重体であることが伝わると村の友人知人たちがキュラフロワの枕元に駆けつける。それらは文学に登場する「天使とニグロと兵士」が変身した姿として現われる。しかしジュネ的感性の所有者である男性同性愛者は当時の文学からも拒否されていた。だからどの友人知人もキュラフロワが根底から望んでいる「蛇捕りのアルベルトの顔に」《なる》ことはない。
「天使とニグロと兵士は、かわるがわる彼の仲間である小学生や、農民の顔になっていたが、けっして蛇捕りのアルベルトの顔にはならなかった。星をちりばめた肉の口でもってその酷熱の渇きを鎮めるために、キュラフロワが彼の沙漠で待っていたのはこの男だった」(ジュネ「花のノートルダム・P.22~23」河出文庫)
蛇は歴史以前的時代から世界中の諸民族共同体の中で男性器の象徴として取り扱われてきた。信仰の対象として今なお崇め奉られていたりする。しかしそれは一方で蛇が男性器の象徴でありもう一方で蛇の穴かそれに相当するものが女性器の象徴を果たしている限りにおいてという条件つきだった。男性器に似た巨石があり、そのすぐそばに女性器に似た巨石があるような場所は、ただそれだけで「神聖」な場とされ聖地とされてきた。古代信仰ゆえそれを信じるも信じないも見る人それぞれで構わないのだろう。しかし信仰の持つ排他性というものの残酷さは一方で、様々な性的指向性の持ち主を徹底的に排除し、間接的に自殺へ追い込む装置として機能してきたことも事実である。少年キュラフロワは瀕死の状態で漠然とおもう。「蛇捕りのアルベルト」がやってこない世界など「心地よいところが何もない」にもかかわらず「幸福」と呼ばれていることについて。それこそ「人の住まない、荒涼とした場、蒼穹や砂だけの場、優しさと色彩と音はもはや何ひとつ存続しないような、磁気を帯びた、乾いた、物言わぬ場」でしかないと。
「それから立ち直るために、彼はその年齢にもかかわらず、心地よいところが何もない幸福とは何なのかを解明しようとしていた、純粋で、人の住まない、荒涼とした場、蒼穹や砂だけの場、優しさと色彩と音はもはや何ひとつ存続しないような、磁気を帯びた、乾いた、物言わぬ場が何なのかを」(ジュネ「花のノートルダム・P.23」河出文庫)
ジュネ独特の錯綜した文章が続く。ジュネは混乱する理由を自覚している。文章力が足りないのではなく逆に申し分ない。有り余るほどある。その豊富さがかえって錯綜した文章に見えるというに過ぎない。ただ単にすっきりした文章なら他の小説家がもっと昔からさんざん用いている。が、そのような文章あるいは文体をどのように器用に駆使したとしても文学の中で「泥棒、裏切り者、性倒錯者」に凱歌を歌わせ、音楽を到来させることに成功してきただろうか。成功してきたとは到底いえない。実現されてこなかった。世界は、文学においてさえも、逆に「泥棒、裏切り者、性倒錯者」に音楽を与えることを拒否してきたばかりか、音楽から遠ざけておくことに専念してきた。「蛇捕りのアルベルト」を待ち望む瀕死の少年キュラクロワが感じる孤独もそのような「文学という制度」からはじき出された者が必然的に持たざるをえない絶望によってもたらされた孤独だ。病気の深刻さがもたらした孤独ではない。
「それよりすでにずっと前に、霜に覆われた若い羊飼いのように、粉だらけになった金髪の粉屋のように、あるいは後に彼が知ることになる、そうしてある朝ーーー彼の顔は眠たげで、石鹼の泡の下で薔薇色をしていて、髭ぼうぼうだったーーーここ独房のなかの便所のそばで私自身が、そのヴィジョンをずらしているところを見た花のノートルダムのようにきらめく、黒いドレスを纏い、だが白いチュールのヴェールにくるまれた、村の街道に現れた花嫁の幻が、ポエジーとは優しさについての曲線のメロディーとは別のものであることをキュラフロワに明かしたのである」(ジュネ「花のノートルダム・P.23」河出文庫)
