パリで男性同性愛者としてデビューしたときすでにディヴィーヌはよいセンスの持ち主だった。要するに下品なのだ。しかし下品なのはディヴィーヌが選ぶ高価な香水があたりかまわず巻き散らす強烈な匂いである。異性愛だけを当たり前と信じ込んで疑っていない人々が同じ香水の匂いを撒き散らしていても周囲はなかなか忠告できないし、本人たちも容易にそれを下品だとはわからないし知らない。むしろ美しいとさえ思い込んで陶酔していたりする。だがしかし美貌の美女をも凌ぐ美貌の男性同性愛者ディヴィーヌが身につけると、逆にその香水の香りが実はどれほど下品なものなのか、年齢性別国籍に関係なく知らしめるという貴重で勇気ある賞賛すべき態度をディヴィーヌは自分の《身体において》示した。
「彼女の香水は強烈で下品である。それによって、彼女が下品好きであるのをすぐに知ることができる。ディヴィーヌは良い趣味、確かな好みをもっているのだから、そしてかなり憂慮すべきことに、人生はこの傷つきやすい彼女をつねに下品な境遇に置き、あらゆる卑劣な行為と接触させる」(ジュネ「花のノートルダム・P.40」河出文庫)
そしてその下品さに仲介される形でディヴィーヌはさらにどんどん穢(けが)らわしい世界との接点を連結させていく。上流階級の社交界では上品とされるその同じ匂いが上層社交界では「聖なる香り」とされ、他方、ディヴィーヌたちの世界に置かれると「穢れた臭い」とされるのか。香水の構成成分は同じである。このような同じものの二極分化という現象について、とりわけ二極が左右ではなく上下へと分化し上層では「聖」として下層では「賎」として取り扱われる奇妙な傾向について、文化人類学を始めとする様々な学術研究が発表されている。そしてこの傾向はほかならぬ貨幣において、遠い昔から貨幣が「聖」かつ「賎」の合成物として取り扱われてきたことは興味深いと言わねばならない。ところでディヴィーヌの好みの相手は「ボヘミアン」である。ボヘミアンになろうと思ってもそう簡単になれるものではない。暑さ寒さ、突然の風雨、政治的社会変動、食物の確保、などなどありとあらゆる事情の変化に即して生きていくことができる体力が何より必要だ。誰にでも可能だというわけではない。そしてヨーロッパだけでなくボヘミアンは非定住型生活を原則としており、当然日焼けしていて肌の色は北欧系に比べれば黒い。性別を問わずアマゾネス系タイプを愛する人々にはたまらなく魅力的である。
「彼女が下品を慈しむのは、彼女の最大の愛が黒い肌をしたひとりのボヘミアンに向けられたものであったからだ」(ジュネ「花のノートルダム・P.40」河出文庫)
ジュネ作品の中でボヘミアンとジプシーとの違いは明確になっていない。なっていないので少し述べておくと、ジプシーの場合、ただ単なる放浪者に過ぎないとはけっしていえない。特にジプシーと呼ばれる人々には独特の移住民系芸能集団といった色合いが強い。また、両者の違いが明確でないのは両者がしばしば混合されて用いられたからというだけでなく、実際に両者のあいだで付き合いがあったためだろうと考えられている。共通項はどちらも非定住民であるということと芸能を生業とした点で重なる部分だろう。
「彼の上になったり、下になったり、彼女のからだを貫くジプシーの歌を、口を彼女の口にはりつけて彼が歌っていたとき、彼女は、ふしだらな連中にはぴったりの絹と金モールといった、下品な布地の魅力をこうむる術を学んだ」(ジュネ「花のノートルダム・P.40」河出文庫)
しかしなぜジュネのいう「下品」な人々は絹のドレスや特に「金モール」を好むのか。あるいは今でいう「金の延板」を。作品「ブレストの乱暴者」の中で、セブロン少尉が自分の制服に刺繍された「金モール」を見つめ見とれつつ海に向かって心の叫び(《臭くしてやる!臭くしてやる!世界中を臭くしてやる!》)を喚き散らす印象的なシーンがあったが。ところが彼らの心身を賭けた生きざまの凄絶さにもかかわらず、世間一般では、とりわけ現代社会の政治において、ジュネたちのように自分の生涯を自分自身で引き受けるといった生を抜きにして、なぜか下品な行為が下品とされずにまかり通っているのは余りに不自然ではないだろうか。不自然さの余りにかえってそこにある「不思議なもの」が目についてしまうのである。
たとえば多額の金品授受について。質問がなされる。答える側は質問自体が「抽象的」だとして答えなかったり「わからない」と答える場合がある。けれども「抽象的」だとする態度は、質問が抽象的なのではなく、自分に向けられた質問から逃亡するのでもなく、逆に質問を取り上げて「抽象化」する切迫した必要性が生じているために「抽象的」だと言うほかなくなるのだ。ベイトソンはそれを「抽象化のパラドックス」と呼ぶ。どういうことか。
「われわれのプロジェクトの中心テーマは、抽象化のパラドックスが起こる《必然性》を探ることだといっていいだろう。人間はパラドックスを排し、<論理階型理論>にしたがってコミュニケーションを遵守すべきだとする考えがあるが、これは人間の精神の自然(ネイチャー)からまったく目をそらした考えである。それが遵守されないのは、単に無知や不注意によるものではないのだ。そればかりではない。われわれの信じるところによれば、単なるムード・シグナルのやりとりより複雑なすべてのコミュニケーションで、抽象化のパラドックスが必然的に姿を現わすのである。パラドックスが生じないようなコミュニケーションは、進化の歩みを止めてしまうのだとわれわれは考える。明確に型どられたメッセージが整然と行き交うだけの生には、変化もユーモアも起こりえない。それは厳格な規則に縛りつけられたゲームと変わるところのないものである」(ベイトソン「精神の生態学・P.276」新思索社)
ところがまさにその行為は、議会で質疑応答がなされている時間帯に限り、問題の同一性が憲法の手続上保障されている時間帯に限り、「厳格な規則に縛りつけられた」議会の場に限れば限るほど、けっして既定のコンテクスト(社会的文脈)をずらしてはならず、ずらすことはますます不可能となる。さらにまた質疑応答において既定のコンテクスト(社会的文脈)をずらすことはそもそも違法である。議会内での質疑応答はあくまで規定のコンテクスト(社会的文脈)の中で行われなければならない。議会での質疑応答のために設けられている場は、政治家が自分の芸術的創造性を発揮し虚偽答弁を披露して見せる場ではまったくない。そのような行為は期待されていない。そしてもし質疑応答が規定のコンテクスト(社会的文脈)の中で、それに則って厳格に行われない場合、その言動はすでに「抽象化のパラドックス」へ身を委ねて問題を議会の中でなく外へ丸投げし、暴力的に規定のコンテクスト(社会的文脈)をずらそうとしているか、手前勝手に規定のコンテクスト(社会的文脈)を破棄し「抽象化のパラドックス」を生じさせて問われている問題を自分本位にどのようにでも歪曲できるような状態のまま放り出してしまっているかどちらかだろう。職務放棄に等しい。ところでその場合、次のようなことが生じてくると考えられる。
