熊楠の諸論文に目を通してかつて柳田國男は述べた。論文を書くに当たってもう少し欧米で採用されているような形式的なものに改めてくれれば世界中で発表されるのに惜しい、と。しかしそうしないことであえて欧米にまみれていく日本の知識人にありがちな思考をジャンプさせておき、そして結果的に今なおまだまだ探究されていない可能性を残すことに成功したのは熊楠の思考の側となった。どちらが良い悪いという問題ではないが。
「ダーウィンが多年猴舞(さるまわ)しに執心した者の説を聞いて記したは、一概に猴と呼ぶものの、舞が上手になる奴とならぬ奴は稽古始めの日から分かる。最初人が舞うて見せる手先に注意して眼を付くる猴は必ずものになるが、精神錯乱して人の手先に気を付けぬ者は幾月教えても成功せぬ、とある。人間もその通りで、どんな詰まらぬ事物にでも注意をする人は、必ず何か考え付き、万巻の書を読み万里の旅をしても何一つ注意深からぬ人はいたずらに銭と暇を費やすばかりだ」(南方熊楠「情事を好く植物」『森の思想・P.352』河出文庫)
もっともだというほかない。しかしなぜそのような事態が発生するのか。ニーチェは端的にこう述べた。
「私たちは、後を追って継起する規則的なものに馴れきってしまったので、《そこにある不思議なものを不思議がらないのである》」(ニーチェ「権力への意志・下巻・六二〇・P.153」ちくま学芸文庫)
熊楠の思考は問いかけを含んでいる。ダーウィンの名を出してきたのは取っ掛かりに過ぎない。一見他愛ない「猴舞し」がかくも長いあいだ全国各地で伝統的行事として保存されてきたかが問題なのであって、その焦点は「猴」が「舞う」のはなぜか、ではないからである。猿が舞いを覚えるのはなぜかというだけのことならダーウィンの名を持ち出すだけであっけなく済んでしまったことだろう。柳田國男はいう。
「猿廻しも今では女子供の眼を楽しませるものの一となっているが、昔は立派な一つの儀式であった。かのマンザイなどよりも、もっと厳格な儀式であった。京都では朝廷においても正月の三日にこれを行わせられ、江戸の幕府でも年々その儀式が行われていたのであった。それは何のための儀式であったかというと馬の安全息災を祈るためのものであったのである。その証拠には現在でも厩(うまや)の口に猿が馬を引いているところの札を貼っているのが、あちらこちらで見受けらるるのでも分る。現に播磨(はりま)の石の宝殿社の守札のごとく今なお行われているものが少なくない。『新編武蔵風土記稿』、多摩郡巻之一百八に、日吉山王権現社には古い絵馬があるという記事が出ていて、またその絵馬の図までも書いてある。その絵馬を見ると、馬が狂い出そうとしているのを、猿が引き留めているのである。あれなども猿が馬の守りをするという思想を表わしたものであろうと思う。私の考えではあの猿の話と例の河童(かっぱ)、中国地方ではエンコとはまったく同じものだと思うのであるが、それは少し話が余談にわたるから略するとして、とにかく猿は馬屋の番に使われたものだという事は確実である」(柳田國男「猿廻しの話」「柳田国男全集5・P.510」ちくま文庫)
河童については少し前に折口信夫から引き、随分述べたので割愛してもよいだろう。河童伝説が根強く残っている地域の特性に着目した。それはいずれ下流域で大型河川へ合流する中型河川の中流域の山村に多い。児童らの背丈で十分遊べるような中小河川である。ところが昨今の異常気象によって条件が変化したため想定外の事態として再現されているように、かつては中小河川の水量がいきなり増すことがよくあった。中流域に氾濫が多発した時代、その周囲が子どもたちの遊び場だった地域に多かったのである。例えば熊野のような山岳地帯ではちょっとした天候の変化だけで、どの河川でも中流域での増減水度は一般的に激しい。すると次のような民譚が出現する。
「紀州田辺(タナベ)辺ニ於テ猿ト河童トハ兄弟分ナリト云イ、猿河童ヲ見レバ急ニ水中ニ飛ビ入ラントスルガ故ニ、猿牽ハ何(イズ)レモ川ヲ渡ルコトヲ非常ニ忌ムト云ウ説ノ如キ〔南方熊楠氏報〕、亦(マタ)此ノ絵札ヲ猿牽ガ配リシカト想像セシムベキ一材料ナリ」(柳田國男「山島民譚集(一)」「柳田国男全集5・P.129」ちくま文庫)
だから結果的に河童の正体は、その戯画化された様相とはまったく異なる「龍神」であると述べた。急激な大増水を巨龍に見立てた古人の言葉はその意味で正しかったのである。
柳田がいっているのはもう少し違う面だ。「猿回し」は「神事」である。そう柳田はいう。いつ頃からか。
「御厩(みまや)の隅(すみ)なる飼猿(かひざる)は 絆(きづな)離れて さぞ遊ぶ 木に登り 常盤(ときは)の山なる楢芝(ならしば)は 風の吹くにぞ ちうとろ揺(ゆ)るぎて裏返(うらがへ)る」(新潮日本古典集成「梁塵秘抄・巻第二・三五二・P.145」新潮社)
とあるように、後白河院存命中すでに白拍子らは「猿について」歌うのではなく、形態が整えられた「猿回し」に関連した「舞い」を披露していたことになる。一一二七年(大治二年)〜一一九二年(建久三年)頃。
さらに、猿はなぜ馬小屋に繋がれているか。猿は馬を疫病から守ってくれる守護神だと考えられていた。これは言葉の問題であり、要するに「猿」(さる)=〔魔が〕「去る」=「魔猿」(まさる)となって出現し、今なお信仰されているのが、例えば日吉山王社で有名な木彫りの猿の人形である。
しかし柳田の場合、なるほど資料収集専門家だけあってその手腕は当時日本のトップレベルだったのかもしれない。けれども思考回路は政府主導による言文一致運動が完成を見た後の人間の思考回路として成熟してしまっており、それぞれの論文は「辞書として」書棚に置いておけば何かと便利ではあるが、近代日本以前へぐっと遡行する運動性はもはや失われてしまっている。レヴィ=ストロースの言葉を借りれば「野生の思考」がない。だがそんな柳田にせめて「山島民譚集」や「妹の力」、「山の人生」など、力作を描かせたのは柳田自身ではないのである。こう言っている。
「何が暗々裡の感化を与えて、こんな奇妙な文章を書かせたかということが、まず第一に考えられるが、久しい昔になるのでもうこれという心当りはない。ただほんの片端だけ、故南方熊楠(みなかたくまぐす)氏の文に近いようなところのあるのは、あの当時闊達無碍(かったつむげ)の筆を揮(ふる)っていたこの人の報告や論文を羨(うらや)みまた感じて読んでいた名残かとも思う」(柳田國男「山島民譚集(一)・再版序」「柳田国男全集5・P.58」ちくま文庫)
ともすれば四角四面な面ばかりが見えて残念に思えてしまう柳田の論文だが、辞書としてはなかなか申し分ない。そこにかろうじて生き生きとした息吹を吹き込んでいるのは柳田自身に元からあった技術ではない。熊楠の《文体》が柳田の頭脳に与えたショックである。
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「ダーウィンが多年猴舞(さるまわ)しに執心した者の説を聞いて記したは、一概に猴と呼ぶものの、舞が上手になる奴とならぬ奴は稽古始めの日から分かる。最初人が舞うて見せる手先に注意して眼を付くる猴は必ずものになるが、精神錯乱して人の手先に気を付けぬ者は幾月教えても成功せぬ、とある。人間もその通りで、どんな詰まらぬ事物にでも注意をする人は、必ず何か考え付き、万巻の書を読み万里の旅をしても何一つ注意深からぬ人はいたずらに銭と暇を費やすばかりだ」(南方熊楠「情事を好く植物」『森の思想・P.352』河出文庫)
もっともだというほかない。しかしなぜそのような事態が発生するのか。ニーチェは端的にこう述べた。
「私たちは、後を追って継起する規則的なものに馴れきってしまったので、《そこにある不思議なものを不思議がらないのである》」(ニーチェ「権力への意志・下巻・六二〇・P.153」ちくま学芸文庫)
熊楠の思考は問いかけを含んでいる。ダーウィンの名を出してきたのは取っ掛かりに過ぎない。一見他愛ない「猴舞し」がかくも長いあいだ全国各地で伝統的行事として保存されてきたかが問題なのであって、その焦点は「猴」が「舞う」のはなぜか、ではないからである。猿が舞いを覚えるのはなぜかというだけのことならダーウィンの名を持ち出すだけであっけなく済んでしまったことだろう。柳田國男はいう。
「猿廻しも今では女子供の眼を楽しませるものの一となっているが、昔は立派な一つの儀式であった。かのマンザイなどよりも、もっと厳格な儀式であった。京都では朝廷においても正月の三日にこれを行わせられ、江戸の幕府でも年々その儀式が行われていたのであった。それは何のための儀式であったかというと馬の安全息災を祈るためのものであったのである。その証拠には現在でも厩(うまや)の口に猿が馬を引いているところの札を貼っているのが、あちらこちらで見受けらるるのでも分る。現に播磨(はりま)の石の宝殿社の守札のごとく今なお行われているものが少なくない。『新編武蔵風土記稿』、多摩郡巻之一百八に、日吉山王権現社には古い絵馬があるという記事が出ていて、またその絵馬の図までも書いてある。その絵馬を見ると、馬が狂い出そうとしているのを、猿が引き留めているのである。あれなども猿が馬の守りをするという思想を表わしたものであろうと思う。私の考えではあの猿の話と例の河童(かっぱ)、中国地方ではエンコとはまったく同じものだと思うのであるが、それは少し話が余談にわたるから略するとして、とにかく猿は馬屋の番に使われたものだという事は確実である」(柳田國男「猿廻しの話」「柳田国男全集5・P.510」ちくま文庫)
河童については少し前に折口信夫から引き、随分述べたので割愛してもよいだろう。河童伝説が根強く残っている地域の特性に着目した。それはいずれ下流域で大型河川へ合流する中型河川の中流域の山村に多い。児童らの背丈で十分遊べるような中小河川である。ところが昨今の異常気象によって条件が変化したため想定外の事態として再現されているように、かつては中小河川の水量がいきなり増すことがよくあった。中流域に氾濫が多発した時代、その周囲が子どもたちの遊び場だった地域に多かったのである。例えば熊野のような山岳地帯ではちょっとした天候の変化だけで、どの河川でも中流域での増減水度は一般的に激しい。すると次のような民譚が出現する。
「紀州田辺(タナベ)辺ニ於テ猿ト河童トハ兄弟分ナリト云イ、猿河童ヲ見レバ急ニ水中ニ飛ビ入ラントスルガ故ニ、猿牽ハ何(イズ)レモ川ヲ渡ルコトヲ非常ニ忌ムト云ウ説ノ如キ〔南方熊楠氏報〕、亦(マタ)此ノ絵札ヲ猿牽ガ配リシカト想像セシムベキ一材料ナリ」(柳田國男「山島民譚集(一)」「柳田国男全集5・P.129」ちくま文庫)
だから結果的に河童の正体は、その戯画化された様相とはまったく異なる「龍神」であると述べた。急激な大増水を巨龍に見立てた古人の言葉はその意味で正しかったのである。
柳田がいっているのはもう少し違う面だ。「猿回し」は「神事」である。そう柳田はいう。いつ頃からか。
「御厩(みまや)の隅(すみ)なる飼猿(かひざる)は 絆(きづな)離れて さぞ遊ぶ 木に登り 常盤(ときは)の山なる楢芝(ならしば)は 風の吹くにぞ ちうとろ揺(ゆ)るぎて裏返(うらがへ)る」(新潮日本古典集成「梁塵秘抄・巻第二・三五二・P.145」新潮社)
とあるように、後白河院存命中すでに白拍子らは「猿について」歌うのではなく、形態が整えられた「猿回し」に関連した「舞い」を披露していたことになる。一一二七年(大治二年)〜一一九二年(建久三年)頃。
さらに、猿はなぜ馬小屋に繋がれているか。猿は馬を疫病から守ってくれる守護神だと考えられていた。これは言葉の問題であり、要するに「猿」(さる)=〔魔が〕「去る」=「魔猿」(まさる)となって出現し、今なお信仰されているのが、例えば日吉山王社で有名な木彫りの猿の人形である。
しかし柳田の場合、なるほど資料収集専門家だけあってその手腕は当時日本のトップレベルだったのかもしれない。けれども思考回路は政府主導による言文一致運動が完成を見た後の人間の思考回路として成熟してしまっており、それぞれの論文は「辞書として」書棚に置いておけば何かと便利ではあるが、近代日本以前へぐっと遡行する運動性はもはや失われてしまっている。レヴィ=ストロースの言葉を借りれば「野生の思考」がない。だがそんな柳田にせめて「山島民譚集」や「妹の力」、「山の人生」など、力作を描かせたのは柳田自身ではないのである。こう言っている。
「何が暗々裡の感化を与えて、こんな奇妙な文章を書かせたかということが、まず第一に考えられるが、久しい昔になるのでもうこれという心当りはない。ただほんの片端だけ、故南方熊楠(みなかたくまぐす)氏の文に近いようなところのあるのは、あの当時闊達無碍(かったつむげ)の筆を揮(ふる)っていたこの人の報告や論文を羨(うらや)みまた感じて読んでいた名残かとも思う」(柳田國男「山島民譚集(一)・再版序」「柳田国男全集5・P.58」ちくま文庫)
ともすれば四角四面な面ばかりが見えて残念に思えてしまう柳田の論文だが、辞書としてはなかなか申し分ない。そこにかろうじて生き生きとした息吹を吹き込んでいるのは柳田自身に元からあった技術ではない。熊楠の《文体》が柳田の頭脳に与えたショックである。
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