特効薬のない時代。熊楠は年代の異なる二つの事例を上げている。
「今日とても神戸などには、外国船が着くと売淫に舟へゆく少年、青年多しとのこと、前年(大正七、八年)の『大毎』で見及び候。黴毒を伝うること女より少なしとて、これをのみ好むもの多し、とありし(実は支那で申す楊梅痘で、男色よりも生ずる黴毒はあるなり。明治十四、五年ごろ、横浜で外人にのみ売色して黴毒で死せし嵐大枝〔だいし〕)という女形役者ありし)」(南方熊楠「直江兼続と上杉景勝、大若衆のこと、その他」『浄のセクソロジー・P.382』河出文庫)
それでも性愛は国境を越えるというべきか。そうではない。越えるのではなくて、性愛は、それ自身の力で極限〔境界線〕を押し除け置き換え再極限化〔境界再編〕するのである。
「資本の身体は、脱土地化した社会体ではあるものの、同時にまた他の一切の社会体よりも情け容赦のない社会体でさえもある。資本主義の採用した公理系は、種々の流れのエネルギーを、こうした社会体としての資本の身体の上で束縛された状態に維持するものなのである。これとは逆に、分裂症はまさに《絶対的な》極限であり、この極限においては、種々の流れは、脱社会化した器官なき身体の上の自由な状態に移行することになる。だから、こういうことができる。分裂症は資本主義そのものの《外なる》極限、つまり資本主義自身の最も深い傾向のゆきつく終着点であるが、資本主義は、この傾向をみずからに禁じ、この極限を押しのけおきかえて、これを自分自身の相対的な《内在的な》極限に(つまり、拡大する規模において、自分が再生産することをやめない極限に)代えるのだ、と」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.294~295」河出書房新社)
さらに。
「例えば、古代帝国の大土木工事、都市や農村の給水工事であり、そこでは平行と見なされる区画により、水は『短冊状』に流される(条里化)。ーーー現代の公共工事は、古代帝国の大土木工事と同じ地位を持っていない。再生産に必要な時間と『搾取される』時間が時間として分離されなくなっている以上、どのようにして二つを区別できるのだろう。こう言ったとしても、決してマルクスの剰余価値の理論に反するものではない。なぜならまさにマルクスこそ、資本主義体制においてはこの剰余価値が《位置決定可能なものでなくなる》ことを示しているのだから。これこそがマルクスの根本的な成果なのである。だからこそマルクスは、機械はそれ自体、剰余価値を産み出すものとなり、資本の流通は、可変資本と不変資本の区別を無効にするようになると予知しえた。このような新しい条件のもとでも、すべての労働は余剰労働であることに変わりはない。だが、余剰労働はもはや労働さえ必要としなくなってしまう。余剰労働、そして資本主義的組織の総体は、徐々に労働の物理的社会的概念に対応する時空の条理化とは無縁になってきている。むしろ、余剰労働そのものにおいて、かつての人間の疎外は『機械状隷属』によって置き換えられ、任意の労働とは独立に、剰余価値が供給されるようになっている(子供、退職者、失業者、テレビ視聴者など)。こうして使用者が被雇用者になる傾向があるだけでなく、資本主義は、労働の量に対して作用するよりも、複雑な質的過程に対して作用するのであり、この過程は、交通手段、都市のモデル、メディア、レジャー産業、知覚や感じ方、これらすべての記号系にかかわるものとなっている。あたかも、資本主義が比類ない完璧さに到らせた条理化の果てで、流動する資本が、人間の運命を左右することになる一種の平滑空間を、もう一度必然的に創造し構築しているかのようだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.281~282」河出文庫)
二〇二〇年アメリカ大統領選挙報道はちょこちょこ見ていたが結果的には資本主義がどう動かすか、が問題であって、資本主義左派(民主党)と資本主義右派(共和党)内部の過激分子(トランプ陣営)とのつばぜり合いをこれ以上追ってみても時間と税金の無駄ばかり増大していきそうな印象である。アメリカはいつまでも天狗になってユートピアばかり夢見ているわけにはいかなくなってきた。そういうことだろうか。要するにEUやロシア、中国、アフリカ、そして無責任極まりない態度で放ったらかしにしてきた挙句、泥沼状態の南米に対する責任ある政策論争とともに、とうとう土俵入りしなくてはならなくなってきたということだけは見えてきたように思える。
