江戸時代。主人殺しは死刑。だから小吟は捕まりしだい処刑されるわけだが、なおかつ当時は連累制だったので小吟の両親がまず牢屋へ入れられた。
「小吟(こぎん)が出(いづ)るまでは、その親ども蘢舎(ろうしや)」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻二・旅行の暮の僧にて候」『井原西鶴集2・P.224』小学館)
牢の番人は哀れを感じる。子どもの犯罪ゆえ親が処刑されるシステムは法律で決まっているためどうにもできない。せめて今夜ここでの一盛りとばかりに父親に酒を勧める。と、牢番の思いとはまるで違い小吟の父親はしたたかに酔って嘆く様子一つ見せない。
「この者あづかりし役人、不便(ふびん)におもひ、『子ゆゑにかくはなりゆくなり。臨終を覚悟して、又の世を願へ』と、夜もすがら、酒をすすめけるに、この親仁(おやじ)め、機嫌(きげん)よく、さらになげくけしきなし」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻二・旅行の暮の僧にて候」『井原西鶴集2・P.224』小学館)
牢番は不可解に思う。処刑される罪人はこれまで何人も見てきた。彼らは自分の悪事について決して口にせずかえって自分の身の不運を嘆いて見せる者ばかりだった。しかしなぜ小吟の父親はそうでないのか。死刑前日にもかかわらず。尋ねてみると答えが返ってきた。小吟の父はいう。俺は七年前のちょうど明日に当たる日、見たこともない大金に目がくらみ、熊野参詣に訪れた出家者を殺してしまった。うすうす観念していましたよ、と。
牢番が聞かされたこの実話がどこから漏れたのか知らない。が、いっぺんに世間の話題になった。殺しは確かに悪事だろうけれど、それにしたって小吟の父親は物事の筋というものを知る男だ、哀れ過ぎると。
「『外(ほか)にも科(とが)ありて、命をとらるる者、我(わ)が悪(あく)はいはで、嘆きしに、汝(なんぢ)の子のかはりに、かかるうき事に』といへば、この者、出家を殺せし因果の程(ほど)をかたりて、『七年目にめぐり、月も日もあすに当たれり。この筈(はず)』と思ひさだめ、観念したる有様(ありさま)、悪(あく)は悪人にして、今この心ざしを、皆々、あはれに感じける」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻二・旅行の暮の僧にて候」『井原西鶴集2・P.224』小学館)
世間がどれほど哀感の情を示したとしても、どこにでもぞろぞろいる江戸の大衆の声に耳を傾けているほど幕府は甘くない。予定通り小吟の父は斬首に処された。その話を聞きつけた小吟はとうとう出頭し、彼女もまた斬首された。
「とても遁(の)がれぬ道をいそがせ、首打つての明(あけ)の日、親の様子を聞きて、隠れし身をあらはし出(いで)けるを、そのまま、これもうたれける」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻二・旅行の暮の僧にて候」『井原西鶴集2・P.224』小学館)
小吟の役割は終わった。主人殺しの刑罰が死刑並びに連累制なのを最もよく知っていたのは何を隠そう作者・西鶴である。どのような過程を辿ったとしても小吟が逃げ切る手段はあらかじめ断たれている。承知の上でこのような小説を書いた。西鶴の狙いは、よく言われるような戯作者の「反骨精神」を示すことだろうか、もちろん、そうでは《ない》。星の数ほどもある江戸時代の浮世草子(浮世小説)の中に「お金・小銀」という名の童女は幾らも出てくる。一方、熊野の野生、熊野の聖地性は徐々に衰亡していく。記紀神話以前から連綿と伝えられてきた熊野信仰もまた元禄バブルの大騒ぎの中で形骸化していく。その少し前、西鶴は今後失われていくことが目に見えている熊野在来の異形の精神の重要性を、小吟という大人の女性を通して書き残しておく必要性を感じていたことは間違いない。「好色一代女」では性的次元へ遡行することで、あっけなく散ってしまいがちではあるものの、それでもなお周囲の人々の脳裏に強烈に記憶される《力としての女性》を描き切った。その生涯はしかし京都東山の「石垣町、祇園町、八坂社」でほとんど終わる。今の三条通から七条通りの鴨川東側全域をまとめて統合される前の、かつての小さな中学校区内にすっかり収まってしまう。西鶴の作風は今のマスコミ受けするような態度を取ってこない。だからこそ「男色大鑑」(なんしょくおおかがみ)という今なお西鶴作品において世界中で最も評価の高い作品を仕上げることができた。日本では「異色作」、ところが世界の文学界ではそれこそ「代表作」だ。熊楠の眼に狂いはなかったのである。
そんな熊楠。解剖学用語「大網膜」(だいもうまく)について、そこから発生した迷信のあれこれを追っている。大網膜は胎児の頭を覆う羊膜のこと。英語で“caul”と表記する。ところが熊楠の論考はまさしく劇的リゾーム状を呈している。説話としては何と「ヒョウタケ」と繋がるのだから。
「カウルは時として児の頭を裹んで生まるる小膜にして、父母交会の際常軌に外れたることあるより生ずるらしし。かくて生まるる児は幸運あり。俗説にはこれを買い持つ人は危禍を免るという。ーーー豹蕈(ひようたけ)など申す菌がaより開裂してcとなるとき、全く外被層を脱し出づるは稀にて、幾分かdのごとく外被層多少の断片をかぶり出づるなり。ブラウンの説はこの通りの意味なり。これ最内層被の靱性強過ぎるか、児の脱被力弱きかの致すところなり、と。レムニウス説に、この膜赤きはその児吉、黒きはその児凶を示す、と。ルジマン説に、スコットランドにては婦女これをholy or sely how(holy or fortunate cap or hood 帽子)という。これを冒って生まれたる人の安否を知り得。その人生きおる間は堅固に槢襞(ひだ)あれど、病みまた死するときはたちまち柔(やわ)く寛(ゆる)くなる、と。ギアネリウス説に、愚人あり、その児これを冒って生まれたるを見、これ必ずかような帽子を冒って来る法師が自分の妻を姦して孕ませたるなりと怒り、その僧を殺さんとせり、と。一説にカウルを持つもの、これを失えば幸運も失せ去り、これを拾い獲しものに移る、と。けだし、この物医薬の妙効あるのみならず、これを持たば水に溺るることなしというゆえに、時々新聞へ広告出で、船頭等争うてこれを求む、と。またこれを持たば弁舌よくなるとて、産婆がこれを取り弁護師に売ることあり」(南方熊楠「カウルとヒョウタケ」『森の思想・P.341~343』河出文庫)
医薬品として買い手が殺到した。日本列島のみならず探してみると世界各地に同様の説話が点在している。雄弁になること間違いなしというキャッチコピーは弁護士を引きつけた。“caul”はどこで手に入るか。産婆の手元である。それはそれとして、産婆は出産現場で生まれてくる小児を取り上げる。が、言葉がなまって「子取り」と混同されるに至った。柳田國男はいう。
「神戸市ではこれをカクレババという者がある。小児は夕方に隠れんぼをすることを戒められる。路次の隅や家の行きつまりなどに、隠れ婆というのがいてつかまえて行くからという。島根県その他ではこれをコトリゾといっていた。子取りは本来は産婆のことだが、夙(はや)くそういう名をもってこの妖怪を呼んだのである」(柳田國男「妖怪談義・五」『柳田國男全集6・P.22』ちくま文庫)
なぜ妖怪か。産婆は高齢女性が多かった。要するにここでも人々の生死を仕切っているのは山姥(やまんば)なのだ。さらに柳田は、この種の説話を全国各地へ流通させた「比丘尼」や「子取婆」に注目する。
「昨年中私のしていた仕事は、地方の言葉の驚くべき異同に心づいて、その現象が如何にして起ったかを尋ねて見ることと、今一つはこれも子供みたようなことだが、昔話があまり広範に全国の隅々まで一致して居るのを見て、誰が此様なものをかくも丹念に、遠くまで運んであるいたのかを知ろうとすることであった。どこにも日本人が居るのだから当り前の話だと、言ってもしまわれないのは、近世の特徴が多く入って居ることで、人が移住してしまってからずっと後に、荷造りして届けて来たらしい形跡が有ったからである。それで一つ一つの説話の用途や形態を考察して、まずその中に男のした話と、女物とが有るらしいことを考え出した。それから段々に見て行くうちに、比丘尼や子取婆などの知っていたものかと思う分と、盲人でなければ話すまいと思う話とが、見分けられるような気がした」(柳田國男「口承文藝史考・文藝とフォクロア・二」『柳田國男集・第六巻・P.147~148』筑摩書房)
彼らはただ単に絵解きだけで勧進したわけではない。流通=運輸業者をも兼ねた。場所移動そのものから新しい価値が生まれるのである。商品価値が変わるという古典的な意味でだけでなく、場所移動によってニーチェのいう意味での《別様の方法》が出現する。マルクス「資本論」にしても場所移動によってまったく新しい読みが出現したことは一九六〇年代後半から一九八〇年代一杯をかけて世界を席巻した構造主義・ポスト構造主義の大流行が示した通りである。
「運輸業が売るものは、場所を変えること自体である。生みだされる有用効果は、運輸過程すなわち運輸業の生産過程と不可分に結びつけられている。人や商品は運輸手段といっしょに旅をする。そして、運輸手段の旅、その場所的運動こそは、運輸手段によってひき起こされる生産過程なのである。その有用効果は、生産過程と同時にしか消費されえない。それは、この過程とは別な使用物として存在するのではない。すなわち、生産されてからはじめて取引物品として機能し商品として流通するような使用物として存在するのではない。しかし、この有用効果の交換価値は、他のどの商品の交換価値とも同じに、その有用効果のために消費された生産要素(労働力と生産手段)の価値・プラス・運輸業に従事する労働者の剰余労働がつくりだした剰余価値によって規定されている。この有用労働は、その消費についても、他の商品とまったく同じである。それが個人的に消費されれば、その価値は消費と同時になくなってしまう。それが生産的に消費されて、それ自身が輸送中の商品の一つの生産段階であるならば、その価値は追加価値としてその商品そのものに移される」(マルクス「資本論・第二部・第一篇・第一章・P.98~99」国民文庫)
ちなみに「瞽女」(ごぜ)は女性の盲人芸能者のこと。
「全体に日本は語りごとを職とする者が、法師とか比丘尼とかその種類の数多い国であったが、その中でも一番活発に、長く働いていたのが瞽女と座頭であった。幸か不幸か盲人には仕事の多い国であった。彼等の特徴はその専心の暗記力によって、長い時間一座をもてなすことの出来たのと、師弟の恩誼によって団結の力を養うことがたやすかったことであったろう」(柳田國男「口承文藝史考・口承文藝とは何か・二十四」『柳田國男集・第六巻・P.47』筑摩書房)
さらに女性の盲人芸能者による歌舞音曲の発展はコーカサス地方でも見られると熊楠は紹介している。
「瞽者が琵琶ひくこと、また『平家物語』様のものをかたり士気を鼓舞することは、蒙古および西亜の高迦索(カフカス)辺にも有之(これあり)」(南方熊楠「無鳥郷の伏翼、日本人の世界研究者、その他」『南方民俗学・P.465』河出文庫)
思いのほか世界は広かったのである。
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「小吟(こぎん)が出(いづ)るまでは、その親ども蘢舎(ろうしや)」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻二・旅行の暮の僧にて候」『井原西鶴集2・P.224』小学館)
牢の番人は哀れを感じる。子どもの犯罪ゆえ親が処刑されるシステムは法律で決まっているためどうにもできない。せめて今夜ここでの一盛りとばかりに父親に酒を勧める。と、牢番の思いとはまるで違い小吟の父親はしたたかに酔って嘆く様子一つ見せない。
「この者あづかりし役人、不便(ふびん)におもひ、『子ゆゑにかくはなりゆくなり。臨終を覚悟して、又の世を願へ』と、夜もすがら、酒をすすめけるに、この親仁(おやじ)め、機嫌(きげん)よく、さらになげくけしきなし」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻二・旅行の暮の僧にて候」『井原西鶴集2・P.224』小学館)
牢番は不可解に思う。処刑される罪人はこれまで何人も見てきた。彼らは自分の悪事について決して口にせずかえって自分の身の不運を嘆いて見せる者ばかりだった。しかしなぜ小吟の父親はそうでないのか。死刑前日にもかかわらず。尋ねてみると答えが返ってきた。小吟の父はいう。俺は七年前のちょうど明日に当たる日、見たこともない大金に目がくらみ、熊野参詣に訪れた出家者を殺してしまった。うすうす観念していましたよ、と。
牢番が聞かされたこの実話がどこから漏れたのか知らない。が、いっぺんに世間の話題になった。殺しは確かに悪事だろうけれど、それにしたって小吟の父親は物事の筋というものを知る男だ、哀れ過ぎると。
「『外(ほか)にも科(とが)ありて、命をとらるる者、我(わ)が悪(あく)はいはで、嘆きしに、汝(なんぢ)の子のかはりに、かかるうき事に』といへば、この者、出家を殺せし因果の程(ほど)をかたりて、『七年目にめぐり、月も日もあすに当たれり。この筈(はず)』と思ひさだめ、観念したる有様(ありさま)、悪(あく)は悪人にして、今この心ざしを、皆々、あはれに感じける」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻二・旅行の暮の僧にて候」『井原西鶴集2・P.224』小学館)
世間がどれほど哀感の情を示したとしても、どこにでもぞろぞろいる江戸の大衆の声に耳を傾けているほど幕府は甘くない。予定通り小吟の父は斬首に処された。その話を聞きつけた小吟はとうとう出頭し、彼女もまた斬首された。
「とても遁(の)がれぬ道をいそがせ、首打つての明(あけ)の日、親の様子を聞きて、隠れし身をあらはし出(いで)けるを、そのまま、これもうたれける」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻二・旅行の暮の僧にて候」『井原西鶴集2・P.224』小学館)
小吟の役割は終わった。主人殺しの刑罰が死刑並びに連累制なのを最もよく知っていたのは何を隠そう作者・西鶴である。どのような過程を辿ったとしても小吟が逃げ切る手段はあらかじめ断たれている。承知の上でこのような小説を書いた。西鶴の狙いは、よく言われるような戯作者の「反骨精神」を示すことだろうか、もちろん、そうでは《ない》。星の数ほどもある江戸時代の浮世草子(浮世小説)の中に「お金・小銀」という名の童女は幾らも出てくる。一方、熊野の野生、熊野の聖地性は徐々に衰亡していく。記紀神話以前から連綿と伝えられてきた熊野信仰もまた元禄バブルの大騒ぎの中で形骸化していく。その少し前、西鶴は今後失われていくことが目に見えている熊野在来の異形の精神の重要性を、小吟という大人の女性を通して書き残しておく必要性を感じていたことは間違いない。「好色一代女」では性的次元へ遡行することで、あっけなく散ってしまいがちではあるものの、それでもなお周囲の人々の脳裏に強烈に記憶される《力としての女性》を描き切った。その生涯はしかし京都東山の「石垣町、祇園町、八坂社」でほとんど終わる。今の三条通から七条通りの鴨川東側全域をまとめて統合される前の、かつての小さな中学校区内にすっかり収まってしまう。西鶴の作風は今のマスコミ受けするような態度を取ってこない。だからこそ「男色大鑑」(なんしょくおおかがみ)という今なお西鶴作品において世界中で最も評価の高い作品を仕上げることができた。日本では「異色作」、ところが世界の文学界ではそれこそ「代表作」だ。熊楠の眼に狂いはなかったのである。
そんな熊楠。解剖学用語「大網膜」(だいもうまく)について、そこから発生した迷信のあれこれを追っている。大網膜は胎児の頭を覆う羊膜のこと。英語で“caul”と表記する。ところが熊楠の論考はまさしく劇的リゾーム状を呈している。説話としては何と「ヒョウタケ」と繋がるのだから。
「カウルは時として児の頭を裹んで生まるる小膜にして、父母交会の際常軌に外れたることあるより生ずるらしし。かくて生まるる児は幸運あり。俗説にはこれを買い持つ人は危禍を免るという。ーーー豹蕈(ひようたけ)など申す菌がaより開裂してcとなるとき、全く外被層を脱し出づるは稀にて、幾分かdのごとく外被層多少の断片をかぶり出づるなり。ブラウンの説はこの通りの意味なり。これ最内層被の靱性強過ぎるか、児の脱被力弱きかの致すところなり、と。レムニウス説に、この膜赤きはその児吉、黒きはその児凶を示す、と。ルジマン説に、スコットランドにては婦女これをholy or sely how(holy or fortunate cap or hood 帽子)という。これを冒って生まれたる人の安否を知り得。その人生きおる間は堅固に槢襞(ひだ)あれど、病みまた死するときはたちまち柔(やわ)く寛(ゆる)くなる、と。ギアネリウス説に、愚人あり、その児これを冒って生まれたるを見、これ必ずかような帽子を冒って来る法師が自分の妻を姦して孕ませたるなりと怒り、その僧を殺さんとせり、と。一説にカウルを持つもの、これを失えば幸運も失せ去り、これを拾い獲しものに移る、と。けだし、この物医薬の妙効あるのみならず、これを持たば水に溺るることなしというゆえに、時々新聞へ広告出で、船頭等争うてこれを求む、と。またこれを持たば弁舌よくなるとて、産婆がこれを取り弁護師に売ることあり」(南方熊楠「カウルとヒョウタケ」『森の思想・P.341~343』河出文庫)
医薬品として買い手が殺到した。日本列島のみならず探してみると世界各地に同様の説話が点在している。雄弁になること間違いなしというキャッチコピーは弁護士を引きつけた。“caul”はどこで手に入るか。産婆の手元である。それはそれとして、産婆は出産現場で生まれてくる小児を取り上げる。が、言葉がなまって「子取り」と混同されるに至った。柳田國男はいう。
「神戸市ではこれをカクレババという者がある。小児は夕方に隠れんぼをすることを戒められる。路次の隅や家の行きつまりなどに、隠れ婆というのがいてつかまえて行くからという。島根県その他ではこれをコトリゾといっていた。子取りは本来は産婆のことだが、夙(はや)くそういう名をもってこの妖怪を呼んだのである」(柳田國男「妖怪談義・五」『柳田國男全集6・P.22』ちくま文庫)
なぜ妖怪か。産婆は高齢女性が多かった。要するにここでも人々の生死を仕切っているのは山姥(やまんば)なのだ。さらに柳田は、この種の説話を全国各地へ流通させた「比丘尼」や「子取婆」に注目する。
「昨年中私のしていた仕事は、地方の言葉の驚くべき異同に心づいて、その現象が如何にして起ったかを尋ねて見ることと、今一つはこれも子供みたようなことだが、昔話があまり広範に全国の隅々まで一致して居るのを見て、誰が此様なものをかくも丹念に、遠くまで運んであるいたのかを知ろうとすることであった。どこにも日本人が居るのだから当り前の話だと、言ってもしまわれないのは、近世の特徴が多く入って居ることで、人が移住してしまってからずっと後に、荷造りして届けて来たらしい形跡が有ったからである。それで一つ一つの説話の用途や形態を考察して、まずその中に男のした話と、女物とが有るらしいことを考え出した。それから段々に見て行くうちに、比丘尼や子取婆などの知っていたものかと思う分と、盲人でなければ話すまいと思う話とが、見分けられるような気がした」(柳田國男「口承文藝史考・文藝とフォクロア・二」『柳田國男集・第六巻・P.147~148』筑摩書房)
彼らはただ単に絵解きだけで勧進したわけではない。流通=運輸業者をも兼ねた。場所移動そのものから新しい価値が生まれるのである。商品価値が変わるという古典的な意味でだけでなく、場所移動によってニーチェのいう意味での《別様の方法》が出現する。マルクス「資本論」にしても場所移動によってまったく新しい読みが出現したことは一九六〇年代後半から一九八〇年代一杯をかけて世界を席巻した構造主義・ポスト構造主義の大流行が示した通りである。
「運輸業が売るものは、場所を変えること自体である。生みだされる有用効果は、運輸過程すなわち運輸業の生産過程と不可分に結びつけられている。人や商品は運輸手段といっしょに旅をする。そして、運輸手段の旅、その場所的運動こそは、運輸手段によってひき起こされる生産過程なのである。その有用効果は、生産過程と同時にしか消費されえない。それは、この過程とは別な使用物として存在するのではない。すなわち、生産されてからはじめて取引物品として機能し商品として流通するような使用物として存在するのではない。しかし、この有用効果の交換価値は、他のどの商品の交換価値とも同じに、その有用効果のために消費された生産要素(労働力と生産手段)の価値・プラス・運輸業に従事する労働者の剰余労働がつくりだした剰余価値によって規定されている。この有用労働は、その消費についても、他の商品とまったく同じである。それが個人的に消費されれば、その価値は消費と同時になくなってしまう。それが生産的に消費されて、それ自身が輸送中の商品の一つの生産段階であるならば、その価値は追加価値としてその商品そのものに移される」(マルクス「資本論・第二部・第一篇・第一章・P.98~99」国民文庫)
ちなみに「瞽女」(ごぜ)は女性の盲人芸能者のこと。
「全体に日本は語りごとを職とする者が、法師とか比丘尼とかその種類の数多い国であったが、その中でも一番活発に、長く働いていたのが瞽女と座頭であった。幸か不幸か盲人には仕事の多い国であった。彼等の特徴はその専心の暗記力によって、長い時間一座をもてなすことの出来たのと、師弟の恩誼によって団結の力を養うことがたやすかったことであったろう」(柳田國男「口承文藝史考・口承文藝とは何か・二十四」『柳田國男集・第六巻・P.47』筑摩書房)
さらに女性の盲人芸能者による歌舞音曲の発展はコーカサス地方でも見られると熊楠は紹介している。
「瞽者が琵琶ひくこと、また『平家物語』様のものをかたり士気を鼓舞することは、蒙古および西亜の高迦索(カフカス)辺にも有之(これあり)」(南方熊楠「無鳥郷の伏翼、日本人の世界研究者、その他」『南方民俗学・P.465』河出文庫)
思いのほか世界は広かったのである。
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