自分で自分自身についてしっかりした理解がないような場合、人間の魂はふらふら出ていく。学校、職場、通勤、通学、買い物、道端、いずれのシーンにおいても人々はついうっかり他人の姿形に心を奪われてしまいがちだ。相手がどれほど馬鹿な人間だとわかっていてもなお。落ち着きのない性愛の動きはしばしば家庭を崩壊させ政治運動を挫折させ地域社会に致命傷を与えることさえある。しかし古代には、より一層不可解な説話がなかったわけではない。輪廻転生。証拠物件を提示しつつ生まれ変わったエピソードがある。「黶(ふすべ)」は「ほくろ」のこと。「山部の天皇(すめらみこと)」は桓武天皇。善殊善師(ぜんじゅぜんじ)は「尺(しゃく)=釈迦の弟子」である。善殊は死ぬ前に占い専門の巫女を呼んで卜占を行った。巫女は告げた。同じところに同じ「黶(ふすべ)」を持って親王として復活するだろうと。
「而して彼(そ)の善師の頤(おとがひ)の右の方に、大きなる黶(ふすべ)有りき。平城(なら)の宮に天(あめ)の下治めたまひし山部の天皇(すめらみこと)の御世の延暦の十七年の此頃(ころほひ)に、善師善殊、命終(みやうじゆ)の時に臨みて、世俗(よのひと)の法に依りて、飯占(いひうら)を問ひし時に、神霊、卜者(かみなぎ)に託(くる)ひて言はく、『我、必ず日本の国王の夫人(ぶにん)丹治比(たぢひ)の嬢女(をみな)の胎(はら)に宿りて、王子に生(うま)れむ。吾が面の黶(ふすべ)著(つ)きて生れむを以(も)て、虚実(こじつ)を知らまくのみ』といふ」(「日本霊異記・下・智と行(ぎやう)と並(とも)に具(そな)はれる禅師の重ねて人身を得て、国皇のみ子と生れし縁 第三十九・一・P.287」講談社学術文庫)
すると、しばらくしてその通りに復活した。ただ、「三年許(ばかり)経(へ)、世に存(あ)りて薨(う)せたまふ」とあり、なぜ「三年」だったのかはわからない。ところでこの説話の中に「丹治比(たぢひ)の夫人(ぶにん)」という名が見える。
「命終(みやうじゆ)の後、延暦の 十八年の此頃(ころほひ)に、丹治比(たぢひ)の夫人(ぶにん)、一(ひとり)の王子を誕生(うみま)す。其の頤(おとがひ)の右の方に黶(ふすべ)著(つ)くこと、先の善殊善師の面の黶(ふすべ)の如し。失(う)せずして著(つ)きて生る。故(そゑ)にみ名(な)を大徳(だいとこ)の親王(みこ)と号(まう)す。然して三年許(ばかり)経(へ)、世に存(あ)りて薨(う)せたまふ」(「日本霊異記・下・智と行(ぎやう)と並(とも)に具(そな)はれる禅師の重ねて人身を得て、国皇のみ子と生れし縁 第三十九・一・P.287~288」講談社学術文庫)
熊楠はトーテムについての論考の中で「丹治比(たぢひ)」の名について触れている。
「反正天皇降誕の時タジヒ(虎杖)の花の瑞あり、よって多遅比端歯別命(たじひのみつはわけのみこと)と号し奉り、諸国に丹治比部をおきその主宰に丹治比姓を賜う」(南方熊楠「トーテムと命名」『動と不動のコスモロジー・P.82』河出文庫)
日本書紀から該当箇所。
「時(とき)に多遅(たぢ)の花(はな)、井の中(なか)に有り。因(よ)りて太子の名(みな)とす。多遅の花は、今(いま)の虎杖(いたどり)の花なり。故(かれ)、多遅比端歯別天皇(たぢひのみつはわけのすめらみこと)と称(たた)へ謂(まう)す」(「日本書紀2・巻第十二・反正天皇即位前紀~元年十月・P.300」岩波文庫)
なるほど「多遅(たぢ)の花(はな)」は日本書紀編纂期すでに「虎杖(いたどり)の花」とされていた。今でいう「イタドリ」。茎は食用にもなる。だが「丹治比(たぢひ)」の名は「多遅(たぢ)の花(はな)」に由来したのではなく、都が置かれた河内の丹比(たじひ)に由来するものだろう。今の大阪府羽曳野市丹比付近。
