芥箱と化したジャンはふとした風で吹き飛ばされそうになる。芥箱に投げ込まれているものすべてはジャンの身体を構成していた諸要素が変化したものだ。象徴化されたジャンはその一つ一つである。ジュネはそれらが散り散りにならないようにと「花と月桂冠の冠でおさえつける」。
「恭しい手つきで私は、まるで金色の或いは茶色のヴェールのように、愛情と崇敬を差しのべ、それらを安置するというよりも憩わせるようなかたちで、風がそれらを持ち去らないように、スターの着付け女のような巧みなすばやい手つきで、それらを花と月桂冠の冠でおさえつけるのだった。そのヴェールのちぎれた裾を私は足で踏んづけ、私の呼びかけに応じて馳せ参じた大きな石の塊りをその上にかぶせた」(ジュネ「葬儀・P.338」河出文庫)
ヴェールにくるまれた芥箱は瞬時に新たな「魅力を身につける」。
「芥箱は、そんなふうに装われると、薄布を下に結(ゆわ)えつけて蠅を防いだ客間のシャンデリアや、ヴェールの背後の顔や、包帯でくるんだ陰茎や、蜘蛛の巣と埃におおわれたパン皮の魅力を身につけるのだった」(ジュネ「葬儀・P.338」河出文庫)
熱心さは爆薬へと変わり遂に炸裂する。
「私の熱意はがそれを一個の爆薬に変貌させてしまった以上、危険の伴わないわけがない。芥箱は炸裂した。世にも美しい人口の太陽が、ジャンの魂でふくらまされ、ガラスや、髪の毛や、果物と野菜の芯や皮や、羽毛や、カツレツの食い残しや、萎れた花や、卵の薄殻などを散乱させた」(ジュネ「葬儀・P.339」河出文庫)
この炸裂。読者は思うかもしれない。ジュネ独特のいつもの「あれ」かと。オナニストの過剰な想像力から生まれた射精かと。確かに成功した性行為の後に到来する脱力感に似てはいる。しかしただ似ているというだけで、まったく同じだと考えてしまうともうそこで重要な何かが見失われてしまう。何かというのは「自国にありながらの異郷感」という残存感覚だ。性行為であろうとなかろうと、何らかの魅力的行為の成就の後に必ずジュネは、フランスの中でフランス語で考えつつ孤独そのものと化している。
「またたく間に、すべてはこの世の秩序に復し、ただ愛の営みのあとにくる一種の意気消沈、いわば大きな悲哀感、そして自国にありながらの異郷感が私のなかに残った」(ジュネ「葬儀・P.339」河出文庫)
二十八人の若年者の銃殺刑について。続きが述べられる。その前に次のような但し書きが添えられている。
「殺人ーーーそれはその象徴であるがーーーを通じて、『悪』がひとたび達成されるとき、それは他の悪しき行為をすべて道徳的に無意味に帰する。千の死体もただ一つの死体も同じことだ。それはもはや救いようのない致命的罪状である。じゅうぶん図太い神経の持ち主の場合にはいくつもの死体を並べることもできる、だけど反復は神経をなだめる程度だ。となると創造行為の場合をのぞいて、行為が繰返されるごとに感性は鈍る」(ジュネ「葬儀・P.344」河出文庫)
さて、アルトー。皇帝が自分で選んで取り立てた重臣の一人ヒエロクレス。しかし彼はヘリオガバルスを裏切る。ところがヘリオガバルスは部下の裏切りを自分に対する刑罰へと置き換える。部下の裏切りは自分の誤ちだからだ。けっして奇妙ではない極めて論理的な感性が実行される。
「ヒエロクレスの裏切りを前にして子供のように涙を流すが、この下級の御者に対して残忍な振舞いに及ぶどころか、彼が怒りを向けるのは自分に対してであり、ひとりの御者に裏切られたことで、血が出るまで自分を鞭打たせて、自分を罰する」(アルトー「ヘリオガバルス・P.198」河出文庫)
ヘリオガバルスは社会的規範を転倒させることに熱中する。熱中を演じる。演じつつ熱はますます過酷さを増大させる。
「彼は自分にとって大切なものを人民に与える。《パンと遊び》である。彼が人民を養うときでさえ、彼は抒情性をもってそれを養い、すべての真の豪華さの底にあるあの興奮の酵母を人民に提供する」(アルトー「ヘリオガバルス・P.198~199」河出文庫)
