対独協力軍は回復しつつあるフランスの秩序に奉仕するわけではなく逆に回復を撹乱する無秩序に奉仕する。というより無秩序を目的としているわけではない。対独協力軍は何かを目指すのではなく動きまわる撹乱の出現として存在する。フランス人から構成されてはいるが、それでもフランスの中に残っているドイツ軍占領地域の中で、なおドイツ軍の側に立ってドイツの秩序に奉仕する。ドイツの警察に似通ってくる。ところがどこまで行っても正式なドイツ警察とは異なる。
「警察は秩序に奉仕し、協力軍は無秩序に奉仕するとしても、社会的役割から両者を較べるわけにはいかない。後者が前者の仕事を果したことも事実である」(ジュネ「葬儀・P.319」河出文庫)
役割としては同一の動作を行なっている。その意味では「理想」だ。それらは「混ざり合う」。
「協力軍は泥棒と警官が出くわし、混ざり合う理想点にあった。両者は同じ武勲に到り着く。すなわちポリ公と泥棒と競い合う。ドイツ警察(ゲシュタポ)もいっしょだ」(ジュネ「葬儀・P.319」河出文庫)
このように「混ざり合う」ことができるということは解体することも可能だということを意味する。「混ざり合う」前よりもより一層細かく解体することもできる。対独協力軍は結果的に解体されたというより自然消滅に近い。元に戻ったわけではなくたちまち溶けてなくなったかのように見える。力は移動した。この時期すでに移動し始めていた。しかし人間の移動と力の移動とは必ずしも一致するわけではない。ジュネが見出し描き出すのは「力の移動/移動の力」である。だからそれは常に多層的な、少なくとも二重に、折り畳まれた融合状態にある。一人の人間の言動として固定することはできる。たとえばナチス党の聖地で行われたニュルンベルク裁判がそうだ。人間は裁判の決定を見て、さらに特定された主犯格の人物が処刑されたり自殺したことを知らされて始めて戦争は終わったのだ、裁かれるべきは裁かれたのだと納得するのであり、そのときになって始めて「力の移動」はもう済んでいたのだと知ることになる。裁判の結果から見て原因を考え、事後的に見出された原因を時間的に先行する或る場所へ押し込むことで始めて因果関係を特定することになる。だから人間は何をやってみても原因と結果とを取り違える。無数に折り畳まれた諸関係をすべて取り上げることはできない。言語はそこまで器用にはできていない。むしろ器用なのは人間の身体である。
「人間身体はきわめて多くのことに有能である。ーーー人生において、我々は特に、幼児期の身体を、その本性の許す限りまたその本性に役立つ限り、他の身体に変化させるように努める。すなわちきわめて多くのことに有能な身体、そして自己・神および物について最も多くを意識するような精神に関係する身体、に変化させるよう努める」(スピノザ「エチカ・第五部・定理三九・備考・P.133」岩波文庫)
その意味でリトンもまた人間であって、変化する。ドイツの側が望む役割を果たすために手錠を与えられる。リトンはフランス人だがフランスを裏切った立場だ。
「が、リトンの歩みは次第に重々しく、ゆったりと、大股になっていった。いうなれば彼は任官されたわけだが、その肩書は彼をなによりもまず彼自身の敵に変貌させるものだった」(ジュネ「葬儀・P.321」河出文庫)
リトンに託されたドイツ軍の手錠とそのずっしりした重量感はリトンを変化の悦びへと導く装置の役割を務める。しかし論理的齟齬に悩みはする。フランス人としてのリトンはジュネ的な面が多分に与えられており、きっぱり断ち切り割り切って考えるということがなかなかできない。ドイツ軍から与えられることと奪い取ることの二重の動作へ分裂している。
「彼は自分で自分を逮捕できても、逮捕されることはない男になったのだ。だって彼自身が逮捕者なのだから。結局、この鋼鉄のしろものは敵からの分捕品であり、戦利品だった」(ジュネ「葬儀・P.321」河出文庫)
