有史以前からあった動物と人類との気の遠くなるような関係はけっして侮れない。熊楠はいう。
「回教徒が猫を好遇すること、すこぶる梵教、仏教、拝火教諸徒に反せるは、所見多し。例せば、A.G.Busbequius,“Travels into Turkey”,London,1744,p.140にいわく、トルコ人は、狗(いぬ)を猥褻汚穢の畜とし、これを卑しめども、猫を貞潔温良の獣とす。熊楠案ずるに、いかに賢い犬も、猥行の節一目を憚らず、しかるに猫は交会の状を人に見せることはなはだ稀なり(A.Lacassange,“De la Criminalite chez les Animaux, ”Revue scientifique,3me serie,tom.ⅲ,p.37)。事の起りは、マホメット猫を特愛し、かつて机上書を読みしに、猫その袖上に眠れり、礼拝の時到って起(た)たんとせしが、猫を覚(おこ)すを憚り、袖を切っててらに赴けりとは、漢の哀帝が、董賢を嬖幸(へいこう)して、ために断袖せしと、東西好一対の談なり」(南方熊楠「猫一疋の力に憑って大富となりし人の話」『南方民俗学・P.216~217』河出文庫)
そう述べているからといって熊楠は犬より猫を好むというわけではない。犬猫ばかりか「十二支」について縦横無尽に論じたくらいの研究者だから。とはいえ、世間一般では犬も猫もどちらも好き、という人々は少なくない。柳田國男は「花咲爺」のヴァリエーションの一つに次の説話を載せている。しかし犬にせよ猫にせよ奇瑞の徴(しるし)として現われるためには、常に、定められた或る条件を含む限りで、という様式が既にあった。
「羽前東田川郡の狩川村で採集せられた一話では、婆が川へ出て洗い物をしていると、向うの方から香箱が一つ流れて来る。それを拾い上げて中をあけて見れば、白い子犬が一匹入っている。うちにはもう猫が一匹いるので、おまえは入用がないからと又川に流してしまおうとすると、その子犬がわんわんと鳴く。そんなら猫をいじめず仲よくするかと婆がきくと、又わんわんと鳴いたので連れて還ったとあって、後は長者の家の鼠を脅かして、打出小槌と延命小袋と、二つの宝物を犬猫二人で持って来て、終に爺婆の家を金持ちにしたという、グリムの童話集にもある指輪奪還と、同系統の話に続いているのである。我邦の民間説話に於ては、川を流れて下って来るということが、海を漂うて来て岸に着いたということと、いつも大よそ同じような感じで迎えられている。犬でも奇瑞を現ずべきものは、やはりこういう出現の形式を取らなければならなかったのである」(柳田國男「昔話と文學・花咲爺」『柳田國男集・第六巻・P.206』筑摩書房)
花咲爺系列に属する民話については柳田によるよりまとまった論考が続いている。そう長いものではないので、次の機会には続きを述べたいとおもう。
さて、熊楠の愛読書。今回は再び西鶴「男色大鑑」から。熊楠は人間の性というものについてただ単に馬鹿馬鹿しいばかりの興味本位で世界中の文献から収集研究したわけでは何らない。性の厚み、その幅広さ、奥行き、など様々な観点から大真面目に取り上げた日本最初の本格的研究者である。
次の小説は「何がしの侍従(じじゆう)」に仕える人々が登場するが、この「侍従」が誰なのかわかりづらい。後で出てくる実在の人物名などを考慮すると、おそらく徳川第三代将軍家光のすぐ側に仕えた老中クラスの人物を指していると考えられる。その侍従のもとに仕える者の中に伊丹右京(いたみうきやう)という若い風雅(詩歌)の達者がいた。さらに同じ家に仕える者にもう一人、母川采女(もかはうねめ)という十八歳のモダンな若者がいた。
「伊丹右京(いたみうきやう)といへるあり。よろづ花車(きやしや)の道にかしこく、形(かたち)は見るにまばゆき程の美童なり。同じ流れに住みける母川采女(もかはうねめ)といひて、これも十八になり、人柄もすくよかに当流の若き者なり」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.413』小学館)
采女はふと右京の妖艶な姿を見て、はたと心を奪われ思わず戸惑ってしまう。采女はそのまま寝込み、部屋を閉ざして籠り切ってしまった。体の調子も日に日に弱っていく様子である。話を聞いた仲間たちが声を掛け合い、采女のもとへ見舞いに訪れる。その中の一人の姿を認めるや否や采女はいきなり取り乱し、顔色が変わり、言葉の端々もなんだか的を得ずしどろもどろになった。見舞いにきた仲間たちは、ははあ、これはもしや、と気づいた。しかし采女は病身ゆえそれ以上問い詰めるわけにはいかない。
「昼夜のわかちもなく戸をさしこめて、その事となく嘆きぬ。よわり行くをかなしみ、親しき人、薬の事など沙汰(さた)し侍るに、折節、若い輩(ともがら)いざなひまかりて、病家(びやうか)をあはれみし人の中に、焦(こが)るる御方も見えければ、いとど乱れて、この奸(ねぢ)け人、色のあらはれ、言葉のすゑも人皆それとは聞きぬ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.413』小学館)
いったん仲間たちが帰って部屋が静かになった頃合いを見計らい、采女の年上の愛人・志賀左馬之助(しがさまのすけ)が小さく声をかけてやる。あなたの今の様子はどう見ても判別しようがない。たぶんさっき見えられたお仲間の中に心を懸けている方がいるのでしょう。あまり一途に黙ってばかりいるのも罪なことですよ、と。
「御身のさまいかにとも分けがたく、心に懸る事もあらば、我には隔(へだ)て給ふまじ。今見えわたり給ふ人の御中に、思し召し入られし御方あるべし。さのみしふねき、罪ふかし」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.414』小学館)
だが采女は頑固に否定するだけで、そのうち何も言わなくなり夢うつつの間を揺ら揺らと漂っているかのような状態に陥った。心配した親らは陰陽師を呼んで話を聞く。陰陽師はいう。命にかかわる病ではありません。おそらく物の怪とか悪霊のせいでしょう。「尊き聖(ひじり)に仰せて祈り加持(かぢ)し給へ」と述べた。
「これは物のけ・窮鬼(きゆうき)のたぐひなるべし。尊き聖(ひじり)に仰せて祈り加持(かぢ)し給へ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.414』小学館)
そこで呼ばれたのが上野寛永寺の天海大僧正と浅草寺の中尊権僧正の二人。日本広しといえど、知らぬ者のない僧侶の名。とりわけ天海は徳川家康の代から幕府最大の黒幕として名が轟いている。ゆえに「何がしの侍従」の家の日頃の人脈から、周辺はかなりの権力者層が頻繁に出入りする場でもあることがわかる。しかし政略結婚ならいざ知らず、本物の恋愛感情の動きは予測不可能であり、従って権力や加持祈祷などでどうなるものでもない。西鶴の冷徹な目は本物と偽物とを瞬時に見分ける目を持っていたといえる。随分のちに志賀直哉が西鶴を評して、怖い物書きだという主旨の発言を残しているが。それはそれとして。恋愛の機微では何枚も上手の愛人・左馬之介は人の気配が失せたのを見計って再び采女のもとへこっそりやって来て言った。わたしとの関係など気にすることはありません。いま大事なことは、今のあなたの恋愛を成就させることです。わたしが便りを届ける役目を引き受けましょう。安心しなさい。
「我との事を恥ぢさせ給ふにや。是非それがし便りして、思ひ人の御返しを取り、首尾は心やすかれ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.414』小学館)
これまで何度か抱き合った間柄とはいえ、ゆえになおさらうれしい言葉と采女はしみじみ胸を打たれる。
「今までのよしみとて、うれしき人の諫め」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.414』小学館)
左馬之助は采女が思いのたけを綴った手紙を袖に入れて伊丹右京の所へ何気なく立ち寄った風を装う。左馬之介の姿を認めた右京は教科書「貞観政要」を読んだり「新古今」に目を通したりして退屈したので、気晴らしに庭の桜でも眺めていたところですと言う。
「過ぎし一日(ひとへ)は、御前に貞観政要(ぢやうぐわんせいえう)の興行(こうぎやう)にいとまなく、今日(けふ)も只今(ただいま)までは新古今(しんこきん)を読めと仰せられて相詰めしが、少しの気晴しに、物をもいはぬ桜を友とせし」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.415』小学館)
左馬之介は素早く采女の手紙を右京に手渡す。右京も呼吸を見てそっと木陰に寄り手紙を読む。右京は察しが早い。わたしのことでそんなに悩んでいらっしゃったとは。放っておくわけにはいきません。と言い、その日のうちに返事を書き左馬之介に託した。左馬之助は間を置かず手紙を采女に渡す。目を通した采女はうれしさ余ってたちまち寝床から起き上がり日に日に体力を取り戻し始めた。
「『我ゆゑに悩みましますは見捨てがたし』と、その日返しを給はりて、采女(うねめ)に渡せば、うれしさ寝間(ねま)をはなれ、夜にましむかしの気力になりぬ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.415』小学館)
しかしそれだけで終わらないのが世の常というもの。
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「回教徒が猫を好遇すること、すこぶる梵教、仏教、拝火教諸徒に反せるは、所見多し。例せば、A.G.Busbequius,“Travels into Turkey”,London,1744,p.140にいわく、トルコ人は、狗(いぬ)を猥褻汚穢の畜とし、これを卑しめども、猫を貞潔温良の獣とす。熊楠案ずるに、いかに賢い犬も、猥行の節一目を憚らず、しかるに猫は交会の状を人に見せることはなはだ稀なり(A.Lacassange,“De la Criminalite chez les Animaux, ”Revue scientifique,3me serie,tom.ⅲ,p.37)。事の起りは、マホメット猫を特愛し、かつて机上書を読みしに、猫その袖上に眠れり、礼拝の時到って起(た)たんとせしが、猫を覚(おこ)すを憚り、袖を切っててらに赴けりとは、漢の哀帝が、董賢を嬖幸(へいこう)して、ために断袖せしと、東西好一対の談なり」(南方熊楠「猫一疋の力に憑って大富となりし人の話」『南方民俗学・P.216~217』河出文庫)
そう述べているからといって熊楠は犬より猫を好むというわけではない。犬猫ばかりか「十二支」について縦横無尽に論じたくらいの研究者だから。とはいえ、世間一般では犬も猫もどちらも好き、という人々は少なくない。柳田國男は「花咲爺」のヴァリエーションの一つに次の説話を載せている。しかし犬にせよ猫にせよ奇瑞の徴(しるし)として現われるためには、常に、定められた或る条件を含む限りで、という様式が既にあった。
「羽前東田川郡の狩川村で採集せられた一話では、婆が川へ出て洗い物をしていると、向うの方から香箱が一つ流れて来る。それを拾い上げて中をあけて見れば、白い子犬が一匹入っている。うちにはもう猫が一匹いるので、おまえは入用がないからと又川に流してしまおうとすると、その子犬がわんわんと鳴く。そんなら猫をいじめず仲よくするかと婆がきくと、又わんわんと鳴いたので連れて還ったとあって、後は長者の家の鼠を脅かして、打出小槌と延命小袋と、二つの宝物を犬猫二人で持って来て、終に爺婆の家を金持ちにしたという、グリムの童話集にもある指輪奪還と、同系統の話に続いているのである。我邦の民間説話に於ては、川を流れて下って来るということが、海を漂うて来て岸に着いたということと、いつも大よそ同じような感じで迎えられている。犬でも奇瑞を現ずべきものは、やはりこういう出現の形式を取らなければならなかったのである」(柳田國男「昔話と文學・花咲爺」『柳田國男集・第六巻・P.206』筑摩書房)
花咲爺系列に属する民話については柳田によるよりまとまった論考が続いている。そう長いものではないので、次の機会には続きを述べたいとおもう。
さて、熊楠の愛読書。今回は再び西鶴「男色大鑑」から。熊楠は人間の性というものについてただ単に馬鹿馬鹿しいばかりの興味本位で世界中の文献から収集研究したわけでは何らない。性の厚み、その幅広さ、奥行き、など様々な観点から大真面目に取り上げた日本最初の本格的研究者である。
次の小説は「何がしの侍従(じじゆう)」に仕える人々が登場するが、この「侍従」が誰なのかわかりづらい。後で出てくる実在の人物名などを考慮すると、おそらく徳川第三代将軍家光のすぐ側に仕えた老中クラスの人物を指していると考えられる。その侍従のもとに仕える者の中に伊丹右京(いたみうきやう)という若い風雅(詩歌)の達者がいた。さらに同じ家に仕える者にもう一人、母川采女(もかはうねめ)という十八歳のモダンな若者がいた。
「伊丹右京(いたみうきやう)といへるあり。よろづ花車(きやしや)の道にかしこく、形(かたち)は見るにまばゆき程の美童なり。同じ流れに住みける母川采女(もかはうねめ)といひて、これも十八になり、人柄もすくよかに当流の若き者なり」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.413』小学館)
采女はふと右京の妖艶な姿を見て、はたと心を奪われ思わず戸惑ってしまう。采女はそのまま寝込み、部屋を閉ざして籠り切ってしまった。体の調子も日に日に弱っていく様子である。話を聞いた仲間たちが声を掛け合い、采女のもとへ見舞いに訪れる。その中の一人の姿を認めるや否や采女はいきなり取り乱し、顔色が変わり、言葉の端々もなんだか的を得ずしどろもどろになった。見舞いにきた仲間たちは、ははあ、これはもしや、と気づいた。しかし采女は病身ゆえそれ以上問い詰めるわけにはいかない。
「昼夜のわかちもなく戸をさしこめて、その事となく嘆きぬ。よわり行くをかなしみ、親しき人、薬の事など沙汰(さた)し侍るに、折節、若い輩(ともがら)いざなひまかりて、病家(びやうか)をあはれみし人の中に、焦(こが)るる御方も見えければ、いとど乱れて、この奸(ねぢ)け人、色のあらはれ、言葉のすゑも人皆それとは聞きぬ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.413』小学館)
いったん仲間たちが帰って部屋が静かになった頃合いを見計らい、采女の年上の愛人・志賀左馬之助(しがさまのすけ)が小さく声をかけてやる。あなたの今の様子はどう見ても判別しようがない。たぶんさっき見えられたお仲間の中に心を懸けている方がいるのでしょう。あまり一途に黙ってばかりいるのも罪なことですよ、と。
「御身のさまいかにとも分けがたく、心に懸る事もあらば、我には隔(へだ)て給ふまじ。今見えわたり給ふ人の御中に、思し召し入られし御方あるべし。さのみしふねき、罪ふかし」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.414』小学館)
だが采女は頑固に否定するだけで、そのうち何も言わなくなり夢うつつの間を揺ら揺らと漂っているかのような状態に陥った。心配した親らは陰陽師を呼んで話を聞く。陰陽師はいう。命にかかわる病ではありません。おそらく物の怪とか悪霊のせいでしょう。「尊き聖(ひじり)に仰せて祈り加持(かぢ)し給へ」と述べた。
「これは物のけ・窮鬼(きゆうき)のたぐひなるべし。尊き聖(ひじり)に仰せて祈り加持(かぢ)し給へ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.414』小学館)
そこで呼ばれたのが上野寛永寺の天海大僧正と浅草寺の中尊権僧正の二人。日本広しといえど、知らぬ者のない僧侶の名。とりわけ天海は徳川家康の代から幕府最大の黒幕として名が轟いている。ゆえに「何がしの侍従」の家の日頃の人脈から、周辺はかなりの権力者層が頻繁に出入りする場でもあることがわかる。しかし政略結婚ならいざ知らず、本物の恋愛感情の動きは予測不可能であり、従って権力や加持祈祷などでどうなるものでもない。西鶴の冷徹な目は本物と偽物とを瞬時に見分ける目を持っていたといえる。随分のちに志賀直哉が西鶴を評して、怖い物書きだという主旨の発言を残しているが。それはそれとして。恋愛の機微では何枚も上手の愛人・左馬之介は人の気配が失せたのを見計って再び采女のもとへこっそりやって来て言った。わたしとの関係など気にすることはありません。いま大事なことは、今のあなたの恋愛を成就させることです。わたしが便りを届ける役目を引き受けましょう。安心しなさい。
「我との事を恥ぢさせ給ふにや。是非それがし便りして、思ひ人の御返しを取り、首尾は心やすかれ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.414』小学館)
これまで何度か抱き合った間柄とはいえ、ゆえになおさらうれしい言葉と采女はしみじみ胸を打たれる。
「今までのよしみとて、うれしき人の諫め」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.414』小学館)
左馬之助は采女が思いのたけを綴った手紙を袖に入れて伊丹右京の所へ何気なく立ち寄った風を装う。左馬之介の姿を認めた右京は教科書「貞観政要」を読んだり「新古今」に目を通したりして退屈したので、気晴らしに庭の桜でも眺めていたところですと言う。
「過ぎし一日(ひとへ)は、御前に貞観政要(ぢやうぐわんせいえう)の興行(こうぎやう)にいとまなく、今日(けふ)も只今(ただいま)までは新古今(しんこきん)を読めと仰せられて相詰めしが、少しの気晴しに、物をもいはぬ桜を友とせし」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.415』小学館)
左馬之介は素早く采女の手紙を右京に手渡す。右京も呼吸を見てそっと木陰に寄り手紙を読む。右京は察しが早い。わたしのことでそんなに悩んでいらっしゃったとは。放っておくわけにはいきません。と言い、その日のうちに返事を書き左馬之介に託した。左馬之助は間を置かず手紙を采女に渡す。目を通した采女はうれしさ余ってたちまち寝床から起き上がり日に日に体力を取り戻し始めた。
「『我ゆゑに悩みましますは見捨てがたし』と、その日返しを給はりて、采女(うねめ)に渡せば、うれしさ寝間(ねま)をはなれ、夜にましむかしの気力になりぬ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.415』小学館)
しかしそれだけで終わらないのが世の常というもの。
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