刑務所付きの神父は訴える。早朝のトイレに出現した「イエスの聖心」たる<ハート形>について。隊長は怒鳴り込んでくるだろう神父の態度を待ち構えている。まずは耳を傾けようとする。
「『雪隠で起ったのです、うんこの姿をかりてーーー』隊長の冷やかな眼つきは彼の鼻の付け根のあたりをにらみつけた。何物をも、最も危険な武器、皮肉すらも辞さぬ決意のうかがわれるその眼差しを浴びて、司祭は向こう見ずな勇気と希望を奮い立たせた。あいかわらず台詞に息を切らしながら、うわずった声で泡をとばし、喚き立てたーーー。『ーーー神様ですぞ!ーーー』このような調子にひっかかると、我を忘れた、熱っぽい棄てばちなこの呼び名は、脅迫にも、訴えにも、祈りにも変りうる」(ジュネ「葬儀・P.314」河出文庫)
神父の言葉について。すべてのキリスト教徒がそうだというわけではない。さらにどのような言語であれ、言語というものはただそれだけでは何もしない。キリスト教がカルトだというわけでもない。ジュネはそんなことが言いたいわけではまったくない。しかし神父の言語は「訴え」に、「祈り」に、変わるのはしばしばだとしてもなお、「脅迫にも」変わりうるのはなぜなのか。続く文章は現代社会のカルト教団が信者獲得のために用いる言動と比較して余りにも似ている。
「それは僧侶の口から四方へはね散る唾とともに飛び出し、硝子窓の金色(ブロンド)の光線の野原を横切って、極度に微妙な日光の金色の光に変り、その真只中でこの名称は不意に孤独な、栄光あふれるものに見えだし、それらの細かい光とすっかり緊密に混り合って、それ自身小さな滴りとなって散乱し、隊長の服に目には見えぬがおそらく危険をはらんだ星座のようなものをまきちらすのだった。そのショックで、隊長は身動きできなかった」(ジュネ「葬儀・P.314~315」河出文庫)
隊長の態度に変化が現われだす。
「『あの子らを助けてやってください。手に入ったのですーーー』『なにがです?』『あかしです』『あかしがおありだと?どんなあかしが?』『殴りますぞ。私は僧侶です、神さまの後ろ楯がーーー』隊長は恐怖にとらわれだした」(ジュネ「葬儀・P.315~316」河出文庫)
もっとも、隊長が恐れているのは神父が隊長を刑務所の外へ向けて告発するのではないかということではない。神父が何ものなのかわからなくなってくるからだ。
「もっともそれはその場かぎりの恐怖であり、社会にたいする、また警察にたいする司祭の影響力を恐れてのことではなかった。黒いドレスを着込んで、女のようなみなりをした男ときてはまったく底が知れず、もしかするとその腹の下の暗がりには、睾丸(きんたま)の毛に、シエラ山脈の岩のような睾丸にじかにしがみついて、たくましい太腿をした憲兵の部隊がひそんでおり、いまにも、僧衣をおしひろげて踊り出し、彼に手錠をかけて<公共の兵舎>から引きずり出すのではないかと危ぶまれた」(ジュネ「葬儀・P.316」河出文庫)
一方、神父はすぐそばに平然と掲げられているフランス、ではなく、フランス国旗を前にして内心「たじろいでいる」のではあるが。
「『お告げですーーーお告げですーーーお告げですーーー』その言葉はひとたび現われるやいなや、聖職者の頭の中で他のいかなる考えも入れる余地がないほど一杯にふくれあがるのだった。すごく落着きはらっているように見える軍人に威圧され、司祭は考えるいとまもなかった。がとつじょ閃光のような速度で、こんなふうな考えがひらめいた。(《他人の過失を告げる》私に、神が《お告げ》をたれ給うたのだ)お告げという言葉は栄光と同時に、それとまったく逆のものをも意味するのだった。神は国家の前にたじろいでいた」(ジュネ「葬儀・P.316~317」河出文庫)
察しの早い隊長は神父の頭の中で何がどう回転したか、よく見えていたにちがいない。トイレであろうとなかろうと、紛れもなく<ハート形>は出現したとしよう。ところがそれは神父の目に「処刑阻止」を意味しているとしても、同時に逆のものをも意味する。「処刑されるがままに任せよ」という意味にも取れる。ましてやフランス国旗の前でフランスのキリスト教会の神の言葉を翻訳する権限を持つ神父が、<ハート形>に何を見たとしても、何をどう読んだとしても、否定の言葉として受け取ってよいものか。否定は正しい行為なのか。この重圧の前で神父は耐えることができない。むろん抵抗することなどできようはずもない。神父の目には「過失」そのものに映って見えたかもしれない。だがその意味は「過失」を、ただ神からの単なる肯定として、贈り物として、徴として、判子(はんこ)として、祝福としてさえ、受け取ることもできる。
<ハート形>は濫用されている。今のネット社会では余りの氾濫ゆえ<ハート形>は途轍もない価値下落を起こしてもはや救いようがない。今や<ハート形>の本来的な意味について、そのオリジナルとコピーとの違いを明確化させようとする行為は無駄になってしまっている。<ハート形>の濫用だけが原因でそうなったわけではない。何度も繰り返し反復される<ハート形>の濫用とともに、<ハート形>にとって「差異的なもの/多様なもの」は常に異議を唱えつつ出現し同時に濫用されるからである。
「どのセリーも他のセリーの回帰によってのみ存在する以上、何も失われはしないのである。すべては見せかけ(シミュラクル)へと生成したのだ。それというのも、わたしたちは、見せかけ(シミュラクル)という言葉によって、たんなるイミテーションではなく、むしろ範型(モデル)つまり特権的な地位という考えそのものが或る行為によって異議を唱えられ、転倒されるようなまさにその行為〔現実態〕を理解しなければならないからである。見せかけ(シミュラクル)とは、即自的な差異を含む審廷である。それはたとえば、(少なくとも)二つの発散するセリーであり、そこでは当の見せかけ(シミュラクル)が遊び戯れ、あらゆる類似は廃止され、したがってオリジナルとコピーの存在をそれとして示すことができなくなる」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.195~196」河出文庫)
どこにでも神の「恩寵」を見出そうとする興奮した神父の権力意志。しかし早朝に見出された<ハート形>は果たしてオリジナルなのかコピーなのか。神父の立場からすればコピーだとするわけにはいかない。あくまでもオリジナルなものとして保存されねばならない。そこで神父は言語記号の特性である論理的転倒を施して相反傾向を解決してしまう。驚くべき転倒が出現する。
「が、この事実はとりもなおさず自分を一段高い位置にすえるものだった。『倅(せがれ)よーーー』神父は両手をさしのべた、そして腕は、しばらくの間、繰り人形の腕のようにじっとこわばり、平行に、前へ突き出されていた、がやがて腕の上で組み合わされた。隊長はデスクをまわって僧侶の前に進み出、ひざまずいた。相手は彼に祝福をたて、こうつぶやきながら部屋を後にするのだった。『安心なさい。この素晴らしい過失も神の思召しです』」(ジュネ「葬儀・P.317」河出文庫)
こうして「過失」は「神の思召し」へと置き換えられた。神父自身がそうしたのだ。主導権は象徴の側にある。象形文字化している象徴的なものを肯定の印と捉えるのも否定の印と捉えるのもそれを覗き込んだ人間の側次第である。だから次のような事態が起こっている。
「模写すること(空想すること)は、私たちには、知覚すること、たんに知覚することよりも、いっそう容易になされる。このゆえに、私たちが、たんに知覚している(たとえば運動を)と思っているいたるところで、すでに私たちの空想は助力し、捏造し、私たちが多くの個別的な知覚をする苦労を《免れさせ》ているのだ。この《活動》は通常見のがされている。私たちは、他の諸事物が私たちに影響をおよぼすさい、《受動的》であるのでは《なく》、むしろ、即座に私たちは私たちの力をそれに対抗させる。《諸事物が私たちの琴線に触れるのだが、そこから旋律をつくり出すのは私たちなのだ》」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一九・P.21」ちくま学芸文庫)
だからこそ、主観的思想の全体主義的一致を避ける方法も同時に出現してくる。主観をたった一つの意味に縛り付けて拘束してしまう必要は始めからない、という人間本来の支離滅裂性を思い出せばよいのだ。
「《主観を一つだけ》想定する必要はおそらくあるまい。おそらく多数の主観を想定しても同じくさしつかえあるまい。それら諸主観の協調や闘争が私たちの思考や総じて私たちの意識の根底にあるのかもしれない。支配権をにぎっている『諸細胞』の一種の《貴族政治》?もちろん、互いに統治することに馴れていて、命令することをこころえている同類のものの間での貴族政治?」(ニーチェ「権力への意志・下巻・四九〇・P.34」ちくま学芸文庫)
「《肉体》と生理学とに出発点をとること。なぜか?ーーー私たちは、私たちの主観という統一がいかなる種類のものであるか、つまり、それは一つの共同体の頂点をしめる統治者である(『霊魂』や『生命力』ではなく)ということを、同じく、この統治者が、被統治者に、また、個々のものと同時に全体を可能ならしめる階序や分業の諸条件に依存しているということを、正しく表象することができるからである。生ける統一は不断に生滅するということ、『主観』は永遠的なものではないということに関しても同様である。また、闘争は命令と服従のうちにもあらわれており、権力の限界規定が流動的であることは生に属しているということに関しても同様である。共同体の個々の作業や混乱すらに関して統治者がおちいっている或る《無知》は、統治がおこなわれる諸条件のうちの一つである。要するに、私たちは、《知識の欠如》、大まかな見方、単純化し偽るはたらき、遠近法的なものに対しても、一つの評価を獲得する。しかし最も重要なのは、私たちが、支配者とその被支配者とは《同種のもの》であり、すべて感情し、意欲し、思考すると解するということーーーまた、私たちが肉体のうちに運動をみとめたり推測したりするいたるところで、その運動に属する主体的な、不可視的な生命を推論しくわえることを学んでいるということである。運動は肉眼にみえる一つの象徴的記号であり、それは、何ものかが感情され、意欲され、思考されているということを暗示する。主観が主観に《関して》直接問いたずねること、また精神のあらゆる自己反省は、危険なことであるが、その危険は、おのれを、《偽って》解釈することがその活動にとって有用であり重要であるかもしれないという点にある。それゆえ私たちは肉体に問いたずねるのであり、鋭くされた感官の証言を拒絶する。言ってみれば、隷属者たち自身が私たちと交わりをむすぶにいたりうるかどうかを、こころみてみるのである」(ニーチェ「権力への意志・下巻・四九二・P.35~36」ちくま学芸文庫)
次はしばしば言われる「真、善、美」という三位一体思想について。それは意識にのぼる前にすでに加工=変造されており、したがって何らの「真理」をも現わしてはおらず、むしろ芸術家的な「形成する意志」として、そもそも権力意志から発しているということ。また人間は加工=変造にもかかわらず、加工=変造された後に意識にのぼってきたもの、すでに形成し終えたものを、そしてそれのみを「《とらえる》ことができる」。それしか「《とらえる》ことができ」《ない》。
「私たちの美への意志も同様である。すなわち、これもまた《形成する意志》である。二つの感覚はたがいに助けあっており、現実的なものの感覚は、事物を私たちの好みにしたがって形成するため、権力を手にいれる手段である。形成することや形成しかえすことでおぼえる快感はーーー一つの根源的な快感である!私たちは、私たち自身が《つくりあげた》世界をのみ《とらえる》ことができる」(ニーチェ「権力への意志・第三書・四九五.P.38」ちくま学芸文庫)
さらになお、なぜ人間は自分が所属し自分がその中の構成要素でもある、或る特定の時代の社会で生きていくことができるのかについて。現在一般的なものとして採用されている「認識の仕方」そのものが、おそらく「偶然的なもの」に過ぎないにもかかわらず、今の社会的条件のもとで生きていくためにはなぜか絶対的に「必然的なもの」として倒錯して受け入れられているからである。
「知識や認識の仕方はそれ自身すでに生存の諸条件のもとにある。そのさい、私たちを保存しているのとは別種のいかなる知性もありえない(私たち自身にとって)と結論するのは、性急である。この《事実上の》条件が、おそらくは偶然的なものにすぎず、おそらくはけっして必然的なものではないかもしれないからである」(ニーチェ「権力への意志・第三書・四九六・P.38」ちくま学芸文庫)
ニーチェが指摘する「認識の仕方」の一元的全体主義性。それは人間が社会の中に受け入れられるための条件をなしているのだが、一方、その同じ条件が人間を同一社会に繋ぎとめるための暴力的桎梏(しっこく)と化している。
さて、アルトー。ヘリオガバルス登場以前からローマ帝国がおちいっている無政府状態とそれ以後の無政府状態には明らかな違いがある。ヘリオガバルスの意図はまったく異なるのだということについて述べられる。
「彼がひとりの踊り子を親衛隊の頭(かしら)に任命させるとき、彼はそこで異論の余地ない、だが危険な一種のアナーキーを実現している」(アルトー「ヘリオガバルス・P.188」河出文庫)
もっとも、連日連夜乱痴気騒ぎに明け暮れて先に無政府状態におちいっていたのはローマ帝国の側なのだが、ヘリオガバルスが持ち込んだアナーキーは、ただ単に国家機関が順調に作動しないという意味での無政府状態ではない。根本的に違っている。政府高官は男性が受け持つものだという凝固し固定しステレオタイプ化しほとんど信仰と化した国家構造を根底から覆すのである。「ひとりの踊り子を親衛隊の頭(かしら)に任命」したからどうだというのか。立派に務まっているではないか。ヘリオガバルスに対する対抗勢力は言い返したい気持ちで山々なのだが、しかしなぜ「ひとりの踊り子」に帝国皇帝の「親衛隊の頭(かしら)」が務まってしまうのか説明できない。儀式に則って任命されている以上、任命されるやいなや後はほとんど、身振りが、身振りだけが、問題だというのに。「親衛隊の頭(かしら)」はただ単なる記号でなくてはならない。むしろ記号であればあるほどよいのである。
「彼は弱さを力と呼び、芝居を現実と呼ぶ。彼は受け入れられた秩序、思想、事物の通念を覆す」(アルトー「ヘリオガバルス・P.188」河出文庫)
その調子でどこまでも通していく。しかしなぜ「弱さを力と呼」ぶことができるのか。アルトーは「力」についてけっしてマッチョな考え方を取らないため、そしてまたヘリオガバルスがただ単なる少年でしかないのに帝国最大の権力者であるのはなぜ可能なのかもわかるからだ。「増大する力の感情」について、必ずしも闘争は必要でない。ヘリオガバルスはマクリヌスと戦わねば皇帝になることはできない立場に追いやられていたから戦争したわけだが、もし有効な親子関係のようにただ単なる「善譲」であれば戦争の必要性など発生してこなかったし、発生する必要など始めからなく、むしろ無駄な支出でしかない。「増大する力の感情」は本当に戦争と関係があるのかどうか。ニーチェは根本的レベルから疑問を呈している。
「私には、《高揚された感情、より強くなる》という感情がすでに、闘争における有用さをまったく別としても、本来の《進歩》であると思われる」(ニーチェ「権力への意志・第三書・六四九・P.174」ちくま学芸文庫)
また「芝居を現実と呼ぶ」のはなぜか。仮面化し俳優化して始めて人間は人間として認められるという過程を経ているからにほかならない。個々人は常に社会化しており、その都度その都度社会の側から要請される仮面を巧妙に取り換えて日常生活を演じているからこそ、生きていくことが許されているからである。現実は冷酷である。社会の側が要請する仮面の色に染まらない人間を人間として認めようとはしない。しかしヘリオガバルスがくつがえしていくのはそのような頑固極まりない偽善的「秩序、思想、事物の通念」であり、「同一的なもの」の反復行為によって慣習化しステレオタイプ化した大規模な「思い込み」に過ぎない。それはアルトーの言葉を引けば、何度も繰り返されることでようやく「受け入れられた」だけでしかないものである。「差異的なもの/異質的なもの」を手前勝手に削ぎ落としてきた結果、定着した習慣に過ぎない。そして「受け入れられた」ものは外部から到来して一時的に身体と同化したものでしかなく、したがって糞便として「廃棄可能なもの」だ。また、「同一的なもの」の反復は「差異的なもの/多様なもの」の側の噴出によっていつも解体の危機に晒されているものでもある。そして「差異的なもの/多様なもの」は常に異議を唱えて止むことを知らない。
「私たちを取り巻く世界における《なんらかの》差異性や不完全な循環形式性の現存は、それだけでもう、すべての存立しているものの或る一様の循環形式に対する一つの《充分な反証》ではないのか?循環の内部での差異性はどこから由来するのか?この経過する差異性の存続期間はどこから由来するのか?すべてのものは、《一つのもの》から発生したにしては、《あまりにも多様すぎる》のではないか?そして多くの《化学的な》諸法則や、他方また《有機的な》諸種類や諸形態も、一つのものからは説明不可能ではないか?あるいは二つのものからは?ーーーもし或る一様の『収縮エネルギー』が宇宙のすべての力の中心のうちにあると仮定すれば、たとえ最小の差異性であれ、それがどこから発生しうるのだろうか?が疑問となる。そのときには万有は解体して、無数の《完全に同一の》輪や現存在の球とならざるをえないことだろうし、かくて私たちは無数の《完全に同一の諸世界を並存的に》もつことだろう。このことを想定することが、私にとっては必要なのか?同一の諸世界の永遠の継起のために、或る永遠の並存を?だが《これまで私たちに周知の世界》のうちなる《数多性や無秩序》が異議を唱えるのであり、発展の《そのような》同種性が存在したということはあり《え》ないことであり、さもなければ私たちとても或る一様の球形存在者になるという分け前に与ったにちがいないことだろう!」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一三二五・P.690~691」ちくま学芸文庫)
しかしニーチェが流動する現実的強度の運動についていっていることをヘリオガバルスは自分の《身体において》実際に行なう。
「彼は綿密にして危険なアナーキーを行うが、彼は万人の目に自分をさらしているからだ。彼はすべてを行うために危ない橋を渡る。そしてそれは勇気あるアナーキストのものなのである」(アルトー「ヘリオガバルス・P.188」河出文庫)
だからアナーキーに見えるのは必然的である。
「《衝動》は、私の理解するところでは、《高級の機関》である。行為、感覚、および感情状態が、たがいに組織し合い、養い合いながら、入りまじって緊密に融合している」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・三一五・P.179」ちくま学芸文庫)
それは現実社会においても姿形を置き換えて継続されているとヘリオガバルスは考えている。ヘリオガバルスは生まれるとき母ユリア・ソエミアの体内から血まみれで転がり出てきた。ころころと動き回る強度の運動として世界に接続された。そして世界は常に闘争している。多様な諸力の運動の一つとしてヘリオガバルスは少年のままローマ帝国をめぐる権力闘争の真っ只中に投げ込まれている。ありとあらゆる諸衝動がつばぜり合いながら緊密に融合しまた分裂しつつ世界は常にうごめいている。ヘリオガバルスはしみじみとそう感じ考え実践へと移していく。
なお、高速道路の渋滞は年末にもあった。年始にもあるだろう。中継を見ていて思い起こされる。
「闇に沈んだハイウェイを車が疾走し、道を照らすものとしては車のヘッドライトしなかく、ほかには全速力でフロントガラスをすべっていくアスファルトがあるばかり」(ドゥルーズ「記号と事件・P.319」河出文庫)
さらに個々の車内で人々は何をしているだろうか。
「私たち現代人の社会生活では、窓と外部からなるシステムにかわって、密室と情報端末が支配的になりつつある。つまり世界を《見る》というよりも、世界を《読む》ようになったということです」(ドゥルーズ「記号と事件・P.319」河出文庫)
そしてまた。
「私たちはコミュニケーションの断絶に悩んでいるのではなく、逆に、たいして言うべきこともないのに意見を述べるよう強制する力がたくさんあるから悩んでいるのです」(ドゥルーズ「記号と事件・P.277」河出文庫)
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM
「『雪隠で起ったのです、うんこの姿をかりてーーー』隊長の冷やかな眼つきは彼の鼻の付け根のあたりをにらみつけた。何物をも、最も危険な武器、皮肉すらも辞さぬ決意のうかがわれるその眼差しを浴びて、司祭は向こう見ずな勇気と希望を奮い立たせた。あいかわらず台詞に息を切らしながら、うわずった声で泡をとばし、喚き立てたーーー。『ーーー神様ですぞ!ーーー』このような調子にひっかかると、我を忘れた、熱っぽい棄てばちなこの呼び名は、脅迫にも、訴えにも、祈りにも変りうる」(ジュネ「葬儀・P.314」河出文庫)
神父の言葉について。すべてのキリスト教徒がそうだというわけではない。さらにどのような言語であれ、言語というものはただそれだけでは何もしない。キリスト教がカルトだというわけでもない。ジュネはそんなことが言いたいわけではまったくない。しかし神父の言語は「訴え」に、「祈り」に、変わるのはしばしばだとしてもなお、「脅迫にも」変わりうるのはなぜなのか。続く文章は現代社会のカルト教団が信者獲得のために用いる言動と比較して余りにも似ている。
「それは僧侶の口から四方へはね散る唾とともに飛び出し、硝子窓の金色(ブロンド)の光線の野原を横切って、極度に微妙な日光の金色の光に変り、その真只中でこの名称は不意に孤独な、栄光あふれるものに見えだし、それらの細かい光とすっかり緊密に混り合って、それ自身小さな滴りとなって散乱し、隊長の服に目には見えぬがおそらく危険をはらんだ星座のようなものをまきちらすのだった。そのショックで、隊長は身動きできなかった」(ジュネ「葬儀・P.314~315」河出文庫)
隊長の態度に変化が現われだす。
「『あの子らを助けてやってください。手に入ったのですーーー』『なにがです?』『あかしです』『あかしがおありだと?どんなあかしが?』『殴りますぞ。私は僧侶です、神さまの後ろ楯がーーー』隊長は恐怖にとらわれだした」(ジュネ「葬儀・P.315~316」河出文庫)
もっとも、隊長が恐れているのは神父が隊長を刑務所の外へ向けて告発するのではないかということではない。神父が何ものなのかわからなくなってくるからだ。
「もっともそれはその場かぎりの恐怖であり、社会にたいする、また警察にたいする司祭の影響力を恐れてのことではなかった。黒いドレスを着込んで、女のようなみなりをした男ときてはまったく底が知れず、もしかするとその腹の下の暗がりには、睾丸(きんたま)の毛に、シエラ山脈の岩のような睾丸にじかにしがみついて、たくましい太腿をした憲兵の部隊がひそんでおり、いまにも、僧衣をおしひろげて踊り出し、彼に手錠をかけて<公共の兵舎>から引きずり出すのではないかと危ぶまれた」(ジュネ「葬儀・P.316」河出文庫)
一方、神父はすぐそばに平然と掲げられているフランス、ではなく、フランス国旗を前にして内心「たじろいでいる」のではあるが。
「『お告げですーーーお告げですーーーお告げですーーー』その言葉はひとたび現われるやいなや、聖職者の頭の中で他のいかなる考えも入れる余地がないほど一杯にふくれあがるのだった。すごく落着きはらっているように見える軍人に威圧され、司祭は考えるいとまもなかった。がとつじょ閃光のような速度で、こんなふうな考えがひらめいた。(《他人の過失を告げる》私に、神が《お告げ》をたれ給うたのだ)お告げという言葉は栄光と同時に、それとまったく逆のものをも意味するのだった。神は国家の前にたじろいでいた」(ジュネ「葬儀・P.316~317」河出文庫)
察しの早い隊長は神父の頭の中で何がどう回転したか、よく見えていたにちがいない。トイレであろうとなかろうと、紛れもなく<ハート形>は出現したとしよう。ところがそれは神父の目に「処刑阻止」を意味しているとしても、同時に逆のものをも意味する。「処刑されるがままに任せよ」という意味にも取れる。ましてやフランス国旗の前でフランスのキリスト教会の神の言葉を翻訳する権限を持つ神父が、<ハート形>に何を見たとしても、何をどう読んだとしても、否定の言葉として受け取ってよいものか。否定は正しい行為なのか。この重圧の前で神父は耐えることができない。むろん抵抗することなどできようはずもない。神父の目には「過失」そのものに映って見えたかもしれない。だがその意味は「過失」を、ただ神からの単なる肯定として、贈り物として、徴として、判子(はんこ)として、祝福としてさえ、受け取ることもできる。
<ハート形>は濫用されている。今のネット社会では余りの氾濫ゆえ<ハート形>は途轍もない価値下落を起こしてもはや救いようがない。今や<ハート形>の本来的な意味について、そのオリジナルとコピーとの違いを明確化させようとする行為は無駄になってしまっている。<ハート形>の濫用だけが原因でそうなったわけではない。何度も繰り返し反復される<ハート形>の濫用とともに、<ハート形>にとって「差異的なもの/多様なもの」は常に異議を唱えつつ出現し同時に濫用されるからである。
「どのセリーも他のセリーの回帰によってのみ存在する以上、何も失われはしないのである。すべては見せかけ(シミュラクル)へと生成したのだ。それというのも、わたしたちは、見せかけ(シミュラクル)という言葉によって、たんなるイミテーションではなく、むしろ範型(モデル)つまり特権的な地位という考えそのものが或る行為によって異議を唱えられ、転倒されるようなまさにその行為〔現実態〕を理解しなければならないからである。見せかけ(シミュラクル)とは、即自的な差異を含む審廷である。それはたとえば、(少なくとも)二つの発散するセリーであり、そこでは当の見せかけ(シミュラクル)が遊び戯れ、あらゆる類似は廃止され、したがってオリジナルとコピーの存在をそれとして示すことができなくなる」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.195~196」河出文庫)
どこにでも神の「恩寵」を見出そうとする興奮した神父の権力意志。しかし早朝に見出された<ハート形>は果たしてオリジナルなのかコピーなのか。神父の立場からすればコピーだとするわけにはいかない。あくまでもオリジナルなものとして保存されねばならない。そこで神父は言語記号の特性である論理的転倒を施して相反傾向を解決してしまう。驚くべき転倒が出現する。
「が、この事実はとりもなおさず自分を一段高い位置にすえるものだった。『倅(せがれ)よーーー』神父は両手をさしのべた、そして腕は、しばらくの間、繰り人形の腕のようにじっとこわばり、平行に、前へ突き出されていた、がやがて腕の上で組み合わされた。隊長はデスクをまわって僧侶の前に進み出、ひざまずいた。相手は彼に祝福をたて、こうつぶやきながら部屋を後にするのだった。『安心なさい。この素晴らしい過失も神の思召しです』」(ジュネ「葬儀・P.317」河出文庫)
こうして「過失」は「神の思召し」へと置き換えられた。神父自身がそうしたのだ。主導権は象徴の側にある。象形文字化している象徴的なものを肯定の印と捉えるのも否定の印と捉えるのもそれを覗き込んだ人間の側次第である。だから次のような事態が起こっている。
「模写すること(空想すること)は、私たちには、知覚すること、たんに知覚することよりも、いっそう容易になされる。このゆえに、私たちが、たんに知覚している(たとえば運動を)と思っているいたるところで、すでに私たちの空想は助力し、捏造し、私たちが多くの個別的な知覚をする苦労を《免れさせ》ているのだ。この《活動》は通常見のがされている。私たちは、他の諸事物が私たちに影響をおよぼすさい、《受動的》であるのでは《なく》、むしろ、即座に私たちは私たちの力をそれに対抗させる。《諸事物が私たちの琴線に触れるのだが、そこから旋律をつくり出すのは私たちなのだ》」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一九・P.21」ちくま学芸文庫)
だからこそ、主観的思想の全体主義的一致を避ける方法も同時に出現してくる。主観をたった一つの意味に縛り付けて拘束してしまう必要は始めからない、という人間本来の支離滅裂性を思い出せばよいのだ。
「《主観を一つだけ》想定する必要はおそらくあるまい。おそらく多数の主観を想定しても同じくさしつかえあるまい。それら諸主観の協調や闘争が私たちの思考や総じて私たちの意識の根底にあるのかもしれない。支配権をにぎっている『諸細胞』の一種の《貴族政治》?もちろん、互いに統治することに馴れていて、命令することをこころえている同類のものの間での貴族政治?」(ニーチェ「権力への意志・下巻・四九〇・P.34」ちくま学芸文庫)
「《肉体》と生理学とに出発点をとること。なぜか?ーーー私たちは、私たちの主観という統一がいかなる種類のものであるか、つまり、それは一つの共同体の頂点をしめる統治者である(『霊魂』や『生命力』ではなく)ということを、同じく、この統治者が、被統治者に、また、個々のものと同時に全体を可能ならしめる階序や分業の諸条件に依存しているということを、正しく表象することができるからである。生ける統一は不断に生滅するということ、『主観』は永遠的なものではないということに関しても同様である。また、闘争は命令と服従のうちにもあらわれており、権力の限界規定が流動的であることは生に属しているということに関しても同様である。共同体の個々の作業や混乱すらに関して統治者がおちいっている或る《無知》は、統治がおこなわれる諸条件のうちの一つである。要するに、私たちは、《知識の欠如》、大まかな見方、単純化し偽るはたらき、遠近法的なものに対しても、一つの評価を獲得する。しかし最も重要なのは、私たちが、支配者とその被支配者とは《同種のもの》であり、すべて感情し、意欲し、思考すると解するということーーーまた、私たちが肉体のうちに運動をみとめたり推測したりするいたるところで、その運動に属する主体的な、不可視的な生命を推論しくわえることを学んでいるということである。運動は肉眼にみえる一つの象徴的記号であり、それは、何ものかが感情され、意欲され、思考されているということを暗示する。主観が主観に《関して》直接問いたずねること、また精神のあらゆる自己反省は、危険なことであるが、その危険は、おのれを、《偽って》解釈することがその活動にとって有用であり重要であるかもしれないという点にある。それゆえ私たちは肉体に問いたずねるのであり、鋭くされた感官の証言を拒絶する。言ってみれば、隷属者たち自身が私たちと交わりをむすぶにいたりうるかどうかを、こころみてみるのである」(ニーチェ「権力への意志・下巻・四九二・P.35~36」ちくま学芸文庫)
次はしばしば言われる「真、善、美」という三位一体思想について。それは意識にのぼる前にすでに加工=変造されており、したがって何らの「真理」をも現わしてはおらず、むしろ芸術家的な「形成する意志」として、そもそも権力意志から発しているということ。また人間は加工=変造にもかかわらず、加工=変造された後に意識にのぼってきたもの、すでに形成し終えたものを、そしてそれのみを「《とらえる》ことができる」。それしか「《とらえる》ことができ」《ない》。
「私たちの美への意志も同様である。すなわち、これもまた《形成する意志》である。二つの感覚はたがいに助けあっており、現実的なものの感覚は、事物を私たちの好みにしたがって形成するため、権力を手にいれる手段である。形成することや形成しかえすことでおぼえる快感はーーー一つの根源的な快感である!私たちは、私たち自身が《つくりあげた》世界をのみ《とらえる》ことができる」(ニーチェ「権力への意志・第三書・四九五.P.38」ちくま学芸文庫)
さらになお、なぜ人間は自分が所属し自分がその中の構成要素でもある、或る特定の時代の社会で生きていくことができるのかについて。現在一般的なものとして採用されている「認識の仕方」そのものが、おそらく「偶然的なもの」に過ぎないにもかかわらず、今の社会的条件のもとで生きていくためにはなぜか絶対的に「必然的なもの」として倒錯して受け入れられているからである。
「知識や認識の仕方はそれ自身すでに生存の諸条件のもとにある。そのさい、私たちを保存しているのとは別種のいかなる知性もありえない(私たち自身にとって)と結論するのは、性急である。この《事実上の》条件が、おそらくは偶然的なものにすぎず、おそらくはけっして必然的なものではないかもしれないからである」(ニーチェ「権力への意志・第三書・四九六・P.38」ちくま学芸文庫)
ニーチェが指摘する「認識の仕方」の一元的全体主義性。それは人間が社会の中に受け入れられるための条件をなしているのだが、一方、その同じ条件が人間を同一社会に繋ぎとめるための暴力的桎梏(しっこく)と化している。
さて、アルトー。ヘリオガバルス登場以前からローマ帝国がおちいっている無政府状態とそれ以後の無政府状態には明らかな違いがある。ヘリオガバルスの意図はまったく異なるのだということについて述べられる。
「彼がひとりの踊り子を親衛隊の頭(かしら)に任命させるとき、彼はそこで異論の余地ない、だが危険な一種のアナーキーを実現している」(アルトー「ヘリオガバルス・P.188」河出文庫)
もっとも、連日連夜乱痴気騒ぎに明け暮れて先に無政府状態におちいっていたのはローマ帝国の側なのだが、ヘリオガバルスが持ち込んだアナーキーは、ただ単に国家機関が順調に作動しないという意味での無政府状態ではない。根本的に違っている。政府高官は男性が受け持つものだという凝固し固定しステレオタイプ化しほとんど信仰と化した国家構造を根底から覆すのである。「ひとりの踊り子を親衛隊の頭(かしら)に任命」したからどうだというのか。立派に務まっているではないか。ヘリオガバルスに対する対抗勢力は言い返したい気持ちで山々なのだが、しかしなぜ「ひとりの踊り子」に帝国皇帝の「親衛隊の頭(かしら)」が務まってしまうのか説明できない。儀式に則って任命されている以上、任命されるやいなや後はほとんど、身振りが、身振りだけが、問題だというのに。「親衛隊の頭(かしら)」はただ単なる記号でなくてはならない。むしろ記号であればあるほどよいのである。
「彼は弱さを力と呼び、芝居を現実と呼ぶ。彼は受け入れられた秩序、思想、事物の通念を覆す」(アルトー「ヘリオガバルス・P.188」河出文庫)
その調子でどこまでも通していく。しかしなぜ「弱さを力と呼」ぶことができるのか。アルトーは「力」についてけっしてマッチョな考え方を取らないため、そしてまたヘリオガバルスがただ単なる少年でしかないのに帝国最大の権力者であるのはなぜ可能なのかもわかるからだ。「増大する力の感情」について、必ずしも闘争は必要でない。ヘリオガバルスはマクリヌスと戦わねば皇帝になることはできない立場に追いやられていたから戦争したわけだが、もし有効な親子関係のようにただ単なる「善譲」であれば戦争の必要性など発生してこなかったし、発生する必要など始めからなく、むしろ無駄な支出でしかない。「増大する力の感情」は本当に戦争と関係があるのかどうか。ニーチェは根本的レベルから疑問を呈している。
「私には、《高揚された感情、より強くなる》という感情がすでに、闘争における有用さをまったく別としても、本来の《進歩》であると思われる」(ニーチェ「権力への意志・第三書・六四九・P.174」ちくま学芸文庫)
また「芝居を現実と呼ぶ」のはなぜか。仮面化し俳優化して始めて人間は人間として認められるという過程を経ているからにほかならない。個々人は常に社会化しており、その都度その都度社会の側から要請される仮面を巧妙に取り換えて日常生活を演じているからこそ、生きていくことが許されているからである。現実は冷酷である。社会の側が要請する仮面の色に染まらない人間を人間として認めようとはしない。しかしヘリオガバルスがくつがえしていくのはそのような頑固極まりない偽善的「秩序、思想、事物の通念」であり、「同一的なもの」の反復行為によって慣習化しステレオタイプ化した大規模な「思い込み」に過ぎない。それはアルトーの言葉を引けば、何度も繰り返されることでようやく「受け入れられた」だけでしかないものである。「差異的なもの/異質的なもの」を手前勝手に削ぎ落としてきた結果、定着した習慣に過ぎない。そして「受け入れられた」ものは外部から到来して一時的に身体と同化したものでしかなく、したがって糞便として「廃棄可能なもの」だ。また、「同一的なもの」の反復は「差異的なもの/多様なもの」の側の噴出によっていつも解体の危機に晒されているものでもある。そして「差異的なもの/多様なもの」は常に異議を唱えて止むことを知らない。
「私たちを取り巻く世界における《なんらかの》差異性や不完全な循環形式性の現存は、それだけでもう、すべての存立しているものの或る一様の循環形式に対する一つの《充分な反証》ではないのか?循環の内部での差異性はどこから由来するのか?この経過する差異性の存続期間はどこから由来するのか?すべてのものは、《一つのもの》から発生したにしては、《あまりにも多様すぎる》のではないか?そして多くの《化学的な》諸法則や、他方また《有機的な》諸種類や諸形態も、一つのものからは説明不可能ではないか?あるいは二つのものからは?ーーーもし或る一様の『収縮エネルギー』が宇宙のすべての力の中心のうちにあると仮定すれば、たとえ最小の差異性であれ、それがどこから発生しうるのだろうか?が疑問となる。そのときには万有は解体して、無数の《完全に同一の》輪や現存在の球とならざるをえないことだろうし、かくて私たちは無数の《完全に同一の諸世界を並存的に》もつことだろう。このことを想定することが、私にとっては必要なのか?同一の諸世界の永遠の継起のために、或る永遠の並存を?だが《これまで私たちに周知の世界》のうちなる《数多性や無秩序》が異議を唱えるのであり、発展の《そのような》同種性が存在したということはあり《え》ないことであり、さもなければ私たちとても或る一様の球形存在者になるという分け前に与ったにちがいないことだろう!」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一三二五・P.690~691」ちくま学芸文庫)
しかしニーチェが流動する現実的強度の運動についていっていることをヘリオガバルスは自分の《身体において》実際に行なう。
「彼は綿密にして危険なアナーキーを行うが、彼は万人の目に自分をさらしているからだ。彼はすべてを行うために危ない橋を渡る。そしてそれは勇気あるアナーキストのものなのである」(アルトー「ヘリオガバルス・P.188」河出文庫)
だからアナーキーに見えるのは必然的である。
「《衝動》は、私の理解するところでは、《高級の機関》である。行為、感覚、および感情状態が、たがいに組織し合い、養い合いながら、入りまじって緊密に融合している」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・三一五・P.179」ちくま学芸文庫)
それは現実社会においても姿形を置き換えて継続されているとヘリオガバルスは考えている。ヘリオガバルスは生まれるとき母ユリア・ソエミアの体内から血まみれで転がり出てきた。ころころと動き回る強度の運動として世界に接続された。そして世界は常に闘争している。多様な諸力の運動の一つとしてヘリオガバルスは少年のままローマ帝国をめぐる権力闘争の真っ只中に投げ込まれている。ありとあらゆる諸衝動がつばぜり合いながら緊密に融合しまた分裂しつつ世界は常にうごめいている。ヘリオガバルスはしみじみとそう感じ考え実践へと移していく。
なお、高速道路の渋滞は年末にもあった。年始にもあるだろう。中継を見ていて思い起こされる。
「闇に沈んだハイウェイを車が疾走し、道を照らすものとしては車のヘッドライトしなかく、ほかには全速力でフロントガラスをすべっていくアスファルトがあるばかり」(ドゥルーズ「記号と事件・P.319」河出文庫)
さらに個々の車内で人々は何をしているだろうか。
「私たち現代人の社会生活では、窓と外部からなるシステムにかわって、密室と情報端末が支配的になりつつある。つまり世界を《見る》というよりも、世界を《読む》ようになったということです」(ドゥルーズ「記号と事件・P.319」河出文庫)
そしてまた。
「私たちはコミュニケーションの断絶に悩んでいるのではなく、逆に、たいして言うべきこともないのに意見を述べるよう強制する力がたくさんあるから悩んでいるのです」(ドゥルーズ「記号と事件・P.277」河出文庫)
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM