熊楠が述べる次の文章はもっともだと感じる。
「男色事歴の外相や些末な連関事項は、書籍を調べたら分かるべきも、内容は書籍では分からず候。それよりも高野山など今も多少の古老がのこりおるうちに、訪問して親接を重ね聞き取りおくが第一に候。十年ばかり前まで、山の高名な大寺の住職六十八、九歳なるが(俗称比丘尼〔びくに〕さん)、男子の相好は少しもなく、まるで女性なり、それがまた他の高名な高僧(この人は今もあり、著書も世に伝う)と若きときよりの密契とて名高りし。こんな人に接近せば、話をきかずとも委細の内情は分かるものに候。また今も高僧には多少少年を侍者におきあり。その者の動作にても、むかしの小姓などいいし者の様子が多少了解され申し候。そんなものを見ずに、ただ書籍を読んだだけでは、芸妓と茶屋女と遊女を混じて一団として見るようなことが多く、ただ、その方に通じたような顔を(何も知らぬ者にたいして)ひけらかし得るというばかりで、いわばあたら時間を何の益もなきことにつぶすものとなり了るに候」(南方熊楠「ちご石、北条綱成、稚児の谷落とし、『思いざし』、その他」『浄のセクソロジー・P.449』河出文庫)
少なくとも研究者の間では日本の古典中知らぬもののない「人倫訓蒙図彙」(じんりんきんもうずい)、「東海道名所記」(とうかいどうめいしょき)などを参照しつつ、柳田國男は述べている。
「後世の熊野比丘尼はいわゆる美目(びもく)盼(へん)たる者であった。しかしこの徒が口寄せの業務から次第に遠ざかったのは、眼の明盲とはまったく無関係であるらしく、やはり髪を剃り頭巾(ずきん)などを被(かぶ)ったことが、自然に託宣の値打ちを減じたためかと思う。京の縄手通三条下ル猿寺という寺で、尼が幣を持って託宣をした近世の例は、『兎園(とえん)小説拾遺』に見えているが、ほかにはあまり聞かない。比丘尼と称しつつ舞を舞ったことは、古くは『臥雲日件録』(がうんにっけんろく)にも記事があれど、これも頭を丸めては似合わなかったとみえて、後はただ簓(ささら)を扣(たた)いて流行歌(はやりうた)などを歌った。ゆえにこの徒が札配りや勧進の外に逸出して変な一種の職業に従事したのも、間接には剃髪強制の結果ではないかと思う。『人倫訓蒙図彙』(じんりんきんもうずい)に曰く、歌比丘尼は元は清浄の立派にて、熊野を信じて諸方に勧進しけるが、いつしか衣を略し歯を磨き、頭を仔細に包みて小歌を便にして売るなり。巧齢過ぎたるを御寮と号し、夫に山伏を持ち女童(めのわらわ)の弟子あまたとりしたつるなり。この者都鄙(とひ)にあり都は建仁寺町薬師の図子(ずし)に侍(はべ)る云々とあり。名古屋九十軒町に住する熊野比丘尼は、元祖は慶長三年に伊勢の山田から来た。簓を摺(す)りうたう遊興を勧めたと『尾張志』に見えている。『和訓栞』には何に拠ったものか、歌比丘尼の郷里は紀州の那智で、山伏を夫としつつ一方には遊女に同じき生活をする。その歳悔(さいく)を受けて一山富めりとあり。『東海道名所記』の沼津の条には、歌比丘尼の由来を詳しく述べてその退化を説き、今の比丘尼は熊野・伊勢には詣れども行もせず、戒を破り絵解をも知らず、歌を肝要とするのは嘆かわしいと、すごぶる彼等が不道徳を責めている。しかし比丘尼が色を売るのはともかくも、男のあるということまでは決して違犯ではない。比丘尼は単に彼等の名称であって実質ではなかった。これを仏法の尼と同視してその生活の自由なるに驚くのは驚く人が無理だ。東京では商家の丁稚(でっち)の髪をいつまでも剃りこかしておいて、形が似ているからこれを小僧と呼んだ。今もし小僧はすなわち僧だからとの理由で魚を食わせなかったら彼等はどんなに嘆くか分らぬ。それとまったく同じき不道理である」(柳田國男「巫女考・神子の夫、修験の妻」『柳田國男全集11・P.396~397』ちくま文庫)
ここで「美目(びもく)盼(へん)たる者」というのは「眉目秀麗」(びもくしゅうれい)という場合の「眉目」とは異なる。前に「論語」から引いて述べた。
「子夏(しか)問いて曰(いわ)く、巧笑(こうしょう)倩(せん)たり、美目(びもく)盼(はん)たり、素(そ)以て絢(あや)となす、何の謂(いい)ぞや。子曰わく、絵(え)の事は素(しろ)きを後にす。曰わく、礼は後なるか。子曰わく、予(われ)を起こすものは商なり。始めて与(とも)に詩を言うべし。
(現代語訳)子夏がたずねた。『えくぼあらわに、えもいえぬ口もと、白目にくっきりの漆黒(しっこく)のひとみ、白さにひきたつ彩(いろど)りの文(あや)という詩は、いったい何を意味しているのでしょうか』先生がいわれた。『絵をかくとき、胡粉(ごふん)をあとで入れるということだ』子夏がすかさずいった。『礼が最後の段階だという意味ですか』先生がいわれた。『よくも私の意のあるところを発展させたね、子夏よ。これでおまえと詩を談ずることができるというものだ』」(「論語・第二巻・第三・八佾篇・八・P.64~65」中公文庫)
だから「白目にくっきりの漆黒(しっこく)のひとみ」を指していう。しかしそれが中世半ばから戦国時代に近づくに従ってなぜ零落していったのか。西鶴から引いた。
「艫(とも)に、年(とし)がまへなる親仁(おやじ)、居(ゐ)ながら、楫(かぢ)とりて、比丘尼(びくに)は、大かた、浅黄(あさぎ)の木綿布子(もめんぬのこ)に、竜門(りうもん)の中幅帯(ちうはばおび)、まへむすびにして、黒羽二重(くろはぶたへ)の、あたまがくし、深江(ふかゑ)の、お七ざしの加賀笠(かががさ)、うねたび、はかぬといふ事なし、絹(きぬ)のふたのの、すそみじかく、とりなり、ひとつに拵(こしら)へ、文臺(ぶんだい)に入れしは、熊野(くまの)の牛王(ごわう)、酢貝(すがい)、耳(みみ)がしましき四つ竹、小比丘尼(こびくに)に、定(さだ)まりての、一升(せう)びしやく、勧進(くはんじん)といふ声(こゑ)も、引(ひき)きらず、はやり節(ぶし)をうたひ、それに気(き)を取(と)り、外(ほか)より見るも、かまはず、元(もと)ぶねに乗(の)り移(うつ)り、分立(わけた)てて後(のち)、百つなぎの銭(ぜに)を、袂(たもと)へなげ入れけるも、おかし、あるはまた、割木(わりき)を、其あたひに取り、又は、さし鯖(さば)にも替(か)へ、同じ流(なが)れとはいひながら、是を思へば、すぐれて、さもしき業(わざ)なれども、昔日(そのかみ)より、此所(ところ)に目馴れて、おかしからず、人の行(ゆ)くすゑは、更(さら)にしれぬものぞ、我もいつとなく、いたづらの数(かず)つくして、今惜(お)しき黒髪(くろかみ)を剃(そ)りて、高津(たかつ)の宮(みや)の北(きた)にあたり、高原(たかはら)といへる町(まち)に、軒(のき)は笹(ささ)に葺(ふ)きて、幽(かすか)なる奥(おく)に、此道(みち)に身(み)をふれし、おりやうをたのみ、勤(つと)めてかくも、浅(あさ)ましく、なるものかな、雨(あめ)の日、嵐(あらし)のふく日にも、ゆるさず、かうした、あたま役(やく)に、白米(はくまい)一升(せう)に、銭(ぜに)五十、それより、しもづかたの、子(こ)共にも、定(さだ)めて、五合づつ、毎日(まいにち)、取(と)られければ、をのづと、いやしくなりて、むかしは、かかる事には、あらざりしに、近年(きんねん)、遊女(ゆうぢよ)のごとくなりぬ」(井原西鶴「調謔哥船(たはふれのうたぶね)」『好色一代女・卷三・P.107~111』岩波文庫)
同情するよりどうぞお金をこちらへ。というふうな傾向が濃厚になる。また西鶴はこうも述べている。
「熊野びくにが、身の一大事の地ごく極楽の絵図を拝ませ、又は息(いき)の根のつづくほどはやりうたをうたひ、勧進(くはんじん)をすれども、腰(こし)にさしたる一升びしやくに一盃(ぱい)はもらひかねける」(井原西鶴「才覚のぢくすだれ」『世間胸算用・卷五・P.147』角川文庫)
文字通り商売道具の「地獄絵図」を持ち歩いて京の都へも出張するようになった。「息(いき)の根のつづくほどはやりうたをうた」わないとならなくなってきたのは、今でいう「ノルマ」が課されるようになったからだ。税金のようなもの。「御寮」(おりょう)と呼ばれる年配女性(当時の三十五歳くらい)がまとめて若い歌比丘尼から徴収した。そこで柳田が触れている地名だが、「都は建仁寺町薬師の図子(ずし)」、とある。「建仁寺町」は旧地名であり名前としては寺院だけが残っている。東山区建仁寺がそうだ。昔はもっと境内が広かった。ところが応仁の乱の頃から鴨川の東側であるにもかかわらず、また近江からは山を越え、あるいは瀬田川を下り、大量の軍隊が激しく乱入を繰り返すこと約十年。地元の文化財はどれも荒廃を極めた。神事より軍事へ。その過渡期の動乱をまともに受けた土地だった。しかし何も京の都ばかりが特別だったわけではない。列島全土が荒廃した。一方、「無縁の地」すらまるでなくなったわけではない。
「注目すべきは、寺社の門前に市が開かれた事実である。若狭の遠敷市は、国衙の市の機能も持っていたと思われるが、なにより若狭一・二宮-彦・姫神社の門前に立つ市と理解すべきであろう。また、備前国西大寺の門前には、元享二年(一三二二)、酒屋・魚商人・餅屋・莚作手・鋳物師などが、家・屋・座をもち、国衙方・地頭方双方の支配下におかれた市が立っている。この場合、家・屋を持つ酒屋・餅屋は、すでにある程度、この市に定住しているとみてよいが、莚作手・鋳物師・魚商人などは、市日に巡回してきたものと見るべきであろう。市日には、このような遍歴の商工民、さらには『芸能』民が集り、著しいにぎわいをみせたのである。南北朝末から室町初期の成立といわれている『庭訓往来』の四月の書状が、『市町興行』のさいに招きすえるべき輩として、鍛冶・番匠等々の商工民だけでなく、獅子舞・遊女・医師・陰陽師などの各種の『職人』をあげているのは、決して単なる『職人尽』ではなく、事実を反映しているうとみなくてはならない。実際、信濃の諏訪社の祭礼に、南北朝期、『道々の輩』をはじめ、『白拍子、御子、田楽、呪師、猿楽、乞食、、盲聾病痾の類ひ』が『稲麻竹葦』の如く集ったといわれ、鎌倉末期、播磨国蓑寺は、『九品念仏、管弦連歌、田楽、猿楽、呪師、クセ舞ヒ、乞食、』が近隣諸国から集り、たちまち大寺が建立された、と伝えられているのである。寺社の門前の特質は、このようなところに、鮮やかに現われている。それはやはり、戦国期のように、掟書によって明確にされているわけではないが、神仏の支配する『無主』の場であり、『無縁』の原理を潜在させた空間であった。それ故、ここには市が立ち、諸国を往反・遍歴する『無縁』の輩が集ったのである。市だけでなく、遍歴する『芸能』民は、その『芸能』を営む独自な場を持つこともあった。祗園社に属する獅子舞は、祗園社だけでなく、他の神社にも、その『芸能』を以て奉仕したとみられるが、近江をはじめ、各地に『舞場』を持っていたと思われる(『祗園執行日記』)。また『清目』を職掌とし、『乞食』をするも、和泉・伊賀をはじめ、諸国に公認された『乞庭』を保持していたのであるが、こうした『場』『庭』も、市と全く同じ特質を持っていたとみてよかろう。とすると、の『宿』、また宿場の『宿』も、また同じような場と考えて、まず間違いなかろう。この両者は、必ずしも同一視することはできないとはいえ、同じく『宿』として、きわめて類似していることは事実である」(網野善彦「<増補>無縁・苦界・楽・十三・市と宿・P.136~137」平凡社ライブラリー)
というふうに「都は建仁寺町薬師の図子(ずし)」もまたその一つだったと考えられる。個人的にもよく知っている。実際に通っていた中学校区内だったし中学校の建物よりも近かったので。物心ついた頃から庭のようなところだった。それはそれとして。しかし熊野比丘尼が絵解きした肝心の「地獄絵」は今どこにあるか。薬師町のすぐ東側に「西福寺」という寺院がある。そこで年に一度、六道珍皇寺の縁日と合わせて開帳される。確かに肉眼で見て今なおよく覚えている。実に「ゴルゴ13」もかくやと思わせるリアリズム的筆致が生々しい。江戸時代に江戸で発達を遂げた浮世絵とはまるで違う中世のリアリズム芸術と呼ぶにふさわしいものだ。死者の屍体が順を追って朽ち果てていく様相が一幅の絵画に修められており、関心のある人々は一度見るのもわるくはないと思われる。始めて見たときは子どもごころに思ったものだ。この絵はいったいどこからやってきたのだろうと。文学や哲学を本格的に読み出したのは大学に入ってからだが、そこで、はたと気づいた。国文科ではなかったけれども、全盛期の村上春樹だけでなく、他方、紀州・熊野にも熱視線が集まった時代だったから。
なお、地獄絵が見られるのは年に一度かぎりなので、その点、気を付けよう。さらに、同じ日には松原通りと五条坂とで「陶器市」が同時開催される。そちらもまた隠れた珍品がぽそっと置いてあったりするのでいつも楽しみにしている。また、近隣の地名に関し、轆轤(ろくろ)町か髑髏(どくろ)町かあるいは他にあるのかなど、これまで様々な論争があった。しかし梅原猛が述べているようにひどく人骨の散乱する土地となったのは平安時代後半からだろう。そして貴人の場合にかぎり、遺骨を陶器の器に納めることができたのは言うまでもない。鳥辺山周辺が葬送の地だったのは「源氏物語」冒頭にある通りだ。
「『同(おな)じ煙にのぼりなん』と泣(な)きこがれ給ひて、御送りの女房(ばう)の車に慕(した)ひ乗(の)り給ひて、愛宕(おたぎ)といふ所(ところ)にいといかめしうそのさほふしたるに、おはしつきたる心(ここ)ち、いかばかりかはありけむ、むなしき御骸(から)を見(み)るみる、猶(なほ)おはする物(もの)と思ふがいとかひなければ、『灰(はひ)になり給はんを見(み)たてまつりて、いまは亡(な)き人とひたふるに思ひなりなむ』」(新日本古典文学大系「桐壺」『源氏物語1・P.9』岩波書店)
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「男色事歴の外相や些末な連関事項は、書籍を調べたら分かるべきも、内容は書籍では分からず候。それよりも高野山など今も多少の古老がのこりおるうちに、訪問して親接を重ね聞き取りおくが第一に候。十年ばかり前まで、山の高名な大寺の住職六十八、九歳なるが(俗称比丘尼〔びくに〕さん)、男子の相好は少しもなく、まるで女性なり、それがまた他の高名な高僧(この人は今もあり、著書も世に伝う)と若きときよりの密契とて名高りし。こんな人に接近せば、話をきかずとも委細の内情は分かるものに候。また今も高僧には多少少年を侍者におきあり。その者の動作にても、むかしの小姓などいいし者の様子が多少了解され申し候。そんなものを見ずに、ただ書籍を読んだだけでは、芸妓と茶屋女と遊女を混じて一団として見るようなことが多く、ただ、その方に通じたような顔を(何も知らぬ者にたいして)ひけらかし得るというばかりで、いわばあたら時間を何の益もなきことにつぶすものとなり了るに候」(南方熊楠「ちご石、北条綱成、稚児の谷落とし、『思いざし』、その他」『浄のセクソロジー・P.449』河出文庫)
少なくとも研究者の間では日本の古典中知らぬもののない「人倫訓蒙図彙」(じんりんきんもうずい)、「東海道名所記」(とうかいどうめいしょき)などを参照しつつ、柳田國男は述べている。
「後世の熊野比丘尼はいわゆる美目(びもく)盼(へん)たる者であった。しかしこの徒が口寄せの業務から次第に遠ざかったのは、眼の明盲とはまったく無関係であるらしく、やはり髪を剃り頭巾(ずきん)などを被(かぶ)ったことが、自然に託宣の値打ちを減じたためかと思う。京の縄手通三条下ル猿寺という寺で、尼が幣を持って託宣をした近世の例は、『兎園(とえん)小説拾遺』に見えているが、ほかにはあまり聞かない。比丘尼と称しつつ舞を舞ったことは、古くは『臥雲日件録』(がうんにっけんろく)にも記事があれど、これも頭を丸めては似合わなかったとみえて、後はただ簓(ささら)を扣(たた)いて流行歌(はやりうた)などを歌った。ゆえにこの徒が札配りや勧進の外に逸出して変な一種の職業に従事したのも、間接には剃髪強制の結果ではないかと思う。『人倫訓蒙図彙』(じんりんきんもうずい)に曰く、歌比丘尼は元は清浄の立派にて、熊野を信じて諸方に勧進しけるが、いつしか衣を略し歯を磨き、頭を仔細に包みて小歌を便にして売るなり。巧齢過ぎたるを御寮と号し、夫に山伏を持ち女童(めのわらわ)の弟子あまたとりしたつるなり。この者都鄙(とひ)にあり都は建仁寺町薬師の図子(ずし)に侍(はべ)る云々とあり。名古屋九十軒町に住する熊野比丘尼は、元祖は慶長三年に伊勢の山田から来た。簓を摺(す)りうたう遊興を勧めたと『尾張志』に見えている。『和訓栞』には何に拠ったものか、歌比丘尼の郷里は紀州の那智で、山伏を夫としつつ一方には遊女に同じき生活をする。その歳悔(さいく)を受けて一山富めりとあり。『東海道名所記』の沼津の条には、歌比丘尼の由来を詳しく述べてその退化を説き、今の比丘尼は熊野・伊勢には詣れども行もせず、戒を破り絵解をも知らず、歌を肝要とするのは嘆かわしいと、すごぶる彼等が不道徳を責めている。しかし比丘尼が色を売るのはともかくも、男のあるということまでは決して違犯ではない。比丘尼は単に彼等の名称であって実質ではなかった。これを仏法の尼と同視してその生活の自由なるに驚くのは驚く人が無理だ。東京では商家の丁稚(でっち)の髪をいつまでも剃りこかしておいて、形が似ているからこれを小僧と呼んだ。今もし小僧はすなわち僧だからとの理由で魚を食わせなかったら彼等はどんなに嘆くか分らぬ。それとまったく同じき不道理である」(柳田國男「巫女考・神子の夫、修験の妻」『柳田國男全集11・P.396~397』ちくま文庫)
ここで「美目(びもく)盼(へん)たる者」というのは「眉目秀麗」(びもくしゅうれい)という場合の「眉目」とは異なる。前に「論語」から引いて述べた。
「子夏(しか)問いて曰(いわ)く、巧笑(こうしょう)倩(せん)たり、美目(びもく)盼(はん)たり、素(そ)以て絢(あや)となす、何の謂(いい)ぞや。子曰わく、絵(え)の事は素(しろ)きを後にす。曰わく、礼は後なるか。子曰わく、予(われ)を起こすものは商なり。始めて与(とも)に詩を言うべし。
(現代語訳)子夏がたずねた。『えくぼあらわに、えもいえぬ口もと、白目にくっきりの漆黒(しっこく)のひとみ、白さにひきたつ彩(いろど)りの文(あや)という詩は、いったい何を意味しているのでしょうか』先生がいわれた。『絵をかくとき、胡粉(ごふん)をあとで入れるということだ』子夏がすかさずいった。『礼が最後の段階だという意味ですか』先生がいわれた。『よくも私の意のあるところを発展させたね、子夏よ。これでおまえと詩を談ずることができるというものだ』」(「論語・第二巻・第三・八佾篇・八・P.64~65」中公文庫)
だから「白目にくっきりの漆黒(しっこく)のひとみ」を指していう。しかしそれが中世半ばから戦国時代に近づくに従ってなぜ零落していったのか。西鶴から引いた。
「艫(とも)に、年(とし)がまへなる親仁(おやじ)、居(ゐ)ながら、楫(かぢ)とりて、比丘尼(びくに)は、大かた、浅黄(あさぎ)の木綿布子(もめんぬのこ)に、竜門(りうもん)の中幅帯(ちうはばおび)、まへむすびにして、黒羽二重(くろはぶたへ)の、あたまがくし、深江(ふかゑ)の、お七ざしの加賀笠(かががさ)、うねたび、はかぬといふ事なし、絹(きぬ)のふたのの、すそみじかく、とりなり、ひとつに拵(こしら)へ、文臺(ぶんだい)に入れしは、熊野(くまの)の牛王(ごわう)、酢貝(すがい)、耳(みみ)がしましき四つ竹、小比丘尼(こびくに)に、定(さだ)まりての、一升(せう)びしやく、勧進(くはんじん)といふ声(こゑ)も、引(ひき)きらず、はやり節(ぶし)をうたひ、それに気(き)を取(と)り、外(ほか)より見るも、かまはず、元(もと)ぶねに乗(の)り移(うつ)り、分立(わけた)てて後(のち)、百つなぎの銭(ぜに)を、袂(たもと)へなげ入れけるも、おかし、あるはまた、割木(わりき)を、其あたひに取り、又は、さし鯖(さば)にも替(か)へ、同じ流(なが)れとはいひながら、是を思へば、すぐれて、さもしき業(わざ)なれども、昔日(そのかみ)より、此所(ところ)に目馴れて、おかしからず、人の行(ゆ)くすゑは、更(さら)にしれぬものぞ、我もいつとなく、いたづらの数(かず)つくして、今惜(お)しき黒髪(くろかみ)を剃(そ)りて、高津(たかつ)の宮(みや)の北(きた)にあたり、高原(たかはら)といへる町(まち)に、軒(のき)は笹(ささ)に葺(ふ)きて、幽(かすか)なる奥(おく)に、此道(みち)に身(み)をふれし、おりやうをたのみ、勤(つと)めてかくも、浅(あさ)ましく、なるものかな、雨(あめ)の日、嵐(あらし)のふく日にも、ゆるさず、かうした、あたま役(やく)に、白米(はくまい)一升(せう)に、銭(ぜに)五十、それより、しもづかたの、子(こ)共にも、定(さだ)めて、五合づつ、毎日(まいにち)、取(と)られければ、をのづと、いやしくなりて、むかしは、かかる事には、あらざりしに、近年(きんねん)、遊女(ゆうぢよ)のごとくなりぬ」(井原西鶴「調謔哥船(たはふれのうたぶね)」『好色一代女・卷三・P.107~111』岩波文庫)
同情するよりどうぞお金をこちらへ。というふうな傾向が濃厚になる。また西鶴はこうも述べている。
「熊野びくにが、身の一大事の地ごく極楽の絵図を拝ませ、又は息(いき)の根のつづくほどはやりうたをうたひ、勧進(くはんじん)をすれども、腰(こし)にさしたる一升びしやくに一盃(ぱい)はもらひかねける」(井原西鶴「才覚のぢくすだれ」『世間胸算用・卷五・P.147』角川文庫)
文字通り商売道具の「地獄絵図」を持ち歩いて京の都へも出張するようになった。「息(いき)の根のつづくほどはやりうたをうた」わないとならなくなってきたのは、今でいう「ノルマ」が課されるようになったからだ。税金のようなもの。「御寮」(おりょう)と呼ばれる年配女性(当時の三十五歳くらい)がまとめて若い歌比丘尼から徴収した。そこで柳田が触れている地名だが、「都は建仁寺町薬師の図子(ずし)」、とある。「建仁寺町」は旧地名であり名前としては寺院だけが残っている。東山区建仁寺がそうだ。昔はもっと境内が広かった。ところが応仁の乱の頃から鴨川の東側であるにもかかわらず、また近江からは山を越え、あるいは瀬田川を下り、大量の軍隊が激しく乱入を繰り返すこと約十年。地元の文化財はどれも荒廃を極めた。神事より軍事へ。その過渡期の動乱をまともに受けた土地だった。しかし何も京の都ばかりが特別だったわけではない。列島全土が荒廃した。一方、「無縁の地」すらまるでなくなったわけではない。
「注目すべきは、寺社の門前に市が開かれた事実である。若狭の遠敷市は、国衙の市の機能も持っていたと思われるが、なにより若狭一・二宮-彦・姫神社の門前に立つ市と理解すべきであろう。また、備前国西大寺の門前には、元享二年(一三二二)、酒屋・魚商人・餅屋・莚作手・鋳物師などが、家・屋・座をもち、国衙方・地頭方双方の支配下におかれた市が立っている。この場合、家・屋を持つ酒屋・餅屋は、すでにある程度、この市に定住しているとみてよいが、莚作手・鋳物師・魚商人などは、市日に巡回してきたものと見るべきであろう。市日には、このような遍歴の商工民、さらには『芸能』民が集り、著しいにぎわいをみせたのである。南北朝末から室町初期の成立といわれている『庭訓往来』の四月の書状が、『市町興行』のさいに招きすえるべき輩として、鍛冶・番匠等々の商工民だけでなく、獅子舞・遊女・医師・陰陽師などの各種の『職人』をあげているのは、決して単なる『職人尽』ではなく、事実を反映しているうとみなくてはならない。実際、信濃の諏訪社の祭礼に、南北朝期、『道々の輩』をはじめ、『白拍子、御子、田楽、呪師、猿楽、乞食、、盲聾病痾の類ひ』が『稲麻竹葦』の如く集ったといわれ、鎌倉末期、播磨国蓑寺は、『九品念仏、管弦連歌、田楽、猿楽、呪師、クセ舞ヒ、乞食、』が近隣諸国から集り、たちまち大寺が建立された、と伝えられているのである。寺社の門前の特質は、このようなところに、鮮やかに現われている。それはやはり、戦国期のように、掟書によって明確にされているわけではないが、神仏の支配する『無主』の場であり、『無縁』の原理を潜在させた空間であった。それ故、ここには市が立ち、諸国を往反・遍歴する『無縁』の輩が集ったのである。市だけでなく、遍歴する『芸能』民は、その『芸能』を営む独自な場を持つこともあった。祗園社に属する獅子舞は、祗園社だけでなく、他の神社にも、その『芸能』を以て奉仕したとみられるが、近江をはじめ、各地に『舞場』を持っていたと思われる(『祗園執行日記』)。また『清目』を職掌とし、『乞食』をするも、和泉・伊賀をはじめ、諸国に公認された『乞庭』を保持していたのであるが、こうした『場』『庭』も、市と全く同じ特質を持っていたとみてよかろう。とすると、の『宿』、また宿場の『宿』も、また同じような場と考えて、まず間違いなかろう。この両者は、必ずしも同一視することはできないとはいえ、同じく『宿』として、きわめて類似していることは事実である」(網野善彦「<増補>無縁・苦界・楽・十三・市と宿・P.136~137」平凡社ライブラリー)
というふうに「都は建仁寺町薬師の図子(ずし)」もまたその一つだったと考えられる。個人的にもよく知っている。実際に通っていた中学校区内だったし中学校の建物よりも近かったので。物心ついた頃から庭のようなところだった。それはそれとして。しかし熊野比丘尼が絵解きした肝心の「地獄絵」は今どこにあるか。薬師町のすぐ東側に「西福寺」という寺院がある。そこで年に一度、六道珍皇寺の縁日と合わせて開帳される。確かに肉眼で見て今なおよく覚えている。実に「ゴルゴ13」もかくやと思わせるリアリズム的筆致が生々しい。江戸時代に江戸で発達を遂げた浮世絵とはまるで違う中世のリアリズム芸術と呼ぶにふさわしいものだ。死者の屍体が順を追って朽ち果てていく様相が一幅の絵画に修められており、関心のある人々は一度見るのもわるくはないと思われる。始めて見たときは子どもごころに思ったものだ。この絵はいったいどこからやってきたのだろうと。文学や哲学を本格的に読み出したのは大学に入ってからだが、そこで、はたと気づいた。国文科ではなかったけれども、全盛期の村上春樹だけでなく、他方、紀州・熊野にも熱視線が集まった時代だったから。
なお、地獄絵が見られるのは年に一度かぎりなので、その点、気を付けよう。さらに、同じ日には松原通りと五条坂とで「陶器市」が同時開催される。そちらもまた隠れた珍品がぽそっと置いてあったりするのでいつも楽しみにしている。また、近隣の地名に関し、轆轤(ろくろ)町か髑髏(どくろ)町かあるいは他にあるのかなど、これまで様々な論争があった。しかし梅原猛が述べているようにひどく人骨の散乱する土地となったのは平安時代後半からだろう。そして貴人の場合にかぎり、遺骨を陶器の器に納めることができたのは言うまでもない。鳥辺山周辺が葬送の地だったのは「源氏物語」冒頭にある通りだ。
「『同(おな)じ煙にのぼりなん』と泣(な)きこがれ給ひて、御送りの女房(ばう)の車に慕(した)ひ乗(の)り給ひて、愛宕(おたぎ)といふ所(ところ)にいといかめしうそのさほふしたるに、おはしつきたる心(ここ)ち、いかばかりかはありけむ、むなしき御骸(から)を見(み)るみる、猶(なほ)おはする物(もの)と思ふがいとかひなければ、『灰(はひ)になり給はんを見(み)たてまつりて、いまは亡(な)き人とひたふるに思ひなりなむ』」(新日本古典文学大系「桐壺」『源氏物語1・P.9』岩波書店)
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