白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

言語化するジュネ/流動するアルトー99

2020年01月25日 | 日記・エッセイ・コラム
神と悪魔とのあいだに明確な境界線を引くことは可能だろうか。善悪はつねに確実だろうか。むしろそれはしばしば移動していないだろうか。移動しているとすれば善悪のあいだに境界線はあると同時にないということになる。少なくとも移動可能である。ジュネは生涯の半分を刑務所で過ごした。善悪のあいだには明確な境界線があるとされる風土で生まれ育ったわけだが、刑務所に収監されるよりずっと前、すでに孤児として生まれ捨てられた。しかし幸いというべきか好奇心旺盛だったジュネは刑務所を自らの知性開拓のための学校に変えた。もっとも、年少者だった頃のジュネは年長者の側が圧倒的多数を占める刑務所の中でそうとう苦痛に満ちた痛々しい経験を繰り返し味わったわけだが。

「この物語をでっち上げている私にとって、いったい何が問題になっているのか?」(ジュネ「花のノートルダム・P.34」河出文庫)

その通り。どんな小説であれ、それが小説という形式に還元される限り、少なくとも一滴の「でっち上げ」を含む。ところがジュネは小説が創作であることを知っている。「創作すること」と「でっち上げること」との間に、何かこれといった差異が存在するのだろうか。言葉は同じでもまったく別のことを意味する場合の逆であって、別々の言葉を用いて同じことを意味しているに過ぎない。さらにジュネは創作という「でっち上げ」がとても好きで、性格的にも合っており、刑務所内で囚人たちが書く詩や作文をまとめた文集でも非凡な文才を見せていた。この文才は小説において遺憾なく発揮される。ジュネの書く小説の登場人物はどれも「泥棒、裏切り者、性倒錯者」に向けてジュネがそうあってほしいと願うような様々な衣装にまとわれて登場する。宮中を行ったり来たりする貴族の衣装であったり、襤褸(ぼろ)をまとってアンダルシア地方をよろよろとさまよう物乞いの衣装だったりする。そしてそれらはしばしばパッチワークと化して混ざり合う。混ざり合った衣装は襤褸(ぼろ)ばかりを組み合わせただけなので変てこだと言われ馬鹿にされたりする一方、たまたま逆に軽妙洒脱で粋な衣装に見える場合、仲間たちの賞賛と畏怖の的になったりする。まず最初に賞賛し畏怖するのはジュネなのだが、賞賛し畏怖の念を表明するやいなや、というよりその前すでに、自分から発した賞賛や畏怖にもかかわららず、むしろそれゆえに、賞賛や畏怖の念に泥を塗りたくり徹底的に汚辱まみれにするための何か最適な方法はないか、しきりに身悶えする。そしてこの身悶えからさらなる悦楽を手に入れる。極めて入念で緻密で計画的な欲望の生産に励むのである。次の文章でジュネは創作に当たって「人生を取り戻す」と述べるが、そのために惜しげもなく用いられる言語とその手品は、ジュネの人生を徹底的な汚辱のどん底へ叩き込むために用いられる。そうすることこそジュネにとって「人生を取り戻す」ことにほかならない。

ジュネはパリを始めとするヨーロッパの都会の華麗な繁華街に出る。出て、その足ですぐ裏側の薄暗く塵だらけの街路へ向かう。華麗な繁華街の裏側に位置する薄暗く塵だらけの街路というものは、世界中いつどこでもそうであるように、凶暴な静寂に支配された色鮮やかなタペストリー溢れるもう一つの繁華街でもある。その華麗さはーーージュネの生きた時代ーーー安下宿で暮らすジュネたちの身体を棲み家とする虱(しらみ)がどれほど大量に繁殖したかによって計測される。隠しようのない臭いも漂っている。もっとも、この臭いはただ単なる裏街の臭いばかりでない。犯罪と犯罪者との接点が微妙で繊細な弧を描くときにあたかも立ち小便のように不意に垂れ流される独特の臭さが混じっている。単に裏ぶれただけの裏街ではほとんど漂うことのない画期的な犯罪のみが発する微妙この上ない犯罪の線。この線は他の臭いに隠されつつなお臭うのである。ジュネたちは特に敏感だが読者もまた敏感かもしれない。ジュネはそこで小説を書く。最底辺として書く。それがさらなる至福でもある。

「私の人生を取り戻し、その流れを遡ることによって、私の独房を、ほんのちょっとしたことがなければ私が危うくそうなりかけたものになるという快感で満たし、そしてまるで黒い穴のなかに身を投じるために、地下の天空の落とし穴によって入り組んだ仕切りを通りぬけて私が彷徨っていたあれらの瞬間を再び見出すこと」(ジュネ「花のノートルダム・P.34~35」河出文庫)

現実は二度とない。わかりきったことだ。とすれば小説において反復されるのは一体何なのか。

「悪臭のする空気の容積をゆっくり移動させ、ブーケの形をした感情がそこにぶら下がっている糸を断ち切り、星で一杯になったどの河かはわからない河から、濡れて、苔の髪をした、ヴァイオリンを弾き、ナイトクラブの緋色のビロードでできたドアカーテンによって悪魔のように隠された、私の探しているあのジプシーが恐らく突然現れるのを見ること」(ジュネ「花のノートルダム・P.35」河出文庫)

そして「ジプシー」はいつも「突然現れる」。用心するに越したことはないだろう。
ーーーーー
さて、アルトー。次の一節はありふれた言葉だろうか。

「精神のなかには、非合法の性的交渉のためにあるような専用地区などない」(アルトー「傑作と縁を切る」『演劇とその分身・P.120』河出文庫)

もちろん、ない。だからアルトーはたぶん古代ギリシア悲劇「オイディプス」について語ろうとしているのだと、読者は考える。あるいは乱行に関して。ところがアルトーの試みは「オイディプス」が傑作であろうとなかろうと、実際は、全然観客がいないというのはなぜなのか、と足下の現実に目を移動させてみることである。

「大衆が傑作に見向きもしないのは、これらの傑作が文学であり、要するに固定されていて、時代の欲求にしか応えない形式のうちに固定されているからだ」(アルトー「傑作と縁を切る」『演劇とその分身・P.123』河出文庫)

だからといって、大衆と演劇との間に置かれている遮蔽物を問題視し、それを取っ払ってしまえば済む問題でもまたない、とアルトーはいう。問題は古代ギリシア悲劇が「傑作」であるのは確かだとしてみても、それをただ単なる「偶像崇拝」の次元へ棚上げしてしまったばかりか、さらになお実際に棚上げできてしまえたという事情について、アルトーは絶望している。

「大衆と観客を非難するどころか、われわれはわれわれと大衆の間にわれわれが置いた形式の遮蔽物を非難すべきであり、この新しい偶像崇拝の形、この固定された傑作の偶像崇拝を非難すべきであるが、その偶像崇拝はブルジョワ的順応主義の諸様相のひとつなのである」(アルトー「傑作と縁を切る」『演劇とその分身・P.123』河出文庫)

アルトーのいう「ブルジョワ的順応主義」はなるほど様々な仕方で蔓延している。そしてそれはすべての世界を覆い尽くしているのだが、覆い尽くしている世界を構成しているのはほかでもない個々別々の人間である。人間というものもまた「ブルジョワ的順応主義の諸様相のひとつなの」だ。もっとも、「偶像崇拝」はアルトーのいうように、「ブルジョワ的順応主義の諸様相のひとつなのである」には違いないけれども、この種の「偶像崇拝」が成立したのは「ブルジョワ的順応主義」の世界的蔓延と別々に進行したわけではない。「ブルジョワ的順応主義」の世界的蔓延と「偶像崇拝」の成立は同時である。この場合の「ブルジョワ」、「ブルジョワ的順応主義」というときの「ブルジョワ」は、資本主義的市民社会の一員というほどの意味しか持たない。今や人間は資本主義的市民社会の一員として「ブルジョワ的順応主義」に沿って日常生活のすべての動作に従事している。ニーチェのいう「俳優としてのユダヤ人」はもちろん、すべての市民社会は、その胎内からつねに「ユダヤ人」を生み出す。

「市民社会はそれ自身の内蔵から、たえずユダヤ人を生みだす」(マルクス「ユダヤ人問題によせて」『ユダヤ人問題によせて/ヘーゲル法哲学批判序説・P.62』岩波文庫)

だからといってすべてのユダヤ人が俳優だというわけではなく、ましてやブルジョワだというわけでもない。ただ、ほとんどすべての市民社会はもはや「ブルジョワ的順応主義《者》」ばかりしか生み出すことができない機械装置と化したことは明白だというべきだろう。慣習化がその方向をさらに強固なものへと打ち固める。次のような事態が生じてきた。

「大衆が劇場に行く習慣がなくなったのは、われわれが演劇を低級な芸術、世俗の気晴らしの一手段と見なすようになってしまったのは、しかもわれわれの悪しき本能のはけ口としてそれを利用するようになったのは、それが演劇であり、すなわち嘘と幻想でできているとあまりに言われすぎたからである。四百年前から、すなわちルネッサンス以来、純粋に描写的で、物語る演劇、心理を物語る演劇にわれわれが慣らされてきたからである」(アルトー「傑作と縁を切る」『演劇とその分身・P.124』河出文庫)

慣習化を加速させた要因のなかに、観衆の側が強迫神経症的切迫感をもって要請してくる観衆自身の「身元確認」という欲望がある。バルトはこういっている。

「いかなる文化からも排除されているプロレタリアートと、『文学』そのものをすでに問題化しはじめた知識階級のあいだにいる、小中学校的な凡庸な文学愛好家。つまり大まかに言って、プチ・ブルジョア階級である。彼らはだからこそ、自分の身元を明白に分かりやすく見せる記号すべてをもった『文学』という特権的なイメージを芸術-写実主義的エクリチュールーーーそこから多くの商業小説が生まれることになるーーーのなかに見いだそうとする」(バルト「エクリチュールと革命」『零度のエクリチュール・P.86』みすず書房)

文学、演劇、絵画、音楽、漫画、映画、等々、どこかに自分の分身たる「鏡像」を見つけることで自分で自分自身に安心を与えたいという病的欲望の反復が顕著に見られる。もっとも、バルトのいう「身元確認」欲望は一八四八年二月革命での衝突によって発生した欲望であるが。というのは、その衝突の瞬間、三つの階級(資本家、土地所有者、労働者)は始めて目に見えるものとして強烈な分裂を起こし、諸階級として出現したからである。市民社会の構成員はどの構成員であろうとなかろうと文学の中に自分の分身を発見することで自分自身が今どのような社会的位置に置かれているのかを確認するとともにそこに描かれた言動をそっくりそのまま何度も繰り返し反復することに習熟した。するともう自分が置かれている位置からしかものを見たり考えたりすることができなくなる。文学や演劇は舞台上に市民社会の構成員を登場させて観衆に対して、観衆自身が今現在どのような社会的位置にいるのかいつも計測させておくための測度機と化した。計算すること、鏡像に合わせて行動すること、俳優であり仮面であること。社会的規範の内部に収まっておくこと。それらを定期的かつ無意識的に繰り返し登録しておくこと。さらにこれらをより一層大規模に再生産すること。

「それは一方ではスペクタクル、他方では観客とともに、もっともらしいが浮世離れした人物を舞台の上で生かすことに何かと工夫を凝らしたからであるーーーそしてもはや大衆に対して大衆がそうであるところの鏡しか示さなくなったからである」(アルトー「傑作と縁を切る」『演劇とその分身・P.124』河出文庫)

自分で自分の似姿を映し合い安心して憩っている姿はあたかも「9.11」で崩壊する以前の、互いが互いの鏡となり、向き合い、互いが互いの似姿を日々映し上げて互いが互いを誇らしげに思いながら深い安堵のうちに世界を支配していると思い込んでいられた幸せな建築物、二棟の世界貿易センタービルの酔い心地に似ている。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

BGM