不意をついてイエスの名が出てくる。しかしジュネは慎重に言葉を選んでイエスといっている。けっして揶揄したりするわけではない。不意打ち的な愛の侵入はあたかもイエスのようにしずしずと、物音一つ立てず、「泥棒のようにこっそりやって来る」。ジュネたちはそう感じる。
「私は愛が人々を驚かすやり方を発明して遊びたいと思う。それはイエスのように激昂した者たちの心のなかにやって来る、それはまた泥棒のようにこっそりやって来る」(ジュネ「花のノートルダム・P.60」河出文庫)
そして何を出現させるかというと、或る種の下品この上ない「隠語」の爆発的連鎖である。囚人たちはしばしば言葉遊びを用いて興奮しよう、快楽しよう、官能しようと賢明に励む。いっそう下品な、耳を覆いたくなるような下品極まりない瀆聖の笑い声がほとばしり響き渡る。場所はどこか。監獄の中だ。神を罵ることにかけて監獄の中ほど深く激烈な場所はほかになく、神に祈ることにかけて監獄の中ほど深く敬虔な場所もほかにないだろう。ところでジュネはディヴィーヌとミニョンが二人して日曜礼拝から下宿へ戻るやいなや二人とも我を忘れて性行為に没頭するほかないと述べていた。とはいえ、どのような性行為だろうか。男性同性愛者のすべてがそうであるとは言わない。「泥棒日記」の中では「限られた読者に向けて」書いているに過ぎないと述べているように。しかし同性愛者であろうとなかろうとそれがどのような《営み》であるか、読み取れる読者には読み取れるに違いない。ジュネは次のように言い換える。
「別れる前に、殴り合っている(戦っているのではない)二人の若いボクサーが互いのシャツを引き裂き、そして彼らが裸であるとき、あまりの美しさに茫然として、自分の姿を鏡で見ていると思い込み、しばしあっけにとられて、もつれた髪の毛をーーーひどい目に遭ったことに激怒してーーー振り乱し、じっとりした微笑みで互いに笑いかけ、そしてグレコ・ローマン・レスリングのレスラーのように互いを抱きしめ合い、相手の筋肉が示すがっちりとした組み合いのなかで彼らの筋肉をぴったり包み込み、しかも彼らの生温かい精液が高くほとばしり、水夫座、ボクサー座、競輪選手座、豚箱座、アルジェリア先住民騎兵座、短刀座といった、私が読むことのできる他の星座がそこに含まれる天の川を空に描くまで、絨毯の上にばったり倒れこむように、互いを愛し合うこと。こうして天の新しい地図が、ディヴィーヌの屋根裏部屋の壁の上に描かれる」(ジュネ「花のノートルダム・P.61~62」河出文庫)
作品「ブレストの乱暴者」のラストシーンでも応用された描き方だ。性行為は或る種の闘争にほかならないとジュネは言いたくてたまらないのである。それはそれとしてディヴィーヌだが、幼少期から田舎で育ったため日常生活は農業(特に果物)と切り離して考えることはできない。やたらと花の枝を折り取って花瓶に入れる都会の風習を見たディヴィーヌは傷つく。
「モンソー公園への散歩から、ディヴィーヌは屋根裏部屋へと戻る。飛行中のピンクの花々に支えられた桜の木の枝が、硬直して黒々と、花瓶から突き出ている。ディヴィーヌは傷ついている。田舎では、百姓たちが果物となる樹々を大事にするように、その花々を飾りのように見ないように彼女に教えたので、もうけっして彼女はそれらを賞賛することはできないだろう。折れた枝は彼女の心を傷つける、年頃の娘の殺害があなたたちを傷つけるだろうように」(ジュネ「花のノートルダム・P.62」河出文庫)
花々の枝を手前勝手に折り取る都会の風習は、ディヴィーヌにとって、果物へ変身しつつある花々に対する冒涜だと感じられる。しかしその刃物による容赦のない荒々しい冒涜の仕ぐさを見て快楽を禁じ得ないディヴィーヌは、冒涜を美へ高めようと、あるいは冒涜による傷つきを進んで引き受けることで冒涜を乗り越えようとして、みずから花々を「引き裂く」。引き裂かれた花々は、冒涜によってなされつつ、その荒々しさにもかかわらず、しかし愛ゆえ、かえって愛撫に似る。ディヴィーヌは自ら「引き裂かれた」花々として愛撫の感情に身を委ねる技術を手に入れる。
ーーーーー
さて、アルトー。なかなか理解されない「残酷」という言葉の意味。わざわざ手紙を用いて補足的説明を行なっている。
