刑務所で目を通すことのできる記事は制限されている。部分的に切り抜かれている。大事な部分が切り抜かれている。管理する側にとっては囚人に見せないほうがよいと判断された部分であり、囚人にとっては見たいと思う部分である。
「新聞は私の独房までは届かないし、最も美しいページからは、五月の庭のように、彼らの最も美しい花々、あれらの女衒(ヒモ)たちが奪い取られている」(ジュネ「花のノートルダム・P.11」河出文庫)
切り抜かれた部分は空洞と同様の効果を生じさせる。今のマスコミ報道や写真あるいは映画でいえば「モザイク」に相当する。それは空洞ゆえにかえって、無限に増殖する想像力を繁茂させずにおかない。とりわけジュネはその典型例ともいうべき暴発的な創造性に恵まれていた。刑務所の中を徘徊する様々な夢想。徘徊させるのは囚人の想像力だが、それを何度も繰り返し再生産させるのは刑務所という社会的装置である。そしてそれら移動する強度としての夢想は時折、「女衒」(ヒモ)の姿で通り過ぎる。
「永遠なる神がヒモの姿で通りすぎた。お喋りがやんだ。帽子はかぶらずとても優雅で、気取らず微笑みを浮かべ、こざっぱりしてしなやかな、けちなミニョンがやって来た。しなやかな彼の物腰には、泥だらけのブーツで高価な毛皮を踏みつぶす野蛮人の重々しい壮麗さがあった」(ジュネ「花のノートルダム・P.19」河出文庫)
だからといって「神はヒモだ」といっているのではない。逆に必ずしも「ヒモは神だ」とは限らない。神にせよヒモにせよ、どうしようもなく似て見えることがあるのはなぜかという点が眼目である。神(あるいは神父)にせよヒモにせよ、どちらにも当てはまる共通点として、その「おごそかさ」を上げることができる。問題は「仮面」あるいは「身振り」なのだ。ニーチェは神父と悪党とに共通する言動について次のように述べている。
「深いものはすべて仮面を愛する。何よりも最も深い事物は、象徴や譬喩(ひゆ)に対して憎悪さえもつ。《反対》ということこそ、神の羞恥が着てしずしずと歩くにぴったりした仮装ではあるまいか。これは一つの問うに値する問いである。誰か或る神秘家がすでにそのような真似を敢えてしたことがないとすれば、それこそ不思議であろう。優(ゆう)にやさしい事件でも、それを粗暴で覆(おお)って分からなくする方がよいこともある。愛や極端に寛大な行為でも、その後で棍棒を取って目撃者をさんざんに殴(なぐ)るに越したことがないこともある。そうすることでもってその記憶を曇らせるわけである。大概の人々は、自分の記憶を曇らせ虐(しいた)げて、少なくともこの唯一の関知者を復讐するすべを心得ているものだ。ーーー羞恥は工夫の才に富んでいる。最もひどく恥じる事柄が最も悪い事柄なのではない。仮面の背後にあるものは、単に奸智ばかりとは限らない。ーーー狡智のうちには多くの善意がある。高価で毀(こわ)れ易いものを蔵している人間が、青く古い、箍(たが)を嵌(は)めた酒樽のように荒々しく丸々と肥えて人生を転(ころ)げ廻(まわ)るということも考えられよう。彼の繊細な羞恥心がそうさせるのだ。羞恥のうちに深みをもつ人間は、かつて達しえた者も殆んどいない道で自分の運命や優(やさ)しい決断にも逢着する。そして、彼に近しい者や親しい者たちも、そのようなことがあったことを知るよしがない。彼の生命の危険も、彼の生命の安泰が再び得られたことも、同様にそれらの人々の眼には隠されている。このように隠された者、本能から沈黙し秘黙して打ち明けることから遁(のが)れることを必要とし、しかもそうしてやまない者は、自分の仮面が自分の代わりに友人の心と頭のうちを徘徊することを《欲し》、またそれを求める。そこで、彼が欲しないにしても、いつの日にかやはりそこに彼について一つの仮面があることについて、ーーーまたそれがよいのだということについて、彼の眼が開かれるであろう。あらゆる深い精神はそれぞれ仮面を必要とする。まして、あらゆる深い精神の周(まわ)りには絶えず仮面が生じる。彼の示す一語一語、彼の一歩一歩、彼の生の印(しる)しの一つ一つが絶えず誤って、すなわち《浅薄に》解釈されるからである」(ニーチェ「善悪の彼岸・四〇・P.67~68」岩波文庫)
次に監獄の「独房」とあるが、必ずしも独房でなくてよい。問題は監獄の壁の「厚み」だからだ。
「ある日、私の独房の扉が開いて、額縁に入ったように彼がそこにいた。一瞬空間を通して、彼を見たような気がした、歩く死者と同じように荘厳で、あなたたちには想像することしかできない監獄の壁の厚みによって嵌め込まれた彼を」(ジュネ「花のノートルダム・P.19」河出文庫)
原則的に刑務所の壁を通り抜けることはできない。しかし刑務所の外には何らの「壁」もないのだろうか。そんなことはけっしてない。むしろ壁だらけだ。そしてその壁は穴だらけでもある。しかしかつてのような壁も穴も目には見えない。それらは今ではインターネットを介したマーケティングのための網の目として機能しており、個々人とその個人情報はすべてマーケティングとデータベース、そして資本のためのただ単なるサンプルでしかない。要するにグローバルな管理社会の出現とその蔓延に注目しなければならない。
「社会のタイプが違えば、当然ながらそれぞれの社会に、ひとつひとつタイプの異なる機械を対応させることができます。君主制の社会には単純な力学的機械を、規律型にはエネルギー論的機械を、そして管理社会にはサイバネティクスとコンピューターをそれぞれ対応させることができるのです。しかし機械だけでは何の説明にもなりません。機械をあくまでも部分として取り込んだ集合的アレンジメントを分析しなければならないのです。近い将来、開放環境に不断の管理という新たな管理の形態が生まれることは確実ですが、これに比べるなら苛酷このうえない監禁ですら甘美で優雅な過去の遺産に見えるかもしれません。『コミュニケーションの普遍相』を追求する執念には慄然とさせられるばかりです」(ドゥルーズ「記号と事件・P.351~352」河出文庫)
ということに。
人間は資本主義市場が要請するマーケティングのためのサンプルと化した。オリジナルは消滅しすべてはシミュラクル(見せかけ)へと変貌した。人間はれっきとした身体を持ち個々別々の生活と思考を営む生身の人間であるよりもむしろ、いつでも数値化可能なシミュラクル(見せかけ)として立ち働いてくれる人間機械であるほうがグローバル管理社会にとっては遥かに都合がよいのである。ところが同一の人間機械を再生産しようとするやいなや同一的でないもの、「特異的なもの/差異的なもの」の側が一斉に異議を唱える。というのも、同一性を証明するために同一的なものを反復しようとすると、世界は常に繋がって連動している以上、同一的でない「特異的なもの/差異的なもの」を同時に反復させてしまうことになり、結局のところ両者を対照するしか方法がないからである。したがって同一的なものはいつどんなときも「特異的なもの/差異的なもの」に依存し、「特異的なもの/差異的なもの」に自分の支えを見出し、「特異的なもの/差異的なもの」を自分自身の根拠とする以外に同一性を保証するものは何もなくなる。このことは一般の商売にもいえる。というより、商売において最も明確に可視化されている。絶えざる技術革新という差異化による相対的剰余価値の生産。とりわけ外国貿易において株式市場と為替市場の価値体系の差異による剰余価値の生産。差異化によって始めて利子は発生する余地を得るのであり同一性によって発生するのではない。たとえば或る金融商品に二〇〇億円投資したとしてもそれが同一のまま二〇〇億円として手元に還流してきたとすれば、その投資は二〇〇億円という大金であるにもかかわらず何らの利子も生んではこなかったということを証明するに過ぎない。
だからといって、投機家だけが悪者にされがちな傾向はまったくの誤りである。生産資本従業員も流通資本従業員も束になって投機家ばかりを憎悪の的にする傾向は、もはや二十世紀でもあるまいに今なお製造業を組織する資本家だけが特権的に偉いのだという錯覚を延々と信じ続けるカルト的幻想に過ぎない。事情は逆である。剰余価値発生の余地を設けるのは主として製造業である。支払いなしの不払労働の場を創設する余地は主として製造業から発生してくる。にもかかわらず単なる投機家だけを悪者にしてしまっては、逆に、不払労働の余地を創設して剰余価値発生を準備するのは主として製造業であるという事実から世間の目をそらすことにしかならない。そのような見当外れの世論についてマルクスは憫笑するほかない。
「資本主義的生産様式のもとにあるどの国民も、周期的に一つの幻惑に襲われて、生産過程の媒介なしに金儲けをなしとげようとする」(マルクス「資本論・第二部・第一篇・第一章・P.102」国民文庫)
このように、世界的規模で遂行されている共犯的相関関係をこそ、問題としなくてはならないのである。
ーーーーー
さて、アルトー。ヘリオガバルスはその都度名前を変容させながら、次々に変身を遂げていく。死んでなお変化を欲する。
「だが下水溝の前に着くと、あまりに肩幅が広すぎるので、人は彼にやすりをかけようとした。こうして、皮を剥ぎ、どうしても手つかずのままにしておきたい骸骨を剥き出しにしたのだ。そしてそれなら『やすりをかけられた者』と『鉋(かんな)をかけられた者』という二つの名前をつけ加えることができただろう」(アルトー「ヘリオガバルス・P.209」河出文庫)
名前を与えれば与えるほど、与えられた側は偉大さを増していく。善悪に関係なく。命名とはかくも不可解な動作である。
「かくして、碑銘もなく、しかしむごたらしい葬儀とともにヘリオガバルスは生涯を終える。意気地のない死にざまではあるが、彼は反乱開始の状態で死ぬ」(アルトー「ヘリオガバルス・P.210」河出文庫)
アルトーのいう「反乱開始の状態」。失われようとしている太陽信仰の皇帝としてはむしろ誉(ほまれ)というべきだろう。当時の博学の歴史家ランプリディウスだけでなくその他多くの歴史家がヘリオガバルスについて記しているようだが、どれもが地中海沿岸ですでに支配的な価値観になっていたキリスト教の観念を基準として書かれており、したがって善悪の判断が感情とともにもろに紛れ込んでいて歴史資料としての価値はほとんどないに等しい。ヘーゲル弁証法の古典的解釈に沿ってならそれでいいのかもしれない。だがヘーゲル弁証法はなぜヘリオガバルスが消去されねばならなかったのかを問わない。ヘーゲルの視野はもっと広大であり理由を述べようとすればできたにもかかわらず理由を述べない。ヘーゲルがキリスト教の古典的解釈に従って思考している限り、見えるものも見えなくなってしまうのである。だが問題はそれだけでない。
ヘーゲルはキリスト教のユートピアを力説したけれどもだからといってキリスト教によってがんじがらめに拘束されていたわけではない。キリスト教の拘束から離れたところでは世界中のあちこちにまた違った思考様式が無数に存在していることをよく知っていた。知っていたからこそ弁証法を駆使してますますそれら他者的なものを極力排除し自分の思想をとっとと形成する必要性に迫られていた。一七八九年のフランス革命が達成され自由主義への過程が開かれた以上、ヘーゲルは自分で自分自身を自由主義一色で打ち固められたキリスト教的ユートピアの宣言を確実なものにしなくてはならない。ヘーゲルはそのずば抜けた頭脳にもかかわららず、ではなく、ずば抜けた頭脳を持っていたがゆえにかえって、ヘリオガバルスの果たした偉大な役割についてあえてそれを弁証法の名において破棄した。一人のヘリオガバルスがいなければ今のキリスト教世界はなかったかもしれないという可能性に触れること。ヨーローパ全土を手中に収めたキリスト教はその成立過程でたった一人の異端者ヘリオガバルスに依存しているという間違いようのない事実。そのようなことを一般的な言語を用いておおやけに述べることははばかられたに違いない。
ーーーーー
アルトー演劇論。言語以前的言語というのは身体言語である。前回述べた。しかし身体言語といっても繰り返し反復されて慣習化されると象形文字であることを止める。一般の観衆にも読み取ることができるようになる。現代語訳さえ可能になる。「言語以前のひとつの状態」というのはまだ身体言語に無数の可能性が秘められていた時代のことだ。それらはバリ島独自の「言語、音楽や、身振りや、運動や、語を運ぶことができる」。
「バリ島の演劇のなかには言語以前のひとつの状態があるのが感じられるし、それは自らの言語、音楽や、身振りや、運動や、語を運ぶことができる」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.99』河出文庫)
翻訳可能性はいつでもある。それは単純にいえば、受け取る側がどう受け取るかによって決まることでありなおかつ受け取る側が決めてよいという意味ではなるほど単純に言えてしまうことだからだ。しかし単純に決定できない「状態」というものが認められるのであて、アルトーはそれを「音楽的状態」という。
「バリ島の演劇の舞台化においては、構想が身振りにまずぶつかり、純粋状態として思考された視覚的または音響的イメージの発酵全体のまんなかに根を下ろしたという感情を精神は抱く。ーーーより明快に言えば、音楽的状態にかなり似た何かがこの演出のために存在しなければならなかったのであり、そこでは精神の構想であるものすべてはひとつの口実、ひとつの潜在性にすぎず、その分身はあの強度の舞台のポエジーを、あの空間的で色鮮やかな言語を産み出したのである」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.100~101』河出文庫)
アルトーが語っている「精神」は一般的に精神状態というときの精神ではなく、流動する強度のことを指して述べている。そしてそれは「分身」として出現する。分身は身体として、物質と強度との融合状態として、演じられて始めて舞台を詩(ポエジー)で一杯に満たす。この詩(ポエジー)は言語であるにもかかわらず、なぜ「空間的で色鮮やかな言語を産み出」すことになるのか。そしてそれはどのようなものなのか。またアメリカでのLSD発見より遥か以前のバリ島演劇ではなぜ、すでに「空間的で色鮮やかな言語」が言語というより「音楽」としての動作環境を獲得していたのか。もうしばらく様子を見ていくことにしよう。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM
「新聞は私の独房までは届かないし、最も美しいページからは、五月の庭のように、彼らの最も美しい花々、あれらの女衒(ヒモ)たちが奪い取られている」(ジュネ「花のノートルダム・P.11」河出文庫)
切り抜かれた部分は空洞と同様の効果を生じさせる。今のマスコミ報道や写真あるいは映画でいえば「モザイク」に相当する。それは空洞ゆえにかえって、無限に増殖する想像力を繁茂させずにおかない。とりわけジュネはその典型例ともいうべき暴発的な創造性に恵まれていた。刑務所の中を徘徊する様々な夢想。徘徊させるのは囚人の想像力だが、それを何度も繰り返し再生産させるのは刑務所という社会的装置である。そしてそれら移動する強度としての夢想は時折、「女衒」(ヒモ)の姿で通り過ぎる。
「永遠なる神がヒモの姿で通りすぎた。お喋りがやんだ。帽子はかぶらずとても優雅で、気取らず微笑みを浮かべ、こざっぱりしてしなやかな、けちなミニョンがやって来た。しなやかな彼の物腰には、泥だらけのブーツで高価な毛皮を踏みつぶす野蛮人の重々しい壮麗さがあった」(ジュネ「花のノートルダム・P.19」河出文庫)
だからといって「神はヒモだ」といっているのではない。逆に必ずしも「ヒモは神だ」とは限らない。神にせよヒモにせよ、どうしようもなく似て見えることがあるのはなぜかという点が眼目である。神(あるいは神父)にせよヒモにせよ、どちらにも当てはまる共通点として、その「おごそかさ」を上げることができる。問題は「仮面」あるいは「身振り」なのだ。ニーチェは神父と悪党とに共通する言動について次のように述べている。
「深いものはすべて仮面を愛する。何よりも最も深い事物は、象徴や譬喩(ひゆ)に対して憎悪さえもつ。《反対》ということこそ、神の羞恥が着てしずしずと歩くにぴったりした仮装ではあるまいか。これは一つの問うに値する問いである。誰か或る神秘家がすでにそのような真似を敢えてしたことがないとすれば、それこそ不思議であろう。優(ゆう)にやさしい事件でも、それを粗暴で覆(おお)って分からなくする方がよいこともある。愛や極端に寛大な行為でも、その後で棍棒を取って目撃者をさんざんに殴(なぐ)るに越したことがないこともある。そうすることでもってその記憶を曇らせるわけである。大概の人々は、自分の記憶を曇らせ虐(しいた)げて、少なくともこの唯一の関知者を復讐するすべを心得ているものだ。ーーー羞恥は工夫の才に富んでいる。最もひどく恥じる事柄が最も悪い事柄なのではない。仮面の背後にあるものは、単に奸智ばかりとは限らない。ーーー狡智のうちには多くの善意がある。高価で毀(こわ)れ易いものを蔵している人間が、青く古い、箍(たが)を嵌(は)めた酒樽のように荒々しく丸々と肥えて人生を転(ころ)げ廻(まわ)るということも考えられよう。彼の繊細な羞恥心がそうさせるのだ。羞恥のうちに深みをもつ人間は、かつて達しえた者も殆んどいない道で自分の運命や優(やさ)しい決断にも逢着する。そして、彼に近しい者や親しい者たちも、そのようなことがあったことを知るよしがない。彼の生命の危険も、彼の生命の安泰が再び得られたことも、同様にそれらの人々の眼には隠されている。このように隠された者、本能から沈黙し秘黙して打ち明けることから遁(のが)れることを必要とし、しかもそうしてやまない者は、自分の仮面が自分の代わりに友人の心と頭のうちを徘徊することを《欲し》、またそれを求める。そこで、彼が欲しないにしても、いつの日にかやはりそこに彼について一つの仮面があることについて、ーーーまたそれがよいのだということについて、彼の眼が開かれるであろう。あらゆる深い精神はそれぞれ仮面を必要とする。まして、あらゆる深い精神の周(まわ)りには絶えず仮面が生じる。彼の示す一語一語、彼の一歩一歩、彼の生の印(しる)しの一つ一つが絶えず誤って、すなわち《浅薄に》解釈されるからである」(ニーチェ「善悪の彼岸・四〇・P.67~68」岩波文庫)
次に監獄の「独房」とあるが、必ずしも独房でなくてよい。問題は監獄の壁の「厚み」だからだ。
「ある日、私の独房の扉が開いて、額縁に入ったように彼がそこにいた。一瞬空間を通して、彼を見たような気がした、歩く死者と同じように荘厳で、あなたたちには想像することしかできない監獄の壁の厚みによって嵌め込まれた彼を」(ジュネ「花のノートルダム・P.19」河出文庫)
原則的に刑務所の壁を通り抜けることはできない。しかし刑務所の外には何らの「壁」もないのだろうか。そんなことはけっしてない。むしろ壁だらけだ。そしてその壁は穴だらけでもある。しかしかつてのような壁も穴も目には見えない。それらは今ではインターネットを介したマーケティングのための網の目として機能しており、個々人とその個人情報はすべてマーケティングとデータベース、そして資本のためのただ単なるサンプルでしかない。要するにグローバルな管理社会の出現とその蔓延に注目しなければならない。
「社会のタイプが違えば、当然ながらそれぞれの社会に、ひとつひとつタイプの異なる機械を対応させることができます。君主制の社会には単純な力学的機械を、規律型にはエネルギー論的機械を、そして管理社会にはサイバネティクスとコンピューターをそれぞれ対応させることができるのです。しかし機械だけでは何の説明にもなりません。機械をあくまでも部分として取り込んだ集合的アレンジメントを分析しなければならないのです。近い将来、開放環境に不断の管理という新たな管理の形態が生まれることは確実ですが、これに比べるなら苛酷このうえない監禁ですら甘美で優雅な過去の遺産に見えるかもしれません。『コミュニケーションの普遍相』を追求する執念には慄然とさせられるばかりです」(ドゥルーズ「記号と事件・P.351~352」河出文庫)
ということに。
人間は資本主義市場が要請するマーケティングのためのサンプルと化した。オリジナルは消滅しすべてはシミュラクル(見せかけ)へと変貌した。人間はれっきとした身体を持ち個々別々の生活と思考を営む生身の人間であるよりもむしろ、いつでも数値化可能なシミュラクル(見せかけ)として立ち働いてくれる人間機械であるほうがグローバル管理社会にとっては遥かに都合がよいのである。ところが同一の人間機械を再生産しようとするやいなや同一的でないもの、「特異的なもの/差異的なもの」の側が一斉に異議を唱える。というのも、同一性を証明するために同一的なものを反復しようとすると、世界は常に繋がって連動している以上、同一的でない「特異的なもの/差異的なもの」を同時に反復させてしまうことになり、結局のところ両者を対照するしか方法がないからである。したがって同一的なものはいつどんなときも「特異的なもの/差異的なもの」に依存し、「特異的なもの/差異的なもの」に自分の支えを見出し、「特異的なもの/差異的なもの」を自分自身の根拠とする以外に同一性を保証するものは何もなくなる。このことは一般の商売にもいえる。というより、商売において最も明確に可視化されている。絶えざる技術革新という差異化による相対的剰余価値の生産。とりわけ外国貿易において株式市場と為替市場の価値体系の差異による剰余価値の生産。差異化によって始めて利子は発生する余地を得るのであり同一性によって発生するのではない。たとえば或る金融商品に二〇〇億円投資したとしてもそれが同一のまま二〇〇億円として手元に還流してきたとすれば、その投資は二〇〇億円という大金であるにもかかわらず何らの利子も生んではこなかったということを証明するに過ぎない。
だからといって、投機家だけが悪者にされがちな傾向はまったくの誤りである。生産資本従業員も流通資本従業員も束になって投機家ばかりを憎悪の的にする傾向は、もはや二十世紀でもあるまいに今なお製造業を組織する資本家だけが特権的に偉いのだという錯覚を延々と信じ続けるカルト的幻想に過ぎない。事情は逆である。剰余価値発生の余地を設けるのは主として製造業である。支払いなしの不払労働の場を創設する余地は主として製造業から発生してくる。にもかかわらず単なる投機家だけを悪者にしてしまっては、逆に、不払労働の余地を創設して剰余価値発生を準備するのは主として製造業であるという事実から世間の目をそらすことにしかならない。そのような見当外れの世論についてマルクスは憫笑するほかない。
「資本主義的生産様式のもとにあるどの国民も、周期的に一つの幻惑に襲われて、生産過程の媒介なしに金儲けをなしとげようとする」(マルクス「資本論・第二部・第一篇・第一章・P.102」国民文庫)
このように、世界的規模で遂行されている共犯的相関関係をこそ、問題としなくてはならないのである。
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さて、アルトー。ヘリオガバルスはその都度名前を変容させながら、次々に変身を遂げていく。死んでなお変化を欲する。
「だが下水溝の前に着くと、あまりに肩幅が広すぎるので、人は彼にやすりをかけようとした。こうして、皮を剥ぎ、どうしても手つかずのままにしておきたい骸骨を剥き出しにしたのだ。そしてそれなら『やすりをかけられた者』と『鉋(かんな)をかけられた者』という二つの名前をつけ加えることができただろう」(アルトー「ヘリオガバルス・P.209」河出文庫)
名前を与えれば与えるほど、与えられた側は偉大さを増していく。善悪に関係なく。命名とはかくも不可解な動作である。
「かくして、碑銘もなく、しかしむごたらしい葬儀とともにヘリオガバルスは生涯を終える。意気地のない死にざまではあるが、彼は反乱開始の状態で死ぬ」(アルトー「ヘリオガバルス・P.210」河出文庫)
アルトーのいう「反乱開始の状態」。失われようとしている太陽信仰の皇帝としてはむしろ誉(ほまれ)というべきだろう。当時の博学の歴史家ランプリディウスだけでなくその他多くの歴史家がヘリオガバルスについて記しているようだが、どれもが地中海沿岸ですでに支配的な価値観になっていたキリスト教の観念を基準として書かれており、したがって善悪の判断が感情とともにもろに紛れ込んでいて歴史資料としての価値はほとんどないに等しい。ヘーゲル弁証法の古典的解釈に沿ってならそれでいいのかもしれない。だがヘーゲル弁証法はなぜヘリオガバルスが消去されねばならなかったのかを問わない。ヘーゲルの視野はもっと広大であり理由を述べようとすればできたにもかかわらず理由を述べない。ヘーゲルがキリスト教の古典的解釈に従って思考している限り、見えるものも見えなくなってしまうのである。だが問題はそれだけでない。
ヘーゲルはキリスト教のユートピアを力説したけれどもだからといってキリスト教によってがんじがらめに拘束されていたわけではない。キリスト教の拘束から離れたところでは世界中のあちこちにまた違った思考様式が無数に存在していることをよく知っていた。知っていたからこそ弁証法を駆使してますますそれら他者的なものを極力排除し自分の思想をとっとと形成する必要性に迫られていた。一七八九年のフランス革命が達成され自由主義への過程が開かれた以上、ヘーゲルは自分で自分自身を自由主義一色で打ち固められたキリスト教的ユートピアの宣言を確実なものにしなくてはならない。ヘーゲルはそのずば抜けた頭脳にもかかわららず、ではなく、ずば抜けた頭脳を持っていたがゆえにかえって、ヘリオガバルスの果たした偉大な役割についてあえてそれを弁証法の名において破棄した。一人のヘリオガバルスがいなければ今のキリスト教世界はなかったかもしれないという可能性に触れること。ヨーローパ全土を手中に収めたキリスト教はその成立過程でたった一人の異端者ヘリオガバルスに依存しているという間違いようのない事実。そのようなことを一般的な言語を用いておおやけに述べることははばかられたに違いない。
ーーーーー
アルトー演劇論。言語以前的言語というのは身体言語である。前回述べた。しかし身体言語といっても繰り返し反復されて慣習化されると象形文字であることを止める。一般の観衆にも読み取ることができるようになる。現代語訳さえ可能になる。「言語以前のひとつの状態」というのはまだ身体言語に無数の可能性が秘められていた時代のことだ。それらはバリ島独自の「言語、音楽や、身振りや、運動や、語を運ぶことができる」。
「バリ島の演劇のなかには言語以前のひとつの状態があるのが感じられるし、それは自らの言語、音楽や、身振りや、運動や、語を運ぶことができる」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.99』河出文庫)
翻訳可能性はいつでもある。それは単純にいえば、受け取る側がどう受け取るかによって決まることでありなおかつ受け取る側が決めてよいという意味ではなるほど単純に言えてしまうことだからだ。しかし単純に決定できない「状態」というものが認められるのであて、アルトーはそれを「音楽的状態」という。
「バリ島の演劇の舞台化においては、構想が身振りにまずぶつかり、純粋状態として思考された視覚的または音響的イメージの発酵全体のまんなかに根を下ろしたという感情を精神は抱く。ーーーより明快に言えば、音楽的状態にかなり似た何かがこの演出のために存在しなければならなかったのであり、そこでは精神の構想であるものすべてはひとつの口実、ひとつの潜在性にすぎず、その分身はあの強度の舞台のポエジーを、あの空間的で色鮮やかな言語を産み出したのである」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.100~101』河出文庫)
アルトーが語っている「精神」は一般的に精神状態というときの精神ではなく、流動する強度のことを指して述べている。そしてそれは「分身」として出現する。分身は身体として、物質と強度との融合状態として、演じられて始めて舞台を詩(ポエジー)で一杯に満たす。この詩(ポエジー)は言語であるにもかかわらず、なぜ「空間的で色鮮やかな言語を産み出」すことになるのか。そしてそれはどのようなものなのか。またアメリカでのLSD発見より遥か以前のバリ島演劇ではなぜ、すでに「空間的で色鮮やかな言語」が言語というより「音楽」としての動作環境を獲得していたのか。もうしばらく様子を見ていくことにしよう。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM