八百比丘尼の「八百」はどこから来たか。八百歳まで生きるという神話から来た。さらにこの神話はどこから来たか。出身が熊野だからである。熊野に関する神話発生条件は早くも記紀神話の中に見られる。またそれに関しては文献(主に「古事記」、「日本書紀」)しか資料がないこともあり記紀神話中心に既に述べた。ここからは全国各地へ散っていった熊野比丘尼が残した聖地について、その特色に関し触れていきたいと思う。しかし真っ先に、比丘尼自身が有した特徴に触れておこう。柳田國男は述べている。
「白比丘尼(しらびくに)はまたの名を八百比丘尼(はっぴゃくびくに)という。ーーー常に十六、七の娘のように肌の色が美しかったから白比丘尼ともよばれた」(柳田國男「山島民譚集(二)・第六・八百比丘尼・白比丘尼の栽えた木」「柳田国男全集5・P.316」ちくま文庫)
このすぐ後に「旅する女性」としての比丘尼論が入ってくる。しかしそれはまだもっと先の論考へ回避させておく。前回、農商務相時代の山本達雄に研究所運営資金を寄付させるため、熊楠は「媚薬」としての「紫稍花(ししょうか)」で誘惑したと述べた。直接関係はないが「白比丘尼(しらびくに)=八百比丘尼(はっぴゃくびくに)」という公式が有効だとすれば、比丘尼は長寿でありなおかつ美形の象徴的存在として信奉されていたことは間違いない。「長寿でありなおかつ美形」。両立しがたい二つの条件を満たす存在。次の文章を見てみよう。
「『康富記』(やすとみき)などの一説では白比丘尼(しらびくに)の白は白髪の白だということである。比丘尼には毛がないという近世の思想からこの説のごときはあるいは否定し得る」(柳田國男「山島民譚集(三)・第七・諸国の長者屋敷」「柳田国男全集5・P.331」ちくま文庫)
白髪の女性。例えば北欧の女性は年齢が後期高齢者になってなお、さらには死してなお白髪の場合はぞろぞろいる。今の日本でも髪を染めただけでいともたやすく十年くらい年齢をさば読むことは可能だし、むしろ以前より妖艶に見える場合が少なくない。また白髪を丁寧に束ねると「上品」に見える、という点も見逃せない。「毛がない」というのは頭髪を丸刈りにしていたからそうだというに過ぎない。
中世、熊野から全国へ出張するようになり、手始めに勧進が期待できる都会といえばまず京の都が手っ取り早い。だから京で比丘尼といえば頭巾姿が常識だった。柳田は述べているが比丘尼はまた「持経者(じきょうしゃ)」と呼ばれることがあった。「沙石集」に次の文章がある。
「或時(アルトキ)、北野(キタノ)ニ参籠(サンロウ)シタリケルニ、祈リテ持経者(ジキヤウジヤ)ノ読経(ドツキヤウ)スルヲ聞(きき)テ、簾(スダレ)ヨリ走出(ハシリいで)テ、の僧ノ頭(かう)ベヲハリケレバ、驚(おどろき)テミルニ尋常(ジンジヤウ)ゲナル女房也」(日本古典文学体系「沙石集・巻第十末・一・P.432」岩波書店)
「北野」(きたの)は今の京都市上京区御前通今出川上る馬喰(ばくろう)町にある「北野天満宮」のこと。菅原道真を祭神とするが、より緻密にいえば、太宰府に流され怨霊と化した道真の魂鎮(たましづめ)のための御霊社である。戦国時代に豊臣秀吉が造営した遺構である御土居(おどい)は今も残るが、土塁探索が目的なら天満宮より大徳寺北西にある大宮土居町、鷹峯(たかがみね)土居町のものが本格的。それはそれとして。北野天神に参籠していた僧侶が或る日、境内で「持経者(じきょうしゃ)」が読経する声を聞きつけ、誰かと思い僧侶姿の頭の頭巾を引っぺがしたところ、大層慎ましやかな風情の女性だったという。
江戸時代になると日々の生活維持はますます苦しくなる一方だった。とりわけ師走(十二月・年末)は。西鶴から引こう。
