分に、悪の元を投影する。わたしの語った寓話に、ふたつのナンセンスがあったことに気がついたでしょうか。ーーー『《わたしが》罪を犯した』という思いと、『《神が》復讐する』という思いです。われわれのまわりの現実はどうなっているか。目的のために、常識のために、世界のシステム性が無視されているところで、同じような反応がみられはしないでしょうか。目的のために、常識のために、世界のシステム性が無視されているところで、同じような反応がみられはしないでしょうか。ジョンソン大統領としても、ひどい混乱に見舞われているという意識は強くあるはずです。ヴェトナムばかりでなく、国内国外の生態システムのあちこちで、事態はどうしようもなく紛糾している。しかし、彼の立場から見れば、常識にしたがって目的にかなう手を打ってきたわけなので合点がいかない。この混乱は誰の仕業なのか。それとも自分で犯した罪なのか、両方の要素が織り混ざっているのか、それのどれかだとしか考えられない。答えがどこに落ち着くかは彼の性格次第ということになります」(ベイトソン「精神の生態学・P.582」新思索社)
資本主義社会の常識に合わせて生きているということは資本の自己目的の達成のために尽力することと同じ動作の繰り返しである。資本の自己目的は合理性を目指しているが、その合理性はどのような合理性だろうか。一般的な意味の人員削減を指していう合理化は個別的だが、その個別的合理化とは異なる次元で俎上に乗せられなくてはならない、個別的合理化を含めた大規模な自己破壊を押し進める合理性である。
「芸術、宗教、夢、その他われわれの存在の深みに関わる現象から孤立した、単に目的的な合理性は、一種の病原体のようなものであって、生に対し破壊的に働くこと、そして、その破壊性の源は、生というものが偶発的性格をもつ諸回路が多数噛み合ったシステムとして成りたっているのに対し、意識はそれらの回路のうち人間の目的心が誘うことのできる短い弧の部分しか捉えることができないところにあること」(ベイトソン「精神の生態学・P.220」新思索社)
人間は、資本家であっても資本主義の描く弧のほんのごく一部しか意識することはできない。「回路の弧」の部分しか言語化することはできず、意識化された「回路の弧」の部分にしたがってしか考えることもできない。
「回路の弧しか見られない人間は、計算づくの目的的行為が裏目に出て自分を苦しめるという状況に出会うとき、驚きとともに怒りを禁じえない」(ベイトソン「精神の生態学・P.222」新思索社)
たとえば、昨今話題の地球温暖化。そもそも地球の自然循環は新陳代謝を通して自分で自分自身を調整しながら不意打ち的な種々の衝撃を受け止め変化していく力を備えて動いている。だから人間が或る種の衝撃を地球に与えたとすれば地球の側がそれに答える。たとえば世界中のどこにでも古代から中世にかけて人々の往来する道路が整備されていた。道路の土を踏み固めるのは往来する人間と家畜あるいは馬車などである。道路は次第に固定化し草原か木々の連なりよって道路になる。そして逆にそれが道路であるのは草原か木々の連なりによって一つの道路として見えるようになって始めてそこに道路があると認識されるに至る。道路は人間のためにあらかじめ地球に用意されていたわけでは何らない。要するに土を踏み固められてであれ、石畳であれ、古代から中世、近世を経て使われていた道路は、人間が地球に与える衝撃を地球が或る種の情報として受け取ったその返答として形成されてきたものだ。ところが近代資本主義の成立以来、それまでは順調に経過してきた人間と地球との新陳代謝においてただならぬ異変が生じた。現代社会のテクノロジーの高度化が地球に与える衝撃を地球が或る種の情報として受け取ったその返答として、今の地球温暖化とそれにともなう食物連鎖の危機が出現した。
「リトンの脇腹の下へ廻した兵士の両手は相手の身体を心もち持ち上げ、いっぽう彼は尻に注いだ全身のちからで、真剣に、冷静に襲いかかるのだった。リトンはまず竿がぴくつくのを感じ、そしてついに断たれた動脈から流れ出る血のように、次第にゆるやかな動悸を打ちながら熱い液体がほとばしるのを感じ取った。北方のあんちゃんが彼の青銅(けつ)の眼(あな)に射精した」(ジュネ「葬儀・P.368」河出文庫)
