機会があれば触れると述べておいた箇所について。
「私は友人の孫逸仙ーーー『ロンドン幽囚記』の著者ーーーから、広東で豊富に産するが、今では単に少年少女の娯楽の対象になっていると聞いた。日本でも少しも珍しいものではなく、酢貝(すがい)と呼ばれて、子供たちの玩具になっている。しかし、かつては情事に用いられたものらしい。西鶴(十七世紀)は熊野比丘尼が持ち運んで売る品物の主要なものの中に、それを記している」(南方熊楠「燕石考」『南方民俗学・P.383』河出文庫)
まず第一に関係箇所を柳田國男の論考から見た。
「後世の熊野比丘尼はいわゆる美目(びもく)盼(へん)たる者であった。しかしこの徒が口寄せの業務から次第に遠ざかったのは、眼の明盲とはまったく無関係であるらしく、やはり髪を剃り頭巾(ずきん)などを被(かぶ)ったことが、自然に託宣の値打ちを減じたためかと思う。京の縄手通三条下ル猿寺という寺で、尼が幣を持って託宣をした近世の例は、『兎園(とえん)小説拾遺』に見えているが、ほかにはあまり聞かない。比丘尼と称しつつ舞を舞ったことは、古くは『臥雲日件録』(がうんにっけんろく)にも記事があれど、これも頭を丸めては似合わなかったとみえて、後はただ簓(ささら)を扣(たた)いて流行歌(はやりうた)などを歌った。ゆえにこの徒が札配りや勧進の外に逸出して変な一種の職業に従事したのも、間接には剃髪強制の結果ではないかと思う。『人倫訓蒙図彙』(じんりんきんもうずい)に曰く、歌比丘尼は元は清浄の立派にて、熊野を信じて諸方に勧進しけるが、いつしか衣を略し歯を磨き、頭を仔細に包みて小歌を便にして売るなり。巧齢過ぎたるを御寮と号し、夫に山伏を持ち女童(めのわらわ)の弟子あまたとりしたつるなり。この者都鄙(とひ)にあり都は建仁寺町薬師の図子(ずし)に侍(はべ)る云々とあり。名古屋九十軒町に住する熊野比丘尼は、元祖は慶長三年に伊勢の山田から来た。簓を摺(す)りうたう遊興を勧めたと『尾張志』に見えている。『和訓栞』には何に拠ったものか、歌比丘尼の郷里は紀州の那智で、山伏を夫としつつ一方には遊女に同じき生活をする。その歳悔(さいく)を受けて一山富めりとあり。『東海道名所記』の沼津の条には、歌比丘尼の由来を詳しく述べてその退化を説き、今の比丘尼は熊野・伊勢には詣れども行もせず、戒を破り絵解をも知らず、歌を肝要とするのは嘆かわしいと、すごぶる彼等が不道徳を責めている。しかし比丘尼が色を売るのはともかくも、男のあるということまでは決して違犯ではない。比丘尼は単に彼等の名称であって実質ではなかった。これを仏法の尼と同視してその生活の自由なるに驚くのは驚く人が無理だ。東京では商家の丁稚(でっち)の髪をいつまでも剃りこかしておいて、形が似ているからこれを小僧と呼んだ。今もし小僧はすなわち僧だからとの理由で魚を食わせなかったら彼等はどんなに嘆くか分らぬ。それとまったく同じき不道理である」(柳田國男「巫女考・神子の夫、修験の妻」『柳田國男全集11・P.396~397』ちくま文庫)
なお「建仁寺町薬師の図子(ずし)」と地獄絵との関連についても前に述べた。さらに。
「歌比丘尼の本国は熊野であったと申します。中には旅先で弟子を取り、または町中に住居を定めた者も多かったようですが、少なくとも年に一度は、還るといって熊野に往復しました。媚(こび)をひさぐような境遇に落ちた比丘尼までが、熊野の牛王札(ごおうふだ)を売ると称して男の中に出入りし、箱には酢貝(すがい)という貝殻を入れて、土産と名づけて得意の家へ贈ったことが西鶴の小説などにあります。どうして熊野にばかり、このような特殊な職業婦人をたくさんに産するに至ったかはむつかしい問題ですが、本来この偏卑(へんぴ)な土地の信仰が、一時日本の隅々までも普及したのは、最初から神人の旅行ということが要素であったからで、永くその状態を続けていれば、後には故郷に不用なる人が多くなり、何としてなりとも外で生計を立てることが必要になったことかと思います。