熊野参詣の帰り。或る僧侶が「山々の難所(なんじよ)を越え、漸々(やうやう)、麓(ふもと)に」下りてきた。といってもまだまだ辺鄙な山里である。「雪こんこんや、丸雪(あられ)こんこん」と、里の子どもらの声が聞こえる。僧侶はそちらへ歩いていき「人家はまだ遠いだろうか」とたずねた。一晩なりとも休憩させてもらうつもりである。が、熊野の山岳地帯を下りてきたばかりの僧侶姿が不気味に見えたのか子どもらはいっぺんに逃げ帰ってしまった。しかしたった一人、小吟(こぎん)という娘が残り、声を掛けてくれた。九歳だが「長(おと)なしく」(大人びて)見える。もう少し歩けますか。そうしたらわたしの家があります。風呂で体を休めていかれてはいかがですか、と申し出る。
「今少し行けば、我(わ)がかたなり。湯をも進(まゐ)らすべし」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻二・旅行の暮の僧にて候」『井原西鶴集2・P.219』小学館)
小吟の両親はささやかながら僧侶をもてなす。出家した理由は両親を亡くしたのをきっかけに、その死後の供養のため諸国巡礼していると。だからまたお会いできるかもしれませんと礼を述べて夜明け前に立ち去った。その姿を見届けて小吟は両親にささやく。さっきの僧は革の財布に大量の小判を持っているようです。こんな雪の道中、しばらくは誰も見ている者はいないはず。殺すのも手かと。
「今の坊様(ぼんさま)は、風呂敷包(ふろしきづつみ)の中に、小判のかさたかく、革袋(かはぶくろ)に入れさせ給ふを見付けたり。おひとりなれば、人のしる事にもあらず。殺して金を取り給へ」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻二・旅行の暮の僧にて候」『井原西鶴集2・P.220』小学館)
もっとも、小吟の言葉が出る前に両親の胸のうちに殺しの観念はない。両親の欲望は小吟の言葉とともに出現したという点に注意しておこう。人間の欲望を出現させるのはいつも言語である。ただ、鄙びた「熊野の山家(やまが)」で暮らす女子児童がなぜ小判の意味を知っていたかは謎だ。
「殊更(ことさら)、熊野の山家(やまが)なれば、干鯛(ひだい)も木になる物やら、傘(からかさ)も何のためになる物をもしらざる所に、小判といふ物、見しりけるも不思議なり」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻二・旅行の暮の僧にて候」『井原西鶴集2・P.220』小学館)
歩く欲望と化した小吟の父は僧侶襲撃に赴く。僧侶はいう。もはや出家の身なので命を惜しいとは思わない。しかし普段の生活に何か不自由があって金銭に困っているというのであれば、小判百両があるので命の代りに惜しむことなく差し出そう。小吟の父は言葉を返す。「銀(かね)が敵(かたき)となる浮世と思へ」。言うや否や僧侶の脇腹を鑓(やり)で貫き通して金を奪う。旅の僧侶は「おのれ、この一念、幾程(いくほど)かあるべし、口をしや」と言い残して死んだ。お前さんもいずれ死ぬ身であるのにましてや僧侶に手をかけて路銀を奪った。のちの呪いを楽しみにしておけと。
「『我出家の身なれば、命をしきにあらず。しかれども、何の意趣ありて、かく害し給ふぞ。路銀を取るべき望みあらば、命にかへてをしまじ』と、小判百両、ありのままに抛出(なげいだ)せば、これを請(う)け取り、『銀(かね)が敵(かたき)となる浮世と思へ』と、脇腹(わきばら)をさし通せば、困(くる)しき声をあげ、『おのれ、この一念、幾程(いくほど)かあるべし、口をしや』」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻二・旅行の暮の僧にて候」『井原西鶴集2・P.221』小学館)
小吟の父は僧が川辺に倒れたところを止めの一撃で刺し貫き、死骸を川の藻の下に隠して去った。手に入れた百両を用い、村落共同購入でない単独の牛を飼い、田畑も買った。そして綿花がなる頃や米の収穫の秋には有り余るほどの金が転がり込んでくるようになった。殺害されたのは僧侶だが、琵琶法師・座頭などの盲人も熊野三山への勧進を解いて全国を廻った。僧侶殺しと同じく座頭殺しはより一層罪が重いとされた。
五年が過ぎて小吟は十四歳。美貌に育ち山村の若い男らを手玉に取って遊びまくるようになる。なお、本文に「桜色なる顔を作れば」とあるのは、素顔でも十分魅力的に見えるのに、さらに化粧すること。また化粧の色を桜色に似せたとは必ずしも限らない。
小吟の両親はだんだん気が気でなくなる。熊野の山里で男遊びに惚けている年頃の娘の親としては外聞をはばかるのは当然だろう。諫めようと注意すると小吟はいう。
