白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/比丘尼〔美久人(びくに)・美国(びくに)・白比丘尼(しらびくに)〕、そして対抗勢力なき資本主義弱体化阻止のためにジュゴンから愛を込めて

2020年11月14日 | 日記・エッセイ・コラム
柳田國男は熊楠の人魚論について熊野八百比丘尼(はっぴゃくびくに)の章の中で取り上げた。

「人魚の動物学的研究は自分の任務ではないが、ここにはただ南方熊楠(みなかたくまぐす)氏の説を附記しておく。人魚は琉球ではサンノイオともいう。魚とは称すれども実は胎生で漢名は儒艮(じゅごん)、シレン類に属する一種の海獣である。わが邦の海浜に寄ったという記事は『嘉元記』にも見えているが、本来暖地の海に住む物なれば日本海で捕ったというのは疑わしい。紀州で大灘魚(おおなうお)と称する美味なる魚を女魚(おんなうお)と謝り称する例もあれば、若狭や能登に現われたのはあるいは海狗か何かであろう云々。人魚が寒潮に住み得ぬことは事実としても無形の伝説のみはこれを移すに差支えがない。この物を保命長生の薬にするのは元は南支那などの風であったかも知れぬが、その信仰に至っては久しい昔からわが邦一般の所有であったらしい。喜谷の実母散などは今日までも人魚を看板にしている。同じ若狭国にも八百比丘尼と無関係に別に一の人魚談がある。この国大飯(おおい)郡の御山(みせん)という山はいわゆる魔所として八分目以上には登る者がなかった。この山の明神の使者は人魚であった。昔宝永年中に内浦村大字音海(おとみ)の漁夫漁に出でて怪しい物を見た。頭は人間にして襟に鶏冠(とさか)のごとくひらひらと赤き物を纏(まと)い、それから下は魚の形をした物が岩の上に寝ておった。櫂(かい)をもって打ち殺し海へ投げ入れて帰ったところ、その日より大風が吹き出し海の鳴ること十七日、三十日の後には大地震があって地面が裂けて一村ことごとく陥没したという」(柳田國男「山島民譚集(二)・第六・八百比丘尼・人魚のこと」「柳田国男全集5・P.324~325」ちくま文庫)

若狭湾沿岸に残る伝説は熊楠が否定していたように、海狗(オットセイ)を儒艮(ジュゴン)と勘違いしたという点で柳田も一致する。さらに柳田は「海坊主」(うみぼうず)=「和尚魚」(おしょううお)について次のように引く。

「南方氏はさらに『碧山日録』(へきざんにちろく)の長禄四年(一四六〇)六月の条を引いて、当時一方には人魚の出現をもって不吉の兆(きざし)とする風があったと言わるる。これを事実とすれば二の思想は両立し得ぬから、一方は後代の発生と見ねばならぬことになる。しかしかの書には単に人面魚身にして鳥趾なりとのみあって、人魚とは言ってない。これは事によると人魚ではなく海坊主であったかも知れぬ。海坊主一名は和尚魚、人魚とちがって男性である。状は鼇(おおがめ)に似て身の色紅赤に、潮汐に従って来るという。近くは宝暦二年(一七五二)の五月にも寺泊(てらどまり)辺の海岸に来たことがある。頭は人に似ているゆえにこれを海坊主と呼び、稀(まれ)にこの物の出現することあれば漁業不利であると信じてかの地方の漁夫はこれを忌んでおる。怒るときは眼大きくきわめて怖ろしい物であるという」(柳田國男「山島民譚集(二)・第六・八百比丘尼・人魚のこと」「柳田国男全集5・P.325」ちくま文庫)

柳田は「宝暦二年(一七五二)の五月にも寺泊(てらどまり)辺の海岸に来た」という記録を上げている。宝暦二年五月という日付が正確かどうかははっきりしない。ただその前後に当たる寛延一年(一七四八年)五月、越後国の出雲崎(いづもざき)にアシカが打ち上げられたという記事がある。また宝暦四年(一七五四年)二月、越後国の寺泊浦(てらどまりうら)にアシカが打ち寄せられたという記事がある。ここで言及されている寺泊はかつて日本海側の宿場町として主に漁業で栄えた。今の新潟県長岡市。ちなみに西鶴の浮世草子に「出雲崎」(いづもさき)並びに「寺泊」(てらとまり)ともに併記されている箇所がある。世之介が佐渡に渡ろうと船出に良好な日を待っている場面。

「出雲崎(いづもさき)といふ所に、渡(わた)り日和(ひより)を待(ま)て、明暮(あけくれ)、只も居(ゐ)られず、舟宿(ふなやど)のあるじを招き、此所(ところ)のなくさみ女はと尋ねければ、いかに北國のはてなればとて、あなどりたまふな、寺泊(とまり)という所に、傾城町(けいせいまち)あり」(井原西鶴「好色一代男・卷三・集礼(しゆらい)は五匁の外(ほか)・P.87」岩波文庫)

西鶴は「傾城町(けいせいまち)あり」と書いている。江戸時代初期の花街・遊郭は山地や平野部の街道筋に沿った宿場町ばかりでなく漁業を生計の中心とする港町にもあり、なおかつ繁盛していたことがわかる。世之介は寺泊の遊郭に上がったところ、なかなか粋な屏風が引き廻してあるのに気付く。よく見れば大津絵のようだ。

「奥の間に、やさしくも、屏風(へうふ)引廻(ひきまは)して有ける、押繪(おしゑ)を見れば、花かたげて、吉野参(よしのまいり)の人形、板木押(はんぎおし)の弘法大師、鼠の嫁入(よめり)、鎌倉團右衛門(かまくらだんゑもん)、多門(たもん)庄左衛門が、連奴(つれやつこ)、これみな、大津の追分(おいわけ)にて、書(かき)し物ぞかし、見るに、都なつかしく、おもふうちに、亭主膳をすえける」(井原西鶴「好色一代男・卷三・集礼(しゆらい)は五匁の外(ほか)・P.87~88」岩波文庫)

近松門左衛門も描いた。

「大津の町や、追分の、絵に塗(ぬ)る胡粉(ごふん)は安(やす)けれども、名は千金の絵師の家」(日本古典文学体系「けいせい反魂香」『近松浄瑠璃集下・P.140』岩波書店)

もっとも、「けいせい反魂香」の中核は中之巻「三熊野かげろふ姿」であり、それゆえ上之巻、下之巻ともにシュルレアリズム風の作風ながら全体を引き締まった芸術作品として成立させていることを忘れてはならない。

また大津絵は最初から絵も字も達者な人々によって描かれた形跡が如実に見られる。なぜか。一つは、江戸時代に入り禁制とされたキリシタンが僧侶姿に身をやつし逢坂山の周囲に身をひそめて生き延びる方便として大津絵を手掛けたこと。けれども第二に、より一層大きな理由がある。すでに戦国時代から諸国の大名も手を焼くほどの軍事勢力を持ち諸大名らに匹敵する巨大な教団として内部でもしょっちゅう対立していた本願寺が徳川幕藩体制の樹立と同時にとうとう正式に東本願寺と西本願寺とに分裂した点が上げられる。分裂をきっかけにその一部が逢坂から追分に移住した。そして大津絵を手掛けて糊口をしのぐようになった。絵も字も最初から非常に達者だった理由にはそのような、一見しただけではけっしてわからない大きな歴史的流れがあったのである。そう思い芭蕉の句を見直してみる。

「大津絵の筆のはじめは何仏(なにぼとけ)」(新潮日本古典集成「芭蕉句集・六七九・P.241」新潮社)

キリシタンの地下潜航にとっても本願寺分裂にとっても仏画が多数を占めることになったのはもはや必然というほかない。初期には何百種類もの絵が描かれた。現在残っているのは鬼の絵一つ取って見ても怖さがない。土産として定着してしまうと鬼さえもがなぜか弱々しい画風に流れてしまう。かといって目立つこともまた出来ない。幕府に目を付けられると厄介な事態が生じないとも限らない。それにしても芭蕉は一体何をどこまで知っていたか、あるいは知らなかったか。芭蕉の若年時代は今なお霞掛かってよくわからないところがあるが、芭蕉門下の其角・嵐雪が詠んだ男色をテーマとした連句なども平気のへいさですぐ次の句に繋げている。其角・嵐雪の句は以前引いた。

「雨(あま)もやう陽炎(かげろふ)消(きゆ)るばかり也 其角

小姓泣(なき)ゆく葬礼の中 嵐雪」(「芭蕉蓮句集・貞享四年・久かたや・P.31」岩波文庫)

熊楠も言及している連句である。

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