白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/死化粧2

2020年11月19日 | 日記・エッセイ・コラム
家に置いていては持て余すばかりの小吟。父母が途方に暮れていると小吟みずから手っ取り早く結婚相手を見つけてきた。「契約の酒事(さかごと)」を済ませる。婚約決定。周囲がほっとしたのも束の間、相手の耳にほとんど見えないほどの「出来物(できもの)の跡」があるのを理由に「和歌山(わかやま)の姥(うば)のかたへ」逃走した。「出来物(できもの)の跡」は取ってつけた言い訳に過ぎない。小吟の狙いは和歌山に出ることだ。というのは和歌山は当時、紀州徳川家の城下町だったからだ。女性の側から言い出した結納。それを済ませたにもかかわらず、さらに女性の側から一方的に婚約破棄するという手段。「結納後の男憎み」というのはタブーであり、婿殿のメンツを立てるために女性側の家族は村落共同体から娘をそのまま村に置いておくわけにはいかないのが通例だった。小吟が目を付けたのはその風習である。窮屈な「熊野の山家(やまが)」から追放してもらうことが狙いだったとすればこれ以上ないほど徹底的に郷里の父母に恥をかかせる必要があった。

「契約の酒事(さかごと)まで済みてのち、この男の耳の根に、見ゆる程(ほど)にもなき出来物(できもの)の跡をきらひ、和歌山(わかやま)の姥(うば)のかたへ、逃げ行きしを、所に置きかね、屋敷方(がた)の腰元(こしもと)づかひに、遣(つか)はしける」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻二・旅行の暮の僧にて候」『井原西鶴集2・P.222』小学館)

周囲は小吟の思う壺である。追放された小吟には居場所がない。かといって見殺しにはできない。となると、武家屋敷の「腰元(こしもと)づかひ」(女中)あたりが穏当な処置ではないか。昼なお幽遠な熊野土着の艶女・小吟は、女の弱みにつけ込むばかりか金銭に目がなく、何かといえば女房子供らに当たり散らしている馬鹿馬鹿しい男どもの忌々しい摩羅(まら)を腰が立たぬほど総なめにした後、今度は紀州徳川家の城下町一帯を視野に入れる。腰元の身分でさっそく主人の体を奪って見せた。とはいえ、武家の主人というのはしょっちゅう女中・下女に手を出しては遊び暮らしている者が多かった。この主人もそうだ。いとも容易に小吟の手に落ちた。

「その身、いたづらなれば、奥様の手前を憚(はばか)らず、旦那(だんな)に戯(たはぶ)れを仕かけて、いつとなく、我(わ)が物になしける」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻二・旅行の暮の僧にて候」『井原西鶴集2・P.222』小学館)

主人は武士。その奥様は「武士の息女」である。腰元風情に旦那を寝取られたからといって単純な考えでかんかんになって取り乱すような平民並みの振る舞いはできない。夜の寝室でやんわり夫を諫め諭す。武士身分という大看板があるだろうと。そんな態度で良いのですかと。旦那はふと我に帰る。紀州徳川家の膝下で何をやっていたのかと。それ以降、主人は小吟との関係をぷっつり絶ってしまった。小吟は思う。武士であるにもかかわらず武士《身分》が惜しいのか。かび臭い山奥の風習と同じだな。だらしがない。愚図だ。それなら武士《身分》と「武士の息女」たる奥様とを天秤にかけてみてはどうか。面白いと思うが。

しかし、原文には「奥様をふかく恨み」とある。ところが奥様の仕業に執着して、あるいは嫉妬のあまり復讐しようとするわけでは全然ない。ただそれだけのことならどこにでもごろごろ転がっている二流三流の草子(小説)であってわざわざ西鶴みずから筆を取ったこと自体が逆に不可解な問いになってくる。ここで西鶴が出してきた「恨み」は復讐ではないのであって、言い換えれば奉公している武家屋敷に蔓延している「俗物性」に対する殺戮宣告というに等しい。一方で男性を俗物化する女性がおり、もう一方で女性を俗物化する男性がいる。そしてそのような風習が世の中を支配している。例の小判百両の顛末が何よりの証拠だ。なるほど小吟は熊野の山家(やまが)の育ちだ。ゆえに繁栄している城下町に出現するやますます明確に見えるものがある。「下賤・卑俗・劣悪」なものとは一体何かと。ともかく主人の夫人を殺さなければならない。天秤にかけるとはそういうことだ。どちらに傾くか。武士身分の主人が見なければならないのはそれだ。小吟は夜勤が席を空けている時間帯を見計らい、夫人の心臓を「御守刀(おんまもりがたな)」で突き刺す。夫人は長刀(なぎなた)で抵抗するが、見るみるうちに虫の息となり死ぬ。

「小吟(こぎん)、奥様をふかく恨み、ある夜(よ)、御番(ごばん)の留守(るす)を見合はせ、御寝姿(ねすがた)の、夢の枕(まくら)もとに立ち寄り、御守刀(おんまもりがたな)にして、心臓(こころもと)をさし通しければ、おどろき給ひ、『おのれ遁(の)がさじ』と、長刀(なぎなた)の鞘(さや)はづして、広庭(ひろには)まで、追ひかけ給へども、かねて、抜け道こしらへおき、行方(ゆきがた)しらずなりにき。色々、御身(おんみ)を揉(も)み給へども、深手なれば、よわらせ給ひ、『小吟(こぎん)めを打ちとめよ』と、二声三声めよりかすかに、はや命はなかりき」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻二・旅行の暮の僧にて候」『井原西鶴集2・P.223』小学館)

小吟が体現しているのは野生である。小吟はいつも「野生の思考」で考える。野獣の感性を失っていない。さらに用意周到だ。「かねて、抜け道こしらへおき」とある。ちなみに「太平記」に登場する熊野軍の描写を見ておこう。他の軍勢の武装様式と比べると、熊楠のいうように、随分異様だ。

「ここに、黒皮の大荒目(おおあらめ)の鎧、同じ毛の五枚冑(ごまいかぶと)に、指の先まで鏁(くさり)たる小手(こて)、臑当(すねあて)、半首(はつぶり)、涎懸(よだれかけ)、透(す)き間(ま)もなく裏(つつ)みたる一様(いちよう)なる武者、賾(おぎ)ろ事柄(ことがら)、誠(まこと)に尋常(よのつね)の兵どもの出で立つたる風情(ふぜい)を替へて、物の用に立ちぬと見えければ、高豊前守(こうのぶぜんのかみ)、悦(よろこ)び思(おも)ふ事斜(なの)めならず。やがて対面して、合戦の異見を訪(たず)ね問ひければ、湯浅庄司(ゆあさのしょうじ)、殊更(ことさら)前(すす)み出(い)でて申しけるは、『紀伊国(きのくに)そだちの者どもは、少(おさな)くより悪処岩石(あくしょがんせき)に習ひて、鷹を仕(つか)ひ、狩りを旨(むね)と仕(つかまつ)る者にて候ふ間、馬の通(かよ)はぬ程の嶮岨(けんそ)をも、平地(ひらち)の如くに存ずるにて候ふ。ましてや申し候はん、この山なんどを見て、難所なりと思ふ事は、露(つゆ)っばかりも候ふまじ。威毛(おどしげ)こそよくも候はねども、自ら撓(た)め拵(こしら)へて候ふ物具(もののぐ)をば、いかなる筑紫八郎殿(つくしのはちろうどの)も、左右(そう)なく裏かかする程の事は、よも候はじ。将軍の御大事、ただこの時にて候へば、われら武士の矢面(やおもて)に立つて、敵の矢を射ば、物具にて請(う)け留(と)め、斬らば、その太刀、長刀(なぎなた)に取り付けて、敵の中へ破(わ)り入(い)る程ならば、いかなる新田殿(にったどの)も、やはか怺(こら)へられ候ふ』と、傍若無人(ぼうじゃくぶじん)に申しければ、聞く人見る人、いづれも偏執(へんじゅう)の思ひをなさず、さぞあらんと見たりけり」(「太平記3・第十七巻・2・熊野勢軍の事・P.123~124」岩波文庫)

小吟はそのような風土の中から忽然と出現した。西鶴によって「見出された」わけだ。ニーチェはいう。

「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている。私が『風習の道徳』と呼んだあの巨怪な作業ーーー人間種族の最も長い期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、すなわち人間の《前史的》作業の全体は、たといどれほど多くの冷酷と暴圧と鈍重と痴愚とを内に含んでいるにもせよ、ここにおいて意義を与えられ、堂々たる名分を獲得する。人間は風習の道徳と社会の緊衣との助けによって、実際に算定しうべきものに《された》」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.64」岩波文庫)

ニーチェは「算定しうべきものに《された》」人間の悲惨さについて大いに語っている。その意味で小吟は、「算定され《ない》女性」としてふわりと降り立った。ニーチェ=フーコーに言わせれば、生きる《算定不可能性》として現われたと言うに違いない。それぞれに異なる人々はなぜ「算定しうべきものに《された》」か。刑罰を与えるために都合がよいからである。誰もかれも「同じ人間」だということにしてしまえば後は言動の質を量の大小へ転化するだけで刑罰体系を整えることができる。例えば、近代ヨーロッパでは、すべての人々が「算定しうべきものに《された》」ため、それまではあらゆる「狂人」に多かれ少なかれ与えられていた「聖性」が奪われた。

子殺しや姥捨が日常茶飯事だった江戸時代。小吟は自分で自分自身のことを「大人」によって守られるべき「子供」だなどとはまるで思っていない。大人だとも思っていない。というのも「大人/子供」の分割がなされたのは明治近代になってからのことに過ぎないからである。小吟は突如熊野から舞い降りた女性として、小吟の行くところ、ただひたすら太古の野生の反復を見ないわけにはいかない。

さて熊楠。魂が出たり入ったりする「迷信」について、また何か見つけたようだ。

「大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)自殺して三日なるに、みずから髪を解き屍に跨り三呼せしに、太子蘇り、用談を果たして薨じたまえる由を載す。ただし、魂を結び留めしこと見えず」(南方熊楠「睡眠中に霊魂抜け出づとの迷信」『南方民俗学・P.264』河出文庫)

該当箇所は「日本書紀」の次の部分。

「太子(ひつぎのみこ)の曰(のたま)はく、『我、兄王(このかみのきみ)の志(みこころざし)を奪う(うば)ふべからざることを知(し)れり。豈(あに)久(ひさ)しく生(い)きて、天下(あめのした)を煩(わづらは)さむや』とのたまひて、乃ち自(みづか)ら死(をは)りたまひぬ。時に大鷦鷯尊、大志、薨(かむさ)りたまひぬと聞(きこ)して、驚(おどろ)きて、難波より馳(は)せて、菟道宮に到(いた)ります。爰(ここ)に太子、薨りまして三日(みか)に経(な)りぬ。時に大鷦鷯尊、摽擗(みむねをう)ち叫(おら)び哭(な)きたまひて、所如知(せむすべし)らず。乃ち髪(みぐし)を解(と)き屍(かばね)に跨(またが)りて、三(み)たび呼(よ)びて曰(のたま)はく、『我(わ)が弟(おと)の皇子(みこ)』とのたまふ。乃(すなは)ち応時(たちまち)にして活(いき)でたまひぬ。自(みづか)ら起(お)きて居(ま)します。爰(ここ)に大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)、太子(ひつぎのみこ)に語(かた)りて曰(のたま)はく、『悲(かな)しきかも、惜(を)しきかも。何(なに)の所以(ゆゑ)にか自ら逝(す)ぎます。若(も)し死(をは)りぬる者(ひと)、知(さとり)有(あ)らば、先帝(さきのみかど)、我(やつかれ)を何請(いかがおもほ)さむや』とおんたまふ。乃ち太子、兄王(あにのみこ)に啓(まう)して曰(まう)したまはく、『天命(いのちのかぎり)なり。誰(たれ)か能(よ)く留(とど)めむ。若し天皇(すめらみこと)の御所(おほみもと)に向(まうでいた)ること有(あ)らば、具(つぶさ)に兄王の聖(ひじり)にして、且(しばしば)譲(ゆづ)りますこと有(ま)しませることを奏(まう)さむ。然(しか)るに聖王(ひじりのみこ)、我(われ)死(を)へたりと聞(きこ)しめして、遠路(とほきみち)を急(いそ)ぎ馳(い)でませり。豈(あに)労(ねぎら)ひたてまつること無(な)きこと得(え)むや』とまうしたまひて、乃ち同母妹(いろも)八田皇女(やたのひめみこ)を進(たてまつ)りて曰(のたま)はく、『納采(あと)ふるに足(た)らずと雖(いへど)も、僅(わづか)に掖庭(うちつのみや)の数(かず)に充(つか)ひたまへ』とのたまふ。乃ち且(また)棺(ひとき)に伏(ふ)して薨(かむさ)りましぬ」(「日本書紀2・巻第十一・仁徳天皇即位前紀・P.230~232」岩波文庫)

デンマーク、ウェールズ、ギリシア、と類似の伝説を順に追ってきた後に引用されている。

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