類似しているからといって同一と考えてよい場合とそうでない場合の区別は厳密でなくてはならない。それが熊楠の研究方針だった。
「熊楠按ずるに、霊魂不断人身内に棲むとは、何人にも知れ切ったことのようなれど、また例外なきにあらず。極地のエスキモーは、魂と身と名と三つ集まりて個人をなす。魂常に身外にありて、身に伴うこと影の身を離れざるごとく、離るれば身死す、と信ず」(南方熊楠「睡眠中に霊魂抜け出づとの迷信」『南方民俗学・P.267~268』河出文庫)
熊楠は「迷信を信じない」と述べているが、だからこそ魂があちこち離れたり別人にくっ付いたりする説話があることに高い感心を持っていた。柳田國男もまた人間が実際に八〇〇年も生きられるとは考えていない。にもかかわらずなぜ「八百比丘尼」なのか。
「若狭の八百比丘尼は本国小浜(おばま)のある神社の中に、玉椿(たまつばき)の花を手に持った木像を安置しているのみではない。北国は申すに及ばず、東は関東の各地から西は中国、四国の方々の田舎に、この尼が巡遊したと伝うる故跡は数多く、たいていは樹を栽え神を祭り時としては塚を築き石を建てている。それが単なる偶合でなかったと思うことは、どうしてそのように長命をしかたの説明にまで、書物を媒介とせぬ一部の一致と脈略がある。つまりは霊怪なる宗教婦人が、かつて巡国をして来たことはあったので、その特色は驚くべき高齢を称しつつ、しかも顔色の若々しかった点にあったのである。人はずいぶんと白髪の皺(しわ)だらけの過去をしていても、八百といえば嘘だと思わぬ者はないであろうに、とにかくにこれを信ぜしめるだけの、術だか力だかは持っていたのである。それが一人かはた幾人もあったのかは別として、京都の地へも文安から宝徳の頃に、長寿の尼が若狭からやって来て、毎日多くの市民に拝まれたことは、『臥雲日件録』(がうんにっけんろく)にも書いてあれば、また『康富記』(やすとみき)などにもちゃんと日記として載せてあるから、それを疑うことはできないのである。もっともこの時代は七百歳の車僧(くるまぞう)のように、長生を評判にする風は流行であった。しからば何か我々の想像し得ない方法が、これを証明していたのかも知れぬが、何にしても『平家物語』や『義経記』の非常な普及が、始めて普通人に年代の知識と、回顧趣味とを鼓吹(こすい)したのはこの時代だから、比丘尼の昔語りは諸国巡歴のために、大なる武器であったことと思う。ただ自分たちの想像では、単なる作り事ではこれまでに人は欺き得ない」(柳田國男「山の人生・十一・仙人出現の理由を探求すべき事」『柳田國男全集4・P.118~119』ちくま文庫)
柳田は様々な著書の中から類例を上げている。「本朝故事因縁集」、「提醒紀談」(ていせいきだん)、「広益俗説弁」(こうえきぞくせつべん)、「清悦物語」(せいえつものがたり)、など。その上で柳田はこういう。
「さてこれらの話を集めてみて、結局目に立つのは、常に源平の合戦を知っていることが長命の証拠になったという点である」(柳田國男「山の人生・十一・仙人出現の理由を探求すべき事」『柳田國男全集4・P.124』ちくま文庫)
平安時代後半。呪術政治の時代は終わり武家政権の世になる。両者の境界線に位置するのが「平家物語」だ。それを語り歩くことができること。八百比丘尼にしてもその他多くの遊行者にしても「平家物語」から始まり、「太平記」、「熊野勧進地獄絵図」、など「語り」こそ衣食住を確保するためになくてはならない武器となった。また座頭の場合、盲人芸能者の常として「語り」の途中で上手く伝えられない場合がある。そのような時は目の見える比丘尼らが応援に駆けつけ身振り手振りで座頭の「語り」を助けた。「語り」だけで食べていくのに苦労が伴うのは今も昔も変わらない。かおかつ「語り」はいつも生本番である。現場でのリハーサルややり直しがきかない。だから年季を積んだ一人前の座頭ではなくプレッシャーのため途中で気持ちが折れそうになってしまう若い座頭もいる。そんな時は機転の効く美形の比丘尼が素早く駆けつけ観客に向け、「目くばせ」、「歌」、「体全体の動作」、などの技術を用いて間を持たせてやり、半人前の若年座頭の気持ちを持ち直させた。今でいう「共助」という言葉がなかった遥か昔、彼らは「共助」とは何か、身を持って知っていたのである。
さて。熊楠の愛読書「男色大鑑」から。
京の上賀茂の山影に住んだ男性の話から始まる。この男性はいつも「組戸(くみど)さし籠(こ)め」ている。格子戸を閉ざしている。一種の世捨人。とはいえ、十一月になると四条河原の顔見世興行が始まり、新しい美形揃いの若衆が登場してくる頃だとどきどきわくわくする。だが一方、師走になってもっと冬めいてくると「山草被(かづ)きし者の声」=「正月用の羊歯類売りの声」、辺りはばからぬ「餅突き」の音頭、「書出(かきだ)し」=「歳末に必ず届けられる諸々の請求書」など、周囲はやおら慌ただしさを増すが、今の自分の境遇には関係がなくて済む。世捨人としては、そのような俗世のしきたりと無縁でいられるのが徳といえば徳かも知れない。
「組戸(くみど)さし籠(こ)め、川原(かはら)の顔見世芝居も、今時なん、入れ替(か)はる若衆方を思ひやるばかりに、その程を過ぎ、なほ冬めきて、人の足音もはやく、山草被(かづ)きし者の声、餅突き、書出(かきだ)し、今の徳はそれを知らず」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻一・二・この道いろはにほへと」『井原西鶴集2・P.321』小学館)
おそらくこの男性は、当時の武士の流行としてもてはやされた、遊び半分の男色家ではない。根っからの同性愛者であったろうと思われる。西鶴の文章を見ると、「玉むすびの黒髪の見ゆるもうたてく、北の方の窓ぬりふさぎ」、とある。天皇行幸の際に随伴する女官の姿とその衣装が一切目に入らないように北の方に向いて設置してある窓を塗りつぶして閉じたまま。もしかしたら過去に女性から手酷い目にあった経験から男性同性愛者へ転向したタイプなのかもしれないが原文を見る限りその様子は感じられない。もっと日陰者としての自覚があり、これといって生きがいを感じることもなく、まだ若い頃すでに隠棲したようだ。しかしどうやって食っているのだろう。「歌と読みとあって」=「かるた遊びに歌と読みと両方あるように」、それなりに方法がある。周辺の子供たちを集めて寺子屋を開き、「童子経(どうじきやう)」を教えてやっていた。「童子経」は江戸時代、「庭訓往来」(ていきんおうらい)とともに寺子屋で用いられた教科書の一つ。で、男性は「手習ひ屋の一道(いちだう)」と呼ばれていた。
「玉むすびの黒髪の見ゆるもうたてく、北の方の窓ぬりふさぎて、日影草のあるに甲斐(かひ)なき身も、歌と読みとあって、里ちかき童子経(どうじきやう)ををしへ、手習ひ屋の一道(いちだう)と名によばれて年月をおくりぬ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻一・二・この道いろはにほへと」『井原西鶴集2・P.323』小学館)
寺子屋に通ってくる子供たちの中に、「下賀茂(しもがも)の地侍(じざぶらひ)」(下鴨神社近くの土着の郷士)の息子がいた。そのうちの二人はとても仲が良かった。一人は篠岡大吉(しのおかだいきち)、もう一人は小野新之助(おのしんのすけ)といった。ともに九歳。しかしあなどるなかれ、「肩をぬげば、草子錐(さうしぎり)封じ小刀にて、若道(じやくだう)の念約の印(しるし)紫立ち」とあるように、二人は早くも男色の契りを結んで深い仲になっている。男色があちこちで行われていた当時、特に女性がそれを嫌うということもなく、むしろ大吉・新之助ともに備わった美貌ゆえ、二人が若衆盛りになると周囲の僧侶、町衆、性別、いずれにかぎらず大人気となり、彼ら二人に憧れるあまり「千愁百病」=「恋わずらいで寝込んでしまう」連中が続出した。
「なほさかんになる時は、二人が美形(びけい)にひかれて、僧俗男女にかぎらず、千愁百病となつて、焦が(こが)れ死(じに)その数しらず」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻一・二・この道いろはにほへと」『井原西鶴集2・P.324』小学館)
ところで「手習ひ屋の一道(いちだう)」だが、彼らに手を出すことは一切ない。詫び住まいの世捨人で自ら四条河原の歌舞伎若衆のことが忘れられないくらいなのだが。それより注目したいのは、底辺暮らしで日陰者の「手習ひ屋の一道(いちだう)」の手元から眩いばかりの華麗な二輪の男花が出現した点である。この小説はここから後半へ続く。と同時に「手習ひ屋の一道(いちだう)」の役割は終わっていてもう出てこない。
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「熊楠按ずるに、霊魂不断人身内に棲むとは、何人にも知れ切ったことのようなれど、また例外なきにあらず。極地のエスキモーは、魂と身と名と三つ集まりて個人をなす。魂常に身外にありて、身に伴うこと影の身を離れざるごとく、離るれば身死す、と信ず」(南方熊楠「睡眠中に霊魂抜け出づとの迷信」『南方民俗学・P.267~268』河出文庫)
熊楠は「迷信を信じない」と述べているが、だからこそ魂があちこち離れたり別人にくっ付いたりする説話があることに高い感心を持っていた。柳田國男もまた人間が実際に八〇〇年も生きられるとは考えていない。にもかかわらずなぜ「八百比丘尼」なのか。
「若狭の八百比丘尼は本国小浜(おばま)のある神社の中に、玉椿(たまつばき)の花を手に持った木像を安置しているのみではない。北国は申すに及ばず、東は関東の各地から西は中国、四国の方々の田舎に、この尼が巡遊したと伝うる故跡は数多く、たいていは樹を栽え神を祭り時としては塚を築き石を建てている。それが単なる偶合でなかったと思うことは、どうしてそのように長命をしかたの説明にまで、書物を媒介とせぬ一部の一致と脈略がある。つまりは霊怪なる宗教婦人が、かつて巡国をして来たことはあったので、その特色は驚くべき高齢を称しつつ、しかも顔色の若々しかった点にあったのである。人はずいぶんと白髪の皺(しわ)だらけの過去をしていても、八百といえば嘘だと思わぬ者はないであろうに、とにかくにこれを信ぜしめるだけの、術だか力だかは持っていたのである。それが一人かはた幾人もあったのかは別として、京都の地へも文安から宝徳の頃に、長寿の尼が若狭からやって来て、毎日多くの市民に拝まれたことは、『臥雲日件録』(がうんにっけんろく)にも書いてあれば、また『康富記』(やすとみき)などにもちゃんと日記として載せてあるから、それを疑うことはできないのである。もっともこの時代は七百歳の車僧(くるまぞう)のように、長生を評判にする風は流行であった。しからば何か我々の想像し得ない方法が、これを証明していたのかも知れぬが、何にしても『平家物語』や『義経記』の非常な普及が、始めて普通人に年代の知識と、回顧趣味とを鼓吹(こすい)したのはこの時代だから、比丘尼の昔語りは諸国巡歴のために、大なる武器であったことと思う。ただ自分たちの想像では、単なる作り事ではこれまでに人は欺き得ない」(柳田國男「山の人生・十一・仙人出現の理由を探求すべき事」『柳田國男全集4・P.118~119』ちくま文庫)
柳田は様々な著書の中から類例を上げている。「本朝故事因縁集」、「提醒紀談」(ていせいきだん)、「広益俗説弁」(こうえきぞくせつべん)、「清悦物語」(せいえつものがたり)、など。その上で柳田はこういう。
「さてこれらの話を集めてみて、結局目に立つのは、常に源平の合戦を知っていることが長命の証拠になったという点である」(柳田國男「山の人生・十一・仙人出現の理由を探求すべき事」『柳田國男全集4・P.124』ちくま文庫)
平安時代後半。呪術政治の時代は終わり武家政権の世になる。両者の境界線に位置するのが「平家物語」だ。それを語り歩くことができること。八百比丘尼にしてもその他多くの遊行者にしても「平家物語」から始まり、「太平記」、「熊野勧進地獄絵図」、など「語り」こそ衣食住を確保するためになくてはならない武器となった。また座頭の場合、盲人芸能者の常として「語り」の途中で上手く伝えられない場合がある。そのような時は目の見える比丘尼らが応援に駆けつけ身振り手振りで座頭の「語り」を助けた。「語り」だけで食べていくのに苦労が伴うのは今も昔も変わらない。かおかつ「語り」はいつも生本番である。現場でのリハーサルややり直しがきかない。だから年季を積んだ一人前の座頭ではなくプレッシャーのため途中で気持ちが折れそうになってしまう若い座頭もいる。そんな時は機転の効く美形の比丘尼が素早く駆けつけ観客に向け、「目くばせ」、「歌」、「体全体の動作」、などの技術を用いて間を持たせてやり、半人前の若年座頭の気持ちを持ち直させた。今でいう「共助」という言葉がなかった遥か昔、彼らは「共助」とは何か、身を持って知っていたのである。
さて。熊楠の愛読書「男色大鑑」から。
京の上賀茂の山影に住んだ男性の話から始まる。この男性はいつも「組戸(くみど)さし籠(こ)め」ている。格子戸を閉ざしている。一種の世捨人。とはいえ、十一月になると四条河原の顔見世興行が始まり、新しい美形揃いの若衆が登場してくる頃だとどきどきわくわくする。だが一方、師走になってもっと冬めいてくると「山草被(かづ)きし者の声」=「正月用の羊歯類売りの声」、辺りはばからぬ「餅突き」の音頭、「書出(かきだ)し」=「歳末に必ず届けられる諸々の請求書」など、周囲はやおら慌ただしさを増すが、今の自分の境遇には関係がなくて済む。世捨人としては、そのような俗世のしきたりと無縁でいられるのが徳といえば徳かも知れない。
「組戸(くみど)さし籠(こ)め、川原(かはら)の顔見世芝居も、今時なん、入れ替(か)はる若衆方を思ひやるばかりに、その程を過ぎ、なほ冬めきて、人の足音もはやく、山草被(かづ)きし者の声、餅突き、書出(かきだ)し、今の徳はそれを知らず」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻一・二・この道いろはにほへと」『井原西鶴集2・P.321』小学館)
おそらくこの男性は、当時の武士の流行としてもてはやされた、遊び半分の男色家ではない。根っからの同性愛者であったろうと思われる。西鶴の文章を見ると、「玉むすびの黒髪の見ゆるもうたてく、北の方の窓ぬりふさぎ」、とある。天皇行幸の際に随伴する女官の姿とその衣装が一切目に入らないように北の方に向いて設置してある窓を塗りつぶして閉じたまま。もしかしたら過去に女性から手酷い目にあった経験から男性同性愛者へ転向したタイプなのかもしれないが原文を見る限りその様子は感じられない。もっと日陰者としての自覚があり、これといって生きがいを感じることもなく、まだ若い頃すでに隠棲したようだ。しかしどうやって食っているのだろう。「歌と読みとあって」=「かるた遊びに歌と読みと両方あるように」、それなりに方法がある。周辺の子供たちを集めて寺子屋を開き、「童子経(どうじきやう)」を教えてやっていた。「童子経」は江戸時代、「庭訓往来」(ていきんおうらい)とともに寺子屋で用いられた教科書の一つ。で、男性は「手習ひ屋の一道(いちだう)」と呼ばれていた。
「玉むすびの黒髪の見ゆるもうたてく、北の方の窓ぬりふさぎて、日影草のあるに甲斐(かひ)なき身も、歌と読みとあって、里ちかき童子経(どうじきやう)ををしへ、手習ひ屋の一道(いちだう)と名によばれて年月をおくりぬ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻一・二・この道いろはにほへと」『井原西鶴集2・P.323』小学館)
寺子屋に通ってくる子供たちの中に、「下賀茂(しもがも)の地侍(じざぶらひ)」(下鴨神社近くの土着の郷士)の息子がいた。そのうちの二人はとても仲が良かった。一人は篠岡大吉(しのおかだいきち)、もう一人は小野新之助(おのしんのすけ)といった。ともに九歳。しかしあなどるなかれ、「肩をぬげば、草子錐(さうしぎり)封じ小刀にて、若道(じやくだう)の念約の印(しるし)紫立ち」とあるように、二人は早くも男色の契りを結んで深い仲になっている。男色があちこちで行われていた当時、特に女性がそれを嫌うということもなく、むしろ大吉・新之助ともに備わった美貌ゆえ、二人が若衆盛りになると周囲の僧侶、町衆、性別、いずれにかぎらず大人気となり、彼ら二人に憧れるあまり「千愁百病」=「恋わずらいで寝込んでしまう」連中が続出した。
「なほさかんになる時は、二人が美形(びけい)にひかれて、僧俗男女にかぎらず、千愁百病となつて、焦が(こが)れ死(じに)その数しらず」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻一・二・この道いろはにほへと」『井原西鶴集2・P.324』小学館)
ところで「手習ひ屋の一道(いちだう)」だが、彼らに手を出すことは一切ない。詫び住まいの世捨人で自ら四条河原の歌舞伎若衆のことが忘れられないくらいなのだが。それより注目したいのは、底辺暮らしで日陰者の「手習ひ屋の一道(いちだう)」の手元から眩いばかりの華麗な二輪の男花が出現した点である。この小説はここから後半へ続く。と同時に「手習ひ屋の一道(いちだう)」の役割は終わっていてもう出てこない。
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