ジュネはもっぱら先に述べておく。キュラクロワ(彼)がパリに出てディヴィーヌ(彼女)として生きていくとはどういうことかを。そこではなるほど類稀な詩(ポエジー)が出現することもあるだろう。しかしこの種の詩(ポエジー)は世間一般から見たロマン主義的な詩(ポエジー)でなく、「泥棒、裏切り者、性倒錯者」の側から見たときのみに限り、ロマン主義の極地に位置して見えるような詩(ポエジー)であると。言葉にすれば詩(ポエジー)という同じ言葉なのだが、しかし「泥棒、裏切り者、性倒錯者」としてロマン主義の極地を体現する詩(ポエジー)は、けっして「優しさについての曲線のメロディーとは」似ても似つかない。それは「別のものである」。やさしげな「曲線」ではなく逆に極めて鋭角的な剃刀の「冷やかなカット面」のようなものだ。
「というのもチュールは、切り立って、鮮明で、厳格で、冷やかなカット面となってちぎれていたのだから。それはひとつの警告だった」(ジュネ「花のノートルダム・P.23」河出文庫)
このようにパリの街頭のあちこちに散乱した「冷やかなカット面」から切り出される種々の音楽。しかしもちろん、それらすべてが音楽として出現するわけではない。鮮やかに切り出されることなく不器用に終わった犯罪のほうがどれほど多いか。マリー・アントワネットの処刑やマリー・アントワネットを処刑したロベスピエールの処刑のような燦然たる「冷やかなカット面」が織りなすギロチンの芸術品は、それこそ数えるほどしかないのである。
ーーーーー
さて、アルトー。「純粋演劇」とアルトーはいう。しかし純粋な演劇というものはどういうものなのか、実際は誰も知らない。そこで演劇が舞台で演じられるとき、舞台化されるときに見られる「密度の高い平衡」ということについて見てみる。
「バリ島の演劇は純粋演劇の主題をすべてそろえてわれわれに示しもたらすのであって、舞台化が密度の高い平衡や、完全に物質化された重力をそれに付与する」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.106』河出文庫)
バリ島演劇の俳優はたいへん機械的な動きを取るとアルトーは述べている。高純度の平衡感覚が重視されているとも言えるだろう。しかしなぜそうかのか。バリ島の絵画研究でベイトソンは次のように述べる。
「バトゥアン画派の絵画はほとんどそうであるが、この絵にも背景に濃密な葉の繁みが描き込まれており、そこに基本的ではあるが高度の訓練された技能が発揮されている。ここで冗長性は、まず葉形の均一性ないしリズムカルな繰り返しという形で得られている」(ベイトソン「精神の生態学・P.223」新思索社)
葉形は別にどの葉っぱの形でも構わないとおもわれるわけだが、それが描かれる対象として絵画化される場合、その規則性、周期性、回帰性の重視はとりわけ顕著である。ベイトソンはそれは「均一性ないしリズミカルな繰り返し」という。
「彼らの身振りは、じつにうまい具合に木やうつろな太鼓のあのリズムにしたがって落ち、そのリズムを区切り、じつに確実に、まるで稜線に沿うかのように、飛んでいくリズムをつかまえるので、この音楽が節をつけて歌おうとしているのは彼らの手足の空洞であるように思われる」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.107』河出文庫)
演劇を演じる俳優の身振り。それは「リズムを区切り、じつに確実に、まるで稜線に沿うかのよう」な振る舞いとして要請される。俳優の側が、ではなく、逆に演奏される音楽の側が俳優の身体を用いて、俳優らの「手足の空洞」を用いて何かを達成させようとしているかのようなのだ。言い換えれば、俳優の身振り、ダンス、動き、は極めて「制御」されていると十分に言いうる。ベイトソンの言葉を用いれば、それは「第一のレベル」を確実に遂行することである。
「実際のところ、第二のレベルを成立させることこそ、第一のレベルにおける制御の必要性と機能があるのだ。この絵かきは、その気になれば葉を均一に描くことができる、という情報を鑑賞者が受信できなければ、その均一性が変奏されることの意味が消えてしまう」(ベイトソン「精神の生態学・P.224」新思索社)
その意味で演劇の鑑賞者は演劇の中に巻き込まれていなければならない。しかしただそれだけではまだ無意味に等しい。さらに古代から延々と続く儀式における演劇について、バリ島の人々が一九六七年にこれを発表したベイトソンのように「第一のレベル/第二のレベル」などと考え使い分けていたわけではない。というのは、古来からバリ島の人々は欧米的知性の観点からものを見る能力を持っていなかったためにそのように考えることができなかった、というのではなく、そのように考える必要性がそもそもなかったからである。
ベイトソンのいう「第一のレベルにおける制御の必要性と機能」としての絵画。そしてアルトーの目には非常に機械的で計算されたリズミカルな身振りとして演じられる演劇。なぜそれらは「幾何学的」でありなおかつ繰り返し反復されるのか。古来のバリ島の人々は、知らず知らずのうちに「第二のレベルを成立させる」が、わざわざ「第二のレベルを成立させる」ために「幾何学的」な動作を反復させるわけではない。そうではなく、ベイトソンのいう「第二のレベル」はメタ・レベルを意味しているのであって、メタ・レベルからの要請に従って忠実に振る舞おうとすればするほど、「第一のレベル」が極めて「幾何学的」な規則性、周期性、回帰性《として》反復されるのは必然的帰結なのだ。
ではメタ・レベルとしての「第二のレベル」とは何か。バリ島ではバリ島独特の自然環境のことであり、バリ島の人々が生きていくためになくてはならない自然の環境循環の法則性を意味する。そしてこの法則性はバリ島におけるコンテクスト〔社会的文脈〕を根底から規定している。さらに演劇あるいは絵画にはたった一つのパターンしかないわけでなく、一つの演劇あるいは絵画において、演劇あるいは絵画としての《身体において》、様々な変奏がなされる。そのように一つの形式的パターンの反復から発して様々な変奏を生じさせるのは極めて厳格で「幾何学的」な主題が厳密に反復されることによってである。
「つねに一定の音色を出せるバイオリン弾きだけが、音色の変化を芸術的効果のために使うことができる」(ベイトソン「精神の生態学・P.224」新思索社)
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM
「天使とニグロと兵士は、かわるがわる彼の仲間である小学生や、農民の顔になっていたが、けっして蛇捕りのアルベルトの顔にはならなかった。星をちりばめた肉の口でもってその酷熱の渇きを鎮めるために、キュラフロワが彼の沙漠で待っていたのはこの男だった」(ジュネ「花のノートルダム・P.22~23」河出文庫)
蛇は歴史以前的時代から世界中の諸民族共同体の中で男性器の象徴として取り扱われてきた。信仰の対象として今なお崇め奉られていたりする。しかしそれは一方で蛇が男性器の象徴でありもう一方で蛇の穴かそれに相当するものが女性器の象徴を果たしている限りにおいてという条件つきだった。男性器に似た巨石があり、そのすぐそばに女性器に似た巨石があるような場所は、ただそれだけで「神聖」な場とされ聖地とされてきた。古代信仰ゆえそれを信じるも信じないも見る人それぞれで構わないのだろう。しかし信仰の持つ排他性というものの残酷さは一方で、様々な性的指向性の持ち主を徹底的に排除し、間接的に自殺へ追い込む装置として機能してきたことも事実である。少年キュラフロワは瀕死の状態で漠然とおもう。「蛇捕りのアルベルト」がやってこない世界など「心地よいところが何もない」にもかかわらず「幸福」と呼ばれていることについて。それこそ「人の住まない、荒涼とした場、蒼穹や砂だけの場、優しさと色彩と音はもはや何ひとつ存続しないような、磁気を帯びた、乾いた、物言わぬ場」でしかないと。
「それから立ち直るために、彼はその年齢にもかかわらず、心地よいところが何もない幸福とは何なのかを解明しようとしていた、純粋で、人の住まない、荒涼とした場、蒼穹や砂だけの場、優しさと色彩と音はもはや何ひとつ存続しないような、磁気を帯びた、乾いた、物言わぬ場が何なのかを」(ジュネ「花のノートルダム・P.23」河出文庫)
ジュネ独特の錯綜した文章が続く。ジュネは混乱する理由を自覚している。文章力が足りないのではなく逆に申し分ない。有り余るほどある。その豊富さがかえって錯綜した文章に見えるというに過ぎない。ただ単にすっきりした文章なら他の小説家がもっと昔からさんざん用いている。が、そのような文章あるいは文体をどのように器用に駆使したとしても文学の中で「泥棒、裏切り者、性倒錯者」に凱歌を歌わせ、音楽を到来させることに成功してきただろうか。成功してきたとは到底いえない。実現されてこなかった。世界は、文学においてさえも、逆に「泥棒、裏切り者、性倒錯者」に音楽を与えることを拒否してきたばかりか、音楽から遠ざけておくことに専念してきた。「蛇捕りのアルベルト」を待ち望む瀕死の少年キュラクロワが感じる孤独もそのような「文学という制度」からはじき出された者が必然的に持たざるをえない絶望によってもたらされた孤独だ。病気の深刻さがもたらした孤独ではない。
「それよりすでにずっと前に、霜に覆われた若い羊飼いのように、粉だらけになった金髪の粉屋のように、あるいは後に彼が知ることになる、そうしてある朝ーーー彼の顔は眠たげで、石鹼の泡の下で薔薇色をしていて、髭ぼうぼうだったーーーここ独房のなかの便所のそばで私自身が、そのヴィジョンをずらしているところを見た花のノートルダムのようにきらめく、黒いドレスを纏い、だが白いチュールのヴェールにくるまれた、村の街道に現れた花嫁の幻が、ポエジーとは優しさについての曲線のメロディーとは別のものであることをキュラフロワに明かしたのである」(ジュネ「花のノートルダム・P.23」河出文庫)
ジュネはもっぱら先に述べておく。キュラクロワ(彼)がパリに出てディヴィーヌ(彼女)として生きていくとはどういうことかを。そこではなるほど類稀な詩(ポエジー)が出現することもあるだろう。しかしこの種の詩(ポエジー)は世間一般から見たロマン主義的な詩(ポエジー)でなく、「泥棒、裏切り者、性倒錯者」の側から見たときのみに限り、ロマン主義の極地に位置して見えるような詩(ポエジー)であると。言葉にすれば詩(ポエジー)という同じ言葉なのだが、しかし「泥棒、裏切り者、性倒錯者」としてロマン主義の極地を体現する詩(ポエジー)は、けっして「優しさについての曲線のメロディーとは」似ても似つかない。それは「別のものである」。やさしげな「曲線」ではなく逆に極めて鋭角的な剃刀の「冷やかなカット面」のようなものだ。
「というのもチュールは、切り立って、鮮明で、厳格で、冷やかなカット面となってちぎれていたのだから。それはひとつの警告だった」(ジュネ「花のノートルダム・P.23」河出文庫)
このようにパリの街頭のあちこちに散乱した「冷やかなカット面」から切り出される種々の音楽。しかしもちろん、それらすべてが音楽として出現するわけではない。鮮やかに切り出されることなく不器用に終わった犯罪のほうがどれほど多いか。マリー・アントワネットの処刑やマリー・アントワネットを処刑したロベスピエールの処刑のような燦然たる「冷やかなカット面」が織りなすギロチンの芸術品は、それこそ数えるほどしかないのである。
ーーーーー
さて、アルトー。「純粋演劇」とアルトーはいう。しかし純粋な演劇というものはどういうものなのか、実際は誰も知らない。そこで演劇が舞台で演じられるとき、舞台化されるときに見られる「密度の高い平衡」ということについて見てみる。
「バリ島の演劇は純粋演劇の主題をすべてそろえてわれわれに示しもたらすのであって、舞台化が密度の高い平衡や、完全に物質化された重力をそれに付与する」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.106』河出文庫)
バリ島演劇の俳優はたいへん機械的な動きを取るとアルトーは述べている。高純度の平衡感覚が重視されているとも言えるだろう。しかしなぜそうかのか。バリ島の絵画研究でベイトソンは次のように述べる。
「バトゥアン画派の絵画はほとんどそうであるが、この絵にも背景に濃密な葉の繁みが描き込まれており、そこに基本的ではあるが高度の訓練された技能が発揮されている。ここで冗長性は、まず葉形の均一性ないしリズムカルな繰り返しという形で得られている」(ベイトソン「精神の生態学・P.223」新思索社)
葉形は別にどの葉っぱの形でも構わないとおもわれるわけだが、それが描かれる対象として絵画化される場合、その規則性、周期性、回帰性の重視はとりわけ顕著である。ベイトソンはそれは「均一性ないしリズミカルな繰り返し」という。
「彼らの身振りは、じつにうまい具合に木やうつろな太鼓のあのリズムにしたがって落ち、そのリズムを区切り、じつに確実に、まるで稜線に沿うかのように、飛んでいくリズムをつかまえるので、この音楽が節をつけて歌おうとしているのは彼らの手足の空洞であるように思われる」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.107』河出文庫)
演劇を演じる俳優の身振り。それは「リズムを区切り、じつに確実に、まるで稜線に沿うかのよう」な振る舞いとして要請される。俳優の側が、ではなく、逆に演奏される音楽の側が俳優の身体を用いて、俳優らの「手足の空洞」を用いて何かを達成させようとしているかのようなのだ。言い換えれば、俳優の身振り、ダンス、動き、は極めて「制御」されていると十分に言いうる。ベイトソンの言葉を用いれば、それは「第一のレベル」を確実に遂行することである。
「実際のところ、第二のレベルを成立させることこそ、第一のレベルにおける制御の必要性と機能があるのだ。この絵かきは、その気になれば葉を均一に描くことができる、という情報を鑑賞者が受信できなければ、その均一性が変奏されることの意味が消えてしまう」(ベイトソン「精神の生態学・P.224」新思索社)
その意味で演劇の鑑賞者は演劇の中に巻き込まれていなければならない。しかしただそれだけではまだ無意味に等しい。さらに古代から延々と続く儀式における演劇について、バリ島の人々が一九六七年にこれを発表したベイトソンのように「第一のレベル/第二のレベル」などと考え使い分けていたわけではない。というのは、古来からバリ島の人々は欧米的知性の観点からものを見る能力を持っていなかったためにそのように考えることができなかった、というのではなく、そのように考える必要性がそもそもなかったからである。
ベイトソンのいう「第一のレベルにおける制御の必要性と機能」としての絵画。そしてアルトーの目には非常に機械的で計算されたリズミカルな身振りとして演じられる演劇。なぜそれらは「幾何学的」でありなおかつ繰り返し反復されるのか。古来のバリ島の人々は、知らず知らずのうちに「第二のレベルを成立させる」が、わざわざ「第二のレベルを成立させる」ために「幾何学的」な動作を反復させるわけではない。そうではなく、ベイトソンのいう「第二のレベル」はメタ・レベルを意味しているのであって、メタ・レベルからの要請に従って忠実に振る舞おうとすればするほど、「第一のレベル」が極めて「幾何学的」な規則性、周期性、回帰性《として》反復されるのは必然的帰結なのだ。
ではメタ・レベルとしての「第二のレベル」とは何か。バリ島ではバリ島独特の自然環境のことであり、バリ島の人々が生きていくためになくてはならない自然の環境循環の法則性を意味する。そしてこの法則性はバリ島におけるコンテクスト〔社会的文脈〕を根底から規定している。さらに演劇あるいは絵画にはたった一つのパターンしかないわけでなく、一つの演劇あるいは絵画において、演劇あるいは絵画としての《身体において》、様々な変奏がなされる。そのように一つの形式的パターンの反復から発して様々な変奏を生じさせるのは極めて厳格で「幾何学的」な主題が厳密に反復されることによってである。
「つねに一定の音色を出せるバイオリン弾きだけが、音色の変化を芸術的効果のために使うことができる」(ベイトソン「精神の生態学・P.224」新思索社)
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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