多くの熊野比丘尼には配偶者がいて、たいていは修験者(しゅげんじゃ)でありました。女の供給によって一山富むとさえいっていますが、彼等が正当の収入は遊芸の報酬ではなく、普通には勧進(かんじん)と称して、人に喜捨を勧めたのであります。神の社、仏の社、それから橋や山道の改修までも勧進し、後には伊勢の神宮の地にも来て住んで、ある時には大廟(だいびょう)造営のためにも働いています。こういう目的の比丘尼たちが国々をあるく場合に、歌にして聴かせた物語の種類が、一種や二種に限られていなかったのは、むしろ当然のことかと思います」(柳田國男「女性と民間伝承・熊野比丘尼」『柳田國男全集10・P.466~467』ちくま文庫)
次の内容もほぼ同じ。
「昔の人たちの心持では、熊野比丘尼のごとき境遇にある婦人は、特に堕落するまでもなくこれを遊女と名づけてすこしも差支えがなかったのであります。遊女という語には本来は売春という意味はありませんでした。『万葉集』の頃にはこれを遊行女婦(うかれめ)と名づけていまして、九州から瀬戸内海の処々の船着き、それから北は越前の国府あたりにも、この者が来ていて歌を詠んだ話が残っています。その名称の基くところは、例の藤沢寺の遊行上人などの遊行も同じで、いわゆる一所不住で、次から次へ旅をしている女というに過ぎませぬ。日本の語に直してうかれ女と申したのも、今日の俗語の浮かれるというのとは違い、単に漂泊して定まった住所のないことです。後にこれを『あそび』といったのは、言わば一種のしゃれのごときもので、遊という漢字が一方にはまた音楽の演奏をも意味し、遊女が通例その『あそび』に長じていたために、わざと本(もと)の意を離れてこうも呼んだものかと考えます」(柳田國男「女性と民間伝承・遊行女婦」『柳田國男全集10・P.469~470』ちくま文庫)
そしてまた。
「足利時代にできたという『職人尽歌合』には、熊野比丘尼は俗体で烏帽子(えぼし)・小素襖(こすおう)を着し琵琶(びわ)を抱き、杖の先に雉(きじ)の尾を附けたのを持ち、絵巻を前にひろげている。その歌は、
絵を語り琵琶弾きて経(ふ)る我世(わがよ)こそうき目見えたるめくらなりけれ
とある。熊野比丘尼が熊野の絵と称する地獄六道の画を雉の尾羽で絵解(えとき)をなし勧進してあるいたことは、『骨董集』(こっとうしゅう)その他のありふれた書に見えている」(柳田國男「巫女考・神子の夫、修験の妻」『柳田國男全集11・P.395~396』ちくま文庫)
第二に西鶴の原文から引いた。
「今男盛(おとこさかり)二十六の春。坂田といふ所に、はじめてつきぬ。此浦のけしき、桜は浪にうつり、誠に、花の上漕ぐ、蜑(あま)の釣舟と読(よみ)しは、此所ぞと、御寺(みてら)の門前より詠(ながむ)れば、勧進比丘尼(くはんじんびくに)、声を揃(そろえ)て、うたひ来(きた)れり、是はと立よれば、かちん染の布子(ぬのこ)に、黒綸子(くろりんず)の二つわり、前結びにして、あたまは、何國でも同じ風俗也、元是(もとこれ)は、嘉様(かやう)の事をする身にあらねど、いつ比より、おりやう、猥(みだり)になして、遊女同然に、相手も定(さだめ)ず、百に二人といふこそ笑(おか)し、あれは正しく、江戸滅多(めつた)町にて、しのび、ちぎりをこめし、清林がつれし、米(こめ)かみ、其時は、菅笠(すけかさ)がありくやうに見しが、はやくも、其身にはなりぬと、むかしを語る」(井原西鶴「好色一代男・卷三・木綿布子(もめんぬのこ)もかりの世・P.90~91」岩波文庫)
またこうも。
「艫(とも)に、年(とし)がまへなる親仁(おやじ)、居(ゐ)ながら、楫(かぢ)とりて、比丘尼(びくに)は、大かた、浅黄(あさぎ)の木綿布子(もめんぬのこ)に、竜門(りうもん)の中幅帯(ちうはばおび)、まへむすびにして、黒羽二重(くろはぶたへ)の、あたまがくし、深江(ふかゑ)の、お七ざしの加賀笠(かががさ)、うねたび、はかぬといふ事なし、絹(きぬ)のふたのの、すそみじかく、とりなり、ひとつに拵(こしら)へ、文臺(ぶんだい)に入れしは、熊野(くまの)の牛王(ごわう)、酢貝(すがい)、耳(みみ)がしましき四つ竹、小比丘尼(こびくに)に、定(さだ)まりての、一升(せう)びしやく、勧進(くはんじん)といふ声(こゑ)も、引(ひき)きらず、はやり節(ぶし)をうたひ、それに気(き)を取(と)り、外(ほか)より見るも、かまはず、元(もと)ぶねに乗(の)り移(うつ)り、分立(わけた)てて後(のち)、百つなぎの銭(ぜに)を、袂(たもと)へなげ入れけるも、おかし、あるはまた、割木(わりき)を、其あたひに取り、又は、さし鯖(さば)にも替(か)へ、同じ流(なが)れとはいひながら、是を思へば、すぐれて、さもしき業(わざ)なれども、昔日(そのかみ)より、此所(ところ)に目馴れて、おかしからず、人の行(ゆ)くすゑは、更(さら)にしれぬものぞ、我もいつとなく、いたづらの数(かず)つくして、今惜(お)しき黒髪(くろかみ)を剃(そ)りて、高津(たかつ)の宮(みや)の北(きた)にあたり、高原(たかはら)といへる町(まち)に、軒(のき)は笹(ささ)に葺(ふ)きて、幽(かすか)なる奥(おく)に、此道(みち)に身(み)をふれし、おりやうをたのみ、勤(つと)めてかくも、浅(あさ)ましく、なるものかな、雨(あめ)の日、嵐(あらし)のふく日にも、ゆるさず、かうした、あたま役(やく)に、白米(はくまい)一升(せう)に、銭(ぜに)五十、それより、しもづかたの、子(こ)共にも、定(さだ)めて、五合づつ、毎日(まいにち)、取(と)られければ、をのづと、いやしくなりて、むかしは、かかる事には、あらざりしに、近年(きんねん)、遊女(ゆうぢよ)のごとくなりぬ」(井原西鶴「調謔哥船(たはふれのうたぶね)」『好色一代女・卷三・P.107~111』岩波文庫)
さらに熊楠は「燕石考」の中で、貝原益軒が「子安貝」(こやすがい)のことを「鸚鵡貝(おうむがい)」と勘違いしている、と述べている。西鶴もそのことを勘違いしたまま遊びに耽る長吉(ながよし)という名の男性の生涯を浮世草子(小説)にして述べた箇所があり、前に引いた。
「北野なる紙細工幾人(いくたり)か俄(にはか)によびよせ、桃の唐花(からはな)をつくらせ、行水(ぎやうずい)に鸚鵡貝(あうむがひ)の盃(さかづき)を流し」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻四・一・情(なさけ)に沈む鸚鵡盃(あふむさかづき)」『井原西鶴集2・P.435』小学館)
ところでこの箇所の続きについて機会を見て触れてみると述べておいた。なぜなら第一に、ここでも「子安貝」(こやすがひ)が出てくるから。第二に、この放蕩男性(長吉〔ながよし〕)が遂に男性同性愛者へ変わったことが上げられる。
「右の手に子安貝(こやすがひ)、左の手に海馬(かいば)をにぎらせ参らせ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻四・一・情(なさけ)に沈む鸚鵡盃(あふむさかづき)」『井原西鶴集2・P.437』小学館)
長吉が万感の思いを込めて愛した妻はしかし、流産し女性も死んでしまう。長吉は出家しようとするがまだまだ若いこともあり周囲は引き止め、新しく妻となる女性、前妻よりも美女に違いないと思われる女性を探し出して連れてきた。そして二人を結婚させる。ところが長吉は相手にしない。そればかりか「もう女には飽きた」という。しかし色の道をきっぱり捨て去ったというわけではなく今度は男色の道を極めようと転向する。後妻は若後家としてそのまま放置されてしまう。
「百日の立つ事もなく、精進事をはりてから、人々の内証にてはじめに見増さる美君(びくん)をまねき、長吉(ながよし)の御方へつかはされけるに、各々(おのおの)の心ざしをもそむかず、この上﨟(じやうらふ)をそのままに置きながら、とかくのささめごともなく、不便(ふびん)やこの人、生きながらの若後家(わかごけ)なり。しかれども色はやめがたく、女はふつふつと飽きて、その後は小姓を置かれける」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻四・一・情(なさけ)に沈む鸚鵡盃(あふむさかづき)」『井原西鶴集2・P.438』小学館)
何がきっかけになって同性愛者となるのか。そのポイントについて、二〇二〇年になってなおまだ何ら決定打となる根拠が示されたわけではない。今後引き続き、フーコーにならって「性の歴史」が、しかも欧米とはまた異なった過程を辿った日本の「性の歴史」が、書かれねばならないだろう。
なお、先日のアメリカ大統領選挙結果が出た。だが法廷闘争へ場所を変えて何か動きがあるようだ。トランプ氏はただ単なる一人の「男」に戻ったわけだが。しかし時代の流れは非情である。改めて資本主義が選択した世界の再構築への課題に対して勝利して見せようとするわけだから。なるほどマスコミは「ヒスパニック系移民」の票がどのように流れたかわからないというようなことを言い立てている。ところが資本主義の「いろは」から言えば、「ヒスパニック系移民」の票は、それがどのような流れを呈したとしても、流れる寸前に、それらすべての投票者から人間の姿形を取り上げ去り、いったん貨幣価値へと変換し一元的に還元し、同時に「公理系化」する強度の流れとして諸運動するシステムになっている。一時的にトランプ氏の政策による就業率が「ヒスパニック系移民」の中で上昇したとしても、その票は資本としては貨幣価値へと還元されるため、どれだけの票がトランプ陣営に流れたにせよ、貨幣価値に変換した上で資本の自己目的を押し上げる水準にまで到達していなければ資本主義は瞬時に向きを置き換える。ところが投票された「ヒスパニック系移民」の投票数はまさしく数の上でのみトランプ氏の側へ増大しているかのように現われて見える。もし再集計してみれば「ヒスパニック系移民」の投票数はトランプ氏に有利な数を示すかもしれない。しかし資本主義はただ単にいっときの選挙のためだけに政治的意図のもとに職業を与えられた「ヒスパニック系移民」の票数を見るわけでない。逆に彼らがこの四年間で資本として貨幣価値へと還元された価値部分のみを見る。すると彼らの貨幣価値は恐ろしく低レベルに抑えつけられていて、世界的水準で天秤にかけると、ただ単なる四年間でトランプファミリーの富の増殖のためにのみ「ヒスパニック系移民」が政治利用されたに過ぎないということがわかってくる。資本はただ単にアメリカだけを相手にしているわけではさらさらない。世界中で自己目的としての利子の増殖が貫徹されていなければトランプファミリーだけがどうのこうのと喚き声を上げてみても資本主義の原理原則はびくともしない。グローバル資本主義というのは、言い換えれば、そういうことだ。世界資本主義の流動性においてトランプ氏は経営者の一人に過ぎない。その意味で経営者はどこまで行っても経営者であって、資本主義的公理系を成す一角でしかない。ところがトランプ氏は「おれは男だ」という。
一方、日本では、今の女性国会議員が駆け出しだった頃、「男らしくなさい」と捨てぜりふを吐いていた。もはや選挙に関する買収疑惑で公職選挙法違反容疑者となった(後に保釈)。また犯罪容疑者ではないが、国会議事堂本会議場で全野党陣営に向かって「恥を知りなさい」という忘れがたい捨てぜりふを吐いた女性議員は現役でいる。しかし両者ともトランプ氏に向けて「男らしくなさい」とも「恥を知りなさい」とも一言も言わない。実質的な意味でそういう品のない態度の取り方を平気でやって見せる女性が議員になれるような日本の社会環境が変化しない以上、いつまで経っても日本人女性の生活地位向上のためにはならない。「恥を知る」ためには資本主義についてもっと知らなければ何もわかったことにならない。資本主義というのは一体どのような制度なのか。もっとじっくり学ばなければならない。
BGM1
BGM2
BGM3
「私は友人の孫逸仙ーーー『ロンドン幽囚記』の著者ーーーから、広東で豊富に産するが、今では単に少年少女の娯楽の対象になっていると聞いた。日本でも少しも珍しいものではなく、酢貝(すがい)と呼ばれて、子供たちの玩具になっている。しかし、かつては情事に用いられたものらしい。西鶴(十七世紀)は熊野比丘尼が持ち運んで売る品物の主要なものの中に、それを記している」(南方熊楠「燕石考」『南方民俗学・P.383』河出文庫)
まず第一に関係箇所を柳田國男の論考から見た。
「後世の熊野比丘尼はいわゆる美目(びもく)盼(へん)たる者であった。しかしこの徒が口寄せの業務から次第に遠ざかったのは、眼の明盲とはまったく無関係であるらしく、やはり髪を剃り頭巾(ずきん)などを被(かぶ)ったことが、自然に託宣の値打ちを減じたためかと思う。京の縄手通三条下ル猿寺という寺で、尼が幣を持って託宣をした近世の例は、『兎園(とえん)小説拾遺』に見えているが、ほかにはあまり聞かない。比丘尼と称しつつ舞を舞ったことは、古くは『臥雲日件録』(がうんにっけんろく)にも記事があれど、これも頭を丸めては似合わなかったとみえて、後はただ簓(ささら)を扣(たた)いて流行歌(はやりうた)などを歌った。ゆえにこの徒が札配りや勧進の外に逸出して変な一種の職業に従事したのも、間接には剃髪強制の結果ではないかと思う。『人倫訓蒙図彙』(じんりんきんもうずい)に曰く、歌比丘尼は元は清浄の立派にて、熊野を信じて諸方に勧進しけるが、いつしか衣を略し歯を磨き、頭を仔細に包みて小歌を便にして売るなり。巧齢過ぎたるを御寮と号し、夫に山伏を持ち女童(めのわらわ)の弟子あまたとりしたつるなり。この者都鄙(とひ)にあり都は建仁寺町薬師の図子(ずし)に侍(はべ)る云々とあり。名古屋九十軒町に住する熊野比丘尼は、元祖は慶長三年に伊勢の山田から来た。簓を摺(す)りうたう遊興を勧めたと『尾張志』に見えている。『和訓栞』には何に拠ったものか、歌比丘尼の郷里は紀州の那智で、山伏を夫としつつ一方には遊女に同じき生活をする。その歳悔(さいく)を受けて一山富めりとあり。『東海道名所記』の沼津の条には、歌比丘尼の由来を詳しく述べてその退化を説き、今の比丘尼は熊野・伊勢には詣れども行もせず、戒を破り絵解をも知らず、歌を肝要とするのは嘆かわしいと、すごぶる彼等が不道徳を責めている。しかし比丘尼が色を売るのはともかくも、男のあるということまでは決して違犯ではない。比丘尼は単に彼等の名称であって実質ではなかった。これを仏法の尼と同視してその生活の自由なるに驚くのは驚く人が無理だ。東京では商家の丁稚(でっち)の髪をいつまでも剃りこかしておいて、形が似ているからこれを小僧と呼んだ。今もし小僧はすなわち僧だからとの理由で魚を食わせなかったら彼等はどんなに嘆くか分らぬ。それとまったく同じき不道理である」(柳田國男「巫女考・神子の夫、修験の妻」『柳田國男全集11・P.396~397』ちくま文庫)
なお「建仁寺町薬師の図子(ずし)」と地獄絵との関連についても前に述べた。さらに。
「歌比丘尼の本国は熊野であったと申します。中には旅先で弟子を取り、または町中に住居を定めた者も多かったようですが、少なくとも年に一度は、還るといって熊野に往復しました。媚(こび)をひさぐような境遇に落ちた比丘尼までが、熊野の牛王札(ごおうふだ)を売ると称して男の中に出入りし、箱には酢貝(すがい)という貝殻を入れて、土産と名づけて得意の家へ贈ったことが西鶴の小説などにあります。どうして熊野にばかり、このような特殊な職業婦人をたくさんに産するに至ったかはむつかしい問題ですが、本来この偏卑(へんぴ)な土地の信仰が、一時日本の隅々までも普及したのは、最初から神人の旅行ということが要素であったからで、永くその状態を続けていれば、後には故郷に不用なる人が多くなり、何としてなりとも外で生計を立てることが必要になったことかと思います。多くの熊野比丘尼には配偶者がいて、たいていは修験者(しゅげんじゃ)でありました。女の供給によって一山富むとさえいっていますが、彼等が正当の収入は遊芸の報酬ではなく、普通には勧進(かんじん)と称して、人に喜捨を勧めたのであります。神の社、仏の社、それから橋や山道の改修までも勧進し、後には伊勢の神宮の地にも来て住んで、ある時には大廟(だいびょう)造営のためにも働いています。こういう目的の比丘尼たちが国々をあるく場合に、歌にして聴かせた物語の種類が、一種や二種に限られていなかったのは、むしろ当然のことかと思います」(柳田國男「女性と民間伝承・熊野比丘尼」『柳田國男全集10・P.466~467』ちくま文庫)
次の内容もほぼ同じ。
「昔の人たちの心持では、熊野比丘尼のごとき境遇にある婦人は、特に堕落するまでもなくこれを遊女と名づけてすこしも差支えがなかったのであります。遊女という語には本来は売春という意味はありませんでした。『万葉集』の頃にはこれを遊行女婦(うかれめ)と名づけていまして、九州から瀬戸内海の処々の船着き、それから北は越前の国府あたりにも、この者が来ていて歌を詠んだ話が残っています。その名称の基くところは、例の藤沢寺の遊行上人などの遊行も同じで、いわゆる一所不住で、次から次へ旅をしている女というに過ぎませぬ。日本の語に直してうかれ女と申したのも、今日の俗語の浮かれるというのとは違い、単に漂泊して定まった住所のないことです。後にこれを『あそび』といったのは、言わば一種のしゃれのごときもので、遊という漢字が一方にはまた音楽の演奏をも意味し、遊女が通例その『あそび』に長じていたために、わざと本(もと)の意を離れてこうも呼んだものかと考えます」(柳田國男「女性と民間伝承・遊行女婦」『柳田國男全集10・P.469~470』ちくま文庫)
そしてまた。
「足利時代にできたという『職人尽歌合』には、熊野比丘尼は俗体で烏帽子(えぼし)・小素襖(こすおう)を着し琵琶(びわ)を抱き、杖の先に雉(きじ)の尾を附けたのを持ち、絵巻を前にひろげている。その歌は、
絵を語り琵琶弾きて経(ふ)る我世(わがよ)こそうき目見えたるめくらなりけれ
とある。熊野比丘尼が熊野の絵と称する地獄六道の画を雉の尾羽で絵解(えとき)をなし勧進してあるいたことは、『骨董集』(こっとうしゅう)その他のありふれた書に見えている」(柳田國男「巫女考・神子の夫、修験の妻」『柳田國男全集11・P.395~396』ちくま文庫)
第二に西鶴の原文から引いた。
「今男盛(おとこさかり)二十六の春。坂田といふ所に、はじめてつきぬ。此浦のけしき、桜は浪にうつり、誠に、花の上漕ぐ、蜑(あま)の釣舟と読(よみ)しは、此所ぞと、御寺(みてら)の門前より詠(ながむ)れば、勧進比丘尼(くはんじんびくに)、声を揃(そろえ)て、うたひ来(きた)れり、是はと立よれば、かちん染の布子(ぬのこ)に、黒綸子(くろりんず)の二つわり、前結びにして、あたまは、何國でも同じ風俗也、元是(もとこれ)は、嘉様(かやう)の事をする身にあらねど、いつ比より、おりやう、猥(みだり)になして、遊女同然に、相手も定(さだめ)ず、百に二人といふこそ笑(おか)し、あれは正しく、江戸滅多(めつた)町にて、しのび、ちぎりをこめし、清林がつれし、米(こめ)かみ、其時は、菅笠(すけかさ)がありくやうに見しが、はやくも、其身にはなりぬと、むかしを語る」(井原西鶴「好色一代男・卷三・木綿布子(もめんぬのこ)もかりの世・P.90~91」岩波文庫)
またこうも。
「艫(とも)に、年(とし)がまへなる親仁(おやじ)、居(ゐ)ながら、楫(かぢ)とりて、比丘尼(びくに)は、大かた、浅黄(あさぎ)の木綿布子(もめんぬのこ)に、竜門(りうもん)の中幅帯(ちうはばおび)、まへむすびにして、黒羽二重(くろはぶたへ)の、あたまがくし、深江(ふかゑ)の、お七ざしの加賀笠(かががさ)、うねたび、はかぬといふ事なし、絹(きぬ)のふたのの、すそみじかく、とりなり、ひとつに拵(こしら)へ、文臺(ぶんだい)に入れしは、熊野(くまの)の牛王(ごわう)、酢貝(すがい)、耳(みみ)がしましき四つ竹、小比丘尼(こびくに)に、定(さだ)まりての、一升(せう)びしやく、勧進(くはんじん)といふ声(こゑ)も、引(ひき)きらず、はやり節(ぶし)をうたひ、それに気(き)を取(と)り、外(ほか)より見るも、かまはず、元(もと)ぶねに乗(の)り移(うつ)り、分立(わけた)てて後(のち)、百つなぎの銭(ぜに)を、袂(たもと)へなげ入れけるも、おかし、あるはまた、割木(わりき)を、其あたひに取り、又は、さし鯖(さば)にも替(か)へ、同じ流(なが)れとはいひながら、是を思へば、すぐれて、さもしき業(わざ)なれども、昔日(そのかみ)より、此所(ところ)に目馴れて、おかしからず、人の行(ゆ)くすゑは、更(さら)にしれぬものぞ、我もいつとなく、いたづらの数(かず)つくして、今惜(お)しき黒髪(くろかみ)を剃(そ)りて、高津(たかつ)の宮(みや)の北(きた)にあたり、高原(たかはら)といへる町(まち)に、軒(のき)は笹(ささ)に葺(ふ)きて、幽(かすか)なる奥(おく)に、此道(みち)に身(み)をふれし、おりやうをたのみ、勤(つと)めてかくも、浅(あさ)ましく、なるものかな、雨(あめ)の日、嵐(あらし)のふく日にも、ゆるさず、かうした、あたま役(やく)に、白米(はくまい)一升(せう)に、銭(ぜに)五十、それより、しもづかたの、子(こ)共にも、定(さだ)めて、五合づつ、毎日(まいにち)、取(と)られければ、をのづと、いやしくなりて、むかしは、かかる事には、あらざりしに、近年(きんねん)、遊女(ゆうぢよ)のごとくなりぬ」(井原西鶴「調謔哥船(たはふれのうたぶね)」『好色一代女・卷三・P.107~111』岩波文庫)
さらに熊楠は「燕石考」の中で、貝原益軒が「子安貝」(こやすがい)のことを「鸚鵡貝(おうむがい)」と勘違いしている、と述べている。西鶴もそのことを勘違いしたまま遊びに耽る長吉(ながよし)という名の男性の生涯を浮世草子(小説)にして述べた箇所があり、前に引いた。
「北野なる紙細工幾人(いくたり)か俄(にはか)によびよせ、桃の唐花(からはな)をつくらせ、行水(ぎやうずい)に鸚鵡貝(あうむがひ)の盃(さかづき)を流し」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻四・一・情(なさけ)に沈む鸚鵡盃(あふむさかづき)」『井原西鶴集2・P.435』小学館)
ところでこの箇所の続きについて機会を見て触れてみると述べておいた。なぜなら第一に、ここでも「子安貝」(こやすがひ)が出てくるから。第二に、この放蕩男性(長吉〔ながよし〕)が遂に男性同性愛者へ変わったことが上げられる。
「右の手に子安貝(こやすがひ)、左の手に海馬(かいば)をにぎらせ参らせ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻四・一・情(なさけ)に沈む鸚鵡盃(あふむさかづき)」『井原西鶴集2・P.437』小学館)
長吉が万感の思いを込めて愛した妻はしかし、流産し女性も死んでしまう。長吉は出家しようとするがまだまだ若いこともあり周囲は引き止め、新しく妻となる女性、前妻よりも美女に違いないと思われる女性を探し出して連れてきた。そして二人を結婚させる。ところが長吉は相手にしない。そればかりか「もう女には飽きた」という。しかし色の道をきっぱり捨て去ったというわけではなく今度は男色の道を極めようと転向する。後妻は若後家としてそのまま放置されてしまう。
「百日の立つ事もなく、精進事をはりてから、人々の内証にてはじめに見増さる美君(びくん)をまねき、長吉(ながよし)の御方へつかはされけるに、各々(おのおの)の心ざしをもそむかず、この上﨟(じやうらふ)をそのままに置きながら、とかくのささめごともなく、不便(ふびん)やこの人、生きながらの若後家(わかごけ)なり。しかれども色はやめがたく、女はふつふつと飽きて、その後は小姓を置かれける」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻四・一・情(なさけ)に沈む鸚鵡盃(あふむさかづき)」『井原西鶴集2・P.438』小学館)
何がきっかけになって同性愛者となるのか。そのポイントについて、二〇二〇年になってなおまだ何ら決定打となる根拠が示されたわけではない。今後引き続き、フーコーにならって「性の歴史」が、しかも欧米とはまた異なった過程を辿った日本の「性の歴史」が、書かれねばならないだろう。
なお、先日のアメリカ大統領選挙結果が出た。だが法廷闘争へ場所を変えて何か動きがあるようだ。トランプ氏はただ単なる一人の「男」に戻ったわけだが。しかし時代の流れは非情である。改めて資本主義が選択した世界の再構築への課題に対して勝利して見せようとするわけだから。なるほどマスコミは「ヒスパニック系移民」の票がどのように流れたかわからないというようなことを言い立てている。ところが資本主義の「いろは」から言えば、「ヒスパニック系移民」の票は、それがどのような流れを呈したとしても、流れる寸前に、それらすべての投票者から人間の姿形を取り上げ去り、いったん貨幣価値へと変換し一元的に還元し、同時に「公理系化」する強度の流れとして諸運動するシステムになっている。一時的にトランプ氏の政策による就業率が「ヒスパニック系移民」の中で上昇したとしても、その票は資本としては貨幣価値へと還元されるため、どれだけの票がトランプ陣営に流れたにせよ、貨幣価値に変換した上で資本の自己目的を押し上げる水準にまで到達していなければ資本主義は瞬時に向きを置き換える。ところが投票された「ヒスパニック系移民」の投票数はまさしく数の上でのみトランプ氏の側へ増大しているかのように現われて見える。もし再集計してみれば「ヒスパニック系移民」の投票数はトランプ氏に有利な数を示すかもしれない。しかし資本主義はただ単にいっときの選挙のためだけに政治的意図のもとに職業を与えられた「ヒスパニック系移民」の票数を見るわけでない。逆に彼らがこの四年間で資本として貨幣価値へと還元された価値部分のみを見る。すると彼らの貨幣価値は恐ろしく低レベルに抑えつけられていて、世界的水準で天秤にかけると、ただ単なる四年間でトランプファミリーの富の増殖のためにのみ「ヒスパニック系移民」が政治利用されたに過ぎないということがわかってくる。資本はただ単にアメリカだけを相手にしているわけではさらさらない。世界中で自己目的としての利子の増殖が貫徹されていなければトランプファミリーだけがどうのこうのと喚き声を上げてみても資本主義の原理原則はびくともしない。グローバル資本主義というのは、言い換えれば、そういうことだ。世界資本主義の流動性においてトランプ氏は経営者の一人に過ぎない。その意味で経営者はどこまで行っても経営者であって、資本主義的公理系を成す一角でしかない。ところがトランプ氏は「おれは男だ」という。
一方、日本では、今の女性国会議員が駆け出しだった頃、「男らしくなさい」と捨てぜりふを吐いていた。もはや選挙に関する買収疑惑で公職選挙法違反容疑者となった(後に保釈)。また犯罪容疑者ではないが、国会議事堂本会議場で全野党陣営に向かって「恥を知りなさい」という忘れがたい捨てぜりふを吐いた女性議員は現役でいる。しかし両者ともトランプ氏に向けて「男らしくなさい」とも「恥を知りなさい」とも一言も言わない。実質的な意味でそういう品のない態度の取り方を平気でやって見せる女性が議員になれるような日本の社会環境が変化しない以上、いつまで経っても日本人女性の生活地位向上のためにはならない。「恥を知る」ためには資本主義についてもっと知らなければ何もわかったことにならない。資本主義というのは一体どのような制度なのか。もっとじっくり学ばなければならない。
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