リトンは自分の側から見切りをつけたフランスのためにドイツ兵士に犯されることを選ぶ。
ーーーーー
さて、アルトー。ヘリオガバルスが隅々まで計算された知性を重んじるタイプであることがよくわかる部分。太陽信仰と月経の宗教に基づいた計画性による統一に成功している。アナーキーにもかかわらず。
「食事の終わりが示しているのは、彼が振り出しに戻り、空間のなかで円を閉じ、この円のなかで、彼の消化の二つの極をしっかりしたものにしたということである」(アルトー「ヘリオガバルス・P.202」河出文庫)
一方で過剰なアナーキーは相変わらず現実化されたヘリオガバルス固有の《詩において》、帝国そのものの《身体化において》、ローマを無秩序と残酷と官能の祝祭に叩き込んで止まない。
「ヘリオガバルスは、芸術の探究を、最も不条理な華麗さのなかにある儀式と詩の探究を病気の発作にまで押し進めた」(アルトー「ヘリオガバルス・P.202」河出文庫)
ところが太陽信仰の信仰者でないキリスト教徒ユリア・マンマエアの地下工作は常に行われている。しかし注目すべきはヘリオガバルスが、もはや単なる既製品に過ぎなくなっていたキリスト教ではなく、紛れもない太陽信仰の体現者として、統一としてのアナーキーという思想に生きたという事実にある。
「彼の死は彼の人生の総仕上げである。そしてローマの視点からすれば正しい彼の死は、またヘリオガバルスの視点からしても正しい。ヘリオガバルスはひとりの反逆者としては不名誉な死に方をしたが、彼は自らの思想のために死んだのである」(アルトー「ヘリオガバルス・P.204」河出文庫)
ーーーーー
演劇論。アルトーの関心は「身振りと変化に富んだジェスチャー」である。
「バリ島の人々は、生のあらゆる状況に対する身振りと変化に富んだジェスチャーをもっていて、演劇の取り決めに高度な価値を再び与える」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.87』河出文庫)
ただ、身振りと変化に富んだジェスチャーだけをいうなら、西洋の演劇にもある。アルトーがいうのは同じ身振り仕草であっても、さらにそれらが豊富かどうかにかかわらず、両者の演劇のあいだには根本的に「異質なもの/差異的なもの」があるという違いの発見である。どちらが偉い偉くないは問題外である。次の文章では音楽的なもの、「眼球のメカニックな転がし方」、「筋肉の痙攣の配分」、「一種の精神的建築」、などといった「リズム」との深い関係が重視される。
「あれらの眼球のメカニックな転がし方、あれらのとがらした唇、あの筋肉の痙攣の配分は、方法的に計算された効果をもっていて、自発的な即興に頼ることができないようにされており、水平的な運動で動くあれらの頭はまるでレールにはまり込んだかのように肩から肩へと転がっていくように見えるのだが、そういったすべては、直接的な心理的必然性に対応し、おまけに一種の精神的建築に対応していて、その建築は身振りとジェスチャーからできているが、しかし同じくひとつのリズムを喚起する力、身体的運動の音楽的な質、ひとつの音調の平行的で見事に溶け合った和音からもなっている」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.87~88』河出文庫)
そして「見事に溶け合った和音」とある。ちなみにドゥルーズとガタリは「民衆」と「全体」というカテゴリーを持ち出してマーラーの交響曲に言及している。マーラー「大地の歌」では「全体」でなしに「民衆の力」が選択されていると述べる。
「ラテン系諸国やスラヴ系諸国ではロマン主義が従来とは違った様相をおびるーーー。従来とは別の名前や別の標識が必要になることもある。これらの国々ではすべてが民衆の主題を、そして民衆の力という主題を経由する」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.380」河出文庫)
だからといって全体か民衆かが問題なのではない。音楽は極めて政治的なものだということが問題なのだ。バリ島の演劇が西洋とは違った形式によって演じられているにもかかわらず、それは村落共同体の維持存続、持続可能性、経済的最低ラインの確保に重点が置かれた政治的なものだ。
「群衆と全体のいずれか一方にナショナリズムが多く、もう一方はそれが少ないなどと考えてはならない。なぜなら、ナショナリズムはロマン主義的形象のいたるところに浸透し、それがあるときは積極的な推進力として、またあるときはブラックホールとして作用するからだ(そしてイタリアのファシズムがヴェルディを利用したとしても、それはナチズムがワグナーを利用したのに比べるとはるかにつつましやかなものだ)。この問題はまさに音楽の問題なのであり、技術的な意味で音楽の問題なのである。音楽の問題だからこそ、なおさら政治がかかわってくる」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.380」河出文庫)
さらにワグナーとヴェルディとの比較では乱暴な比較になってしまうことが少なくないからだろうと思われるが、他の音楽家の音楽、ムソルグスキーやバルトークをも参照すべきだとする。「非-ワグナー的」な音楽として。
「ムソルグスキーの音楽が群衆の様相を呈することができたのはどうしてなのか。バルトークの音楽が民謡や世俗の歌謡を支えに、群生自体を音楽にし、器楽的、管弦楽的にして、それが<可分性>の音階や、驚異的な半音階法を新たに提起することになったのはどうしてなのか。これらすべてが非-ワグナー的な道を示している」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.383~384」河出文庫)
とはいえ、最もワグナー的でないのは現代音楽やノイズではなくむしろシューマンだと考えている。その音楽を聴いているとなぜドゥルーズとガタリがシューマンを出してきたのかはわかる。シューマンの楽曲にはどれほど解説書を読んだとしてもわからないほど余りにも自然な不自然さがある。シューマンにとってはそれこそ自然なのだという意味の不自然さが。容易にそれとわからない狂気の匂いが美しい流れとなっていて、リスナーはただその流れに身を任せればよい。狂気は自分と遠いところにあるのではなくむしろ近傍、最も近いところにあって同じように流れているのである。
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM
「ドイツ野郎どもはきっと射ってくるだろう。そこで彼は真剣にドイツの弾丸で死ぬ危険をおかすことを考えるのだった」(ジュネ「葬儀・P.357」河出文庫)
敗北濃厚な地下活動に苛立ち始めてきた数人のドイツ兵の中で、リトンは仲間であるにもかかわらず、ドイツ人でないという理由で背後から肛門目掛けて強姦される。というより何ら無抵抗のままレイプされる役割を担う。リトンにとってこの姿勢は間違いなく一つの殉教である。
「浄化と贖罪の気持がその考えにからまって、彼の眼瞼に涙が浮かんだ、がこぼれはしなかった。彼はフランスを裏切ったかもしれないが、フランスのために死ぬことになるのだ」(ジュネ「葬儀・P.357」河出文庫)
リトンはフランスを裏切ってドイツを支援したのだがけっして妥協したのではなく意識的に裏切ったという自覚がある。ところがフランスが勝利すればフランス人リトンのフランスに対する裏切りの価値は下落する。リトンはそれを避けるため、逃走する機会が目の前にありながらそれを冷淡に眺めて過ごし、わざわざドイツ軍と行動をともにする。リトンは裏切り行為に殉教する。しかしリトンだけをフランスから切り離せばそれで済まされることなのか。ドイツ人はもとより、むしろフランス人の中からナチスドイツの協力者を何人も出したという事実、とりわけ首都パリを中心としてフランスは大量の軍事力を所有しておりイギリスやソ連と並んでドイツより遥かに先に全体主義国家の先進国になっていたわけだが、それでもなおナチスドイツに対して「数々の妥協を余儀なくされた」のみならず「それをさまたげる可能性も力ももちあわせていなかった」。第一次大戦の多額の戦後賠償をドイツのみにふっかけてアメリカとともにドイツ人労働者から搾り上げられる限りの労賃を絞り上げて遊んでいた。そこから生まれた憎悪の団結力として出現したナチスドイツの前で、そしてまたそのようなナチスドイツとの「妥協に屈した」という「恥辱」の集積を、フランスはフランス自身の歴史として持ってしまった。取り返しのつかない奇跡的恥辱としてのフランスあるいはヨーロッパ。
「ナチスの強制収容所は私たちの心に『人間が人間であるがゆえの恥辱』を植えつけたと述べるプリーモ・レーヴィの文章に、深い感銘を覚えたことがあります。レーヴィによると、まことしやかに語られていることは間違いで、私たち全員にナチズムの責任があるのではなく、私たちがナチスによって汚された。強制収容所を生き延びた人たちですら、たとえそれが生き残りをかけた窮余の一策だったとはいえ、やはり数々の妥協を余儀なくされた。ナチスになるような人間がいたという恥辱、それをさまたげる可能性も力ももちあわせていなかったという恥辱、そして妥協に屈したという恥辱、こうした恥辱が集まったものを、プリーモ・レーヴィは『グレーゾーン』と呼ぶわけです」(ドゥルーズ「記号と事件・P.345」河出文庫)
だがパリ市民は何もまったく労働していないわけではない。むしろごく普通に勤めている労働者たちである。常識に従って職場におもむいていたまでのことだ。ところがしかし、この「常識」というものが、そもそも曲者(くせもの)なのである。
「人間はただ常識にしたがって行動してきた。その結果が現代の混乱です。どうしてこんなはめになったのか、いまもってわからない。フェアではないという気がするわけです。自分と世界とをひとつにしたシステムにこそ混乱の原因があるのに、それがわからず、自分自身か、またはシステムから自分を除いた残りの部分に、悪の元を投影する。わたしの語った寓話に、ふたつのナンセンスがあったことに気がついたでしょうか。ーーー『《わたしが》罪を犯した』という思いと、『《神が》復讐する』という思いです。われわれのまわりの現実はどうなっているか。目的のために、常識のために、世界のシステム性が無視されているところで、同じような反応がみられはしないでしょうか。目的のために、常識のために、世界のシステム性が無視されているところで、同じような反応がみられはしないでしょうか。ジョンソン大統領としても、ひどい混乱に見舞われているという意識は強くあるはずです。ヴェトナムばかりでなく、国内国外の生態システムのあちこちで、事態はどうしようもなく紛糾している。しかし、彼の立場から見れば、常識にしたがって目的にかなう手を打ってきたわけなので合点がいかない。この混乱は誰の仕業なのか。それとも自分で犯した罪なのか、両方の要素が織り混ざっているのか、それのどれかだとしか考えられない。答えがどこに落ち着くかは彼の性格次第ということになります」(ベイトソン「精神の生態学・P.582」新思索社)
資本主義社会の常識に合わせて生きているということは資本の自己目的の達成のために尽力することと同じ動作の繰り返しである。資本の自己目的は合理性を目指しているが、その合理性はどのような合理性だろうか。一般的な意味の人員削減を指していう合理化は個別的だが、その個別的合理化とは異なる次元で俎上に乗せられなくてはならない、個別的合理化を含めた大規模な自己破壊を押し進める合理性である。
「芸術、宗教、夢、その他われわれの存在の深みに関わる現象から孤立した、単に目的的な合理性は、一種の病原体のようなものであって、生に対し破壊的に働くこと、そして、その破壊性の源は、生というものが偶発的性格をもつ諸回路が多数噛み合ったシステムとして成りたっているのに対し、意識はそれらの回路のうち人間の目的心が誘うことのできる短い弧の部分しか捉えることができないところにあること」(ベイトソン「精神の生態学・P.220」新思索社)
人間は、資本家であっても資本主義の描く弧のほんのごく一部しか意識することはできない。「回路の弧」の部分しか言語化することはできず、意識化された「回路の弧」の部分にしたがってしか考えることもできない。
「回路の弧しか見られない人間は、計算づくの目的的行為が裏目に出て自分を苦しめるという状況に出会うとき、驚きとともに怒りを禁じえない」(ベイトソン「精神の生態学・P.222」新思索社)
たとえば、昨今話題の地球温暖化。そもそも地球の自然循環は新陳代謝を通して自分で自分自身を調整しながら不意打ち的な種々の衝撃を受け止め変化していく力を備えて動いている。だから人間が或る種の衝撃を地球に与えたとすれば地球の側がそれに答える。たとえば世界中のどこにでも古代から中世にかけて人々の往来する道路が整備されていた。道路の土を踏み固めるのは往来する人間と家畜あるいは馬車などである。道路は次第に固定化し草原か木々の連なりよって道路になる。そして逆にそれが道路であるのは草原か木々の連なりによって一つの道路として見えるようになって始めてそこに道路があると認識されるに至る。道路は人間のためにあらかじめ地球に用意されていたわけでは何らない。要するに土を踏み固められてであれ、石畳であれ、古代から中世、近世を経て使われていた道路は、人間が地球に与える衝撃を地球が或る種の情報として受け取ったその返答として形成されてきたものだ。ところが近代資本主義の成立以来、それまでは順調に経過してきた人間と地球との新陳代謝においてただならぬ異変が生じた。現代社会のテクノロジーの高度化が地球に与える衝撃を地球が或る種の情報として受け取ったその返答として、今の地球温暖化とそれにともなう食物連鎖の危機が出現した。
「リトンの脇腹の下へ廻した兵士の両手は相手の身体を心もち持ち上げ、いっぽう彼は尻に注いだ全身のちからで、真剣に、冷静に襲いかかるのだった。リトンはまず竿がぴくつくのを感じ、そしてついに断たれた動脈から流れ出る血のように、次第にゆるやかな動悸を打ちながら熱い液体がほとばしるのを感じ取った。北方のあんちゃんが彼の青銅(けつ)の眼(あな)に射精した」(ジュネ「葬儀・P.368」河出文庫)
リトンは自分の側から見切りをつけたフランスのためにドイツ兵士に犯されることを選ぶ。
ーーーーー
さて、アルトー。ヘリオガバルスが隅々まで計算された知性を重んじるタイプであることがよくわかる部分。太陽信仰と月経の宗教に基づいた計画性による統一に成功している。アナーキーにもかかわらず。
「食事の終わりが示しているのは、彼が振り出しに戻り、空間のなかで円を閉じ、この円のなかで、彼の消化の二つの極をしっかりしたものにしたということである」(アルトー「ヘリオガバルス・P.202」河出文庫)
一方で過剰なアナーキーは相変わらず現実化されたヘリオガバルス固有の《詩において》、帝国そのものの《身体化において》、ローマを無秩序と残酷と官能の祝祭に叩き込んで止まない。
「ヘリオガバルスは、芸術の探究を、最も不条理な華麗さのなかにある儀式と詩の探究を病気の発作にまで押し進めた」(アルトー「ヘリオガバルス・P.202」河出文庫)
ところが太陽信仰の信仰者でないキリスト教徒ユリア・マンマエアの地下工作は常に行われている。しかし注目すべきはヘリオガバルスが、もはや単なる既製品に過ぎなくなっていたキリスト教ではなく、紛れもない太陽信仰の体現者として、統一としてのアナーキーという思想に生きたという事実にある。
「彼の死は彼の人生の総仕上げである。そしてローマの視点からすれば正しい彼の死は、またヘリオガバルスの視点からしても正しい。ヘリオガバルスはひとりの反逆者としては不名誉な死に方をしたが、彼は自らの思想のために死んだのである」(アルトー「ヘリオガバルス・P.204」河出文庫)
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演劇論。アルトーの関心は「身振りと変化に富んだジェスチャー」である。
「バリ島の人々は、生のあらゆる状況に対する身振りと変化に富んだジェスチャーをもっていて、演劇の取り決めに高度な価値を再び与える」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.87』河出文庫)
ただ、身振りと変化に富んだジェスチャーだけをいうなら、西洋の演劇にもある。アルトーがいうのは同じ身振り仕草であっても、さらにそれらが豊富かどうかにかかわらず、両者の演劇のあいだには根本的に「異質なもの/差異的なもの」があるという違いの発見である。どちらが偉い偉くないは問題外である。次の文章では音楽的なもの、「眼球のメカニックな転がし方」、「筋肉の痙攣の配分」、「一種の精神的建築」、などといった「リズム」との深い関係が重視される。
「あれらの眼球のメカニックな転がし方、あれらのとがらした唇、あの筋肉の痙攣の配分は、方法的に計算された効果をもっていて、自発的な即興に頼ることができないようにされており、水平的な運動で動くあれらの頭はまるでレールにはまり込んだかのように肩から肩へと転がっていくように見えるのだが、そういったすべては、直接的な心理的必然性に対応し、おまけに一種の精神的建築に対応していて、その建築は身振りとジェスチャーからできているが、しかし同じくひとつのリズムを喚起する力、身体的運動の音楽的な質、ひとつの音調の平行的で見事に溶け合った和音からもなっている」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.87~88』河出文庫)
そして「見事に溶け合った和音」とある。ちなみにドゥルーズとガタリは「民衆」と「全体」というカテゴリーを持ち出してマーラーの交響曲に言及している。マーラー「大地の歌」では「全体」でなしに「民衆の力」が選択されていると述べる。
「ラテン系諸国やスラヴ系諸国ではロマン主義が従来とは違った様相をおびるーーー。従来とは別の名前や別の標識が必要になることもある。これらの国々ではすべてが民衆の主題を、そして民衆の力という主題を経由する」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.380」河出文庫)
だからといって全体か民衆かが問題なのではない。音楽は極めて政治的なものだということが問題なのだ。バリ島の演劇が西洋とは違った形式によって演じられているにもかかわらず、それは村落共同体の維持存続、持続可能性、経済的最低ラインの確保に重点が置かれた政治的なものだ。
「群衆と全体のいずれか一方にナショナリズムが多く、もう一方はそれが少ないなどと考えてはならない。なぜなら、ナショナリズムはロマン主義的形象のいたるところに浸透し、それがあるときは積極的な推進力として、またあるときはブラックホールとして作用するからだ(そしてイタリアのファシズムがヴェルディを利用したとしても、それはナチズムがワグナーを利用したのに比べるとはるかにつつましやかなものだ)。この問題はまさに音楽の問題なのであり、技術的な意味で音楽の問題なのである。音楽の問題だからこそ、なおさら政治がかかわってくる」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.380」河出文庫)
さらにワグナーとヴェルディとの比較では乱暴な比較になってしまうことが少なくないからだろうと思われるが、他の音楽家の音楽、ムソルグスキーやバルトークをも参照すべきだとする。「非-ワグナー的」な音楽として。
「ムソルグスキーの音楽が群衆の様相を呈することができたのはどうしてなのか。バルトークの音楽が民謡や世俗の歌謡を支えに、群生自体を音楽にし、器楽的、管弦楽的にして、それが<可分性>の音階や、驚異的な半音階法を新たに提起することになったのはどうしてなのか。これらすべてが非-ワグナー的な道を示している」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.383~384」河出文庫)
とはいえ、最もワグナー的でないのは現代音楽やノイズではなくむしろシューマンだと考えている。その音楽を聴いているとなぜドゥルーズとガタリがシューマンを出してきたのかはわかる。シューマンの楽曲にはどれほど解説書を読んだとしてもわからないほど余りにも自然な不自然さがある。シューマンにとってはそれこそ自然なのだという意味の不自然さが。容易にそれとわからない狂気の匂いが美しい流れとなっていて、リスナーはただその流れに身を任せればよい。狂気は自分と遠いところにあるのではなくむしろ近傍、最も近いところにあって同じように流れているのである。
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM