和歌山県にいる妹の訃報を受け取った数日後のこと。留学先のアメリカで採集中、猛吹雪に見舞われた熊楠。積雪で迷子になった子猫を見つけたことがあった。
「小生二十二、三のとき、米国ミシガン州アナバという小市の郊外三、四マイルの深林に採集中、大吹雪となり走り廻るうち、生まれて一月にならぬ子猫が道を失い、雪中を小生に随い走る。小生ちょうど国元の妹の訃に接せし数日後で、仏家の転生のことなど思い、もし妹がこの猫に生まれあったら棄つるに忍びずと、上衣のポケットに入れて走りしも、しばしばそれより出て走る。小さいものゆえ小生に追いつき能わず哀しみ鳴く。歩を停めて拾い上ぐ。幾度も幾度もポケットに入れしも、やがてまた落ち出る。漢の高祖が敗走するに、その子恵帝と魯元公王とが足手まといになるとて、何度も何度もつき落とせしことを思い出し、終(つい)にその子猫をつかんで、ある牧場の垣の内へ数丈投げ込み、絶念して一生懸命に走り吹雪に埋もるを免れたり。その猫やがて雪中に埋もれ死せしことと今も惆恨致し候」(南方熊楠「女の後庭犯すこと、トルコ風呂、アナバの猫、その他」『浄のセクソロジー・P.496~497』河出文庫)
帰国後、ずっと猫を飼っていたことはよく知られている。
熊楠の愛読書「御伽草子」から、続き。
明け方。僧侶はうとうとし出す。すると今度は最初に現われた僧侶姿の鼠がまた夢に出てきた。洛中のすべての鼠の代表者らが集まって評定した結果、次のような議論が交わされました、お伝えしたいと思います、と京洛在住鼠族の代表としてそれぞれ提案された意見を列挙していく。
最初はふと思い出したがと、つい先日近江で実施された検地で、免相(めんあひ)を有利に進めるため百姓らが今年は稲を刈らないことにしたことをヒントに、一度京から引き退いて隣の近江に移動し、そこでふさふさしているに違いない田んぼの稲に隠れて越冬してみようと。この段落は物づくしの手法で語られる。文章は琵琶湖一周の案内を兼ねる。一部、美濃国(岐阜県)にも及ぶ。
「まづまづ冬中(ふゆぢう)はまかりこし、稲(いね)の下に妻子(めこ)共をかがませ、年(とし)を越(こ)え暖(あたた)かにならば、北(きた)の郡(こほり)木之本(きのもと)の地蔵(ぢぞう)を頼(たの)み、左手右手(ゆんでめて)の山々、いかが山おくだに山、恐(おそ)ろしけど、伊吹(いぶき)山に関が原、醒(さめ)が井、摺針(すりはり)、佐和山(さはやま)、たかのはたところの山、はくさんじ山、かみかまうのこなりのはた、ふせ山布引(ぬのびき)山、観音寺(くはんをんじ)八幡山、鏡山(かがみやま)朝日山、こうの郡(こほり)鷲(わし)の尾(お)の山、村々(むらむら)里々(さとさと)三上山(みかみやま)、信楽(しがらき)山石山(いしやま)、粟津(あはづ)松本(まつもと)打出(うちで)の浜、長良(ながら)山園城寺(をんじやうじ)、延暦寺坂本(えんりやくじさかもと)、堅田(かたた)、比良小松(ひらこまつ)、白髭(しらひげ)の明神(みやうじん)きんへん、うちおろし、今津(いまづ)海津(かいづ)鹽津(しほづ)、志賀(しが)の浦(うら)、便船(びんせん)あらば竹生島(ちくぶしま)、長命寺(ちやうめうじ)、沖之島(おきのしま)などへも押(を)し渡(わた)り、野老(ところ)蕨(わらび)などを掘り食ひ、一旦身命(しんみやう)を繋(つな)がんと存じ候」(日本古典文学体系「猫のさうし」『御伽草子・P.304~305』岩波書店)
終わりのところで「野老(ところ)蕨(わらび)などを掘り食ひ」とある。けれどもそれらはいずれも鼠の主食でない。鼠族にとって楽しみは何か。
「何(なに)より心の残(のこり)候は、やがて正月に、鏡(かがみ)、はなびら、煎餅(せんべい)、あられ、かき餅(もち)、をこしごめなど、春雨(はるさめ)の中(うち)、徒然(とぜん)慰(なぐさ)みにかあぶり食(く)ひて、じじめいて遊(あそ)ばんとたくみしに、大敵(たいてき)の猫殿(ねこどの)に追(を)つ立(た)てられ、のき退(しりぞ)くこそ無念(むねん)なれ」(日本古典文学体系「猫のさうし」『御伽草子・P.305』岩波書店)
というふうに、正月から雛祭りにかけて、人間の子どもたちも心待ちにしているあれやこれやの食べ物・土産・菓子類などを夢見ているらしい。
またしかし考えてみれば、猫族も京洛にいながら恐怖はいつも身近にある。例えば「野良犬」の襲撃。故にほうぼうの町角や川端で雨に降られ野ざらしになって死んでいる猫殿もいるではないかと。
「さりながら猫殿(ねこどの)も、犬(いぬ)といふこはものに、あそここを追(を)ひ廻(まは)され、辻(つぢ)川端(かはばた)に倒(たふ)れ臥(ふ)し、あめつちにしほたれたる」(日本古典文学体系「猫のさうし」『御伽草子・P.305』岩波書店)
然(しか)るに報いは必至と言えども、さてそれで本当の解決になるかといえば前提からしてまったくそういうことではない。そんな感じで鼠族の代表者たちも何だか浮かない顔と顔とを見合わせながら肩を落として帰って行った、ということらしい。夢の中で猫族からも鼠族からも話を聞かされた僧侶ももはや「猫のさうし」のどこにもいない。次の頁を開いてみてもすでに姿を消してしまっている。
と、ここまで読んできてふと思い出した。二〇二〇年アメリカ大統領選挙で敗北した「男」の名を。世界に向けて徹底的に冷たく振る舞った四年間だった。付いて行ったヒスパニック系移民らはほんの一時に限り転がり込んだ職業について、なぜ手に入ってきたのか、考えるだろうか。そして彼らのふるさとは。あの男の名をどんなふうに呼んでいるだろうか。
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「小生二十二、三のとき、米国ミシガン州アナバという小市の郊外三、四マイルの深林に採集中、大吹雪となり走り廻るうち、生まれて一月にならぬ子猫が道を失い、雪中を小生に随い走る。小生ちょうど国元の妹の訃に接せし数日後で、仏家の転生のことなど思い、もし妹がこの猫に生まれあったら棄つるに忍びずと、上衣のポケットに入れて走りしも、しばしばそれより出て走る。小さいものゆえ小生に追いつき能わず哀しみ鳴く。歩を停めて拾い上ぐ。幾度も幾度もポケットに入れしも、やがてまた落ち出る。漢の高祖が敗走するに、その子恵帝と魯元公王とが足手まといになるとて、何度も何度もつき落とせしことを思い出し、終(つい)にその子猫をつかんで、ある牧場の垣の内へ数丈投げ込み、絶念して一生懸命に走り吹雪に埋もるを免れたり。その猫やがて雪中に埋もれ死せしことと今も惆恨致し候」(南方熊楠「女の後庭犯すこと、トルコ風呂、アナバの猫、その他」『浄のセクソロジー・P.496~497』河出文庫)
帰国後、ずっと猫を飼っていたことはよく知られている。
熊楠の愛読書「御伽草子」から、続き。
明け方。僧侶はうとうとし出す。すると今度は最初に現われた僧侶姿の鼠がまた夢に出てきた。洛中のすべての鼠の代表者らが集まって評定した結果、次のような議論が交わされました、お伝えしたいと思います、と京洛在住鼠族の代表としてそれぞれ提案された意見を列挙していく。
最初はふと思い出したがと、つい先日近江で実施された検地で、免相(めんあひ)を有利に進めるため百姓らが今年は稲を刈らないことにしたことをヒントに、一度京から引き退いて隣の近江に移動し、そこでふさふさしているに違いない田んぼの稲に隠れて越冬してみようと。この段落は物づくしの手法で語られる。文章は琵琶湖一周の案内を兼ねる。一部、美濃国(岐阜県)にも及ぶ。
「まづまづ冬中(ふゆぢう)はまかりこし、稲(いね)の下に妻子(めこ)共をかがませ、年(とし)を越(こ)え暖(あたた)かにならば、北(きた)の郡(こほり)木之本(きのもと)の地蔵(ぢぞう)を頼(たの)み、左手右手(ゆんでめて)の山々、いかが山おくだに山、恐(おそ)ろしけど、伊吹(いぶき)山に関が原、醒(さめ)が井、摺針(すりはり)、佐和山(さはやま)、たかのはたところの山、はくさんじ山、かみかまうのこなりのはた、ふせ山布引(ぬのびき)山、観音寺(くはんをんじ)八幡山、鏡山(かがみやま)朝日山、こうの郡(こほり)鷲(わし)の尾(お)の山、村々(むらむら)里々(さとさと)三上山(みかみやま)、信楽(しがらき)山石山(いしやま)、粟津(あはづ)松本(まつもと)打出(うちで)の浜、長良(ながら)山園城寺(をんじやうじ)、延暦寺坂本(えんりやくじさかもと)、堅田(かたた)、比良小松(ひらこまつ)、白髭(しらひげ)の明神(みやうじん)きんへん、うちおろし、今津(いまづ)海津(かいづ)鹽津(しほづ)、志賀(しが)の浦(うら)、便船(びんせん)あらば竹生島(ちくぶしま)、長命寺(ちやうめうじ)、沖之島(おきのしま)などへも押(を)し渡(わた)り、野老(ところ)蕨(わらび)などを掘り食ひ、一旦身命(しんみやう)を繋(つな)がんと存じ候」(日本古典文学体系「猫のさうし」『御伽草子・P.304~305』岩波書店)
終わりのところで「野老(ところ)蕨(わらび)などを掘り食ひ」とある。けれどもそれらはいずれも鼠の主食でない。鼠族にとって楽しみは何か。
「何(なに)より心の残(のこり)候は、やがて正月に、鏡(かがみ)、はなびら、煎餅(せんべい)、あられ、かき餅(もち)、をこしごめなど、春雨(はるさめ)の中(うち)、徒然(とぜん)慰(なぐさ)みにかあぶり食(く)ひて、じじめいて遊(あそ)ばんとたくみしに、大敵(たいてき)の猫殿(ねこどの)に追(を)つ立(た)てられ、のき退(しりぞ)くこそ無念(むねん)なれ」(日本古典文学体系「猫のさうし」『御伽草子・P.305』岩波書店)
というふうに、正月から雛祭りにかけて、人間の子どもたちも心待ちにしているあれやこれやの食べ物・土産・菓子類などを夢見ているらしい。
またしかし考えてみれば、猫族も京洛にいながら恐怖はいつも身近にある。例えば「野良犬」の襲撃。故にほうぼうの町角や川端で雨に降られ野ざらしになって死んでいる猫殿もいるではないかと。
「さりながら猫殿(ねこどの)も、犬(いぬ)といふこはものに、あそここを追(を)ひ廻(まは)され、辻(つぢ)川端(かはばた)に倒(たふ)れ臥(ふ)し、あめつちにしほたれたる」(日本古典文学体系「猫のさうし」『御伽草子・P.305』岩波書店)
然(しか)るに報いは必至と言えども、さてそれで本当の解決になるかといえば前提からしてまったくそういうことではない。そんな感じで鼠族の代表者たちも何だか浮かない顔と顔とを見合わせながら肩を落として帰って行った、ということらしい。夢の中で猫族からも鼠族からも話を聞かされた僧侶ももはや「猫のさうし」のどこにもいない。次の頁を開いてみてもすでに姿を消してしまっている。
と、ここまで読んできてふと思い出した。二〇二〇年アメリカ大統領選挙で敗北した「男」の名を。世界に向けて徹底的に冷たく振る舞った四年間だった。付いて行ったヒスパニック系移民らはほんの一時に限り転がり込んだ職業について、なぜ手に入ってきたのか、考えるだろうか。そして彼らのふるさとは。あの男の名をどんなふうに呼んでいるだろうか。
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