「この『残酷』においてはサディズムも血も問題となってはいません、少なくとも独占的な形では」(アルトー「残酷についての手紙」『演劇とその分身・P.164』河出文庫)
もちろんそうだ。と言えるのは今の読者はすでにポストモダンを通過してきたからであり、もしその通過がなかったら、今なおアルトーがおちいったパラドックスについて鮮明に理解できていたかどうか定かでない。とはいえ、強烈なダブルバインドにおちいった「イルカ」がしばらくの沈黙の後で突然パラドックスを突破するエピソードに触れるにはまだ早過ぎる。ましてやアルトーはイルカでなく人間だ。徹底的に格闘するし格闘するほかない。
「私は一貫して恐怖を培っているのではありません。残酷というこの言葉は広い意味で取らなければならないですし、通常この語に与えられている物質的で獰猛な意味でではないのです」(アルトー「残酷についての手紙」『演劇とその分身・P.164』河出文庫)
残酷演劇では、古代の戦争で行われていたように敵の身体を切り刻んだり切り取った首を高々と掲げて勝利を祝ったりするわけではない。そんなことはむしろアルトーのいう「残酷」のうちに入らない。アルトーが狙いを定めているのは西洋形而上学という根本的暴力だからである。ステレオタイプ(社会的文法)によって根底から規定されてしまった西洋形而上学を演劇によって乗り越えられないか。それが問題なのだ。だからアルトーは残酷の定義をより一層明確にしなければと、次のように述べる。
「肉を切り裂かなくても、純然たる残酷をちゃんと想像することができます。そして哲学的に言って、そもそも残酷とは何なのか、精神の観点からすれば、残酷は厳格を、熱心と仮借ない決定を、不可逆的で絶対的な決意を意味します」(アルトー「残酷についての手紙」『演劇とその分身・P.164』河出文庫)
要するに、残酷なのは、「厳格」で「熱心」で「仮借な」く「不可逆的」で「絶対的」な「決意」だという。またそれは何ら特別な行為でも発言でもなく逆に十年一日のごとく普通の人間が日常生活で反復していることだ。
「残酷は何よりもまず明晰なものであり、それは一種の厳格な方針であり、必然性への服従なのです」(アルトー「残酷についての手紙」『演劇とその分身・P.165』河出文庫)
なぜこんなにも「厳格」であり「必然」的であり、その「明晰さ」において承認さえしなければならない「服従」であるのか。それこそ残酷以外の何ものであろうか。そうアルトーは問う。
アルトーはバリ島演劇について何を語っていたか。
「これらの腹わたからの叫び、これらの転がる目玉、この絶えざる抽象、これらの枝のざわめき、これらの木を伐採し転がす音、そういったすべては広がった音の巨大な空間のなかにあり、いくつかの泉から吐き出され、そういったすべてが、抽象的なものの新しい構想、あえて言うなら、具体的な構想のようなものを、われわれの精神のなかに立ち上がらせ、結晶化させるのに協力する」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.103』河出文庫)
唐突な身振り仕ぐさの多用によって現わされる別様の言語。それらすべてから「新しい構想」を「結晶化」させねばならないと考える。ところがバリであろうとなかろうと反復されるものはなぜ反復可能なのかが問われなければならない。というのは、反復を可能にしているのはアルトーが狙いを定めている西洋形而上学の言語的仕組み(社会的文法)そのものだからである。バリ島演劇であっても、観衆/大衆が理解するようになれば、それはその時点ですでに未知のものでも何でもなくなってしまう。むしろ逆に翻訳可能なものだったと安心させるばかりなのだ。どんな身振り仕ぐさも翻訳され、「或る意味」として受け取られてしまう。未知の領域は既知の領域へと還元されて観衆/大衆のための新しい演劇の内部へ回収されてしまうばかりである。だから言ってしまえば、アルトーがおちいったパラドックスは最初から逆説含みだったのである。デリダはこう述べている。
「アルトーの『形而上学』は、それが最も批判的となる瞬間に、西洋形而上学をーーーそして、その最も深く最も恒常的な目標をーーー成就することになる。しかし、アルトーは、そのテクストの最も難解な別の転回によって、差異の《残酷な》(つまりアルトーがこの語を理解していたような意味で言うなら、必然的な)法則を肯定している」(デリダ「エクリチュールと差異・P.396」法政大学出版局)
形而上学によって規定された身体言語を含む言語的構造を形而上学によってどれほど議論し演じ直してみたとしても、やればやるほどかえってその同じ行為が従来の形而上学を逆により一層強化し保管することになってしまうというパラドックスである。
「人が行う残酷のなかには一種の高度な決定論があり、拷問執行人自身もそれに従い、しかも場合によっては、彼はそれに耐えることを《決意している》はずなのです」(アルトー「残酷についての手紙」『演劇とその分身・P.165』河出文庫)
アルトーのいう「残酷のなか」には「一種の高度な決定論があ」るとアルトー自身はよく認識している。むしろ最も深く認識していたのはアルトー自身に違いない。すべてがすでに形成事実として進行していくばかりの「決定論」と「必然論」に満ち、遂には「運命論」にまで達してしまっている世界。アルトーは自分自身で気づいていながらあえて絶望的地点から語っていたのだと言える。人間のすべての行動を根底から規定している言語的形而上学的構造(社会的文法)はすでに余りにも深く広く根を張っていた。それはもはや自然状態のレベルにさえ達していた。次のように。
「社会的生産関係とそれに対応する生産様式との基礎をなす自然発生的で未発達な状態にあっては、伝統が優勢な役割を演ぜざるをえないということは、明らかである。さらに、現存の事物を法律として神聖化し、またこの事物に慣習と伝統とによって与えられた制限を法的制限として固定することは、ここでもやはり社会の支配者的部分の利益になることだということも、明らかである。ほかのことはすべて別として、とにかく、こういうことは、現存状態の基礎つまりこの状態の根底にある関係の不断の再生産が時のたつにつれて規律化され秩序化された形態をとるようになりさえすれば、おのずから起きるのである。そして、この規律や秩序は、それ自身、どの生産様式にとっても、それが社会的な強固さをもち単なる偶然や恣意からの独立性をもつべきものならば、不可欠な契機なのである。これこそは、それぞれの生産様式の社会的確立の形態であり、したがってまた単なる恣意や偶然からのその相対的な解放の形態である。どの生産様式も、生産過程やそれに対応する社会的関係が停滞状態にある場合には、それ自身の単なる反復的再生産によってこの形態に到達する。この形態がしばらく持続すれば、それは慣習や伝統として確立され、ついには明文化された法律として神聖化される」(マルクス「資本論・第三部・第六篇・第四十七章・P.296」国民文庫)
アルトーはいう。
「作用するものはすべて残酷である」(アルトー「演劇と残酷」『演劇とその分身・P.137』河出文庫)
たぶんそうだ。現代社会は常にこの種の残酷さをこうむっているばかりか逆に率先してこの方向を、ますます残酷になる現実社会を、わざわざ自分自身の手で加速的に推し進めている。ただ単に残酷だというのでなく、事態はますます洗練されたものへ変化している。現代社会の言語的形而上学(社会的文法)がアルトーの時代を越えてどれほど残酷化したか。実際、繰り返し洗練されてきた残酷さはもはや残酷に見えないほど洗練されたものになってしまった。ほとんど誰もそこにある「不思議なものを不思議だ」とおもわないまでに達している。
「私たちは、後を追って継起する規則的なものに馴れきってしまったので、《そこにある不思議なものを不思議がらないのである》」(ニーチェ「権力への意志・下巻・六二〇・P.153」ちくま学芸文庫)
にもかかわらずそれは底無しであるというのに。
「超越論的探求の特性は、好きなときにやめることができないという点にある。根拠を規定するにあたって、さらなる彼岸へと、根拠が出現してくる無底のなかへと、急き立てられずにいることなどどうしてできよう」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.173」河出文庫)
ここで言われている「超越論的探求」はヘーゲルのいう「絶対精神」でありマルクスのいう「物質的生産力」である。そしてその特性は「好きなときにやめることができないという点にある」。アルトーにはもう進む道程はないのか。デリダはアルトーに不可能という宣告を下して去っただけなのか。そうではない。デリダはアルトーの方法に対して不可能を宣告したが、アルトーが目指したことはまったく救いようのないほど不可能だといっているわけではない。むしろアルトーは残酷演劇という新しい演劇手法の提唱によって、欧米形而上学を支配してきた限界点(リミット)の指摘に成功した。欧米の形而上学に向けて避けて通れない問題を投下した。その点で注意深く拾っていくべきところは幾らでも出現してくる。しかしそのすべてを類別するだけでは形而上学による形而上学的類別という空虚な反復に過ぎなくなってしまう。そこでデリダは考える。アルトーに従う限りアルトーが直面したパラドックスを突破することは不可能である。したがってアルトーに対して誠実であることはできない。けれどもアルトーに対して不誠実になることは現状追認する傍観者の態度でしかない。「いじめる/いじめられる」関係において、いじめる側の好き放題を見て見ぬふりする傍観者の態度と違わない。どうしたらよいのか。救いようのないほどステレオタイプ化してしまった単なる演劇/舞台を再生産してどこまでも現状追認することで演劇が演劇自身を殺害するままに任せてしまうか、それともステレオタイプな次元とはまた別様の異なる次元を注意深く模索しつつ、アルトーに対して誠実であることで欧米中心主義的形而上学のパラドックスにおちいることなく、少なくともアルトーの試みに対して不誠実にならない可能性を見出すことはできないだろうかとデリダはいう。アルトーへの誠実さは形而上学的パラドックスという転倒を招く。そうではなく、少なくともアルトーに対して不誠実にならない主題の探究はまだまだ可能ではないだろうか。「次元の移動」と「移動した次元」の《あいだ》で生じる《形而上学の抹殺》ーーーニーチェが《祝祭》という意味でのーーーは可能ではないのかと。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM
「私は愛が人々を驚かすやり方を発明して遊びたいと思う。それはイエスのように激昂した者たちの心のなかにやって来る、それはまた泥棒のようにこっそりやって来る」(ジュネ「花のノートルダム・P.60」河出文庫)
そして何を出現させるかというと、或る種の下品この上ない「隠語」の爆発的連鎖である。囚人たちはしばしば言葉遊びを用いて興奮しよう、快楽しよう、官能しようと賢明に励む。いっそう下品な、耳を覆いたくなるような下品極まりない瀆聖の笑い声がほとばしり響き渡る。場所はどこか。監獄の中だ。神を罵ることにかけて監獄の中ほど深く激烈な場所はほかになく、神に祈ることにかけて監獄の中ほど深く敬虔な場所もほかにないだろう。ところでジュネはディヴィーヌとミニョンが二人して日曜礼拝から下宿へ戻るやいなや二人とも我を忘れて性行為に没頭するほかないと述べていた。とはいえ、どのような性行為だろうか。男性同性愛者のすべてがそうであるとは言わない。「泥棒日記」の中では「限られた読者に向けて」書いているに過ぎないと述べているように。しかし同性愛者であろうとなかろうとそれがどのような《営み》であるか、読み取れる読者には読み取れるに違いない。ジュネは次のように言い換える。
「別れる前に、殴り合っている(戦っているのではない)二人の若いボクサーが互いのシャツを引き裂き、そして彼らが裸であるとき、あまりの美しさに茫然として、自分の姿を鏡で見ていると思い込み、しばしあっけにとられて、もつれた髪の毛をーーーひどい目に遭ったことに激怒してーーー振り乱し、じっとりした微笑みで互いに笑いかけ、そしてグレコ・ローマン・レスリングのレスラーのように互いを抱きしめ合い、相手の筋肉が示すがっちりとした組み合いのなかで彼らの筋肉をぴったり包み込み、しかも彼らの生温かい精液が高くほとばしり、水夫座、ボクサー座、競輪選手座、豚箱座、アルジェリア先住民騎兵座、短刀座といった、私が読むことのできる他の星座がそこに含まれる天の川を空に描くまで、絨毯の上にばったり倒れこむように、互いを愛し合うこと。こうして天の新しい地図が、ディヴィーヌの屋根裏部屋の壁の上に描かれる」(ジュネ「花のノートルダム・P.61~62」河出文庫)
作品「ブレストの乱暴者」のラストシーンでも応用された描き方だ。性行為は或る種の闘争にほかならないとジュネは言いたくてたまらないのである。それはそれとしてディヴィーヌだが、幼少期から田舎で育ったため日常生活は農業(特に果物)と切り離して考えることはできない。やたらと花の枝を折り取って花瓶に入れる都会の風習を見たディヴィーヌは傷つく。
「モンソー公園への散歩から、ディヴィーヌは屋根裏部屋へと戻る。飛行中のピンクの花々に支えられた桜の木の枝が、硬直して黒々と、花瓶から突き出ている。ディヴィーヌは傷ついている。田舎では、百姓たちが果物となる樹々を大事にするように、その花々を飾りのように見ないように彼女に教えたので、もうけっして彼女はそれらを賞賛することはできないだろう。折れた枝は彼女の心を傷つける、年頃の娘の殺害があなたたちを傷つけるだろうように」(ジュネ「花のノートルダム・P.62」河出文庫)
花々の枝を手前勝手に折り取る都会の風習は、ディヴィーヌにとって、果物へ変身しつつある花々に対する冒涜だと感じられる。しかしその刃物による容赦のない荒々しい冒涜の仕ぐさを見て快楽を禁じ得ないディヴィーヌは、冒涜を美へ高めようと、あるいは冒涜による傷つきを進んで引き受けることで冒涜を乗り越えようとして、みずから花々を「引き裂く」。引き裂かれた花々は、冒涜によってなされつつ、その荒々しさにもかかわらず、しかし愛ゆえ、かえって愛撫に似る。ディヴィーヌは自ら「引き裂かれた」花々として愛撫の感情に身を委ねる技術を手に入れる。
ーーーーー
さて、アルトー。なかなか理解されない「残酷」という言葉の意味。わざわざ手紙を用いて補足的説明を行なっている。
「この『残酷』においてはサディズムも血も問題となってはいません、少なくとも独占的な形では」(アルトー「残酷についての手紙」『演劇とその分身・P.164』河出文庫)
もちろんそうだ。と言えるのは今の読者はすでにポストモダンを通過してきたからであり、もしその通過がなかったら、今なおアルトーがおちいったパラドックスについて鮮明に理解できていたかどうか定かでない。とはいえ、強烈なダブルバインドにおちいった「イルカ」がしばらくの沈黙の後で突然パラドックスを突破するエピソードに触れるにはまだ早過ぎる。ましてやアルトーはイルカでなく人間だ。徹底的に格闘するし格闘するほかない。
「私は一貫して恐怖を培っているのではありません。残酷というこの言葉は広い意味で取らなければならないですし、通常この語に与えられている物質的で獰猛な意味でではないのです」(アルトー「残酷についての手紙」『演劇とその分身・P.164』河出文庫)
残酷演劇では、古代の戦争で行われていたように敵の身体を切り刻んだり切り取った首を高々と掲げて勝利を祝ったりするわけではない。そんなことはむしろアルトーのいう「残酷」のうちに入らない。アルトーが狙いを定めているのは西洋形而上学という根本的暴力だからである。ステレオタイプ(社会的文法)によって根底から規定されてしまった西洋形而上学を演劇によって乗り越えられないか。それが問題なのだ。だからアルトーは残酷の定義をより一層明確にしなければと、次のように述べる。
「肉を切り裂かなくても、純然たる残酷をちゃんと想像することができます。そして哲学的に言って、そもそも残酷とは何なのか、精神の観点からすれば、残酷は厳格を、熱心と仮借ない決定を、不可逆的で絶対的な決意を意味します」(アルトー「残酷についての手紙」『演劇とその分身・P.164』河出文庫)
要するに、残酷なのは、「厳格」で「熱心」で「仮借な」く「不可逆的」で「絶対的」な「決意」だという。またそれは何ら特別な行為でも発言でもなく逆に十年一日のごとく普通の人間が日常生活で反復していることだ。
「残酷は何よりもまず明晰なものであり、それは一種の厳格な方針であり、必然性への服従なのです」(アルトー「残酷についての手紙」『演劇とその分身・P.165』河出文庫)
なぜこんなにも「厳格」であり「必然」的であり、その「明晰さ」において承認さえしなければならない「服従」であるのか。それこそ残酷以外の何ものであろうか。そうアルトーは問う。
アルトーはバリ島演劇について何を語っていたか。
「これらの腹わたからの叫び、これらの転がる目玉、この絶えざる抽象、これらの枝のざわめき、これらの木を伐採し転がす音、そういったすべては広がった音の巨大な空間のなかにあり、いくつかの泉から吐き出され、そういったすべてが、抽象的なものの新しい構想、あえて言うなら、具体的な構想のようなものを、われわれの精神のなかに立ち上がらせ、結晶化させるのに協力する」(アルトー「バリ島の演劇について」『演劇とその分身・P.103』河出文庫)
唐突な身振り仕ぐさの多用によって現わされる別様の言語。それらすべてから「新しい構想」を「結晶化」させねばならないと考える。ところがバリであろうとなかろうと反復されるものはなぜ反復可能なのかが問われなければならない。というのは、反復を可能にしているのはアルトーが狙いを定めている西洋形而上学の言語的仕組み(社会的文法)そのものだからである。バリ島演劇であっても、観衆/大衆が理解するようになれば、それはその時点ですでに未知のものでも何でもなくなってしまう。むしろ逆に翻訳可能なものだったと安心させるばかりなのだ。どんな身振り仕ぐさも翻訳され、「或る意味」として受け取られてしまう。未知の領域は既知の領域へと還元されて観衆/大衆のための新しい演劇の内部へ回収されてしまうばかりである。だから言ってしまえば、アルトーがおちいったパラドックスは最初から逆説含みだったのである。デリダはこう述べている。
「アルトーの『形而上学』は、それが最も批判的となる瞬間に、西洋形而上学をーーーそして、その最も深く最も恒常的な目標をーーー成就することになる。しかし、アルトーは、そのテクストの最も難解な別の転回によって、差異の《残酷な》(つまりアルトーがこの語を理解していたような意味で言うなら、必然的な)法則を肯定している」(デリダ「エクリチュールと差異・P.396」法政大学出版局)
形而上学によって規定された身体言語を含む言語的構造を形而上学によってどれほど議論し演じ直してみたとしても、やればやるほどかえってその同じ行為が従来の形而上学を逆により一層強化し保管することになってしまうというパラドックスである。
「人が行う残酷のなかには一種の高度な決定論があり、拷問執行人自身もそれに従い、しかも場合によっては、彼はそれに耐えることを《決意している》はずなのです」(アルトー「残酷についての手紙」『演劇とその分身・P.165』河出文庫)
アルトーのいう「残酷のなか」には「一種の高度な決定論があ」るとアルトー自身はよく認識している。むしろ最も深く認識していたのはアルトー自身に違いない。すべてがすでに形成事実として進行していくばかりの「決定論」と「必然論」に満ち、遂には「運命論」にまで達してしまっている世界。アルトーは自分自身で気づいていながらあえて絶望的地点から語っていたのだと言える。人間のすべての行動を根底から規定している言語的形而上学的構造(社会的文法)はすでに余りにも深く広く根を張っていた。それはもはや自然状態のレベルにさえ達していた。次のように。
「社会的生産関係とそれに対応する生産様式との基礎をなす自然発生的で未発達な状態にあっては、伝統が優勢な役割を演ぜざるをえないということは、明らかである。さらに、現存の事物を法律として神聖化し、またこの事物に慣習と伝統とによって与えられた制限を法的制限として固定することは、ここでもやはり社会の支配者的部分の利益になることだということも、明らかである。ほかのことはすべて別として、とにかく、こういうことは、現存状態の基礎つまりこの状態の根底にある関係の不断の再生産が時のたつにつれて規律化され秩序化された形態をとるようになりさえすれば、おのずから起きるのである。そして、この規律や秩序は、それ自身、どの生産様式にとっても、それが社会的な強固さをもち単なる偶然や恣意からの独立性をもつべきものならば、不可欠な契機なのである。これこそは、それぞれの生産様式の社会的確立の形態であり、したがってまた単なる恣意や偶然からのその相対的な解放の形態である。どの生産様式も、生産過程やそれに対応する社会的関係が停滞状態にある場合には、それ自身の単なる反復的再生産によってこの形態に到達する。この形態がしばらく持続すれば、それは慣習や伝統として確立され、ついには明文化された法律として神聖化される」(マルクス「資本論・第三部・第六篇・第四十七章・P.296」国民文庫)
アルトーはいう。
「作用するものはすべて残酷である」(アルトー「演劇と残酷」『演劇とその分身・P.137』河出文庫)
たぶんそうだ。現代社会は常にこの種の残酷さをこうむっているばかりか逆に率先してこの方向を、ますます残酷になる現実社会を、わざわざ自分自身の手で加速的に推し進めている。ただ単に残酷だというのでなく、事態はますます洗練されたものへ変化している。現代社会の言語的形而上学(社会的文法)がアルトーの時代を越えてどれほど残酷化したか。実際、繰り返し洗練されてきた残酷さはもはや残酷に見えないほど洗練されたものになってしまった。ほとんど誰もそこにある「不思議なものを不思議だ」とおもわないまでに達している。
「私たちは、後を追って継起する規則的なものに馴れきってしまったので、《そこにある不思議なものを不思議がらないのである》」(ニーチェ「権力への意志・下巻・六二〇・P.153」ちくま学芸文庫)
にもかかわらずそれは底無しであるというのに。
「超越論的探求の特性は、好きなときにやめることができないという点にある。根拠を規定するにあたって、さらなる彼岸へと、根拠が出現してくる無底のなかへと、急き立てられずにいることなどどうしてできよう」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.173」河出文庫)
ここで言われている「超越論的探求」はヘーゲルのいう「絶対精神」でありマルクスのいう「物質的生産力」である。そしてその特性は「好きなときにやめることができないという点にある」。アルトーにはもう進む道程はないのか。デリダはアルトーに不可能という宣告を下して去っただけなのか。そうではない。デリダはアルトーの方法に対して不可能を宣告したが、アルトーが目指したことはまったく救いようのないほど不可能だといっているわけではない。むしろアルトーは残酷演劇という新しい演劇手法の提唱によって、欧米形而上学を支配してきた限界点(リミット)の指摘に成功した。欧米の形而上学に向けて避けて通れない問題を投下した。その点で注意深く拾っていくべきところは幾らでも出現してくる。しかしそのすべてを類別するだけでは形而上学による形而上学的類別という空虚な反復に過ぎなくなってしまう。そこでデリダは考える。アルトーに従う限りアルトーが直面したパラドックスを突破することは不可能である。したがってアルトーに対して誠実であることはできない。けれどもアルトーに対して不誠実になることは現状追認する傍観者の態度でしかない。「いじめる/いじめられる」関係において、いじめる側の好き放題を見て見ぬふりする傍観者の態度と違わない。どうしたらよいのか。救いようのないほどステレオタイプ化してしまった単なる演劇/舞台を再生産してどこまでも現状追認することで演劇が演劇自身を殺害するままに任せてしまうか、それともステレオタイプな次元とはまた別様の異なる次元を注意深く模索しつつ、アルトーに対して誠実であることで欧米中心主義的形而上学のパラドックスにおちいることなく、少なくともアルトーの試みに対して不誠実にならない可能性を見出すことはできないだろうかとデリダはいう。アルトーへの誠実さは形而上学的パラドックスという転倒を招く。そうではなく、少なくともアルトーに対して不誠実にならない主題の探究はまだまだ可能ではないだろうか。「次元の移動」と「移動した次元」の《あいだ》で生じる《形而上学の抹殺》ーーーニーチェが《祝祭》という意味でのーーーは可能ではないのかと。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM