白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

言語化するジュネ/流動するアルトー97

2020年01月23日 | 日記・エッセイ・コラム
実際に死んだわけでもないのに、なぜか村の中では、ルイ・キュラフロワはもう死ぬのだということになってしまっている。それにともなう友人知人らの来訪を次々と受ける。知らせを聞きつけてやって来た神父がいう。

「『奥さん、若くして死ぬのはひとつの幸福ですよ』」(ジュネ「花のノートルダム・P.24」河出文庫)

神父に悪気はない。ただ幼く病気で重体におちいったキュラフロワを亡くそうとしている母エルネスティーヌに与える言葉として妥当だろうとおもわれる語彙を選択したに過ぎない。エルネスティーヌは答える。

「『それじゃあ、私は葬送の歌のまわりを踊ります』」(ジュネ「花のノートルダム・P.25」河出文庫)

まだ死んでいないというのに。なぜそんなことになるのか。二十世紀も半ばになると、「ドラマというシステム」はすでに不動のステレオタイプ(固定観念的ストーリー)として社会の中に君臨していた。村の誰もが葬儀を前提として展開するありきたりで陳腐で根拠のない「ドラマ」の参加者として登場しその役割をこれまたステレオタイプ(固定観念)に合わせて演じていく。するとドラマはもう自動的に進行してしまう。母エルネスティーヌは言語トリックにおちいる。「若くして死ぬのはひとつの幸福」、「私は葬送の歌のまわりを踊ります」、そして続々と駆けつける友人知人たちの厳粛な面持ち。それらはどれもアナロジー(類似、類推)に基づく想像の連鎖を形成してエルネスティーヌを拳銃との連想へ結びつける。「引き出しの奥」の「リヴォルバー」はただ単なる「事物」に過ぎず人間のように言葉を話すわけではない。ところがステレオタイプ化されたドラマの中ではものの見事に「ある行為を教唆」する「囁き」へ変化する。

「引き出しの奥にでかい制式リヴォルバーがあるということだけで、彼女にその態度を強いるには十分だった。事物がある行為を教唆し、ある犯罪の、軽いものではあるが、恐るべき責任をもたらすことになるのはこれがはじめてのことではない」(ジュネ「花のノートルダム・P.25」河出文庫)

この場合「制式リヴォルバー」が果たしている役割は、作品「葬儀」でエリックが殺人を儀式化する過程で有効に用いられたフェチ商品の系列と同様である。「背後」、「化粧」、「花」、「香水」、「鉄兜」、「厳粛な顔付き」、「革や銅や鉄の鎧」、「黒い喪章」、「真紅の旌旗(せいき)」、「荘厳な行進曲(マーチ)」等々。

「背後からは、化粧し、花を飾り、香水をつけ、鉄兜をかぶった戦士たちが、殺害された少年の開いた胸からぞくぞくと繰り出され、笑顔で或いは厳粛な顔付きで、素裸で或いは革や銅や鉄の鎧に身をつつんで、黒い喪章のついた真紅の旌旗(せいき)を押し立て、沈黙の世界の荘厳な行進曲(マーチ)に導かれて行進を開始するのだった」(ジュネ「葬儀・P.157」河出文庫)

さらに。「革具の音」、「革紐」、「バンド」、「鉄の締め金」、「御者の鞭」、「長靴」等々。

「革具の音からの連想だろうが、特殊な娼家でよく黒いカーテンのかげにかくされているのを見かける、革紐や、バンドや、鉄の締め金や、御者の鞭や、長靴など、例の道具一式をひそめた不吉な布地の下で息づき、死の魅惑をたたえているところから、その太腿はますます神秘的なものに思えるのだった」(ジュネ「葬儀・P.220~221」河出文庫)

しかしそれらは普段ならどれも個々別々の物でしかない。本来ばらばらな物品を一つの系列のもとに統合したのはほかでもないハーケンクロイツという一つのデザインである。記号という意味ではただそれだけでしかないものが、死の象徴であり死が魅力的なものでもあるとする意味を持ち得たのはなぜなのか、というより、死の象徴であり死が魅力的なものでもあるとする意味を持ち得たがゆえにハーケンクロイツはドイツ帝国の象徴になり得たのである。たった一つのデザインとそれへの服従が何千万人もの死を正当化する。小説の舞台はナチスの黄金時代ではない。ナチスに黄金時代があるとすればそれはむしろ一九三〇年から一九三九年までだろう。後は徹底的な自己破壊ともいえる奇妙な戦争の連続であって、ただひたすら死の祝宴が続くばかりである。そしてその頃には何事もドラマ化しなくては気が済まない「ドラマというシステム」は社会の中に抜きがたく根を張っていた。死さえも、ではなく、死ゆえに是非とも「ドラマ化」しなくては気が済まない社会が出来上がっていた。登場人物はみな、少年キュラフロアの周囲に寄ってたかってドラマティックな自己陶酔に耽る。とはいえ、まだ死んでいないというのに、死から生じる連想の系列の中に「制式リヴォルバー」が置かれるやいなや、母エルネスティーヌの手《は》リヴォルバーによって延長されたかのように見える。ジュネは拳銃リヴォルバーを母エルネスティーヌの手の延長として捉える。死へ誘うフェチとして描く。ジュネとして確実な重量感を持つ拳銃ははただ単なるフェチであって何ら構わないし、実際にも機械は人間の身体の延長なのだから。ただ生じていることはそう単純でなく、逆に、母エルネスティーヌの手《が》リヴォルバーの延長へと変化するのである。母エルネスティーヌが拳銃リヴォルバーを《所有している》のではもはやなく、母エルネスティーヌは拳銃リヴォルバーの一部分としてリヴォルバーに《所有されている》。

「このリヴォルバーはーーーどうやらーーー彼女の身振りには不可欠な付属品になっていた。それは女主人公の伸ばされた腕を受け継いでいて、要するにそれは、そう言わねばならないからだが、乱暴に彼女に取り憑いていたのだが、その乱暴さは彼女の頬を燃やし、その乱暴さで、ポケットをふくらませるアルベルトの分厚い手は村の娘たちにつきまとっていた」(ジュネ「花のノートルダム・P.25~26」河出文庫)

次の文章はジュネ的感性においてそのシーンについての思いを述べた部分だ。何の注釈もなしに前の文章から続いているのでややこしい。ともかく、殺人にはその意義の深さと等価をなす「華麗」な衣装あるいは物腰をもって、精一杯豪華に着飾って臨まねばならないというジュネ固有の思想がくっついている。

「私自身、その死から一個の屍骸を、だがまだ温かくて、抱きしめるのにちょうどいい影である屍骸を誕生させるために、ただひとりの柔らかな若者を殺すことにしか同意しないように、エルネスティーヌは、現世が必ずや彼女にかきたてる嫌悪(痙攣や、子供の打ちのめされた目による叱責や、噴き出す血と脳みそ)と天使的な彼岸への嫌悪を回避するという条件でしか、あるいは恐らく直ちにさらなる華麗さを与えるためにしか殺すことを受け入れなかったので、彼女は宝石を身に纏ったのである」(ジュネ「花のノートルダム・P.26」河出文庫)

とはいえ、ジュネのいう華麗な衣装や宝石で彩られた身体というのは、作品「泥棒日記」にあるように、悪臭まみれの襤褸(ぼろ)をまとっていても何ら差し支えない。むしろできるかぎり醜怪極まりない屈辱の産物があらんかぎりの襤褸(ぼろ)をまとってのろのろとやって来ること。そのとき世間は一斉に道を開けるではないか。ジュネたちはただ出現するだけで「海を割って見せたモーセ」にも似た唯一性として出現するのだ。
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さて、アルトー。演劇の中で力の状態はつねに変化する。それらがどの身振り仕ぐさであったとしても舞台上で現わされるとき、「線的な身振り」に「変わる」と述べられている。たいへん興味深い現象だといえる。

「われわれは心の錬金術を目撃しているのであって、それは精神の状態を身振りに変える、しかもわれわれの行為が絶対を目指すならそのすべての行為がもち得るかもしれない、乾いて、まる裸にされた、線的な身振りに」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.108』河出文庫)

線的な身振り仕ぐさというのは、欧米のロマン主義的で感動主義的なものの対極にあると考えられる。たとえばヨーロッパ経由のロマン主義的音楽はベートーベンを経てヴァーグナーに至り、ナチスドイツの荘厳化のために測り知れない役割を果たしたことはすでに述べた。しかし欧米とは根本的に異なる少数民族のあいだでは、欧米化されていない「線的な身振り仕ぐさ」の儀式化によって古来から受け継がれてきた村落共同体の維持存続が可能だったことは注目に値する。

「大気のなかや、視覚的であって音響的でもある空間のなかに、物質的で生気ある囁きを合成する」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.108』河出文庫)

物質と強度との「合成」ということ。演劇は高純度であればあるほど、にもかかわらず、モンタージュ(奇妙な合成物)という形で出現するだけでなく、そのような方法でしか出現することはできない。「器官なき身体」とアルトーがいうとき、それは「強度にしか占有されない」。さらに「器官なき身体」は「一定の強度をもって空間を占める物質なのだ」。そして強度ゼロから出発するとして、その都度その都度の「強度の大きさとして現実が生産される」。バリ島演劇を通してアルトーがその中に見た強度の現実化としての身体言語。それは「強度の大きさとして」《生産された》「現実」以外の何ものでもない。

「器官なき身体は強度にしか占有されないし、群生されることもないように出来ている。強度だけが流通し循環するのだ。器官なき身体はまだ舞台でも場所でもなく、何かが起きるための支えでもない。幻想とは何の関係もなく、何も解釈すべきものはない。器官なき身体は強度を流通させ生産し、それ自身、強度であり非延長である《内包的空間》の中に強度を配分する。器官なき身体は空間ではなく、空間の中に存在するものでもなく、一定の強度をもって空間を占める物質なのだ。この度合は、産み出された強度に対応する。それは強力な、形をもたない、地層化されることのない物質、強度の母体、ゼロに等しい強度であり、しかもこのゼロに少しも否定的なものは含まれていない。否定的な強度、相反する強度など存在しないのだ。物質はエネルギーに等しい。ゼロから出発する強度の。それゆえ、われわれは器官なき身体を有機体の成長以前、器官の組織以前、また地層の形成以前の充実した卵、強度の卵として扱う。この卵は軸とベクトル、勾配と閾、エネルギーの変化にともなう力学的な傾向、グループの移動にともなう運動学的な動き、移行などによって決定されるのであり、《副次的形態》にはまったく依存しない。器官はこのとき純粋な強度としてのみ現われ、機能する」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.314」河出文庫)

それはまた、欧米の論理とはまたちがった《別様の仕方》で生き残っていた《他者の言語》だといえる。欧米では近代社会の成立と同じくして壊滅した。排除され破滅させられた。ニーチェはいう。

「私は、戸外へ歩み出て、どんなすばらしい明確さをそなえて一切のものが私たちに作用をおよぼすか、たとえば森がそうであり山もそうである、と考えて、また、一切の感覚に関して、私たちのうちにはまったくなんらの混乱、見誤り、躊躇もないということを考えて、いつも驚くのである。それにもかかわらず、はなはだしい不確実性と何か混沌としたものが現存していたにちがいなく、途方もなく長い時間をかけて初めてそういった一切のものはそのように《確固とした》相続物になったのである。空間的間隔、光、色等々に関して本質的に別様の感じ方をした人間たちは、排除されてしまい、うまく繁殖することができなかったのだ。こういう《別様の》感じ方は、何千年もの長い間『《狂気》』と感じられて忌避されたに《ちがいない》のだ。人々はもはや互いに理解し合わず、『例外』を排除し、破滅させたのだ。一切の有機的なものの始まり以来或る途方もない残酷さが現存してきた、つまり『《別様の感じ方をした》』一切のものが排除されてきたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・八九・P.63」ちくま学芸文庫)

始めて世界制覇を成し遂げたのはなるほど欧米人である。しかしそれを遂行するに当たって《別様の仕方》で生き残っていた《他者の言語》が解体されたか、どれほど無数の他者が抹殺されたかは想像を絶する。ところが、このホロコースト的絶滅を「正しい行為」として推し進めたのは何か。人間の「理性」である。ナチスドイツ、絶滅収容所、ソ連、原爆、東西冷戦、軍拡競争、等々、これらはすべて人間の「理性」から生まれた。そして「理性」は「道徳」と名づけられ絶賛されてもいた。ただ、二度にわたる総力戦以前、「理性」への問いはそれら取り返しのつかない事態が現実化する前の十九世紀すでに、とりわけニーチェによって「道徳への問い」として繰り返し反復され警告されてはいた。

ところでアルトーはバリ島演劇における身振りについて面白い表現を用いている。

「ジェスチャーは身体の運動競技的で神秘的な働きの機能であるーーーそして舞台の、あえて言うなら、波状の使用法の機能であり、その巨人の螺旋は面から面へとあらわになっていく」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.108~109』河出文庫)

舞台で演じられる身振り仕ぐさについて、「あえて言うなら」という条件つきではあるものの、その動きが「波状」であり「面から面へ」の移動を発生させるという点に注目したい。ラヴクラフト作品の中でランドルフ・カーターが遭遇した状態である。

「やがて波は高さを増し、カーターの理解を深めようとして、断片となっているいまのカーターを極微の一部とする多形の実体にカーターを復帰させていた。波がカーターに告げた。宇宙のあらゆる形態はーーー四角が立方体の断面であり円が球の断面であるごとくーーー一段高い次元の類似する形態の一面が交差した結果にすぎないのだと。三次元の立方体や球は、人間が推測や夢によってしか知ることのない、四次元の類似する形態の断面ということになる。そしてこの形態も五次元の形態の断面であり、こうして次つぎと繰返していけば、原型的な無限の目眩く到達不可能な高みに達することになる」(ラヴクラフト「銀の鍵の門を越えて」『ラヴクラフト全集6・P.137~138』創元推理文庫)

この場合、「面から面へ」の移動は「或る次元から他の次元への移動」とその交錯として考えられている。しかし重要なことの一つは、ランドルフ・カーターがそれを経験したということではなく、第一義的には、その経験を可能にした認識とは何かということでなくてはならない。経験を可能にするのはあくまでも言語だからである。

「認識とは、《経験》を可能にすることなのだが、このことは、現実的な出来事が、影響をおよぼす諸力の側においても、私たちの形態化する諸力の側においても、途方もなく単純化されることによって、なされるのであって、《この単純化の結果、類似した諸事物や等しい諸事物が存在するように見えるのだ。認識とは、多種多様な数えきれないものを、等しいもの、類似したもの、数えあげうるものへと偽造することなのである》。それゆえ《生》はそうした《偽造装置》の力でのみ可能である。思考するとは或る偽造的変形のはたらきであり、感ずるとは或る偽造的変形のはたらきであり、意欲するとは或る偽造的変形のはたらきであるーーー。これらすべてのうちには同化作用の力があり、この力は、何かを私たちと等しいものにしようとする或る意志を前提する」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一九〇・P.114~115」ちくま学芸文庫)

ところがカーターの経験は一般的言語に還元されない。還元不可能であるということを言うために一般的言語を使用して反語的に語る。神秘主義ではなくあえてSFという形式を取って、「三次元/四次元/五次元」そして「n次元」というほかない「到達不可能な」多次元への過程があることを物語る。アルトーがバリ島演劇の中に見たものもまた「n次元」というほかない「到達不可能な」多次元への過程なのかもしれない。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

BGM