白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/土佐日記外伝・武文蟹

2020年11月02日 | 日記・エッセイ・コラム
ただ単に見た目が似ているというだけでなく、余りにも似過ぎていると、思わぬ歴史が発生する。そういう事情は外国に限らず日本にも多数ある。

「貫之の『土佐日記』にもローマの古書にも、海鼠(なまこ)様の動物を陽物と見立て、和漢洋インドともに貝子(たからがい)を女陰に見立て、また只今も述べた通り、ある蟹の甲を和漢洋いずれも人面に見立てたなど適当の例だ。古ギリシアで酒の神ジオニススの信徒が持って踊る棒の尖(さき)に松実(まつのみ)を付けたは陽物に象ったそうだが、本邦にも松実を松陰嚢(まつふぐり)と称え、寛永十二年板、行風撰『後撰夷曲集』九に、『唐崎(からさき)の松の陰嚢(ふぐり)は古への愛護の若(わか)の物かあらぬか』と、名所の松実(ちちりん)を美童の陰嚢に比(よそ)えた狂歌もある。東西とも松実を陽物または陰嚢に見立てたのだが、この見立て様が拙(まず)いのか、産付(うみつけ)が不出来ゆえか、熟(とく)と視ても僕のは一向似ておらぬ」(南方熊楠「平家蟹の話」『南方民俗学・P.144』河出文庫)

土佐日記の文章は余りにも有名なので放置しておいても気付かないことはないだろうと思われるわけだが、ネット社会というものはしばしば面白い動きをするので、改めて引いておこう。

「十三日(とをかあまりみか)のあかつきに、いささかに雨(あめ)ふる。しばしありて止(や)みぬ。女(をむな)これかれ、浴(ゆあみ)などせむとて、あたりのよろしき所(ところ)に下(お)りてゆく。海(うみ)をみやれば、

くももみななみとぞみゆるあまもがないづれかうみととひてしるべく(雲もみな波とぞみゆるあまもがないずれか海と問ひて知るべく)

となむうた詠(よ)める。さて、十日(とうか)あまりなれば、月(つき)おもしろし。船(ふね)にのりはじめし日(ひ)より、船(ふね)には紅(くれなゐ)濃(こ)くよき衣(きぬ)きず。それは『海(うみ)の神(かみ)に怖(お)ぢて』といひて。なにの葦蔭(あしかげ)にことづけて、老海鼠(ほや)の交(つま)の胎貝鮨(いずし)、鮨鮑(すしあはび)をぞ、心(こころ)にもあらぬ脛(はぎ)にあげてみせける」(紀貫之「土佐日記・P.27~28」岩波文庫)

熊楠は古代ギリシアのディオニュソスについて当然知っていた。

「エジプトでは一般に豚を神に生贄として捧げることは禁じているが、ただセレネ(月の神)とディオニュソスだけには同じ時、すなわち同じ満月の日に豚を犠牲にしてその肉を食べる。エジプト人は他の祭礼では豚を忌むのに、なぜこの祭だけは豚を犠牲に供えるのかということについては、エジプト人の間に伝承がある。ーーーセレネに豚を犠牲にする儀式は次のように行なわれる。豚を屠ると、その尾の端と脾臓と大網膜(内臓を含む膜)とを集め、その豚の腹の周りの脂肪を全部使ってそれらを包み、火で焼くのである。残りの肉は犠牲の行なわれる満月の日に食べるが、日が変るともはや口にしない。貧民は乏しい家計がそれを許さないので、粉を捏(こ)ねて豚の形に作り、これを炙(あぶ)って神に供えるのである。ディオニュソスには、その祭の前夜、エジプト人はそれぞれ家の前で仔豚を屠ってささげ、その仔豚はそれを売った豚飼に持ち帰らせる。それ以外の点では、エジプトのディオニュソス祭はギリシアとほとんど全く同様に行なわれるが、ただギリシアのような歌舞の催し物はない。エジプト人は男根像(バロス)の代りに別のものを考案しているが、これは長さ一キュペスほどの糸で繰る像で、これを女たちがかついでを廻るのであるが、胴体と余り変らぬほどの長さの男根が動く仕掛になっている。そして笛を先頭に、女たちはディオニュソスの讃歌を歌いつつその後に従うのである。像がそのように異常な大きさの男根を具え、また体のその部分だけが動く由来については、聖説話が伝えられている」(ヘロドトス「歴史・上・巻二・四七~四八・P.222~223」岩波文庫)

ようやく「平家蟹」について、と思われたその寸前、論考は「武文蟹」へと傾く。

「『和漢三才図会』に、元弘の乱に秦武文(はたのたけぶみ)兵庫が死んで蟹となったのが、兵庫や明石にあり、俗に武文蟹と言う、大きさ尺に近く螯(はさみ)赤く白紋あり、と見えるから、武文蟹は普通の平家蟹よりはずっと大きく別物らしい」(南方熊楠「平家蟹の話」『南方民俗学・P.145』河出文庫)

文庫本にして十九頁ほどのエピソード。だが本論に入ってきたなと思える頃にはすでに十頁余りも過ぎているという当時の軍記物の代表的形式を持つ。熊楠のいう秦武文(はたのたけぶみ)の活躍は「元弘の乱」の内部で発生している。後醍醐天皇は隠岐へ流刑。長男の尊良(たかなが)親王は土佐へ配流と決定した。その直前、一宮(尊良)は今出川右大臣(いまでがわうだいじん)公顕(きんあき)の娘を愛してしまっていたばかりか、手紙のやりとりをするうちに相思相愛の仲になっていた。といっても、今出川右大臣の娘はすでに徳大寺右大将(とくだいじうだいしょう)と婚約したあと。許されない関係であり、なおかつ一宮は鎌倉幕府の命令であれよという間もなく鄙びた土佐の畑(はた)というところへ二十四時間監視付きで追いやられる。監視員の名は有井庄司(ありいしょうじ)。〔現・高知県幡多郡黒潮町〕有井(ありい)川の近くに住んでいる荘園の官吏(つかさ)という意味で有井庄司。わかりやすい。しかし土佐の畑へ配流される前、実は娘の婚約相手・徳大寺右大将は一宮の複雑な心情を聞かされ哀れを感じていた。

「さやうに宮の思し召したらんずるを、いかが便(びん)ならざる事はあるべき」(「太平記3・第十八巻・11・一宮御息所の事・P.265~266」岩波文庫)

徳大寺は知らぬ顔で他の女性のもとへ出かけて行き、婚約相手である御息所には一宮との文通を十年のあいだ許しておいた。

「生きては偕老(かいろう)の契(ちぎ)りを深くし、死しては同じ苔の下にと思(おぼ)し召(め)し交(か)はして、十年(ととせ)あまりになりにける」(「太平記3・第十八巻・11・一宮御息所の事・P.266」岩波文庫)

だが手紙はどこまで行っても手紙である。むしろ手紙ゆえ、会うに会えない恋情は逆にますますつのってくる。そこで土佐で監視員を務める有井庄司。なかなか気の利く男で頭がいい。こちらから宮を解放するわけにはいかないが、それならいっそのこと、都から御息所に来てもらったらいいのでは、と道中で必要となるだろう衣装や安全であろう通交路の手配までやってくれた。

「何か苦しく候ふべき。忍びやかに御息所(みやすどころ)をこれへ入れまゐらさせ給ひ候へ」(「太平記3・第十八巻・11・一宮御息所の事・P.268」岩波文庫)

そこで都へ赴き娘を連れて無事土佐まで送り届けるために選任されたのが「右衛門府生(うえもんのふしょう)秦武文(はたのたけふん)と申す随身(ずいじん)」だった。

「ただ一人(いちにん)召し使はれける右衛門府生(うえもんのふしょう)秦武文(はたのたけふん)と申す随身(ずいじん)を、御迎ひに京へ上(のぼ)せらる」(「太平記3・第十八巻・11・一宮御息所の事・P.268」岩波文庫)

秦武文は御息所を伴い京の都を脱出する。尼崎(あまがさき)まで下ってきた。今の兵庫県尼崎市だがこの場合は「尼崎」という港の名のことを指す。が、風待ちで船が出ない。同じ頃、尼崎で風待ちをしていた武士団に「筑紫の松浦五郎(まつらごろう)」がいた。佐賀県・長崎県周辺から対馬・中国とも交易しながら一世風靡した松浦水軍の一党である。尼崎の港で御息所を一目見て愛欲に燃える。そして考える。「この比(ころ)」というのは「この御時世」という意味であり、権力こそ正義であるという中世日本の掟を絵に描いたような思考回路を持つ。一宮は今や「謀叛人(むほんにん)」だ。流刑地に他人の女房を下向させて遊んでやろうなどと、そうはいくか。そう考える。

「この比(ころ)いかなる宮にてもおはせよ、謀叛人(むほんにん)にて流され給へる人のもとへ、忍んで下り給はんずる女房を奪ひ取りたらんには、さしもの罪科(ざいか)あるまじ」(「太平記3・第十八巻・11・一宮御息所の事・P.271」岩波文庫)

その夜。御息所が潜んでいる宿の周囲から一斉に火の手が上がり、松浦水軍三十名ほどが武装して踊り込んできた。秦武文は目一杯応戦するが相手が多過ぎる。見ると、港には同じく風待ちしている船が幾つもある。御息所をいったん船へ乗せて待避させようと港に停泊中の船に呼びかけた。

「いづれの御船にてもあれ、この女性(にょしょう)暫(しばら)く乗せまゐらせてたび候へ」(「太平記3・第十八巻・11・一宮御息所の事・P.272」岩波文庫)

そこへたまたま一番乗りでやって来たのが何と松浦水軍の船。余りの偶然に松浦の武士たち自身驚き、これこそ運命というものだと喜び騒ぐ。御息所は相手の手に落ちた。武文は必死にならざるを得ない。いつもは網を投げて漁業に従事している小型の海人(あま)の釣舟に乗り込んで精一杯舟を進めようと櫓を操る。だが水軍の大船は帆もまた大型であり風を受けて見る見る差を開けていく。大船に乗り込んだ水軍から見れば武文の必死さが面白くてしょうがない。下品な大声を上げて嘲笑って見せつける。秦武文は孤軍奮闘虚しく、御息所を一宮のもとへ届けることはもうできないと知る。チャンスなど二度とない中世である。武文は「腹十文字に掻き切り」自害して果てた。

「『安からぬものかな。その義ならば、ただ今の程に海底の龍神(りゅうじん)となつて、その船をばやるまじきものを』と怒つて、腹十文字に掻き切り、蒼海(そうかい)の底に沈みけり」(「太平記3・第十八巻・11・一宮御息所の事・P.273」岩波文庫)

ところで熊楠はことのほか冷静に見ている。「龍神にはなったろうが蟹になる気遣いはない」と。例の神社合祀反対で孤軍奮闘した経験から、科学者であるだけでなく嫌が上にも冷静に見る態度が身に付いている。自伝的な文章で熊楠は言っているのだが、当たり前にやらねばと思ってやった神社合祀反対運動と自然生態系破壊反対運動とで、それを面白く思わない明治政府と和歌山県庁、そして特に警察からは留置所に叩き込まれもし体を痛め、自分だけでなく家族親類一同も滅茶苦茶にされた当事者だからだ。秦武文の気持ちがわかるのかもしれない。そこでやっと平家蟹の話題の本論へ出た。

「平家蟹は異形のものだが、これに関する古話里伝は割に少ないようだ。紀州の海浜の家にこれを戸口に掛けて邪鬼を避けるのは、毒をもって病を去ると同意だ」(南方熊楠「平家蟹の話」『南方民俗学・P.150』河出文庫)

言ってみればそれだけのことだ。しかし熊楠の文章にはユーモアがある。それはどこから来るのか。熊楠の思考は珍しく今でいう《リゾーム》そのものだからだ。

「樹木やその根とは違って、リゾームは任意の一点を他の任意の一点に連結する。そしてその特徴の一つ一つは必ずしも同じ性質をもつ特徴にかかわるのではなく、それぞれが実に異なった記号の体制を、さらには非・記号の状態さえ機動させる」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・序・P.51」河出文庫)

だから熊楠自身は自分で自分自身のことをどう思っていたにせよ、リゾーム型思考というものは、決して日本型ではないが、だからといってアメリカ型の分裂にもならないし同じくアメリカ型の統合にもならないまったく新しいタイプの思考だ。いまだ誰一人として実現したことがないにもかかわらず、ただ人間の脳だけは、もうずっと昔からリゾームとして立ち働いている。その意味で人間はまだ人間自身を知らない。

ちなみに一宮が流された高知県幡多郡だが、「狗神」(いぬがみ)という面白い民話を残している土地でもあった。狗神の持ち主になると、何か欲しいと思って目を付けたものがあると、狗神が勝手に動いて欲しいと思ったものの持ち主の身体を徹底的に攻撃する。「錐(きり)にて刺(さす)がごとく」いじめ抜く。だから神は神でも狗神の持ち主は逆に嫌がられる。大きな特徴として、家の主人から主人へと遺産相続のように居場所を変えるらしい。

「土佐国畑(はた)という所には、その土民(どみん)数代(すだい)つたはりて、狗神といふものを持(もち)たり。狗神もちたる人もし他所に行て他人の小袖・財宝・道具すべて何にても狗神の主(あるじ)それを欲(ほし)く思ひ望む心あれば、狗神すなはち、その財宝・道具の主につきて、たたりをなし、大熱(ねつ)懊悩(おうなう)せしめ胸腹をいたむ事錐(きり)にて刺(さす)がごとく、刀にてきるに似たり。此病(このやまひ)をうけては、かの狗神の主を尋ねもとめて、何にても、そのほしがるものをあたふれば、やまひいゆる也。さもなければ久しく病(やみ)ふせりて、つゐには死(し)すとかや。中比(なかごろ)の国守(くにのかみ)此事を聞て畑(はた)一郷(がう)のめぐりに垣結(かきゆい)まはし、男女一人も残さず焼ごみにして、ころしたまふ。それより狗神絶(たえ)たりしが、又この里の一族(ぞく)のこりて狗神これにつたはりて、今もこれありといふ。その狗神もちたる主、死する時、家をつぐべきものにうつるを傍(そば)にある人は見ると也。大(おほき)さ米粒(こめつぶ)ほどの狗也。白黒あか斑(まだら)の色々あり。死(し)する人の身をはなれて、家をつぐ人のふところに飛入(とびいる)といへり」(新日本古典文学体系「伽婢子・巻之十一・土佐(とさ)の国狗神(いぬかみ)付金蚕(きんさん)・P.317~318」岩波書店)

この民話に「中比(なかごろ)の国守(くにのかみ)此事を聞て畑(はた)一郷(がう)のめぐりに垣結(かきゆい)まはし、男女一人も残さず焼ごみにして、ころしたまふ」とある。しかしごく一部は残ったと。それまで土佐周辺を支配していた一条氏を叩き潰して一五七五年(天正三年)土佐を統一した長曾我部元親。なぜ時期が一致して見えるのだろう。錯覚だろうか。しかし長曽我部の後には秀吉の命を受けた山内一豊が強引に入ってくるわけだが。神話・民話・説話、など。無数の原因が結果となりまた原因となって錯綜する。とはいえ、次の文章は事実であるに違いない。

「南方先生は片陰嚢(かたきん)だがこれを整(そろ)えると股が擦り切れる」(南方熊楠「平家蟹の話」『南方民俗学・P.153』河出文庫)

熊楠はこの手の話題になるとけっして嘘はつかない。それには理由がある。一般的に「猥談」と呼ばれている事柄は、言い換えれば性的な諸要素への遡行であり、遡行することによってしか考えられない学術的な研究態度だからである。例えば、外科。あるいは遺伝子。さらに、文化とは何か、など。

BGM1

BGM2

BGM3