熊楠はシンデレラ系物語が世界中に存在することを知っていた。
「シンダレラ物語は、何人も知らぬ者なき通り、欧米で最も盛んに行なわるる仙姑伝(フェアリーテイル)なり。シンダレラ、継母に悪まれ、常に灰中に坐し、厮役(しえき)厨務に苦しめられ、生活全く異母妹の盛飾遊食するに反せり。一旦仙姑の助けにより、貴公子に見初められしが、公子これを執えんとするごとに、駛(と)く去って影を留めず。しかるに、ある夕、例のごとく公子眼前に舞踏済み、遁れ去らんとして、仙姑がくれたる履を落とす。公子これを拾い、衆女を試むるに、シンダレラの足のみこれに合う。公子よって意中の人を認め、これを娶る」(南方熊楠「西暦九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語」『南方民俗学・P.190~191』河出文庫)
日本では「鉢かづき」が有名だが、あくまで鉢を被ったまま主人に「かづく」(仕える)のであって、ただ単に鉢を被っているからといって鉢を「かつぐ」(かついでいる)女性のこととしてしまってはいけないと釘を刺している。
「この博士は、したがって『鉢かづき』の草紙を『鉢かつぎ』とよませある。つまるところ、この人の生まれた地にはカヅクという語を知らぬ人のみなりしなり」(南方熊楠「女の後庭犯すこと、トルコ風呂、アナバの猫、その他」『浄のセクソロジー・P.489』河出文庫)
熊楠の愛読書・御伽草子。その中で「鉢かづき」は継母による継子いじめの代表的作品とされている。徹底的にいじめ抜かれる。そんな或る日、鉢かづきは仕えている家の「御曹司=若君」から直々に湯殿の世話を命じられる。この若君は貴族の一員としてはとても珍しく周囲の目を気にしないさばけた性格。それでもなお鉢かづきはやや躊躇を覚えながら、若君の湯殿へ赴く。貴人男性の全裸の世話を務め上げて見せなくてはならない。
「御兄(あに)たちも殿上(とのうへ)も、御湯殿(ゆどの)へ入(い)らせ給ふ。かの鉢(はち)かづき『御湯(ゆ)、うつしさふらふ』と申す聲(こゑ)、やさしく聞(きこ)えける。『御行水(ぎやうずい)』とてさしいだす、手足(てあし)の美(うつく)しさ尋常(じんじやう)げに見(み)えければ、世に不思議におぼしめし、『やあ鉢(はち)かづき、人もなきに、何(なに)かは苦(くる)しかるべき、御湯殿(ゆどの)してまゐらせよ』との給(たま)へば、今さら昔を思ひ出して、人にこそ湯殿(ゆどの)させつれ、人の湯殿(ゆどの)をばいかがするやらんと思(おも)へども、主命(しうめい)なれば力(ちから)なし。御湯殿(ゆどの)へこそ参(まい)りける」(日本古典文学体系「鉢かづき」『御伽草子・P.67』岩波書店)
鉢かづきによる湯殿での振る舞いは若君の心を動かすことになる。その場ですでに二人は性行為に及ぶ。もちろん鉢かづきの側から誘惑したわけではなく若君が鉢かづきの振る舞いに魅せられてしまったからなのだが。ところでしかし、その場面へ至るまでの継子いじめのエピソードが徹底性を欠いているような場合はどうだろう。次の論考で折口信夫のいう「神女」《としての》「水の女」は発生する余地を失ってしまう。
「こうした神女が、一群として宮廷に入ったのが、丹波道主貴の家の女であった。此七処女はは、何の為に召されたか。言うまでもなく《みづのをひも》を解き奉る為である。だが、紐と言えば、すぐに連想せられるのは、性的生活である。先輩諸家の解説にも、此先入が主となって、古代生活の大切な一面を見落されて了うた。事は、一続きの事実であった。『ひも』の神秘をとり扱う神女は、条件的に神の嫁の資格を持たねばならなかったのである。《みづのをひも》を解く事が直に、紐主にまかれる事ではない。一番親しく、神の身に近づく聖職に備るのは、最高の神女である。而も尊体の深い秘密に触れる役目である。《みづのをひも》を解き、又結ぶ神事があったのである。七処女の真名井の天女・八処女の系統の東遊(アヅマアソビ)天人も、飛行の力は、天の羽衣に繋がっていた。だが私は、神女の身に、羽衣を被るとするのは、伝承の推移だと思う。神女の手で、天の羽衣を著せ、脱がせられる神があった。其神の力を蒙って、神女自身も神と見なされる。そうして神・神女を同格に観じて、神を稍忘れる様になる。そうなると、神女の、神に奉仕した為事も、神女自身の行為になる。天の羽衣の如きは、神の身についたものである。神自身と見なし奉った宮廷の主の、常も用いられるはずの湯具を、古例に則る大嘗祭の時に限って、天の羽衣と申し上げる。後世は『衣』と言う名に拘って、上体をも掩うものとなったらしいが、古くはもっと《小さきもの》ではなかったか。ともかく禊ぎ・湯沐みの時、湯や水で解きさける物忌みの布と思われる。誰一人解き方知らぬ神秘の結び方で、其布を結び固め、神となる御体の霊結びを奉仕する巫女があった」(折口信夫「水の女」『折口信夫全集2・P.97~98』中公文庫)
あたかも真っ赤に灼熱した焼きごてで傷口をごしごし擦りつけるかのような、継母によって何度も繰り返される徹底的な継子いじめのエピソードが語られたその後、ほぼただちに若君の口から湯殿を務め上げるよう呼び出される鉢かづき。ただ単に湯殿を務めたというだけでは「神の妻」への切符を手に入れることはできない。是非とも継子いじめが置かれていなくては神女となる資格に欠けるのである。とすれば、継子いじめのエピソードは鉢かづきが神女へ至るために避けて通ることのできないイニシエーションであり、通過しなくてはならない必要不可欠な条件として置かれたことが認められる。むしろそれに気づくことなしに読み語りしてしまった場合、ややもすると「鉢かづき」がイニシエーションの重要性を描いた御伽草子にほかならないという実態は見逃されてしまうのである。
熊楠の愛読書は多岐に渡る。何ヶ月か前に既に論じたアープレーイユス「黄金の驢馬」もその一冊。国内だけでなく古代から見られる諸外国の風俗風習儀式生活様式の諸形態すべてに通じていなければ、どのような条件のもとでその小説が書かれたのか、そしてなぜその文章はそのような形態を取ることになっているのか、わかりようがないからである。紀元前のギリシア哲学であっても、例えばプラトンが残した僅か一行であれ、その一行はどのような環境下で出現するべくして出現することができたのか。それを知っていなければただ単に目に止まった語彙や警句のようなフレーズを見つけたとしても、そこだけを取り出してきて都合よくみだりに用いるべきでないというのが熊楠の基本的研究態度だ。
御伽草子「鉢かづき」におけるイニシエーション《としての》継子いじめについて、アープレーイユス「黄金の驢馬」の愛読者だった熊楠が気付いていないはずはない。「黄金の驢馬」でプシューケーは冥界の女王プロセルピナのもとへ赴き用事を済ませ冥界から生還したように、驢馬のルキウスもまた冥界から生還する。
「さて熱心な読者よ、あなた方は、その部屋で二人が交わした会話や、そこで起こったことについて知りたいと強く望まれることでしょう。話すことが許されていれば喜んで話しましょう。お耳に入れてよいなら喜んでお聞かせするでしょう。しかしそれについての不謹慎なお喋(しゃべ)りによって私の舌は、あるいは大それた好奇心によってあなた方の耳は、共にひとしく罰をこうむること必定です。しかし、そうなると、今度はあなた方が、熱い敬虔な関心を抱いたまま宙ぶらりんの気持ちであれこれと憶測し、煩悶(はんもん)することになるでしょう。私もそれは望みません。そこで一つ話を聞いて下さい。でも、この話はみんな真実だと思って下さい。ーーー私は死の境界にやってきて、冥界の女王プロセルピナの神殿の敷居をまたぎ、あらゆる要素を通ってこの世に還ってきました。真夜中に太陽が晃々(こうこう)と輝いているのを見ました。冥界の神々にも天上の神々にも目(ま)のあたりに接し、膝下に額(ぬか)ずいてきました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の11・P.461~462」岩波文庫)
冥界降りのエピソードはホメロス「オデュッセウス」のものが最も有名かもしれない。そしてまたそれらは各々の地域によって多かれ少なかれ異なる言語で描かれているにもかかわらず著しい類似性を示している。他でもない日本最古の説話集にもその姿が見える。例えば日本霊異記の中で、「豊前国宮子郡(ぶぜんのくにみやこのこほり)の少領(せうりやう)〔次官〕だった膳臣広国(かしはでのおみひろくに)の黄泉国(よみのくに)往還説話。何が語られているのだろうか。広国は死んで三日後に生き返る。
「慶雲(きゃううん)の二年の乙巳(きのとみ)の秋の九月十五日の庚申(かのえさる)に、広国忽(たちまち)に死にき。逕(ふ)ること三日、戌(いぬ)の日の申(さる)の時に、更に甦(い)きて語り」(「日本霊異記・上巻・非理に他の物を奪ひ、悪行を為し、報を受けて奇しき事を示しし縁 第三十・P.176」講談社学術文庫)
広国は冥界での体験を語る。「王」は黄泉の国の王。東アジア仏教説話なので閻魔を指す。閻魔はいう。すでに死んだ父親が今、地獄でどのような日々を送っているか知りたければ「南の方」へ行って見てくるがよいと。南方は「度南」(となん)に類する仮想の国。後の平安時代以降、流刑地とされた土佐の秦、讃岐の白峰、九州の太宰府、隠岐島、東国の伊豆、東北の異民族居住地などに繋がるものと思われる。
「王、広国に詔(の)りて曰(のたま)はく、『汝、罪无(な)し。家に還るべし。然(しか)れども、慎(ゆめ)、黄泉(よみのくに)の事を以て忘(みだり)て宣(の)ぶこと勿(なか)れ。若(も)し父を見むと欲(おも)はば、南の方に往け』とのたまふ」(「日本霊異記・上巻・非理に他の物を奪ひ、悪行を為し、報を受けて奇しき事を示しし縁 第三十・P.177」講談社学術文庫)
広国が訪ねてみるとなるほど父は地獄で悲惨な責め苦を課せられている。
「往いて見るに、実(まこと)に我が父有り。甚だ熱き熱銅の柱を抱(うだ)かしめられて立つ。鉄(くろがね)の釘(くぎ)を三十七其の身に打ち立て、鉄を以て打たる。夙(あした)に三百段、昼に三百段、夕(ゆふべ)に三百段、合(あは)せて九百段、日毎(ごと)に打ち迫(せ)む」(「日本霊異記・上巻・非理に他の物を奪ひ、悪行を為し、報を受けて奇しき事を示しし縁 第三十・P.180」講談社学術文庫)
ずいぶん大袈裟に見えるがまず第一に仏教信者獲得という目的があったため、説話は当たり前のように酷い内容に傾く。地獄で責め苦に甘んじている父親は自分が重罪を課された理由を次のように語る。
「我、妻子を養はむが為に、故(かれ)、或(ある)は生ける物を殺しき。或は八両の綿をおきのりて、強ひて十両に倍(ま)して徴(はた)りき。或は小斤(せうごん)の稲をおきのりて強(し)ひて太斤(たごん)に取れり。或は人の物を強ひて奪ひ取れり。或は他(ひと)の妻を姧(かだ)み犯しき。父母(ぶも)に孝養(けうやう)したてまつらず、師長を恭敬(くぎやう)せず、(ぬひ)にあらぬ者(ひと)を罵(の)り慢(あなづ)りき。是(か)くの如き罪の故に、我が身少(ちひさ)しと雖(いへど)も、三十七鉄(くろがね)の釘(くぎ)立ち、毎(つね)に、九百段、鉄(くろがね)の鞭(すはえ)もて打ち迫(せ)めらる」(「日本霊異記・上巻・非理に他の物を奪ひ、悪行を為し、報を受けて奇しき事を示しし縁 第三十・P.181」講談社学術文庫)
問題は前半。妻子を養っていくために生き物を殺した。八両の綿を十両と偽って金儲けした。さらに「小斤(せうごん)の稲をおきのりて強(し)ひて太斤(たごん)に取れり」というのは、軽い秤で稲を貸した後で重い秤で取り立てること。他人の物品を強引に奪い取った。人妻と不倫した。また父母にできるだけのことをしてやれた生涯だったとは必ずしも言えない。他人に罵詈雑言を浴びせたりした。目上の人間に対していつも尊敬の態度を忘れなかったとは言えない。しかしこの言葉通りだとすれば、戦後日本の焼跡闇市時代の一般市民の言動と何ら変わるところはない。そうしなければ多くの人々は生きていくことはできなかったし、むしろばたばた死んでいった。すなわち、この説話に広国が登場した時代、七〇五年(慶雲二年)もまた同様の悲惨な暮らしが常だったことがわかる。
ところでこの説話では、広国の父は黄泉の国に閉じ込められているはず。しかし広国の家を訪れたことがあるという。地獄行きになっているので当時の仏教説話に従って動物の姿に変えられているわけだが。訪れたという日付が面白い。一度目は七月七日。七夕神話の日に「大蛇」となって現われた。蛇は紀州道成寺に残る説話にあるように、奈良時代すでに「蛇姓の淫」として性欲の象徴とされていた。熊楠は蛇に関する論考で「邪視」についてこう述べている。
「『淵鑑類函』四二五、鶏の条を探ると、<王褒(おうほう)曰く、魚瞰鶏睨、李善以為(おも)えらく魚目暝(つむ)らず、鶏好く邪視す>とある。鶏はよく恐ろしい眼付きで睨むをいうので、この田辺辺で古く天狗が時に白鶏に化けるなどいい忌む人があったは、多少その邪視を怖れたからだろう」(南方熊楠「蛇に関する民族と伝説」『十二支考・上・P.311~312』岩波文庫)
ちなみに言っておくとここで言及されている「邪視」は、どこにでもいる人間が「色目を使う」とか「疑り深い」とかいう凡庸な意味でではない。逆に動物を事例に取って語られている通り、野生の感性の一つとして論考されている。
「魚瞰とは死んでも眼を閉じぬ事、鶏睨とはよく邪視する事を解いたのだ」(南方熊楠「蛇に関する民族と伝説」『十二支考・上・P.311~312』岩波文庫)
常人では思いも及ばない次元の事情を見極める場合にも邪視が用いられている。
「後漢の張平子の『西京賦』に、<ここにおいて鳥獣、目を殫(つく)し覩窮(みきわ)む、遷延し邪視す、乎長揚の宮に集まる>」(南方熊楠「蛇に関する民族と伝説」『十二支考・上・P.313』岩波文庫)
古代ギリシア神話でテイレシアスが盲者になるのと引き換えに予言者としての力を得たように。
次に五月五日。五節句の一つ、「端午の節句」。中国由来。ゆえに「牛頭天王(ごずてんのう)」から始めなければならない。古来世界中で飼われていた牛は日常生活維持のための必需だった。だが伝染病の輸出入をも担うため疫病の神として信仰されるようになったのが牛頭天王。疫病を蔓延させる力を持つ動物であるがゆえに疫病を鎮める力をも持つと考える古代の思考様式に従って「疫除けの神」ともなったのである。一方、鎧兜で武装した武者人形(五月人形)は武士の時代(鎌倉時代)頃から定着し始める。さらに菖蒲酒の風習も中国由来。厄除として室町時代から徐々に広がり江戸時代に慣習化し俳諧にも詠まれたようだ。また「鯉のぼり」は当たり前のことだが戦国時代が終わり、その後、江戸時代から流行するようになったもの。しかし菖蒲湯や菖蒲の飾りは薬草として知られていたため、日本で最も早く見える記事としては少なくとも奈良時代の宮中行事が上げられるだろう。
また、なぜ「狗」なのか。犬は牛や羊を制御する。生活様式の点から言えば第一にその性質を上げねばならない。そして犬の信用の厚さはもはや宗教の領域に達するとする見解があった。
「犬に宗教の信念あった咄(はなし)諸国に多い。『隋書』に文帝の時代、四月八日魏州に舎利塔を立つ。一黒狗耽耳(たんじ)白胸なるあり、塔前において左股を舒(の)べ右脚を屈し、人の行道するを見ればすなわち起ちて行道し、人の持斎するを見ればまたすなわち持斎す」(南方熊楠「十二支考・下・犬に関する伝説・P.238」岩波文庫)
赤い狗について。次の記述を見ると天狗伝説と混合されたのかも知れない。
「了意の『東海道名所記』に『大きなる赤犬かけ出てすきまなく吠えかかる云々、楽阿弥も魂を失うて俄(にわか)に虎という字を書いて見すれども田舎育ちの犬なりければ読めざりけん、逃ぐる足許へ飛び付く』とある」(南方熊楠「十二支考・下・犬に関する伝説・P.265」岩波文庫)
さらに端午の節句はそもそも男子のためばかりと決まったわけでは何らないと思われる節がある。
「夫の家里(さと)の住家(すみか)も親の家、鏡(かがみ)の家の家ならで、家と、いふ物なけれども、誰(た)が世に許(ゆる)し定めけん、五月五日の一夜さを女の家といふぞかし」(日本古典文学体系「女殺油地獄・下之巻」『近松浄瑠璃集・上・P.411』岩波書店)
また芭蕉門下の丈草も、菖蒲の日ばかりはほとんどの男が家の外へ出て行ってはしゃいでいるため、家の主人は間違いなく女であるという意味の句を詠んでいる。「菖蒲ふく一夜は女の宿なるものを」(転寝草)。
蛇になって失敗、赤犬でまた失敗。さてしかし、正月一日、猫になって現われた時だけは無事に済んだ。三年分の食料を手に入れて。
「我飢ゑて、七月七日に大蛇に成りて汝が家に到り、屋房(やど)に入らむとせし時に、杖を以て懸け棄(う)てき。又、五月五日に赤き狗(いぬ)に成りて汝が家に到りし時に、犬を喚(よ)び相(あは)せて、唯(ただ)に追ひ打ちしかば、飢ゑ熱(ほとほ)りて還りき。我正月一日に狸(ねこ)に成りて汝が家に入りし時に、供養せし宍(しし)、種(くさぐさ)の物に飽きき。是を以て三年(みとせ)の粮(かりて)を継(つな)げり」(「日本霊異記・上巻・非理に他の物を奪ひ、悪行を為し、報を受けて奇しき事を示しし縁 第三十・P.181」講談社学術文庫)
黄泉の国〔冥界〕に還ってから「三年(みとせ)の粮(かりて)を継(つな)げり」と広国は聞かされた。
BGM1
BGM2
BGM3
「シンダレラ物語は、何人も知らぬ者なき通り、欧米で最も盛んに行なわるる仙姑伝(フェアリーテイル)なり。シンダレラ、継母に悪まれ、常に灰中に坐し、厮役(しえき)厨務に苦しめられ、生活全く異母妹の盛飾遊食するに反せり。一旦仙姑の助けにより、貴公子に見初められしが、公子これを執えんとするごとに、駛(と)く去って影を留めず。しかるに、ある夕、例のごとく公子眼前に舞踏済み、遁れ去らんとして、仙姑がくれたる履を落とす。公子これを拾い、衆女を試むるに、シンダレラの足のみこれに合う。公子よって意中の人を認め、これを娶る」(南方熊楠「西暦九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語」『南方民俗学・P.190~191』河出文庫)
日本では「鉢かづき」が有名だが、あくまで鉢を被ったまま主人に「かづく」(仕える)のであって、ただ単に鉢を被っているからといって鉢を「かつぐ」(かついでいる)女性のこととしてしまってはいけないと釘を刺している。
「この博士は、したがって『鉢かづき』の草紙を『鉢かつぎ』とよませある。つまるところ、この人の生まれた地にはカヅクという語を知らぬ人のみなりしなり」(南方熊楠「女の後庭犯すこと、トルコ風呂、アナバの猫、その他」『浄のセクソロジー・P.489』河出文庫)
熊楠の愛読書・御伽草子。その中で「鉢かづき」は継母による継子いじめの代表的作品とされている。徹底的にいじめ抜かれる。そんな或る日、鉢かづきは仕えている家の「御曹司=若君」から直々に湯殿の世話を命じられる。この若君は貴族の一員としてはとても珍しく周囲の目を気にしないさばけた性格。それでもなお鉢かづきはやや躊躇を覚えながら、若君の湯殿へ赴く。貴人男性の全裸の世話を務め上げて見せなくてはならない。
「御兄(あに)たちも殿上(とのうへ)も、御湯殿(ゆどの)へ入(い)らせ給ふ。かの鉢(はち)かづき『御湯(ゆ)、うつしさふらふ』と申す聲(こゑ)、やさしく聞(きこ)えける。『御行水(ぎやうずい)』とてさしいだす、手足(てあし)の美(うつく)しさ尋常(じんじやう)げに見(み)えければ、世に不思議におぼしめし、『やあ鉢(はち)かづき、人もなきに、何(なに)かは苦(くる)しかるべき、御湯殿(ゆどの)してまゐらせよ』との給(たま)へば、今さら昔を思ひ出して、人にこそ湯殿(ゆどの)させつれ、人の湯殿(ゆどの)をばいかがするやらんと思(おも)へども、主命(しうめい)なれば力(ちから)なし。御湯殿(ゆどの)へこそ参(まい)りける」(日本古典文学体系「鉢かづき」『御伽草子・P.67』岩波書店)
鉢かづきによる湯殿での振る舞いは若君の心を動かすことになる。その場ですでに二人は性行為に及ぶ。もちろん鉢かづきの側から誘惑したわけではなく若君が鉢かづきの振る舞いに魅せられてしまったからなのだが。ところでしかし、その場面へ至るまでの継子いじめのエピソードが徹底性を欠いているような場合はどうだろう。次の論考で折口信夫のいう「神女」《としての》「水の女」は発生する余地を失ってしまう。
「こうした神女が、一群として宮廷に入ったのが、丹波道主貴の家の女であった。此七処女はは、何の為に召されたか。言うまでもなく《みづのをひも》を解き奉る為である。だが、紐と言えば、すぐに連想せられるのは、性的生活である。先輩諸家の解説にも、此先入が主となって、古代生活の大切な一面を見落されて了うた。事は、一続きの事実であった。『ひも』の神秘をとり扱う神女は、条件的に神の嫁の資格を持たねばならなかったのである。《みづのをひも》を解く事が直に、紐主にまかれる事ではない。一番親しく、神の身に近づく聖職に備るのは、最高の神女である。而も尊体の深い秘密に触れる役目である。《みづのをひも》を解き、又結ぶ神事があったのである。七処女の真名井の天女・八処女の系統の東遊(アヅマアソビ)天人も、飛行の力は、天の羽衣に繋がっていた。だが私は、神女の身に、羽衣を被るとするのは、伝承の推移だと思う。神女の手で、天の羽衣を著せ、脱がせられる神があった。其神の力を蒙って、神女自身も神と見なされる。そうして神・神女を同格に観じて、神を稍忘れる様になる。そうなると、神女の、神に奉仕した為事も、神女自身の行為になる。天の羽衣の如きは、神の身についたものである。神自身と見なし奉った宮廷の主の、常も用いられるはずの湯具を、古例に則る大嘗祭の時に限って、天の羽衣と申し上げる。後世は『衣』と言う名に拘って、上体をも掩うものとなったらしいが、古くはもっと《小さきもの》ではなかったか。ともかく禊ぎ・湯沐みの時、湯や水で解きさける物忌みの布と思われる。誰一人解き方知らぬ神秘の結び方で、其布を結び固め、神となる御体の霊結びを奉仕する巫女があった」(折口信夫「水の女」『折口信夫全集2・P.97~98』中公文庫)
あたかも真っ赤に灼熱した焼きごてで傷口をごしごし擦りつけるかのような、継母によって何度も繰り返される徹底的な継子いじめのエピソードが語られたその後、ほぼただちに若君の口から湯殿を務め上げるよう呼び出される鉢かづき。ただ単に湯殿を務めたというだけでは「神の妻」への切符を手に入れることはできない。是非とも継子いじめが置かれていなくては神女となる資格に欠けるのである。とすれば、継子いじめのエピソードは鉢かづきが神女へ至るために避けて通ることのできないイニシエーションであり、通過しなくてはならない必要不可欠な条件として置かれたことが認められる。むしろそれに気づくことなしに読み語りしてしまった場合、ややもすると「鉢かづき」がイニシエーションの重要性を描いた御伽草子にほかならないという実態は見逃されてしまうのである。
熊楠の愛読書は多岐に渡る。何ヶ月か前に既に論じたアープレーイユス「黄金の驢馬」もその一冊。国内だけでなく古代から見られる諸外国の風俗風習儀式生活様式の諸形態すべてに通じていなければ、どのような条件のもとでその小説が書かれたのか、そしてなぜその文章はそのような形態を取ることになっているのか、わかりようがないからである。紀元前のギリシア哲学であっても、例えばプラトンが残した僅か一行であれ、その一行はどのような環境下で出現するべくして出現することができたのか。それを知っていなければただ単に目に止まった語彙や警句のようなフレーズを見つけたとしても、そこだけを取り出してきて都合よくみだりに用いるべきでないというのが熊楠の基本的研究態度だ。
御伽草子「鉢かづき」におけるイニシエーション《としての》継子いじめについて、アープレーイユス「黄金の驢馬」の愛読者だった熊楠が気付いていないはずはない。「黄金の驢馬」でプシューケーは冥界の女王プロセルピナのもとへ赴き用事を済ませ冥界から生還したように、驢馬のルキウスもまた冥界から生還する。
「さて熱心な読者よ、あなた方は、その部屋で二人が交わした会話や、そこで起こったことについて知りたいと強く望まれることでしょう。話すことが許されていれば喜んで話しましょう。お耳に入れてよいなら喜んでお聞かせするでしょう。しかしそれについての不謹慎なお喋(しゃべ)りによって私の舌は、あるいは大それた好奇心によってあなた方の耳は、共にひとしく罰をこうむること必定です。しかし、そうなると、今度はあなた方が、熱い敬虔な関心を抱いたまま宙ぶらりんの気持ちであれこれと憶測し、煩悶(はんもん)することになるでしょう。私もそれは望みません。そこで一つ話を聞いて下さい。でも、この話はみんな真実だと思って下さい。ーーー私は死の境界にやってきて、冥界の女王プロセルピナの神殿の敷居をまたぎ、あらゆる要素を通ってこの世に還ってきました。真夜中に太陽が晃々(こうこう)と輝いているのを見ました。冥界の神々にも天上の神々にも目(ま)のあたりに接し、膝下に額(ぬか)ずいてきました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の11・P.461~462」岩波文庫)
冥界降りのエピソードはホメロス「オデュッセウス」のものが最も有名かもしれない。そしてまたそれらは各々の地域によって多かれ少なかれ異なる言語で描かれているにもかかわらず著しい類似性を示している。他でもない日本最古の説話集にもその姿が見える。例えば日本霊異記の中で、「豊前国宮子郡(ぶぜんのくにみやこのこほり)の少領(せうりやう)〔次官〕だった膳臣広国(かしはでのおみひろくに)の黄泉国(よみのくに)往還説話。何が語られているのだろうか。広国は死んで三日後に生き返る。
「慶雲(きゃううん)の二年の乙巳(きのとみ)の秋の九月十五日の庚申(かのえさる)に、広国忽(たちまち)に死にき。逕(ふ)ること三日、戌(いぬ)の日の申(さる)の時に、更に甦(い)きて語り」(「日本霊異記・上巻・非理に他の物を奪ひ、悪行を為し、報を受けて奇しき事を示しし縁 第三十・P.176」講談社学術文庫)
広国は冥界での体験を語る。「王」は黄泉の国の王。東アジア仏教説話なので閻魔を指す。閻魔はいう。すでに死んだ父親が今、地獄でどのような日々を送っているか知りたければ「南の方」へ行って見てくるがよいと。南方は「度南」(となん)に類する仮想の国。後の平安時代以降、流刑地とされた土佐の秦、讃岐の白峰、九州の太宰府、隠岐島、東国の伊豆、東北の異民族居住地などに繋がるものと思われる。
「王、広国に詔(の)りて曰(のたま)はく、『汝、罪无(な)し。家に還るべし。然(しか)れども、慎(ゆめ)、黄泉(よみのくに)の事を以て忘(みだり)て宣(の)ぶこと勿(なか)れ。若(も)し父を見むと欲(おも)はば、南の方に往け』とのたまふ」(「日本霊異記・上巻・非理に他の物を奪ひ、悪行を為し、報を受けて奇しき事を示しし縁 第三十・P.177」講談社学術文庫)
広国が訪ねてみるとなるほど父は地獄で悲惨な責め苦を課せられている。
「往いて見るに、実(まこと)に我が父有り。甚だ熱き熱銅の柱を抱(うだ)かしめられて立つ。鉄(くろがね)の釘(くぎ)を三十七其の身に打ち立て、鉄を以て打たる。夙(あした)に三百段、昼に三百段、夕(ゆふべ)に三百段、合(あは)せて九百段、日毎(ごと)に打ち迫(せ)む」(「日本霊異記・上巻・非理に他の物を奪ひ、悪行を為し、報を受けて奇しき事を示しし縁 第三十・P.180」講談社学術文庫)
ずいぶん大袈裟に見えるがまず第一に仏教信者獲得という目的があったため、説話は当たり前のように酷い内容に傾く。地獄で責め苦に甘んじている父親は自分が重罪を課された理由を次のように語る。
「我、妻子を養はむが為に、故(かれ)、或(ある)は生ける物を殺しき。或は八両の綿をおきのりて、強ひて十両に倍(ま)して徴(はた)りき。或は小斤(せうごん)の稲をおきのりて強(し)ひて太斤(たごん)に取れり。或は人の物を強ひて奪ひ取れり。或は他(ひと)の妻を姧(かだ)み犯しき。父母(ぶも)に孝養(けうやう)したてまつらず、師長を恭敬(くぎやう)せず、(ぬひ)にあらぬ者(ひと)を罵(の)り慢(あなづ)りき。是(か)くの如き罪の故に、我が身少(ちひさ)しと雖(いへど)も、三十七鉄(くろがね)の釘(くぎ)立ち、毎(つね)に、九百段、鉄(くろがね)の鞭(すはえ)もて打ち迫(せ)めらる」(「日本霊異記・上巻・非理に他の物を奪ひ、悪行を為し、報を受けて奇しき事を示しし縁 第三十・P.181」講談社学術文庫)
問題は前半。妻子を養っていくために生き物を殺した。八両の綿を十両と偽って金儲けした。さらに「小斤(せうごん)の稲をおきのりて強(し)ひて太斤(たごん)に取れり」というのは、軽い秤で稲を貸した後で重い秤で取り立てること。他人の物品を強引に奪い取った。人妻と不倫した。また父母にできるだけのことをしてやれた生涯だったとは必ずしも言えない。他人に罵詈雑言を浴びせたりした。目上の人間に対していつも尊敬の態度を忘れなかったとは言えない。しかしこの言葉通りだとすれば、戦後日本の焼跡闇市時代の一般市民の言動と何ら変わるところはない。そうしなければ多くの人々は生きていくことはできなかったし、むしろばたばた死んでいった。すなわち、この説話に広国が登場した時代、七〇五年(慶雲二年)もまた同様の悲惨な暮らしが常だったことがわかる。
ところでこの説話では、広国の父は黄泉の国に閉じ込められているはず。しかし広国の家を訪れたことがあるという。地獄行きになっているので当時の仏教説話に従って動物の姿に変えられているわけだが。訪れたという日付が面白い。一度目は七月七日。七夕神話の日に「大蛇」となって現われた。蛇は紀州道成寺に残る説話にあるように、奈良時代すでに「蛇姓の淫」として性欲の象徴とされていた。熊楠は蛇に関する論考で「邪視」についてこう述べている。
「『淵鑑類函』四二五、鶏の条を探ると、<王褒(おうほう)曰く、魚瞰鶏睨、李善以為(おも)えらく魚目暝(つむ)らず、鶏好く邪視す>とある。鶏はよく恐ろしい眼付きで睨むをいうので、この田辺辺で古く天狗が時に白鶏に化けるなどいい忌む人があったは、多少その邪視を怖れたからだろう」(南方熊楠「蛇に関する民族と伝説」『十二支考・上・P.311~312』岩波文庫)
ちなみに言っておくとここで言及されている「邪視」は、どこにでもいる人間が「色目を使う」とか「疑り深い」とかいう凡庸な意味でではない。逆に動物を事例に取って語られている通り、野生の感性の一つとして論考されている。
「魚瞰とは死んでも眼を閉じぬ事、鶏睨とはよく邪視する事を解いたのだ」(南方熊楠「蛇に関する民族と伝説」『十二支考・上・P.311~312』岩波文庫)
常人では思いも及ばない次元の事情を見極める場合にも邪視が用いられている。
「後漢の張平子の『西京賦』に、<ここにおいて鳥獣、目を殫(つく)し覩窮(みきわ)む、遷延し邪視す、乎長揚の宮に集まる>」(南方熊楠「蛇に関する民族と伝説」『十二支考・上・P.313』岩波文庫)
古代ギリシア神話でテイレシアスが盲者になるのと引き換えに予言者としての力を得たように。
次に五月五日。五節句の一つ、「端午の節句」。中国由来。ゆえに「牛頭天王(ごずてんのう)」から始めなければならない。古来世界中で飼われていた牛は日常生活維持のための必需だった。だが伝染病の輸出入をも担うため疫病の神として信仰されるようになったのが牛頭天王。疫病を蔓延させる力を持つ動物であるがゆえに疫病を鎮める力をも持つと考える古代の思考様式に従って「疫除けの神」ともなったのである。一方、鎧兜で武装した武者人形(五月人形)は武士の時代(鎌倉時代)頃から定着し始める。さらに菖蒲酒の風習も中国由来。厄除として室町時代から徐々に広がり江戸時代に慣習化し俳諧にも詠まれたようだ。また「鯉のぼり」は当たり前のことだが戦国時代が終わり、その後、江戸時代から流行するようになったもの。しかし菖蒲湯や菖蒲の飾りは薬草として知られていたため、日本で最も早く見える記事としては少なくとも奈良時代の宮中行事が上げられるだろう。
また、なぜ「狗」なのか。犬は牛や羊を制御する。生活様式の点から言えば第一にその性質を上げねばならない。そして犬の信用の厚さはもはや宗教の領域に達するとする見解があった。
「犬に宗教の信念あった咄(はなし)諸国に多い。『隋書』に文帝の時代、四月八日魏州に舎利塔を立つ。一黒狗耽耳(たんじ)白胸なるあり、塔前において左股を舒(の)べ右脚を屈し、人の行道するを見ればすなわち起ちて行道し、人の持斎するを見ればまたすなわち持斎す」(南方熊楠「十二支考・下・犬に関する伝説・P.238」岩波文庫)
赤い狗について。次の記述を見ると天狗伝説と混合されたのかも知れない。
「了意の『東海道名所記』に『大きなる赤犬かけ出てすきまなく吠えかかる云々、楽阿弥も魂を失うて俄(にわか)に虎という字を書いて見すれども田舎育ちの犬なりければ読めざりけん、逃ぐる足許へ飛び付く』とある」(南方熊楠「十二支考・下・犬に関する伝説・P.265」岩波文庫)
さらに端午の節句はそもそも男子のためばかりと決まったわけでは何らないと思われる節がある。
「夫の家里(さと)の住家(すみか)も親の家、鏡(かがみ)の家の家ならで、家と、いふ物なけれども、誰(た)が世に許(ゆる)し定めけん、五月五日の一夜さを女の家といふぞかし」(日本古典文学体系「女殺油地獄・下之巻」『近松浄瑠璃集・上・P.411』岩波書店)
また芭蕉門下の丈草も、菖蒲の日ばかりはほとんどの男が家の外へ出て行ってはしゃいでいるため、家の主人は間違いなく女であるという意味の句を詠んでいる。「菖蒲ふく一夜は女の宿なるものを」(転寝草)。
蛇になって失敗、赤犬でまた失敗。さてしかし、正月一日、猫になって現われた時だけは無事に済んだ。三年分の食料を手に入れて。
「我飢ゑて、七月七日に大蛇に成りて汝が家に到り、屋房(やど)に入らむとせし時に、杖を以て懸け棄(う)てき。又、五月五日に赤き狗(いぬ)に成りて汝が家に到りし時に、犬を喚(よ)び相(あは)せて、唯(ただ)に追ひ打ちしかば、飢ゑ熱(ほとほ)りて還りき。我正月一日に狸(ねこ)に成りて汝が家に入りし時に、供養せし宍(しし)、種(くさぐさ)の物に飽きき。是を以て三年(みとせ)の粮(かりて)を継(つな)げり」(「日本霊異記・上巻・非理に他の物を奪ひ、悪行を為し、報を受けて奇しき事を示しし縁 第三十・P.181」講談社学術文庫)
黄泉の国〔冥界〕に還ってから「三年(みとせ)の粮(かりて)を継(つな)げり」と広国は聞かされた。
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