長者伝説、花咲爺系列、それらは様々なヴァリエーションを持つが、一様に共通する特徴について柳田國男はこう述べる。
「奥州の花咲爺は、花咲かせとの対照のために、我々は雁取爺という方の名を採用しているが、実地には上の爺下の爺、もしくは是と似よりの名を以て記憶せられるものが多く、既にアイヌの中にまでも、この名の昔話が数多く入込んでいるそうである。元来は善悪二組の爺婆が、一方は幸運に恵まれて家富み栄え、他方はすべてがその逆を行って破滅する話の、全部を総括する名称だったかも知れぬが、その中でも特にこの犬の子を川から拾い上げる話が、そう呼ぶのに似つかわしかったと見えて、現在はほぼ是一つに限られている」(柳田國男「昔話と文學・花咲爺」『柳田國男集・第六巻・P.209~210』筑摩書房)
柳田による要点は次に列挙された通り。
「一、上下ふたりの爺は、春になって川に簗を掛ける。上の爺の簗に小さな白犬が流れて来る。上の爺は無慈悲でそれを取って投げると、今度は下の爺の簗に行って掛かる。下の爺は拾って還って可愛がって育てる。岩手県の一例には木の株が一つ流れて来たというのがある。それを下の爺が拾って還って割ろうとすると、中から声をかけて子犬が出て来たとも謂っている。越後南蒲原では婆が洗濯をしていると、香箱が流れて来てその中にえのころがいたといい、越の上新郡のは流れて来たのは大きな桃で、それを持って来て臼の中にしまって置くと、いつの間にか子犬になっていたとも謂う。
二、その子犬はちょっとの間に大きくなる。一ぱい食わせれば一ぱいだけ、二はい食わせれば二はいだけ大きくなったとも謂えば、碗で食わせると碗だけおがり、皿で食わせれば皿だけおがったとも謂って、色々の形容で急激の成長ぶりと説いているのである。
三、その犬が大きくなってから、山へ鹿捕りに爺を誘うて行く。鉈も小ダスも弁当も爺様もみんな背なかへ載せて行くというところに、子供の面白がりそうな犬と爺とのか数回の問答がある。
四、それから山に入って、喜界島などよりは又ずっと大がかりな狩猟が行われる。あっちの山の鹿も来い、こっちの山の鹿も来いという類の呪文の詞を、犬が自ら唱えたというのと、爺に教えて唱えさせたという例と二つあるが、とにかくにこれによって莫大な獲物をもって還って来るのである。
五、上の爺がそれを羨んで、強いて犬を借りて同じ事を試み、尽く失敗する條は他の話も同じく、怒って犬を叩き殺して山に埋めると、そこから樹が生えて急激に成長する。それを臼に听るから松の木といっている例もあるが、コメの木となっていいる方が話は面白い。コメの方は方言で、土地によって木は一定せぬが、とにかく灌木で臼などになる木ではないからである。
六、その木を臼に窪めて、唱えごとをいつしつ物を搗くと、金銀又は米が際限もなく涌き出す。上の爺が借りて試みて又失敗し、怒って焚いてしまって灰になるまでは亦他の話と近い。
七、ただ最終の灰の利用だけがちがっているのである。人の善い下の爺は灰を籠に入れて、風の吹く日に屋根に上って待っていると、雁の一群がグェグェと鳴いて通って行く。ここでも『雁の眼わあぐ(灰)入れ、爺の眼わあぐ入んな』と唱え言をして灰を撒くと、果してばたばたと雁が空から落ちて来る。例の真似爺は呪文を取りちがえたので、自分の眼へ灰が入ってころころと屋根から転げ落ちる。それを婆がいたに待構えていて、雁だと思って棒で打つというのがおしまいで、粗野だと言えばまあ大文粗野な話である」(柳田國男「昔話と文學・花咲爺」『柳田國男集・第六巻・P.210~211』筑摩書房)
単純だといえば言える。ところが今のように世界が安易にネットで繋がってしまえるような時代でなかった点で、当時はのっぴきならない重要性を担っていた。
「一層解にくかったのは鹿取りの呪文で、下の爺が『あっちのスガリもこっちや来う、こっちのスガリもこっちや来う』というと、鹿がびんぐりびんぐりと走り集まって来る。上の爺が真似をして同じ呪文を唱えると、四方の蜂が飛んで来て爺を螯したというに至っては、このスガリという奥州の方言が、鹿を意味し同時に地蜂を意味し、相違はただ僅かの音抑揚の差にあったとすると、これは座頭か何かの口で話す昔話だけに、保存し得るような微妙なるユウモアである」(柳田國男「昔話と文學・花咲爺」『柳田國男集・第六巻・P.212』筑摩書房)
説話が説話だけで完結していたならなるほど「ユーモア」で済ませることもできた。ところが単なる駄洒落ではとても済まされない伝達技術を持っていた(「僅かの音抑揚の差にあった」)のが、何を隠そう「座頭・歌比丘尼」らであった。今なお日本各地に散在する歴史的実態は彼らの存在なしにけっして見えてこない。彼らはその職業ゆえに賤視された。ところが賤視されると同時に神人とも考えられ崇められた。彼らは日本列島とその歴史の中に埋れたパルマコン(医薬/毒薬)として近代日本の成立とともにその聖性を剥奪されていった。彼らが常に楽器を手放さなかったことはもっと重要な点として考察されてよい。
「日本の文藝の中には、表現の方法そのものが、特にフォクロアの性質を十分に帯びているものが多いことは、座頭や歌比丘尼の例がよく示している」(柳田國男「口承文藝史考・文藝とフォクロア・五」『柳田國男集・第六巻・P.150』筑摩書房)
さて、熊楠の愛読書、西鶴「男色大鑑」から続き。
同じ頃に召し抱えられた細野主膳という人物がいた。武勇は誇りにしているのは勝手だが、いつも刀の柄をがちゃがちゃと鳴らし歩いて周囲に脅しをかけているように見えるので疎まれていた。
「近きころほひに召し出(いだ)されし細野主膳(ほそのしゆぜん)とて、勇みを先として朝夕太刀(たち)の柄(つか)をならせば、人皆うとみ果てける」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.415』小学館)
その細野主膳が右京に懸想した。右京はすでに采女と愛を交わそうと契りの手紙を見せあった仲だ。にもかかわらず、ずかずかと近づきあれこれしつこく口説いてくる細野主膳の声が「蝉の耳かしましき」かのように感じられ鬱陶しく思う。そこに頼まれもしないのに、節木松斎という茶坊主が細野と右京との間を取り持ってやろうとしゃしゃり出てきた。右京に近づき「命を懸けて情(なさけ)の御返事」を細野へやってはもらえまいかと話しかける。右京は松斎に向かってすぐさま言う。「法師の役は羽箒(はばはき)にて塵埃(ちりほこり)の心駆けあるべし。無用の媒(なかだち)なり。この文も壺(つぼ)のつめにもなりぬべき」。もはや戦国の世は終わっている。千利休のような本格派の茶人がいるわけでもない。ましてや人の心の機微をよく考えてみもしないで、はったり半分で刀の音を鳴らしながら他人の愛人に近寄ってくる人間の間に割り込んで両者の気持ちを取り持とうなどと。何を考えているのか。茶坊主はもっと本来の茶道の何たるかを学んでみるべきではないか。そうでなくてはせっかくの茶壺の意味をわからないだろう。と、そっけなく答えた。
「節木松斎(ふしきしようさい)とて、茶流(さりう)の調度を預けおかせ給ふ坊主、この恋を請(う)け取(と)り、『命を懸けて情(なさけ)の御返事』と申せば、右京うち笑ひて、『法師の役は羽箒(はばはき)にて塵埃(ちりほこり)の心駆けあるべし。無用の媒(なかだち)なり。この文も壺(つぼ)のつめにもなりぬべき』」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.415~416』小学館)
松斎は思いがけず痛いところを突かれた形になり激怒する。松斎は細野ともども袖にもされなかったと訴え細野主膳をそそのかして右京殺害を謀る。殺害を済ませばただちに他国へ逃げて行方をくらましてしまえばよい。右京のふいを付いて今夜にでも、と計画を語る。細野はいいアイデアだと思ったのか一も二もなく話に乗る。しかし小声の策略であっても城内の動きは伝わるのが早い。細野・松斎両者のただならぬ身ごしらえの話を耳に入れた右京。多少剣のたしなみはあるものの、自分の命がどちらに転ぶのか誰も知らない。いったん采女に事情の急変を知らせようと思うけれども、一方、采女を巻き添えにすることは本意でない。気持ちを落ち着け、右京みずから細野の寝首を、と刀を腰に決行を決意する。寛永十六年(一六三九年)卯月(四月)十七日のこと。
「松斎是非なく、主膳にすすめて、右京を討つて他(ひと)の国へ今宵(こよひうち)に立ちのくに極めければ、今日の夕(ゆふべ)を待ちて身拵(みごしら)へするを聞きて、はやのがれぬ所と思ひ定め、このあらまし采女(うねめ)にも知らせずしては、後の恨みも深かるべし、いわんもさすが武勇(ぶよう)の甲斐(かひ)はなし、我としずまる心の海、人を抱(いだ)きて淵に沈む事あらじ、と思ひ定め、寛永十七年卯月(うづき)十七日の夜なりけり」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.416』小学館)
雨がしきりに降っている。物淋しい夜だった。「宿直人(とのゐ)も眠りにおかされ、袖を敷寝(しきね)して前後を弁(わきま)へず」前後不覚に居眠っている。この時とばかりに右京は細野のところへ向かう。雪よりも白いかと見まごうほどの「薄衣(うすぎぬ)を引違(ひきちが)へ、きよげに着なし、錦の袴(はかま)すそ高(だか)に、常より薫物(たきもの)をかをらせ、太刀引きそばめ、しのびやかに立ちむかふ」。
「折節その夜は雨もしきりに物淋(ものさび)しく、宿直人(とのゐ)も眠りにおかされ、袖を敷寝(しきね)して前後を弁(わきま)へず、この時とうちむかふ、その様えもいはれず。雪ねたましき薄衣(うすぎぬ)を引違(ひきちが)へ、きよげに着なし、錦の袴(はかま)すそ高(だか)に、常より薫物(たきもの)をかをらせ、太刀引きそばめ、しのびやかに立ちむかふ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.416』小学館)
一方の細野主膳。この日は宿直(とのい)を務めていた。「鷹(たか)づくし屏風(びやうぶ)に寄り懸り」、「持てる扇の要(かなめ)」が外れたようで、うつむいて下を見たところ、今しかないと走り出た右京。細野の「右の肩先より乳(ち)の下まで切り付けぬ」。
「主膳は広間をつとめて、鷹(たか)づくし屏風(びやうぶ)に寄り懸り、持てる扇の要(かなめ)はしるを、さしうつぶいて見る所を、はしり懸りて声を掛けて打つ程に、右の肩先より乳(ち)の下まで切り付けぬ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.416~417』小学館)
ばっさり行ったつもりだが主膳は武士である。しばしのあいだ二人はもつれあった。とはいえ、最初に深手を負った主膳。口惜しがりながら倒れた。そこを右京は押し伏せて、二太刀刺し貫いた。細野主膳は死んだ。さらに、あの失礼な茶坊主はどこにと、「燈(ともしび)をしめし、すずろに時をうつしける」。なんとなくぼうっとして待っていた。
「しばし切り結びけれども、深手(ふかで)に痛み、『口惜しや』といふ声ともに倒れしを押し伏せ、二刀さし通し、かの法師めも一太刀と、燈(ともしび)をしめし、すずろに時をうつしける」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.417』小学館)
そこへ、それまで眠りこけていた番人らが騒ぎで目を覚まし、ようやく現場にやって来た。現場の凄まじい様子を見て「建久(けんきう)のむかし、富士の狩場(かりば)の周章(さわぎ)」(曽我兄弟の敵討ち)もかくやとただちに右京を取り囲んで捕縛し、主人の前へ引きつれ出した。
「これぞ建久(けんきう)のむかし、富士の狩場(かりば)の周章(さわぎ)もかくこそ。敷台(しきだい)に織田の何がし・建部(たけべ)四郎、いそぎ燈(ともしび)あらはし、右京を取りかこめ御前に出(いで)ける」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.417』小学館)
殿様はいう。どんな恨みがあったのか知らないが、それでもなお上のものの知らないうちを見計らって勝手に狼藉を働く行為を許すわけにはいかない。
「いかなる宿意(しゆくい)にてにあれかし上(かみ)をないがしろにしたる事いはれなし」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.417』小学館)
殿様は「徳松主殿」に細かく調査させる。すると次第に内容がわかってきた。協議の結果、いったん「預り」となる。内部調査に当たった徳松主殿は右京の側に筋があり情もあると考えたのか、屋敷内の一室を右京に与え、夜の間いろいろと語り合った。
「子細(しさい)は徳松主殿(とくまつとのも)にあらためさせ給ふに、段々至極(しごく)の始終を申しあぐるに、『御預り』との御意くだし給へば、右京を屋形の一間なる所をしつらひ、その夜はさまざまいたはりける」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.417』小学館)
ところが細野主膳の両親というのは小笠原家に直属する一族。父親は寛永九年(一六三二年)、播磨国明石十万石から豊前小倉十七万石へ出世した当時の小笠原忠真(おがさわらただざね)。ねじ込んできて言った。「腹を切るのが妥当である」と。
「討たれし人の親は、小笠原の家久しき細野民部(ほそのみんぶ)なりしが、我が子の討たれし所へかけ込み、『腹切らんにはしかじ』と怒(いか)れる」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.417』小学館)
母親もいう。「人殺しを助けてこの世に生かしておくのですか」。もっとものように聞こえる。けれども小笠原一族もまた徳川政権ができるまでは戦乱の中でさんざん大量殺戮に手を染めてきた軍事集団だった。
「人を殺したる者、故なくたすけ、世に時めかせんの事は」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.418』小学館)
話を聞きつけた京都東福寺の首座までが口を出してきた。この人物は少々ややこしい。「天樹院殿の御局刑部卿の御子」。さらに天樹院は徳川第二代将軍秀忠の長女。豊臣秀頼の妻・千姫。なぜ口出しするのかよくわからないが、ともかく右京に切腹を命じる。茶坊主の松斎も立場上もはやこれまでと知ったのか自害した。
「御局宮内卿(おつぼねくないきやう)の子に、はじめは東福寺(とうふくじ)の首座(しゆそ)たりしが、いつの頃還俗(げんぞく)して後藤の何がし、馬に鞭(むち)をすすめ、しがじかの事申されけるに、道理に極(きは)まり、右京に切腹仰せ付けられければ、中立ちせし松斎も、吾(われ)と最後に及びける」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.418』小学館)
だが西鶴はここで小説を終わらせていない。もちろん熊楠も、ここで終わるような戯作者の作品であったならそれほど高く評価しなかったに違いない。問題はもう少し先のほんの僅かな記述に見えている。そこに至って始めて西鶴のこの小説はまず第一に「太平記」の或る箇所へと、さらに古代ギリシアへと一挙に繋がることになる。
BGM1
BGM2
BGM3
「奥州の花咲爺は、花咲かせとの対照のために、我々は雁取爺という方の名を採用しているが、実地には上の爺下の爺、もしくは是と似よりの名を以て記憶せられるものが多く、既にアイヌの中にまでも、この名の昔話が数多く入込んでいるそうである。元来は善悪二組の爺婆が、一方は幸運に恵まれて家富み栄え、他方はすべてがその逆を行って破滅する話の、全部を総括する名称だったかも知れぬが、その中でも特にこの犬の子を川から拾い上げる話が、そう呼ぶのに似つかわしかったと見えて、現在はほぼ是一つに限られている」(柳田國男「昔話と文學・花咲爺」『柳田國男集・第六巻・P.209~210』筑摩書房)
柳田による要点は次に列挙された通り。
「一、上下ふたりの爺は、春になって川に簗を掛ける。上の爺の簗に小さな白犬が流れて来る。上の爺は無慈悲でそれを取って投げると、今度は下の爺の簗に行って掛かる。下の爺は拾って還って可愛がって育てる。岩手県の一例には木の株が一つ流れて来たというのがある。それを下の爺が拾って還って割ろうとすると、中から声をかけて子犬が出て来たとも謂っている。越後南蒲原では婆が洗濯をしていると、香箱が流れて来てその中にえのころがいたといい、越の上新郡のは流れて来たのは大きな桃で、それを持って来て臼の中にしまって置くと、いつの間にか子犬になっていたとも謂う。
二、その子犬はちょっとの間に大きくなる。一ぱい食わせれば一ぱいだけ、二はい食わせれば二はいだけ大きくなったとも謂えば、碗で食わせると碗だけおがり、皿で食わせれば皿だけおがったとも謂って、色々の形容で急激の成長ぶりと説いているのである。
三、その犬が大きくなってから、山へ鹿捕りに爺を誘うて行く。鉈も小ダスも弁当も爺様もみんな背なかへ載せて行くというところに、子供の面白がりそうな犬と爺とのか数回の問答がある。
四、それから山に入って、喜界島などよりは又ずっと大がかりな狩猟が行われる。あっちの山の鹿も来い、こっちの山の鹿も来いという類の呪文の詞を、犬が自ら唱えたというのと、爺に教えて唱えさせたという例と二つあるが、とにかくにこれによって莫大な獲物をもって還って来るのである。
五、上の爺がそれを羨んで、強いて犬を借りて同じ事を試み、尽く失敗する條は他の話も同じく、怒って犬を叩き殺して山に埋めると、そこから樹が生えて急激に成長する。それを臼に听るから松の木といっている例もあるが、コメの木となっていいる方が話は面白い。コメの方は方言で、土地によって木は一定せぬが、とにかく灌木で臼などになる木ではないからである。
六、その木を臼に窪めて、唱えごとをいつしつ物を搗くと、金銀又は米が際限もなく涌き出す。上の爺が借りて試みて又失敗し、怒って焚いてしまって灰になるまでは亦他の話と近い。
七、ただ最終の灰の利用だけがちがっているのである。人の善い下の爺は灰を籠に入れて、風の吹く日に屋根に上って待っていると、雁の一群がグェグェと鳴いて通って行く。ここでも『雁の眼わあぐ(灰)入れ、爺の眼わあぐ入んな』と唱え言をして灰を撒くと、果してばたばたと雁が空から落ちて来る。例の真似爺は呪文を取りちがえたので、自分の眼へ灰が入ってころころと屋根から転げ落ちる。それを婆がいたに待構えていて、雁だと思って棒で打つというのがおしまいで、粗野だと言えばまあ大文粗野な話である」(柳田國男「昔話と文學・花咲爺」『柳田國男集・第六巻・P.210~211』筑摩書房)
単純だといえば言える。ところが今のように世界が安易にネットで繋がってしまえるような時代でなかった点で、当時はのっぴきならない重要性を担っていた。
「一層解にくかったのは鹿取りの呪文で、下の爺が『あっちのスガリもこっちや来う、こっちのスガリもこっちや来う』というと、鹿がびんぐりびんぐりと走り集まって来る。上の爺が真似をして同じ呪文を唱えると、四方の蜂が飛んで来て爺を螯したというに至っては、このスガリという奥州の方言が、鹿を意味し同時に地蜂を意味し、相違はただ僅かの音抑揚の差にあったとすると、これは座頭か何かの口で話す昔話だけに、保存し得るような微妙なるユウモアである」(柳田國男「昔話と文學・花咲爺」『柳田國男集・第六巻・P.212』筑摩書房)
説話が説話だけで完結していたならなるほど「ユーモア」で済ませることもできた。ところが単なる駄洒落ではとても済まされない伝達技術を持っていた(「僅かの音抑揚の差にあった」)のが、何を隠そう「座頭・歌比丘尼」らであった。今なお日本各地に散在する歴史的実態は彼らの存在なしにけっして見えてこない。彼らはその職業ゆえに賤視された。ところが賤視されると同時に神人とも考えられ崇められた。彼らは日本列島とその歴史の中に埋れたパルマコン(医薬/毒薬)として近代日本の成立とともにその聖性を剥奪されていった。彼らが常に楽器を手放さなかったことはもっと重要な点として考察されてよい。
「日本の文藝の中には、表現の方法そのものが、特にフォクロアの性質を十分に帯びているものが多いことは、座頭や歌比丘尼の例がよく示している」(柳田國男「口承文藝史考・文藝とフォクロア・五」『柳田國男集・第六巻・P.150』筑摩書房)
さて、熊楠の愛読書、西鶴「男色大鑑」から続き。
同じ頃に召し抱えられた細野主膳という人物がいた。武勇は誇りにしているのは勝手だが、いつも刀の柄をがちゃがちゃと鳴らし歩いて周囲に脅しをかけているように見えるので疎まれていた。
「近きころほひに召し出(いだ)されし細野主膳(ほそのしゆぜん)とて、勇みを先として朝夕太刀(たち)の柄(つか)をならせば、人皆うとみ果てける」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.415』小学館)
その細野主膳が右京に懸想した。右京はすでに采女と愛を交わそうと契りの手紙を見せあった仲だ。にもかかわらず、ずかずかと近づきあれこれしつこく口説いてくる細野主膳の声が「蝉の耳かしましき」かのように感じられ鬱陶しく思う。そこに頼まれもしないのに、節木松斎という茶坊主が細野と右京との間を取り持ってやろうとしゃしゃり出てきた。右京に近づき「命を懸けて情(なさけ)の御返事」を細野へやってはもらえまいかと話しかける。右京は松斎に向かってすぐさま言う。「法師の役は羽箒(はばはき)にて塵埃(ちりほこり)の心駆けあるべし。無用の媒(なかだち)なり。この文も壺(つぼ)のつめにもなりぬべき」。もはや戦国の世は終わっている。千利休のような本格派の茶人がいるわけでもない。ましてや人の心の機微をよく考えてみもしないで、はったり半分で刀の音を鳴らしながら他人の愛人に近寄ってくる人間の間に割り込んで両者の気持ちを取り持とうなどと。何を考えているのか。茶坊主はもっと本来の茶道の何たるかを学んでみるべきではないか。そうでなくてはせっかくの茶壺の意味をわからないだろう。と、そっけなく答えた。
「節木松斎(ふしきしようさい)とて、茶流(さりう)の調度を預けおかせ給ふ坊主、この恋を請(う)け取(と)り、『命を懸けて情(なさけ)の御返事』と申せば、右京うち笑ひて、『法師の役は羽箒(はばはき)にて塵埃(ちりほこり)の心駆けあるべし。無用の媒(なかだち)なり。この文も壺(つぼ)のつめにもなりぬべき』」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.415~416』小学館)
松斎は思いがけず痛いところを突かれた形になり激怒する。松斎は細野ともども袖にもされなかったと訴え細野主膳をそそのかして右京殺害を謀る。殺害を済ませばただちに他国へ逃げて行方をくらましてしまえばよい。右京のふいを付いて今夜にでも、と計画を語る。細野はいいアイデアだと思ったのか一も二もなく話に乗る。しかし小声の策略であっても城内の動きは伝わるのが早い。細野・松斎両者のただならぬ身ごしらえの話を耳に入れた右京。多少剣のたしなみはあるものの、自分の命がどちらに転ぶのか誰も知らない。いったん采女に事情の急変を知らせようと思うけれども、一方、采女を巻き添えにすることは本意でない。気持ちを落ち着け、右京みずから細野の寝首を、と刀を腰に決行を決意する。寛永十六年(一六三九年)卯月(四月)十七日のこと。
「松斎是非なく、主膳にすすめて、右京を討つて他(ひと)の国へ今宵(こよひうち)に立ちのくに極めければ、今日の夕(ゆふべ)を待ちて身拵(みごしら)へするを聞きて、はやのがれぬ所と思ひ定め、このあらまし采女(うねめ)にも知らせずしては、後の恨みも深かるべし、いわんもさすが武勇(ぶよう)の甲斐(かひ)はなし、我としずまる心の海、人を抱(いだ)きて淵に沈む事あらじ、と思ひ定め、寛永十七年卯月(うづき)十七日の夜なりけり」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.416』小学館)
雨がしきりに降っている。物淋しい夜だった。「宿直人(とのゐ)も眠りにおかされ、袖を敷寝(しきね)して前後を弁(わきま)へず」前後不覚に居眠っている。この時とばかりに右京は細野のところへ向かう。雪よりも白いかと見まごうほどの「薄衣(うすぎぬ)を引違(ひきちが)へ、きよげに着なし、錦の袴(はかま)すそ高(だか)に、常より薫物(たきもの)をかをらせ、太刀引きそばめ、しのびやかに立ちむかふ」。
「折節その夜は雨もしきりに物淋(ものさび)しく、宿直人(とのゐ)も眠りにおかされ、袖を敷寝(しきね)して前後を弁(わきま)へず、この時とうちむかふ、その様えもいはれず。雪ねたましき薄衣(うすぎぬ)を引違(ひきちが)へ、きよげに着なし、錦の袴(はかま)すそ高(だか)に、常より薫物(たきもの)をかをらせ、太刀引きそばめ、しのびやかに立ちむかふ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.416』小学館)
一方の細野主膳。この日は宿直(とのい)を務めていた。「鷹(たか)づくし屏風(びやうぶ)に寄り懸り」、「持てる扇の要(かなめ)」が外れたようで、うつむいて下を見たところ、今しかないと走り出た右京。細野の「右の肩先より乳(ち)の下まで切り付けぬ」。
「主膳は広間をつとめて、鷹(たか)づくし屏風(びやうぶ)に寄り懸り、持てる扇の要(かなめ)はしるを、さしうつぶいて見る所を、はしり懸りて声を掛けて打つ程に、右の肩先より乳(ち)の下まで切り付けぬ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.416~417』小学館)
ばっさり行ったつもりだが主膳は武士である。しばしのあいだ二人はもつれあった。とはいえ、最初に深手を負った主膳。口惜しがりながら倒れた。そこを右京は押し伏せて、二太刀刺し貫いた。細野主膳は死んだ。さらに、あの失礼な茶坊主はどこにと、「燈(ともしび)をしめし、すずろに時をうつしける」。なんとなくぼうっとして待っていた。
「しばし切り結びけれども、深手(ふかで)に痛み、『口惜しや』といふ声ともに倒れしを押し伏せ、二刀さし通し、かの法師めも一太刀と、燈(ともしび)をしめし、すずろに時をうつしける」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.417』小学館)
そこへ、それまで眠りこけていた番人らが騒ぎで目を覚まし、ようやく現場にやって来た。現場の凄まじい様子を見て「建久(けんきう)のむかし、富士の狩場(かりば)の周章(さわぎ)」(曽我兄弟の敵討ち)もかくやとただちに右京を取り囲んで捕縛し、主人の前へ引きつれ出した。
「これぞ建久(けんきう)のむかし、富士の狩場(かりば)の周章(さわぎ)もかくこそ。敷台(しきだい)に織田の何がし・建部(たけべ)四郎、いそぎ燈(ともしび)あらはし、右京を取りかこめ御前に出(いで)ける」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.417』小学館)
殿様はいう。どんな恨みがあったのか知らないが、それでもなお上のものの知らないうちを見計らって勝手に狼藉を働く行為を許すわけにはいかない。
「いかなる宿意(しゆくい)にてにあれかし上(かみ)をないがしろにしたる事いはれなし」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.417』小学館)
殿様は「徳松主殿」に細かく調査させる。すると次第に内容がわかってきた。協議の結果、いったん「預り」となる。内部調査に当たった徳松主殿は右京の側に筋があり情もあると考えたのか、屋敷内の一室を右京に与え、夜の間いろいろと語り合った。
「子細(しさい)は徳松主殿(とくまつとのも)にあらためさせ給ふに、段々至極(しごく)の始終を申しあぐるに、『御預り』との御意くだし給へば、右京を屋形の一間なる所をしつらひ、その夜はさまざまいたはりける」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.417』小学館)
ところが細野主膳の両親というのは小笠原家に直属する一族。父親は寛永九年(一六三二年)、播磨国明石十万石から豊前小倉十七万石へ出世した当時の小笠原忠真(おがさわらただざね)。ねじ込んできて言った。「腹を切るのが妥当である」と。
「討たれし人の親は、小笠原の家久しき細野民部(ほそのみんぶ)なりしが、我が子の討たれし所へかけ込み、『腹切らんにはしかじ』と怒(いか)れる」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.417』小学館)
母親もいう。「人殺しを助けてこの世に生かしておくのですか」。もっとものように聞こえる。けれども小笠原一族もまた徳川政権ができるまでは戦乱の中でさんざん大量殺戮に手を染めてきた軍事集団だった。
「人を殺したる者、故なくたすけ、世に時めかせんの事は」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.418』小学館)
話を聞きつけた京都東福寺の首座までが口を出してきた。この人物は少々ややこしい。「天樹院殿の御局刑部卿の御子」。さらに天樹院は徳川第二代将軍秀忠の長女。豊臣秀頼の妻・千姫。なぜ口出しするのかよくわからないが、ともかく右京に切腹を命じる。茶坊主の松斎も立場上もはやこれまでと知ったのか自害した。
「御局宮内卿(おつぼねくないきやう)の子に、はじめは東福寺(とうふくじ)の首座(しゆそ)たりしが、いつの頃還俗(げんぞく)して後藤の何がし、馬に鞭(むち)をすすめ、しがじかの事申されけるに、道理に極(きは)まり、右京に切腹仰せ付けられければ、中立ちせし松斎も、吾(われ)と最後に及びける」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.418』小学館)
だが西鶴はここで小説を終わらせていない。もちろん熊楠も、ここで終わるような戯作者の作品であったならそれほど高く評価しなかったに違いない。問題はもう少し先のほんの僅かな記述に見えている。そこに至って始めて西鶴のこの小説はまず第一に「太平記」の或る箇所へと、さらに古代ギリシアへと一挙に繋がることになる。
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