次の箇所を理解するためには一六八六年(貞享三年)出版の西鶴「好色一代女」から引いておく必要がある。熊楠は「そのころの風と見え候」という。風俗として流行したということ。「大若衆」(だいわかしゅう)について。二十四、五歳になってなお前髪を切らずに若衆として鍾愛された男性同性愛者を指す。
「西鶴の『一代女』四の三に、一代女、屋敷の茶の間女になり、ある日七十二歳になる老下男をつれ外出し、温飩屋の二階に上がり、その老僕にしかかれど一向埒明かず、むかしの剣今の菜刀(ながたな)と嘆ずるうち、下を覗けば、あたま剃り下げたる奴(やつこ)が二十四、五なる前髪の草履取をつれきて、これもぬれとは見えすきて、座敷入用と聞こえて、云々、とあり」(南方熊楠「直江兼続と上杉景勝、大若衆のこと、その他」『浄のセクソロジー・P.381』河出文庫)
それが熊楠の要約。だから目的地へ着地させるための部分は極力省略されている。だが「一代女、屋敷の茶の間女になり、ある日七十二歳になる老下男をつれ外出し、温飩屋の二階に上がり、その老僕にしかかれど一向埒明かず、むかしの剣今の菜刀(ながたな)と嘆ずるうち、下を覗けば」とある箇所には江戸時代前半の繁栄を支えた無数の女性の生活様式が活写されている。いったん原文に目を通しておくのはけっして無駄でない。一代女が「茶の間女」(ちゃのまおんな)になって働いていた部分から大若衆登場シーンまでを引いてみよう。
「時花(はや)ればとて、今時(いまどき)の女、尻桁(しりげた)に掛(か)けたる、端(はし)紫の鹿子帯艫(かのこおび)、目にしみ渡(わた)りて、さりとては、いや風(ふう)也、自(みづか)らも、よる年にしたがひ、身を持(も)ち下(さ)げて、茶(ちや)の間(ま)女となり、壱年切(き)りに、勤(つと)めける。不断(ふだん)は、下(した)に洗(あら)ひ小袖、上(うへ)に木綿着物(もめんきるもの)に成(な)りて、御上(かみ)臺所の、御次(つぎ)に居(ゐ)て、見えわたりたる諸道具(しよだうぐ)を、取りさばきの奉公(ほうこう)也、黒米(くろごめ)に、走汁(はしらかし)に、朝夕(てうせき)をくれば、いつとなく、つやらしき形(かたち)を、うしなひ、我(わ)れながら、かくもまた、采体(とりなり)、いやしくなりぬ、されども、家父(やぶ)入りの春秋を、たのしみ、宿下(やどお)りして、隠(かく)し男に逢(あ)ふ時(とき)は、年に稀(まれ)なる、織姫(をりひめ)のここちして、裏(うら)の御門(ごもん)の、棚橋(たなばし)をわたる時にの嬉(うれ)しさ、足ばやに出(いで)行(ゆ)く風俗(ふうぞく)も、常(つね)とは仕替(しか)へて、黄無垢(きむく)に、紋嶋(もんじま)を、ひとつ前(まへ)にかさね、紺地(こんぢ)の今織(を)り後(うし)ろ帯(おび)、それがうへを、ことりましに、紫の抱(かか)へ帯(おび)して、髪(かみ)は引(ひ)き下(さ)げて、匕髻結(はねもとゆひ)を掛(か)け、額際(ひたいぎは)を、火塔(くはたう)に、取(と)つて、置墨(をきずみ)こく、きどく頭巾(づきん)より、目斗(ばか)りあらはし、年がまへなる中間(ちうげん)に、つぎづぎの袋(ふくろ)を持(も)たせり、其中(うち)に、上扶持(うはぶち)はね、三升四、五合、塩鶴(しほづる)の骨(ほね)すこし、菓子杉重(くはしすきぢう)のからまでも、取り集(あつ)めて、小宿(こやど)の口鼻(かか)が、機嫌(きげん)取りに、心をつくるもおかし、櫻田(さくらだ)の御門(ごもん)を通(とを)る時、我、袖より、はした銭(ぜに)、取り出(いだ)し、召(め)しつれし親仁(おやじ)が、けふの骨折(ほねを)り、おもひやられて、わづかなれども、莨菪(たばこ)成(な)りとも、買(か)ふて呑(の)みやれと、さし出(いだ)しけるに、いかに、お心付けなればとて、おもひもよらず、くだされました御同前(ごどうぜん)、わたくし事は、主命(しゆめい)なれば、御供(とも)、つかまつりませねば、外(ほか)に、水汲(みずく)む役(やく)あり、更(さら)に御こころに、かけ給ふなと、下々(したじた)には、きごく成(な)る、道理(だうり)を申しける、それより、丸(まる)の内(うち)の、屋形(やかた)々々を過(す)ぎて、町筋(すぢ)にかかり、女の足(あし)の、はかどらず、心せはしく、縹(たよ)り行(ゆ)くに、此中間(ちうげん)、我(わが)こやどの新橋(しんばし)へは、つれゆかずして、同じ所(ところ)を、四、五返(へん)も、右行(びらり)、左行(しやなり)と、つれてまはりけれども、町の案内(あんない)はしらず、うかうかと、ありきて、うち仰上(あふの)きて見れば、日影(ひかげ)も、西(にし)の丸に、かたぶくに驚き、気(き)をつけ見るに、めしつれし親仁(おやじ)、何(なに)やら、物を云(い)ひ掛(か)かりたき風情(ふぜい)、皺(しは)の寄(よ)りたる鼻(はな)の先(さき)に、あらはれし、さてはと、人の透(す)き間(ま)を見あはせ、釘貫(くぎぬ)き木隠(こがく)れにて、彼(か)の中間(ちうげん)、耳(みみ)ちかく、我(わ)れ等(ら)に、何(なに)ぞ用(よう)があるかと、小語(ささや)きければ、中間、嬉(うれ)しそふなる、㒵(かほ)つきして、子細(しさい)は語(かた)らず、破鞘(われざや)の脇指(わきざし)を、ひねくりまはし、君(きみ)の御事ならば、それがし目が命(いのち)、惜(お)しからず、国(くに)かたの、姥(ばば)がうらみも、かへり見ず、七十二になつて、虚(うそ)は申さぬ、大膽者(だいたんもの)と、おぼしめさば、それからそれまで、神仏(かみほとけ)は正直(しやうぢき)、今まで申した念仏(ねんぶつ)が、無(む)になり、人さまの楊枝(やうじ)壱本(ほん)、それはそれは、違(ち)がやうとも、おもはぬと、上髭(うはひげ)のある口から、長(なが)こと云(い)ふ程こそ、おかしけれ、そなた、我(わ)れ等(ら)に、ほれたといふ、一言(ごん)にて、濟(す)む事ではないか、といへば、親仁(おやじ)、潜(なみだ)然(ぐ)みて、それ程、人のおもはく、推量(すいりやう)なされましてから、難面(つれな)や、人に、べんべんと、詢(くど)かせられしは、聞(き)こえませぬと、無理(むり)なる、恨(うら)みを申すも、はや悪(に)くからず、律儀千萬(りちぎせんばん)なる年寄(としよ)りの、おもひ入れも、いたましく、移(うつ)り気(ぎ)になつて、小宿(こやど)に行(ゆ)けば、したい事するに、それを待(ま)ち兼(か)ね、数寄(すき)屋橋(ばし)の、かしばたなる、煮賣(にう)り屋に、恥(はぢ)を捨(す)てて、かけ込(こ)み、溫飩(うどん)すこしと、云(い)ひさま、亭主(ていしゆ)が目遣(めづか)ひ見れば、階(はし)の子(こ)、をしへける、二階(かい)にあがれば、内義(ないぎ)が、おつぶりと、気(き)を付けけるに、何事ぞと、おもへば、軒(のき)ひくうして、立つ事、不自由(ふじゆう)なり、疊(たたみ)弐枚(まい)敷(じき)の所を、澁紙(しぶかみ)にてかこひ、片隅(かたすみ)に、明(あか)り窓(まど)を請(う)けて、木枕(きまくら)ふたつ、置(を)きけるは、けふにかぎらず、曲者(くせもの)と、おもはれける、彼(か)の親仁(おやじ)に、添(そ)ひ臥(ぶ)しして、うれしがりぬる事を、限(かぎ)りもなく、気(き)のつきぬる程(ほど)、語(かた)りぬれども、身をすくめて、上気(じやうき)する折(を)りふしを、見あはせ、かたい帯(おび)の、むすびめなりと、ときかけぬれば、親仁(おやじ)、すこしは、うかれて、下帯(したおび)むさきと、おぼし召(め)すな、四、五日跡(あと)に、洗(あら)ひましたと、無用(むよう)の云(い)ひ分(わ)け、おかし、耳(みみ)とらへて、引(ひ)きよせ、腰(こし)の骨(ほね)のいたむ程、なでさすりて、もやもや、仕掛(しか)けぬれども、さりとは不埒(ふらち)、かくなるからは、残(この)り多(おほ)く、まだ日が高(たか)いと、云(い)ふて聞(き)かして、脇(わき)の下(した)へ、手をさしこめば、親仁(おやじ)、むくむくと、起(お)きあがるを、首尾(しゆび)かと、待(ま)ち兼(か)ねしに、昔(むかし)の劔(つるぎ)、今の菜刀(ながたな)、寶(たから)の山へ入りながら、むなしく帰ると、古(ふる)いたとへ事、云(い)ひさま、帯(おび)するを、引(ひ)きこかし、なんのかの、言葉(ことば)かさなるうちに、茶(ちや)屋の阿爺(とと)、階子(はしご)ふたつ目に、揚(あが)りて、申し申し、あたら溫飩(うどん)が、延(の)び過(す)ぎますがと、せはしくいふにぞ、なを親仁(おやじ)、おもひ切(き)りける」(井原西鶴「屋敷琢澁皮」(やしきみがきのしぶりかわ)」『好色一代女・卷四・P.135~142』岩波文庫)
そしてやっと大若衆登場。
「下(した)を覗(のぞ)けば、天窓(あたま)、剃(そ)り下(さ)げたる奴(やつこ)が、二十四、五なる、前髪(まへがみ)の草履(ざうり)取(と)りを、つれ来て、是もぬれとは、見えすきて、座敷(ざしき)入(い)ると聞(き)こえて、さてこそとおもはれーーー」(井原西鶴「屋敷琢澁皮」(やしきみがきのしぶりかわ)」『好色一代女・卷四・P.135~142』岩波文庫)
江戸時代の江戸でのエピソードである。なお同時期、熊野比丘尼は何をしていたろうか。熊野比丘尼の名誉と逞しさゆえに引いておかねばならない。柳田國男は「酢貝」(すがい)などを売り歩いたと述べている。
「歌比丘尼の本国は熊野であったと申します。中には旅先で弟子を取り、または町中に住居を定めた者も多かったようですが、少なくとも年に一度は、還るといって熊野に往復しました。媚(こび)をひさぐような境遇に落ちた比丘尼までが、熊野の牛王札(ごおうふだ)を売ると称して男の中に出入りし、箱には酢貝(すがい)という貝殻を入れて、土産と名づけて得意の家へ贈ったことが西鶴の小説などにあります。どうして熊野にばかり、このような特殊な職業婦人をたくさんに産するに至ったかはむつかしい問題ですが、本来この偏卑(へんぴ)な土地の信仰が、一時日本の隅々までも普及したのは、最初から神人の旅行ということが要素であったからで、永くその状態を続けていれば、後には故郷に不用なる人が多くなり、何としてなりとも外で生計を立てることが必要になったことかと思います。多くの熊野比丘尼には配偶者がいて、たいていは修験者(しゅげんじゃ)でありました。女の供給によって一山富むとさえいっていますが、彼等が正当の収入は遊芸の報酬ではなく、普通には勧進(かんじん)と称して、人に喜捨を勧めたのであります。神の社、仏の社、それから橋や山道の改修までも勧進し、後には伊勢の神宮の地にも来て住んで、ある時には大廟(だいびょう)造営のためにも働いています。こういう目的の比丘尼たちが国々をあるく場合に、歌にして聴かせた物語の種類が、一種や二種に限られていなかったのは、むしろ当然のことかと思います」(柳田國男「女性と民間伝承・熊野比丘尼」『柳田國男全集10・P.466~467』ちくま文庫)
同じ西鶴「好色一代女」に、「熊野(くまの)の牛王(ごわう)、酢貝(すがい)、耳(みみ)がしましき四つ竹、小比丘尼(こびくに)に、定(さだ)まりての、一升(せう)びしやく、勧進(くはんじん)といふ声(こゑ)も、引(ひき)きらず、はやり節(ぶし)をうたひ」、とある。
「艫(とも)に、年(とし)がまへなる親仁(おやじ)、居(ゐ)ながら、楫(かぢ)とりて、比丘尼(びくに)は、大かた、浅黄(あさぎ)の木綿布子(もめんぬのこ)に、竜門(りうもん)の中幅帯(ちうはばおび)、まへむすびにして、黒羽二重(くろはぶたへ)の、あたまがくし、深江(ふかゑ)の、お七ざしの加賀笠(かががさ)、うねたび、はかぬといふ事なし、絹(きぬ)のふたのの、すそみじかく、とりなり、ひとつに拵(こしら)へ、文臺(ぶんだい)に入れしは、熊野(くまの)の牛王(ごわう)、酢貝(すがい)、耳(みみ)がしましき四つ竹、小比丘尼(こびくに)に、定(さだ)まりての、一升(せう)びしやく、勧進(くはんじん)といふ声(こゑ)も、引(ひき)きらず、はやり節(ぶし)をうたひ、それに気(き)を取(と)り、外(ほか)より見るも、かまはず、元(もと)ぶねに乗(の)り移(うつ)り、分立(わけた)てて後(のち)、百つなぎの銭(ぜに)を、袂(たもと)へなげ入れけるも、おかし、あるはまた、割木(わりき)を、其あたひに取り、又は、さし鯖(さば)にも替(か)へ、同じ流(なが)れとはいひながら、是を思へば、すぐれて、さもしき業(わざ)なれども、昔日(そのかみ)より、此所(ところ)に目馴れて、おかしからず、人の行(ゆ)くすゑは、更(さら)にしれぬものぞ、我もいつとなく、いたづらの数(かず)つくして、今惜(お)しき黒髪(くろかみ)を剃(そ)りて、高津(たかつ)の宮(みや)の北(きた)にあたり、高原(たかはら)といへる町(まち)に、軒(のき)は笹(ささ)に葺(ふ)きて、幽(かすか)なる奥(おく)に、此道(みち)に身(み)をふれし、おりやうをたのみ、勤(つと)めてかくも、浅(あさ)ましく、なるものかな、雨(あめ)の日、嵐(あらし)のふく日にも、ゆるさず、かうした、あたま役(やく)に、白米(はくまい)一升(せう)に、銭(ぜに)五十、それより、しもづかたの、子(こ)共にも、定(さだ)めて、五合づつ、毎日(まいにち)、取(と)られければ、をのづと、いやしくなりて、むかしは、かかる事には、あらざりしに、近年(きんねん)、遊女(ゆうぢよ)のごとくなりぬ」(井原西鶴「調謔哥船(たはふれのうたぶね)」『好色一代女・卷三・P.107~111』岩波文庫)
当たり前のことだが、どこの誰もが大名の妻だったり娘だったりするわけでは全然なく、従って裕福な有閑婦人だったわけではさらさらない。江戸時代の女性でなおかつ何らかの職業に就くことができていた人々であっても、その圧倒的部分は多かれ少なかれ性的奉仕を求められることのある「茶屋女、中居女、介添女、飯盛女、等々」だった。そしてそれが収入になってもいた。売春専門の売春婦と半売春婦との《間》には無数の色合いがひきめき合っていた。その点を忘れて近世の女性像を語ることはできず、従って男性像を語ることもできない。ましてや今でいうLGBTに反映される無限の色彩について研究することなど不可能に近いというほかない。さらになお、女性の、従って男性もまた、並びに同性愛者らの生活実態をただ単なる興味本位で述べることは極めて困難だと言わざるを得ない。西鶴はなぜ「一代男」のみならず「一代女」をも描いたのか。熊楠のいうように、それぞれに違った生活様式があったのである。さらに売春婦として専業できるほど逞しい女性ばかりでないのは当然だった。そして言うまでもなく現代社会においてようやく認識されてきたように、どの職業の従事者であれ差別行為ならびに逆差別行為は厳しく指摘されねばならない。熊野比丘尼が遊女としてすでに怪しげなふうに白眼視されるようになるまでの箇所を書き残した西鶴は、浮世草子という方法を身に引き受けた上でさらに「男色大鑑」という同性愛の形をも活写することで「男色」という風俗がいかに重要性を持ったか、いち早く見出していた一流文芸家だったと十分に言えるだろう。
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「西鶴の『一代女』四の三に、一代女、屋敷の茶の間女になり、ある日七十二歳になる老下男をつれ外出し、温飩屋の二階に上がり、その老僕にしかかれど一向埒明かず、むかしの剣今の菜刀(ながたな)と嘆ずるうち、下を覗けば、あたま剃り下げたる奴(やつこ)が二十四、五なる前髪の草履取をつれきて、これもぬれとは見えすきて、座敷入用と聞こえて、云々、とあり」(南方熊楠「直江兼続と上杉景勝、大若衆のこと、その他」『浄のセクソロジー・P.381』河出文庫)
それが熊楠の要約。だから目的地へ着地させるための部分は極力省略されている。だが「一代女、屋敷の茶の間女になり、ある日七十二歳になる老下男をつれ外出し、温飩屋の二階に上がり、その老僕にしかかれど一向埒明かず、むかしの剣今の菜刀(ながたな)と嘆ずるうち、下を覗けば」とある箇所には江戸時代前半の繁栄を支えた無数の女性の生活様式が活写されている。いったん原文に目を通しておくのはけっして無駄でない。一代女が「茶の間女」(ちゃのまおんな)になって働いていた部分から大若衆登場シーンまでを引いてみよう。
「時花(はや)ればとて、今時(いまどき)の女、尻桁(しりげた)に掛(か)けたる、端(はし)紫の鹿子帯艫(かのこおび)、目にしみ渡(わた)りて、さりとては、いや風(ふう)也、自(みづか)らも、よる年にしたがひ、身を持(も)ち下(さ)げて、茶(ちや)の間(ま)女となり、壱年切(き)りに、勤(つと)めける。不断(ふだん)は、下(した)に洗(あら)ひ小袖、上(うへ)に木綿着物(もめんきるもの)に成(な)りて、御上(かみ)臺所の、御次(つぎ)に居(ゐ)て、見えわたりたる諸道具(しよだうぐ)を、取りさばきの奉公(ほうこう)也、黒米(くろごめ)に、走汁(はしらかし)に、朝夕(てうせき)をくれば、いつとなく、つやらしき形(かたち)を、うしなひ、我(わ)れながら、かくもまた、采体(とりなり)、いやしくなりぬ、されども、家父(やぶ)入りの春秋を、たのしみ、宿下(やどお)りして、隠(かく)し男に逢(あ)ふ時(とき)は、年に稀(まれ)なる、織姫(をりひめ)のここちして、裏(うら)の御門(ごもん)の、棚橋(たなばし)をわたる時にの嬉(うれ)しさ、足ばやに出(いで)行(ゆ)く風俗(ふうぞく)も、常(つね)とは仕替(しか)へて、黄無垢(きむく)に、紋嶋(もんじま)を、ひとつ前(まへ)にかさね、紺地(こんぢ)の今織(を)り後(うし)ろ帯(おび)、それがうへを、ことりましに、紫の抱(かか)へ帯(おび)して、髪(かみ)は引(ひ)き下(さ)げて、匕髻結(はねもとゆひ)を掛(か)け、額際(ひたいぎは)を、火塔(くはたう)に、取(と)つて、置墨(をきずみ)こく、きどく頭巾(づきん)より、目斗(ばか)りあらはし、年がまへなる中間(ちうげん)に、つぎづぎの袋(ふくろ)を持(も)たせり、其中(うち)に、上扶持(うはぶち)はね、三升四、五合、塩鶴(しほづる)の骨(ほね)すこし、菓子杉重(くはしすきぢう)のからまでも、取り集(あつ)めて、小宿(こやど)の口鼻(かか)が、機嫌(きげん)取りに、心をつくるもおかし、櫻田(さくらだ)の御門(ごもん)を通(とを)る時、我、袖より、はした銭(ぜに)、取り出(いだ)し、召(め)しつれし親仁(おやじ)が、けふの骨折(ほねを)り、おもひやられて、わづかなれども、莨菪(たばこ)成(な)りとも、買(か)ふて呑(の)みやれと、さし出(いだ)しけるに、いかに、お心付けなればとて、おもひもよらず、くだされました御同前(ごどうぜん)、わたくし事は、主命(しゆめい)なれば、御供(とも)、つかまつりませねば、外(ほか)に、水汲(みずく)む役(やく)あり、更(さら)に御こころに、かけ給ふなと、下々(したじた)には、きごく成(な)る、道理(だうり)を申しける、それより、丸(まる)の内(うち)の、屋形(やかた)々々を過(す)ぎて、町筋(すぢ)にかかり、女の足(あし)の、はかどらず、心せはしく、縹(たよ)り行(ゆ)くに、此中間(ちうげん)、我(わが)こやどの新橋(しんばし)へは、つれゆかずして、同じ所(ところ)を、四、五返(へん)も、右行(びらり)、左行(しやなり)と、つれてまはりけれども、町の案内(あんない)はしらず、うかうかと、ありきて、うち仰上(あふの)きて見れば、日影(ひかげ)も、西(にし)の丸に、かたぶくに驚き、気(き)をつけ見るに、めしつれし親仁(おやじ)、何(なに)やら、物を云(い)ひ掛(か)かりたき風情(ふぜい)、皺(しは)の寄(よ)りたる鼻(はな)の先(さき)に、あらはれし、さてはと、人の透(す)き間(ま)を見あはせ、釘貫(くぎぬ)き木隠(こがく)れにて、彼(か)の中間(ちうげん)、耳(みみ)ちかく、我(わ)れ等(ら)に、何(なに)ぞ用(よう)があるかと、小語(ささや)きければ、中間、嬉(うれ)しそふなる、㒵(かほ)つきして、子細(しさい)は語(かた)らず、破鞘(われざや)の脇指(わきざし)を、ひねくりまはし、君(きみ)の御事ならば、それがし目が命(いのち)、惜(お)しからず、国(くに)かたの、姥(ばば)がうらみも、かへり見ず、七十二になつて、虚(うそ)は申さぬ、大膽者(だいたんもの)と、おぼしめさば、それからそれまで、神仏(かみほとけ)は正直(しやうぢき)、今まで申した念仏(ねんぶつ)が、無(む)になり、人さまの楊枝(やうじ)壱本(ほん)、それはそれは、違(ち)がやうとも、おもはぬと、上髭(うはひげ)のある口から、長(なが)こと云(い)ふ程こそ、おかしけれ、そなた、我(わ)れ等(ら)に、ほれたといふ、一言(ごん)にて、濟(す)む事ではないか、といへば、親仁(おやじ)、潜(なみだ)然(ぐ)みて、それ程、人のおもはく、推量(すいりやう)なされましてから、難面(つれな)や、人に、べんべんと、詢(くど)かせられしは、聞(き)こえませぬと、無理(むり)なる、恨(うら)みを申すも、はや悪(に)くからず、律儀千萬(りちぎせんばん)なる年寄(としよ)りの、おもひ入れも、いたましく、移(うつ)り気(ぎ)になつて、小宿(こやど)に行(ゆ)けば、したい事するに、それを待(ま)ち兼(か)ね、数寄(すき)屋橋(ばし)の、かしばたなる、煮賣(にう)り屋に、恥(はぢ)を捨(す)てて、かけ込(こ)み、溫飩(うどん)すこしと、云(い)ひさま、亭主(ていしゆ)が目遣(めづか)ひ見れば、階(はし)の子(こ)、をしへける、二階(かい)にあがれば、内義(ないぎ)が、おつぶりと、気(き)を付けけるに、何事ぞと、おもへば、軒(のき)ひくうして、立つ事、不自由(ふじゆう)なり、疊(たたみ)弐枚(まい)敷(じき)の所を、澁紙(しぶかみ)にてかこひ、片隅(かたすみ)に、明(あか)り窓(まど)を請(う)けて、木枕(きまくら)ふたつ、置(を)きけるは、けふにかぎらず、曲者(くせもの)と、おもはれける、彼(か)の親仁(おやじ)に、添(そ)ひ臥(ぶ)しして、うれしがりぬる事を、限(かぎ)りもなく、気(き)のつきぬる程(ほど)、語(かた)りぬれども、身をすくめて、上気(じやうき)する折(を)りふしを、見あはせ、かたい帯(おび)の、むすびめなりと、ときかけぬれば、親仁(おやじ)、すこしは、うかれて、下帯(したおび)むさきと、おぼし召(め)すな、四、五日跡(あと)に、洗(あら)ひましたと、無用(むよう)の云(い)ひ分(わ)け、おかし、耳(みみ)とらへて、引(ひ)きよせ、腰(こし)の骨(ほね)のいたむ程、なでさすりて、もやもや、仕掛(しか)けぬれども、さりとは不埒(ふらち)、かくなるからは、残(この)り多(おほ)く、まだ日が高(たか)いと、云(い)ふて聞(き)かして、脇(わき)の下(した)へ、手をさしこめば、親仁(おやじ)、むくむくと、起(お)きあがるを、首尾(しゆび)かと、待(ま)ち兼(か)ねしに、昔(むかし)の劔(つるぎ)、今の菜刀(ながたな)、寶(たから)の山へ入りながら、むなしく帰ると、古(ふる)いたとへ事、云(い)ひさま、帯(おび)するを、引(ひ)きこかし、なんのかの、言葉(ことば)かさなるうちに、茶(ちや)屋の阿爺(とと)、階子(はしご)ふたつ目に、揚(あが)りて、申し申し、あたら溫飩(うどん)が、延(の)び過(す)ぎますがと、せはしくいふにぞ、なを親仁(おやじ)、おもひ切(き)りける」(井原西鶴「屋敷琢澁皮」(やしきみがきのしぶりかわ)」『好色一代女・卷四・P.135~142』岩波文庫)
そしてやっと大若衆登場。
「下(した)を覗(のぞ)けば、天窓(あたま)、剃(そ)り下(さ)げたる奴(やつこ)が、二十四、五なる、前髪(まへがみ)の草履(ざうり)取(と)りを、つれ来て、是もぬれとは、見えすきて、座敷(ざしき)入(い)ると聞(き)こえて、さてこそとおもはれーーー」(井原西鶴「屋敷琢澁皮」(やしきみがきのしぶりかわ)」『好色一代女・卷四・P.135~142』岩波文庫)
江戸時代の江戸でのエピソードである。なお同時期、熊野比丘尼は何をしていたろうか。熊野比丘尼の名誉と逞しさゆえに引いておかねばならない。柳田國男は「酢貝」(すがい)などを売り歩いたと述べている。
「歌比丘尼の本国は熊野であったと申します。中には旅先で弟子を取り、または町中に住居を定めた者も多かったようですが、少なくとも年に一度は、還るといって熊野に往復しました。媚(こび)をひさぐような境遇に落ちた比丘尼までが、熊野の牛王札(ごおうふだ)を売ると称して男の中に出入りし、箱には酢貝(すがい)という貝殻を入れて、土産と名づけて得意の家へ贈ったことが西鶴の小説などにあります。どうして熊野にばかり、このような特殊な職業婦人をたくさんに産するに至ったかはむつかしい問題ですが、本来この偏卑(へんぴ)な土地の信仰が、一時日本の隅々までも普及したのは、最初から神人の旅行ということが要素であったからで、永くその状態を続けていれば、後には故郷に不用なる人が多くなり、何としてなりとも外で生計を立てることが必要になったことかと思います。多くの熊野比丘尼には配偶者がいて、たいていは修験者(しゅげんじゃ)でありました。女の供給によって一山富むとさえいっていますが、彼等が正当の収入は遊芸の報酬ではなく、普通には勧進(かんじん)と称して、人に喜捨を勧めたのであります。神の社、仏の社、それから橋や山道の改修までも勧進し、後には伊勢の神宮の地にも来て住んで、ある時には大廟(だいびょう)造営のためにも働いています。こういう目的の比丘尼たちが国々をあるく場合に、歌にして聴かせた物語の種類が、一種や二種に限られていなかったのは、むしろ当然のことかと思います」(柳田國男「女性と民間伝承・熊野比丘尼」『柳田國男全集10・P.466~467』ちくま文庫)
同じ西鶴「好色一代女」に、「熊野(くまの)の牛王(ごわう)、酢貝(すがい)、耳(みみ)がしましき四つ竹、小比丘尼(こびくに)に、定(さだ)まりての、一升(せう)びしやく、勧進(くはんじん)といふ声(こゑ)も、引(ひき)きらず、はやり節(ぶし)をうたひ」、とある。
「艫(とも)に、年(とし)がまへなる親仁(おやじ)、居(ゐ)ながら、楫(かぢ)とりて、比丘尼(びくに)は、大かた、浅黄(あさぎ)の木綿布子(もめんぬのこ)に、竜門(りうもん)の中幅帯(ちうはばおび)、まへむすびにして、黒羽二重(くろはぶたへ)の、あたまがくし、深江(ふかゑ)の、お七ざしの加賀笠(かががさ)、うねたび、はかぬといふ事なし、絹(きぬ)のふたのの、すそみじかく、とりなり、ひとつに拵(こしら)へ、文臺(ぶんだい)に入れしは、熊野(くまの)の牛王(ごわう)、酢貝(すがい)、耳(みみ)がしましき四つ竹、小比丘尼(こびくに)に、定(さだ)まりての、一升(せう)びしやく、勧進(くはんじん)といふ声(こゑ)も、引(ひき)きらず、はやり節(ぶし)をうたひ、それに気(き)を取(と)り、外(ほか)より見るも、かまはず、元(もと)ぶねに乗(の)り移(うつ)り、分立(わけた)てて後(のち)、百つなぎの銭(ぜに)を、袂(たもと)へなげ入れけるも、おかし、あるはまた、割木(わりき)を、其あたひに取り、又は、さし鯖(さば)にも替(か)へ、同じ流(なが)れとはいひながら、是を思へば、すぐれて、さもしき業(わざ)なれども、昔日(そのかみ)より、此所(ところ)に目馴れて、おかしからず、人の行(ゆ)くすゑは、更(さら)にしれぬものぞ、我もいつとなく、いたづらの数(かず)つくして、今惜(お)しき黒髪(くろかみ)を剃(そ)りて、高津(たかつ)の宮(みや)の北(きた)にあたり、高原(たかはら)といへる町(まち)に、軒(のき)は笹(ささ)に葺(ふ)きて、幽(かすか)なる奥(おく)に、此道(みち)に身(み)をふれし、おりやうをたのみ、勤(つと)めてかくも、浅(あさ)ましく、なるものかな、雨(あめ)の日、嵐(あらし)のふく日にも、ゆるさず、かうした、あたま役(やく)に、白米(はくまい)一升(せう)に、銭(ぜに)五十、それより、しもづかたの、子(こ)共にも、定(さだ)めて、五合づつ、毎日(まいにち)、取(と)られければ、をのづと、いやしくなりて、むかしは、かかる事には、あらざりしに、近年(きんねん)、遊女(ゆうぢよ)のごとくなりぬ」(井原西鶴「調謔哥船(たはふれのうたぶね)」『好色一代女・卷三・P.107~111』岩波文庫)
当たり前のことだが、どこの誰もが大名の妻だったり娘だったりするわけでは全然なく、従って裕福な有閑婦人だったわけではさらさらない。江戸時代の女性でなおかつ何らかの職業に就くことができていた人々であっても、その圧倒的部分は多かれ少なかれ性的奉仕を求められることのある「茶屋女、中居女、介添女、飯盛女、等々」だった。そしてそれが収入になってもいた。売春専門の売春婦と半売春婦との《間》には無数の色合いがひきめき合っていた。その点を忘れて近世の女性像を語ることはできず、従って男性像を語ることもできない。ましてや今でいうLGBTに反映される無限の色彩について研究することなど不可能に近いというほかない。さらになお、女性の、従って男性もまた、並びに同性愛者らの生活実態をただ単なる興味本位で述べることは極めて困難だと言わざるを得ない。西鶴はなぜ「一代男」のみならず「一代女」をも描いたのか。熊楠のいうように、それぞれに違った生活様式があったのである。さらに売春婦として専業できるほど逞しい女性ばかりでないのは当然だった。そして言うまでもなく現代社会においてようやく認識されてきたように、どの職業の従事者であれ差別行為ならびに逆差別行為は厳しく指摘されねばならない。熊野比丘尼が遊女としてすでに怪しげなふうに白眼視されるようになるまでの箇所を書き残した西鶴は、浮世草子という方法を身に引き受けた上でさらに「男色大鑑」という同性愛の形をも活写することで「男色」という風俗がいかに重要性を持ったか、いち早く見出していた一流文芸家だったと十分に言えるだろう。
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