口承文芸の中には動物による報恩譚がしばしば出てくる。が、通りがかりの人間から危機を救われたとか餓死しそうになっているところを見つけてもらい食物を恵まれたとか、人間の側はさっぱり覚えがないにもかかわらず、人間を支援する場合が見られる。このような場合、動物は人間の「援助者」として登場する。柳田國男は幾つか列挙している。また柳田はこの種の論考の最初に「継子いじめ」のエピソードから入っている。この点で、なぜもう一つの系列に属する話から始めているのか。そちらの理由の側がむしろ関心をそそる。
「動物はもと人間から、何らの行為を寄せられなかった場合にも、はやり往々にして昔話の主人公を援助している。栗福米福の継子が、継母に命ぜられた大きな仕事に困って泣いていると、沢山の雀が来て嘴で稗の皮を剥いてっくれる。西洋にはそれを実母の亡霊の所為の様にいうものもあるが、日本ではただ雀等が感動して助けに来るというのが多い。瓜子姫が柿の木の梢に縛られて居るのを、教えてくれたという鳥類は色々あったが、これもその時まで主人公と、何かの関係があったとも説かれて居らぬのである。それから同じ報恩という中にも、命を助けて貰ったなどはどんな礼をしてもよいが、たった一つの握飯を分けてやって、鼠の浄土へ招かれて金銀を貰ったり、あるいは蟹寺の如く無数の集まって大蛇と闘ったり、取ると与えるとの釣合いは少しもとれていない。これなどは禽獣蟲魚に対する我々の考え方がかわって、斯様に解釈することが比較的もっともらしくなったからで、こうしてまでも人が非類の物から、大きな援助を受けることがあるものだということを、永く記憶していたのは昔話の賜と言ってよい。人と動物とが対等な交際をした時代があったことを、伝えている歴史というものは昔話の他には無いのである」(柳田國男「口承文藝史考・昔話と傅説と神話・七十八」『柳田國男集・第六巻・P.119』筑摩書房)
昔話はあなどれない。「人と動物とが対等な交際をした時代があった」。飼い犬や飼い猫だけでなくごく当たり前に耳にする日々の鳥の声、どこか剽軽な亀、アシカやジュゴンの遊泳、あるいは動物園でひとときの憩いを惜しげもなく提供する彼ら。人々は金銭を支払ってまでそこへ赴こうとする。「人と動物とが対等な交際をした」どころか今や逆に、動物の側から癒しを与えられるまでに人間の側は「零落した」と言えるかもしれない。
さらに狼の場合。「オホカミ」と書く。「大神」であって、古代から既に「神格」を与えられていた。第一に柳田が述べるのは「義理固い」点について。ニーチェのいう債権債務関係意識が非常に高い。
「狼が人の恩誼に報ずるの念に厚く、今の言葉でいうと義理固い獣類であったことは、既に数多くの実例が記憶せられている。最も古くからあるのは咽に骨を立てて、それを抜いてもらって礼に来た話、あるいは喧嘩をしていたのを仲裁してやっただけでも、非常に感謝せられたという話さえある。それから子を産んだ時に産見舞を持って行ってやると、その重箱に鳥などをオタメに入れて、そっと返しに来たなどといい、又は送り狼には門口の戸を閉てる前に、大きに御苦労でござったと一言挨拶をせぬと、怒って家のまわり荒して行くと言ったり、又は山中で狼の食い残した野獣を拾ったとき、代りに少量の鹽(しお)を置いて来るか、少なくとも肉の一部分を残して来ぬと、いつ迄も覚えていて仇をするとも言い伝えているが、これらは何れは皆人間の側からの働きかけがあって、その反応だというのだからやや信じやすい。言わば我々の方にも少々の心当りがあったのである。しかしそれにしたところが、他の獣にはあまり言わぬことを、どうして狼だけにはそう言い始めたものかが問題になる。所謂霊獣思想が特に狼に於て濃やかであったことは、オホカミという一語からでも若干は推測せられるのである」(柳田國男「昔話覚書・食わぬ狼」『柳田國男集・第六巻・P.462』筑摩書房)
何が狼を神格化させるに至ったか。犬の嗅覚は警察犬として用いられているほど高度である。ところが狼は嗅覚もさることながら、犬の「嗅覚以上の何物かがあった」。そして狼が持つそのような特質に人々は気づき畏怖していたことは確実だと言える。また二点目は「本来はそうやたらに人を食おうとするもので無かった」こと。
「東京の近くでは三峯御嶽、遠州の春野山や山住神社、但馬では妙見山という類の信仰は、まだ多く知られざる小区域に、神職無しに保管せられているものが多いかと思う。尋常片々たる田畠の害鳥獣を駆除するということまでは、あるいは本能の過信とも見られようが、夜行く人の中から悪人と善人、盗賊と番の者とを見定めて、一方だけを咬むということは、単なる主神の神徳を実行するだけとは考えにくい。つまりは此獣の持前の力に、狗の嗅覚以上の何物かがあったこと、及び本来はそうやたらに人を食おうとするもので無かったこと、この二つの信用がもとは遥かに今よりも高かったので、狼の睫毛を目に翳すと、よくない人の姿が猫にも鳥にも見えたという昔話なども、それから岐れて出たものとして、漸くその成立の事情が明かになるのである」(柳田國男「昔話覚書・食わぬ狼」『柳田國男集・第六巻・P.462』筑摩書房)
今になって言えるわけだが、嗅覚以上の何物かというのは自然生態系に密着した生育環境に対する大変敏感で、なおかつ常に細やかな感受性である。人間は知らず知らずのうちに狼に適した自然生態系を絶滅させた。しばらくして人間が人間の手によって犠牲になる番がやってきたわけだが。ともあれ、漫画や映画、あるいはアニメなどに登場する狼を見ていると、ときどき狼は人間の言葉を話していないだろうか。大神(オホカミ)は人間の凡庸性を遥かに凌駕する《過剰-逸脱》を、その獣性とともに感性として持ち得た極めて稀な獣だった。「追記」として柳田は引いている。
「宮本常一君が最近公けにした『吉野西奥民俗採訪録』三九四頁に、やはり備後と同一の話が、大和吉野郡の大塔村にも行われていることを記して居る。狼が人語して、『お前はあたり前の人間だから喰ひ殺されぬ。わしは人に生れて居ても畜生であるものだけ喰ふのだ』と語ったとある」(柳田國男「昔話覚書・食わぬ狼」『柳田國男集・第六巻・P.463』筑摩書房)
さて「大和吉野郡の大塔村」の名が出てきた。ここからは熊楠の任せるのがよい。
「当国の山は大塔峰(おおとうのみね)〔東西牟婁郡界に連亙す〕三千八百尺ばかりを最高とす。次は大雲取(三千二百尺)、大甲(たいこう、三千三百尺ばかり?)、また小生がつねに往く安堵峰(三千四百尺?)等なり。しかるに、これらはいずれも北国に比してつまらぬもので、頂上は茅原(かやはら)リンドウ、ウメバチソウ、コトジソウ、マルバイチヤクソウ等ありふれたものを散在するのみ。それより下にブナの林あり。ブナは伐ったらすぐ挽(ひ)かねば腐って粉砕す。故に濫伐の日には実に濫伐を急ぐなり。この半熱帯地にブナ林あるもちょっと珍しければ、少々はのこされたきことなり。しかるに目下そんな制度少しもなく、郡長などいうもの、何とかしてこれを富豪に払い下げ、コンミッションを得て安楽に退職せんと民を苦しめ、入りもせぬ道路開鑿(かいさく)をつとめること大はやりなり」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.432~433』河出文庫)
熊楠が意識しているのは「太平記」に出てくる護良親王熊野落ちの条だろうと思われる。
「般若寺(はんにゃじ)を御出であって、熊野(くまの)の方(かた)へぞ落ちさせ給ひける」(「太平記1・第五巻・8・大塔宮十津川御入りの事・P.250」岩波文庫)
次の文章で護良親王は「柿(かき)の衣(ころも)に笈(おい)を懸けて、頭巾(ときん)眉半(まゆなか)ばに責めて、その中の年(とし)長ぜるを先達(せんだち)に造り立てて、田舎山伏(いなかやまぶし)の熊野詣でする体(てい)」を選択している。平泉へ落ち延びる源義経を連想させずにはおかない。
「宮を始め奉つて、御共の者ども、皆柿(かき)の衣(ころも)に笈(おい)を懸けて、頭巾(ときん)眉半(まゆなか)ばに責めて、その中の年(とし)長ぜるを先達(せんだち)に造り立てて、田舎山伏(いなかやまぶし)の熊野詣でする体(てい)にぞ見せたりける」(「太平記1・第五巻・8・大塔宮十津川御入りの事・P.251」岩波文庫)
さらに物づくしの手法が取られている。
「由良(ゆら)の湊(みなと)を見渡せば、門(と)渡る船の梶(かじ)を絶え、浦の夕塩(ゆうじお)幾重(いくえ)とも、知らぬ浪路(なみじ)に鳴く千鳥(ちどり)、紀(き)の路(じ)の遠山(とおやま)遥々(はるばる)と、藤代(ふじしろ)の松に懸かる浪、和歌(わか)、吹上(ふきあげ)を余所(よそ)に見て、月にみがける玉津島(たまつしま)、さらでだに長汀曲浦(ちょうていきょくほ)の旅の道は、心を砕(くだ)く習ひなるに、雨を含める孤村(こそん)の樹(き)、夕べを送る遠寺(えんじ)の鐘、あはれを催(もよお)す時しもあれ、切目(きりめ)の王子(おうじ)に着き給ふ」(「太平記1・第五巻・8・大塔宮十津川御入りの事・P.251~252」岩波文庫)
王子信仰はどれも夭折した皇子(みこ)の物語から発生した。けれどもそれらが熊野一円を覆い尽くしているのはなぜだろうか。「熊野の本地の草子」は救いようのない血塗れの物語である。だが人々はそれに魅かれて止まない。大峰山の修験者も多く通過していく。古代だけでなく中世に入ってなおこの地は長く天皇を始めとする宮廷人のミソギの地だった。「平家物語」にもあるように有名な多くの武将らが繰り返し訪れた。ただし、それらの名を全国規模で有名にしたのは誰か。琵琶法師、座頭、比丘尼、瞽女、などの芸能者を忘れてはならないだろう。
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「動物はもと人間から、何らの行為を寄せられなかった場合にも、はやり往々にして昔話の主人公を援助している。栗福米福の継子が、継母に命ぜられた大きな仕事に困って泣いていると、沢山の雀が来て嘴で稗の皮を剥いてっくれる。西洋にはそれを実母の亡霊の所為の様にいうものもあるが、日本ではただ雀等が感動して助けに来るというのが多い。瓜子姫が柿の木の梢に縛られて居るのを、教えてくれたという鳥類は色々あったが、これもその時まで主人公と、何かの関係があったとも説かれて居らぬのである。それから同じ報恩という中にも、命を助けて貰ったなどはどんな礼をしてもよいが、たった一つの握飯を分けてやって、鼠の浄土へ招かれて金銀を貰ったり、あるいは蟹寺の如く無数の集まって大蛇と闘ったり、取ると与えるとの釣合いは少しもとれていない。これなどは禽獣蟲魚に対する我々の考え方がかわって、斯様に解釈することが比較的もっともらしくなったからで、こうしてまでも人が非類の物から、大きな援助を受けることがあるものだということを、永く記憶していたのは昔話の賜と言ってよい。人と動物とが対等な交際をした時代があったことを、伝えている歴史というものは昔話の他には無いのである」(柳田國男「口承文藝史考・昔話と傅説と神話・七十八」『柳田國男集・第六巻・P.119』筑摩書房)
昔話はあなどれない。「人と動物とが対等な交際をした時代があった」。飼い犬や飼い猫だけでなくごく当たり前に耳にする日々の鳥の声、どこか剽軽な亀、アシカやジュゴンの遊泳、あるいは動物園でひとときの憩いを惜しげもなく提供する彼ら。人々は金銭を支払ってまでそこへ赴こうとする。「人と動物とが対等な交際をした」どころか今や逆に、動物の側から癒しを与えられるまでに人間の側は「零落した」と言えるかもしれない。
さらに狼の場合。「オホカミ」と書く。「大神」であって、古代から既に「神格」を与えられていた。第一に柳田が述べるのは「義理固い」点について。ニーチェのいう債権債務関係意識が非常に高い。
「狼が人の恩誼に報ずるの念に厚く、今の言葉でいうと義理固い獣類であったことは、既に数多くの実例が記憶せられている。最も古くからあるのは咽に骨を立てて、それを抜いてもらって礼に来た話、あるいは喧嘩をしていたのを仲裁してやっただけでも、非常に感謝せられたという話さえある。それから子を産んだ時に産見舞を持って行ってやると、その重箱に鳥などをオタメに入れて、そっと返しに来たなどといい、又は送り狼には門口の戸を閉てる前に、大きに御苦労でござったと一言挨拶をせぬと、怒って家のまわり荒して行くと言ったり、又は山中で狼の食い残した野獣を拾ったとき、代りに少量の鹽(しお)を置いて来るか、少なくとも肉の一部分を残して来ぬと、いつ迄も覚えていて仇をするとも言い伝えているが、これらは何れは皆人間の側からの働きかけがあって、その反応だというのだからやや信じやすい。言わば我々の方にも少々の心当りがあったのである。しかしそれにしたところが、他の獣にはあまり言わぬことを、どうして狼だけにはそう言い始めたものかが問題になる。所謂霊獣思想が特に狼に於て濃やかであったことは、オホカミという一語からでも若干は推測せられるのである」(柳田國男「昔話覚書・食わぬ狼」『柳田國男集・第六巻・P.462』筑摩書房)
何が狼を神格化させるに至ったか。犬の嗅覚は警察犬として用いられているほど高度である。ところが狼は嗅覚もさることながら、犬の「嗅覚以上の何物かがあった」。そして狼が持つそのような特質に人々は気づき畏怖していたことは確実だと言える。また二点目は「本来はそうやたらに人を食おうとするもので無かった」こと。
「東京の近くでは三峯御嶽、遠州の春野山や山住神社、但馬では妙見山という類の信仰は、まだ多く知られざる小区域に、神職無しに保管せられているものが多いかと思う。尋常片々たる田畠の害鳥獣を駆除するということまでは、あるいは本能の過信とも見られようが、夜行く人の中から悪人と善人、盗賊と番の者とを見定めて、一方だけを咬むということは、単なる主神の神徳を実行するだけとは考えにくい。つまりは此獣の持前の力に、狗の嗅覚以上の何物かがあったこと、及び本来はそうやたらに人を食おうとするもので無かったこと、この二つの信用がもとは遥かに今よりも高かったので、狼の睫毛を目に翳すと、よくない人の姿が猫にも鳥にも見えたという昔話なども、それから岐れて出たものとして、漸くその成立の事情が明かになるのである」(柳田國男「昔話覚書・食わぬ狼」『柳田國男集・第六巻・P.462』筑摩書房)
今になって言えるわけだが、嗅覚以上の何物かというのは自然生態系に密着した生育環境に対する大変敏感で、なおかつ常に細やかな感受性である。人間は知らず知らずのうちに狼に適した自然生態系を絶滅させた。しばらくして人間が人間の手によって犠牲になる番がやってきたわけだが。ともあれ、漫画や映画、あるいはアニメなどに登場する狼を見ていると、ときどき狼は人間の言葉を話していないだろうか。大神(オホカミ)は人間の凡庸性を遥かに凌駕する《過剰-逸脱》を、その獣性とともに感性として持ち得た極めて稀な獣だった。「追記」として柳田は引いている。
「宮本常一君が最近公けにした『吉野西奥民俗採訪録』三九四頁に、やはり備後と同一の話が、大和吉野郡の大塔村にも行われていることを記して居る。狼が人語して、『お前はあたり前の人間だから喰ひ殺されぬ。わしは人に生れて居ても畜生であるものだけ喰ふのだ』と語ったとある」(柳田國男「昔話覚書・食わぬ狼」『柳田國男集・第六巻・P.463』筑摩書房)
さて「大和吉野郡の大塔村」の名が出てきた。ここからは熊楠の任せるのがよい。
「当国の山は大塔峰(おおとうのみね)〔東西牟婁郡界に連亙す〕三千八百尺ばかりを最高とす。次は大雲取(三千二百尺)、大甲(たいこう、三千三百尺ばかり?)、また小生がつねに往く安堵峰(三千四百尺?)等なり。しかるに、これらはいずれも北国に比してつまらぬもので、頂上は茅原(かやはら)リンドウ、ウメバチソウ、コトジソウ、マルバイチヤクソウ等ありふれたものを散在するのみ。それより下にブナの林あり。ブナは伐ったらすぐ挽(ひ)かねば腐って粉砕す。故に濫伐の日には実に濫伐を急ぐなり。この半熱帯地にブナ林あるもちょっと珍しければ、少々はのこされたきことなり。しかるに目下そんな制度少しもなく、郡長などいうもの、何とかしてこれを富豪に払い下げ、コンミッションを得て安楽に退職せんと民を苦しめ、入りもせぬ道路開鑿(かいさく)をつとめること大はやりなり」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.432~433』河出文庫)
熊楠が意識しているのは「太平記」に出てくる護良親王熊野落ちの条だろうと思われる。
「般若寺(はんにゃじ)を御出であって、熊野(くまの)の方(かた)へぞ落ちさせ給ひける」(「太平記1・第五巻・8・大塔宮十津川御入りの事・P.250」岩波文庫)
次の文章で護良親王は「柿(かき)の衣(ころも)に笈(おい)を懸けて、頭巾(ときん)眉半(まゆなか)ばに責めて、その中の年(とし)長ぜるを先達(せんだち)に造り立てて、田舎山伏(いなかやまぶし)の熊野詣でする体(てい)」を選択している。平泉へ落ち延びる源義経を連想させずにはおかない。
「宮を始め奉つて、御共の者ども、皆柿(かき)の衣(ころも)に笈(おい)を懸けて、頭巾(ときん)眉半(まゆなか)ばに責めて、その中の年(とし)長ぜるを先達(せんだち)に造り立てて、田舎山伏(いなかやまぶし)の熊野詣でする体(てい)にぞ見せたりける」(「太平記1・第五巻・8・大塔宮十津川御入りの事・P.251」岩波文庫)
さらに物づくしの手法が取られている。
「由良(ゆら)の湊(みなと)を見渡せば、門(と)渡る船の梶(かじ)を絶え、浦の夕塩(ゆうじお)幾重(いくえ)とも、知らぬ浪路(なみじ)に鳴く千鳥(ちどり)、紀(き)の路(じ)の遠山(とおやま)遥々(はるばる)と、藤代(ふじしろ)の松に懸かる浪、和歌(わか)、吹上(ふきあげ)を余所(よそ)に見て、月にみがける玉津島(たまつしま)、さらでだに長汀曲浦(ちょうていきょくほ)の旅の道は、心を砕(くだ)く習ひなるに、雨を含める孤村(こそん)の樹(き)、夕べを送る遠寺(えんじ)の鐘、あはれを催(もよお)す時しもあれ、切目(きりめ)の王子(おうじ)に着き給ふ」(「太平記1・第五巻・8・大塔宮十津川御入りの事・P.251~252」岩波文庫)
王子信仰はどれも夭折した皇子(みこ)の物語から発生した。けれどもそれらが熊野一円を覆い尽くしているのはなぜだろうか。「熊野の本地の草子」は救いようのない血塗れの物語である。だが人々はそれに魅かれて止まない。大峰山の修験者も多く通過していく。古代だけでなく中世に入ってなおこの地は長く天皇を始めとする宮廷人のミソギの地だった。「平家物語」にもあるように有名な多くの武将らが繰り返し訪れた。ただし、それらの名を全国規模で有名にしたのは誰か。琵琶法師、座頭、比丘尼、瞽女、などの芸能者を忘れてはならないだろう。
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