「この富貴は、自(みづか)らが智恵(ちゑ)付けて、箇様(かやう)になりける」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻二・旅行の暮の僧にて候」『井原西鶴集2・P.221~222』小学館)
直訳すれば「裕福な暮らしができるのは誰の知恵のおかげか」となるわけだが、小吟がほのめかしているのはずばり貨幣の力である。小吟は自分自身の知恵を誇っているように見えるけれども、実のところ小吟は、小判百両に目がくらんで殺人まで平気で犯して辺りはばからない自分の両親自身を軽蔑しないではいられないわけだ。小吟はもはや金と男なしでは生きていけない女になっていく。かつての僧侶殺害に際して「銀(かね)が敵(かたき)となる浮世と思へ」、と言い放った小吟の父の言葉がここで大きく響いている。
一方、明治時代になり近代国家の仲間入りを果たした日本。輸入したばかりの資本主義の創成期に当たる。その当時は見知らぬ他人を殺害して金銭を得られない場合、明治維新以前から別の方法でこっそり行われていた殺人が表面化したばかりか大量続発するようになった。子殺しである。
「三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で伐(き)り殺したことがあった。女房はとくに死んで、後には十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰って来て、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手(からて)で戻って来て、飢えきっている小さい者の顔も見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。眼がさめてみると、小屋の口いっぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りの処にしゃがんで、しきりに何かしているので、傍へ行ってみたら一生懸命に仕事に使う大きな斧(おの)を磨(みが)いていた。阿爺(おとう)、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向(あおむ)けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢(ろう)に入れられた。この親爺(おやじ)がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出て来たのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細(しさい)あってただ一度、この一件書類を読んでみたことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕(むし)ばみ朽ちつつあるであろう」(柳田國男「山の人生・山に埋もれたる人生ある事」『柳田國男全集4・P.81~82』ちくま文庫)
急速に深刻になってくる柳田とは対照的に熊楠は、一九一二年(大正一年)、相変わらず学術研究者であって、人間の「魂」が身体を出たり入ったりする「迷信」について論じたりしていた。熊楠ははっきり「迷信」としている。が、なぜそのような迷信が定着するに至ったのか「伊勢物語」から次の和歌を引いている。
「思いあまり出(い)でにし魂(たま)のあるならむ夜深く見えば魂むすびせよ」(新潮日本古典修正「伊勢物語・百十・在原業平・P.126」新潮社)
熊楠がわざわざ「魂むすび」と書かれた歌を引いているのにはもちろん理由がある。二〇二〇年の今なお「地鎮祭」を行わないでいられないのはなぜか。人間はどうしてこうも原始時代の信仰を持ち続けたがるのか。良い悪いは問題外だ。一方に高度テクノロジーへの意志があり、もう一方で原始的アニミズムを捨て去ることができない人間という生物。
なお、香港民主化運動について、ではなく、日本のマスコミ報道におけるその取り上げ方について。周庭氏は日本のアニメや漫画がとても好きなようだが周庭氏自身はアニメキャラではない。歴然たる政治運動家である。民主化運動が再び激化すると香港警察は非常事態宣言を出す。すると中国人民解放軍が軍事介入してくる。その動きに合わせて米軍はより一層中国に近づく。日米安保条約があるため日本政府も米軍に同調する。しかしそうすればするほど日本は中国経済圏から一歩遠のくことを意味する。とりわけ中小企業はさらなる危機的状況へ叩き込まれる。その間、激化の一途を辿っている東欧やバルカン、アフリカの紛争地帯に関する報道はますます手薄になる。なかでも最も不明瞭になるのはアメリカ合衆国の実状そのものだ。東京五輪も日に日に怪しい。政府与党が選挙対策のために流用したとされる金の出所はまだ追求されきっていない。もともとは税金なのだが。と、そこで周庭氏のアニメキャラ化を始めた日本のマスコミ。「銀(かね)が敵(かたき)となる浮世」。
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「今少し行けば、我(わ)がかたなり。湯をも進(まゐ)らすべし」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻二・旅行の暮の僧にて候」『井原西鶴集2・P.219』小学館)
小吟の両親はささやかながら僧侶をもてなす。出家した理由は両親を亡くしたのをきっかけに、その死後の供養のため諸国巡礼していると。だからまたお会いできるかもしれませんと礼を述べて夜明け前に立ち去った。その姿を見届けて小吟は両親にささやく。さっきの僧は革の財布に大量の小判を持っているようです。こんな雪の道中、しばらくは誰も見ている者はいないはず。殺すのも手かと。
「今の坊様(ぼんさま)は、風呂敷包(ふろしきづつみ)の中に、小判のかさたかく、革袋(かはぶくろ)に入れさせ給ふを見付けたり。おひとりなれば、人のしる事にもあらず。殺して金を取り給へ」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻二・旅行の暮の僧にて候」『井原西鶴集2・P.220』小学館)
もっとも、小吟の言葉が出る前に両親の胸のうちに殺しの観念はない。両親の欲望は小吟の言葉とともに出現したという点に注意しておこう。人間の欲望を出現させるのはいつも言語である。ただ、鄙びた「熊野の山家(やまが)」で暮らす女子児童がなぜ小判の意味を知っていたかは謎だ。
「殊更(ことさら)、熊野の山家(やまが)なれば、干鯛(ひだい)も木になる物やら、傘(からかさ)も何のためになる物をもしらざる所に、小判といふ物、見しりけるも不思議なり」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻二・旅行の暮の僧にて候」『井原西鶴集2・P.220』小学館)
歩く欲望と化した小吟の父は僧侶襲撃に赴く。僧侶はいう。もはや出家の身なので命を惜しいとは思わない。しかし普段の生活に何か不自由があって金銭に困っているというのであれば、小判百両があるので命の代りに惜しむことなく差し出そう。小吟の父は言葉を返す。「銀(かね)が敵(かたき)となる浮世と思へ」。言うや否や僧侶の脇腹を鑓(やり)で貫き通して金を奪う。旅の僧侶は「おのれ、この一念、幾程(いくほど)かあるべし、口をしや」と言い残して死んだ。お前さんもいずれ死ぬ身であるのにましてや僧侶に手をかけて路銀を奪った。のちの呪いを楽しみにしておけと。
「『我出家の身なれば、命をしきにあらず。しかれども、何の意趣ありて、かく害し給ふぞ。路銀を取るべき望みあらば、命にかへてをしまじ』と、小判百両、ありのままに抛出(なげいだ)せば、これを請(う)け取り、『銀(かね)が敵(かたき)となる浮世と思へ』と、脇腹(わきばら)をさし通せば、困(くる)しき声をあげ、『おのれ、この一念、幾程(いくほど)かあるべし、口をしや』」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻二・旅行の暮の僧にて候」『井原西鶴集2・P.221』小学館)
小吟の父は僧が川辺に倒れたところを止めの一撃で刺し貫き、死骸を川の藻の下に隠して去った。手に入れた百両を用い、村落共同購入でない単独の牛を飼い、田畑も買った。そして綿花がなる頃や米の収穫の秋には有り余るほどの金が転がり込んでくるようになった。殺害されたのは僧侶だが、琵琶法師・座頭などの盲人も熊野三山への勧進を解いて全国を廻った。僧侶殺しと同じく座頭殺しはより一層罪が重いとされた。
五年が過ぎて小吟は十四歳。美貌に育ち山村の若い男らを手玉に取って遊びまくるようになる。なお、本文に「桜色なる顔を作れば」とあるのは、素顔でも十分魅力的に見えるのに、さらに化粧すること。また化粧の色を桜色に似せたとは必ずしも限らない。
小吟の両親はだんだん気が気でなくなる。熊野の山里で男遊びに惚けている年頃の娘の親としては外聞をはばかるのは当然だろう。諫めようと注意すると小吟はいう。
「この富貴は、自(みづか)らが智恵(ちゑ)付けて、箇様(かやう)になりける」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻二・旅行の暮の僧にて候」『井原西鶴集2・P.221~222』小学館)
直訳すれば「裕福な暮らしができるのは誰の知恵のおかげか」となるわけだが、小吟がほのめかしているのはずばり貨幣の力である。小吟は自分自身の知恵を誇っているように見えるけれども、実のところ小吟は、小判百両に目がくらんで殺人まで平気で犯して辺りはばからない自分の両親自身を軽蔑しないではいられないわけだ。小吟はもはや金と男なしでは生きていけない女になっていく。かつての僧侶殺害に際して「銀(かね)が敵(かたき)となる浮世と思へ」、と言い放った小吟の父の言葉がここで大きく響いている。
一方、明治時代になり近代国家の仲間入りを果たした日本。輸入したばかりの資本主義の創成期に当たる。その当時は見知らぬ他人を殺害して金銭を得られない場合、明治維新以前から別の方法でこっそり行われていた殺人が表面化したばかりか大量続発するようになった。子殺しである。
「三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で伐(き)り殺したことがあった。女房はとくに死んで、後には十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰って来て、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手(からて)で戻って来て、飢えきっている小さい者の顔も見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。眼がさめてみると、小屋の口いっぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りの処にしゃがんで、しきりに何かしているので、傍へ行ってみたら一生懸命に仕事に使う大きな斧(おの)を磨(みが)いていた。阿爺(おとう)、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向(あおむ)けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢(ろう)に入れられた。この親爺(おやじ)がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出て来たのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細(しさい)あってただ一度、この一件書類を読んでみたことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕(むし)ばみ朽ちつつあるであろう」(柳田國男「山の人生・山に埋もれたる人生ある事」『柳田國男全集4・P.81~82』ちくま文庫)
急速に深刻になってくる柳田とは対照的に熊楠は、一九一二年(大正一年)、相変わらず学術研究者であって、人間の「魂」が身体を出たり入ったりする「迷信」について論じたりしていた。熊楠ははっきり「迷信」としている。が、なぜそのような迷信が定着するに至ったのか「伊勢物語」から次の和歌を引いている。
「思いあまり出(い)でにし魂(たま)のあるならむ夜深く見えば魂むすびせよ」(新潮日本古典修正「伊勢物語・百十・在原業平・P.126」新潮社)
熊楠がわざわざ「魂むすび」と書かれた歌を引いているのにはもちろん理由がある。二〇二〇年の今なお「地鎮祭」を行わないでいられないのはなぜか。人間はどうしてこうも原始時代の信仰を持ち続けたがるのか。良い悪いは問題外だ。一方に高度テクノロジーへの意志があり、もう一方で原始的アニミズムを捨て去ることができない人間という生物。
なお、香港民主化運動について、ではなく、日本のマスコミ報道におけるその取り上げ方について。周庭氏は日本のアニメや漫画がとても好きなようだが周庭氏自身はアニメキャラではない。歴然たる政治運動家である。民主化運動が再び激化すると香港警察は非常事態宣言を出す。すると中国人民解放軍が軍事介入してくる。その動きに合わせて米軍はより一層中国に近づく。日米安保条約があるため日本政府も米軍に同調する。しかしそうすればするほど日本は中国経済圏から一歩遠のくことを意味する。とりわけ中小企業はさらなる危機的状況へ叩き込まれる。その間、激化の一途を辿っている東欧やバルカン、アフリカの紛争地帯に関する報道はますます手薄になる。なかでも最も不明瞭になるのはアメリカ合衆国の実状そのものだ。東京五輪も日に日に怪しい。政府与党が選挙対策のために流用したとされる金の出所はまだ追求されきっていない。もともとは税金なのだが。と、そこで周庭氏のアニメキャラ化を始めた日本のマスコミ。「銀(かね)が敵(かたき)となる浮世」。
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