白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/紀伊のヴィーナス

2020年11月09日 | 日記・エッセイ・コラム
日本ではおそらく知らぬ者のない「竹取物語」。しかしなぜ「子安貝」なのか。

「西洋のことはラテン文で俗に分からぬようかき得るも、日本でこの介(かい)、女陰に似たこと誰も知る通りだが、古く明文なし。ようやく忠臣蔵の何とかいう戯曲に、大尽(浅野の弟)大散財するとき、幇間と尻取り文句で遊ぶところに、『仏ももとは凡夫なり』と一人唄うと、他一人がそれを受けて、『凡夫形(なり)たる子安貝』。凡夫はボボの意味なり。それらは小生等が見ると少しも不浄の念が起こらず。そのころ、そんな幼稚なことを言って楽しんだと優(やさ)しく覚える。アラビアの古諺に、『きたなき心のものに清き眼なし』。また『根生の汚なき奴には何ごともきたなく見える』。『維摩経』に、水を、人は水、天は瑠璃、餓鬼は火と見る、とある。あまり不浄不浄という人の根性が反って大不浄と思う。とにかく、かかることすら筆するを得ずとありては、せっかく『燕石考』を書いても肝心のところが骨抜けとなり、書き甲斐がなからん」(南方熊楠「ルーラル・エコノミーについて、柳田批判、その他」『南方民俗学・P.542』河出文庫)

熊楠の諸論文の中で最もまとまった形式を持ったもの。「燕石考」。つい最近まで、なぜ世界中の人々が、多少なりとも「燕石」、「石燕」、「子安貝」、「鸚鵡貝」、などについて、本当に燕がどこかから運んで来て巣に隠しておくものだとか、燕の体内で生成されるものだとか考えていただけでなく、安産や多産、あるいは媚薬としても効果があるなどと信じて疑わなかったのか。迷信を迷信だと認めることができなかったのか。論じるに当たって熊楠は「猥褻」とされる語彙を用いなくては論文を書くことはできないと厳しく指摘している。孫文のロンドン亡命時代、まだ孫逸仙と名乗っていた頃、二人は大英博物館で知り合った。

「私は友人の孫逸仙ーーー『ロンドン幽囚記』の著者ーーーから、広東で豊富に産するが、今では単に少年少女の娯楽の対象になっていると聞いた。日本でも少しも珍しいものではなく、酢貝(すがい)と呼ばれて、子供たちの玩具になっている。しかし、かつては情事に用いられたものらしい。西鶴(十七世紀)は熊野比丘尼が持ち運んで売る品物の主要なものの中に、それを記している」(南方熊楠「燕石考」『南方民俗学・P.383』河出文庫)

この箇所は前にも引いた。

「艫(とも)に、年(とし)がまへなる親仁(おやじ)、居(ゐ)ながら、楫(かぢ)とりて、比丘尼(びくに)は、大かた、浅黄(あさぎ)の木綿布子(もめんぬのこ)に、竜門(りうもん)の中幅帯(ちうはばおび)、まへむすびにして、黒羽二重(くろはぶたへ)の、あたまがくし、深江(ふかゑ)の、お七ざしの加賀笠(かががさ)、うねたび、はかぬといふ事なし、絹(きぬ)のふたのの、すそみじかく、とりなり、ひとつに拵(こしら)へ、文臺(ぶんだい)に入れしは、熊野(くまの)の牛王(ごわう)、酢貝(すがい)、耳(みみ)がしましき四つ竹、小比丘尼(こびくに)に、定(さだ)まりての、一升(せう)びしやく、勧進(くはんじん)といふ声(こゑ)も、引(ひき)きらず、はやり節(ぶし)をうたひ、それに気(き)を取(と)り、外(ほか)より見るも、かまはず、元(もと)ぶねに乗(の)り移(うつ)り、分立(わけた)てて後(のち)、百つなぎの銭(ぜに)を、袂(たもと)へなげ入れけるも、おかし、あるはまた、割木(わりき)を、其あたひに取り、又は、さし鯖(さば)にも替(か)へ、同じ流(なが)れとはいひながら、是を思へば、すぐれて、さもしき業(わざ)なれども、昔日(そのかみ)より、此所(ところ)に目馴れて、おかしからず、人の行(ゆ)くすゑは、更(さら)にしれぬものぞ、我もいつとなく、いたづらの数(かず)つくして、今惜(お)しき黒髪(くろかみ)を剃(そ)りて、高津(たかつ)の宮(みや)の北(きた)にあたり、高原(たかはら)といへる町(まち)に、軒(のき)は笹(ささ)に葺(ふ)きて、幽(かすか)なる奥(おく)に、此道(みち)に身(み)をふれし、おりやうをたのみ、勤(つと)めてかくも、浅(あさ)ましく、なるものかな、雨(あめ)の日、嵐(あらし)のふく日にも、ゆるさず、かうした、あたま役(やく)に、白米(はくまい)一升(せう)に、銭(ぜに)五十、それより、しもづかたの、子(こ)共にも、定(さだ)めて、五合づつ、毎日(まいにち)、取(と)られければ、をのづと、いやしくなりて、むかしは、かかる事には、あらざりしに、近年(きんねん)、遊女(ゆうぢよ)のごとくなりぬ」(井原西鶴「調謔哥船(たはふれのうたぶね)」『好色一代女・卷三・P.107~111』岩波文庫)

さらに、ただ単なる貝がなぜ世界中で信仰の対象となったのか。熊楠は形態Aと形態Bとが著しい類似を示している場合、ただそれだけのことであっても、迷信に過ぎないかも知れない可能性があったとしても、なお予想外に堅固な迷信が生じる場合があると述べる。次のような場合。

「安産の子安貝(カウリー)に関する日本の物語は、その貝の特異な形態に由来している。その形態ゆえに、この貝はヴィーナスに捧げられたのである。そして、邪視に対するお守り、惚れ薬、多産や安産などの効能がこの貝にあるというのは、交感(シンパシー)理論が一般に信じられたからである。これに加えて、古代に広く貨幣として使われたことが、それにほとんど無限の徳目を付与することになった」(南方熊楠「燕石考」『南方民俗学・P.391』河出文庫)

先史時代から人間が取り扱ってきた三つの領域、貨幣と言語と性とに関するものが強烈な類似性を示して《見える》場合、そのとき人間はいともたやすく迷信の荒野へ叩き込まれてしまう。

「われわれの古い時代の祖先たちは、天然の産物で互いによく似たものを、一方は他方の変形だと思い込む習慣が強かった」(南方熊楠「燕石考」『南方民俗学・P.390』河出文庫)

ニーチェはいう。

「《夢の論理》。ーーー睡眠中、たえずわれわれの神経組織は多様な内的誘因によって刺激をうけ、ほとんどあらゆる器官が分泌し活動している。血液は烈しく循環し、睡眠者の姿勢は身体の個々の部分を圧迫し、その掛け布団は感覚にいろいろの影響を与え、胃は消化してその運動で他の器官をさわがせ、内蔵はのたうちまわり、頭の位置は常ならぬ筋肉の状態を伴い、地面を足裏で押していない跣(はだし)の足は、全身のちがった身なりと同様、常ならずという感情をひき起こすーーーこれらすべては、日によって変化や度合がちがうが、その異常性によって全組織を頭脳の機能にいたるまで刺激する、それで精神にとっては、怪しんでこうした刺激の《根拠》を求めるための百の誘因があるわけである、ところが夢は、刺激を受けたあの感覚の原因、すなわち憶断的《原因の探究および表象》なのである。たとえば足を二本の革ひもで巻いている人は、多分二匹の蛇が足にからみついている夢をみるであろう、これははじめは一つの仮定であり、ついで信念となって具象的表象や虚構を伴ってくる、『これらの蛇は、睡眠中のわたしが感じるあの感覚の《原因》であるにちがいない』、ーーーと睡眠者の精神は判断する。こう推論された直前の過去が、刺激を受けた空想力によって、彼には現に在るものとなる。それで夢みる人が、彼に迫ってくる強い物音、たとえば鐘のひびきや砲撃を、いかにすばやく夢の中へ組み入れるかを、つまり彼は夢を出発点として《後から》説明を加えるのであるから、はじめに誘因となる状態を体験し、ついであの物音を体験すると《思いこむ》ことになるのを、だれでも経験から知っている。ーーーしかしながら夢みる人の精神がいつもそのように的(まと)をはずれているのはどうしてだろう、一方同じ精神が目覚めていると、きわめて冷静で用心深く、仮説に関してかくも懐疑的であるのを常としているのに?ーーー或る感情の説明のため、手あたり次第に仮説に甘んじて、すぐその真理を信じてしまうのは?ーーー(なぜならわれわれは、夢の中で夢を、それが現実であるかのように信じる。すなわちわれわれの仮説が完全に証明されたものとみなすのであるから。)ーーーわたしの考えでは、今なお人が夢の中で推理しているようなぐあいに、人類は《目覚めているときにもまた》幾千年を通じて推理したのであった、なにか説明を要するものを説明するために、精神の思いついた最初の《原因》が彼を満足させ、真理として通用したのであった。(旅行者の話によれば、未開人は今日もなおそうしている。)夢の中でわれわれの内部にある人間性のこの太古の部分が訓練をつづけている、なぜならそれは、いっそう高い理性が発展してきてさらに各人のところで発展していくさいの基礎だからである、夢はわれわれを人間文化のずっと以前の諸状態へとふたたびつれもどし、その状態をいっそうよく理解する手段を手渡してくれる。夢想がわれわれに今ではきわめてやさしいのも、われわれが人類のおそろしく長い発展期のうちに、最初の勝手な思いつきからでた空想的な安価なこの説明様式をこそ実にうまく仕込まれてきたからである。そのかぎり夢は、高級文化によって申し立てられているような、思考に対するさらに厳しい要求を、日中は満たさなくてはならない頭脳のための一つの休養である。ーーー類似の事象を、まさに夢の門や玄関として、悟性の醒めているおりでもなお検証することができる。われわれが眼を閉じると、脳髄は一群の光の印象や色彩を産み出す、多分、日中頭脳に侵入しているあらゆるあの光の作用の一種の余波や反響なのであろう。ところが悟性は(空想力と結託して)、それ自身は形のないこの色彩の戯れを、ただちに一定の図形・形態・風景・生物群にしようと細工する。このさいの本当の過程は、またもや結果から原因への一種の推理なのである。どこからこの光の印象や色彩が来るのであるか、と問いながら、精神は、原因としてあの図形や形態を想定する、それらが精神によってあの色彩や光の誘因とみなされるのは、日中眼を開いているさい、どの色彩にもどの光の印象にも誘発的原因をみつけるのに、精神が馴れているからである。したがってここでは空想力は、その産出にあたり日中の視覚印象によりかかりながら、たえず映像を精神に押しつける、そして夢想力もまさにそのとおりにする、ーーーつまり憶断的原因が結果から推論され、結果の《後を追って》表象される、これはすべて異常にすばやく行なわれるので、ここでは、手品師のところでのように、判断の混乱が生じ、前後関係がなにか同時のもののように、逆の前後関係のようにすらみえかねないのである。ーーーこうした事象からわれわれは、われわれの理性や悟性の機能が《今なお》思わずあの原始的な推理形式に後もどりしたり、われわれの生涯のほとんど半分をこの状態でくらしたりしているからには、もっと鋭い論理的思考、原因・結果の厳密な取り扱いが《いかに遅れて》発展させられてきたか、ということを推察できる。ーーー詩人や芸術家もまた、自分の気分や状態に、全然ほんとうではない原因を《なすりつける》、そのかぎりで彼は古代の人間を思い出させ、われわれが古代人を理解するたすけとなりうるのである」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・一三・P.36~39」ちくま学芸文庫)

とはいえ。しかし、このような錯覚はなぜ根強く残るのか。もはや取り除くことのできない伝統と化してしまうのだろうか。熊楠はそのメカニズムを人間が眠っているときに見る《夢》に喩えている。相似的なものが際限もなくどんどん圧縮・転移・合成されて出現する過程。しかし人間はそのすべての過程についてほとんど何一つ知ることはできない。フロイトが「夢の作業」と呼んだすべての過程。人間は科学的態度というものについて、もっと謙虚であっていいのではないだろうかと思わずにはいられない。でなければ、出来上がってしまうのはまた、いつものように安易かつ安手な「物語」(ストーリー)でしかない。熊楠は「奇醜のことを奇醜と笑うて、座(ざ)なりに人前をつくろう風よりは、奇醜のことを奇醜とせぬ風を作りたき」と言っている。

「庄内の老人に聞きしは、維新ごろまで、そこでは道祖神の祭りに大なる陽形を作り、その地第一流の大家の若き女房、衆人の見る前でそのさきを吸うまねす、これを望んで各家競争せり。これを見るものも、するものも、一向邪念起こらざりしとのことなり。むかしの人がかかることせしは、おどけにせしあらず、また、し得ることにもあらず。かかることを聞きて笑わぬほどの素養を、せめては学者といわるる輩に与えおきたきことなり。この素養なきときは、あれも野蛮これも未開で、今後いずれの地いずれの民族に入るも、十分に風俗制度の奥所を研究することは成るまじ。要するに、奇醜のことを奇醜と笑うて、座(ざ)なりに人前をつくろう風よりは、奇醜のことを奇醜とせぬ風を作りたきことなり」(南方熊楠「猥雑の肯定、その他」『南方民俗学・P.562』河出文庫)

紀州南端の泰地町は伝統的に捕鯨で栄えた。そこに「鯨恵比寿(くぢらえびす)の宮」があるのには、気が遠くなるほど途方もなく長い地域の歴史的理由があるのである。

「横手(よこて)ぶしといへる小歌の出所(でどころ)を尋ねけるに、紀の路大湊(おほみなと)泰地(たいぢ)といふ里の妻子(つまこ)のうたへり。この所は繁昌(はんじやう)にして、若松村立(むらだ)ちける中に鯨恵比寿(くぢらえびす)の宮をいはひ、鳥井(とりゐ)にその魚(うを)の胴骨(どうぼね)立ちしに、高さ三丈ばかりもありぬべし」(日本古典文学全集「日本永代蔵・卷二・天狗は家名の風車」『井原西鶴集3・P.135~136』小学館)

だから、どこかおかしな風習に見えるからといって、発展途上国に残る古い遺産について、そう簡単に笑って済ましてしまうのは失礼に当たるだろう。オーストラリアには先住民がいたし、台湾にも琉球にもタトゥー文化が残っていた。古代ギリシア・ローマでは「瑪瑙」(めのう)のことを「宝石の燕」と呼んで、東アジアでいう「燕石」、「石燕」、「子安貝」、などと同様のパルマコン=「医薬/毒薬」として祈祷や信仰のためになくてはならない特権的宝物として取り扱っていた。日本ではようやくここ十年ばかりだろう。大学で女性やLGBTがまとまった春画研究に取り組めるようになったのは。一九八〇年代の大学キャンパスといえば、なるほど女子学生が春画研究したければすることもできはしたけれども、周囲の理解は「見た目」に限って、あるように映って見えているだけのことであって、実質的にはほとんどなかったに等しい。

なお、貝原益軒が言及しているものは、熊楠によれば「子安貝」を「鸚鵡貝」と取り違えてしまったらしい。「鸚鵡貝」は江戸時代の浮世草子に登場している。

「北野なる紙細工幾人(いくたり)か俄(にはか)によびよせ、桃の唐花(からはな)をつくらせ、行水(ぎやうずい)に鸚鵡貝(あうむがひ)の盃(さかづき)を流し」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻四・一・情(なさけ)に沈む鸚鵡盃(あふむさかづき)」『井原西鶴集2・P.435』小学館)

この話はこれでまた面白いので機会をみて触れたいと思う。

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熊楠による熊野案内/神々の生態系

2020年11月09日 | 日記・エッセイ・コラム
学術調査の手間暇を惜しんでいてはとんでもない間違いを間違いと気づかず世界中に錯覚を起こさせたまま放置してしまうことになる。一大事ではないかと熊楠はいう。

「此通り俺(わし)の画いたのは三色もある。此『図譜』のやうに一色では無いのぢや。生えてある時の色と採収後の色とがいろいろ此通り変つて来るのだから『図譜』の通り信じて居ると大間違いが起る。学問上の事は、ちよつとの事でも世界中に大影響を及ぼすから注意せにやならぬ。白井博士を経て訂正方を頼みに来て居るから、ヒマヒマに間違つたやつを調べて訂正し漏れたやつを補ふてやるつもりぢや。マダマダ我国の政府者なぞは学問上の事に就ては本当の趣味が無いやうぢや」(南方熊楠「粘菌学より見たる田辺及台場公園保存論」『森の思想・P.365』河出文庫)

とりわけ政治に関わる人々は広大な領域に渡る専門的知識を欠いたまま平然と国政について論じているようだが危険過ぎて見ていられないというわけだ。例えば、宇治拾遺物語に次の説話が掲載されている。昔のこと、越前国に伊良縁の世恆(よつね)という男性が暮らしていた。日頃から毘沙門を信心していた。食べる物に困ったとき毘沙門へ行って「助けて下さい」というと神秘的な女性が現われて幾らかの食料を与えてくれた。ありがたいと思い欲しいときに限り少しずつ食べることにしてみると半月ほど不自由せずに済んだ。しばらくしてまた食うに困ったので再び毘沙門へ赴くとこの前の女性が現われて「下文」(くだしぶみ)を持たせてくれた。そしていう。「北の谷峯百町を越えて中に高き峯あり。それにたちて《なりた》とよばば、ものいできなん。それにこのふみを見せて、たてまつらん物をうけよ」とのこと。世恆は言われた通りに行ってみると「額に角(つの)おひて目一(めひとつ)ある物、あかきたふさきしたる物出来(いでき)て、ひざまづきてゐたり」。一つ目の鬼が出てきた。鬼に下文を見せると「二斗」と書いてあるが「一斗」だなと言って納得した様子で「一斗」の米を手渡してくれた。世恆は「その入(いれ)たる袋の米をつかふに、一斗つきせざりけり。千萬石とれども、只同じやうにて一斗はうせざりけり」。一斗使うたびにまた一斗の米が出てくる。少しずつ使っているうちにとうとう千萬石に達したがまた同じように一斗づつ出てきて必ず一斗だけは残るようになっている。

「『これくだしぶみたてまつらん。これより北の谷峯百町を越えて中に高き峯あり。それにたちて《なりた》とよばば、ものいできなん。それにこのふみを見せて、たてまつらん物をうけよ』といひていぬ。このくだし文(ぶみ)をみれば、『米二斗わたすべし』とあり。やがてそのまま行て見ければ、実(まこと)に高き峯あり、それにて『なりた』とよべば、おそろしげなるこゑにて、いらへて出(いで)きたる物あり。みれば額に角(つの)おひて目一(めひとつ)ある物、あかきたふさきしたる物出来(いでき)て、ひざまづきてゐたり。『これ御下文(くだしぶみ)なり。此米えさせよ』といへば、『さる事候』とて下文をみて、『是は《二斗》と候へども、《一斗をたてまつれ》となん候(さぶらひ)つる也』とて、一斗をぞとらせたりける。そのままに請取(うけとり)て歸て、その入(いれ)たる袋の米をつかふに、一斗つきせざりけり。千萬石とれども、只同じやうにて一斗はうせざりけり」(「宇治拾遺物語・巻第十五・七・伊良縁世恆給毗沙門御下文事・P.125」角川文庫)

やがて、その話を聞きつけた国守がその袋をよこせと言ってきた。断れない立場なので譲渡した。ところが国守が使ってみたところ、百石取ったところでもう何も出てこなくなった。つまらなく思った国守は世恆に袋を返してやった。世恆の手元に戻ってきた謎の袋。世恆はまた以前と同じように一斗ごとに使い始めた。すると米は再び一斗用いればまた一斗ずつ出てくるようになり、後々「えもいはぬ長者」になったという話。仏教説話だという固定観念がある限り、この話の意味は極めて狭い範疇の逸話で終わってしまう。そうではなく、柳田國男は或る神が別の神へ手紙を送るために規則的かつ実直に平均値を守る生活様式を持している人間を利用した、と解釈した。

「神から神へ手紙を送るのに人間の手を借りたというのも、古くからの話である」(柳田國男「一目小僧その他・橋姫」『柳田國男全集6・P.354』ちくま文庫)

この説話には「額に角(つの)おひて目一(めひとつ)ある物、あかきたふさきしたる物」が出てくる。「たふさき」は「褌」(ふんどし)のこと。そして角(つの)を持つ。明らかに鬼神の一種として見ることができる。とすれば、神話の世界の常道として、一方の神がもう一方の神へ或る連絡を取り継がせるために人間を活用したと考えるわけだ。

「一目小僧は多くの『おばけ』と同じく、本拠を離れ系統と失った昔の小さい神である。見た人が次第に少なくなって、文字通りの一目に画をかくようにはなったが、実は一方の目を潰された神である。大昔いつの代にか、神様の眷属にするつもりで、神様の祭の日に人を殺す風習があった。おそらくは最初は逃げてもすぐ捉まるように、その候補者の片目を潰し足を一本折っておいた。そうして非常にその人を優遇しかつ尊敬した。犠牲者の方でも、死んだら神になるという確信がその心を高尚にし、よく神託予言を宣明(せんみょう)することを得たので勢力が生じ、しかも多分は本能のしからしむるところ、殺すには及ばぬという託宣もしたかも知れぬ。とにかくいつの間にかそれが罷(や)んで、ただ目を潰す式だけがのこり、栗の毬(いが)や松の葉、さては箭に矧(は)いで左の目を射た麻、胡麻その他の草木に忌が掛かり、これを神聖にして手触るべからざるものと考えた。目を一つにする手続もおいおい無用とする時代は来たが、人以外の動物に向っては大分後代までなお行われ、一方にはまた以前の御霊の片目であったことを永く記憶するので、その神が主神の統御を離れてしまって、山野道路を漂泊することになると、怖ろしいことこの上なしとせざるを得なかったのである」(柳田國男「一目小僧その他・二十一」『柳田國男全集6・P.267~268』ちくま文庫)

仏教説話の仮面を民俗学の立場から読み直すとその種の神話に類別することが可能だ。ただ単に食料の大切さや国家の役人の横暴を戒めるための話とはがらりと異なる様相を覗かせる。専門家とはそう読解できる研究者のことを指していうのだ。熊楠は実にしばしば政治に携わる人々のことをあしざまに罵っている。何一つ知らない固定観念だけで研究者の専門領域へ勝手に口出しするな、馬鹿丸出しだぞ、というわけだ。

熊楠の愛読書「御伽草子」から、続き。

僧侶姿で夢に現われた鼠。猫解放令によって生じた鼠族の苦境を切々と訴える。とはいえ、僧侶は常日頃の鼠の行動について手放しで同意してやるわけにもいかない。考えてみるが、いつもの行動が行動だけに味方するわけにはいかない。こんなことやあんなことをしている。そのような態度を改めないかぎり鼠の側に立ってくれる人間はまず見当たらないだろうと諭す。「六條(ろくでう)」は京の六条で造られる六条豆腐(とうふ)のこと。

「檀那(だんな)をもてなさんとて、煎豆(いりまめ)、坐禅豆(ざぜんまめ)をたしなみをけば、一夜(や)の中(うち)にみなになし、袈裟(けさ)、衣(ころも)ともいはず、扇(あふぎ)、物の本(ほん)、はりつけ屏風(びやうぶ)、かき餅(もち)、六條(ろくでう)などをたまらせず、いかなる柔和忍辱(にうわにんにく)の阿闍梨(あじやり)なり共(とも)、命をたちたきこと勿論也(もちろんなり。いはんや大俗(ぞく)の身にては道理至極(だうりしごく)せり」(日本古典文学体系「猫のさうし」『御伽草子・P.300』岩波書店)

僧侶姿の鼠もまた、若い鼠たちがなかなか言うことを聞いてくれないので悩んではいるのですと述べて、いったん夢は覚める。その翌日の夜。今度は虎猫が夢に出現した。猫族の日本来歴を滔々と語って申し述べる。

「延喜(えんぎ)のみかどの御代(みよ)より、御寵愛(てうあひ)有(り)て、柏木(かしはぎ)のもと、下簾(したすだれ)の内(うち)に置(お)き給ふ。又後白河(ごしらかは)の法皇(はうわう)の御時より、綱(つな)を付(つき)て腰(こし)もとに置(をき)給ふ。綱(つな)のつきたる故(ゆへ)に、一寸先(さき)を鼠(ねずみ)徘徊(はいくわい)するといへども、心ばかりにて、とりつくことならず。湯水(ゆみず)のたべたき時も、のどをならし聲(こゑ)を出(いだ)して、たべたけれ共(ども)、頭(あたま)をはり、痛(いた)めらるれば是非(ぜひ)なし。ことばを通(つう)ずといへども、天竺(てんぢく)の梵語(ぼんご)なれば、大和人(やまとびと)の聞知(ききしる)ことなし。大略(たいりやく)繋(つな)ぎ殺(ころ)さるるばかりなり。にうがくの御慈悲(じひ)、廣大(くわうだい)にて、賤(しづ)が伏屋(ふせや)に月の宿(やど)り給うが如(ごと)く、猫風情(ねこふぜい)までに御心をつけさせ給ひ、綱(つな)を解(と)き、苦(く)を許(ゆる)さるること有(あり)がたき御こと也。此君(きみ)の御代(みよ)、五百八十年の御齢(よはひ)をたもち給へと、朝日(あさひ)に向(むか)つて余念なう、のんどを鳴(な)らし拝(おが)み申(す)なり」(日本古典文学体系「猫のさうし」『御伽草子・P.302』岩波書店)

言われてみればなるほど「延喜(えんぎ)のみかどの御代(みよ)より、御寵愛(てうあひ)」ではある。「柏木(かしはぎ)のもと、下簾(したすだれ)の内(うち)に置(お)き給ふ」エピソードは「源氏物語・若菜上」の巻にある。唐から輸入された猫の高級種が御簾の内から走り出てきたため御簾の端がわずかに開き、ゆえに柏木は常から直接会いたいと思っていた女三宮の姿を御簾越しにでなくはっきりと目にすることができた。

「唐猫(からねこ)のいとちひさくをかしげなるを、すこし大(おほ)きなる猫(ねこ)おひつづきて、にはかに御簾(みす)のつまより走(はし)り出(い)づるに、人々おびえさわぎて、そよそよとみじろきさまよふけはひども、衣(きぬ)のをとなひ、耳(みみ)かしかましき心(ここ)ちす。猫は、まだよく人にもなつかぬにや、綱(つな)いと長(なが)くつきたりけるを、ものに引(ひ)きかけまつはれにけるを、逃(に)げんとひこしろふほどに、御簾(みす)のそばいとあらはに引(ひ)きあけられたるを、とみに引(ひ)きなをす人もなし。この柱(はしら)のもとにありつる人々(ひとびと)も心あわたたしげにて、物おぢしたるけはひどもなり。木丁(きちやう)の際(きは)すこし入(い)りたる程(ほど)に、袿姿(うちきすがた)にて立(た)ち給へる人あり。階(はし)より西(にし)の二の間(ま)の東(ひんがし)のそばなれば、まぎれ所もなくあらはに見入(みい)れらる」(新日本古典文学大系「若菜上」『源氏物語3・P.296』岩波書店)

しかし一般的に猫はいつも綱に繋がれたままなので思うように行動できず、繋がれたまま生涯を終えることになる。しかしこのたび思いがけず綱から解放されることになった。われわれ猫一同は大変悦んでいるのです、と。鼠族の切実な訴えを聞いたばかりの僧侶はいう。それにしても殺生はいけない。食べ物を変えてみてはどうか。例えば「鰹魚(かつうを)をまぜて與(あた)へ、また折々(おりおり)は、田作(たつくり)に鯡(にしん)、乾鮭(からざけ)などを、朝夕(てうせき)の餌食(ゑじき)」としてみては、と。

「殺生(せつしやう)をやめられ候へ。其方(そのほう)の食物(しよくぶつ)には、供御(ぐご)に鰹魚(かつうを)をまぜて與(あた)へ、また折々(おりおり)は、田作(たつくり)に鯡(にしん)、乾鮭(からざけ)などを、朝夕(てうせき)の餌食(ゑじき)には、いかが」(日本古典文学体系「猫のさうし」『御伽草子・P.302~303』岩波書店)

虎猫は反論する。おっしゃる通りかと思われますが、しかし、人間さまは人間さまがそうしたいと思うようにご飯を頂き食欲ばかりか精神状態をも満たしていらっしゃる。同様に猫族もまた、「天道(てんたう)より、食物(しょくぶつ)に與(あた)へ下(くだ)され候故(ゆへ)に、鼠(ねずみ)をたべ候へば、無病(むびやう)にして飛歩(とびあり)くこと、鳥(とり)にも劣(おと)るまじき」というべきであり、また「ゆるゆると昼寝(ひるね)を仕(つかまつ)るのも、鼠(ねずみ)をたべんと存(ぞん)ずるため」のこと。長いあいだそうしてきました。それを今になって突然やめろといわれましても同意は困難、どうぞ考えても見てくださいと。

「御諚(ぢやう)の如(ごと)くにては候へども、まづまづ案(あん)じても御覧(らん)ぜられ候へ。人間(にんげん)は米(よね)をもつてこそ、五臓六腑(ぞうろつぷ)をととのへ、足手(あして)達者に利口(りこう)をものたまへ。山海(さんかい)の珍物(ちんぶつ)は、飯(はん)をすすめんがためなりと承(うけたまは)り候へば、われわれもその如(ごと)く、天道(てんたう)より、食物(しょくぶつ)に與(あた)へ下(くだ)され候故(ゆへ)に、鼠(ねずみ)をたべ候へば、無病(むびやう)にして飛歩(とびあり)くこと、鳥(とり)にも劣(おと)るまじきと存(ぞん)じ候なり。またゆるゆると昼寝(ひるね)を仕(つかまつ)るのも、鼠(ねずみ)をたべんと存(ぞん)ずるためなり。しかるを今(いま)より堪忍(かんにん)のこと、同心(どうしん)申(し)がたし、御分別(ふんべつ)候へ」(日本古典文学体系「猫のさうし」『御伽草子・P.303』岩波書店)

第二の夢はそこで終わる。僧侶はどうしたものかと考え込んでしまう。

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