さらにこの時に巫女が行った卜占術は「飯占(いひうら)」とある。飯の炊き具合を見て判断する方法。飯と占いとは遥か古代からずっと関係が深い。前に「飯盛山」について柳田國男の論考を引いた。
「飯盛(いいもり)山は、通例山の形が飯を盛り上げた形に似ているからこの名があるというが、それだけでは命名の理由の不明な飯盛山が、自分の集めているだけでも、全国にわたって百以上もある。いずれも形の整った孤峰であるが、一方には、飯盛塚というものが無数にある。単に形似の偶然によって、気軽に命名したとはとうてい考えられないほど無数にある。自分等の推測では、平野の中に起った村で神を祀る場合、山村で紙を祀ると同じように、特に高く土を盛ったものと見る。山の名と塚の名と共通しているのは、飯盛山ばかりではない。茶臼(ちゃうす)山、茶臼岳が多いと同時に、茶臼塚が無数にある。かめ塚とかめ山ともまた非常に数が多い。一方にはまた塚の名と神様の名とに、幾つも共通なのがある。野神と野塚、松神と松塚、牛神と牛塚、狐神と狐塚という風に、神様がある所には、同名の塚のある例がたくさんある。そこで、天然に存在する嶺も、人工によって成ったところの一丈二丈の塚も、信仰上共通の要素を有しておったと想像することができる」(柳田國男「飯盛山と飯盛塚」『柳田國男全集15・P.555』ちくま文庫)
ところで、江戸時代に入ると琵琶法師や歌比丘尼らにとって年末は、泣くに泣いてもいられない時期だ。あれこれ芸に工夫をこらして少しでも義理は果たさねばならない。できなければ明日にでも死ぬほかない。工夫は当たり前。それ以上に大事なのはなぜか伝統的に確実に観衆受けする絵解きであり物語である。そのため技術を磨いておくのは日々の練習次第だが、中心となる技はいつも音色とリズムとの妙なる融合である。
「言葉の妙味などは国限りのものであって、之を国際的に品評すべき尺度とては無いが、我々の歌謡や語り物の面白さ、さては謎とか諺とかの文句に、意味を離れてなお幼い者をまで引付ける力があったのは、ひとえに音と間拍子とを粗末にしなかった永い間の習練のおかげであった。個々の新語の世に行われて、永く廃れなかったのも惰性だけではなかった。単なる落想の奇警は飽きられる時が来るが、音の興味には愛着の念が副うたのである」(柳田國男「口承文藝史考・口承文藝とは何か・十一」『柳田國男集・第六巻・P25~26』筑摩書房)
江戸時代。なかでも琵琶法師は宗教的庇護を頼みにすることが難しくなってきた。
「琵琶法師を題材とした笑話やからかひの歌も相当多い。亦同様に彼らの自作であろうと思う。平家は如何にも物悲しい語り物であるが、座頭に随従する小盲は、あとで必ず口直しのように、腹を抱えさせるような早物語をした。東北地方で大家という程の家は、台所が馬鹿に大きくて、始終色々の旅の者が泊って居た。ボサマなどは殊に人気があって、芸と話で夜は遅くまで遊ぶのが習いであった。常居の爐の周りにも、一冬は毎夜のように夜話の寄合があった。後には単なる閑潰しの如く、考えられるようになったらしいが、実は是も亦欠くべからざる年中行事であった。殊に近世の三〇〇年を一貫して、日待といい庚申待というが如き、ほとんど夜話を主たる目的とした会合が当番を以て催され、必ずその席に招かれる者は座頭であった。座頭という名称はあるいはこういうところから出たかと思う。旧家には持仏の前などに盲人を泊める小座敷さえもあった。奥州の昔話の今日の形は、思うに此一間の中で改造せられたものであろう。というわけはこの階級の宗教上の勢力は、他の何れの法師よりも一番先に失墜して、直接技芸を以て飯の種としなければならなかったからである」(柳田國男「昔話覚書・昔話解説」『柳田國男集・第六巻・P.506』筑摩書房)
柳田が、「この階級の宗教上の勢力は、他の何れの法師よりも一番先に失墜して、直接技芸を以て飯の種としなければならなかった」というのは、そもそも琵琶法師は「語り部」として出現したことと関係がある。折口信夫は「ほかひびと」と呼んでいるが、上代の日本には主に祝言職を生業とした語り専門の人々の集団があった。琵琶法師が「平家物語」を語り始めるのは言うまでもなく源平合戦以後である。それ以前に「平家物語」は存在しない。そしてその特徴は「鎮魂歌」として出現した点であり、そのこと自体に着目する必要がある。折口信夫が論じているように、流浪民らが全国を放浪しなくてはならなくなっていった経緯には、特に江戸時代になって以降、ほぼ誰も「鎮魂歌」を必要としなくなった歴史がある。以下、折口の論考の中から要点を列挙しておく。
(1)「鎮魂の第一義は『たまふり』で、魂を鎮めることは第二儀になる。日本在来の『たまふり』と鎮魂とは似てゐたので、鎮魂の文字を宛てたのである。『ふる』とは元来、くつ箸けることであつて、魂を著けるのが鎮魂、即、『たまふり』である。この鎮魂は、唐土では、内の魂が外へ出ぬやうに鎮めることであるから、日本でも、一般には同じ様に考えられてゐるが、実は、古くは、外部から魂を取つて来て、それを著ける事であつた。ーーー鎮魂とは、このやうに人間の外部にある精力の源を身体に固著させる事である」(折口信夫「歌謡を中心とした王朝の文學・鎮魂歌」『折口信夫全集・第十二巻・P.268~269』中公公論社)
(2)「流離民(ウカレビト)が澤山生じた原因は、幾つか挙げられるであらう。譬へば、聖武の朝に、行基門徒に限つて托鉢生活を免して以来、得度せぬ道心者の階級が認められる様になり、其とともに、乞食行法で生計を立てつものを、寺の所属と認めた。即、『ほかひ人』が、寺奴の唱門師となつて行く道は開けたのである。併し、其以前に、流離の民を多く生じさせねばならなかつた根本的な理由が別にある。元、地方の権威者たちと倭宮廷との交渉には、大体、二通りの行き方があつた。其村が、倭の本村から、一目も二目も置かれた強大な村ならば、其神人の生活は、次第に倭化することは免れぬとしても、先、幸福な推移を続けて行つたに相違ない。併し、中央の命令のよく徹る村々では、さうは行かなかつたらしいのである。中でも、村君と血統上結びつきのない、神の本縁を説く神人たちは、内外から受ける圧迫に抗し切れず、夙く亡命の旅に出ねばならなかつた。又、その奉ずる神が村君ーーー國造ーーーに対しては力があつても、中央から任ぜられて来る官吏ーーー國司ーーーに対しては、完全に無力であるといふ、悲しい境遇も生じた。譬へば、日向風土記逸文の記すところは、其である。更に、部曲の保護者を失うて、無理解な國司の治下に置かれた、その神人の生活は、二重に桎梏に悩む、奴隷の境遇であつた。手職をうけ襲いだ家は、どうにか自活することが出来るとしても、其以外の大多数の者は、本貫を離れて苦の世界を脱しよう、と図らねばならぬ様にせられてゐたのである。かうした亡命の民が、行く先々で受けたのは、その異神を奉ずる者であるがために受ける境涯であつた。里人の畏れと、期待との交錯した注目のうちに、益、其悲しい本質から離れられぬ様になり、同時に、祝福者としての屈従生活に、深入りせねばならなかつた。さうして、此間の事情を深く知らぬ為に、世間は、その異部族である点を誇張して考へ、その人たちは一層、其独自の生活方法に據らずには、生活しにくいことになつたのである」(折口信夫「上世日本の文學・巡遊怜人」『折口信夫全集・第十二巻・P.336~337』中公公論社)
(3)「古代人の漠然とした考への上で、周期的に異神の群行があつて、邑村の生活に祝福を垂れて通り過ぎる、と信じた信仰が深まるとともに、時あつて、忽然として極めて新しい神の来臨に遭ふ事も、屢あることであつた。これを迎へる者の心は、楽しい期待ばかりに充たされてゐたのではなく、畏しい感じもまじつてゐた。だから、後に乞食者の字面を、『ほかひ人』に宛てたのは、必しも正確に当つては居らぬのである。乞ふのではなく、寧、此方からその機嫌をとり、其呪術に依つて、よい結果を残して行つて貰はうとする心持ちから、出来るだけ豊富に物を与へた訣である。この二様の交錯する気持ちが分れて、おとづれ人を、一つには、妖怪と信じ、一つには、祝言職から乞食者と考へる様になつたのである」(折口信夫「上世日本の文學・呪詞」『折口信夫全集・第十二巻・P.337~338』中公公論社)
しかし他の宗教教団とは異なり、熊野三山ばかりは彼らにとってどこまでも偉大な聖地だった。
(4)「千載集には、神のお告げの歌が出てゐる。衣通姫・人麿呂・住吉明神を和歌三神といふやうになつたのは、歌の統傅爭ひからのことであるが、起りは熊野にある。平安時代には熊野の信仰が盛んだつたが、熊野では歌によつて託宣を下し、其風が全國の社寺に擴つたのである」(折口信夫「歌謡を中心とした王朝の文學・歌の文學化」『折口信夫全集・第十二巻・P.321』中公公論社)
ちなみに京都へ出張し東山山麓の岡崎に住居を構えた熊野比丘尼「妙壽(めうじゆ)」は有名だ。
「山つつき岡崎といふ所に、妙壽(めうじゆ)といへる比丘尼(びくに)、草庵を結び、東南の明(あか)りをうけず、襖(ふすま)障子(しやうし)も、假名文(かなふみ)の反故張(ほうぐばり)、上書(うはがき)、悉(ことごとく)やぶりしは、わけらしく見えて、一間(ひとま)、子闇(こくら)く、こしらえけるこそ、くせものなれ、爰(ここ)はと、友どちにきけば、洛中のくら宿(やど)なり」(井原西鶴「好色一代男・卷二・女はおもはくの外・P.52」岩波文庫)
西鶴は文藝において、熊楠や柳田は学術研究面から当然、琵琶法師や歌比丘尼の渡世がどれほど苦悶に満ちていたか、十分過ぎるほどよくわかっていた。とりわけ年末は。
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「而して彼(そ)の善師の頤(おとがひ)の右の方に、大きなる黶(ふすべ)有りき。平城(なら)の宮に天(あめ)の下治めたまひし山部の天皇(すめらみこと)の御世の延暦の十七年の此頃(ころほひ)に、善師善殊、命終(みやうじゆ)の時に臨みて、世俗(よのひと)の法に依りて、飯占(いひうら)を問ひし時に、神霊、卜者(かみなぎ)に託(くる)ひて言はく、『我、必ず日本の国王の夫人(ぶにん)丹治比(たぢひ)の嬢女(をみな)の胎(はら)に宿りて、王子に生(うま)れむ。吾が面の黶(ふすべ)著(つ)きて生れむを以(も)て、虚実(こじつ)を知らまくのみ』といふ」(「日本霊異記・下・智と行(ぎやう)と並(とも)に具(そな)はれる禅師の重ねて人身を得て、国皇のみ子と生れし縁 第三十九・一・P.287」講談社学術文庫)
すると、しばらくしてその通りに復活した。ただ、「三年許(ばかり)経(へ)、世に存(あ)りて薨(う)せたまふ」とあり、なぜ「三年」だったのかはわからない。ところでこの説話の中に「丹治比(たぢひ)の夫人(ぶにん)」という名が見える。
「命終(みやうじゆ)の後、延暦の 十八年の此頃(ころほひ)に、丹治比(たぢひ)の夫人(ぶにん)、一(ひとり)の王子を誕生(うみま)す。其の頤(おとがひ)の右の方に黶(ふすべ)著(つ)くこと、先の善殊善師の面の黶(ふすべ)の如し。失(う)せずして著(つ)きて生る。故(そゑ)にみ名(な)を大徳(だいとこ)の親王(みこ)と号(まう)す。然して三年許(ばかり)経(へ)、世に存(あ)りて薨(う)せたまふ」(「日本霊異記・下・智と行(ぎやう)と並(とも)に具(そな)はれる禅師の重ねて人身を得て、国皇のみ子と生れし縁 第三十九・一・P.287~288」講談社学術文庫)
熊楠はトーテムについての論考の中で「丹治比(たぢひ)」の名について触れている。
「反正天皇降誕の時タジヒ(虎杖)の花の瑞あり、よって多遅比端歯別命(たじひのみつはわけのみこと)と号し奉り、諸国に丹治比部をおきその主宰に丹治比姓を賜う」(南方熊楠「トーテムと命名」『動と不動のコスモロジー・P.82』河出文庫)
日本書紀から該当箇所。
「時(とき)に多遅(たぢ)の花(はな)、井の中(なか)に有り。因(よ)りて太子の名(みな)とす。多遅の花は、今(いま)の虎杖(いたどり)の花なり。故(かれ)、多遅比端歯別天皇(たぢひのみつはわけのすめらみこと)と称(たた)へ謂(まう)す」(「日本書紀2・巻第十二・反正天皇即位前紀~元年十月・P.300」岩波文庫)
なるほど「多遅(たぢ)の花(はな)」は日本書紀編纂期すでに「虎杖(いたどり)の花」とされていた。今でいう「イタドリ」。茎は食用にもなる。だが「丹治比(たぢひ)」の名は「多遅(たぢ)の花(はな)」に由来したのではなく、都が置かれた河内の丹比(たじひ)に由来するものだろう。今の大阪府羽曳野市丹比付近。
さらにこの時に巫女が行った卜占術は「飯占(いひうら)」とある。飯の炊き具合を見て判断する方法。飯と占いとは遥か古代からずっと関係が深い。前に「飯盛山」について柳田國男の論考を引いた。
「飯盛(いいもり)山は、通例山の形が飯を盛り上げた形に似ているからこの名があるというが、それだけでは命名の理由の不明な飯盛山が、自分の集めているだけでも、全国にわたって百以上もある。いずれも形の整った孤峰であるが、一方には、飯盛塚というものが無数にある。単に形似の偶然によって、気軽に命名したとはとうてい考えられないほど無数にある。自分等の推測では、平野の中に起った村で神を祀る場合、山村で紙を祀ると同じように、特に高く土を盛ったものと見る。山の名と塚の名と共通しているのは、飯盛山ばかりではない。茶臼(ちゃうす)山、茶臼岳が多いと同時に、茶臼塚が無数にある。かめ塚とかめ山ともまた非常に数が多い。一方にはまた塚の名と神様の名とに、幾つも共通なのがある。野神と野塚、松神と松塚、牛神と牛塚、狐神と狐塚という風に、神様がある所には、同名の塚のある例がたくさんある。そこで、天然に存在する嶺も、人工によって成ったところの一丈二丈の塚も、信仰上共通の要素を有しておったと想像することができる」(柳田國男「飯盛山と飯盛塚」『柳田國男全集15・P.555』ちくま文庫)
ところで、江戸時代に入ると琵琶法師や歌比丘尼らにとって年末は、泣くに泣いてもいられない時期だ。あれこれ芸に工夫をこらして少しでも義理は果たさねばならない。できなければ明日にでも死ぬほかない。工夫は当たり前。それ以上に大事なのはなぜか伝統的に確実に観衆受けする絵解きであり物語である。そのため技術を磨いておくのは日々の練習次第だが、中心となる技はいつも音色とリズムとの妙なる融合である。
「言葉の妙味などは国限りのものであって、之を国際的に品評すべき尺度とては無いが、我々の歌謡や語り物の面白さ、さては謎とか諺とかの文句に、意味を離れてなお幼い者をまで引付ける力があったのは、ひとえに音と間拍子とを粗末にしなかった永い間の習練のおかげであった。個々の新語の世に行われて、永く廃れなかったのも惰性だけではなかった。単なる落想の奇警は飽きられる時が来るが、音の興味には愛着の念が副うたのである」(柳田國男「口承文藝史考・口承文藝とは何か・十一」『柳田國男集・第六巻・P25~26』筑摩書房)
江戸時代。なかでも琵琶法師は宗教的庇護を頼みにすることが難しくなってきた。
「琵琶法師を題材とした笑話やからかひの歌も相当多い。亦同様に彼らの自作であろうと思う。平家は如何にも物悲しい語り物であるが、座頭に随従する小盲は、あとで必ず口直しのように、腹を抱えさせるような早物語をした。東北地方で大家という程の家は、台所が馬鹿に大きくて、始終色々の旅の者が泊って居た。ボサマなどは殊に人気があって、芸と話で夜は遅くまで遊ぶのが習いであった。常居の爐の周りにも、一冬は毎夜のように夜話の寄合があった。後には単なる閑潰しの如く、考えられるようになったらしいが、実は是も亦欠くべからざる年中行事であった。殊に近世の三〇〇年を一貫して、日待といい庚申待というが如き、ほとんど夜話を主たる目的とした会合が当番を以て催され、必ずその席に招かれる者は座頭であった。座頭という名称はあるいはこういうところから出たかと思う。旧家には持仏の前などに盲人を泊める小座敷さえもあった。奥州の昔話の今日の形は、思うに此一間の中で改造せられたものであろう。というわけはこの階級の宗教上の勢力は、他の何れの法師よりも一番先に失墜して、直接技芸を以て飯の種としなければならなかったからである」(柳田國男「昔話覚書・昔話解説」『柳田國男集・第六巻・P.506』筑摩書房)
柳田が、「この階級の宗教上の勢力は、他の何れの法師よりも一番先に失墜して、直接技芸を以て飯の種としなければならなかった」というのは、そもそも琵琶法師は「語り部」として出現したことと関係がある。折口信夫は「ほかひびと」と呼んでいるが、上代の日本には主に祝言職を生業とした語り専門の人々の集団があった。琵琶法師が「平家物語」を語り始めるのは言うまでもなく源平合戦以後である。それ以前に「平家物語」は存在しない。そしてその特徴は「鎮魂歌」として出現した点であり、そのこと自体に着目する必要がある。折口信夫が論じているように、流浪民らが全国を放浪しなくてはならなくなっていった経緯には、特に江戸時代になって以降、ほぼ誰も「鎮魂歌」を必要としなくなった歴史がある。以下、折口の論考の中から要点を列挙しておく。
(1)「鎮魂の第一義は『たまふり』で、魂を鎮めることは第二儀になる。日本在来の『たまふり』と鎮魂とは似てゐたので、鎮魂の文字を宛てたのである。『ふる』とは元来、くつ箸けることであつて、魂を著けるのが鎮魂、即、『たまふり』である。この鎮魂は、唐土では、内の魂が外へ出ぬやうに鎮めることであるから、日本でも、一般には同じ様に考えられてゐるが、実は、古くは、外部から魂を取つて来て、それを著ける事であつた。ーーー鎮魂とは、このやうに人間の外部にある精力の源を身体に固著させる事である」(折口信夫「歌謡を中心とした王朝の文學・鎮魂歌」『折口信夫全集・第十二巻・P.268~269』中公公論社)
(2)「流離民(ウカレビト)が澤山生じた原因は、幾つか挙げられるであらう。譬へば、聖武の朝に、行基門徒に限つて托鉢生活を免して以来、得度せぬ道心者の階級が認められる様になり、其とともに、乞食行法で生計を立てつものを、寺の所属と認めた。即、『ほかひ人』が、寺奴の唱門師となつて行く道は開けたのである。併し、其以前に、流離の民を多く生じさせねばならなかつた根本的な理由が別にある。元、地方の権威者たちと倭宮廷との交渉には、大体、二通りの行き方があつた。其村が、倭の本村から、一目も二目も置かれた強大な村ならば、其神人の生活は、次第に倭化することは免れぬとしても、先、幸福な推移を続けて行つたに相違ない。併し、中央の命令のよく徹る村々では、さうは行かなかつたらしいのである。中でも、村君と血統上結びつきのない、神の本縁を説く神人たちは、内外から受ける圧迫に抗し切れず、夙く亡命の旅に出ねばならなかつた。又、その奉ずる神が村君ーーー國造ーーーに対しては力があつても、中央から任ぜられて来る官吏ーーー國司ーーーに対しては、完全に無力であるといふ、悲しい境遇も生じた。譬へば、日向風土記逸文の記すところは、其である。更に、部曲の保護者を失うて、無理解な國司の治下に置かれた、その神人の生活は、二重に桎梏に悩む、奴隷の境遇であつた。手職をうけ襲いだ家は、どうにか自活することが出来るとしても、其以外の大多数の者は、本貫を離れて苦の世界を脱しよう、と図らねばならぬ様にせられてゐたのである。かうした亡命の民が、行く先々で受けたのは、その異神を奉ずる者であるがために受ける境涯であつた。里人の畏れと、期待との交錯した注目のうちに、益、其悲しい本質から離れられぬ様になり、同時に、祝福者としての屈従生活に、深入りせねばならなかつた。さうして、此間の事情を深く知らぬ為に、世間は、その異部族である点を誇張して考へ、その人たちは一層、其独自の生活方法に據らずには、生活しにくいことになつたのである」(折口信夫「上世日本の文學・巡遊怜人」『折口信夫全集・第十二巻・P.336~337』中公公論社)
(3)「古代人の漠然とした考への上で、周期的に異神の群行があつて、邑村の生活に祝福を垂れて通り過ぎる、と信じた信仰が深まるとともに、時あつて、忽然として極めて新しい神の来臨に遭ふ事も、屢あることであつた。これを迎へる者の心は、楽しい期待ばかりに充たされてゐたのではなく、畏しい感じもまじつてゐた。だから、後に乞食者の字面を、『ほかひ人』に宛てたのは、必しも正確に当つては居らぬのである。乞ふのではなく、寧、此方からその機嫌をとり、其呪術に依つて、よい結果を残して行つて貰はうとする心持ちから、出来るだけ豊富に物を与へた訣である。この二様の交錯する気持ちが分れて、おとづれ人を、一つには、妖怪と信じ、一つには、祝言職から乞食者と考へる様になつたのである」(折口信夫「上世日本の文學・呪詞」『折口信夫全集・第十二巻・P.337~338』中公公論社)
しかし他の宗教教団とは異なり、熊野三山ばかりは彼らにとってどこまでも偉大な聖地だった。
(4)「千載集には、神のお告げの歌が出てゐる。衣通姫・人麿呂・住吉明神を和歌三神といふやうになつたのは、歌の統傅爭ひからのことであるが、起りは熊野にある。平安時代には熊野の信仰が盛んだつたが、熊野では歌によつて託宣を下し、其風が全國の社寺に擴つたのである」(折口信夫「歌謡を中心とした王朝の文學・歌の文學化」『折口信夫全集・第十二巻・P.321』中公公論社)
ちなみに京都へ出張し東山山麓の岡崎に住居を構えた熊野比丘尼「妙壽(めうじゆ)」は有名だ。
「山つつき岡崎といふ所に、妙壽(めうじゆ)といへる比丘尼(びくに)、草庵を結び、東南の明(あか)りをうけず、襖(ふすま)障子(しやうし)も、假名文(かなふみ)の反故張(ほうぐばり)、上書(うはがき)、悉(ことごとく)やぶりしは、わけらしく見えて、一間(ひとま)、子闇(こくら)く、こしらえけるこそ、くせものなれ、爰(ここ)はと、友どちにきけば、洛中のくら宿(やど)なり」(井原西鶴「好色一代男・卷二・女はおもはくの外・P.52」岩波文庫)
西鶴は文藝において、熊楠や柳田は学術研究面から当然、琵琶法師や歌比丘尼の渡世がどれほど苦悶に満ちていたか、十分過ぎるほどよくわかっていた。とりわけ年末は。
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