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白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

言語化するジュネ/流動するアルトー82

2020年01月08日 | 日記・エッセイ・コラム
喪の作業はいつどのようにして終わるのか。ジャンは姿形を様々に変化させて出現する。ジャンの死から始まった小説の中でジャンはこれまでバリエーション豊かに駆使された言語の手品によって、エリックに、ポーロに、リトンに、ピエロに、ジュネ自身にもなって出現してきた。路上に打ち捨てられた種々の残骸にもなる。その一つ一つが次々とジャンになる。「柊の木」にもなる。小説の前半でそうなったように、小説の後半もとうに半ばを過ぎて、再び「柊の木」として出現する。

「今日いちにちきみがそれに姿を変えた柊の木にたいして私はなにをしてやれるのか?」(ジュネ「葬儀・P.338」河出文庫)

なぜ「柊」なのか。柊には棘がある。薔薇がそうであるように。しかし死体となって横たわっているばかりのジャンはもう二度と薔薇になることはない。死体はただ腐敗し、微生物によって解体され、再びどこかの公園にでも降り注ぐことがあれば、そのときは思いがけない肥料として化学合成を果たし、とびきり真っ赤な薔薇の花びらとして再生されることがあるかもしれない。

「以前ならきみのやさしい頬をそれでもって愛撫したことだろう。とげの先はきみの皮膚や髪の毛の中に食い入り、きみの呼吸を引き裂き、柊の枝はおそらくそこにぶらさがったことだろう。今日は私はきみに触れる勇気がない。きみの不動性そのものが空間を引っ掻くからだ」(ジュネ「葬儀・P.338」河出文庫)

ジュネの視線の先にはいつもジャンがいる。生成変化する強度として何ものにでも《なる》ジャンがいる。それは時として「舗道ぎわの芥箱でもあ」る。

「その固い、ニスを塗ったみたいに光る葉っぱは、邪険の色をそなえている。きみを芥(ごみ)箱に捨てるにも私は手袋をはめねばならない。だってきみはまた、しばしの間、ビンのかけらや、卵の殻や、しめったパンの皮や、葡萄酒や、抜け毛や、上の階のご馳走の名残りである骨や、葱の切れはしなど、屑の山であふれた、舗道ぎわの芥箱でもあったから」(ジュネ「葬儀・P.338」河出文庫)

というふうに変化するわけだが、しかしなぜ、いったい何が語るのか。語っているのは「誰」なのか。このシーンでジュネが発揮している甘美なセンチメンタリズムを排してフーコーから引いておこう。

「ニーチェにとって問題は、善と悪がそれじたい何であるかではなく、自身を指示するため《アガトス》、他者を指示するため《デイロス》と言うとき、だれが指示されているか、というよりはむしろ、《だれが語っているのか》、知ることであった。なぜなら、言語(ランガージュ)全体が集合するのは、まさしくそこ、言説(ディスクール)を《する》者、より深い意味において、言葉(パロール)を《保持する》者のなかにおいてだからだ。だれが語るのか?というこのニーチェの問いにたいして、マラルメは、語るのは、その孤独、その束の間のおののき、その無のなかにおける語そのものーーー語の意味ではなく、その謎めいた心もとない存在だ、と述べることによって答え、みずからの答えを繰り返すことを止めようとはしない。ーーーマラルメは、言説(ディスクール)がそれ自体で綴られていくような<書物>の純粋な儀式のなかに、執行者としてしかもはや姿を見せようとは望まぬほど、おのれ固有の言語(ランガージュ)から自分自身をたえず抹殺しつづけたのである」(フーコー「言葉と物・P.324~325」新潮社)

「《ἐσθλός》(エストロス)という語は語根から言えば、《存在する者》、実在性をもつ者、現実的な者、真実な者を意味する。やがて主観的転意によって、『真実な者』は『誠実な者』を意味するようになる。概念変化のこの位相において、この語は貴族の合言葉となり、『高貴な』という意味にすっかり移行し、テヘオグニスが取り上げて描いているような《嘘つき》で卑俗な者からの区別を示すためのものとなる。ーーーそれで結局この語は、貴族の没落以後は、単に精神的な《高貴性》(ノブレス)を表示するものとして残り、いわば熟して甘くなってしまった。ーーー《δειλός》(デイロス=臆病な)という語は《ἀγαθός》(アガトス=よい、優れた)に対立する平民を指す」(ニーチェ「道徳の系譜・P.27」岩波文庫)

