白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

言語化するジュネ/流動するアルトー91

2020年01月17日 | 日記・エッセイ・コラム
隠れ家からの逃走が計画にのぼってきた。単純にいえば「夜陰に乗じて」建物を離れ差し当たり「ヴァンセンヌの森まで」逃れようというのだ。しかしもし生きてドイツのベルリンへ戻ることができたとしても、おそらくそこにはソ連軍が大挙して待ち構えているだろう。持ち堪えることなど考えられもしない。死はすぐ近くにあった。リトンは死神を見つめ死神に見つめられていた。そんなとき、どうしてなのかはわらかないものの、長く拒否し棚上げしていた感情が不意に逆傾斜することがある。エリックとの性行為に身を任せてもいいと思うようになっていた。リトンは自分の尻でエリックの男性器を測定する。

「エリックの陰茎(ちんぼう)からは、青銅(けつ)の眼(あな)の中に注ぐのに、白い薔薇の花しか飛び出さなかった。薔薇は陰茎(ちんぼう)から、ゆっくりと一搏(う)ちごとに勢いよく、だが一定の間をおいて、まるくすぼめた口からもれる葉巻の煙の輪のように、円く重たく、溢れ出るのだった」(ジュネ「葬儀・P.383」河出文庫)

ジュネのいう「白い薔薇の花」。それはエリックがリトンの内部へ向けて背後から放つ愛の情動だ。情動は食物ではないので内臓を経由する必要がない。直接的にリトンの身体内部に蓄積される。嬉々として暴発する銃撃戦のさなかでフランス人リトンはフランス人の手にかかって死ぬ。フランスを裏切った十六歳の少年リトンとしてはドイツ人に殺されるよりは遥かに本望だろう。ジュネはいう。エリックがリトンの体内に放った「白い薔薇の花」。死体となったリトンの「胸を断ち割ってみれば」、このエリックとの情交のときに放たれた「花の幾輪かが見つかる」だろうと。

「リトンはそれが内蔵よりも近道をとおって自分の中へ、胸のあたりまで登ってくるのを感じていた。その香りは胸一杯にこもり、口の中がその匂いで染まらないのが不思議なくらいだった。リトンがフランス人の手にかかって殺されてしまった現在、その胸を断ち割ってみれば、胸郭の骨組みにひっかかった、まだ枯れきっていない、このときの花の幾輪かが見つかるのではなかろうか」(ジュネ「葬儀・P.383~384」河出文庫)

二人は情交しつつ別々のことを考える。しかしいったん始まった情交を止めることは誰にもできない。

「(外科医に識り合いがおれば)とも考えるのだった。(こいつを自分に移植させるんだが。なんといったところで、この男はドイツ人だ。去勢したところで別に悪いことではない)お互いの愛情にもかかわらず、どちらもドイツ人とフランス人でとどまっていた。リトンの食いしんぼうな口の中に睾丸を収め、乱れたちぢれ髪の中にエリックは指を滑らせた。(俺を噛みちぎろうと思えばできるだろう)と心の中で考えるのだった。(この男にとっては俺はドイツ野郎にすぎない、俺を食い平らげることだってできるのだ)」(ジュネ「葬儀・P.387」河出文庫)
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さて、アルトー。ヘリオガバルスはみずから市街に火を放ち、火の神としてアナーキーを再燃させる。いったん治った秩序をさっそく瓦解させる。もちろん、ユリア・マンマエアの政治的工作は今後も濫発されるにきまっているからなのだが。しかしそれ以上にヘリオガバルスは皇帝として、自分の太陽信仰に、自分の思想に、徹底的に忠実であることを望む。これまでどの皇帝も達成できなかたばかりか考え及びもしなかったローマ帝国自身による太陽信仰という転倒を成し遂げたのは自分だけだという自負がある。だが戦闘は猶予を与えない。血に飢えたキリスト教の軍隊は宮廷に乱入してヘリオガバルスとその母ユリア・ソエミアを処刑すべく武装闘争を再開する。

「名づけようのない恐慌がヘリオガバルスと母をとらえる。彼らは四方八方から死が迫るのを感じる。大きな松が木陰をつくる、ティベリス河に向かって傾斜する庭に飛び出す。奥まった一角の、列をなしてかぐわしい黄楊(つげ)と西洋ヒイラギガシのぶあつい茂みの後ろに、露天の戦闘員用の便所が、土地を掘り返した畝のように広がっている」(アルトー「ヘリオガバルス・P.207」河出文庫)

追い詰められるヘリオガバルスその母ユリア・ソエミア。身を隠そうとするが目の前には「露天の戦闘員用の便所が、土地を掘り返した畝のように広がっている」ばかりだ。

「ティベリス河はあまりに遠くにある。兵士たちはあまりに近い。ヘリオガバルスは半狂乱になって、便所のなかに一気に飛び込み、糞便のなかに沈む。それが最後である」(アルトー「ヘリオガバルス・P.207~208」河出文庫)

殺すだけでは無意味である。ヘリオガバルスは殺されたということをローマ市民の目の前で公然と「見せつける」必要がある。

「部隊は彼を目撃し、追いつく。そしてすでに彼自身の親衛隊が彼の髪の毛をつかんでいる。ここにあるのは肉切り台の光景、むかつくような虐殺、古めかしい場の絵だ。糞便が血と混じり、ヘリオガバルスとその母の肉をかきまわす剣についた血のりと同時に跳ねかかる」(アルトー「ヘリオガバルス・P.208」河出文庫)

とはいえ、これ以上ないというほど切り刻まれ損壊された屍体を市中引き回しにする作業がまだ残っている。当時はマスコミが発展していなかったため、わざわざローマ市中を引き回しして見せしめにするという大袈裟な身振りが必要とされていた。
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演劇論。演劇なので当然「ざわめき」はある。だが、「精神は最終的にそれを混同せざるを得なくな」る、とアルトーはのべる。

「これらすべてのざわめきは運動に結びついていて、ざわめきと同じ質をもった身振りの自然な完成のようなものである。そしてそれは音楽的アナロジーのこういった感覚をともなっていて、精神は最終的にそれを混同せざるを得なくなり、楽団の音響的な特性を芸術家たちの文節された身振りのものとしてしまうーーーそしてその逆も」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.94』河出文庫)

この混同はしかし、やってはならない混同ではなく、むしろ混同されてしかるべき混同であって、言い換えれば一種の交響楽のようなものだ。交響曲を聴いているとき、これは第一ヴァイオリンであり、あれはオーボエであり、それはシンバルである、というような聴き方をするだろうか。研究室で楽譜の分析をするときは別として。むしろ交響曲を全体として耳を傾けるときは全体を整然とした和声として一挙に聴かなければ無意味もはなはだしいのではないだろうか。

「外的で内的な知覚のあらゆる方向における火箭、割れ目、運河、逸脱に満ちたこの神経にさわる集合は、演劇からひとつの至上の観念を構成するのだが、それは何世紀にもわたって保存され、演劇がずっとそうあり続けてきたところのものをわれわれに教えているようである」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.94~95』河出文庫)

たとえばベイトソンは、演劇ではないが同じくバリ島の絵画について、二分割して見ることの馬鹿馬鹿しさに言及している。

「この絵は最終的に、『沸きたち』あるいは『静けさ』のどちらか一方を目的として選ぶのは、乱暴な、誤った考え方である、という思いを打ちだすものである。作者がこの絵を胸に抱き、それを形にしていく過程で、その誤りを明かす経験が得られたはずだ。二つの極は相互に依存しており、一方を排除して他方を選ぶことはできないということを、作品の統一と統合が主張している」(ベイトソン「精神の生態学・P.229」新思索社)

「例外的なものとなったこのスペクタクルの驚くべき数学、それはわれわれの不意を襲い、われわれを最も驚かせるにうってつけであるように思われるが、《物質のあの啓示的側面》であり、突然記号となって散らばり、具象と抽象の形而上学的同一性をわれわれに教え、しかも《持続するようにつくられた身振りによって》それをわれわれに教えるように思われる」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.95』河出文庫)

おそらく難解なのは「具象と抽象の形而上学的同一性」というフレーズかもしれない。物質でありなおかつ形而上学的である。物質的で具体的なものであるとともに形而上学的で抽象的なものとが一致しているということ。どういうことか。ちなみに日本の、とりわけ政治家のあいだでは「抽象的」だとして否定されがちな言葉が幾つも存在する。否定したい言葉はどれほど具体的であっても「抽象的」だとレッテル貼りして済まそうとする稚拙な傾向が今なお強い。ところがそんな手法はもはや欧米ではとっくの昔から通用しなくなっている。「具象と抽象の形而上学的同一性」とは物質と強度の融合であり、そして今やそれは資本主義的諸運動以外の何ものでもなくなったからである。

「器官なき身体は強度にしか占有されないし、群生されることもないように出来ている。強度だけが流通し循環するのだ。器官なき身体はまだ舞台でも場所でもなく、何かが起きるための支えでもない。幻想とは何の関係もなく、何も解釈すべきものはない。器官なき身体は強度を流通させ生産し、それ自身、強度であり非延長である《内包的空間》の中に強度を配分する。器官なき身体は空間ではなく、空間の中に存在するものでもなく、一定の強度をもって空間を占める物質なのだ。この度合は、産み出された強度に対応する。それは強力な、形をもたない、地層化されることのない物質、強度の母体、ゼロに等しい強度であり、しかもこのゼロに少しも否定的なものは含まれていない。否定的な強度、相反する強度など存在しないのだ。物質はエネルギーに等しい。ゼロから出発する強度の大きさとして現実が生産される。それゆえ、われわれは器官なき身体を有機体の成長以前、器官の組織以前、また地層の形成以前の充実した卵、強度の卵として扱う。この卵は軸とベクトル、勾配と閾、エネルギーの変化にともなう力学的な傾向、グループの移動にともなう運動学的な動き、移行などによって決定されるのであり、《副次的形態》にはまったく依存しない。器官はこのとき純粋な強度としてのみ現われ、機能する」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.314」河出文庫)

さらにベイトソンから前回引用した部分。その中で「1」と「4」についてもう一度引いてみる。「プラトー」〔高原・台地〕の機能を明確にしておく必要性がある。

「1 バリの社会で例外的に見られる累積的相互作用のうち、もっとも重要だと思われるものが、大人(とくに親)と子供との間で起こる。その典型的なシークェンスを述べてみよう。まず母親が、子供のちんちんを引っぱるなどして、戯れの行為を仕掛ける。刺激された子供は、その反応を母親に向け、二人の間に短時間の累積的な相互作用が生起する。だが、そこで子供がクライマックスに向かって動きだし、母親の首に手を回したりするなどすると、母親は自分の注意をサッと子供からそらしてしまう。この時点で子供は、別の累積的相互作用(感情の爆発に向けて相互に苛立ちをつのらせていくタイプのもの)を仕掛けることが多いが、これに母親はのらず、見る側に回って子供の苛立ちを楽しみ、子供が攻撃してきたときも表情ひとつ変えずにサラリとこれをかわしてしまう。これは、子供がもっていこうとする種類の相互作用を母親が嫌悪していることのあらわれではあるが、同時にそれが、他人とそのような関わりをもっても報われないことを子供に教え込む、学習のコンテクストになっている点に注意したい。仮に人間が、累積的相互作用に走る傾向をもともと具えているとするなら、それを抑え込む学習がここでなされていくわけである。ともかく、バリの生活に子供たちが組み入れられていくにつれて、彼らの行動からクライマックスのパターンが消えていき、それに代わって高原状態(プラトー)ーーー強度の一定した持続ーーーが現われていくと論じることは可能だ。バリ社会ではトランスも《いさかい》も、こうしたプラトー型の行為連鎖にそって進行する傾向を持つ」(ベイトソン「精神の生態学・P.177~178」新思索社)

「4 バリ島の文化には、争いごとを処理する技術が確固として存在する。いさかいを起こした二人はきちんとその地区の代官のもとに出頭して、その事実を登記し、こののち最初に口を出した方のものが、科料を払うか、神に奉納することに同意する。この取り決めは、いさかいが収まった時点で正式に破棄される。この措置は『プイッ』と呼ばれるが、小さな子供の喧嘩にもこれを小型にした措置がとられるのは興味深い。ここで重要なのは、当事者の憎しみを取り除いて友好関係に導き入れようという意志が全然働いていないという点だ。むしろこれは、互いの敵対関係を正式に確認する、さらに言えば、関係を一定の敵対状態に凍結する、試みのようである。この解釈が正しければ、バリ島ではいさかいの処理にも、クライマックスをプラトーで置き換える方式が採用されているということになるだろう」(ベイトソン「精神の生態学・P.180」新思索社)

クライマックスあるいは破局(カタストロフ)をプラトーで置き換えること。そうすることで蓄積性の強度の暴発を未然に防ぎ、村落共同体の破局(カタストロフ)を阻止し、過剰な力の蓄積を流動する流れへ速やかに移行させて順調な循環性を取り戻すこと。ドゥルーズとガタリはいう。

「一つのプラトーは一つの内在的断片である。一つ一つの器官なき身体はいろいろなプラトーから作られている。器官なき身体はそれ自身、存立平面の上で他のプラトーと通じている一つのプラトーである。それは移行的形成要素なのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.324」河出文庫)

この場合、「器官なき身体」は移動する強度の多様性を指していわれている。そしてかつてバリにあった村落共同体は資本主義の世界制覇にともない今や常に不安定なる世界の中に吸収された。同時に世界中のありとあらゆる村落共同体は村落共同体であることを止め、グローバル資本主義としての世界へ組み込まれ再編された。ところで、見た目でしかないけれどもなるほど見た目には不思議に見えることがある。中小規模はもちろんのこと大規模な企業でさえ個々の資本はしばしば倒産することがある。しかし一方、資本主義そのものは倒産することはない、というごく平凡な事実である。ところがこの見た目の平凡さは文字通り「見た目」ばかりの平凡さに過ぎない。個々の資本が倒産しても資本主義が倒産することはあり得ないという事実には無数の多様な理由がある。見た目には「一つ」(統一的なもの)として見えているため、人々は、その内実の《複合性》について気づいていない場合が多すぎるに過ぎない。

「『統一』として意識されるにいたるすべてのものは、すでにおそろしく複合化している。私たちはつねに《統一の見せかけ》をもつにすぎない」(ニーチェ「権力への意志・下巻・四八九・P.33」ちくま学芸文庫)

「言語はもろもろの大きな先入見を含んでおり、また維持している、たとえば、《一つの》語でもって表わされるものは当然また《一つの》出来事であるという先入見がそうである。意欲、欲求、衝動ーーーこれらは複雑なものなのだ!」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・三三・P.28」ちくま学芸文庫)

「意欲とは私には何よりもまず或る《複合的なもの》で、ただ言葉としてのみ単純であるように思われる」(ニーチェ「善悪の彼岸・P.35」岩波文庫)

ということをいつも念頭に置いて考える必要がある。同様の条件下にある二つの企業Aと企業Bがあるとしよう。ところでなぜ企業Aは倒産したのに企業Bは倒産せずに済んでいるのか、あるいはむしろ繁栄することがあるのか。その程度のことでさえこれといった理由は隠蔽されたままただ単に不景気だからとか、経営に失敗したのだろうとか、挙げ句の果てには運が悪かったに違いないといったオカルト的なまったく根拠のない世間話の中に埋もれ去ってしまいがちだ。しかし実をいうと根拠はある。むしろ根拠も理由もあるからこそ両者のあいだに違いが生まれたのである。同様の条件下に置かれた二つの企業のうち、どちらか一方が一方的に倒産するということはあり得ない。倒産するとすればどちらも同時にでなければならない。企業Aと企業Bとのあいだに倒産するかしないかの条件となる違い(差異)が始めからあったわけではない。違い(差異)は後から、事後的に、もっともらしく「でっち上げ」られ「吹聴された」に過ぎない。途方もない「単純化」が偽造され変造され捏造され圧縮され転移し、大々的に宣伝されているに過ぎない。もっとも、偽造、変造、捏造され、でっち上げられた数々の言葉を真に受け、一つの大切な認識として受け止めている一般市民の側もどうかしているかもしれない、と自分で自分自身について考えたりしないのだろうか。なぜ自分の勤め先は大企業であるにもかかわらず倒産したのに他のもっと小さな企業の一つが潤っているのか。あるいはその逆も。ただ単に運が悪かったで済まされることなのだろうか。もし運が悪かったのなら、何がいかにして運が悪くなったのか。それを追求する作業はまるまる残っている。

「真理への意志とは、固定的なものを《でっちあげること》、真なる・持続的なものを《でっちあげること》、あの《偽りの》性格を度外視すること、このものを《存在するもの》へと解釈し変えることである。それゆえ『真理』とは、現存する或るもの、見出され、発見さるべき或るものではなく、ーーー《つくりだされるべき》或るもの、《過程》に代わる、それのみならず、それ自体では終わることのない征服の意志に代わる《名称の役目をつとめる》或るもののことである。すなわち、真理を置き入れるのは、無限過程、《能動的に規定するはたらき》としてであってーーーそれ自体で固定しているかにみえる或るものの意識化としてでは《ない》」(ニーチェ「権力への意志・第三書・五五二・P.87~88」ちくま学芸文庫)

「認識とは、《経験》を可能にすることなのだが、このことは、現実的な出来事が、影響をおよぼす諸力の側においても、私たちの形態化する諸力の側においても、途方もなく単純化されることによって、なされるのであって、《この単純化の結果、類似した諸事物や等しい諸事物が存在するように見えるのだ。認識とは、多種多様な数えきれないものを、等しいもの、類似したもの、数えあげうるものへと偽造することなのである》。それゆえ《生》はそうした《偽造装置》の力でのみ可能である。思考するとは或る偽造的変形のはたらきであり、感ずるとは或る偽造的変形のはたらきであり、意欲するとは或る偽造的変形のはたらきであるーーー。これらすべてのうちには同化作用の力があり、この力は、何かを私たちと等しいものにしようとする或る意志を前提する」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一九〇・P.114~115」ちくま学芸文庫)

というふうに。
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なお、なぜ日本の長期政権は欧米諸国との軍事同盟にもかかわらず、強固になればなるほど逆に中国人民解放軍に似てくるのかと、前回問うた。そこで人間の全行動を無意識レベルから仕切っている言語系列に焦点を当てて考えてみる。結論的にいうと、専門的に日本語は今なお出自不明の孤立言語とされている。けれども関係が濃厚な言語として主に、北方ユーラシア、ツングース語族、アイヌ語、琉球語、東南アジア系、ポリネシア系などが融合したものとして考えられている。ひるがえって、日本と軍事同盟にあるアメリカで用いられる英語はインド・ヨーロッパ語族に属する。その英語を日本に妥当させようとすると、由来がまったく異なることから思考方法の転倒が起こるわけだが、翻訳可能であり実際に翻訳されているため、転倒しているにもかかわらず転倒に気づかないで関門を通過してしまうという事態が発生していると考えられる。日米同盟は日本政府が米国に服従することを前提して作成されたものだ。しかし無意識レベルで発生しているこの転倒に気づかないまま文字通り受け取るとどういうことが起こってくるか。ベイトソンはドイツの事例を取り上げて興味深いことを述べた。服従にともなう屈辱の否認の態度として次のような現象が発生する。次の文章は一九四二年発表のもの。

「服従の側に回る屈辱を耐えやすくする変形プロセスが、なにかしらの形で存在するはずだが、その手掛かりのひとつを、ドイツ人の一生の歩みをテーマとする研究から得ることができる。ドイツ南部出身の男性がインタビューに答えて語ったところによると、少年時代に彼が親から受けた扱いは姉とまったく違っていた。自分に対しては過大な要求がなされるのに、姉はなにかと大目に見られる。自分はいつも規律に厳格に従わされるのに、姉はずっと自由なふるまいが許される。インタビューアーは、姉に対する羨みの気持ちを抱いたかどうか探ってみたが、返ってきたのは、服従することが男の子の名誉なのだという断固たる答えだった。『女の子には期待がかけられていません。男の子は、人生への備えが必要ですから、やるべきことはきちんとやることが、きびしく課せられるのです』。これはノブレス・オブリージ〔高貴な身分には相応の義務が伴うという考え方〕の、興味深い転倒例だ」(ベイトソン「精神の生態学・P.160~161」新思索社)

たいへん興味深い「転倒例」だ。孤立言語国家としての日本は、インド・ヨーロッパ語族、ウラル・アルタイ語族、等々を中心とする欧米諸国からの圧力に包囲されると他の言語による思考方法を模索するしかない極限状態へと一挙に突き放される。このようなダブルバインド(二重拘束、板ばさみ)に直面する場合、必然的にそれらとは異なる言語系列へ依存することで破局を逃れようとする傾向がある。したがって日本政府の場合、インド・ヨーロッパ語族(ヨーロッパ、アメリカ、ロシア、南米)でもなくウラル・アルタイ語族(アフリカ、中東)でもないシナ・チベット語族(中国)による思考方法を選択することになる。ちなみにシナ・チベット語族の言語は中国を中心に約十二億人が用いており、国連では英語に次ぐ第二言語として選択することができる。したがって先進諸国から軍事的圧力を受けたとき、日本政府ならびに日本警察がとっさに取る態度として、シナ・チベット語族の言語体系の規則に則った体制が自動的に選択されるわけである。なぜ日本政府が強権化すればするほど欧米ではなく中国人民解放軍とその公安部に似るのかという理由は少なくとも無意識的レベルにおける言語的見地からみればこのように論じることができる。実際、中国人民解放軍とその公安部の行動に似ていることは否定できない。「個人情報じゃじゃ漏れ」状態まで似てしまっている。言語的繋がりはむしろ薄いかほとんどないというのに。だから日米同盟にもかかわらず、ではなく、むしろ日米同盟の強化とそれを否認したいという本音ゆえに、言語系列的には全然違っているにもかかわらず歴史的付き合いの長い中国語圏の思考回路へ舞い戻るという事態が発生するのである。また日本語に近い言語としてツングース族の言語を先に上げた。ところがツングース族が用いる言語はかつて日本が満洲帝国として軍事占領した土地で用いられている言語である。いまはロシアと中国の一部で用いられている。だから日本政府(自民公明連立政権)が長期化すればするほどロシアや中国の警察国家体制にますます似通ってくるのは実に理論的な帰結なのだ。ちなみにベイトソンは後に、第二次大戦終結後の戦後処理のための資料収集や提言も行っている。その意味でアメリカから見れば、現在の苦悶に満ちた日本政府(自民公明連立政権)が迷走する姿は八十年近くも前から手に取るように見えていたといえる。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

BGM