熊楠は「大峰山上」、「出羽三山」、「熊野三山」、を例に上げ、「寵愛の稚児」であろうと「艶容の若衆」であろうと「創負いたる老夫」であろうと、葬らなければ同行の者らもまた死んでしまうほかなかったような時代について語る。戊辰戦争でもまだそのようなことがあった。
「平安朝とか鎌倉・足利時代に、日光・湯本間よりずっと峻路多かりし大峰山上とか、出羽三山とか熊野三山とかの道路を思いやれば如何(いかが)あるべき。いかに寵愛の稚児なりとも、艶容の若衆なりとも、一人病み出されては限りある日数に予定の行方を遂ぐることならず。今のごとき担架もなければ、かんづめの食菜もなし。山伏などみなみな斧を手にして山に分け入るを要するほどの困難な道中に、そんな病人など出来ては、涙に咽んでこれを捨て去るの外なきなり。近く徳川勢が伏見より紀州へ落ち来たりし、小生二歳のときなどすら、江戸旗下(はたもと)の士で創負いたる老夫を介抱して立ち退くことならずより、首を打ち落とし腰に付けて来たりしもの一人に止まらざりしと、これを目撃したる亡母の語られし」(南方熊楠「ちご石、北条綱成、稚児の谷落とし、『思いざし』、その他」『浄のセクソロジー・P.470』河出文庫)
松永久秀の名も出てくる。
「落城とか、自分が追放さるるとかの時に、最愛のものが敵の手に落つるを憂いて、納得させた上、または欺きて、寵愛の男女を谷へ落とし滝壺に沈むるほとのことは、いかほどもあるべし。ーーー松永久秀が自殺する前に、信長が垂涎する平蜘(ひらぐも)の釜を打ち破りしと同じ覚悟なり。君寵を得る童は殉死を覚悟し、僧兵に囲われた若衆は谷に沈むくらいのことを覚悟せねば、戦国などには相応の立身も出世もならざりしことに候」(南方熊楠「ちご石、北条綱成、稚児の谷落とし、『思いざし』、その他」『浄のセクソロジー・P.471~472』河出文庫)
平蜘蛛の釜のエピソードは有名だが織田信長の手に渡ってはいない。松永久秀は自分の自害と同時に平蜘蛛の釜に火薬を仕掛けて爆破したらしい。
「平蜘蛛 松永の代に失す」(「山上宗二記」『日本の茶書1・P.170』東洋文庫)
さて。熊楠の愛読書の一つ、西鶴「男色大鑑」の中に、主人公より関心を引く人物が登場する。主人公は京の四条河原の歌舞伎役者・千之丞。超絶的人気を誇る模範的女形である。十四歳から四十二歳まで振袖で通したという設定。
「十四の春よりも都の舞台を踏みそめ、四十二の大厄(たいやく)まで振袖(ふりそで)をきて、一日も見物にあかれぬ事、末の世の若女形(わかおんながた)これにあやかるべし」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻五・三・思ひの焼付は火打石売り」『井原西鶴集2・P.480』小学館)
しかも大変気が利く。大寺院に所属する僧侶らは寺院の貴重な物品を売り払い、あるいは「山林竹木(さんりんちくぼく)」=「寺領」を金に換え、こぞって千之丞に入れあげる。富裕な商人らも同様。それゆえ身を滅ぼす者が絶えなかった。さらに噂を聞きつけた公家は似顔絵を書かせたりしたが、千之丞人気を妬む役者や絵師もいて、滑稽な姿をした千之丞の絵が出回ったりもした。
「すこし酔(ゑ)ひいての座配(ざはい)、紅葉(もみぢ)のあさき脇顔、見しに恋をもとめて、高尾・南禅寺(なんぜんじ)・東福寺(とうふくじ)にかぎらず、諸山(しよさん)のうき坊主、代々(よよ)の筆のものを売りはらひ、又は山林竹木(さんりんちくぼく)までを切り絶やし、皆この君の御為(おんため)となし、後はひらきて傘(からかさ)に身をかくしぬ。あるいは商人(あきびと)の手代(てだい)、その親方をだしぬき、かぎりもなく金銀をつひやし、かりなる御情(なさけ)に家をうしなふ人、その数をしらず」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻五・三・思ひの焼付は火打石売り」『井原西鶴集2・P.481~482』小学館)
一方、五条の橋の下で暮らしている或る男性がいた。火打石を売って糊口をしのいでいる。朝方に鞍馬山へ出かけて火打石を拾い、昼に洛中に帰ってきて五条橋の下で売る。売れ残りはその日のうちに捨てた。その日暮しに迷う様子もないようで、周囲はその男性のことを「都の今賢人(いまけんじん)」と呼んで一目置いていた。
「風のはげしき夕暮(ゆふぐれ)、しかも雪日和(ゆきびより)にして、はや北山は松の葉しろく見わたし、物のさわがしき道橋(みちはし)の下、五条の川原を夜(よる)の臥(ふ)し所(どころ)として、渡世(とせい)夢のやうに極(きは)めて、まことに石火(せきくわ)の光、朝(あした)に鞍馬川(くわまがは)の火打石(ひうちいし)をひろひ、洛中(らくちゆう)を売り廻(めぐ)りて、残れば夕(ゆふべ)に捨てて、その日暮しの思ひ出(で)、これを都の今賢人(いまけんじん)といへり」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻五・三・思ひの焼付は火打石売り」『井原西鶴集2・P.482~483』小学館)
話題は千之丞の耳にも入った。むかしは「尾州(びしう)にかくれもなき風流男(やさおとこ)」。尾張国では知らぬ者のない伊達男だったという。思い返してみると、千之丞がまだ若女方として登場した頃から贔屓にしてくれ、さらに互いに男色関係を深く暖め合った、まさにその人に違いない。よく聞くと今「五条の河原(かはら)に浅ましき形(かたち)にてまします」という。うらぶれはてて五条河原にいるらしい。或る時、どこへ行ったのかわからなくなり残念に思っていたのだが、こんな近くにいたとは。
「この人のむかしを聞けば、尾州(びしう)にかくれもなき風流男(やさおとこ)なり。千之丞太夫なりの自分より、深く申しかはして逢ひぬ。身をかくし給ひて、久しく御行方(ゆきがた)のしれざる事を嘆きしに、ある人伝へて、『五条の河原(かはら)に浅ましき形(かたち)にてまします』」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻五・三・思ひの焼付は火打石売り」『井原西鶴集2・P.483』小学館)
霜夜の明け方の寒さが身にこたえる朝。千之丞は一人、燗酒の用意を持って五条橋の下でかつての愛人の名を呼びながら探し歩く。
「曙霜夜(あけぼのしもよ)身にこたへて、嵐もはげしき河原を思ひやりて、袂(たもと)に盃(さかづき)を入れ、燗鍋(かんなべ)を提げて、人をもつれず岸根(きしね)の小石を踏みこえて、水鳥の浪(なみ)の瀬枕(せまくら)をさわがし、はるかなる橋の下に行きて、『尾張の三木(さんぼく)様』と、むかしの名を呼べども知れず」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻五・三・思ひの焼付は火打石売り」『井原西鶴集2・P.484』小学館)
男性のかつての名は「尾張の三木(さんぼく)」。「三木(さんぼく)」は三木(みき)とも読む。さらに三木は「神酒」(みき)、または「三木」(そうぎ)とも言う場合がある。「そうぎ」は「葬儀」のことで、葬儀と神酒との用意は両者合わせて一つの職として成り立つことがあったらしい。仏事と神事とはそう厳密に分割されていたわけではない。意味は違っていても行われることは同じであることが縷々あった。今でも結婚式の後に食事があり葬式の締め括りにも食事が出る。もっとも、今は打ち続く不況のため、食事を省略するケースは加速的に増えたが。それはそれとして、古代、いずれも儀式という意味で元々の形式は一つだったと考えられる。それにしても、「尾張の三木(さんぼく)」の身体は長い間のその日暮らしで傷だらけだ。千之丞は懸命になって三木の足をさするけれども「あかぎれより紅(くれなゐ)乱してなほいたましき」。あちこち血が滲んでいて見るに忍びない。
「しばし過ぎにし事を語りて、手づからもりし酒に明方(あけがた)の風をしのぎ、東の空もしらみて、『御有様をみるに、風俗の残りし所はひとつもなし。かくも又替はる物ぞ』と御足をさすれば、あかぎれより紅(くれなゐ)乱してなほいたましき」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻五・三・思ひの焼付は火打石売り」『井原西鶴集2・P.484~485』小学館)
芝居の太鼓を打つ時間(午前六時頃開場)が迫ってきた。なので今日の夕暮れにまた来ますと千之丞はいう。三木はどこか憂鬱そうな風情のまま千之丞に黙って五条河原を立ち去った。去った理由に少しばかり思い当たるふしがないだろうか。遠く古代ギリシア文献の一節。
「もし人がこれら地上のものから出発して少年愛の正しい道を通って上昇しつつ、あの美を観じ始めたならば、彼はもうほとんど最後の目的に手が届いたといってもよい」(プラトン「饗宴・P.125~126」岩波文庫)
ともかく、立ち去られてしまった千之丞にすれば残された火打石だけが三木の形見だ。火打石をかき集め、「東山今熊野(いまぐまの)の片陰にはこばせて、枯葉の小笹(をざさ)が奥に塚をつき」、亡くなった人を「弔(とぶら)ふごとく」、草庵を結んで法華経を唱える法師を連れてきて塚の守りとした。「新恋塚(しんこひづか)」とあるが、そもそもの「恋塚」は鳥羽の恋塚伝説。
「その後千之丞この事をなげきて、都の中をたづねしにその甲斐(かひ)もなく、残れる火打石(ひうちいし)を取り集めて、東山今熊野(いまぐまの)の片陰にはこばせて、枯葉の小笹(をざさ)が奥に塚をつき、その御方の定紋(ぢやうもん)なれば、、しるしに桐の一本をを植ゑおき、世になき人を弔(とぶら)ふごとく、辺(ほと)りに草庵をむすび、日蓮(にちれん)の口まねをせられし法師をすゑて、ここを守らせける。ある人名づけて、これを新恋塚(しんこひづか)といへり」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻五・三・思ひの焼付は火打石売り」『井原西鶴集2・P.485』小学館)
そこで、なぜ「塚」なのか。神酒、葬儀、そして埋葬。古くはそれらはまとめられて一つの「祭場」を形成した。「祭場」は同時に「斎場」でもあった。柳田國男はいう。
「人間の埋葬のために築いた以外の塚は、どうもまだ明白にその性質を断言する事は自分にもできぬが、とにかくそれが一種の祭場であった事はほぼ疑いがない。この風は、あるいは古く外国から輸入せられたものだという事もできるかも知れぬが、もちろんこれに関するなんらの証拠はない。ただ支那などでも祭祀の場所は、山とか丘とかいう天然の高味を用ゆるほかに、しばしば人間の足で踏み散らす場所では、必ず祭壇として清浄なる土を盛った事があるから、わが邦においても、最初の趣旨は多分これと同様であったであろう」(柳田國男「塚と森の話・塚は一種の祭場である」『柳田國男全集15・P.476』ちくま文庫)
人々はそこで、笑い、泣き、踊り、祈り、飲み、食い、そしてまた新しく始めることが可能だったのである。
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「平安朝とか鎌倉・足利時代に、日光・湯本間よりずっと峻路多かりし大峰山上とか、出羽三山とか熊野三山とかの道路を思いやれば如何(いかが)あるべき。いかに寵愛の稚児なりとも、艶容の若衆なりとも、一人病み出されては限りある日数に予定の行方を遂ぐることならず。今のごとき担架もなければ、かんづめの食菜もなし。山伏などみなみな斧を手にして山に分け入るを要するほどの困難な道中に、そんな病人など出来ては、涙に咽んでこれを捨て去るの外なきなり。近く徳川勢が伏見より紀州へ落ち来たりし、小生二歳のときなどすら、江戸旗下(はたもと)の士で創負いたる老夫を介抱して立ち退くことならずより、首を打ち落とし腰に付けて来たりしもの一人に止まらざりしと、これを目撃したる亡母の語られし」(南方熊楠「ちご石、北条綱成、稚児の谷落とし、『思いざし』、その他」『浄のセクソロジー・P.470』河出文庫)
松永久秀の名も出てくる。
「落城とか、自分が追放さるるとかの時に、最愛のものが敵の手に落つるを憂いて、納得させた上、または欺きて、寵愛の男女を谷へ落とし滝壺に沈むるほとのことは、いかほどもあるべし。ーーー松永久秀が自殺する前に、信長が垂涎する平蜘(ひらぐも)の釜を打ち破りしと同じ覚悟なり。君寵を得る童は殉死を覚悟し、僧兵に囲われた若衆は谷に沈むくらいのことを覚悟せねば、戦国などには相応の立身も出世もならざりしことに候」(南方熊楠「ちご石、北条綱成、稚児の谷落とし、『思いざし』、その他」『浄のセクソロジー・P.471~472』河出文庫)
平蜘蛛の釜のエピソードは有名だが織田信長の手に渡ってはいない。松永久秀は自分の自害と同時に平蜘蛛の釜に火薬を仕掛けて爆破したらしい。
「平蜘蛛 松永の代に失す」(「山上宗二記」『日本の茶書1・P.170』東洋文庫)
さて。熊楠の愛読書の一つ、西鶴「男色大鑑」の中に、主人公より関心を引く人物が登場する。主人公は京の四条河原の歌舞伎役者・千之丞。超絶的人気を誇る模範的女形である。十四歳から四十二歳まで振袖で通したという設定。
「十四の春よりも都の舞台を踏みそめ、四十二の大厄(たいやく)まで振袖(ふりそで)をきて、一日も見物にあかれぬ事、末の世の若女形(わかおんながた)これにあやかるべし」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻五・三・思ひの焼付は火打石売り」『井原西鶴集2・P.480』小学館)
しかも大変気が利く。大寺院に所属する僧侶らは寺院の貴重な物品を売り払い、あるいは「山林竹木(さんりんちくぼく)」=「寺領」を金に換え、こぞって千之丞に入れあげる。富裕な商人らも同様。それゆえ身を滅ぼす者が絶えなかった。さらに噂を聞きつけた公家は似顔絵を書かせたりしたが、千之丞人気を妬む役者や絵師もいて、滑稽な姿をした千之丞の絵が出回ったりもした。
「すこし酔(ゑ)ひいての座配(ざはい)、紅葉(もみぢ)のあさき脇顔、見しに恋をもとめて、高尾・南禅寺(なんぜんじ)・東福寺(とうふくじ)にかぎらず、諸山(しよさん)のうき坊主、代々(よよ)の筆のものを売りはらひ、又は山林竹木(さんりんちくぼく)までを切り絶やし、皆この君の御為(おんため)となし、後はひらきて傘(からかさ)に身をかくしぬ。あるいは商人(あきびと)の手代(てだい)、その親方をだしぬき、かぎりもなく金銀をつひやし、かりなる御情(なさけ)に家をうしなふ人、その数をしらず」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻五・三・思ひの焼付は火打石売り」『井原西鶴集2・P.481~482』小学館)
一方、五条の橋の下で暮らしている或る男性がいた。火打石を売って糊口をしのいでいる。朝方に鞍馬山へ出かけて火打石を拾い、昼に洛中に帰ってきて五条橋の下で売る。売れ残りはその日のうちに捨てた。その日暮しに迷う様子もないようで、周囲はその男性のことを「都の今賢人(いまけんじん)」と呼んで一目置いていた。
「風のはげしき夕暮(ゆふぐれ)、しかも雪日和(ゆきびより)にして、はや北山は松の葉しろく見わたし、物のさわがしき道橋(みちはし)の下、五条の川原を夜(よる)の臥(ふ)し所(どころ)として、渡世(とせい)夢のやうに極(きは)めて、まことに石火(せきくわ)の光、朝(あした)に鞍馬川(くわまがは)の火打石(ひうちいし)をひろひ、洛中(らくちゆう)を売り廻(めぐ)りて、残れば夕(ゆふべ)に捨てて、その日暮しの思ひ出(で)、これを都の今賢人(いまけんじん)といへり」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻五・三・思ひの焼付は火打石売り」『井原西鶴集2・P.482~483』小学館)
話題は千之丞の耳にも入った。むかしは「尾州(びしう)にかくれもなき風流男(やさおとこ)」。尾張国では知らぬ者のない伊達男だったという。思い返してみると、千之丞がまだ若女方として登場した頃から贔屓にしてくれ、さらに互いに男色関係を深く暖め合った、まさにその人に違いない。よく聞くと今「五条の河原(かはら)に浅ましき形(かたち)にてまします」という。うらぶれはてて五条河原にいるらしい。或る時、どこへ行ったのかわからなくなり残念に思っていたのだが、こんな近くにいたとは。
「この人のむかしを聞けば、尾州(びしう)にかくれもなき風流男(やさおとこ)なり。千之丞太夫なりの自分より、深く申しかはして逢ひぬ。身をかくし給ひて、久しく御行方(ゆきがた)のしれざる事を嘆きしに、ある人伝へて、『五条の河原(かはら)に浅ましき形(かたち)にてまします』」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻五・三・思ひの焼付は火打石売り」『井原西鶴集2・P.483』小学館)
霜夜の明け方の寒さが身にこたえる朝。千之丞は一人、燗酒の用意を持って五条橋の下でかつての愛人の名を呼びながら探し歩く。
「曙霜夜(あけぼのしもよ)身にこたへて、嵐もはげしき河原を思ひやりて、袂(たもと)に盃(さかづき)を入れ、燗鍋(かんなべ)を提げて、人をもつれず岸根(きしね)の小石を踏みこえて、水鳥の浪(なみ)の瀬枕(せまくら)をさわがし、はるかなる橋の下に行きて、『尾張の三木(さんぼく)様』と、むかしの名を呼べども知れず」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻五・三・思ひの焼付は火打石売り」『井原西鶴集2・P.484』小学館)
男性のかつての名は「尾張の三木(さんぼく)」。「三木(さんぼく)」は三木(みき)とも読む。さらに三木は「神酒」(みき)、または「三木」(そうぎ)とも言う場合がある。「そうぎ」は「葬儀」のことで、葬儀と神酒との用意は両者合わせて一つの職として成り立つことがあったらしい。仏事と神事とはそう厳密に分割されていたわけではない。意味は違っていても行われることは同じであることが縷々あった。今でも結婚式の後に食事があり葬式の締め括りにも食事が出る。もっとも、今は打ち続く不況のため、食事を省略するケースは加速的に増えたが。それはそれとして、古代、いずれも儀式という意味で元々の形式は一つだったと考えられる。それにしても、「尾張の三木(さんぼく)」の身体は長い間のその日暮らしで傷だらけだ。千之丞は懸命になって三木の足をさするけれども「あかぎれより紅(くれなゐ)乱してなほいたましき」。あちこち血が滲んでいて見るに忍びない。
「しばし過ぎにし事を語りて、手づからもりし酒に明方(あけがた)の風をしのぎ、東の空もしらみて、『御有様をみるに、風俗の残りし所はひとつもなし。かくも又替はる物ぞ』と御足をさすれば、あかぎれより紅(くれなゐ)乱してなほいたましき」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻五・三・思ひの焼付は火打石売り」『井原西鶴集2・P.484~485』小学館)
芝居の太鼓を打つ時間(午前六時頃開場)が迫ってきた。なので今日の夕暮れにまた来ますと千之丞はいう。三木はどこか憂鬱そうな風情のまま千之丞に黙って五条河原を立ち去った。去った理由に少しばかり思い当たるふしがないだろうか。遠く古代ギリシア文献の一節。
「もし人がこれら地上のものから出発して少年愛の正しい道を通って上昇しつつ、あの美を観じ始めたならば、彼はもうほとんど最後の目的に手が届いたといってもよい」(プラトン「饗宴・P.125~126」岩波文庫)
ともかく、立ち去られてしまった千之丞にすれば残された火打石だけが三木の形見だ。火打石をかき集め、「東山今熊野(いまぐまの)の片陰にはこばせて、枯葉の小笹(をざさ)が奥に塚をつき」、亡くなった人を「弔(とぶら)ふごとく」、草庵を結んで法華経を唱える法師を連れてきて塚の守りとした。「新恋塚(しんこひづか)」とあるが、そもそもの「恋塚」は鳥羽の恋塚伝説。
「その後千之丞この事をなげきて、都の中をたづねしにその甲斐(かひ)もなく、残れる火打石(ひうちいし)を取り集めて、東山今熊野(いまぐまの)の片陰にはこばせて、枯葉の小笹(をざさ)が奥に塚をつき、その御方の定紋(ぢやうもん)なれば、、しるしに桐の一本をを植ゑおき、世になき人を弔(とぶら)ふごとく、辺(ほと)りに草庵をむすび、日蓮(にちれん)の口まねをせられし法師をすゑて、ここを守らせける。ある人名づけて、これを新恋塚(しんこひづか)といへり」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻五・三・思ひの焼付は火打石売り」『井原西鶴集2・P.485』小学館)
そこで、なぜ「塚」なのか。神酒、葬儀、そして埋葬。古くはそれらはまとめられて一つの「祭場」を形成した。「祭場」は同時に「斎場」でもあった。柳田國男はいう。
「人間の埋葬のために築いた以外の塚は、どうもまだ明白にその性質を断言する事は自分にもできぬが、とにかくそれが一種の祭場であった事はほぼ疑いがない。この風は、あるいは古く外国から輸入せられたものだという事もできるかも知れぬが、もちろんこれに関するなんらの証拠はない。ただ支那などでも祭祀の場所は、山とか丘とかいう天然の高味を用ゆるほかに、しばしば人間の足で踏み散らす場所では、必ず祭壇として清浄なる土を盛った事があるから、わが邦においても、最初の趣旨は多分これと同様であったであろう」(柳田國男「塚と森の話・塚は一種の祭場である」『柳田國男全集15・P.476』ちくま文庫)
人々はそこで、笑い、泣き、踊り、祈り、飲み、食い、そしてまた新しく始めることが可能だったのである。
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