なぜかわからないが、ヘリオガバルスは今でいう「反緊縮財政」を知らず知らず行なっているのだともいえる。むろん、アナーキーとしてそれを演じるわけだが。それが十分に功を奏するのは無限に多様で無方向的に拡張されるアナーキーをローマ市民に許すというだけでなく、そのための生贄を周囲から選別するからである。「ヘリオガバルスがガレー船に送り込む者、彼が去勢する者、彼が鞭打たせる者すべてを、彼は貴族階級の者たち、高貴な者たち、彼の個人的廷臣の男色家たち、宮殿の奇食者たちのなかから選ぶ」という形で。
「人民は、けっして対象を見誤らない彼の血みどろの暴政によってはけっして心を動かされることはないし、けっして傷つけられはしないのだ。ヘリオガバルスがガレー船に送り込む者、彼が去勢する者、彼が鞭打たせる者すべてを、彼は貴族階級の者たち、高貴な者たち、彼の個人的廷臣の男色家たち、宮殿の奇食者たちのなかから選ぶ」(アルトー「ヘリオガバルス・P.199」河出文庫)
さらに、現代演劇が行き詰まったのはなぜか。アルトーは演劇と社会とのあるまじき妥協を指摘する。
「現代演劇が退廃しているのは、それが一方では真剣さの、他方では笑いの感覚を失ったからである。深刻さや、直接的で有害な有効性とーーーそしてひとことで言えば、『危険』と手を切ったからである」(アルトー「演出と形而上学」『演劇とその分身・P.65』河出文庫)
演劇は一滴の毒を含んでいなくてはならない。しかし最後の一滴まで譲ってしまってはもはやそれを演劇と呼ぶことはできない。と同時にユーモアとも手を切った。危険と手を切った以上、ユーモアもまた事実上切り離されてしまうのは自明である。
「他方で、真のユーモアの感覚と、笑いのもつ身体的でアナーキーな解離の力の感覚を失ってしまったからである」(アルトー「演出と形而上学」『演劇とその分身・P.65』河出文庫)
そこに残されているのは社会との予定調和である。現代演劇は道徳の側に譲歩したのだ。それこそ現代演劇みずからその現代性をかなぐり捨てて逆に社会道徳に奉仕する補完装置と化したことを意味する。
「あらゆるポエジーの土台にある深遠なアナーキーの精神と手を切ったからである」(アルトー「演出と形而上学」『演劇とその分身・P.65』河出文庫)
現代演劇からポエジーが失われたのは社会から奪い取られたからではなく、むしろ現代演劇の側から進んで社会道徳に同調する過程を選んだからである。現代演劇は現代演劇自身を裏切った。アルトーにすればそれは許すことのできない態度変更だった。演劇自身による演劇の裏切り。だからアルトーは執拗にアナーキー復権を目指して過酷この上ない過程を実践へ移していくことになる。
「ポエジーは、それが事物と事物の関係、形態と意味とのすべての関係を再び疑うならば、アナーキーであるということだ。その出現がわれわれをカオスに近づける無秩序の結果であるならば、同じくポエジーはアナーキーである」(アルトー「演出と形而上学」『演劇とその分身・P.66』河出文庫)
そしてこの演劇運動はヨーロッパのみに留まらず、日本でも一九六〇年代から一九八〇年代前半にかけて或る程度実現されていく。日本では寺山修司、唐十郎らが試み、三島由紀夫らが絶賛したことは有名だ。そこでは間違いなく言語の身体とは異なる異様なもの、特権的なもの、身体の言語が生々しく炸裂していた。ラカンの言葉を用いるとすれば、そこには、自明とされている社会的秩序を破り裂いて暴発的に闖入してきた《現実界》が出現していた。
なお、アメリカと中東との関係から見えるものについて。といってもすでにドゥルーズとガタリがいっていたことの反復に過ぎない。侵略戦争を通して国家拡大を押し進めた帝国主義的総力戦と違っていて、今や「平和」を目的として、「世界秩序」という条理化のために、「すべての国家はもはやこの新しい戦争機械に適合させられた手段あるいは目標」としてしか存在しないということ。
「さまざまな国家からいわば『再出現』してくるこの世界的規模の戦争機械は、二つの形を次々に見せたのである。最初は戦争を自分自身の運動以外の目的をもたない無制限の運動にしたファシズムという形である。しかしファシズムは第二の形の兆しにすぎない。ファシズム以後の形は、<恐怖>の平和あるいは<サバイバル>の平和として、平和を直接の目標にする戦争機械である。この戦争機械は今や地球全体を取り巻いて管理しようとする平滑空間を再形成しているのだ。総力戦自体が乗り越えられて、もっと恐ろしい平和の一形態が出現したのである。戦争機械は目的すなわち世界秩序を自分で引き受けたのであり、すべての国家はもはやこの新しい戦争機械に適合させられた手段あるいは目標でしかない」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.147~148」河出文庫)
さらにマルクスは必要労働と剰余労働との境界線の決定不可能性に言及した。それは世界の平滑空間化を予言するものであった。
「労賃という形態は、労働日が必要労働と剰余労働とに分かれ、支払労働と不払労働とに分かれることのいっさいの痕跡を消し去るのである。すべての労働が支払労働として現われるのである。夫役では、夫役民が自分のために行なう労働と彼が領主のために行なう強制労働とは、空間的にも時間的にもはっきりと感覚的に区別される。奴隷労働では、労働日のうち奴隷が彼自身の生活手段の価値を補填するだけの部分、つまり彼が事実上自分のために労働する部分さえも、彼の主人のための労働として現われる。彼のすべての労働が不払労働として現われる。賃労働では、反対に、剰余労働または不払労働でさえも、支払われるものとして現われる。前のほうの場合には奴隷が自分のために労働することを所有関係がおおい隠すのであり、あとのほうの場合には賃金労働者が無償で労働することを貨幣関係がおおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第六篇・第十七章・P.61~62」国民文庫)
剰余価値がいつどこから始まるのか誰にもわからないということ。それは世界の資本主義的分割様式にも当てはまる。世界はたとえば諸国家同士の国境線によって条理化されている。にもかかわらず、それはしばしば移動する。それが可能なのは剰余価値は常に位置決定不可能だからであり、したがっていつでも移動可能なのであり、なおかつ決定不可能な流動状態にある限りで可能になる、脱条理化すなわち平滑空間化のための諸力の運動が常に反復されている限りにおいてである。国家の側に重点を置いてみれば条理化を優先することになり、逆に資本の側に重点に置いてみれば平滑空間化を優先することになる。そして今や国家は資本のための国家へ変質しつつ資本は国家に対して困難な課題の調整を常に要求するのである。次のように。
「国家を超えて《世界的に統合された》(というより統合していく)《資本主義》の、補完的でありながら支配的でもあるレベルでは、新しい平滑空間が産出され、そこでは、もはや人間という労働の要素ではなく機械状の構成要素にもとづく資本が『絶対』速度に達している。多国籍企業が産出しているのは、一種の脱領土化した平滑空間であり、そこでは交換の極として占められる点が古典的な条理化の軌道からまったく独立している。新しいもの、それはいつもローテーションの新しい形である。ますます加速された現在の資本流通の新しい形は、不変資本と可変資本との区別、さらには固定資本と流動資本の区別さえ、だんだんと相対的なものにしつつある。本質的なことは、むしろ《条理化された資本と平滑な資本》の区別であり、国家と領土、さらには異なったタイプの国家群をも通り抜けていく複合体を通して、前者が後者を産み出していく仕方である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.283」河出文庫)
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM
「恭しい手つきで私は、まるで金色の或いは茶色のヴェールのように、愛情と崇敬を差しのべ、それらを安置するというよりも憩わせるようなかたちで、風がそれらを持ち去らないように、スターの着付け女のような巧みなすばやい手つきで、それらを花と月桂冠の冠でおさえつけるのだった。そのヴェールのちぎれた裾を私は足で踏んづけ、私の呼びかけに応じて馳せ参じた大きな石の塊りをその上にかぶせた」(ジュネ「葬儀・P.338」河出文庫)
ヴェールにくるまれた芥箱は瞬時に新たな「魅力を身につける」。
「芥箱は、そんなふうに装われると、薄布を下に結(ゆわ)えつけて蠅を防いだ客間のシャンデリアや、ヴェールの背後の顔や、包帯でくるんだ陰茎や、蜘蛛の巣と埃におおわれたパン皮の魅力を身につけるのだった」(ジュネ「葬儀・P.338」河出文庫)
熱心さは爆薬へと変わり遂に炸裂する。
「私の熱意はがそれを一個の爆薬に変貌させてしまった以上、危険の伴わないわけがない。芥箱は炸裂した。世にも美しい人口の太陽が、ジャンの魂でふくらまされ、ガラスや、髪の毛や、果物と野菜の芯や皮や、羽毛や、カツレツの食い残しや、萎れた花や、卵の薄殻などを散乱させた」(ジュネ「葬儀・P.339」河出文庫)
この炸裂。読者は思うかもしれない。ジュネ独特のいつもの「あれ」かと。オナニストの過剰な想像力から生まれた射精かと。確かに成功した性行為の後に到来する脱力感に似てはいる。しかしただ似ているというだけで、まったく同じだと考えてしまうともうそこで重要な何かが見失われてしまう。何かというのは「自国にありながらの異郷感」という残存感覚だ。性行為であろうとなかろうと、何らかの魅力的行為の成就の後に必ずジュネは、フランスの中でフランス語で考えつつ孤独そのものと化している。
「またたく間に、すべてはこの世の秩序に復し、ただ愛の営みのあとにくる一種の意気消沈、いわば大きな悲哀感、そして自国にありながらの異郷感が私のなかに残った」(ジュネ「葬儀・P.339」河出文庫)
二十八人の若年者の銃殺刑について。続きが述べられる。その前に次のような但し書きが添えられている。
「殺人ーーーそれはその象徴であるがーーーを通じて、『悪』がひとたび達成されるとき、それは他の悪しき行為をすべて道徳的に無意味に帰する。千の死体もただ一つの死体も同じことだ。それはもはや救いようのない致命的罪状である。じゅうぶん図太い神経の持ち主の場合にはいくつもの死体を並べることもできる、だけど反復は神経をなだめる程度だ。となると創造行為の場合をのぞいて、行為が繰返されるごとに感性は鈍る」(ジュネ「葬儀・P.344」河出文庫)
さて、アルトー。皇帝が自分で選んで取り立てた重臣の一人ヒエロクレス。しかし彼はヘリオガバルスを裏切る。ところがヘリオガバルスは部下の裏切りを自分に対する刑罰へと置き換える。部下の裏切りは自分の誤ちだからだ。けっして奇妙ではない極めて論理的な感性が実行される。
「ヒエロクレスの裏切りを前にして子供のように涙を流すが、この下級の御者に対して残忍な振舞いに及ぶどころか、彼が怒りを向けるのは自分に対してであり、ひとりの御者に裏切られたことで、血が出るまで自分を鞭打たせて、自分を罰する」(アルトー「ヘリオガバルス・P.198」河出文庫)
ヘリオガバルスは社会的規範を転倒させることに熱中する。熱中を演じる。演じつつ熱はますます過酷さを増大させる。
「彼は自分にとって大切なものを人民に与える。《パンと遊び》である。彼が人民を養うときでさえ、彼は抒情性をもってそれを養い、すべての真の豪華さの底にあるあの興奮の酵母を人民に提供する」(アルトー「ヘリオガバルス・P.198~199」河出文庫)
なぜかわからないが、ヘリオガバルスは今でいう「反緊縮財政」を知らず知らず行なっているのだともいえる。むろん、アナーキーとしてそれを演じるわけだが。それが十分に功を奏するのは無限に多様で無方向的に拡張されるアナーキーをローマ市民に許すというだけでなく、そのための生贄を周囲から選別するからである。「ヘリオガバルスがガレー船に送り込む者、彼が去勢する者、彼が鞭打たせる者すべてを、彼は貴族階級の者たち、高貴な者たち、彼の個人的廷臣の男色家たち、宮殿の奇食者たちのなかから選ぶ」という形で。
「人民は、けっして対象を見誤らない彼の血みどろの暴政によってはけっして心を動かされることはないし、けっして傷つけられはしないのだ。ヘリオガバルスがガレー船に送り込む者、彼が去勢する者、彼が鞭打たせる者すべてを、彼は貴族階級の者たち、高貴な者たち、彼の個人的廷臣の男色家たち、宮殿の奇食者たちのなかから選ぶ」(アルトー「ヘリオガバルス・P.199」河出文庫)
さらに、現代演劇が行き詰まったのはなぜか。アルトーは演劇と社会とのあるまじき妥協を指摘する。
「現代演劇が退廃しているのは、それが一方では真剣さの、他方では笑いの感覚を失ったからである。深刻さや、直接的で有害な有効性とーーーそしてひとことで言えば、『危険』と手を切ったからである」(アルトー「演出と形而上学」『演劇とその分身・P.65』河出文庫)
演劇は一滴の毒を含んでいなくてはならない。しかし最後の一滴まで譲ってしまってはもはやそれを演劇と呼ぶことはできない。と同時にユーモアとも手を切った。危険と手を切った以上、ユーモアもまた事実上切り離されてしまうのは自明である。
「他方で、真のユーモアの感覚と、笑いのもつ身体的でアナーキーな解離の力の感覚を失ってしまったからである」(アルトー「演出と形而上学」『演劇とその分身・P.65』河出文庫)
そこに残されているのは社会との予定調和である。現代演劇は道徳の側に譲歩したのだ。それこそ現代演劇みずからその現代性をかなぐり捨てて逆に社会道徳に奉仕する補完装置と化したことを意味する。
「あらゆるポエジーの土台にある深遠なアナーキーの精神と手を切ったからである」(アルトー「演出と形而上学」『演劇とその分身・P.65』河出文庫)
現代演劇からポエジーが失われたのは社会から奪い取られたからではなく、むしろ現代演劇の側から進んで社会道徳に同調する過程を選んだからである。現代演劇は現代演劇自身を裏切った。アルトーにすればそれは許すことのできない態度変更だった。演劇自身による演劇の裏切り。だからアルトーは執拗にアナーキー復権を目指して過酷この上ない過程を実践へ移していくことになる。
「ポエジーは、それが事物と事物の関係、形態と意味とのすべての関係を再び疑うならば、アナーキーであるということだ。その出現がわれわれをカオスに近づける無秩序の結果であるならば、同じくポエジーはアナーキーである」(アルトー「演出と形而上学」『演劇とその分身・P.66』河出文庫)
そしてこの演劇運動はヨーロッパのみに留まらず、日本でも一九六〇年代から一九八〇年代前半にかけて或る程度実現されていく。日本では寺山修司、唐十郎らが試み、三島由紀夫らが絶賛したことは有名だ。そこでは間違いなく言語の身体とは異なる異様なもの、特権的なもの、身体の言語が生々しく炸裂していた。ラカンの言葉を用いるとすれば、そこには、自明とされている社会的秩序を破り裂いて暴発的に闖入してきた《現実界》が出現していた。
なお、アメリカと中東との関係から見えるものについて。といってもすでにドゥルーズとガタリがいっていたことの反復に過ぎない。侵略戦争を通して国家拡大を押し進めた帝国主義的総力戦と違っていて、今や「平和」を目的として、「世界秩序」という条理化のために、「すべての国家はもはやこの新しい戦争機械に適合させられた手段あるいは目標」としてしか存在しないということ。
「さまざまな国家からいわば『再出現』してくるこの世界的規模の戦争機械は、二つの形を次々に見せたのである。最初は戦争を自分自身の運動以外の目的をもたない無制限の運動にしたファシズムという形である。しかしファシズムは第二の形の兆しにすぎない。ファシズム以後の形は、<恐怖>の平和あるいは<サバイバル>の平和として、平和を直接の目標にする戦争機械である。この戦争機械は今や地球全体を取り巻いて管理しようとする平滑空間を再形成しているのだ。総力戦自体が乗り越えられて、もっと恐ろしい平和の一形態が出現したのである。戦争機械は目的すなわち世界秩序を自分で引き受けたのであり、すべての国家はもはやこの新しい戦争機械に適合させられた手段あるいは目標でしかない」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.147~148」河出文庫)
さらにマルクスは必要労働と剰余労働との境界線の決定不可能性に言及した。それは世界の平滑空間化を予言するものであった。
「労賃という形態は、労働日が必要労働と剰余労働とに分かれ、支払労働と不払労働とに分かれることのいっさいの痕跡を消し去るのである。すべての労働が支払労働として現われるのである。夫役では、夫役民が自分のために行なう労働と彼が領主のために行なう強制労働とは、空間的にも時間的にもはっきりと感覚的に区別される。奴隷労働では、労働日のうち奴隷が彼自身の生活手段の価値を補填するだけの部分、つまり彼が事実上自分のために労働する部分さえも、彼の主人のための労働として現われる。彼のすべての労働が不払労働として現われる。賃労働では、反対に、剰余労働または不払労働でさえも、支払われるものとして現われる。前のほうの場合には奴隷が自分のために労働することを所有関係がおおい隠すのであり、あとのほうの場合には賃金労働者が無償で労働することを貨幣関係がおおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第六篇・第十七章・P.61~62」国民文庫)
剰余価値がいつどこから始まるのか誰にもわからないということ。それは世界の資本主義的分割様式にも当てはまる。世界はたとえば諸国家同士の国境線によって条理化されている。にもかかわらず、それはしばしば移動する。それが可能なのは剰余価値は常に位置決定不可能だからであり、したがっていつでも移動可能なのであり、なおかつ決定不可能な流動状態にある限りで可能になる、脱条理化すなわち平滑空間化のための諸力の運動が常に反復されている限りにおいてである。国家の側に重点を置いてみれば条理化を優先することになり、逆に資本の側に重点に置いてみれば平滑空間化を優先することになる。そして今や国家は資本のための国家へ変質しつつ資本は国家に対して困難な課題の調整を常に要求するのである。次のように。
「国家を超えて《世界的に統合された》(というより統合していく)《資本主義》の、補完的でありながら支配的でもあるレベルでは、新しい平滑空間が産出され、そこでは、もはや人間という労働の要素ではなく機械状の構成要素にもとづく資本が『絶対』速度に達している。多国籍企業が産出しているのは、一種の脱領土化した平滑空間であり、そこでは交換の極として占められる点が古典的な条理化の軌道からまったく独立している。新しいもの、それはいつもローテーションの新しい形である。ますます加速された現在の資本流通の新しい形は、不変資本と可変資本との区別、さらには固定資本と流動資本の区別さえ、だんだんと相対的なものにしつつある。本質的なことは、むしろ《条理化された資本と平滑な資本》の区別であり、国家と領土、さらには異なったタイプの国家群をも通り抜けていく複合体を通して、前者が後者を産み出していく仕方である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.283」河出文庫)
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM