白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

言語化するジュネ/流動するアルトー80

2020年01月06日 | 日記・エッセイ・コラム
瞬間に出現する「美しい線の一種型にはまった組合わせ」。リトンが逮捕した「抗独闘士たち」に見たのもまたそれだ。といっても、ジュネは抗独闘士を賞賛したいがために述べるわけではない。問題はリトンが「抗独闘士たち」に見た「高貴なもの」とは何なのかということでなくてはならない。

「リトンは二人の美しさに驚かされた。抗独闘士たちは同年輩の協力兵よりも立派に見えた。たしかに、彼らはいっそう高貴な金属でできていた。これを私は賛辞のつもりで記しているのではない。高貴さという言葉で私が言いたいのは、たいそう美しい線の一種型にはまった組合わせである」(ジュネ「葬儀・P.324」河出文庫)

高貴な金属と下劣な金属とがあるわけではない。二元論的対立があるわけではない。そうではなく、どのような金属であろうとなかろうと、それは或る種の組み合わせによって高貴にもなり下劣にもなるのである。そしてそれが高貴になるとき、それは一瞬の閃光としてしか出現しない。一人の人間はいつも常に光り輝いているわけではまったくない。たとえば「泥棒日記」に出てきたジャヴァ。ジャヴァの言動はいつもばらばらで脈略があるようでない。言い換えれば、多種多様な諸要素が何らの関係も持たずただ単に生きながら腐敗しつつあるばかりでしかない。ところがそんなジャヴァの言動は一瞬、途轍もなく美しく光り輝く閃光となってジュネを畏怖と愛の極限へ叩き込んでしまうことがある。

「彼の卑劣さ、意気地無さ、挙措(きょそ)や心情の低俗さ、愚かさ、臆病(おくびょう)などといった性質も、わたしがジャヴァを愛する妨げとはならない。わたしは以上のものにさらに彼の可愛らしさという性質をもつけ加えよう。これらの諸要素の対立状態、あるいはその混合状態、あるいはそれらのついての解釈が、一つの新しい、名づけようのない美質ーーー合金のごときものーーーを造りだす。

わたしは以上の諸性質にさらに彼の身体的諸性質、彼の頑丈(がんじょう)で仄(ほの)暗い肉体、をつけ加える。この新しい美質を言い表わそうとするとき、わたしの脳裡(のうり)に否応(いやおう)なく浮ぶイメージは、上に列挙した諸要素が、その一つ一つの断面を形づくっている一個の結晶体のイメージなのである。

ジャヴァは煌(きら)めくのだ。彼の液体ーーーと彼のもろもろの炎(光輝)とーーーは、まさにわたしがジャヴァとよぶところの、そしてわたしが愛するところの、独異の功力(ちから)なのだ。

わたしの言う意味をさらに明確に言えば、わたしは卑劣さをも愚かさも愛するのではなく、また、そのいずれかの《ために》ジャヴァを愛するのでもなく、それらの彼における出会いがわたしを夢中にする」(ジュネ「泥棒日記・P.364~365」新潮文庫)

ジュネはいつもはばらばらで支離滅裂なジャヴァの言動の幾つかの組み合わせからたまたま生じる眩しいばかりの閃光について語っている。それはジャヴァの持つばらばらな諸要素が、諸力の運動状態のうちに或る特定の組み合わせを取るやいなや閃光と化して出現する《身体における出会い》だけが、ジャヴァと呼ばれるものなのだとジュネはいう。だからリトンが「抗独闘士たち」に見た「高貴なもの」は、なるほど「もっとも数多く火をくぐる金属、鋼鉄である」。しかしより一層高温の中で金属は溶け去る。金属は流動体へ変化している。その変化とともにますます燃え盛る「火」こそ「高貴なもの」であると考えなければならない。高貴なものというはマッチョなものでなくても全然構わない。筋骨隆々であろうがなかろうが関係ない。むしろそれはほんのときたま、確かに稀ではあるものの世間一般の中で見かけることができるもの、「肉体的・精神的な一種の物腰」を指す。

「肉体的・精神的な一種の物腰。高貴な金属とはもっとも数多く火をくぐる金属、鋼鉄である」(ジュネ「葬儀・P.324~325」河出文庫)

とはいえ、物腰は重々しければ重々しいほどよいというわけではまったくない。余裕ということだ。また軽さでなくてはならないときにはすでに速度そのものに変化していなくては無意味である。気づいたときにはもうそこにはいないというくらいの速度で移動している。距離的に移動していなくてもまったく構わない。その場でほとんど動かないまま変化していれば強度はそのままであっても変化はすでに済んでいる。だからそれがどれほどの速さで変化したのか、周囲の人間にはさっぱりわからないようなものだ。速度の神、変化の神、音楽の神、すなわちヘルメスでなくてはならない。その言動は裏切りにも見える。しかしたとえばグレン・グールドのピアノ演奏を聴いていて、それが譜面の指示通りではなくじわじわと加速していく様子に気づいたとしてもほとんどの聴衆はグールドを批判することはできない。グールドの速度感覚には固有の美がある。この美がその力の全力を上げてただ単に目の前に置かれただけの譜面に対する加速的裏切りを覆い隠す。グールドが演じる速度の美しさ。それはもし譜面が口をきいたとしても黙って耳を傾けるに違いない。譜面自身が演奏に身を任せる。そのときそこにグールドはおらず、速度と化して淡々と響き渡る音楽の流れがあるのみだ。すべての聴衆はそれに向けて仮にそれをグールドと呼ぶことにしているというに過ぎない状態におちいる。

「彼らがドイツ軍側につかなかったことを残念がるには当らないだろう、美しい敵を得たことで、ドイツ兵はますます美しくとどまるのだから」(ジュネ「葬儀・P.325」河出文庫)

ふさわしい敵を出現させることで自分も敵にふさわしい存在へと変化させることができる。

「『少なくともわたしの敵であれ』ーーー友情を望んでも、それを哀願することのできない真の畏敬(いけい)のいう言葉はこれである。

人は、おのれの友をも敵として敬うことができなくてはならぬ。君は君の友にあまりに近づきすぎて、彼に隷属せずにいることができようか。

おのれの友のうちにおのれの最善の敵をもつべきである。君がかれに敵対するときこそ、君の心はかれに最も近づいているのでなければならぬ。

君は奴隷であるか。奴隷なら、君は友となることはできぬ。君は専制者であるか。専制者なら君は友をもつことはできぬ」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・友・P.87~89」中公文庫)

対独協力兵士と抗独闘士との違いについて。前者は模倣だったが後者には「独自性」が認められるとジュネはいう。

「協力兵たちは<ドイツ第三帝国>の青春の模倣だったが、抗独運動の闘士たちにはそれ以外に独自性という長所と新鮮さがあった」(ジュネ「葬儀・P.325」河出文庫)

抗独闘士は対独協力兵士のような勃興期のナチスドイツの模倣ではないが、そのぶん浮薄ではなく、もっと根本的に深いもの、おそらく今後の生涯のおいて見つけ出しようのないみずみずしい貴重なものを身に帯びていた。その貴重さは何を母胎としていたか。徹底的な「絶望」を母胎としていた。そしてこの「絶望」は、ドイツ軍というもしかしたら永遠に押し返すことのできない鋼鉄ののしかかり「によって触発された」ものだ。

「なにもかも代用品に、見てくれだけ美しい隷属に堕するおそれがある一方、自由に酔いしれた、すばらしい青春が森の中で生きていたのだ。この素晴らしい見つけもの、それは絶望によって触発されたのだ」(ジュネ「葬儀・P.325」河出文庫)

ジュネは力の移動に関して機敏に反応する。その記述は次のようにいつもの調子で描かれる。しかし重要なのはここでもまた音楽であり、「<マルセイエーズ>の歌声」が果たした機能について言及されている。

「<抵抗運動>は、陰毛のなかから筋ばった陰茎が身をもたげるように、叢林のなかから出現し、打ち建てられたのだ。フランス全体が、この陰茎のように、起き上がりつつあった。安楽椅子のなかにいても、クッションに腰かけたり寝ころんだりしていても、<マルセイエーズ>の歌声が聞えれば、フランス市民は直立不動の姿勢で起立したことだろう」(ジュネ「葬儀・P.325」河出文庫)

ドイツの秘密警察(ゲシュタポ)やましてや正式なドイツ軍人とはさらに違って、フランスで拒否されフランスを拒否しフランスをドイツに売り渡す作業に快感をおぼえる若年者たちで構成された対独協力軍。その組織化を可能にした重要な条件の一つとは何か。フランスに対する憎悪の行き過ぎた過剰さと裏切り行為の過剰な壮麗さが上げられる。しかしそれらをただ列挙するだけならジュネでなくても構わない。

「警察としての機能、それを協力軍は行き過ぎたかたちでしか、それを壮麗化する行きすぎたかたちでしか遂行できなかった。とうとう警察になれた嬉しさに陶酔し、陶酔裡に行動する」(ジュネ「葬儀・P.326」河出文庫)

ドイツ軍以上の自己破壊行為へ過剰に専心することで始めて得られる「陶酔」。ナチスドイツの壮麗なコピーと化した対独協力軍がもたらす悲壮化され美学化された暴力がもたらす「陶酔」。これまでナチズム化の過程を必然的なものにした様々なフェチの系列とともにとりわけ種々の身振り仕ぐさについて述べてきた。ところがフェチの系列がどれほど無数にあっても、さらに羨望を高め同一化を可能にする身振り仕ぐさが何度反復されても、ただそれだけではドイツ国家のナチズム化は可能であっても対独協力軍を発生させナチズムと同化させるには不十分である。対独協力軍は主に祖国から拒否され祖国を拒否した若年層によって組織されている。この組織化を可能にしたのはハーケンクロイツという記号へ象徴化されたフェチの系列への限りない欲望と身振り仕ぐさの模倣への憧れによるところが確かに大きい。そこにさらにジュネのいう「憎悪による団結」が加わっているわけだが、しかしそれにしてもヨーロッパのあちこちで発生した対独協力義勇兵に見られる過剰な残忍さは過剰な残忍さそのものから何を味わっているのか。正規のドイツ軍でない他国の対独協力義勇兵のあいだで共通に見られる過剰な残忍さは過剰さの実現によって可能になる「陶酔」を同時に味わうことによって始めて融合することができる。ドイツ軍以上に過剰な残忍さによってのみもたらされ味わうことができる陶酔感とその全体主義的融合感覚。それは自分と他者との違いを消滅させると同時にふだんはあり得ない同一化をいとも容易に可能にする。その瞬間、そこには比類ない官能性が出現する。この官能性は、そしてこの官能性だけが、過剰な暴力から獲得されている限りで始めてすべての対独協力義勇兵の一体化を実現してみせた。

そして今やどの先進諸国でも大衆受けする感動的なものを国家の側から率先して推奨する。それらは一言にまとめられて文化と呼ばれている。小説、テレビドラマ、漫画、映画、音楽、強烈な印象を与える実際の犯罪、等々、情報消費者の情動に働きかけ揺り動かすものであれば総動員して政治利用される。この循環はなるほど政治にとって十分利用価値があり実際利用されている。けれどもそれ以上にこの循環は、それを動かし配給する資本にとって増大した利潤を付け加え新しい価値を生んで資本の手元に還ってくる資本だからこそ、資本はそれら諸商品の系列を国家を用いて絶え間なく配給させておく。資本はそのために最低限必要な資金調達と備給の生産再生産を可能にする社会的循環が途切れることのないよう常に心がけている。

さて、アルトー。太陽信仰の貫徹には儀式的象徴化が欠かせない。象徴化された「巨大な陽物像」を先頭にしてヘリオガバルスは自分の思想信仰を押し進める。理想的に勃起した男性器の象徴たる「巨大な陽物像」は石でできている。だが石をおし戴いているだけでは何にもならない。ヘリオガバルスは儀式性、周期性、回帰性の実現たる「月経の宗教」の体現者として、男性器と女性器とが刻み込まれたとしか考えようがない石を見つけ出してくるよう、帝国全土に命令する。そして発見され象徴化された巨大な石と結婚する。

「それにふさわしい妻との『黒い石』の結婚においてほど、自らの神に対するヘリオガバルスの熱意や、儀式と芝居への彼の嗜好が見出されることはない。この妻を彼は帝国じゅうに探させる。こうして、石のなかにまで、石によってまで、彼は聖なる儀式を成就させるだろうし、象徴の効力を証明するだろう」(アルトー「ヘリオガバルス・P.192」河出文庫)

ヘリオガバルスは象徴の効果を繊細に測定する。それは歴史家にはわからない詩の原理によって、幾重にも折り畳まれた多層的構造の理解なしにはけっして見えてこないものだ。アルトーはそれをヘリオガバルスの「詩的宗教性の物質的で厳密な証拠」として見る。

「そして歴史がよけいな狂気と無益な幼児的行為と見なすのは、私には彼の詩的宗教性の物質的で厳密な証拠に思える」(アルトー「ヘリオガバルス・P.192」河出文庫)

それは物質と強度からできている。そしてまたそれは物質と強度のアレンジメント以外の何ものからも創設することはできない。

「陽物像たる『黒い石』が神々自身の刻んだ一種の女性器を内側にもっていることはたいした問題ではないが、ヘリオガバルスが、そのことによって、この実現された交尾によって示そうとするのは、男根が活動的なものだということであり、それがひと形によるものであって、抽象的なものであってもたいしたことはないからである」(アルトー「ヘリオガバルス・P.193」河出文庫)

男性器と女性器の合体が一つの石で現わされていることは大事だ。太陽信仰ゆえに陽物像と同様に一つの石でなければならないが、そのような象徴化に先立って遥かに重要なのはそれが「活動的なものだということであ」る。「男性器/女性器」はともに「動くからである」。アルトーによる活動性への着目。「動くから」ということへの着目は作品「ヘリオガバルス」が初めではない。

「トーテミズムは行為者である、というのもそれは動くからであるが、しかもそれは行為者たちのためにつくられている。そしてどんな文化もトーテミズムの野蛮で原始的な手段を拠り所にしているのだが、私は野生の、つまり完全に自発的なその生を讃えたいと思っている」(アルトー「演劇と文化」『演劇とその分身・P.13』河出文庫)

アルトーはそこに流動する強度を見ている。ところが逆に「芸術のヨーロッパ的理想は」すでに「力から切り離された、その熱狂を見物しているだけの態度のなかに」おちいっている。洗練し象徴化することとただ単なる合理化とを取り違えた怠惰、呆れ果てたニヒリズムにおちいってしまっている。そこに流動する強度はほとんどない。失われてしまった。取り戻すことはできない。

「真の文化はその熱狂とその力によって行動するが、芸術のヨーロッパ的理想は、力から切り離された、その熱狂を見物しているだけの態度のなかに精神を投げ捨てることを目指している。それは怠惰で無益な観念であり、近いうちに死を招く」(アルトー「演劇と文化」『演劇とその分身・P.13』河出文庫)

強度ゼロ状態を死と捉えることができず、逆に洗練され象徴化され無駄を省かれた一種の行動だと思い込む見当外れのヨーロッパ的倒錯。自然界との絶えざる新陳代謝から与えられた賃金労働者からなる無数の労働力によって支えられているにもかかわらず、無駄は省かれ合理的に洗練されたと信じて疑わない「芸術のヨーロッパ」という転倒した抽象的概念。この転倒をヨーロッパ人自身が演じてしまっていることに気づき覚醒し、何よりアルトー自身が自分の演劇論をより一層明確に磨き抜いていくためには何が必要か。ヨーロッパ全土を劇場に仕立て上げることだ。たとえば中米メキシコを例に上げる。そこにはヨーロッパが自分で自分自身を褒め称えるような馬鹿馬鹿しい芸術はない。ところが「終わりなき熱狂」なしに資本主義はないように、中南米あるいは東南アジアには熱狂的に活動する強度がある。

「メキシコでは、これはメキシコの話であるからだが、芸術などなく、事物が仕えている。そして世界は終わりなき熱狂のうちにある」(アルトー「演劇と文化」『演劇とその分身・P.15』河出文庫)

さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

BGM