日本ではおそらく知らぬ者のない「竹取物語」。しかしなぜ「子安貝」なのか。
「西洋のことはラテン文で俗に分からぬようかき得るも、日本でこの介(かい)、女陰に似たこと誰も知る通りだが、古く明文なし。ようやく忠臣蔵の何とかいう戯曲に、大尽(浅野の弟)大散財するとき、幇間と尻取り文句で遊ぶところに、『仏ももとは凡夫なり』と一人唄うと、他一人がそれを受けて、『凡夫形(なり)たる子安貝』。凡夫はボボの意味なり。それらは小生等が見ると少しも不浄の念が起こらず。そのころ、そんな幼稚なことを言って楽しんだと優(やさ)しく覚える。アラビアの古諺に、『きたなき心のものに清き眼なし』。また『根生の汚なき奴には何ごともきたなく見える』。『維摩経』に、水を、人は水、天は瑠璃、餓鬼は火と見る、とある。あまり不浄不浄という人の根性が反って大不浄と思う。とにかく、かかることすら筆するを得ずとありては、せっかく『燕石考』を書いても肝心のところが骨抜けとなり、書き甲斐がなからん」(南方熊楠「ルーラル・エコノミーについて、柳田批判、その他」『南方民俗学・P.542』河出文庫)
熊楠の諸論文の中で最もまとまった形式を持ったもの。「燕石考」。つい最近まで、なぜ世界中の人々が、多少なりとも「燕石」、「石燕」、「子安貝」、「鸚鵡貝」、などについて、本当に燕がどこかから運んで来て巣に隠しておくものだとか、燕の体内で生成されるものだとか考えていただけでなく、安産や多産、あるいは媚薬としても効果があるなどと信じて疑わなかったのか。迷信を迷信だと認めることができなかったのか。論じるに当たって熊楠は「猥褻」とされる語彙を用いなくては論文を書くことはできないと厳しく指摘している。孫文のロンドン亡命時代、まだ孫逸仙と名乗っていた頃、二人は大英博物館で知り合った。
「私は友人の孫逸仙ーーー『ロンドン幽囚記』の著者ーーーから、広東で豊富に産するが、今では単に少年少女の娯楽の対象になっていると聞いた。日本でも少しも珍しいものではなく、酢貝(すがい)と呼ばれて、子供たちの玩具になっている。しかし、かつては情事に用いられたものらしい。西鶴(十七世紀)は熊野比丘尼が持ち運んで売る品物の主要なものの中に、それを記している」(南方熊楠「燕石考」『南方民俗学・P.383』河出文庫)
この箇所は前にも引いた。
「艫(とも)に、年(とし)がまへなる親仁(おやじ)、居(ゐ)ながら、楫(かぢ)とりて、比丘尼(びくに)は、大かた、浅黄(あさぎ)の木綿布子(もめんぬのこ)に、竜門(りうもん)の中幅帯(ちうはばおび)、まへむすびにして、黒羽二重(くろはぶたへ)の、あたまがくし、深江(ふかゑ)の、お七ざしの加賀笠(かががさ)、うねたび、はかぬといふ事なし、絹(きぬ)のふたのの、すそみじかく、とりなり、ひとつに拵(こしら)へ、文臺(ぶんだい)に入れしは、熊野(くまの)の牛王(ごわう)、酢貝(すがい)、耳(みみ)がしましき四つ竹、小比丘尼(こびくに)に、定(さだ)まりての、一升(せう)びしやく、勧進(くはんじん)といふ声(こゑ)も、引(ひき)きらず、はやり節(ぶし)をうたひ、それに気(き)を取(と)り、外(ほか)より見るも、かまはず、元(もと)ぶねに乗(の)り移(うつ)り、分立(わけた)てて後(のち)、百つなぎの銭(ぜに)を、袂(たもと)へなげ入れけるも、おかし、あるはまた、割木(わりき)を、其あたひに取り、又は、さし鯖(さば)にも替(か)へ、同じ流(なが)れとはいひながら、是を思へば、すぐれて、さもしき業(わざ)なれども、昔日(そのかみ)より、此所(ところ)に目馴れて、おかしからず、人の行(ゆ)くすゑは、更(さら)にしれぬものぞ、我もいつとなく、いたづらの数(かず)つくして、今惜(お)しき黒髪(くろかみ)を剃(そ)りて、高津(たかつ)の宮(みや)の北(きた)にあたり、高原(たかはら)といへる町(まち)に、軒(のき)は笹(ささ)に葺(ふ)きて、幽(かすか)なる奥(おく)に、此道(みち)に身(み)をふれし、おりやうをたのみ、勤(つと)めてかくも、浅(あさ)ましく、なるものかな、雨(あめ)の日、嵐(あらし)のふく日にも、ゆるさず、かうした、あたま役(やく)に、白米(はくまい)一升(せう)に、銭(ぜに)五十、それより、しもづかたの、子(こ)共にも、定(さだ)めて、五合づつ、毎日(まいにち)、取(と)られければ、をのづと、いやしくなりて、むかしは、かかる事には、あらざりしに、近年(きんねん)、遊女(ゆうぢよ)のごとくなりぬ」(井原西鶴「調謔哥船(たはふれのうたぶね)」『好色一代女・卷三・P.107~111』岩波文庫)
さらに、ただ単なる貝がなぜ世界中で信仰の対象となったのか。熊楠は形態Aと形態Bとが著しい類似を示している場合、ただそれだけのことであっても、迷信に過ぎないかも知れない可能性があったとしても、なお予想外に堅固な迷信が生じる場合があると述べる。次のような場合。
「安産の子安貝(カウリー)に関する日本の物語は、その貝の特異な形態に由来している。その形態ゆえに、この貝はヴィーナスに捧げられたのである。そして、邪視に対するお守り、惚れ薬、多産や安産などの効能がこの貝にあるというのは、交感(シンパシー)理論が一般に信じられたからである。これに加えて、古代に広く貨幣として使われたことが、それにほとんど無限の徳目を付与することになった」(南方熊楠「燕石考」『南方民俗学・P.391』河出文庫)
先史時代から人間が取り扱ってきた三つの領域、貨幣と言語と性とに関するものが強烈な類似性を示して《見える》場合、そのとき人間はいともたやすく迷信の荒野へ叩き込まれてしまう。
「われわれの古い時代の祖先たちは、天然の産物で互いによく似たものを、一方は他方の変形だと思い込む習慣が強かった」(南方熊楠「燕石考」『南方民俗学・P.390』河出文庫)
ニーチェはいう。
「《夢の論理》。ーーー睡眠中、たえずわれわれの神経組織は多様な内的誘因によって刺激をうけ、ほとんどあらゆる器官が分泌し活動している。血液は烈しく循環し、睡眠者の姿勢は身体の個々の部分を圧迫し、その掛け布団は感覚にいろいろの影響を与え、胃は消化してその運動で他の器官をさわがせ、内蔵はのたうちまわり、頭の位置は常ならぬ筋肉の状態を伴い、地面を足裏で押していない跣(はだし)の足は、全身のちがった身なりと同様、常ならずという感情をひき起こすーーーこれらすべては、日によって変化や度合がちがうが、その異常性によって全組織を頭脳の機能にいたるまで刺激する、それで精神にとっては、怪しんでこうした刺激の《根拠》を求めるための百の誘因があるわけである、ところが夢は、刺激を受けたあの感覚の原因、すなわち憶断的《原因の探究および表象》なのである。たとえば足を二本の革ひもで巻いている人は、多分二匹の蛇が足にからみついている夢をみるであろう、これははじめは一つの仮定であり、ついで信念となって具象的表象や虚構を伴ってくる、『これらの蛇は、睡眠中のわたしが感じるあの感覚の《原因》であるにちがいない』、ーーーと睡眠者の精神は判断する。こう推論された直前の過去が、刺激を受けた空想力によって、彼には現に在るものとなる。それで夢みる人が、彼に迫ってくる強い物音、たとえば鐘のひびきや砲撃を、いかにすばやく夢の中へ組み入れるかを、つまり彼は夢を出発点として《後から》説明を加えるのであるから、はじめに誘因となる状態を体験し、ついであの物音を体験すると《思いこむ》ことになるのを、だれでも経験から知っている。ーーーしかしながら夢みる人の精神がいつもそのように的(まと)をはずれているのはどうしてだろう、一方同じ精神が目覚めていると、きわめて冷静で用心深く、仮説に関してかくも懐疑的であるのを常としているのに?ーーー或る感情の説明のため、手あたり次第に仮説に甘んじて、すぐその真理を信じてしまうのは?ーーー(なぜならわれわれは、夢の中で夢を、それが現実であるかのように信じる。すなわちわれわれの仮説が完全に証明されたものとみなすのであるから。)ーーーわたしの考えでは、今なお人が夢の中で推理しているようなぐあいに、人類は《目覚めているときにもまた》幾千年を通じて推理したのであった、なにか説明を要するものを説明するために、精神の思いついた最初の《原因》が彼を満足させ、真理として通用したのであった。(旅行者の話によれば、未開人は今日もなおそうしている。)夢の中でわれわれの内部にある人間性のこの太古の部分が訓練をつづけている、なぜならそれは、いっそう高い理性が発展してきてさらに各人のところで発展していくさいの基礎だからである、夢はわれわれを人間文化のずっと以前の諸状態へとふたたびつれもどし、その状態をいっそうよく理解する手段を手渡してくれる。夢想がわれわれに今ではきわめてやさしいのも、われわれが人類のおそろしく長い発展期のうちに、最初の勝手な思いつきからでた空想的な安価なこの説明様式をこそ実にうまく仕込まれてきたからである。そのかぎり夢は、高級文化によって申し立てられているような、思考に対するさらに厳しい要求を、日中は満たさなくてはならない頭脳のための一つの休養である。ーーー類似の事象を、まさに夢の門や玄関として、悟性の醒めているおりでもなお検証することができる。われわれが眼を閉じると、脳髄は一群の光の印象や色彩を産み出す、多分、日中頭脳に侵入しているあらゆるあの光の作用の一種の余波や反響なのであろう。ところが悟性は(空想力と結託して)、それ自身は形のないこの色彩の戯れを、ただちに一定の図形・形態・風景・生物群にしようと細工する。このさいの本当の過程は、またもや結果から原因への一種の推理なのである。どこからこの光の印象や色彩が来るのであるか、と問いながら、精神は、原因としてあの図形や形態を想定する、それらが精神によってあの色彩や光の誘因とみなされるのは、日中眼を開いているさい、どの色彩にもどの光の印象にも誘発的原因をみつけるのに、精神が馴れているからである。したがってここでは空想力は、その産出にあたり日中の視覚印象によりかかりながら、たえず映像を精神に押しつける、そして夢想力もまさにそのとおりにする、ーーーつまり憶断的原因が結果から推論され、結果の《後を追って》表象される、これはすべて異常にすばやく行なわれるので、ここでは、手品師のところでのように、判断の混乱が生じ、前後関係がなにか同時のもののように、逆の前後関係のようにすらみえかねないのである。ーーーこうした事象からわれわれは、われわれの理性や悟性の機能が《今なお》思わずあの原始的な推理形式に後もどりしたり、われわれの生涯のほとんど半分をこの状態でくらしたりしているからには、もっと鋭い論理的思考、原因・結果の厳密な取り扱いが《いかに遅れて》発展させられてきたか、ということを推察できる。ーーー詩人や芸術家もまた、自分の気分や状態に、全然ほんとうではない原因を《なすりつける》、そのかぎりで彼は古代の人間を思い出させ、われわれが古代人を理解するたすけとなりうるのである」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・一三・P.36~39」ちくま学芸文庫)
とはいえ。しかし、このような錯覚はなぜ根強く残るのか。もはや取り除くことのできない伝統と化してしまうのだろうか。熊楠はそのメカニズムを人間が眠っているときに見る《夢》に喩えている。相似的なものが際限もなくどんどん圧縮・転移・合成されて出現する過程。しかし人間はそのすべての過程についてほとんど何一つ知ることはできない。フロイトが「夢の作業」と呼んだすべての過程。人間は科学的態度というものについて、もっと謙虚であっていいのではないだろうかと思わずにはいられない。でなければ、出来上がってしまうのはまた、いつものように安易かつ安手な「物語」(ストーリー)でしかない。熊楠は「奇醜のことを奇醜と笑うて、座(ざ)なりに人前をつくろう風よりは、奇醜のことを奇醜とせぬ風を作りたき」と言っている。
「庄内の老人に聞きしは、維新ごろまで、そこでは道祖神の祭りに大なる陽形を作り、その地第一流の大家の若き女房、衆人の見る前でそのさきを吸うまねす、これを望んで各家競争せり。これを見るものも、するものも、一向邪念起こらざりしとのことなり。むかしの人がかかることせしは、おどけにせしあらず、また、し得ることにもあらず。かかることを聞きて笑わぬほどの素養を、せめては学者といわるる輩に与えおきたきことなり。この素養なきときは、あれも野蛮これも未開で、今後いずれの地いずれの民族に入るも、十分に風俗制度の奥所を研究することは成るまじ。要するに、奇醜のことを奇醜と笑うて、座(ざ)なりに人前をつくろう風よりは、奇醜のことを奇醜とせぬ風を作りたきことなり」(南方熊楠「猥雑の肯定、その他」『南方民俗学・P.562』河出文庫)
紀州南端の泰地町は伝統的に捕鯨で栄えた。そこに「鯨恵比寿(くぢらえびす)の宮」があるのには、気が遠くなるほど途方もなく長い地域の歴史的理由があるのである。
「横手(よこて)ぶしといへる小歌の出所(でどころ)を尋ねけるに、紀の路大湊(おほみなと)泰地(たいぢ)といふ里の妻子(つまこ)のうたへり。この所は繁昌(はんじやう)にして、若松村立(むらだ)ちける中に鯨恵比寿(くぢらえびす)の宮をいはひ、鳥井(とりゐ)にその魚(うを)の胴骨(どうぼね)立ちしに、高さ三丈ばかりもありぬべし」(日本古典文学全集「日本永代蔵・卷二・天狗は家名の風車」『井原西鶴集3・P.135~136』小学館)
だから、どこかおかしな風習に見えるからといって、発展途上国に残る古い遺産について、そう簡単に笑って済ましてしまうのは失礼に当たるだろう。オーストラリアには先住民がいたし、台湾にも琉球にもタトゥー文化が残っていた。古代ギリシア・ローマでは「瑪瑙」(めのう)のことを「宝石の燕」と呼んで、東アジアでいう「燕石」、「石燕」、「子安貝」、などと同様のパルマコン=「医薬/毒薬」として祈祷や信仰のためになくてはならない特権的宝物として取り扱っていた。日本ではようやくここ十年ばかりだろう。大学で女性やLGBTがまとまった春画研究に取り組めるようになったのは。一九八〇年代の大学キャンパスといえば、なるほど女子学生が春画研究したければすることもできはしたけれども、周囲の理解は「見た目」に限って、あるように映って見えているだけのことであって、実質的にはほとんどなかったに等しい。
なお、貝原益軒が言及しているものは、熊楠によれば「子安貝」を「鸚鵡貝」と取り違えてしまったらしい。「鸚鵡貝」は江戸時代の浮世草子に登場している。
「北野なる紙細工幾人(いくたり)か俄(にはか)によびよせ、桃の唐花(からはな)をつくらせ、行水(ぎやうずい)に鸚鵡貝(あうむがひ)の盃(さかづき)を流し」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻四・一・情(なさけ)に沈む鸚鵡盃(あふむさかづき)」『井原西鶴集2・P.435』小学館)
この話はこれでまた面白いので機会をみて触れたいと思う。
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「西洋のことはラテン文で俗に分からぬようかき得るも、日本でこの介(かい)、女陰に似たこと誰も知る通りだが、古く明文なし。ようやく忠臣蔵の何とかいう戯曲に、大尽(浅野の弟)大散財するとき、幇間と尻取り文句で遊ぶところに、『仏ももとは凡夫なり』と一人唄うと、他一人がそれを受けて、『凡夫形(なり)たる子安貝』。凡夫はボボの意味なり。それらは小生等が見ると少しも不浄の念が起こらず。そのころ、そんな幼稚なことを言って楽しんだと優(やさ)しく覚える。アラビアの古諺に、『きたなき心のものに清き眼なし』。また『根生の汚なき奴には何ごともきたなく見える』。『維摩経』に、水を、人は水、天は瑠璃、餓鬼は火と見る、とある。あまり不浄不浄という人の根性が反って大不浄と思う。とにかく、かかることすら筆するを得ずとありては、せっかく『燕石考』を書いても肝心のところが骨抜けとなり、書き甲斐がなからん」(南方熊楠「ルーラル・エコノミーについて、柳田批判、その他」『南方民俗学・P.542』河出文庫)
熊楠の諸論文の中で最もまとまった形式を持ったもの。「燕石考」。つい最近まで、なぜ世界中の人々が、多少なりとも「燕石」、「石燕」、「子安貝」、「鸚鵡貝」、などについて、本当に燕がどこかから運んで来て巣に隠しておくものだとか、燕の体内で生成されるものだとか考えていただけでなく、安産や多産、あるいは媚薬としても効果があるなどと信じて疑わなかったのか。迷信を迷信だと認めることができなかったのか。論じるに当たって熊楠は「猥褻」とされる語彙を用いなくては論文を書くことはできないと厳しく指摘している。孫文のロンドン亡命時代、まだ孫逸仙と名乗っていた頃、二人は大英博物館で知り合った。
「私は友人の孫逸仙ーーー『ロンドン幽囚記』の著者ーーーから、広東で豊富に産するが、今では単に少年少女の娯楽の対象になっていると聞いた。日本でも少しも珍しいものではなく、酢貝(すがい)と呼ばれて、子供たちの玩具になっている。しかし、かつては情事に用いられたものらしい。西鶴(十七世紀)は熊野比丘尼が持ち運んで売る品物の主要なものの中に、それを記している」(南方熊楠「燕石考」『南方民俗学・P.383』河出文庫)
この箇所は前にも引いた。
「艫(とも)に、年(とし)がまへなる親仁(おやじ)、居(ゐ)ながら、楫(かぢ)とりて、比丘尼(びくに)は、大かた、浅黄(あさぎ)の木綿布子(もめんぬのこ)に、竜門(りうもん)の中幅帯(ちうはばおび)、まへむすびにして、黒羽二重(くろはぶたへ)の、あたまがくし、深江(ふかゑ)の、お七ざしの加賀笠(かががさ)、うねたび、はかぬといふ事なし、絹(きぬ)のふたのの、すそみじかく、とりなり、ひとつに拵(こしら)へ、文臺(ぶんだい)に入れしは、熊野(くまの)の牛王(ごわう)、酢貝(すがい)、耳(みみ)がしましき四つ竹、小比丘尼(こびくに)に、定(さだ)まりての、一升(せう)びしやく、勧進(くはんじん)といふ声(こゑ)も、引(ひき)きらず、はやり節(ぶし)をうたひ、それに気(き)を取(と)り、外(ほか)より見るも、かまはず、元(もと)ぶねに乗(の)り移(うつ)り、分立(わけた)てて後(のち)、百つなぎの銭(ぜに)を、袂(たもと)へなげ入れけるも、おかし、あるはまた、割木(わりき)を、其あたひに取り、又は、さし鯖(さば)にも替(か)へ、同じ流(なが)れとはいひながら、是を思へば、すぐれて、さもしき業(わざ)なれども、昔日(そのかみ)より、此所(ところ)に目馴れて、おかしからず、人の行(ゆ)くすゑは、更(さら)にしれぬものぞ、我もいつとなく、いたづらの数(かず)つくして、今惜(お)しき黒髪(くろかみ)を剃(そ)りて、高津(たかつ)の宮(みや)の北(きた)にあたり、高原(たかはら)といへる町(まち)に、軒(のき)は笹(ささ)に葺(ふ)きて、幽(かすか)なる奥(おく)に、此道(みち)に身(み)をふれし、おりやうをたのみ、勤(つと)めてかくも、浅(あさ)ましく、なるものかな、雨(あめ)の日、嵐(あらし)のふく日にも、ゆるさず、かうした、あたま役(やく)に、白米(はくまい)一升(せう)に、銭(ぜに)五十、それより、しもづかたの、子(こ)共にも、定(さだ)めて、五合づつ、毎日(まいにち)、取(と)られければ、をのづと、いやしくなりて、むかしは、かかる事には、あらざりしに、近年(きんねん)、遊女(ゆうぢよ)のごとくなりぬ」(井原西鶴「調謔哥船(たはふれのうたぶね)」『好色一代女・卷三・P.107~111』岩波文庫)
さらに、ただ単なる貝がなぜ世界中で信仰の対象となったのか。熊楠は形態Aと形態Bとが著しい類似を示している場合、ただそれだけのことであっても、迷信に過ぎないかも知れない可能性があったとしても、なお予想外に堅固な迷信が生じる場合があると述べる。次のような場合。
「安産の子安貝(カウリー)に関する日本の物語は、その貝の特異な形態に由来している。その形態ゆえに、この貝はヴィーナスに捧げられたのである。そして、邪視に対するお守り、惚れ薬、多産や安産などの効能がこの貝にあるというのは、交感(シンパシー)理論が一般に信じられたからである。これに加えて、古代に広く貨幣として使われたことが、それにほとんど無限の徳目を付与することになった」(南方熊楠「燕石考」『南方民俗学・P.391』河出文庫)
先史時代から人間が取り扱ってきた三つの領域、貨幣と言語と性とに関するものが強烈な類似性を示して《見える》場合、そのとき人間はいともたやすく迷信の荒野へ叩き込まれてしまう。
「われわれの古い時代の祖先たちは、天然の産物で互いによく似たものを、一方は他方の変形だと思い込む習慣が強かった」(南方熊楠「燕石考」『南方民俗学・P.390』河出文庫)
ニーチェはいう。
「《夢の論理》。ーーー睡眠中、たえずわれわれの神経組織は多様な内的誘因によって刺激をうけ、ほとんどあらゆる器官が分泌し活動している。血液は烈しく循環し、睡眠者の姿勢は身体の個々の部分を圧迫し、その掛け布団は感覚にいろいろの影響を与え、胃は消化してその運動で他の器官をさわがせ、内蔵はのたうちまわり、頭の位置は常ならぬ筋肉の状態を伴い、地面を足裏で押していない跣(はだし)の足は、全身のちがった身なりと同様、常ならずという感情をひき起こすーーーこれらすべては、日によって変化や度合がちがうが、その異常性によって全組織を頭脳の機能にいたるまで刺激する、それで精神にとっては、怪しんでこうした刺激の《根拠》を求めるための百の誘因があるわけである、ところが夢は、刺激を受けたあの感覚の原因、すなわち憶断的《原因の探究および表象》なのである。たとえば足を二本の革ひもで巻いている人は、多分二匹の蛇が足にからみついている夢をみるであろう、これははじめは一つの仮定であり、ついで信念となって具象的表象や虚構を伴ってくる、『これらの蛇は、睡眠中のわたしが感じるあの感覚の《原因》であるにちがいない』、ーーーと睡眠者の精神は判断する。こう推論された直前の過去が、刺激を受けた空想力によって、彼には現に在るものとなる。それで夢みる人が、彼に迫ってくる強い物音、たとえば鐘のひびきや砲撃を、いかにすばやく夢の中へ組み入れるかを、つまり彼は夢を出発点として《後から》説明を加えるのであるから、はじめに誘因となる状態を体験し、ついであの物音を体験すると《思いこむ》ことになるのを、だれでも経験から知っている。ーーーしかしながら夢みる人の精神がいつもそのように的(まと)をはずれているのはどうしてだろう、一方同じ精神が目覚めていると、きわめて冷静で用心深く、仮説に関してかくも懐疑的であるのを常としているのに?ーーー或る感情の説明のため、手あたり次第に仮説に甘んじて、すぐその真理を信じてしまうのは?ーーー(なぜならわれわれは、夢の中で夢を、それが現実であるかのように信じる。すなわちわれわれの仮説が完全に証明されたものとみなすのであるから。)ーーーわたしの考えでは、今なお人が夢の中で推理しているようなぐあいに、人類は《目覚めているときにもまた》幾千年を通じて推理したのであった、なにか説明を要するものを説明するために、精神の思いついた最初の《原因》が彼を満足させ、真理として通用したのであった。(旅行者の話によれば、未開人は今日もなおそうしている。)夢の中でわれわれの内部にある人間性のこの太古の部分が訓練をつづけている、なぜならそれは、いっそう高い理性が発展してきてさらに各人のところで発展していくさいの基礎だからである、夢はわれわれを人間文化のずっと以前の諸状態へとふたたびつれもどし、その状態をいっそうよく理解する手段を手渡してくれる。夢想がわれわれに今ではきわめてやさしいのも、われわれが人類のおそろしく長い発展期のうちに、最初の勝手な思いつきからでた空想的な安価なこの説明様式をこそ実にうまく仕込まれてきたからである。そのかぎり夢は、高級文化によって申し立てられているような、思考に対するさらに厳しい要求を、日中は満たさなくてはならない頭脳のための一つの休養である。ーーー類似の事象を、まさに夢の門や玄関として、悟性の醒めているおりでもなお検証することができる。われわれが眼を閉じると、脳髄は一群の光の印象や色彩を産み出す、多分、日中頭脳に侵入しているあらゆるあの光の作用の一種の余波や反響なのであろう。ところが悟性は(空想力と結託して)、それ自身は形のないこの色彩の戯れを、ただちに一定の図形・形態・風景・生物群にしようと細工する。このさいの本当の過程は、またもや結果から原因への一種の推理なのである。どこからこの光の印象や色彩が来るのであるか、と問いながら、精神は、原因としてあの図形や形態を想定する、それらが精神によってあの色彩や光の誘因とみなされるのは、日中眼を開いているさい、どの色彩にもどの光の印象にも誘発的原因をみつけるのに、精神が馴れているからである。したがってここでは空想力は、その産出にあたり日中の視覚印象によりかかりながら、たえず映像を精神に押しつける、そして夢想力もまさにそのとおりにする、ーーーつまり憶断的原因が結果から推論され、結果の《後を追って》表象される、これはすべて異常にすばやく行なわれるので、ここでは、手品師のところでのように、判断の混乱が生じ、前後関係がなにか同時のもののように、逆の前後関係のようにすらみえかねないのである。ーーーこうした事象からわれわれは、われわれの理性や悟性の機能が《今なお》思わずあの原始的な推理形式に後もどりしたり、われわれの生涯のほとんど半分をこの状態でくらしたりしているからには、もっと鋭い論理的思考、原因・結果の厳密な取り扱いが《いかに遅れて》発展させられてきたか、ということを推察できる。ーーー詩人や芸術家もまた、自分の気分や状態に、全然ほんとうではない原因を《なすりつける》、そのかぎりで彼は古代の人間を思い出させ、われわれが古代人を理解するたすけとなりうるのである」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・一三・P.36~39」ちくま学芸文庫)
とはいえ。しかし、このような錯覚はなぜ根強く残るのか。もはや取り除くことのできない伝統と化してしまうのだろうか。熊楠はそのメカニズムを人間が眠っているときに見る《夢》に喩えている。相似的なものが際限もなくどんどん圧縮・転移・合成されて出現する過程。しかし人間はそのすべての過程についてほとんど何一つ知ることはできない。フロイトが「夢の作業」と呼んだすべての過程。人間は科学的態度というものについて、もっと謙虚であっていいのではないだろうかと思わずにはいられない。でなければ、出来上がってしまうのはまた、いつものように安易かつ安手な「物語」(ストーリー)でしかない。熊楠は「奇醜のことを奇醜と笑うて、座(ざ)なりに人前をつくろう風よりは、奇醜のことを奇醜とせぬ風を作りたき」と言っている。
「庄内の老人に聞きしは、維新ごろまで、そこでは道祖神の祭りに大なる陽形を作り、その地第一流の大家の若き女房、衆人の見る前でそのさきを吸うまねす、これを望んで各家競争せり。これを見るものも、するものも、一向邪念起こらざりしとのことなり。むかしの人がかかることせしは、おどけにせしあらず、また、し得ることにもあらず。かかることを聞きて笑わぬほどの素養を、せめては学者といわるる輩に与えおきたきことなり。この素養なきときは、あれも野蛮これも未開で、今後いずれの地いずれの民族に入るも、十分に風俗制度の奥所を研究することは成るまじ。要するに、奇醜のことを奇醜と笑うて、座(ざ)なりに人前をつくろう風よりは、奇醜のことを奇醜とせぬ風を作りたきことなり」(南方熊楠「猥雑の肯定、その他」『南方民俗学・P.562』河出文庫)
紀州南端の泰地町は伝統的に捕鯨で栄えた。そこに「鯨恵比寿(くぢらえびす)の宮」があるのには、気が遠くなるほど途方もなく長い地域の歴史的理由があるのである。
「横手(よこて)ぶしといへる小歌の出所(でどころ)を尋ねけるに、紀の路大湊(おほみなと)泰地(たいぢ)といふ里の妻子(つまこ)のうたへり。この所は繁昌(はんじやう)にして、若松村立(むらだ)ちける中に鯨恵比寿(くぢらえびす)の宮をいはひ、鳥井(とりゐ)にその魚(うを)の胴骨(どうぼね)立ちしに、高さ三丈ばかりもありぬべし」(日本古典文学全集「日本永代蔵・卷二・天狗は家名の風車」『井原西鶴集3・P.135~136』小学館)
だから、どこかおかしな風習に見えるからといって、発展途上国に残る古い遺産について、そう簡単に笑って済ましてしまうのは失礼に当たるだろう。オーストラリアには先住民がいたし、台湾にも琉球にもタトゥー文化が残っていた。古代ギリシア・ローマでは「瑪瑙」(めのう)のことを「宝石の燕」と呼んで、東アジアでいう「燕石」、「石燕」、「子安貝」、などと同様のパルマコン=「医薬/毒薬」として祈祷や信仰のためになくてはならない特権的宝物として取り扱っていた。日本ではようやくここ十年ばかりだろう。大学で女性やLGBTがまとまった春画研究に取り組めるようになったのは。一九八〇年代の大学キャンパスといえば、なるほど女子学生が春画研究したければすることもできはしたけれども、周囲の理解は「見た目」に限って、あるように映って見えているだけのことであって、実質的にはほとんどなかったに等しい。
なお、貝原益軒が言及しているものは、熊楠によれば「子安貝」を「鸚鵡貝」と取り違えてしまったらしい。「鸚鵡貝」は江戸時代の浮世草子に登場している。
「北野なる紙細工幾人(いくたり)か俄(にはか)によびよせ、桃の唐花(からはな)をつくらせ、行水(ぎやうずい)に鸚鵡貝(あうむがひ)の盃(さかづき)を流し」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻四・一・情(なさけ)に沈む鸚鵡盃(あふむさかづき)」『井原西鶴集2・P.435』小学館)
この話はこれでまた面白いので機会をみて触れたいと思う。
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