「又牢人の隣に、年ごろ三十七、八ばかりなる女、親類(しんるい)とても、かかるべき子もなく、ひとり身なりしが、男にはなれたるよしにて、髪(かみ)を切、紋(もん)なしのものは着(き)れども、身のたしなみは、目だたぬやうにして昔を捨(すて)ず。しかも、すがたもさもしからず。常住(じやうじう)は、奈良苧(ならそ)を慰みのやうにひねりて日をくらせしが、はや極月初(はじめ)に、万事を手廻しよく仕廻(しまひ)て、割木(わりき)も二、三月迄のたくはへ、肴(さかな)かけには二番(ばん)の鰤(ぶり)一本、小鯛(だい)五枚、鱈(たら)二本、かんばし・ぬりばし・紀伊(きの)国五器(き)、鍋(なべ)ぶた迄さらりと新(あたら)しく仕替て、家主(いへぬし)殿へ目ぐろ一本、娘御(むすめご)に絹緒(きぬを)の小雪踏(こせきだ)、お内儀様(ないぎさま)へうね足袋(たび)一足(そく)、七軒(けん)の相借屋へ餅に牛房(ごぼう)一抱(わ)づつ添(そへ)て、礼儀(れいぎ)正(ただ)しく、としを受ける。人のしらぬ渡世(とせい)、何をかして、内証(ないしやう)の事はしらず」(井原西鶴「長刀はむかしの鞘」『世間胸算用・巻一・P.27』角川文庫)
西鶴のいう「三十七、八ばかりなる女」はほとんど一般名詞と言うに等しい。それほど多くの中年独身女性がただ生きていくだけのために何かと気を回さねばならなかった。「身のたしなみは、目だたぬやうにして昔を捨(すて)ず」の「昔を捨(すて)ず」は、目だたないよう慎ましやかに内職していても「昔の色香」は容赦なく周囲に漏れ漂ってくるという意味。そして同時にあちこちへ様々な御歳暮をしっかり納めている。西鶴は「人のしらぬ渡世(とせい)」と書いているが、この女性の場合、たまたま容色に恵まれたためだろう、来年もよろしくという意味であり、要するに「妾」である。また「奈良苧(ならそ)」を糸に紡いで日々を送っていたとある。「奈良苧(ならそ)」は「苧麻」(まお)のこと。「からむし」ともいう。歴史は古い。
「丙午(ひのえうまのひ)に、詔して、天下(あめのした)をして、桑(くは)・紵(からむし)・梨(なし)・栗(くり)・蕪菁等(あをなら)の草木(くさき)を勧(すす)め殖(う)ゑしむ」(「日本書紀5・巻第三十・持統天皇七年正月~三月・P290」岩波文庫)
東アジアから東南アジア一帯に自生する。雑草に匹敵するほど逞しい。だから昔は麻と同じくらい強い衣服の原料として重宝された。現在では福島県会津と沖縄県宮古島で栽培され独自の上布原料に用いられている。
また、墨染の衣(ころも)に身をやつし「乞食坊主」として生きている或る女性は、おそらく食中毒かと思われる病気を患って治療のために商売道具の衣(ころも)を質に入れた。病が癒える頃には収入が途絶えており、僧侶にとって命ともいえる墨染の衣(ころも)を質屋から請け出すことができなくなった。
「過(すぎ)にし夏(なつ)、くはくらんをわづらひて、せんかたなく衣を壱刄八分(ふん)の質に置(おき)けるが、そののち請(うく)る事成(なり)がたく、渡世(とせい)の種(たね)のつきける。人の後世信心(ごせしんじん)に替(かは)ることはなきに、衣を着(き)たる朝は米五合ももらはれ、衣なしには弐合も勧進(くはんじん)なし。殊に極月坊主(はすぼうず)とて、此月はいそがしきに取まぎれ、親の命日(めいにち)もわすれ、くれねば是非(ぜひ)もなく、銭八文にて年をこしける。まことに世の中の哀(あは)れを見る事、貧家(ひんか)の辺(ほと)りの小質(こじち)屋、心よはくてはならぬ事なり。脇(わき)から見るさへ、悲(かな)しきことの数々なる、年のくれにぞ有りける」(井原西鶴「長刀はむかしの鞘」『世間胸算用・巻一・P.28』角川文庫)
信心する気持ちに変わりはない。だが黒衣で物乞いするのと黒衣なしで物乞いするのとでは大違い。「墨染の衣(ころも)」が手元にあった頃は「米五合」を貰えたりしたが、衣なしでは「米二合」がせいぜい。たった「銭八文」で迎える新年。そこで西鶴は書いている。「まことに世の中の哀(あは)れを見る事、貧家(ひんか)の辺(ほと)りの小質(こじち)屋」。貧家近くの小質屋をよく観察して始めて民衆の実生活の一端に触れることができると。そしてそれは「脇(わき)から見るさへ、悲(かな)しきことの数々なる」。赤の他人が見てさえ悲惨に思われる事情ばかりが目につくほど多いと。
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「白比丘尼(しらびくに)はまたの名を八百比丘尼(はっぴゃくびくに)という。ーーー常に十六、七の娘のように肌の色が美しかったから白比丘尼ともよばれた」(柳田國男「山島民譚集(二)・第六・八百比丘尼・白比丘尼の栽えた木」「柳田国男全集5・P.316」ちくま文庫)
このすぐ後に「旅する女性」としての比丘尼論が入ってくる。しかしそれはまだもっと先の論考へ回避させておく。前回、農商務相時代の山本達雄に研究所運営資金を寄付させるため、熊楠は「媚薬」としての「紫稍花(ししょうか)」で誘惑したと述べた。直接関係はないが「白比丘尼(しらびくに)=八百比丘尼(はっぴゃくびくに)」という公式が有効だとすれば、比丘尼は長寿でありなおかつ美形の象徴的存在として信奉されていたことは間違いない。「長寿でありなおかつ美形」。両立しがたい二つの条件を満たす存在。次の文章を見てみよう。
「『康富記』(やすとみき)などの一説では白比丘尼(しらびくに)の白は白髪の白だということである。比丘尼には毛がないという近世の思想からこの説のごときはあるいは否定し得る」(柳田國男「山島民譚集(三)・第七・諸国の長者屋敷」「柳田国男全集5・P.331」ちくま文庫)
白髪の女性。例えば北欧の女性は年齢が後期高齢者になってなお、さらには死してなお白髪の場合はぞろぞろいる。今の日本でも髪を染めただけでいともたやすく十年くらい年齢をさば読むことは可能だし、むしろ以前より妖艶に見える場合が少なくない。また白髪を丁寧に束ねると「上品」に見える、という点も見逃せない。「毛がない」というのは頭髪を丸刈りにしていたからそうだというに過ぎない。
中世、熊野から全国へ出張するようになり、手始めに勧進が期待できる都会といえばまず京の都が手っ取り早い。だから京で比丘尼といえば頭巾姿が常識だった。柳田は述べているが比丘尼はまた「持経者(じきょうしゃ)」と呼ばれることがあった。「沙石集」に次の文章がある。
「或時(アルトキ)、北野(キタノ)ニ参籠(サンロウ)シタリケルニ、祈リテ持経者(ジキヤウジヤ)ノ読経(ドツキヤウ)スルヲ聞(きき)テ、簾(スダレ)ヨリ走出(ハシリいで)テ、の僧ノ頭(かう)ベヲハリケレバ、驚(おどろき)テミルニ尋常(ジンジヤウ)ゲナル女房也」(日本古典文学体系「沙石集・巻第十末・一・P.432」岩波書店)
「北野」(きたの)は今の京都市上京区御前通今出川上る馬喰(ばくろう)町にある「北野天満宮」のこと。菅原道真を祭神とするが、より緻密にいえば、太宰府に流され怨霊と化した道真の魂鎮(たましづめ)のための御霊社である。戦国時代に豊臣秀吉が造営した遺構である御土居(おどい)は今も残るが、土塁探索が目的なら天満宮より大徳寺北西にある大宮土居町、鷹峯(たかがみね)土居町のものが本格的。それはそれとして。北野天神に参籠していた僧侶が或る日、境内で「持経者(じきょうしゃ)」が読経する声を聞きつけ、誰かと思い僧侶姿の頭の頭巾を引っぺがしたところ、大層慎ましやかな風情の女性だったという。
江戸時代になると日々の生活維持はますます苦しくなる一方だった。とりわけ師走(十二月・年末)は。西鶴から引こう。
「又牢人の隣に、年ごろ三十七、八ばかりなる女、親類(しんるい)とても、かかるべき子もなく、ひとり身なりしが、男にはなれたるよしにて、髪(かみ)を切、紋(もん)なしのものは着(き)れども、身のたしなみは、目だたぬやうにして昔を捨(すて)ず。しかも、すがたもさもしからず。常住(じやうじう)は、奈良苧(ならそ)を慰みのやうにひねりて日をくらせしが、はや極月初(はじめ)に、万事を手廻しよく仕廻(しまひ)て、割木(わりき)も二、三月迄のたくはへ、肴(さかな)かけには二番(ばん)の鰤(ぶり)一本、小鯛(だい)五枚、鱈(たら)二本、かんばし・ぬりばし・紀伊(きの)国五器(き)、鍋(なべ)ぶた迄さらりと新(あたら)しく仕替て、家主(いへぬし)殿へ目ぐろ一本、娘御(むすめご)に絹緒(きぬを)の小雪踏(こせきだ)、お内儀様(ないぎさま)へうね足袋(たび)一足(そく)、七軒(けん)の相借屋へ餅に牛房(ごぼう)一抱(わ)づつ添(そへ)て、礼儀(れいぎ)正(ただ)しく、としを受ける。人のしらぬ渡世(とせい)、何をかして、内証(ないしやう)の事はしらず」(井原西鶴「長刀はむかしの鞘」『世間胸算用・巻一・P.27』角川文庫)
西鶴のいう「三十七、八ばかりなる女」はほとんど一般名詞と言うに等しい。それほど多くの中年独身女性がただ生きていくだけのために何かと気を回さねばならなかった。「身のたしなみは、目だたぬやうにして昔を捨(すて)ず」の「昔を捨(すて)ず」は、目だたないよう慎ましやかに内職していても「昔の色香」は容赦なく周囲に漏れ漂ってくるという意味。そして同時にあちこちへ様々な御歳暮をしっかり納めている。西鶴は「人のしらぬ渡世(とせい)」と書いているが、この女性の場合、たまたま容色に恵まれたためだろう、来年もよろしくという意味であり、要するに「妾」である。また「奈良苧(ならそ)」を糸に紡いで日々を送っていたとある。「奈良苧(ならそ)」は「苧麻」(まお)のこと。「からむし」ともいう。歴史は古い。
「丙午(ひのえうまのひ)に、詔して、天下(あめのした)をして、桑(くは)・紵(からむし)・梨(なし)・栗(くり)・蕪菁等(あをなら)の草木(くさき)を勧(すす)め殖(う)ゑしむ」(「日本書紀5・巻第三十・持統天皇七年正月~三月・P290」岩波文庫)
東アジアから東南アジア一帯に自生する。雑草に匹敵するほど逞しい。だから昔は麻と同じくらい強い衣服の原料として重宝された。現在では福島県会津と沖縄県宮古島で栽培され独自の上布原料に用いられている。
また、墨染の衣(ころも)に身をやつし「乞食坊主」として生きている或る女性は、おそらく食中毒かと思われる病気を患って治療のために商売道具の衣(ころも)を質に入れた。病が癒える頃には収入が途絶えており、僧侶にとって命ともいえる墨染の衣(ころも)を質屋から請け出すことができなくなった。
「過(すぎ)にし夏(なつ)、くはくらんをわづらひて、せんかたなく衣を壱刄八分(ふん)の質に置(おき)けるが、そののち請(うく)る事成(なり)がたく、渡世(とせい)の種(たね)のつきける。人の後世信心(ごせしんじん)に替(かは)ることはなきに、衣を着(き)たる朝は米五合ももらはれ、衣なしには弐合も勧進(くはんじん)なし。殊に極月坊主(はすぼうず)とて、此月はいそがしきに取まぎれ、親の命日(めいにち)もわすれ、くれねば是非(ぜひ)もなく、銭八文にて年をこしける。まことに世の中の哀(あは)れを見る事、貧家(ひんか)の辺(ほと)りの小質(こじち)屋、心よはくてはならぬ事なり。脇(わき)から見るさへ、悲(かな)しきことの数々なる、年のくれにぞ有りける」(井原西鶴「長刀はむかしの鞘」『世間胸算用・巻一・P.28』角川文庫)
信心する気持ちに変わりはない。だが黒衣で物乞いするのと黒衣なしで物乞いするのとでは大違い。「墨染の衣(ころも)」が手元にあった頃は「米五合」を貰えたりしたが、衣なしでは「米二合」がせいぜい。たった「銭八文」で迎える新年。そこで西鶴は書いている。「まことに世の中の哀(あは)れを見る事、貧家(ひんか)の辺(ほと)りの小質(こじち)屋」。貧家近くの小質屋をよく観察して始めて民衆の実生活の一端に触れることができると。そしてそれは「脇(わき)から見るさへ、悲(かな)しきことの数々なる」。赤の他人が見てさえ悲惨に思われる事情ばかりが目につくほど多いと。
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