しかし裏切りの快感は確実に到来する。処刑する任務が与えられた。リトンは湧き起こってくる悦びを押し隠すのに懸命だ。或る思い出が描き出される。二人の抗独兵士を捕まえたときのこと。宿の中で二人を罵り侮辱しているとそのうちの一人がいった。
「若い方の男は言ってのけた。『隊長さん、わたしたちを侮辱なさるのは、愛国者を侮辱なさるのはお門違いです。それに、判決を下すのはあなたの役目じゃありませんよ、あなたは警察に使われてるだけだーーー』隊長はたじろいだ」(ジュネ「葬儀・P.323」河出文庫)
不意に事実をぶちまけられて隊長は怒りまくる。しかしどんな怒りであってもそれを言葉にできなければ相手は幾ら殴られようが蹴られようが平気なフランスレジスタンスである。部下の面前でもある。
「一瞬、抗独兵士と協力兵は彼の面上に描かれた、というより刻まれた焦燥を見た。頭のなかで、彼はすばやく探し求めていた、そして咽喉(のど)の奥にそれが見つからないことで逆上していた、それは未曾有のちからとはげしさを備えた、これまでいちども使われたためしのない声、彼の精力のありたけを、肉体のあらゆる部分を必要とし、そのため全身を使い果たし、あとにはそれだけしか残らないような声、二人の無礼者をなぐり殺すちからをそれに添えんがために、全身に憎悪をみなぎらせて吐き出される、骨も筋肉も飛び出すほどのはげしさで吐き出される声だった」(ジュネ「葬儀・P.323」河出文庫)
とはいえ、無いものは出せない。言語は経験的に獲得されるものでありアプリオリに身に備わっているものではない。
「隊長は狼狽し、猛り狂い、ますます己れの底深くもぐり込むのだった。体内の窪みという窪みを探った、がその声は十分底まで下りなかった。隊長は咽喉に手をやった。そのあがきようは傍目にもあらわだった」(ジュネ「葬儀・P.323」河出文庫)
早く言葉にして見せないと抗独闘士にはもとより部下の対独協力兵士たちにも笑われてしまう。隊長が焦れば焦るほどドイツからもフランスからもフランスを裏切ってドイツ軍を支援する少年たちからも嘲笑の的にされてしまう。しかし隊長はなぜ言葉を見るけることができないのか。
「《われわれの心に浮かんでいる言葉》ーーーわれわれは、自分の考えをいつも持ち合わせの言葉で表現する。あるいは私の疑念の全体を表現すると、われわれはどの瞬間にも、それをほぼ表現し得る言葉をわれわれが持ち合わせているような、まさにそういう考えだけしか持たない」(ニーチェ「曙光・二五七・P.279」ちくま学芸文庫)
これ以上ないというほど手酷い侮辱を与え返そうと必死になって言葉を探す隊長。だが究極的な言葉探しに疲れ果ててしまい、遂に最も陳腐なありふれた捨て台詞にたどり着く体力しか残されてはいなかった。
「言語の手品を心得ないために、相手を雷のように打ちのめす調子をさがしあぐねていた。しばらくすると、疲れ果て、そんなふうに己れの洞窟の底を探ることにちからつき、口中が乾き、おとなしく彼は言い渡すのだった。『いたい目にあわせてやるからな』抗独闘士は悲しげな微笑を浮かべた、ついで表情はふたたび無感動に戻った」(ジュネ「葬儀・P.324」河出文庫)
さて、アルトー。歴史家ディオン・カシオスはヘリオガバルスの三度の結婚のうち、二度目にあたる「ウェスタに仕える最高位の巫女」との結婚を重要視する。激昂しつつ書き記している。
「『この男は』、と彼は言う、『鞭で打たれ、牢獄に投げ込まれ、死体をさらしものにすべきであったが、聖なる火を守護する巫女を寝床に連れ込み、万人の沈黙のまっただなかで彼女の処女を穢すのだ』」(アルトー「ヘリオガバルス・P.191」河出文庫)
ディオン・カシオスは嫉妬に駆られているわけではない。これまでのローマの秩序を根底から覆したとして告発している。もしカシオスが嫉妬に駆られて激昂しているとしてもそれは、ヘリオガバルスがローマ帝国最高位の巫女を手に入れたからというだけでなく、そうすることで秩序としてのローマを転倒させた破格のアナーキーに対してである。
「私がそこから記憶にとどめるのは、ヘリオガバルスが、この戦争の儀式、聖なる火の守護という儀式をあえて覆した最初の皇帝であり、その義務があったみたいに、パラス・アテナの神殿を汚したという点である」(アルトー「ヘリオガバルス・P.191」河出文庫)
皇帝自身の手で帝国内部から内乱あるいは叛逆を起こしているとしか考えようのない行為。そしてそれは内乱あるいは叛逆としてしか考えようがないだけでなくむしろそう考えるのが妥当な行為なのだ。ヘリオガバルスはキリスト教徒ではない。自ら率先して太陽信仰の神でなくてはならないからである。ローマの道徳的価値観そのものを転倒させて飽きることを知らない過剰そのものでなくてはならない。現代人の感覚からすれば、ややもすればただ単に痛快な悪ふざけを大袈裟に演じているようにしか思えないかもしれない。しかしヘリオガバルスは行動するにあたって常に極めて論理的な見地を捨てることなく考え、真面目にそれを実行し実演して見せている。それにしてもヘリオガバルスはなぜ、これまでローマでは自明とされてきた価値に対する価値転倒という行為に向けて徹底的にマニアックなありったけの情念を注ぎ込むのか。注ぎ込まずにはいられないのか。そしてヘリオガバルスの行動による実践的価値転倒の試みがそれを見るアルトーの関心をつかんで離さないのはどうしてか。
そこでアルトーの演劇論が充実してくるこの時期の他の文章を見てみる。するとアルトーが、古代ローマの宗教から見て異教にあたる太陽信仰を奉ずる皇帝ヘリオガバルスを取り上げたのか、よく見えてくるにちがいない。ヘリオガバルスの行動は帝国皇帝の立場から帝国内部を告発するという形式を取っている。アルトーの他の演劇論もまたヨーロッパ内部からヨーロッパを告発するという形を取っている。わかりやすい文章を拾ってみよう。
「黒人からは悪臭がするとわれわれが考えるとしても、ヨーロッパでないものすべてにとっては、くさいのはわれわれであり、白人であることをわれわれは知らないのだ。そしてわれわれは白い臭いを放っているとさえ私は言うだろうが、それは『白い病』について語ることができるように白い」(アルトー「演劇と文化」『演劇とその分身・P.11~12』河出文庫)
続けてこう述べる。
「白熱した鉄のように、度を越したものすべてが白いのだと言うことができるし、アジア人にとって、白い色というのは最も極端な腐敗の勲章となったのである」(アルトー「演劇と文化」『演劇とその分身・P.12』河出文庫)
だからといってアルトーのいう「残酷演劇」は何も舞台上で血を流せという短絡的な意味ではない。そんな簡単なことについてわざわざごちゃごちゃ述べ立てているわけでなくそのような必要性もなく、残酷演劇は「困難な演劇」すなわちアポリアだといっているのである。なかでも「アジア」のアジア性を代表するバリ島の祝祭で演じられる演劇についての論考は有名だ。
「私は演劇によってイメージとトランス状態を引き起こす手段についての身体的認識の観念に立ち戻ることを提案する」(アルトー「傑作と縁を切る」『演劇とその分身・P.131』河出文庫)
とはいえ、しばらくは傲慢さゆえに崩壊していくローマ帝国でヘリオガバルスが果たしたアナーキー性について立ち返っておかなくてはならない。
なお、アルトーのヨーロッパ批判は肌の白さを基準にして言われる人種的区別ではなく欧米中心主義批判として言われている。だからアルトーのいう「アジア」はバルカン周辺の東欧南部からアドリア海、黒海、バルト海に囲まれた東欧北部を含め、それ以東の広大なアジア全域を意味している。ところがソ連崩壊後の一九九〇年代後半、アメリカ主導でなされたNATOによる大規模な空爆はこれら諸地域に対してまたしてもNATOか反NATOかという政治的選択を迫った。ナチスドイツ、ソ連、そして今やアメリカ、EU、ロシア、さらに台頭する中国に対して東欧諸国は自分で何かを決める前すでに深刻なダブルバインド(二重拘束)におとしいれられてきた。そのことを意識しつつ、もはや世界が無視しきれなくなった流動する多様性という「力の移動/移動の力」について考えていかなければならないだろう。
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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「警察は秩序に奉仕し、協力軍は無秩序に奉仕するとしても、社会的役割から両者を較べるわけにはいかない。後者が前者の仕事を果したことも事実である」(ジュネ「葬儀・P.319」河出文庫)
役割としては同一の動作を行なっている。その意味では「理想」だ。それらは「混ざり合う」。
「協力軍は泥棒と警官が出くわし、混ざり合う理想点にあった。両者は同じ武勲に到り着く。すなわちポリ公と泥棒と競い合う。ドイツ警察(ゲシュタポ)もいっしょだ」(ジュネ「葬儀・P.319」河出文庫)
このように「混ざり合う」ことができるということは解体することも可能だということを意味する。「混ざり合う」前よりもより一層細かく解体することもできる。対独協力軍は結果的に解体されたというより自然消滅に近い。元に戻ったわけではなくたちまち溶けてなくなったかのように見える。力は移動した。この時期すでに移動し始めていた。しかし人間の移動と力の移動とは必ずしも一致するわけではない。ジュネが見出し描き出すのは「力の移動/移動の力」である。だからそれは常に多層的な、少なくとも二重に、折り畳まれた融合状態にある。一人の人間の言動として固定することはできる。たとえばナチス党の聖地で行われたニュルンベルク裁判がそうだ。人間は裁判の決定を見て、さらに特定された主犯格の人物が処刑されたり自殺したことを知らされて始めて戦争は終わったのだ、裁かれるべきは裁かれたのだと納得するのであり、そのときになって始めて「力の移動」はもう済んでいたのだと知ることになる。裁判の結果から見て原因を考え、事後的に見出された原因を時間的に先行する或る場所へ押し込むことで始めて因果関係を特定することになる。だから人間は何をやってみても原因と結果とを取り違える。無数に折り畳まれた諸関係をすべて取り上げることはできない。言語はそこまで器用にはできていない。むしろ器用なのは人間の身体である。
「人間身体はきわめて多くのことに有能である。ーーー人生において、我々は特に、幼児期の身体を、その本性の許す限りまたその本性に役立つ限り、他の身体に変化させるように努める。すなわちきわめて多くのことに有能な身体、そして自己・神および物について最も多くを意識するような精神に関係する身体、に変化させるよう努める」(スピノザ「エチカ・第五部・定理三九・備考・P.133」岩波文庫)
その意味でリトンもまた人間であって、変化する。ドイツの側が望む役割を果たすために手錠を与えられる。リトンはフランス人だがフランスを裏切った立場だ。
「が、リトンの歩みは次第に重々しく、ゆったりと、大股になっていった。いうなれば彼は任官されたわけだが、その肩書は彼をなによりもまず彼自身の敵に変貌させるものだった」(ジュネ「葬儀・P.321」河出文庫)
リトンに託されたドイツ軍の手錠とそのずっしりした重量感はリトンを変化の悦びへと導く装置の役割を務める。しかし論理的齟齬に悩みはする。フランス人としてのリトンはジュネ的な面が多分に与えられており、きっぱり断ち切り割り切って考えるということがなかなかできない。ドイツ軍から与えられることと奪い取ることの二重の動作へ分裂している。
「彼は自分で自分を逮捕できても、逮捕されることはない男になったのだ。だって彼自身が逮捕者なのだから。結局、この鋼鉄のしろものは敵からの分捕品であり、戦利品だった」(ジュネ「葬儀・P.321」河出文庫)
しかし裏切りの快感は確実に到来する。処刑する任務が与えられた。リトンは湧き起こってくる悦びを押し隠すのに懸命だ。或る思い出が描き出される。二人の抗独兵士を捕まえたときのこと。宿の中で二人を罵り侮辱しているとそのうちの一人がいった。
「若い方の男は言ってのけた。『隊長さん、わたしたちを侮辱なさるのは、愛国者を侮辱なさるのはお門違いです。それに、判決を下すのはあなたの役目じゃありませんよ、あなたは警察に使われてるだけだーーー』隊長はたじろいだ」(ジュネ「葬儀・P.323」河出文庫)
不意に事実をぶちまけられて隊長は怒りまくる。しかしどんな怒りであってもそれを言葉にできなければ相手は幾ら殴られようが蹴られようが平気なフランスレジスタンスである。部下の面前でもある。
「一瞬、抗独兵士と協力兵は彼の面上に描かれた、というより刻まれた焦燥を見た。頭のなかで、彼はすばやく探し求めていた、そして咽喉(のど)の奥にそれが見つからないことで逆上していた、それは未曾有のちからとはげしさを備えた、これまでいちども使われたためしのない声、彼の精力のありたけを、肉体のあらゆる部分を必要とし、そのため全身を使い果たし、あとにはそれだけしか残らないような声、二人の無礼者をなぐり殺すちからをそれに添えんがために、全身に憎悪をみなぎらせて吐き出される、骨も筋肉も飛び出すほどのはげしさで吐き出される声だった」(ジュネ「葬儀・P.323」河出文庫)
とはいえ、無いものは出せない。言語は経験的に獲得されるものでありアプリオリに身に備わっているものではない。
「隊長は狼狽し、猛り狂い、ますます己れの底深くもぐり込むのだった。体内の窪みという窪みを探った、がその声は十分底まで下りなかった。隊長は咽喉に手をやった。そのあがきようは傍目にもあらわだった」(ジュネ「葬儀・P.323」河出文庫)
早く言葉にして見せないと抗独闘士にはもとより部下の対独協力兵士たちにも笑われてしまう。隊長が焦れば焦るほどドイツからもフランスからもフランスを裏切ってドイツ軍を支援する少年たちからも嘲笑の的にされてしまう。しかし隊長はなぜ言葉を見るけることができないのか。
「《われわれの心に浮かんでいる言葉》ーーーわれわれは、自分の考えをいつも持ち合わせの言葉で表現する。あるいは私の疑念の全体を表現すると、われわれはどの瞬間にも、それをほぼ表現し得る言葉をわれわれが持ち合わせているような、まさにそういう考えだけしか持たない」(ニーチェ「曙光・二五七・P.279」ちくま学芸文庫)
これ以上ないというほど手酷い侮辱を与え返そうと必死になって言葉を探す隊長。だが究極的な言葉探しに疲れ果ててしまい、遂に最も陳腐なありふれた捨て台詞にたどり着く体力しか残されてはいなかった。
「言語の手品を心得ないために、相手を雷のように打ちのめす調子をさがしあぐねていた。しばらくすると、疲れ果て、そんなふうに己れの洞窟の底を探ることにちからつき、口中が乾き、おとなしく彼は言い渡すのだった。『いたい目にあわせてやるからな』抗独闘士は悲しげな微笑を浮かべた、ついで表情はふたたび無感動に戻った」(ジュネ「葬儀・P.324」河出文庫)
さて、アルトー。歴史家ディオン・カシオスはヘリオガバルスの三度の結婚のうち、二度目にあたる「ウェスタに仕える最高位の巫女」との結婚を重要視する。激昂しつつ書き記している。
「『この男は』、と彼は言う、『鞭で打たれ、牢獄に投げ込まれ、死体をさらしものにすべきであったが、聖なる火を守護する巫女を寝床に連れ込み、万人の沈黙のまっただなかで彼女の処女を穢すのだ』」(アルトー「ヘリオガバルス・P.191」河出文庫)
ディオン・カシオスは嫉妬に駆られているわけではない。これまでのローマの秩序を根底から覆したとして告発している。もしカシオスが嫉妬に駆られて激昂しているとしてもそれは、ヘリオガバルスがローマ帝国最高位の巫女を手に入れたからというだけでなく、そうすることで秩序としてのローマを転倒させた破格のアナーキーに対してである。
「私がそこから記憶にとどめるのは、ヘリオガバルスが、この戦争の儀式、聖なる火の守護という儀式をあえて覆した最初の皇帝であり、その義務があったみたいに、パラス・アテナの神殿を汚したという点である」(アルトー「ヘリオガバルス・P.191」河出文庫)
皇帝自身の手で帝国内部から内乱あるいは叛逆を起こしているとしか考えようのない行為。そしてそれは内乱あるいは叛逆としてしか考えようがないだけでなくむしろそう考えるのが妥当な行為なのだ。ヘリオガバルスはキリスト教徒ではない。自ら率先して太陽信仰の神でなくてはならないからである。ローマの道徳的価値観そのものを転倒させて飽きることを知らない過剰そのものでなくてはならない。現代人の感覚からすれば、ややもすればただ単に痛快な悪ふざけを大袈裟に演じているようにしか思えないかもしれない。しかしヘリオガバルスは行動するにあたって常に極めて論理的な見地を捨てることなく考え、真面目にそれを実行し実演して見せている。それにしてもヘリオガバルスはなぜ、これまでローマでは自明とされてきた価値に対する価値転倒という行為に向けて徹底的にマニアックなありったけの情念を注ぎ込むのか。注ぎ込まずにはいられないのか。そしてヘリオガバルスの行動による実践的価値転倒の試みがそれを見るアルトーの関心をつかんで離さないのはどうしてか。
そこでアルトーの演劇論が充実してくるこの時期の他の文章を見てみる。するとアルトーが、古代ローマの宗教から見て異教にあたる太陽信仰を奉ずる皇帝ヘリオガバルスを取り上げたのか、よく見えてくるにちがいない。ヘリオガバルスの行動は帝国皇帝の立場から帝国内部を告発するという形式を取っている。アルトーの他の演劇論もまたヨーロッパ内部からヨーロッパを告発するという形を取っている。わかりやすい文章を拾ってみよう。
「黒人からは悪臭がするとわれわれが考えるとしても、ヨーロッパでないものすべてにとっては、くさいのはわれわれであり、白人であることをわれわれは知らないのだ。そしてわれわれは白い臭いを放っているとさえ私は言うだろうが、それは『白い病』について語ることができるように白い」(アルトー「演劇と文化」『演劇とその分身・P.11~12』河出文庫)
続けてこう述べる。
「白熱した鉄のように、度を越したものすべてが白いのだと言うことができるし、アジア人にとって、白い色というのは最も極端な腐敗の勲章となったのである」(アルトー「演劇と文化」『演劇とその分身・P.12』河出文庫)
だからといってアルトーのいう「残酷演劇」は何も舞台上で血を流せという短絡的な意味ではない。そんな簡単なことについてわざわざごちゃごちゃ述べ立てているわけでなくそのような必要性もなく、残酷演劇は「困難な演劇」すなわちアポリアだといっているのである。なかでも「アジア」のアジア性を代表するバリ島の祝祭で演じられる演劇についての論考は有名だ。
「私は演劇によってイメージとトランス状態を引き起こす手段についての身体的認識の観念に立ち戻ることを提案する」(アルトー「傑作と縁を切る」『演劇とその分身・P.131』河出文庫)
とはいえ、しばらくは傲慢さゆえに崩壊していくローマ帝国でヘリオガバルスが果たしたアナーキー性について立ち返っておかなくてはならない。
なお、アルトーのヨーロッパ批判は肌の白さを基準にして言われる人種的区別ではなく欧米中心主義批判として言われている。だからアルトーのいう「アジア」はバルカン周辺の東欧南部からアドリア海、黒海、バルト海に囲まれた東欧北部を含め、それ以東の広大なアジア全域を意味している。ところがソ連崩壊後の一九九〇年代後半、アメリカ主導でなされたNATOによる大規模な空爆はこれら諸地域に対してまたしてもNATOか反NATOかという政治的選択を迫った。ナチスドイツ、ソ連、そして今やアメリカ、EU、ロシア、さらに台頭する中国に対して東欧諸国は自分で何かを決める前すでに深刻なダブルバインド(二重拘束)におとしいれられてきた。そのことを意識しつつ、もはや世界が無視しきれなくなった流動する多様性という「力の移動/移動の力」について考えていかなければならないだろう。
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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