goo blog サービス終了のお知らせ 

白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

言語化するジュネ/流動するアルトー86

2020年01月12日 | 日記・エッセイ・コラム
隠れ家の建物の中でリトンはエリックらドイツ軍とともに潜伏している。ところが。

「エリックは拳銃の、リトンは機関銃の手入れにかかっていた、ほかの連中はまどろんでいた。一時間後には、日光が靄を追いはらってしまった、そしてリトンがまどに近づき、レースまがいの薄紗のカーテンの背後にただずんだとき、一瞬の驚愕のあと彼は、この上なく異様な、強烈な、悲痛な興奮に心身とも奪われ、ずたずたにされるのだった。叫び声はあげなかったが」(ジュネ「葬儀・P.355~356」河出文庫)

不意打ちはいつもジュネを官能へ導く。これもそのために必要な光景の一つだ。

「大通りの両側は、ぎっしりと三色旗で飾られていた。おごそかに彼はフランスに別れを告げた。彼の裏切りにたいして、国旗が飾られていた。彼を祖国から追い出すために、朝っぱらからフランス人はひとり残らず、窓ごとに、取り戻した自由、よみがえった純潔を祝ぐ国旗をはためかせていた。きょう彼は死者たちの国へ赴こうとしているのに、地上では、陽なたで、青空の下で、お祭り騒ぎだった」(ジュネ「葬儀・P.356」河出文庫)

フランスは蘇った。ただ、皮肉も述べられている。大通りをぎっしり埋め尽くしたフランスの三色旗に混じって「イギリスやアメリカの国旗も出ていた」と。それはともかく、フランスを裏切ったリトンをフランスは裏切り返した。フランス国旗は「糞」に、「三色のへど」になって「到る所に滴っていた」。

「窓には、フランス国旗とともに、イギリスやアメリカの国旗も出ていた。糞が、三色のへどが、到る所に滴っていた」(ジュネ「葬儀・P.356」河出文庫)

ジュネが「滴」るというのは、旗は適度の風に吹かれていないとしなだれて見えるからだが、それだけではない。空に向けて真っ直ぐに国旗を突き上げるポールは直立した男性器のほか何ものでもなく、そこから麗しく滴って見える色とりどりの国旗は壮麗な「糞」、ゴージャスな「へど」なのだ。
ーーーーー
さて、アルトー。ヘリオガバルスの奇妙な嗜好について述べる。

「からだの不自由な者たちを自分の食卓に招き、しかも毎日違った形の障害をもつ者を招く行為のなかには、病と不快に対する憂慮すべき嗜好があることを私は指摘しておくが、それが嵩じると、できる限り広汎な面での病、すなわち疫病の広がりをもつ一種の永遠の伝染を求めるまでになる嗜好である」(アルトー「ヘリオガバルス・P.201」河出文庫)

ヘリオガバルスには「畸形」なものを愛するという嗜好があり、それに美を見てもいて、さらにその嗜好性が実際に法律として設定され拡張されると「毒矢の神」でもあるアポロンをその名の中に含むヘリオガバルスは、平気でローマ帝国全土を伝染性のアナーキーで暴発させてしまうに違いない。とともに、しかしヘリオガバルスは論理的で規則的なものに対する深い信仰を実践している。

「彼は一度の食事に一日をかけることもあるが、これはつまり彼が食物消化のなかに空間を導き入れていて、そして夜明けに始まった食事が、四つの方位基点を通った後、夕方におわるということを意味する」(アルトー「ヘリオガバルス・P.201~202」河出文庫)

規則性、周期性、回帰性。明らかに「月経の宗教」の信奉者の態度である。

「時から時へ、料理から料理へ、家から家へ、方位から方位へとヘリオガバルスは移動する」(アルトー「ヘリオガバルス・P.202」河出文庫)

ヘリオガバルスは「時」に、「料理」に、「家」に、「方位」に、《なる》。もはやほとんど神に等しい。
ーーーーー
ところで演劇論。バリ島の演劇にいたく衝撃を受けたアルトーはその特異性を執拗に述べる。というのは、ヨーロッパから見て「特異なもの/差異的なもの」はアジアでは何ら特異でも何でもないからだ。バリの人々の演劇が驚異に値するのはアルトー自身がヨーロッパの目でしかものを見ることができなかったからである。とはいえ、ヨーロッパに比べて本当はアジアの側が優れているということではない。アルトーが行っているのはヨーロッパ〔ロゴス〕中心主義批判である。

「あれらすべての身振り、あれらの鋭角的で突然断ち切られるポーズ、あれらの喉の奥のシンコペートされる変調、あれらの急に変化する音楽的フレーズ、あれらのさやばねの飛翔、あれらの枝のざわめき、あれらのうつろな太鼓の響き、あれらの自動人形の軋み、あれらの生命を吹き込まれたマネキン人形のダンスなど、これらすれべてのもののなかで実際変わっているところは、身振りや、ポーズや、空中に放たれた叫びの迷路を通して、舞台空間のどんな部分も使われないままにしておかない進展と曲線を通して、言葉ではなく記号に基づく新たな身体言語の方向が現れることである」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.85~86』河出文庫)

もちろんヨーロッパの演劇でも身体が用いられるがそれは言語として用いられるわけではない。ところがバリ島演劇では身体が言語そのものとして用いられている。そのとき俳優たちの身体は演劇のあいだじゅう或る種のトランス状態と、無限に浸透し合い闘争し合う多様な力の融合状態におちいっているといえる。

「彼らのドレスの形までもが、人体の軸を移動させながら、トランス状態と永続的戦争状態にあるこれら戦士の衣装のかたわらに、幾種類もの象徴的衣装を。第二の衣装を創造するのだが、これらのドレスはひとつの知的観念を吹き込み、それらの線の交錯によって、大気の眺望のすべての交錯と結びつく」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.86』河出文庫)

演劇において記号化した力の流れ。それらは「線の交錯」という意味深長な言葉を選んで述べられている。後に出てくる多面性、多次元性へと接続されるだろう。

「これらの精神的記号は厳密な意味をもっていて、もはやわれわれを直接的にしか打たないが、かなりの暴力性によって論理的論証的な言語への翻訳を無用なものにしてしまう」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.86』河出文庫)

身体言語はアナーキーなものだから暴力的なのは当たり前なのだが、なぜかそこには規則性がある。演劇だから規則的だというわけではなく、固有の統一性としてのアナーキーは、周期的かつ儀式的に演じられることで、演劇形式を取ることで始めて意味の出現を可能にするということでなくてはならない。

なお、地球温暖化にともなって危惧される食物連鎖の崩壊について。

「DDTで害虫駆除を見事に達成した場合、虫に依存していた鳥が飢えて死ぬ。そうすると鳥が食べてくれていた分の虫殺しまでDDTに代行させねばならないことになる。いや、それよりまず第一ラウンドで、毒入りの虫を食べた鳥が死んでしまうことになるだろうか。DDTで犬を死滅させてしまえば、泥棒抑止のためその分だけ警察力に依存しなくてはならなくなる。するとその分だけ泥棒に知恵と武器がついてくる」(ベイトソン「精神の生態学・P.222」新思索社)

ベイトソンの書き方は理解を容易にしてくれる。さらに身近な例をドゥルーズとガタリから引こう。

「どうして脱領土化の動きと再領土化の過程とが相対的なものであり、絶えず接続され、互いにからみあっているものでないわけがあろう?蘭は雀蜂のイマージュやコピーを形作ることによって自己を脱領土化する。けれども雀蜂はこのイマージュの上に自己を再領土化する。とはいえ雀蜂はそれ自身蘭の生殖機構の一部分となっているのだから、自己を脱領土化してもいるのだ。しかしまた雀蜂は花粉を運ぶことによって蘭を再領土化する。雀蜂と蘭は、非等質であるかぎりにおいてリゾームをなしている」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.29」河出文庫)

また、音楽の持つリゾーム性について。

「音楽はみずからの逃走線の数々を、そのまま『変形する多様体』としてたえず成立させてきた。たとえ音楽というものを構造化し樹木化している諸コードをくつがえすことになっても、だからこそ音楽の形式は、その切断や繁殖にいたるまで、雑草に、またリゾームに比べることのできるものである」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.32~33」河出文庫)

しかしこの文章の中で目を引くのは「諸コードをくつがえすことになっても」というフレーズだ。たとえば、女性がどれほど社会進出を果たしたとしてもなお質的な「男社会」から脱することができないのはなぜか。世界にはファルス(理想的に勃起し象徴化され権力化された幻想的男性器)のない男性がいるようにファルス(理想的に勃起し象徴化され権力化された幻想的男性器)のある女性がいる。そしてより一層権威主義的上層階層を目指すために女性が社会進出すればするほど、その行動に質的変化がないかぎり、女性の社会進出は従来の「男社会」を延命させ果てしない成果主義をより一層徹底させるためのただ単なる補完装置と化してしまうからである。「男社会」を構成している「諸コードをくつがえす」どころか逆により一層打ち固めてしまう方向へ作用する。そこで貴重なヒントを与えてくれるのがマゾヒストの論理である。ドゥルーズは述べる。

「マゾヒストの服従のうちにひそむ嘲弄、このうわべの従順さのかげにひそむ挑発や批判力が、ときに指摘されてきた。マゾヒストはたんに別の方面から法を攻撃しているだけなのだ。私たちがユーモアと呼ぶのは、法からより高次の原理へと遡行する運動ではなく、法から帰結へと下降する運動のことである。私たちはだれしも、過剰な熱心さによって法の裏をかく手段を知っている。すなわち、きまじめな適用によって法の不条理を示し、法が禁止し祓い除けるとされる秩序壊乱を、法そのものに期待するのだ。人々は法を言葉どおりに、文字どおりに受け取る。それによって、法の究極的で一次的な性格に異議申し立てを行うわけではない。そうではなく、この一次的な性格のおかげで、法がわれわれに禁じた快を、まるで法がおのれ自身のためにとっておいたかのように、人々は行動するのだ。それゆえ法を遵守し、法を受け容れることによって、人々はその快のいくらかを味わうことになるだろう。もはや法は、原理への遡行によって、アイロニーに満ちたしかたで転倒されるのではなく、帰結を深化させることによって、ユーモアに満ちたしかたで斜めから裏をかかれるのである。ところで、マゾヒズムの幻想や儀式が考察されると、そのたびに以下の事実に突きあたることになろう。すなわち、法のもっとも厳格な適用が、通常期待されるものと逆の効果をもたらすのである(たとえば、鞭打ちは、勃起を罰したり予防したりするどころか、勃起を誘発し確実なものとする)。これは背理法による証明である。法を処罰の過程とみなすとき、マゾヒストはじぶんに処罰を適用させることからはじめる。そして受けた処罰のなかに、じぶん自身を正当化してくれる理由、さらには法が禁止するとみなされていた快を味わうよう命ずる理由を、逆説的なしかたで発見する」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.134~136」河出文庫)

という過程において、法は無効化される。「男社会」を構成している「諸コードをくつがえす」というのは、ただ単に男性原理を転倒させるというだけのことではなく、男性原理そのものを無効化するということである。その有効な手段として、サディズム的法による圧力を快楽として受け取るマゾヒズム的「否認」という方法がある。するとそこに「質的変化」が起こる。父権至上主義という形を取ったマッチョな男根主義的ファルス主義はたちまち無効化され、「父の無化やセクシュアリティの拒否」といった逆説的だが当時に大変リアルな次元が出現する。

「マゾヒズムは否認から宙吊りへ向かう。すなわち、超自我の圧力から解放される過程としての否認から、理想を具体化するものとしての宙吊りへ向かうのである。否認とは、ファルスの権利と所有を、口唇的な母へと転移させる質的課程である。宙吊りが表象するのは、自我への新たな質の賦与であり、母のファルスを起点とする再生誕の理想である。この両者のあいだで発達するのが、自我における想像力の質的関係であり、それは超自我における思考の量的関係とはきわめて異なるものだ。なぜなら、否定が思考の行為(アクト)であるように、否認とは想像力の反作用(リアクション)だからである。否認は超自我を斥け、超自我から独立する純粋で、自立的な『理想自我』を誕生させる力を母に授ける。否認が去勢を対象とするのは、《ただの一例》としてではなく、否認の起源と本質に由来するものだ。フェティシズム的な否認の形式ーーー『いや、母はファルスを欠いていない』ーーーは、数ある否認形式のなかの特殊な一形式などではない。それは、父の無化やセクシュアリティの拒否といった、ほかのあらゆる形象を派生させる原理なのだ」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.191~192」河出文庫)

というふうに。そしてこのような過程は実際の日常生活ではしょっちゅう発生している。

さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

BGM