「われわれがゲームをするときーーー<やりながら規則をでっち上げる>ような場合もあるのではないか。また、やりながらーーー規則を変えてしまう場合もあるのではないか」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・八三」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.84』大修館書店)
脱線なら元に戻してもう一度やり直すのが結果的に良好なケースが少なくない。だがコンテクスト(社会的文脈)そのものを「抽象化」してしまう暴力は言葉の暴力の中でもかなり荒っぽい、仲間のあいだであっても周囲をひきつらせる、大顰蹙(ひんしゅく)の上にさらなる大顰蹙を上積みする行為としてますます過積載化していくであろう。というのは、数字によって示すことができるにもかかわらず、何の準備もなしにあるいは準備を無視して、あえて「抽象化のパラドックス」の必然性の中へ叩き込んでしまえば、他の仲間たちが発行したかこれからするはずの手形=信用にとって大打撃となって跳ね返ってくるからである。
ーーーーー
さて、アルトー。シェイクスピアの名が出てくるけれども、差し当たり重大な関係項としての意味を持たない。むしろ大事なのは、シェイクスピア演劇は近代社会の産物であり、したがって現代人には大変痛切な問題提起の場であるにもかかわらず、観衆はなぜ舞台上から放たれた無数の、知性を困惑させるイメージから、「生体組織のなかに動揺を引き起こすことも、もはや消えることのない刻印を残すこともなく、この観念は、演劇の上演が観客を無傷のまま」無事に帰宅し終えることができるのか、とアルトーは問いかける。
「この錯誤とこの堕落、この演劇の無関心な観念についてはシェイクスピア自身に責任があるが、投げつけられたイメージが生体組織のなかに動揺を引き起こすことも、もはや消えることのない刻印を残すこともなく、この観念は、演劇の上演が観客を無傷のままにしておくことを望んだのである」(アルトー「傑作と縁を切る」『演劇とその分身・P.124』河出文庫)
観衆がそう「望んだ」。市民社会はそう《欲した》。「無傷のまま」がよいのだと、何と観衆の側がそう意志するという事態が生じてきた。アルトーはこの事態を正当にも人間本来の力への低下として読み取る。人間は明らかに価値下落を起こしているのにそれに気づいていないということ。
「未知なものを既知のものに、すなわち日常的なものや月並みなものに追いやることに夢中になる心理は、エネルギーのこの低下とこの恐るべき消失の原因であるが、私にはそれがいよいよ最後の段階に達したかのように見える」(アルトー「傑作と縁を切る」『演劇とその分身・P.125』河出文庫)
まず「未知なものを既知のものに、すなわち日常的なものや月並みなものに追いやることに夢中になる」ことがどれほど危険極まりないことか。アルトーはなぜ「この錯誤とこの堕落」と指摘するのか。
「《因果性による解釈は一つの迷妄である》ーーー『事物』とは、概念や心象によって総合的に結合されたその諸結果の総計のことである。じじつ、科学は、因果性という概念からその内容を抜き去り、この概念を比喩のための定式として残存せしめたが、この定式においては、いずれの側を原因ないしは結果とみなすかは、根本においてどうでもよいこととなってしまった。二つの複合状態(力の位置関係)においては力の量は等しさを保っているということが、主張されている。《生起を算定しうるのは》、それが或る法則に従っているとか、ないしは或る必然性に服しているとか、ないしは或る因果の法則を私たちがあらゆる事物のうちへと投影するとかということのためではないーーー、それは《『同一の場合』が回帰する》からである。カントが思いこんでいるように、《因果性の感覚》なるものはない。驚いて、不安をおぼえ、たよりにできる何か既知のものをもとめるのであるーーー新しいもののうちに何か古いものが指摘されるやいなや、私たちの心は鎮(しず)まる。いわゆる因果性の本能は、《なれていないものに対する恐怖》にすぎず、そのもののうちに何か《既知のもの》を発見しようとの試みにすぎない、ーーー原因の探求ではなく、既知のものの探求である」(ニーチェ「権力への意志・第三書・五五一・P.84」ちくま学芸文庫)
しかし必ずしも「科学」はそうではないのではないか、という殺人的なまでに素朴な疑問について。
「科学の発達は、『既知のもの』をますます未知のもののうちへと解消する、ーーーしかるに科学は、まさしく《逆のことを欲し》、未知のものを既知のものへと還元する本能から出発している。要約すれば、科学が準備するのは、《主権的な無知》、すなわち、『認識』は全然あらわれることはないとの、それがあらわれると夢みるのは一種の驕慢であったとの感情、それのみならず、『認識』を一つの《可能性》としてみとめるだけの概念をすら私たちはなんら保有してはいないとの、ーーー『認識』とは一つの矛盾にみちた考えであるとの感情である。私たちは人間の太古の神話や虚栄をきびしい事実のうちへと《翻訳する》が、『物自体』と同じく、『認識自体』もいまだ概念として《許容されて》はいないのである。『数と論理』による誘惑、『法則』による誘惑」(ニーチェ「権力への意志・第三書・六〇八・P.144」ちくま学芸文庫)
科学の発展。それはできる限り予断を排して、さらにどんな拘束も受けずに探求することだが、それでもなお科学的研究従事者は「真理」の究明という「信仰」に取り憑かれているとニーチェは指摘する。
「なるほど彼らはどの点においても格別に拘束されてはいない。だが、真理に対する信仰という一点においては、彼らほど強く絶対的に拘束されている者は他に誰もいない」(ニーチェ「道徳の系譜・P.193」岩波文庫)
ゆえに不可避的逆説が生じてくる。にもかかわらずこの逆説が逆説と捉えられず、かえって順説として転倒され正当化されて受け止められているところに人間の破滅的傾向を見ることはもはやたやすい。実際はどうなのかという原因の《探究》は逆に「阻止」され「排斥」さえされているのだから。
「私たちのたいていの一般感情ーーー交感神経の特殊な状態におけると同じく、器官の作用と反作用におけるあらゆる種類の阻止、圧迫、緊張、爆発ーーーは、私たちの原因衝動を刺戟する。すなわち、私たちは、おのれが《かくかく》の情状にあることの、ーーー気分がわるいないし気分がよいことの《根拠》をえようと欲するのである。たんに、かくかくの情状にあるという《事実》だけを単純に確かめるだけでは、私たちはけっして満足しない。私たちがはじめてこの事実をみとめるーーーそれを《意識する》ーーーのは、この事実に一種の動機づけをあたえおえた《とき》であるからである。ーーーそのような場合に知らずしらず活動しだす回想が導きだしてくるのは、以前の同種の諸状態や、それとからみあった因果的諸解釈であって、ーーーこれらの状態や解釈の原因では《ない》。もちろん、諸想念、随伴的な諸意識現象が原因であったという信仰も、回想をつうじていっしょに持ちだされてくる。かくして特定の原因解釈にこだわる《習慣》が発生するのだが、実はこの習慣が原因の《探求》を阻止し、排斥さえする」(ニーチェ「偶像の黄昏」『偶像の黄昏/反キリスト者・P.62』ちくま学芸文庫)
人間は保守的なものだ。アルトーはそれを知っている。知っているがゆえになおのことアルトー自身の持つ保守性も含めて否定したくなる。読者にとってその気持ちはたいへんよくわかる。しかしただ「わかる」といって同意しているばかりでは済まなくなったのも事実だ。アルトーは「狼少年」ではない。かといって「狼中年」でもないが。ともかく、人間は近代社会を打ち立てたが、打ち立てれば打ち立てるほど急速に、人間自身から人間が本来的に持つ「エネルギー」が「低下」しなおかつ「消失」していく。この傾向について「最後の段階に達したかのように見える」とアルトーはいう。ところが事態は「最後に達し」てその「段階」に留まっているどころかますますより一層強力に人間から強度とその物質性を奪い取り、人間をほとんど無化しつつ現代社会の下僕として活用することを覚えたことは見間違いようのない事実となった。現代社会にとって人間はもう必要ないというのなら、いっそのことありとあらゆる人間を地上から抹殺してしまえばよい。しかし現代社会はそうはしない。そうするほど馬鹿ではないのだ。というのも、現代社会といおうが資本主義的市民社会といおうがいずれにせよ剰余価値を生むのは人間が自然力として持っている労働力を前提するほかないからである。資本主義は自己目的のために資本主義的生産様式を貫徹するが、資本主義的生産様式を貫徹させるためには人間の労働力を必然的に必要とする。どれほど人間のエネルギーが低下し消失しほとんど無力化したとしても、資本にとって最低限度必要な労働力を保存しておく必要性までが失われてしまうわけではない。むしろ最低限度必要な労働力さえも消失させてしまった場合、資本も同時に破滅する。自明の理だ。むしろ資本自身がそれを自明の理として、そして同時に前提として自覚的に立ち働いているのだから。ところが資本の人格化としての資本家は生身の人間なのでともすれば鈍感でいられる。そんな鈍感な資本家とは違い、資本主義は自己目的貫徹のためよそ見などしている暇がない。何かあればただちにすべての関係諸機関を瞬時に叩き起こして資本主義的公理系を改めて調整し更新する必要性がある。そしてそれは改変され更新される。資本家が晩酌を済ませて眠りこけているあいだにも資本主義的公理系は絶え間なく作動し続けており、資本主義的現代社会の秩序とその維持存続のために全力を上げて対処する。だから資本主義の脱コード化と公理系の創設とは一つの同じ動作だと言われるのだ。
「資本主義は《脱コード化した流れのための一般公理系》とともに形成される」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.208」河出文庫)
さらにいえば、その瞬間以前に資本主義は《ない》。
「資本主義は、質的な限定を受けない富の流れが、質的な限定を受けない労働の流れと出会い、それに接合されるとき形成される」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.208」河出文庫)
ドゥルーズとガタリがそういうように「質的な限定を受けない富の流れが、質的な限定を受けない労働の流れと出会い、それに接合されるとき形成される」状態を指して、差し当たり「資本主義」と呼ばれているに過ぎない。「質的な限定を受けない富の流れが、質的な限定を受けない労働の流れと出会い、それに接合され」ることがなければ「資本主義」は「形成され」《ない》。
もっとも、今の世の中は資本主義社会である。だからほとんどすべての人間はどこへ行っても行かなくても資本主義は常に作動しているかのように信じ込んでいる。しかし資本主義は可視化できるだろうか。資本主義は富の流れと労働力の流れを出会わせ両者の利害を調整し更新する公理系を次々と生産し付け加えていく作業に忙殺されている。それは資本主義自身が死滅してしまわないためにそうしているのであって、生産資本、流通資本、金融資本が死んでしまっても資本主義自身まで一緒に死んでしまわないための事前的準備動作に過ぎない。資本主義にとって個々の製造業者や流通業者、さらに金融関連業者の倒産など実をいえばまるでどうでもよいことだ。むしろ資本主義的公理系の調整更新機能にとって無駄と判明すれば、それがどれほど巨大な製造メーカーであっても一挙に倒産させ、そのメーカーが拠点を置いていた地方都市を丸ごと廃墟化することにしている。アメリカを例に取ると、一旦は途轍もなく荒廃したラストベルト。とりわけデトロイト。しかしかつては自動車産業で潤うアメリカでも有数の産業資本都市だった。ちなみにキッスの楽曲にデトロイトを舞台にした“Detroit Rock City”というヒット曲がある。一九七六年発表。時期に注目しよう。小型、軽量、燃費の良さ、手ごろな価格、等々を武器に日本車が徐々にアメリカ市場を席巻していく初期に当たる。資本主義においては、致命的な事態の悪化が目に見える頃にはすでに手遅れなのが通例だ。ラストベルトという事態の発生はアメリカ型資本主義を推し進めたがゆえに生じてきた当然の帰結である。米国製自動車が「商品《として》無駄」になったのはなぜか。
「売りと買いとは、二人の対極的に対立する人物、商品所持者と貨幣所持者との相互関係としては、一つの同じ行為である。それらは、同じ人の行為としては、二つの対極的に対立した行為をなしている。それゆえ、売りと買いとの同一性は、商品が流通という錬金術の坩堝(るつぼ)に投げこまれたのに貨幣として出てこなければ、すなわち商品所持者によって売られず、したがって貨幣所持者によって買われないならば、その商品はむだになる、ということを含んでいる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.202」国民文庫)
ところが今やアメリカはラストベルトを再建したと豪語している。実は誰もが知る通り再建どころか、世界的自由貿易競争から撤退し他国の自動車メーカーを排除してなされた逃亡劇でしかないにもかかわらず。しかしそれを可能にした理由はしっかりあるのだ。一体どのようにしてなされたか。
「貨幣所持者が市場で商品としての労働力に出会うためには、いろいろな条件がみたされていなければならない。商品交換は、それ自体としては、それ自身の性質から生ずるもののほかにはどんな従属関係も含んではいない。この前提のもとで労働力が商品として市場に現われることができるのは、ただ、それ自身の所持者が、それを自分の労働力としてもっている人が、それを商品として売りに出すかまたは売るかぎりでのことであり、またそうするからである。労働力の所持者が労働力を商品として売るためには、彼は、労働力を自由に処分することができなければならず、したがって彼の労働能力、彼の一身の自由な所有者でなければならない(古典的古代に関する百科事典のなかでは次のようなばかげたことを読むことができる。すなわち、古代世界では、「自由な労働者と信用制度とがなかったことを別とすれば」資本は十分に発達していた、というのである。モムゼン氏も彼の『ローマ史』のなかでたびたびはき違えをやっている)。労働力の所持者と貨幣所持者とは、市場で出会って互いに対等な商品所持者として関係を結ぶのであり、彼らの違いは、ただ、一方は買い手で他方は売り手だということだけであって、両方とも法律上では平等な人である。この関係の持続は、労働力の所有者がつねにただ一定の時間を限ってのみ労働力を売るということを必要とする。なぜならば、もし彼がそれをひとまとめにして一度に売ってしまうならば、彼は自分自身を売ることになり、彼は自由人から奴隷に、商品所持者から商品になってしまうからである。彼が人として彼の労働力にたいしてもつ関係は、つねに彼の所有物にたいする、したがって彼自身の商品にたいする関係でなければならない。そして、そうでありうるのは、ただ、彼がいつでもただ一時的に、一定の期間を限って、彼の労働力を買い手に用立て、その消費にまかせるだけで、したがって、ただ、労働力を手放してもそれにたいする自分の所有権は放棄しないというかぎりでのことである」(マルクス「資本論・第一部・第二篇・第四章・P.294~295」国民文庫)
さらに第二点として次の事情が原則として貫かれていることに留意する必要がある。
「貨幣所持者が労働力を市場で商品として見つけだすための第二の本質的な条件は、労働力所持者が自分の労働の対象化されている商品を売ることができないで、ただ自分の生きている肉体のうちにだけ存在する自分の労働力そのものを商品として売り出さなければならないということである。
ある人が労働力とは別な商品を売るためには、もちろん彼は生産手段たとえば原料や労働用具などをもっていなければならない。彼は革なしで長靴をつくることはできない。彼にはそのほかに生活手段も必要である。未来の生産物では、したがってまたその生産がまだ終わっていない使用価値では、だれも、未来派の音楽家でさえも、食ってゆくことはできない。そして、人間は、地上に姿を現わした最初の日と変わりなく、いまもなお毎日消費しなければならない。彼が生産を始める前にも、生産しているあいだにも。もし生産物が商品として生産されるならば、生産物は生産されてから売られなければならないのであって、売られてからはじめて生産者の欲望を満足させることができるのである。生産時間にさらに販売のために必要な時間が加わってくるのである。
だから、貨幣が資本に転化するためには、貨幣所持者は商品市場で自由な労働者に出会わなければならない。自由というのは、二重の意味でそうなのであって、自由な人として自分の労働力を自分の商品として処分できるという意味と、他方では労働力のほかには商品として売るものをもっていなくて、自分の労働力の実現のために必要なすべての物から解き放たれており、すべての物から自由であるという意味で、自由なのである」(マルクス「資本論・第一部・第二篇・第四章・P.296~297」国民文庫)
さてここではまた、賃金労働者の「自由」あるいは「自立」という問題が提出されている。今日的問題として今なお解決への過程の見えない課題だ。しかしなぜ、課題を提出することはできるにもかかわらず、それがよく見えないものとしてしか認識され得ないか、マルクスは明確に論じている。
「資本主義的生産過程はそれ自身の進行によって労働力と労働条件との分離を再生産する。したがって、それは労働者の搾取条件を再生産し永久化する。それは、労働者には自分の労働力を売って生きてゆくことを絶えず強要し、資本家にはそれを買って富をなすことを絶えず可能にする。資本家と労働者とを商品市場で買い手と売り手として向かい合わせるものは、もはや偶然ではない。一方の人を絶えず自分の労働力の売り手として商品市場に投げ返し、また彼自身の生産物を絶えず他方の人の購買手段に転化させるものは、過程そのものの必至の成り行きである。じっさい、労働者は、彼が自分を資本家に売る前に、すでに資本に属しているのである。彼の経済的隷属は、彼の自己販売の周期的更新や彼の個々の雇い主の入れ替わりや労働の市場価格の変動によって媒介されていると同時におおい隠されている」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十一章・P.127」国民文庫)
そんなわけで、再びアメリカ人労働者はほどなく自分で選んだアメリカ型資本主義のためにせっせと働けば働くほど、逆にまた違った業種においてラストベルトを発生させずにはおかないだろう。また日本のマスコミは、諸外国に対する今のトランプ政権の手法、とりわけ経済制裁について、「次期大統領選勝利へ向けたアメリカ国民へのアピール」だと報道している。そうだろうか。イランの側を持ち上げるわけではないし、かといってイランに恨みがあるわけでもない。といよりむしろ、アメリカかイランかが問題なのではないようにおもえて仕方がない。トランプ政権の外交手法を見ていると、日本のマスコミが自動的に言い立てているような対内的な「次期大統領選勝利へ向けたアメリカ国民へのアピール」というよりも、遥かに暴力的で高圧的な、同盟国を含む全世界に対する対外的な恫喝行為に見える。
「ランボーやジャリやロートレアモンその他に対するわれわれの文学的称賛は、二人の男を自殺に追いやったが、しかし他の連中にとってはカフェの無駄話にすぎず、文学的な詩、超然とした芸術、中立的な精神活動というあの観念の一部であり、何も為さず、何も産み出しはしない」(アルトー「傑作と縁を切る」『演劇とその分身・P.126』河出文庫)
何も生産しない演劇あるいは広い意味での芸術。そこにもはや驚きはなく、むしろ予定調和が準備されているばかりだ。ニーチェが危惧したニヒリズム、ドイツにアウシュヴィッツ強制収容所を出現させた危険なニヒリズムの兆候はアルトーの目にはすでに明らかだった。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM
「彼女の香水は強烈で下品である。それによって、彼女が下品好きであるのをすぐに知ることができる。ディヴィーヌは良い趣味、確かな好みをもっているのだから、そしてかなり憂慮すべきことに、人生はこの傷つきやすい彼女をつねに下品な境遇に置き、あらゆる卑劣な行為と接触させる」(ジュネ「花のノートルダム・P.40」河出文庫)
そしてその下品さに仲介される形でディヴィーヌはさらにどんどん穢(けが)らわしい世界との接点を連結させていく。上流階級の社交界では上品とされるその同じ匂いが上層社交界では「聖なる香り」とされ、他方、ディヴィーヌたちの世界に置かれると「穢れた臭い」とされるのか。香水の構成成分は同じである。このような同じものの二極分化という現象について、とりわけ二極が左右ではなく上下へと分化し上層では「聖」として下層では「賎」として取り扱われる奇妙な傾向について、文化人類学を始めとする様々な学術研究が発表されている。そしてこの傾向はほかならぬ貨幣において、遠い昔から貨幣が「聖」かつ「賎」の合成物として取り扱われてきたことは興味深いと言わねばならない。ところでディヴィーヌの好みの相手は「ボヘミアン」である。ボヘミアンになろうと思ってもそう簡単になれるものではない。暑さ寒さ、突然の風雨、政治的社会変動、食物の確保、などなどありとあらゆる事情の変化に即して生きていくことができる体力が何より必要だ。誰にでも可能だというわけではない。そしてヨーロッパだけでなくボヘミアンは非定住型生活を原則としており、当然日焼けしていて肌の色は北欧系に比べれば黒い。性別を問わずアマゾネス系タイプを愛する人々にはたまらなく魅力的である。
「彼女が下品を慈しむのは、彼女の最大の愛が黒い肌をしたひとりのボヘミアンに向けられたものであったからだ」(ジュネ「花のノートルダム・P.40」河出文庫)
ジュネ作品の中でボヘミアンとジプシーとの違いは明確になっていない。なっていないので少し述べておくと、ジプシーの場合、ただ単なる放浪者に過ぎないとはけっしていえない。特にジプシーと呼ばれる人々には独特の移住民系芸能集団といった色合いが強い。また、両者の違いが明確でないのは両者がしばしば混合されて用いられたからというだけでなく、実際に両者のあいだで付き合いがあったためだろうと考えられている。共通項はどちらも非定住民であるということと芸能を生業とした点で重なる部分だろう。
「彼の上になったり、下になったり、彼女のからだを貫くジプシーの歌を、口を彼女の口にはりつけて彼が歌っていたとき、彼女は、ふしだらな連中にはぴったりの絹と金モールといった、下品な布地の魅力をこうむる術を学んだ」(ジュネ「花のノートルダム・P.40」河出文庫)
しかしなぜジュネのいう「下品」な人々は絹のドレスや特に「金モール」を好むのか。あるいは今でいう「金の延板」を。作品「ブレストの乱暴者」の中で、セブロン少尉が自分の制服に刺繍された「金モール」を見つめ見とれつつ海に向かって心の叫び(《臭くしてやる!臭くしてやる!世界中を臭くしてやる!》)を喚き散らす印象的なシーンがあったが。ところが彼らの心身を賭けた生きざまの凄絶さにもかかわらず、世間一般では、とりわけ現代社会の政治において、ジュネたちのように自分の生涯を自分自身で引き受けるといった生を抜きにして、なぜか下品な行為が下品とされずにまかり通っているのは余りに不自然ではないだろうか。不自然さの余りにかえってそこにある「不思議なもの」が目についてしまうのである。
たとえば多額の金品授受について。質問がなされる。答える側は質問自体が「抽象的」だとして答えなかったり「わからない」と答える場合がある。けれども「抽象的」だとする態度は、質問が抽象的なのではなく、自分に向けられた質問から逃亡するのでもなく、逆に質問を取り上げて「抽象化」する切迫した必要性が生じているために「抽象的」だと言うほかなくなるのだ。ベイトソンはそれを「抽象化のパラドックス」と呼ぶ。どういうことか。
「われわれのプロジェクトの中心テーマは、抽象化のパラドックスが起こる《必然性》を探ることだといっていいだろう。人間はパラドックスを排し、<論理階型理論>にしたがってコミュニケーションを遵守すべきだとする考えがあるが、これは人間の精神の自然(ネイチャー)からまったく目をそらした考えである。それが遵守されないのは、単に無知や不注意によるものではないのだ。そればかりではない。われわれの信じるところによれば、単なるムード・シグナルのやりとりより複雑なすべてのコミュニケーションで、抽象化のパラドックスが必然的に姿を現わすのである。パラドックスが生じないようなコミュニケーションは、進化の歩みを止めてしまうのだとわれわれは考える。明確に型どられたメッセージが整然と行き交うだけの生には、変化もユーモアも起こりえない。それは厳格な規則に縛りつけられたゲームと変わるところのないものである」(ベイトソン「精神の生態学・P.276」新思索社)
ところがまさにその行為は、議会で質疑応答がなされている時間帯に限り、問題の同一性が憲法の手続上保障されている時間帯に限り、「厳格な規則に縛りつけられた」議会の場に限れば限るほど、けっして既定のコンテクスト(社会的文脈)をずらしてはならず、ずらすことはますます不可能となる。さらにまた質疑応答において既定のコンテクスト(社会的文脈)をずらすことはそもそも違法である。議会内での質疑応答はあくまで規定のコンテクスト(社会的文脈)の中で行われなければならない。議会での質疑応答のために設けられている場は、政治家が自分の芸術的創造性を発揮し虚偽答弁を披露して見せる場ではまったくない。そのような行為は期待されていない。そしてもし質疑応答が規定のコンテクスト(社会的文脈)の中で、それに則って厳格に行われない場合、その言動はすでに「抽象化のパラドックス」へ身を委ねて問題を議会の中でなく外へ丸投げし、暴力的に規定のコンテクスト(社会的文脈)をずらそうとしているか、手前勝手に規定のコンテクスト(社会的文脈)を破棄し「抽象化のパラドックス」を生じさせて問われている問題を自分本位にどのようにでも歪曲できるような状態のまま放り出してしまっているかどちらかだろう。職務放棄に等しい。ところでその場合、次のようなことが生じてくると考えられる。
「われわれがゲームをするときーーー<やりながら規則をでっち上げる>ような場合もあるのではないか。また、やりながらーーー規則を変えてしまう場合もあるのではないか」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・八三」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.84』大修館書店)
脱線なら元に戻してもう一度やり直すのが結果的に良好なケースが少なくない。だがコンテクスト(社会的文脈)そのものを「抽象化」してしまう暴力は言葉の暴力の中でもかなり荒っぽい、仲間のあいだであっても周囲をひきつらせる、大顰蹙(ひんしゅく)の上にさらなる大顰蹙を上積みする行為としてますます過積載化していくであろう。というのは、数字によって示すことができるにもかかわらず、何の準備もなしにあるいは準備を無視して、あえて「抽象化のパラドックス」の必然性の中へ叩き込んでしまえば、他の仲間たちが発行したかこれからするはずの手形=信用にとって大打撃となって跳ね返ってくるからである。
ーーーーー
さて、アルトー。シェイクスピアの名が出てくるけれども、差し当たり重大な関係項としての意味を持たない。むしろ大事なのは、シェイクスピア演劇は近代社会の産物であり、したがって現代人には大変痛切な問題提起の場であるにもかかわらず、観衆はなぜ舞台上から放たれた無数の、知性を困惑させるイメージから、「生体組織のなかに動揺を引き起こすことも、もはや消えることのない刻印を残すこともなく、この観念は、演劇の上演が観客を無傷のまま」無事に帰宅し終えることができるのか、とアルトーは問いかける。
「この錯誤とこの堕落、この演劇の無関心な観念についてはシェイクスピア自身に責任があるが、投げつけられたイメージが生体組織のなかに動揺を引き起こすことも、もはや消えることのない刻印を残すこともなく、この観念は、演劇の上演が観客を無傷のままにしておくことを望んだのである」(アルトー「傑作と縁を切る」『演劇とその分身・P.124』河出文庫)
観衆がそう「望んだ」。市民社会はそう《欲した》。「無傷のまま」がよいのだと、何と観衆の側がそう意志するという事態が生じてきた。アルトーはこの事態を正当にも人間本来の力への低下として読み取る。人間は明らかに価値下落を起こしているのにそれに気づいていないということ。
「未知なものを既知のものに、すなわち日常的なものや月並みなものに追いやることに夢中になる心理は、エネルギーのこの低下とこの恐るべき消失の原因であるが、私にはそれがいよいよ最後の段階に達したかのように見える」(アルトー「傑作と縁を切る」『演劇とその分身・P.125』河出文庫)
まず「未知なものを既知のものに、すなわち日常的なものや月並みなものに追いやることに夢中になる」ことがどれほど危険極まりないことか。アルトーはなぜ「この錯誤とこの堕落」と指摘するのか。
「《因果性による解釈は一つの迷妄である》ーーー『事物』とは、概念や心象によって総合的に結合されたその諸結果の総計のことである。じじつ、科学は、因果性という概念からその内容を抜き去り、この概念を比喩のための定式として残存せしめたが、この定式においては、いずれの側を原因ないしは結果とみなすかは、根本においてどうでもよいこととなってしまった。二つの複合状態(力の位置関係)においては力の量は等しさを保っているということが、主張されている。《生起を算定しうるのは》、それが或る法則に従っているとか、ないしは或る必然性に服しているとか、ないしは或る因果の法則を私たちがあらゆる事物のうちへと投影するとかということのためではないーーー、それは《『同一の場合』が回帰する》からである。カントが思いこんでいるように、《因果性の感覚》なるものはない。驚いて、不安をおぼえ、たよりにできる何か既知のものをもとめるのであるーーー新しいもののうちに何か古いものが指摘されるやいなや、私たちの心は鎮(しず)まる。いわゆる因果性の本能は、《なれていないものに対する恐怖》にすぎず、そのもののうちに何か《既知のもの》を発見しようとの試みにすぎない、ーーー原因の探求ではなく、既知のものの探求である」(ニーチェ「権力への意志・第三書・五五一・P.84」ちくま学芸文庫)
しかし必ずしも「科学」はそうではないのではないか、という殺人的なまでに素朴な疑問について。
「科学の発達は、『既知のもの』をますます未知のもののうちへと解消する、ーーーしかるに科学は、まさしく《逆のことを欲し》、未知のものを既知のものへと還元する本能から出発している。要約すれば、科学が準備するのは、《主権的な無知》、すなわち、『認識』は全然あらわれることはないとの、それがあらわれると夢みるのは一種の驕慢であったとの感情、それのみならず、『認識』を一つの《可能性》としてみとめるだけの概念をすら私たちはなんら保有してはいないとの、ーーー『認識』とは一つの矛盾にみちた考えであるとの感情である。私たちは人間の太古の神話や虚栄をきびしい事実のうちへと《翻訳する》が、『物自体』と同じく、『認識自体』もいまだ概念として《許容されて》はいないのである。『数と論理』による誘惑、『法則』による誘惑」(ニーチェ「権力への意志・第三書・六〇八・P.144」ちくま学芸文庫)
科学の発展。それはできる限り予断を排して、さらにどんな拘束も受けずに探求することだが、それでもなお科学的研究従事者は「真理」の究明という「信仰」に取り憑かれているとニーチェは指摘する。
「なるほど彼らはどの点においても格別に拘束されてはいない。だが、真理に対する信仰という一点においては、彼らほど強く絶対的に拘束されている者は他に誰もいない」(ニーチェ「道徳の系譜・P.193」岩波文庫)
ゆえに不可避的逆説が生じてくる。にもかかわらずこの逆説が逆説と捉えられず、かえって順説として転倒され正当化されて受け止められているところに人間の破滅的傾向を見ることはもはやたやすい。実際はどうなのかという原因の《探究》は逆に「阻止」され「排斥」さえされているのだから。
「私たちのたいていの一般感情ーーー交感神経の特殊な状態におけると同じく、器官の作用と反作用におけるあらゆる種類の阻止、圧迫、緊張、爆発ーーーは、私たちの原因衝動を刺戟する。すなわち、私たちは、おのれが《かくかく》の情状にあることの、ーーー気分がわるいないし気分がよいことの《根拠》をえようと欲するのである。たんに、かくかくの情状にあるという《事実》だけを単純に確かめるだけでは、私たちはけっして満足しない。私たちがはじめてこの事実をみとめるーーーそれを《意識する》ーーーのは、この事実に一種の動機づけをあたえおえた《とき》であるからである。ーーーそのような場合に知らずしらず活動しだす回想が導きだしてくるのは、以前の同種の諸状態や、それとからみあった因果的諸解釈であって、ーーーこれらの状態や解釈の原因では《ない》。もちろん、諸想念、随伴的な諸意識現象が原因であったという信仰も、回想をつうじていっしょに持ちだされてくる。かくして特定の原因解釈にこだわる《習慣》が発生するのだが、実はこの習慣が原因の《探求》を阻止し、排斥さえする」(ニーチェ「偶像の黄昏」『偶像の黄昏/反キリスト者・P.62』ちくま学芸文庫)
人間は保守的なものだ。アルトーはそれを知っている。知っているがゆえになおのことアルトー自身の持つ保守性も含めて否定したくなる。読者にとってその気持ちはたいへんよくわかる。しかしただ「わかる」といって同意しているばかりでは済まなくなったのも事実だ。アルトーは「狼少年」ではない。かといって「狼中年」でもないが。ともかく、人間は近代社会を打ち立てたが、打ち立てれば打ち立てるほど急速に、人間自身から人間が本来的に持つ「エネルギー」が「低下」しなおかつ「消失」していく。この傾向について「最後の段階に達したかのように見える」とアルトーはいう。ところが事態は「最後に達し」てその「段階」に留まっているどころかますますより一層強力に人間から強度とその物質性を奪い取り、人間をほとんど無化しつつ現代社会の下僕として活用することを覚えたことは見間違いようのない事実となった。現代社会にとって人間はもう必要ないというのなら、いっそのことありとあらゆる人間を地上から抹殺してしまえばよい。しかし現代社会はそうはしない。そうするほど馬鹿ではないのだ。というのも、現代社会といおうが資本主義的市民社会といおうがいずれにせよ剰余価値を生むのは人間が自然力として持っている労働力を前提するほかないからである。資本主義は自己目的のために資本主義的生産様式を貫徹するが、資本主義的生産様式を貫徹させるためには人間の労働力を必然的に必要とする。どれほど人間のエネルギーが低下し消失しほとんど無力化したとしても、資本にとって最低限度必要な労働力を保存しておく必要性までが失われてしまうわけではない。むしろ最低限度必要な労働力さえも消失させてしまった場合、資本も同時に破滅する。自明の理だ。むしろ資本自身がそれを自明の理として、そして同時に前提として自覚的に立ち働いているのだから。ところが資本の人格化としての資本家は生身の人間なのでともすれば鈍感でいられる。そんな鈍感な資本家とは違い、資本主義は自己目的貫徹のためよそ見などしている暇がない。何かあればただちにすべての関係諸機関を瞬時に叩き起こして資本主義的公理系を改めて調整し更新する必要性がある。そしてそれは改変され更新される。資本家が晩酌を済ませて眠りこけているあいだにも資本主義的公理系は絶え間なく作動し続けており、資本主義的現代社会の秩序とその維持存続のために全力を上げて対処する。だから資本主義の脱コード化と公理系の創設とは一つの同じ動作だと言われるのだ。
「資本主義は《脱コード化した流れのための一般公理系》とともに形成される」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.208」河出文庫)
さらにいえば、その瞬間以前に資本主義は《ない》。
「資本主義は、質的な限定を受けない富の流れが、質的な限定を受けない労働の流れと出会い、それに接合されるとき形成される」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.208」河出文庫)
ドゥルーズとガタリがそういうように「質的な限定を受けない富の流れが、質的な限定を受けない労働の流れと出会い、それに接合されるとき形成される」状態を指して、差し当たり「資本主義」と呼ばれているに過ぎない。「質的な限定を受けない富の流れが、質的な限定を受けない労働の流れと出会い、それに接合され」ることがなければ「資本主義」は「形成され」《ない》。
もっとも、今の世の中は資本主義社会である。だからほとんどすべての人間はどこへ行っても行かなくても資本主義は常に作動しているかのように信じ込んでいる。しかし資本主義は可視化できるだろうか。資本主義は富の流れと労働力の流れを出会わせ両者の利害を調整し更新する公理系を次々と生産し付け加えていく作業に忙殺されている。それは資本主義自身が死滅してしまわないためにそうしているのであって、生産資本、流通資本、金融資本が死んでしまっても資本主義自身まで一緒に死んでしまわないための事前的準備動作に過ぎない。資本主義にとって個々の製造業者や流通業者、さらに金融関連業者の倒産など実をいえばまるでどうでもよいことだ。むしろ資本主義的公理系の調整更新機能にとって無駄と判明すれば、それがどれほど巨大な製造メーカーであっても一挙に倒産させ、そのメーカーが拠点を置いていた地方都市を丸ごと廃墟化することにしている。アメリカを例に取ると、一旦は途轍もなく荒廃したラストベルト。とりわけデトロイト。しかしかつては自動車産業で潤うアメリカでも有数の産業資本都市だった。ちなみにキッスの楽曲にデトロイトを舞台にした“Detroit Rock City”というヒット曲がある。一九七六年発表。時期に注目しよう。小型、軽量、燃費の良さ、手ごろな価格、等々を武器に日本車が徐々にアメリカ市場を席巻していく初期に当たる。資本主義においては、致命的な事態の悪化が目に見える頃にはすでに手遅れなのが通例だ。ラストベルトという事態の発生はアメリカ型資本主義を推し進めたがゆえに生じてきた当然の帰結である。米国製自動車が「商品《として》無駄」になったのはなぜか。
「売りと買いとは、二人の対極的に対立する人物、商品所持者と貨幣所持者との相互関係としては、一つの同じ行為である。それらは、同じ人の行為としては、二つの対極的に対立した行為をなしている。それゆえ、売りと買いとの同一性は、商品が流通という錬金術の坩堝(るつぼ)に投げこまれたのに貨幣として出てこなければ、すなわち商品所持者によって売られず、したがって貨幣所持者によって買われないならば、その商品はむだになる、ということを含んでいる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.202」国民文庫)
ところが今やアメリカはラストベルトを再建したと豪語している。実は誰もが知る通り再建どころか、世界的自由貿易競争から撤退し他国の自動車メーカーを排除してなされた逃亡劇でしかないにもかかわらず。しかしそれを可能にした理由はしっかりあるのだ。一体どのようにしてなされたか。
「貨幣所持者が市場で商品としての労働力に出会うためには、いろいろな条件がみたされていなければならない。商品交換は、それ自体としては、それ自身の性質から生ずるもののほかにはどんな従属関係も含んではいない。この前提のもとで労働力が商品として市場に現われることができるのは、ただ、それ自身の所持者が、それを自分の労働力としてもっている人が、それを商品として売りに出すかまたは売るかぎりでのことであり、またそうするからである。労働力の所持者が労働力を商品として売るためには、彼は、労働力を自由に処分することができなければならず、したがって彼の労働能力、彼の一身の自由な所有者でなければならない(古典的古代に関する百科事典のなかでは次のようなばかげたことを読むことができる。すなわち、古代世界では、「自由な労働者と信用制度とがなかったことを別とすれば」資本は十分に発達していた、というのである。モムゼン氏も彼の『ローマ史』のなかでたびたびはき違えをやっている)。労働力の所持者と貨幣所持者とは、市場で出会って互いに対等な商品所持者として関係を結ぶのであり、彼らの違いは、ただ、一方は買い手で他方は売り手だということだけであって、両方とも法律上では平等な人である。この関係の持続は、労働力の所有者がつねにただ一定の時間を限ってのみ労働力を売るということを必要とする。なぜならば、もし彼がそれをひとまとめにして一度に売ってしまうならば、彼は自分自身を売ることになり、彼は自由人から奴隷に、商品所持者から商品になってしまうからである。彼が人として彼の労働力にたいしてもつ関係は、つねに彼の所有物にたいする、したがって彼自身の商品にたいする関係でなければならない。そして、そうでありうるのは、ただ、彼がいつでもただ一時的に、一定の期間を限って、彼の労働力を買い手に用立て、その消費にまかせるだけで、したがって、ただ、労働力を手放してもそれにたいする自分の所有権は放棄しないというかぎりでのことである」(マルクス「資本論・第一部・第二篇・第四章・P.294~295」国民文庫)
さらに第二点として次の事情が原則として貫かれていることに留意する必要がある。
「貨幣所持者が労働力を市場で商品として見つけだすための第二の本質的な条件は、労働力所持者が自分の労働の対象化されている商品を売ることができないで、ただ自分の生きている肉体のうちにだけ存在する自分の労働力そのものを商品として売り出さなければならないということである。
ある人が労働力とは別な商品を売るためには、もちろん彼は生産手段たとえば原料や労働用具などをもっていなければならない。彼は革なしで長靴をつくることはできない。彼にはそのほかに生活手段も必要である。未来の生産物では、したがってまたその生産がまだ終わっていない使用価値では、だれも、未来派の音楽家でさえも、食ってゆくことはできない。そして、人間は、地上に姿を現わした最初の日と変わりなく、いまもなお毎日消費しなければならない。彼が生産を始める前にも、生産しているあいだにも。もし生産物が商品として生産されるならば、生産物は生産されてから売られなければならないのであって、売られてからはじめて生産者の欲望を満足させることができるのである。生産時間にさらに販売のために必要な時間が加わってくるのである。
だから、貨幣が資本に転化するためには、貨幣所持者は商品市場で自由な労働者に出会わなければならない。自由というのは、二重の意味でそうなのであって、自由な人として自分の労働力を自分の商品として処分できるという意味と、他方では労働力のほかには商品として売るものをもっていなくて、自分の労働力の実現のために必要なすべての物から解き放たれており、すべての物から自由であるという意味で、自由なのである」(マルクス「資本論・第一部・第二篇・第四章・P.296~297」国民文庫)
さてここではまた、賃金労働者の「自由」あるいは「自立」という問題が提出されている。今日的問題として今なお解決への過程の見えない課題だ。しかしなぜ、課題を提出することはできるにもかかわらず、それがよく見えないものとしてしか認識され得ないか、マルクスは明確に論じている。
「資本主義的生産過程はそれ自身の進行によって労働力と労働条件との分離を再生産する。したがって、それは労働者の搾取条件を再生産し永久化する。それは、労働者には自分の労働力を売って生きてゆくことを絶えず強要し、資本家にはそれを買って富をなすことを絶えず可能にする。資本家と労働者とを商品市場で買い手と売り手として向かい合わせるものは、もはや偶然ではない。一方の人を絶えず自分の労働力の売り手として商品市場に投げ返し、また彼自身の生産物を絶えず他方の人の購買手段に転化させるものは、過程そのものの必至の成り行きである。じっさい、労働者は、彼が自分を資本家に売る前に、すでに資本に属しているのである。彼の経済的隷属は、彼の自己販売の周期的更新や彼の個々の雇い主の入れ替わりや労働の市場価格の変動によって媒介されていると同時におおい隠されている」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十一章・P.127」国民文庫)
そんなわけで、再びアメリカ人労働者はほどなく自分で選んだアメリカ型資本主義のためにせっせと働けば働くほど、逆にまた違った業種においてラストベルトを発生させずにはおかないだろう。また日本のマスコミは、諸外国に対する今のトランプ政権の手法、とりわけ経済制裁について、「次期大統領選勝利へ向けたアメリカ国民へのアピール」だと報道している。そうだろうか。イランの側を持ち上げるわけではないし、かといってイランに恨みがあるわけでもない。といよりむしろ、アメリカかイランかが問題なのではないようにおもえて仕方がない。トランプ政権の外交手法を見ていると、日本のマスコミが自動的に言い立てているような対内的な「次期大統領選勝利へ向けたアメリカ国民へのアピール」というよりも、遥かに暴力的で高圧的な、同盟国を含む全世界に対する対外的な恫喝行為に見える。
「ランボーやジャリやロートレアモンその他に対するわれわれの文学的称賛は、二人の男を自殺に追いやったが、しかし他の連中にとってはカフェの無駄話にすぎず、文学的な詩、超然とした芸術、中立的な精神活動というあの観念の一部であり、何も為さず、何も産み出しはしない」(アルトー「傑作と縁を切る」『演劇とその分身・P.126』河出文庫)
何も生産しない演劇あるいは広い意味での芸術。そこにもはや驚きはなく、むしろ予定調和が準備されているばかりだ。ニーチェが危惧したニヒリズム、ドイツにアウシュヴィッツ強制収容所を出現させた危険なニヒリズムの兆候はアルトーの目にはすでに明らかだった。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM