白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/黙市〔Silent Trade〕、熊野人の東国出張

2020年11月13日 | 日記・エッセイ・コラム
今年の問いは今年のうちに済ませてしまいたいと思う。けれどもこの問いはそれほど単純でない。来年はもちろん、少なくとも再来年へかけて考えさせられることになるだろうことは必定だと言っておきたい。

「山男のことにつき御注意を惹き置くは鬼市のことに候。小生那智山にありし日、このことをしらべ英国の雑誌へ出せしことあり。鬼市は『五雑俎』に出でおり、支那にはいろいろあると見え、分類して出しおり候。肥前国に昨今もこのことある処ある由。那智にも行者(実加賀〔じっかが〕行者とて明治十三年ごろ滝に投じて死せしもの)の墓を祭るに、線香をその墓前におきあり。詣るもの、銭を投じ線香をとり祭る(肥前のは、路傍に果をならべ、ザルを置く。果を欲するものは、ザルに相当の銭を入れ、果をとり食うなり)。貴下のいずれかの著に、神より物を借ることありしと記憶候(支那にはこのこと多きように『五雑俎』に見ゆ)。今もスマトラなどにて、交易すべき物を林中に置き去れば、蛮民来たりその物をとり、対価相当の物を置き去る風多し。つまり蛮民、他国民の気に触るれば病むと思うによるなり(蛮民他邦の人にあえばたちまち病み、はなはだしきはその人種絶滅するは事実なり)。貴下もしこの鬼市のことをしらべんと思わば、御一報あらば小生知っただけ写し申し上ぐべく候。英国には六年ばかり前に“Silent Trade”(黙市)と題せる一書出で申し候。貴著『遠野物語』に見ゆる山婆が宝物を人の取るに任すということ、また『醒睡笑』にも似たことあり。これらは古えわが邦にも鬼市行なわれし遺風の話にやと存ぜられ候」(南方熊楠「粘菌の神秘について」『南方民俗学・P.436』河出文庫)

それを受けて柳田國男は述べた。

「わが国における無人の貿易のことである。松浦侯の『甲子夜話』(かつしやわ)の中に、九州のある地方で往来の側に餅や草鞋(わらじ)を出しておいて、旅人に自由に代を払って持ち行かせる風習のあることを記してある。これは百年以前の事実であるが、自分はわずか三、四年前土佐を旅行して、かの国には今なお右のごとき質朴な風のあることを目撃した。人家から七、八町も離れた路の側に簡単な棚を設けて箱を置きそれに売品を入れてある。小皿に少しずつ炒(い)った蚕豆(そらまめ)を持ったのもあった。箱の中に三十ばかりの梨の実を入れて、◎◎◎こんな木札を立ててあるのもあった。番をする者はなくしてただ銭筒が引き掛けてあるばかりである。ずいぶん怪しげな遍路道者なども往来するが、これで損失をせぬものと思われる。ーーー東京などにも一時自動の物売器を路傍に置くことが流行した。しかしそれには丈夫な鍵が懸けてあった。不思議に当る金水堂の辻占(つじうら)などは、あるいは売主の思わくを恐れたかも知れぬが、たとえば公園の体量計器に一銭を投入して三人も五人も使用したり、自動電話の番号帳を取って帰ったりする世の中に、田舎にはまだかくのごとく簡易なる取引が行われている。日光の山奥において今も行われているのはよほど大規模のものである。栗山方面の山民が下駄材、柳板もしくは木地の類を背負って来て境の山の峯にあるわずかな小屋の中に置いて行くと、町の方からは味噌とか油とかを携えてこれと交換して来る。相場を商人に一任しておくゆえに立会なしにも取引が行われるのではあろうが、古くからの約束が相続されているためでなくては、なかなか新規には開始しにくい貿易である。甲州の大菩薩(だいぼさつ)峠の頂上でもまたこの種の取引があった。この峠の境には妙見大菩薩の社が二つある。北都留(つる)郡の小菅村から山中の産物を運ぶ者、東山梨郡神金村の萩原から米穀の類を小菅方面へ送る者は、ともにその荷物をこの社の前に卸して代りの品物を持って帰る。雪のために交通の絶える頃などは、春になってようやく昨年発送の品物を取りに行くこともある。ーーー大菩薩峠は昇降各四里の峻坂である。越えて還れば一日ではすまぬ。ほかの山村にもこれに似た例は多かろうと思う。つまりは負搬の労力の節約であって、近世の経済理論のみでも立派に説明ができる。しかしこのほかになお一つ、我々の忘れんとしている事情がある。すなわち孤立したる深山の村ではむやみに外部の人と接触してはならぬ理由があったのである。それは今日の社会でいえば海港検疫などに相当する防衛の手段で、医療の術も不自由な山の中へ怖しい疫病の舞い込むのは常に村境の外からであるゆえに、力(つと)めてその原因を絶とうとしたものである。今一段単純な人々に至っては、原因を混同して平生見馴れぬ人をただちに疫病神またはその使者のごとくにも考えた。しかも米塩はもちろんのこと、珍しい他郷の物は常に欲しいために、いつとなくこのような無人貿易が発達したのである。これはひとり日本のみではなく世界の到る処の山地にある。二種の異なったる民種の間には最も広く行われている。サイレント・トレエドと呼ばるる風習はすなわちこれである。支那では古くからこれを鬼市という。支那の商人は主として南方の蛮民とこの鬼市を行っていた。日本の学者もこの事は聞き伝えて知っていた。たとえば東印度(インド)のある山奥で言語の通じない猿のような野蛮人と乾海鼠(きんこ)を奇楠(きゃら)に交易すること、または天竺に近い夜叉(やしゃ)という国の住民が面を被って貿易をするという話などを伝えている。鬼のような形であるゆえに鬼市というのだともいう。これは鬼市の鬼という字から出た想像であるが、鬼はもと眼に見えぬという意味に違いない。これらの人々もわが邦にも往々にしてこれと同じような取引のあったことを注意しなかった」(柳田國男「山島民譚集(三)・黙市(もくいち)のこと」「柳田国男全集5・P.420~422」ちくま文庫)

黙市や鬼市が行われたのは生活様式が異なる或る村落共同体と他の村落共同体との境界領域となり得るにふさわしく思われた場においてである。おそるおそるではあっても繰り返されることで、その反復が、逆にその場を神聖化するとともに境界領域として定着させた。中世日本で「無縁」と呼ばれた領域に属する。その上で始めて可能となる行為は何か。あるいは逆に可能となったことで始めてその領域は「無縁化」される。互いに排除し合い対立し合う異質な両極(両=村落共同体)の諸生産物を交換関係に置くこと。マルクスはいう。

「彼らは、彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等値することによって、彼らのいろいろに違った労働を互いに人間労働として等値するのである。彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行う」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.138」国民文庫)

始めから等価だと信じて疑っていないためすんなり交換されるわけではまったくない。「彼らはそれを知ってはいない」というように文字通り事情は逆である。両者ともに互いが互いを信頼しきっているので交換関係へ入れるというわけではない。そうではなく、異種の生産物を互いに同時に等値するからこそ両者は同一価値を持つと考えられ、また、そう考えられた場合に限り双方ともに異種の生産物を価値として交換する。

だが資本主義の世界制覇とともにそこへ貨幣が介入してくるようになった。物々交換に代わって原則的に貨幣交換のみが正規の売買形態として承認されるようになった。それが要するに近代化ということにほかならない。だが貨幣交換の場合、交換されるや剰余価値も実現される。それでは等価交換ではなく不等価交換ではないのか。と問うてみたところで既に遅い。しかし資本主義はまた、商品が貨幣交換を通して買われて始めて剰余価値の出現を可視化させることができる。その限りで始めて剰余価値の出現を可視化するほか方法を知らないシステムでもある。貨幣交換されなければそれこそ資本主義は見る見る弱体化してしまう。一方、昨今華々しい飛躍を遂げた高度テクノロジーは新しい労働様式として自宅で仕事に取り掛かれる方法を案出し実現もしつつある。テレワークがそうだ。そのぶん不動産としての企業本社建物あるいは支社建物はコンパクトで済む。ところが社員の自宅はほとんど一室丸ごとテレワークのために社員の側が金銭負担しなくてはならなくなった。労賃は据え置きであるにもかかわらず。本来なら企業の側が支払わねばならない敷地面積に応じた金銭をなぜ社員の中でも多くを占めるローンから支出しなくてはならないのか。しかしそれを口にすると解雇されるかもしれない。だから誰も語りたがらない。さらにそもそもテレワーク不可能な職業は今後も残る。テレワーク不可能な職業とその従事者なしにテレワークも不可能な社会状況はなお続いているし今後も続いていく。見通しが立たないからである。もし見通しが立っているのなら誰もが十分納得するに足る労働環境理論が創出され、新しい賃金体系の理論的説明とともに具体的かつ柔軟性ある数々の労働様式が多くの選択肢として列挙されつつ華々しく公表される段階にのぼり詰めているに違いないのだから。さらに好景気への過程が本当に見えてきた場合、労働現場へ最先端テクノロジーを一つ置くだけで五十人を削減できるとしても、景気動向が上昇傾向をきちんと示していれば一つだけでなく五十個置いて五十人の社員をそのまま定位置に付かせたままでより一層の生産性が実現できるはずだ。にもかかわらず機械一個と労働者五十人とを置き換えただけでは何ら景気の好循環など見えていないと大声で告白しているようなものだ。リストラされた労働者は当面のあいだ有力な消費者として動くわけにはいかない。だからせっかくの最先端機器導入にもかかわらず、消費者はほとんどどこにも見当たらないといういつもの悪循環が始まるに過ぎない。給料が出ないわけだから。ない袖は振ろうにも振れないだろう。

それはそれとして。黙市や鬼市に姿を現わしていたのはどのような人々だったか。遠く東国(あづまのくに)へと出かけて活躍していた中に、折口信夫が「熊野人」と呼んだ野生味あふれるエネルギッシュな一群がいたことは間違いないだろう。

「東国ニ数多キ熊野ノ勧請社ノ中ニハ、馬蹄ノ口碑亦少ナカラザルコトナラン。自分ノ知レル限リニテハ、武州西多摩郡小宮村大字乙津(オツ)ノ熊野神社ニ、鳥居場ヨリハ四、五町ノ上手(カミテ)道ノ左ニ馬蹄石ト鞍石アリ〔新編武蔵風土記稿〕」(柳田國男「山島民譚集(一)」「柳田国男全集5・P.192~193」ちくま文庫)

柳田の文章はいつも何食わぬ顔をしている。その文体によって覆い隠された何物かに関し、まったく何一つ見えていないわけではないのだ。

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