ここでニーチェが述べていることは、世の中には貴族と低俗とがあるということではまったくない。ニーチェは始めから言語に狙いをつけている。言語に狙いをつけることから始めた。強調されていることは、言語はいつでも、その価値部分〔意味〕を置き換えることができ、実際に置き換えられてきたという見誤りようのない歴史である。ただ単に一つの語彙だけを取り上げてみても言語はけっして一対一対応を堅持してきたわけではない。一対一対応という形式は近代社会の出現以降、むしろ積極的に放棄されている。では小説や詩や思想の次元においてなら事情は変わるだろうか。それとも変わらないだろうか。

「《口をつぐむ》。ーーー作者たるものは、その作品が語り出すとき、口をつぐまねばならぬ」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・一四〇・P.108」ちくま学芸文庫)

要するに作者とその作品とは始めから切り離されていると言える。もし作品が提出された後に作者がその作品について何か言ったとする。ところがそれは注釈というより遥かに新しく提出された象形文字として、「あとになって」、立ち働いてしまう。

「価値の額(ひたい)に価値とはなんであるかが書いてあるのではない。価値は、むしろ、それぞれの労働生産物を一つの社会的な象形文字にするのである。あとになって、人間は象形文字の意味を解いて彼ら自身の社会的な産物の秘密を探りだそうとする。なぜならば、使用対象の価値としての規定は、言語と同じように、人間の社会的な産物だからである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.138」国民文庫)

というふうに。機銃掃射で射殺されたときにジャンが見せた姿形は、また別の姿形(塵箱)へ変化して出現する。

「ぶちまけられた灰のなかに鎮座した、その芥箱の下まで、縁(へり)ごしに、萎れた菊の花の紫が氾濫し、なかの一つがこの特権的芥箱の脇腹を染め、穴をうがち、痛手を負わせ、豪奢な勲章の一種で飾り立てていた」(ジュネ「葬儀・P.338」河出文庫)

機銃掃射による血の「氾濫」から「萎れた菊の花の紫」の「氾濫」へのアナロジー(類似、類推)を経て、ジャンは「特権的芥箱」として「脇腹を染め」、「痛手を負」い、「豪奢な勲章の一種で飾り立て」られつつジュネを見つめ返すのだ。

さて、アルトー。ヘリオガバルスは皇帝として奇妙な平衡感覚を持っている。その実現に取り組む。

「いつも彼は、王について彼が抱いている観念に、彼の施し物への気前よさを匹敵させようと欲している」(アルトー「ヘリオガバルス・P.196」河出文庫)

皇帝はいかなる「気前よさ」を披露して見せつけなければならないか。繰り返されるヘリオガバルス固有の過剰は、ただ観念的次元においてだけでなく、物質と強度とからなる実現された過剰として導入され実際に創設される。

「彼は騾馬の代わりに象を、犬の代わりに馬を、野生猫しか置かないはずのところにライオンを、立ち合いの子供たちの行列しか予想できなかったところに聖職者の踊り子たちの一団をまるまる据える」(アルトー「ヘリオガバルス・P.196~197」河出文庫)

平衡感覚は、儀式のために要求される政府高官の去勢された大量の男性器を惜しげもなく生贄に供する残酷さと、並行して露出するローマ市民に対する憐憫によって達成される。一方で高級官僚へ向けられる残酷さがあり、もう一方でローマ市民へ向けられる憐憫がある。ところがこの平衡感覚は両者を意図的に天秤に掛けて釣り合わせるのではなく、ヘリオガバルスが考える秩序の思想から生じる統一性として出現する。この統一性はそもそも増殖するアナーキーという諸力の流動性が見た目にはなるほど無秩序的なものに見えてはいてもけっして偶然的なものでなく逆に必然的なものであることの疑えない証拠として作用する。

「いたるところに豊かさ、過剰、豊富さ、極端さがある。気前のよさと最も純粋な憐憫が、痙攣性の残酷さと釣り合いをとろうとする」(アルトー「ヘリオガバルス・P.197」河出文庫)

多種多様に増殖し無限に分裂を繰り返す諸力のアナーキーな全運動をそのまま丸ごと世界の統一性として捉えること。と言ってしまうと何か大袈裟に聞こえるかもしれない。ところが繰り返し洗練を経てきた現代社会ではもはや常識として誰もが信じて疑わず日々淡々と従事している作業の総体に過ぎない。端的にいうと、資本主義がそれだ。

さらに。アルトーが演劇において目指す人間の身体の力の拡張。それはまず固定されステレオタイプ化された有機体としての身体からの脱却あるいは生成変化を目指すことになる。

「このことは、人間と人間の力能のいつもの限界化を拒絶するように仕向け、そして現実と呼ばれるものの境界を無限に広げるように仕向ける」(アルトー「演劇と文化」『演劇とその分身・P.18』河出文庫)

次の一節は世界総体が常に増大する力の流動状態にあるということ以外のことを言い現わすものではない。神秘主義的な部分などかけらもない。

「演劇によって一新された生の意味を信じなければならないし、そこでは大胆不敵にも人間は、いまだ存在しないものの主人となり、それを誕生させる。そして生まれていないものすべては、われわれが単なる記録装置のままであることに満足さえしなければ、生まれることができる」(アルトー「演劇と文化」『演劇とその分身・P.18』河出文庫)

ごく単純化して述べることができる。といってもすでにニーチェによって暴き立てられた、どこにでも見かけることができる単純この上ない事情に過ぎないが。しかしもしそうでなければ世界において世界そのものの可変性が生じてくることはできなかったことは確かだ。

「人間は諸力の一個の数多性なのであって、それらの諸力が一つの位階を成しているということ、したがって、命令者たちが存在するのだが、命令者も、服従者たちに、彼らの保存に役立つ一切のものを調達してやらなくてはならず、かくして命令者自身が彼らの生存によって《制約されて》いるということ。これらの生命体はすべて類縁のたぐいのものでなくてはならない、さもなければそれらはこのようにたがいに奉仕し合い服従し合うことはできないことだろう。奉仕者たちは、なんらかの意味において、服従者でもあるのでなくてはならず、そしていっそう洗練された場合にはそれらの間の役割が一時的に交替し、かくて、いつもは命令する者がひとたびは服従するのでなくてはならない。『個体』という概念は誤りである。これらの生命体は孤立しては全く現存しない。中心的な重点が何か可変的なものなのだ。細胞等々の絶えざる《産出》がこれらの生命体の数を絶えず変化させる」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三四・P.361~362」ちくま学芸文庫)

各瞬間ごとに流動して止まない「力の移動/移動の力」は文字通り各瞬間ごとに固有の強度として瞬発する。ところが人間はそれらを瞬発あるいは閃光としてしか認識することができない。事実、それら強度としての瞬発あるいは閃光は形式化による固定によって捉えることはできない。むしろ逆に常に「活動的」である限り次々と消滅していく。言い換えれば「壊れやす」い。

「それにまた、生という言葉を口にするとき、問題となっているのは事実の外側から識別される生のことではないと理解しなければならないが、しかしそれは、諸々の形式が触れることのない、こういった壊れやすく活動的な源なのである」(アルトー「演劇と文化」『演劇とその分身・P.18』河出文庫)

ところが、この「壊れやすさ」はしかし「変容」を言い換えたに過ぎない。アルトーのいう「生」はどんどん変化する。実際、「活動的」でいつも変化している物質と強度との奇妙な合成物(モンタージュ)である。自分で自分自身をアレンジメントしていく。生という名の変化に継ぐ変化のアナーキー的増殖。だがそれは何ら驚くべきことでなく、むしろ身近なもの、資本主義的柔軟性を意味する。その意味で有機体からの脱却は社会的有機体からの脱却でもある。

さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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