人魚伝説は世界中どこの海浜に行っても見かけることができる。
「『和漢三才図会』等に、若狭小浜の空印寺に八百比丘尼の木像あり。この尼(あま)、むかし当寺に住み、八百歳なりしも、美貌十五、六歳ばかりなりし。これ人魚を食いしに因(よ)る、と。嘘八百とはこれよりや始まりつらん。思うに儒艮(じゅごん)は暖地の産にて、若狭などにある物ならねど、海狗などの海獣、多少人に類せる物を人魚と呼び、その肉温補(おんぽ)の功あれば、長生の妙験ありなど言い伝えたるやらん」(南方熊楠「人魚の話」『浄のセクソロジー・P.243~244』河出文庫)
見た目は似ているが「海狗」はオットセイのこと。熊楠が言及している儒艮(じゅごん)はまた異なる。沖縄周辺を中心とした海洋自然生態系の指標として活躍するシレン類の「ジュゴン」を指す。英語では“Dugon”と表記する。発音は儒艮(じゅごん)と同じ。
しかし「人魚」を問題とする場合、なぜ儒艮(じゅごん)の出現とともにあたかも儒艮(じゅごん)は神の一種ででもあるかのような神話が生じたかが、問われなくてはならない。なるほど泣き声が人間の声に似ているということもあるかもしれない。だがここで問いの核心を絞り込んでみるとすれば、いずれにしても「八百比丘尼」とある文字を避けて通るわけにはいかなくなる。古代ギリシアでオデュッセウスはどのようにしてセイレーンたちの誘惑に満ちた美声から逃れることができたか。逃れることができたことはできた。が、しかし遂に一人(ブーテース)だけはセイレーンたちが歌う島へ渡り去ってしまったのか。ホメロス「オデュッセイア」から。
「二人のセイレンの住む島に着いた。ところがこの時俄に風がやみ、風のない海は凪ぎかえって、神は波浪を眠らせてしまわれた。部下たちは立ち上がって帆を捲き上げ、これを船艙に納めると櫂の前に坐って、滑らかに削った櫂を動かし、海に白波を立て始めた。わたしは大きな輪型の蠟を、鋭利の剣で細かう切り刻み、逞しい手で圧して捏(こ)ねると、圧す手の強い力と、陽の神ヒュペリオニデスの光に温められて、蠟は忽ち熱く(柔らかに)なった。そこでわたしは順々に、部下たち全員の耳に蠟を貼りつけると、彼らは船中で帆柱の根元に立ったわたしを手足ともに縛り、縄の両端を帆柱に括りつけた。部下たちは漕座に坐って、櫂で灰色の海を打っていたが、速やかに船を進めて、呼べば声の届くほどの距離まで近寄った時、船脚速き船が近くに迫ったのを、セイレンたちが気付かぬはずもなく、朗々たる声を張り上げて歌い始めた」(ホメロス「オデュッセイア・上・第十二歌・P.318~319」岩波文庫)
セイレーンらはこう述べる。
「アカイア勢の大いなる誇り、広く世に称えられるオデュッセウスよ、さあ、ここへ来て船を停め、わたしらの声をお聞き。これまで黒塗りの船でこの地を訪れた者で、わたしらの口許(くちもと)から流れる、蜜の如く甘い声を聞かずして、行き過ぎた者はないのだよ。聞いた者は心楽しく知識も増して帰ってゆく。わたしらは、アルゴス、トロイエの両軍が、神々の御旨のままに、トロイエの広き野で嘗(な)めた苦難の数々を残らず知っている。また、ものみなを養う大地の上で起ることごとも、みな知っている」(ホメロス「オデュッセイア・上・第十二歌・P.319」岩波文庫)
そして歌い始める。オデュッセウスは準備万端整えておいたはずなのに、さらに一説にはオルペウスの歌声で対抗しもしたにもかかわらず、ブーテースは人魚らの誘惑に耐えきれずセイレーンらの島へダイブした。
「セイレーンのそばを通った時にはオルペウスが対抗して歌を歌ってアルゴナウタイを船に引き留めた。しかしただ一人ブーテースのみは彼女らのほうに泳ぎ去った」(アポロドーロス「ギリシア神話・第一巻・P.63」岩波文庫)
だからといって、ブーテース一人を責めることができるだろうか。オデュッセウス自身、ともすれば泳ぎ渡ってしまうところだったのだから。
「美しい声を発してこういった。わたしは心中、聞きたくて耐らず、眉を動かして合図し、部下に縛(いまし)めを解けと促したが、彼らは前に身をかがめてひたすら漕ぎ進める。ペリメデスとエウリュロコスの二人が、つと立ち上がると縄の数を増してさらに強く締め上げた。しかしセイレンたちを行き過ぎ、もはやその声も歌も聞えぬようになると、わが忠実な部下たちは直ぐに、わたしが耳に貼り付けてやった臘を取り去り、わたしの縄を解いてくれた」(ホメロス「オデュッセイア・上・第十二歌・P.319~320」岩波文庫)
だから「若狭小浜」に残された儒艮(じゅごん)と人魚伝説との関係は出現するべくして生じてきた一つの典型例だと言える。しかし人魚伝説として定着するに当たって必要最低限の条件を提供したのは何か。「八百比丘尼」という言葉の残存並びに実際に比丘尼らが熊野から若狭湾まで出張していたという事情である。比丘尼と言えば熊野信仰における日本最大の聖地「那智・新宮・本宮」を通過し、その上で、若狭なら若狭の地へやって来たという点が大事なのだ。熊野を通過してきた女性であるということ。熊野を通過してきた女性とは要するに「聖なる女性」だということを意味していた。また、比丘尼たちの通過はただちに熊野三社権現そのものの通過にほかならないと見なされた。
「熊野の通過=通過する聖地・熊野」、という信仰は早くから根付いていた。記紀神話や万葉集では主として「ミソギ」の地を意味し、あるいは「平家物語」に顕著なように平安時代後半からは怪異な磁力を帯びた場として全山まるごとその信仰対象と化していた。そしてまた折口信夫がいうように熊野という場の特異性に注目しなくては、なぜ都が京に移ってからもなお熊野が重要視されたかを知ることはできない。
「熊野の地は、紀伊の國の中で一区画をなして居り、其が時代に依つて境を異にしてゐたらしい。昔ほど廣く、北方に擴つてゐて、所謂普通の紀伊國の地域を狭めてゐた。思ふに此は、南紀伊地方にゐた種族の暴威を振ふ者の、勢力を張つた時代は、遥かに北に及び、其衰へた時は、境界線が後退してゐたからだらう。奈良朝前後では、南北東西牟婁郡の範囲も定つて、北西の限界は、日高郡岩代附近と言ふことになつてゐたらしいが、熊野の祭祀の中心たるべき日前(ヒノクマ)・國懸(クニカカス)の社(ヤシロ)が、更にその北にある事は、其以前の熊野領域を示すのだ。古事記・日本紀の文脈を見ると、更に古代の熊野の領域が、北に擴つて居り、紀の川・吉野川南部の山地は、大和・吉野へかけて一体に、熊野人の勢力範囲であり、唯海岸に沿ふ部分が僅に南へ熊野以外の地として延びて居た、と言ふ事が出来る」(折口信夫「大倭宮廷の剏業期」『折口信夫全集16・P.222』中公文庫)
古代、熊野はそれ自体「魔除」として考えられた。そして「野生の思考」と「稲作文化」との《あいだ》を架橋しつつ、言い換えれば黒潮と台風との直撃を受けるような土地では当然のことながら、毎年のように危機に見舞われる「稲作文化」の守護神として「野生の思考」を供給した場が熊野だったのだ。
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「『和漢三才図会』等に、若狭小浜の空印寺に八百比丘尼の木像あり。この尼(あま)、むかし当寺に住み、八百歳なりしも、美貌十五、六歳ばかりなりし。これ人魚を食いしに因(よ)る、と。嘘八百とはこれよりや始まりつらん。思うに儒艮(じゅごん)は暖地の産にて、若狭などにある物ならねど、海狗などの海獣、多少人に類せる物を人魚と呼び、その肉温補(おんぽ)の功あれば、長生の妙験ありなど言い伝えたるやらん」(南方熊楠「人魚の話」『浄のセクソロジー・P.243~244』河出文庫)
見た目は似ているが「海狗」はオットセイのこと。熊楠が言及している儒艮(じゅごん)はまた異なる。沖縄周辺を中心とした海洋自然生態系の指標として活躍するシレン類の「ジュゴン」を指す。英語では“Dugon”と表記する。発音は儒艮(じゅごん)と同じ。
しかし「人魚」を問題とする場合、なぜ儒艮(じゅごん)の出現とともにあたかも儒艮(じゅごん)は神の一種ででもあるかのような神話が生じたかが、問われなくてはならない。なるほど泣き声が人間の声に似ているということもあるかもしれない。だがここで問いの核心を絞り込んでみるとすれば、いずれにしても「八百比丘尼」とある文字を避けて通るわけにはいかなくなる。古代ギリシアでオデュッセウスはどのようにしてセイレーンたちの誘惑に満ちた美声から逃れることができたか。逃れることができたことはできた。が、しかし遂に一人(ブーテース)だけはセイレーンたちが歌う島へ渡り去ってしまったのか。ホメロス「オデュッセイア」から。
「二人のセイレンの住む島に着いた。ところがこの時俄に風がやみ、風のない海は凪ぎかえって、神は波浪を眠らせてしまわれた。部下たちは立ち上がって帆を捲き上げ、これを船艙に納めると櫂の前に坐って、滑らかに削った櫂を動かし、海に白波を立て始めた。わたしは大きな輪型の蠟を、鋭利の剣で細かう切り刻み、逞しい手で圧して捏(こ)ねると、圧す手の強い力と、陽の神ヒュペリオニデスの光に温められて、蠟は忽ち熱く(柔らかに)なった。そこでわたしは順々に、部下たち全員の耳に蠟を貼りつけると、彼らは船中で帆柱の根元に立ったわたしを手足ともに縛り、縄の両端を帆柱に括りつけた。部下たちは漕座に坐って、櫂で灰色の海を打っていたが、速やかに船を進めて、呼べば声の届くほどの距離まで近寄った時、船脚速き船が近くに迫ったのを、セイレンたちが気付かぬはずもなく、朗々たる声を張り上げて歌い始めた」(ホメロス「オデュッセイア・上・第十二歌・P.318~319」岩波文庫)
セイレーンらはこう述べる。
「アカイア勢の大いなる誇り、広く世に称えられるオデュッセウスよ、さあ、ここへ来て船を停め、わたしらの声をお聞き。これまで黒塗りの船でこの地を訪れた者で、わたしらの口許(くちもと)から流れる、蜜の如く甘い声を聞かずして、行き過ぎた者はないのだよ。聞いた者は心楽しく知識も増して帰ってゆく。わたしらは、アルゴス、トロイエの両軍が、神々の御旨のままに、トロイエの広き野で嘗(な)めた苦難の数々を残らず知っている。また、ものみなを養う大地の上で起ることごとも、みな知っている」(ホメロス「オデュッセイア・上・第十二歌・P.319」岩波文庫)
そして歌い始める。オデュッセウスは準備万端整えておいたはずなのに、さらに一説にはオルペウスの歌声で対抗しもしたにもかかわらず、ブーテースは人魚らの誘惑に耐えきれずセイレーンらの島へダイブした。
「セイレーンのそばを通った時にはオルペウスが対抗して歌を歌ってアルゴナウタイを船に引き留めた。しかしただ一人ブーテースのみは彼女らのほうに泳ぎ去った」(アポロドーロス「ギリシア神話・第一巻・P.63」岩波文庫)
だからといって、ブーテース一人を責めることができるだろうか。オデュッセウス自身、ともすれば泳ぎ渡ってしまうところだったのだから。
「美しい声を発してこういった。わたしは心中、聞きたくて耐らず、眉を動かして合図し、部下に縛(いまし)めを解けと促したが、彼らは前に身をかがめてひたすら漕ぎ進める。ペリメデスとエウリュロコスの二人が、つと立ち上がると縄の数を増してさらに強く締め上げた。しかしセイレンたちを行き過ぎ、もはやその声も歌も聞えぬようになると、わが忠実な部下たちは直ぐに、わたしが耳に貼り付けてやった臘を取り去り、わたしの縄を解いてくれた」(ホメロス「オデュッセイア・上・第十二歌・P.319~320」岩波文庫)
だから「若狭小浜」に残された儒艮(じゅごん)と人魚伝説との関係は出現するべくして生じてきた一つの典型例だと言える。しかし人魚伝説として定着するに当たって必要最低限の条件を提供したのは何か。「八百比丘尼」という言葉の残存並びに実際に比丘尼らが熊野から若狭湾まで出張していたという事情である。比丘尼と言えば熊野信仰における日本最大の聖地「那智・新宮・本宮」を通過し、その上で、若狭なら若狭の地へやって来たという点が大事なのだ。熊野を通過してきた女性であるということ。熊野を通過してきた女性とは要するに「聖なる女性」だということを意味していた。また、比丘尼たちの通過はただちに熊野三社権現そのものの通過にほかならないと見なされた。
「熊野の通過=通過する聖地・熊野」、という信仰は早くから根付いていた。記紀神話や万葉集では主として「ミソギ」の地を意味し、あるいは「平家物語」に顕著なように平安時代後半からは怪異な磁力を帯びた場として全山まるごとその信仰対象と化していた。そしてまた折口信夫がいうように熊野という場の特異性に注目しなくては、なぜ都が京に移ってからもなお熊野が重要視されたかを知ることはできない。
「熊野の地は、紀伊の國の中で一区画をなして居り、其が時代に依つて境を異にしてゐたらしい。昔ほど廣く、北方に擴つてゐて、所謂普通の紀伊國の地域を狭めてゐた。思ふに此は、南紀伊地方にゐた種族の暴威を振ふ者の、勢力を張つた時代は、遥かに北に及び、其衰へた時は、境界線が後退してゐたからだらう。奈良朝前後では、南北東西牟婁郡の範囲も定つて、北西の限界は、日高郡岩代附近と言ふことになつてゐたらしいが、熊野の祭祀の中心たるべき日前(ヒノクマ)・國懸(クニカカス)の社(ヤシロ)が、更にその北にある事は、其以前の熊野領域を示すのだ。古事記・日本紀の文脈を見ると、更に古代の熊野の領域が、北に擴つて居り、紀の川・吉野川南部の山地は、大和・吉野へかけて一体に、熊野人の勢力範囲であり、唯海岸に沿ふ部分が僅に南へ熊野以外の地として延びて居た、と言ふ事が出来る」(折口信夫「大倭宮廷の剏業期」『折口信夫全集16・P.222』中公文庫)
古代、熊野はそれ自体「魔除」として考えられた。そして「野生の思考」と「稲作文化」との《あいだ》を架橋しつつ、言い換えれば黒潮と台風との直撃を受けるような土地では当然のことながら、毎年のように危機に見舞われる「稲作文化」の守護神として「野生の思考」を供給した場が熊野だったのだ。
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