白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/聖(ひじり)の条件・身代り交換可能性

2020年11月17日 | 日記・エッセイ・コラム
源氏物語にある通り、光源氏は「わらわ病」を患ったことがある。俗にいう「瘧(おこり)」。マラリアの一種に分類される。そこで京の「北山」に「かしこきおこなひ人侍る」と聞いて訪ねてみることにする。

「北山になむなにがし寺といふ所にかしこきおこなひ人侍る」(新日本古典文学大系「若紫」『源氏物語1・P.152』岩波書店)

描写から推定すると「かしこきおこなひ人」は「聖(ひじり)」として信奉されているようだ。本文にも「聖(ひじり)」とある。

「やや深(ふか)う入(い)る所なりけり。三月のつごもりなれば、京の花盛(ざか)りはみな過(す)ぎにけり、山(やま)の桜(さくら)はまだ盛(さか)りにて、入(い)りもておはするままに、霞(かすみ)のたたずまひもをかしう見(み)ゆれば、かかるありさまもならひ給はず、ところせき御身にて、めづらしうおぼされけり。寺のさまもいとあはれなり。峰高(みねたか)く深(ふか)き岩(いは)の中にぞ聖(ひじり)入(い)りゐたりける」(新日本古典文学大系「若紫」『源氏物語1・P.152』岩波書店)

北山の奥深く。「峰高(みねたか)く深(ふか)き岩(いは)の中」に聖はいた。聖はいつもそのような場に出現する。仏教者として始めたのかもしれないが、年月を経るうちに修験者に近い聖者と化した。そう言えるかもしれない。比丘尼は女性だが夫がいることは柳田國男が述べている。

「歌比丘尼の本国は熊野であったと申します。中には旅先で弟子を取り、または町中に住居を定めた者も多かったようですが、少なくとも年に一度は、還るといって熊野に往復しました。媚(こび)をひさぐような境遇に落ちた比丘尼までが、熊野の牛王札(ごおうふだ)を売ると称して男の中に出入りし、箱には酢貝(すがい)という貝殻を入れて、土産と名づけて得意の家へ贈ったことが西鶴の小説などにあります。どうして熊野にばかり、このような特殊な職業婦人をたくさんに産するに至ったかはむつかしい問題ですが、本来この偏卑(へんぴ)な土地の信仰が、一時日本の隅々までも普及したのは、最初から神人の旅行ということが要素であったからで、永くその状態を続けていれば、後には故郷に不用なる人が多くなり、何としてなりとも外で生計を立てることが必要になったことかと思います。多くの熊野比丘尼には配偶者がいて、たいていは修験者(しゅげんじゃ)でありました。女の供給によって一山富むとさえいっていますが、彼等が正当の収入は遊芸の報酬ではなく、普通には勧進(かんじん)と称して、人に喜捨を勧めたのであります。神の社、仏の社、それから橋や山道の改修までも勧進し、後には伊勢の神宮の地にも来て住んで、ある時には大廟(だいびょう)造営のためにも働いています。こういう目的の比丘尼たちが国々をあるく場合に、歌にして聴かせた物語の種類が、一種や二種に限られていなかったのは、むしろ当然のことかと思います」(柳田國男「女性と民間伝承・熊野比丘尼」『柳田國男全集10・P.466~467』ちくま文庫)

比丘尼は勢力的に勧進を行った。

「艫(とも)に、年(とし)がまへなる親仁(おやじ)、居(ゐ)ながら、楫(かぢ)とりて、比丘尼(びくに)は、大かた、浅黄(あさぎ)の木綿布子(もめんぬのこ)に、竜門(りうもん)の中幅帯(ちうはばおび)、まへむすびにして、黒羽二重(くろはぶたへ)の、あたまがくし、深江(ふかゑ)の、お七ざしの加賀笠(かががさ)、うねたび、はかぬといふ事なし、絹(きぬ)のふたのの、すそみじかく、とりなり、ひとつに拵(こしら)へ、文臺(ぶんだい)に入れしは、熊野(くまの)の牛王(ごわう)、酢貝(すがい)、耳(みみ)がしましき四つ竹、小比丘尼(こびくに)に、定(さだ)まりての、一升(せう)びしやく、勧進(くはんじん)といふ声(こゑ)も、引(ひき)きらず、はやり節(ぶし)をうたひ、それに気(き)を取(と)り、外(ほか)より見るも、かまはず、元(もと)ぶねに乗(の)り移(うつ)り、分立(わけた)てて後(のち)、百つなぎの銭(ぜに)を、袂(たもと)へなげ入れけるも、おかし、あるはまた、割木(わりき)を、其あたひに取り、又は、さし鯖(さば)にも替(か)へ、同じ流(なが)れとはいひながら、是を思へば、すぐれて、さもしき業(わざ)なれども、昔日(そのかみ)より、此所(ところ)に目馴れて、おかしからず、人の行(ゆ)くすゑは、更(さら)にしれぬものぞ、我もいつとなく、いたづらの数(かず)つくして、今惜(お)しき黒髪(くろかみ)を剃(そ)りて、高津(たかつ)の宮(みや)の北(きた)にあたり、高原(たかはら)といへる町(まち)に、軒(のき)は笹(ささ)に葺(ふ)きて、幽(かすか)なる奥(おく)に、此道(みち)に身(み)をふれし、おりやうをたのみ、勤(つと)めてかくも、浅(あさ)ましく、なるものかな、雨(あめ)の日、嵐(あらし)のふく日にも、ゆるさず、かうした、あたま役(やく)に、白米(はくまい)一升(せう)に、銭(ぜに)五十、それより、しもづかたの、子(こ)共にも、定(さだ)めて、五合づつ、毎日(まいにち)、取(と)られければ、をのづと、いやしくなりて、むかしは、かかる事には、あらざりしに、近年(きんねん)、遊女(ゆうぢよ)のごとくなりぬ」(井原西鶴「調謔哥船(たはふれのうたぶね)」『好色一代女・卷三・P.107~111』岩波文庫)

声が出なくなるほど歌を歌い、精一杯勧進して諸国を廻った。

「熊野びくにが、身の一大事の地ごく極楽の絵図を拝ませ、又は息(いき)の根のつづくほどはやりうたをうたひ、勧進(くはんじん)をすれども、腰(こし)にさしたる一升びしやくに一盃(ぱい)はもらひかねける」(井原西鶴「才覚のぢくすだれ」『世間胸算用・巻五・P.147』角川文庫)

夫は何をしていたのか。比丘尼の夫はただ単純に比丘(びく)という。比丘(びく)は時として聖(ひじり)と呼ばれる。要するに、比丘(びく)の中で頭角を現わしてきた人物を指して周囲の人々は必然的に聖(ひじり)と呼んで崇め奉るようになる。単なる比丘(びく)が聖(ひじり)と化す条件とは何か。「今昔物語」に次の説話が載っている。

かつて近江国の三井寺に智興という高僧がいた。智興が聖になったわけではない。高僧はすでに押しも押されもしない地位にあった。問題はその弟子の一人である。智興が重病を患った時、なぜかはわからないが陰陽師の安倍晴明(あべのせいめい)が呼ばれた。晴明はいう。「太山府君(たいさんぶくん)」に病気平癒を祈ったとしても治癒は困難。しかし方法はある。重病人となった智興の「御代(かわり)」を差し出せば「太山府君(たいさんぶくん)」の利益が出現する。「太山府君」は「秦山府君」のこと。道教の神。「祭の都状(とじよう)」は秦山府君に奉る祭文。身代りを用意できれば「申代(もうしか)」を試みて、身代りは死ぬが智興を生かすことができると。

「此の病を占(うらな)ふに、極(きわめ)て重くして、譬(たと)ひ太山府君(たいさんぶくん)に祈請(きしよう)すと云とも、難叶(かないがた)かりなむ。但し、此の病者の御代(かわり)に一人の僧を出し給へ。然(さら)ば、其の人の名を祭の都状(とじよう)に注(しる)して、申代(もうしか)へ試みむ。不然(さらず)は更に力不及(およば)ぬ事也」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第二十四・P.105」岩波文庫)

当然といえばいえるかも知れないが弟子の誰一人として身代りを買って出る者はいない。と、これといって華々しい活躍を見せたことはなくただ年齢だけは食ってきた中年の弟子が身代りになると名乗り出た。中年になってこの先短いことはわかっているし、最後の奉公として身代りになるという。ついては「己を彼の祭の都状に注(しる)せ」と晴明に告げてその日はずっと一人で念仏を唱えることにした。

「年来(としごろ)其の事とも無くして相(あ)ひ副(そえ)る弟子有り。師も此(こ)れを懃(ねんごろ)にも不思(おもわ)ねば、身貧(まずし)くして壺屋住(つぼやずみ)にて有る者有りけり。此の事を聞て云く、『己れ年既に半ばに過ぬ。生(いき)たらむ事今幾(いまいくばく)に非ず。亦身貧(まずし)くして、此(これ)より後善根(ぜんこん)を修(しゆ)せむに不堪(たえ)ず。然れば、同(おなじ)く死(しに)たらむ事を、今師に替(かわり)て死なむ。と思ふ也。速(すみやか)に己を彼の祭の都状に注(しる)せ』」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第二十四・P.105」岩波文庫)

すると重病だった智興は死ぬどころか逆に治癒した。翌朝、安倍晴明が再びやって来て言った。

「師、今は恐れ不可給(たまうべから)ず。亦、『代らん』と云し僧も不可恐(おそるべから)ず。共に命を存する事を得たり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第二十四・P.106~107」岩波文庫)

智興師は治癒し、また、身代りを買って出た中年の僧侶も命に別状なく、二人ともども無事に済んだと。旧約聖書の一節に似たエピソードだがどちらにしても試されたのは信じる力である。

「アブラハムは燔祭の薪をとってその子イサクに背負わせ、手に火と刀をとり二人一緒に進んで行った。イサクがその父アブラハムに向かって、『お父さん』と言う。アブラハムは、『はい、わが子よ』と答える。イサクは言う、『火と薪の用意はあるのに、燔祭の子羊は何処にあるのです』。アブラハムは答えて言った、『神御自身が燔祭の子羊を備え給うだろう、わが子よ』。かくて二人はともに進んで行った。ついに彼らはアブラハムに言われたその場所に着いた。アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、その子イサクをしばって祭壇の薪の上においた。かくてアブラハムはその手を伸ばし、刀を執って、まさにその子をほふろうとした。その時ヤハウェの使いが天より彼に呼びかけて、『アブラハムよ、アブラハムよ』と言った。アブラハムは『はい、ここに』と言う。ヤハウェの使いが言われた、『君の手を子供に加えるな。彼に何もしてはいけない。というのは今こそわたしは君が神を畏れる者であることを知ったのだ。君は君の子、君の独子(ひとりご)をも惜しまずにわたしに献げようとしたからだ』。アブラハムが眼をあげて見ると、見よ、一匹の牡羊がいてやぶにその角がひっかかっていた。アブラハムは行ってその牡羊を備え、それをその子のかわりに燔祭(はんさい)として捧げた」(「創世記・第二十二章・P.59~60」岩波文庫)

なお「燔祭(はんさい)」は日本では余り聞き慣れない。翻訳すると「ホロコースト」。二十世紀になってナチスドイツがユダヤ教徒、反政府運動、共産主義者、社会主義者、そしてナチス政権にとって批判的な研究者などをあぶり出しガス室で皆殺しにした。その強烈さゆえホロコーストというと今ではナチス政権による大量殺戮を指すことが多いのだが、そもそもナチス党はその言葉をユダヤ教の聖典「旧約聖書」から借りてきた。

さて、聖(ひじり)のことを沙門(しゃもん)という場合もある。「日本霊異記」に出てくる「老僧観規(くわんき)」は沙門であり、さらにその言動から考察すると明らかに聖(ひじり)といってよいだろう。観規は「自性天年(うまれながら)にして雕巧(てうかう)を宗(むね)とせり」。先天的なアスペルガー症候群で特に彫刻に長けていたと。俗姓を持っていた。「三間名干岐(みまなのかぬき)」。任那(みまな)かと思われるが、違っていたとしても朝鮮半島の王族出身者であることは明白とされる。「干岐」(かぬき)は「旱支・旱岐」が正しい。古代朝鮮の王侯の通称。「紀伊国名草郡(きのくになくさのこほり)」は今の和歌山県海草郡。

「老僧観規(くわんき)は、俗姓を三間名干岐(みまなのかぬき)といひき。紀伊国名草郡(きのくになくさのこほり)の人なりき。自性天年(うまれながら)にして雕巧(てうかう)を宗(むね)とせり。有智(うち)の特業(とくごふ)にして、並(また)衆才を統(す)べたり。俗に著(つ)きて営農(なりはひ)をし、妻子を蓄(たくは)へ養ふ。先祖の造れる寺、名草郡の能応(のお)の村に有り。名をば弥勒(みろく)寺と曰(い)ひ、字(あざな)を能応寺(のおでら)と曰ふ」(「日本霊異記・下・沙門の功を積みて仏像を作り命終の時に臨みて異しき表を示しし縁 第三十・P.208」講談社学術文庫)

宝亀十年(七七九年)、丈六(一丈六尺)の釈迦像とその脇士(文殊菩薩・普賢菩薩)を仕上げる。さらに十一面観音像を彫ろうとするが「八十有余歳」という老齢のため途中で作業中断に追い込まれた。それが「山部(やまべ)の天皇のみ代の延暦元年の癸亥(みづのとゐ)」。

「又願を発(おこ)して、十一面観音菩薩の木造高さ十尺許(ばかり)なるを雕(ゑ)り造り、半(なかば)造りて未(いま)だ畢(をは)らず。縁(えに)小(すくな)く年を歴(へ)て、老耄(らうまう)して力弱りぬ。自(みづか)ら彫(ゑ)ること得ず。爰(ここ)に老僧八十有余歳の時を以て、長岡の宮に大八嶋国(おほやしまのくに)御宇(をさ)めたまひし山部(やまべ)の天皇のみ代の延暦元年の癸亥(みづのとゐ)の春の二月十一日に、能応寺(のおでら)に臥して命終(みやうじゆ)しぬ」(「日本霊異記・下・沙門の功を積みて仏像を作り命終の時に臨みて異しき表を示しし縁 第三十・P.208~209」講談社学術文庫)

ところがなぜか蘇生する。死んだはずにもかかわらず。弟子らは驚嘆のあまり、作業半ばで放置されていた十一面観音像を完成させる。仏教説話なのでそのようなエピソードになるわけだが、問題は、老僧観規(くわんき)が聖(ひじり)と呼ばれ崇め奉られることになった点にある。

「是(こ)れ聖なり。凡には非(あら)ず」(「日本霊異記・下・沙門の功を積みて仏像を作り命終の時に臨みて異しき表を示しし縁 第三十・P.208~209」講談社学術文庫)

比丘尼だけでなくその夫たる比丘もまた多方面で奇瑞奇徳を現わして始めて聖(ひじり)の称号を得た。聖(ひじり)だから奇瑞奇徳を出現させて見せるのではなく、奇瑞奇徳を出現させて見せて始めて聖(ひじり)として信仰対象化されるわけである。例えば、現在の医薬品で治療可能な病気でもかつては死ぬことが多かった時代、薬草類を用いて見るみる間に治療してみせた。そのためには全国規模の情報ネットワークがなければならない。「熊野の本地の草紙」を見れば明らかなように、熊野の地は古代宮廷との長い付き合いがある。それら多種多様な情報の総合に適していた。黒潮に乗って移住した人々からの情報も取り入れていくと、とりわけ薬草類に関する情報は古代中国を含む東アジア全域から寄せられる。俗世間ではなるほど様々な聖(ひじり)がいたわけで、年中酔っ払ってばかりいる聖(ひじり)もいた。三度の飯より女好きという聖(ひじり)もいた。ただ女性の場合、比丘尼の資格という点でいうと、ただ単なる平民ではない。遊女化した部分を含めてみても、それでもなお神仏に仕える身分であったことに変わりはない。平民身分に近づきはしたが平民ではなく平民になりたくてもなれないという見えない壁があった。下層身分になろうとしても一旦は神仏に仕えた身分なので社会的な掟がかえって邪魔になった。あえて言えば、室町時代に俗化していった「歩き巫女」に近いと言えるかもしれない。

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