しかし「見た目」だけで動植物の何がどうわかるというのか。熊楠はそういっている。
「粘菌が原形体として朽木枯葉を食いまわること(イ)やや久しくして、日光、日熱、湿気、風等の諸因縁に左右されて、今は原形体で止まり得ず、(ロ)原形体がわき上がりその原形体の分子どもが、あるいはまずイ’なる茎(くき)となり、他の分子どもが茎をよじ登りてロ’なる胞子となり、それと同時にある分子どもが(ハ)なる胞壁となりて胞子を囲う。それと同時にまた(ニ)なる分子どもが糸状体となって茎と胞子と胞壁とをつなぎ合わせ、風等のために胞子が乾き、糸状体が乾きて折れるときはたちまち胞壁破れて胞子散飛し、もって他日また原形体と化成して他所に蕃殖するの備えをなす。かく出来そろうたを見て、やれ粘菌が生えたといいはやす。しかるに、まだ乾かぬうちに大風や大雨があると、一旦、茎、胞壁、胞子、糸状体となりかけたる諸分子がたちまちまた跡を潜めてもとの原形体となり、災害を避けて木の下とか葉の裏に隠れおり、天気が恢復すればまたその原形体が再びわき上がりて胞囊を作るなり。原形体は活動して物を食いありく。茎、胞囊、胞子、糸状体と化しそろうた上は少しも活動せず。ただ後日の蕃殖のために胞子を擁護して、好機会をまちて飛散せしめんとかまうるのみなり。故に、人が見て原形体といい、無形のつまらぬ痰(たん)様の半流動体と蔑視さるるその原形体が活物で、後日蕃殖の胞子を護るだけの粘菌は実は死物なり。死物を見て粘菌が生えたと言って活物と見、活物を見て何の分職もなきゆえ、原形体は死物同然と思う人人間の見解がまるで間違いおる。すなわち人が鏡下にながめて、それ原形体が胞子を生じた、それ胞壁を生じた、それ茎を生じたと悦ぶは、実は活動する原形体が死んで胞子や胞壁に固まり化するので、一旦、胞子、胞壁に固まらんとしかけた原形体が、またお流れになって原形体に戻るのは、粘菌が死んだと見えて実は原形体となって活動を始めたのだ。今もニューギニア等の土蕃は死を哀れむべきこととせず、人間が卑下の現世を脱して微妙高尚の未来世に生するのを一段階に過ぎずとするも、むやみに笑うべきでない」(南方熊楠「浄愛と不浄愛、粘菌の生態、幻像、その他」『浄のセクソロジー・P.335~337』河出文庫)
さて、熊楠の愛読書「御伽草子」から。今度は「猫(ねこ)の草子」を取り上げたいと思う。
「慶長(けいちやう)七年、八月中旬(ちうじゆん)に、洛中(らくちう)に猫(ねこ)の綱(つな)を解(と)きて放(はな)ち給ふべき御沙汰(さた)あり」(日本古典文学体系「猫のさうし」『御伽草子・P.297』岩波書店)
一六〇二年(慶長七年)。実際に施行された法令である。洛中のすべての飼い猫に関し、第一に「猫の綱を解き、放し飼いにすべし」。第二に「猫の売買の全面的禁止」。違反者は重罪に処す、とのこと。当時の挿画を見ると、白昼堂々、〔虎猫と思われる〕猫が道の真ん中を気持ちよさそうに散歩している。ただし首輪を付けている。「名札」のことだろう。
「面々(めんめん)秘蔵(ひそう)せし猫(ねこ)どもに札(ふだ)をつけて、放(はな)ち申せば、猫(ねこ)なのめならずに喜(よろこ)うで、ここかしこにとびまはること、遊山(ゆさん)といひ、鼠(ねずみ)をとるにたより有(あ)り」(日本古典文学体系「猫のさうし」『御伽草子・P.298』岩波書店)
どうなるだろうか。鼠は怖れてゆっくり寝ることもままならず四六時中不安で一杯になる。この法令に戦慄した。何とかして生き延びていく方法を練り上げなければならない。或る日の夜、上京(かみぎょう)辺りに住む僧侶の夢に僧侶姿の鼠が現れる。直訴にやって来たのだ。上京の僧侶というのは常日頃から「大日如来」(だいにちにょらい)の再来とまで言えような絶大な尊敬を受けている出家者だった。夢に鼠が出てきたといっても全然慌てないで話に耳を傾けてやる。ところで前提として、猫は猫でも「面々(めんめん)秘蔵(ひそう)せし猫(ねこ)ども」とあるのはどういう意味でなのか、という点だ。江戸時代に入ってなお、「枕草子」とか「源氏物語」とかで描かれたように、ごく一部の猫は高級な愛玩動物だった。そのような場合、飼い主らは資産家が多く、室内飼いするケースが常だった。だから資産家の飼う高級な猫は闇ルートを通した盗品売買の対象となっており、鼠だけでなく高級種の飼い主らにとっても外で放し飼いにするのは不安だったという事情がある。次回から話を追いつつ考えてみたいと思う。
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「今日とても神戸などには、外国船が着くと売淫に舟へゆく少年、青年多しとのこと、前年(大正七、八年)の『大毎』で見及び候。黴毒を伝うること女より少なしとて、これをのみ好むもの多し、とありし(実は支那で申す楊梅痘で、男色よりも生ずる黴毒はあるなり。明治十四、五年ごろ、横浜で外人にのみ売色して黴毒で死せし嵐大枝〔だいし〕)という女形役者ありし)」(南方熊楠「直江兼続と上杉景勝、大若衆のこと、その他」『浄のセクソロジー・P.382』河出文庫)
それでも性愛は国境を越えるというべきか。そうではない。越えるのではなくて、性愛は、それ自身の力で極限〔境界線〕を押し除け置き換え再極限化〔境界再編〕するのである。
「資本の身体は、脱土地化した社会体ではあるものの、同時にまた他の一切の社会体よりも情け容赦のない社会体でさえもある。資本主義の採用した公理系は、種々の流れのエネルギーを、こうした社会体としての資本の身体の上で束縛された状態に維持するものなのである。これとは逆に、分裂症はまさに《絶対的な》極限であり、この極限においては、種々の流れは、脱社会化した器官なき身体の上の自由な状態に移行することになる。だから、こういうことができる。分裂症は資本主義そのものの《外なる》極限、つまり資本主義自身の最も深い傾向のゆきつく終着点であるが、資本主義は、この傾向をみずからに禁じ、この極限を押しのけおきかえて、これを自分自身の相対的な《内在的な》極限に(つまり、拡大する規模において、自分が再生産することをやめない極限に)代えるのだ、と」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.294~295」河出書房新社)
さらに。
「例えば、古代帝国の大土木工事、都市や農村の給水工事であり、そこでは平行と見なされる区画により、水は『短冊状』に流される(条里化)。ーーー現代の公共工事は、古代帝国の大土木工事と同じ地位を持っていない。再生産に必要な時間と『搾取される』時間が時間として分離されなくなっている以上、どのようにして二つを区別できるのだろう。こう言ったとしても、決してマルクスの剰余価値の理論に反するものではない。なぜならまさにマルクスこそ、資本主義体制においてはこの剰余価値が《位置決定可能なものでなくなる》ことを示しているのだから。これこそがマルクスの根本的な成果なのである。だからこそマルクスは、機械はそれ自体、剰余価値を産み出すものとなり、資本の流通は、可変資本と不変資本の区別を無効にするようになると予知しえた。このような新しい条件のもとでも、すべての労働は余剰労働であることに変わりはない。だが、余剰労働はもはや労働さえ必要としなくなってしまう。余剰労働、そして資本主義的組織の総体は、徐々に労働の物理的社会的概念に対応する時空の条理化とは無縁になってきている。むしろ、余剰労働そのものにおいて、かつての人間の疎外は『機械状隷属』によって置き換えられ、任意の労働とは独立に、剰余価値が供給されるようになっている(子供、退職者、失業者、テレビ視聴者など)。こうして使用者が被雇用者になる傾向があるだけでなく、資本主義は、労働の量に対して作用するよりも、複雑な質的過程に対して作用するのであり、この過程は、交通手段、都市のモデル、メディア、レジャー産業、知覚や感じ方、これらすべての記号系にかかわるものとなっている。あたかも、資本主義が比類ない完璧さに到らせた条理化の果てで、流動する資本が、人間の運命を左右することになる一種の平滑空間を、もう一度必然的に創造し構築しているかのようだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.281~282」河出文庫)
二〇二〇年アメリカ大統領選挙報道はちょこちょこ見ていたが結果的には資本主義がどう動かすか、が問題であって、資本主義左派(民主党)と資本主義右派(共和党)内部の過激分子(トランプ陣営)とのつばぜり合いをこれ以上追ってみても時間と税金の無駄ばかり増大していきそうな印象である。アメリカはいつまでも天狗になってユートピアばかり夢見ているわけにはいかなくなってきた。そういうことだろうか。要するにEUやロシア、中国、アフリカ、そして無責任極まりない態度で放ったらかしにしてきた挙句、泥沼状態の南米に対する責任ある政策論争とともに、とうとう土俵入りしなくてはならなくなってきたということだけは見えてきたように思える。
しかし「見た目」だけで動植物の何がどうわかるというのか。熊楠はそういっている。
「粘菌が原形体として朽木枯葉を食いまわること(イ)やや久しくして、日光、日熱、湿気、風等の諸因縁に左右されて、今は原形体で止まり得ず、(ロ)原形体がわき上がりその原形体の分子どもが、あるいはまずイ’なる茎(くき)となり、他の分子どもが茎をよじ登りてロ’なる胞子となり、それと同時にある分子どもが(ハ)なる胞壁となりて胞子を囲う。それと同時にまた(ニ)なる分子どもが糸状体となって茎と胞子と胞壁とをつなぎ合わせ、風等のために胞子が乾き、糸状体が乾きて折れるときはたちまち胞壁破れて胞子散飛し、もって他日また原形体と化成して他所に蕃殖するの備えをなす。かく出来そろうたを見て、やれ粘菌が生えたといいはやす。しかるに、まだ乾かぬうちに大風や大雨があると、一旦、茎、胞壁、胞子、糸状体となりかけたる諸分子がたちまちまた跡を潜めてもとの原形体となり、災害を避けて木の下とか葉の裏に隠れおり、天気が恢復すればまたその原形体が再びわき上がりて胞囊を作るなり。原形体は活動して物を食いありく。茎、胞囊、胞子、糸状体と化しそろうた上は少しも活動せず。ただ後日の蕃殖のために胞子を擁護して、好機会をまちて飛散せしめんとかまうるのみなり。故に、人が見て原形体といい、無形のつまらぬ痰(たん)様の半流動体と蔑視さるるその原形体が活物で、後日蕃殖の胞子を護るだけの粘菌は実は死物なり。死物を見て粘菌が生えたと言って活物と見、活物を見て何の分職もなきゆえ、原形体は死物同然と思う人人間の見解がまるで間違いおる。すなわち人が鏡下にながめて、それ原形体が胞子を生じた、それ胞壁を生じた、それ茎を生じたと悦ぶは、実は活動する原形体が死んで胞子や胞壁に固まり化するので、一旦、胞子、胞壁に固まらんとしかけた原形体が、またお流れになって原形体に戻るのは、粘菌が死んだと見えて実は原形体となって活動を始めたのだ。今もニューギニア等の土蕃は死を哀れむべきこととせず、人間が卑下の現世を脱して微妙高尚の未来世に生するのを一段階に過ぎずとするも、むやみに笑うべきでない」(南方熊楠「浄愛と不浄愛、粘菌の生態、幻像、その他」『浄のセクソロジー・P.335~337』河出文庫)
さて、熊楠の愛読書「御伽草子」から。今度は「猫(ねこ)の草子」を取り上げたいと思う。
「慶長(けいちやう)七年、八月中旬(ちうじゆん)に、洛中(らくちう)に猫(ねこ)の綱(つな)を解(と)きて放(はな)ち給ふべき御沙汰(さた)あり」(日本古典文学体系「猫のさうし」『御伽草子・P.297』岩波書店)
一六〇二年(慶長七年)。実際に施行された法令である。洛中のすべての飼い猫に関し、第一に「猫の綱を解き、放し飼いにすべし」。第二に「猫の売買の全面的禁止」。違反者は重罪に処す、とのこと。当時の挿画を見ると、白昼堂々、〔虎猫と思われる〕猫が道の真ん中を気持ちよさそうに散歩している。ただし首輪を付けている。「名札」のことだろう。
「面々(めんめん)秘蔵(ひそう)せし猫(ねこ)どもに札(ふだ)をつけて、放(はな)ち申せば、猫(ねこ)なのめならずに喜(よろこ)うで、ここかしこにとびまはること、遊山(ゆさん)といひ、鼠(ねずみ)をとるにたより有(あ)り」(日本古典文学体系「猫のさうし」『御伽草子・P.298』岩波書店)
どうなるだろうか。鼠は怖れてゆっくり寝ることもままならず四六時中不安で一杯になる。この法令に戦慄した。何とかして生き延びていく方法を練り上げなければならない。或る日の夜、上京(かみぎょう)辺りに住む僧侶の夢に僧侶姿の鼠が現れる。直訴にやって来たのだ。上京の僧侶というのは常日頃から「大日如来」(だいにちにょらい)の再来とまで言えような絶大な尊敬を受けている出家者だった。夢に鼠が出てきたといっても全然慌てないで話に耳を傾けてやる。ところで前提として、猫は猫でも「面々(めんめん)秘蔵(ひそう)せし猫(ねこ)ども」とあるのはどういう意味でなのか、という点だ。江戸時代に入ってなお、「枕草子」とか「源氏物語」とかで描かれたように、ごく一部の猫は高級な愛玩動物だった。そのような場合、飼い主らは資産家が多く、室内飼いするケースが常だった。だから資産家の飼う高級な猫は闇ルートを通した盗品売買の対象となっており、鼠だけでなく高級種の飼い主らにとっても外で放し飼いにするのは不安だったという事情がある。次回から話を追いつつ考えてみたいと思う。
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