右京の切腹は「この曙(あけぼの)」=夜明けに執行するとの命令が下った時、采女は母が暮らす神奈川で休養していた。志賀左馬之介はただちに事の次第を書き付けた手紙を采女のもとへ送り届けさせる。
「左馬之助方(さまのすけかた)より文いそぎて始終を書き付け、『この曙(あけぼの)に浅草の慶養寺(けいやうじ)にて切腹』と申し遣(つか)はしける」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.418』小学館)
日が昇るまでに浅草へと慌てる采女。海路で何とか浅草へ到着した時すでに「夜も白々と明けぬ」。江戸の町は明け方を迎えたばかりだった。浅草慶養寺の周りには物見高い人々が参集している。そこへ大勢の付き添いを随えた新しい乗物が門前に到着、中から右京が降り立った。慌てる様子一つなく悠々と周囲を眺めている。その衣装は右京がこの世で身にまとう最後の衣装だ。「白うきよらかなる唐綾(からあや)の織物に、あだなる露草の縫尽(ぬひづく)し、浅黄上下(あさぎかみしも)」。浅黄は浅葱(あさぎ)で、藍染の一種。水色にほぼ近い。はかない露草の刺繍でびっしり埋め尽くされている。また門前には数々の卒塔婆(そとば)が立ち並んでいるのが見える。それぞれの家々が出した哀惜の念、涙の数で綴ったものだ。
「新しき乗物、大勢つきづきありて、外門(そともん)にかきすゑてゆたけに出(いで)しけはひ、またなくはなやかなり。白うきよらかなる唐綾(からあや)の織物に、あだなる露草の縫尽(ぬひづく)し、浅黄上下(あさぎかみしも)織目ただしく、うららかにそこらを見渡し給ふに、卒塔婆(そとば)の数の立ちけるは家々の涙ぞかし」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.419』小学館)
次の漢文は「梢に残るを待つとも」と読ませているが本文は誤り。「縦旧年花残梢、待後春是人心」が正しい。境内には咲き遅れ散り残った山桜が見える。右京なき後の采女にことか。悲しいというほかない。
「縦旧年花梢残待後春是人心(たとひきうねんのはなこずゑにのこるをまつともこうしゆんこれじんしん)」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.419~420』小学館)
錦の縁取りした畳に座った右京。吉川勘解由(きちかはかげゆ)が介錯の準備を整えて待っている。当時すでに腹切りでさえ形式が出来上がっていた。戦国時代とはまた違い近世的に構造化された切腹作法が完成されている。切腹するかしないか。それすら上の者の決定に従わねばならない。なおかつ儀式ゆえ式次第があり、定められた順序に則って執行される。右京は介錯役の吉川勘解由を近くへ呼び寄せ、自分の「鬢(びん)の美しげなる、押し切り、畳紙(たたうがみ)に包みて」言う。京都堀川にいる母のもとへ、今はの右京の形見だと言って、送り届けて下さい。
「錦の縁(へり)取りし畳に座して、介錯(かいしやく)の吉川勘解由(きちかはかげゆ)を招き、鬢(びん)の美しげなる、押し切り、畳紙(たたうがみ)に包みて、『これなん都堀川(ほりかは)の母の許(もと)へ、今はの形見と、便(たよ)りに言ひ送り給はれ』とさし置く」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.420』小学館)
そして立ち合いの和尚にこう述べる。長寿を保つ美人であってなお鬢は薄く白髪にもなりましょう。容色が最も新鮮で衰えないうちに誠の心を果たして剣の上に伏すのなら、これこそ成仏だと考えます。
「この世の長生(ちやうせい)をたもつ美人、鬢糸(びんし)をまぬかれず。容色新(あらた)なる本意達して、自(みづか)ら剣(やいば)の上にふす事、これ成仏(じやうぶつ)」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.420』小学館)
辞世の詠。袂から青地の短冊を取り出し硯を借りて書きつける。春秋月花をめでた月日ももはや夢のごとし。
「春は花秋は月にとたはぶれて詠(なが)めし事も夢のまたゆめ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.420』小学館)
辞世を書き置くや間髪入れず右京は腹を掻き切った。吉川勘解由は介錯した。吉川がその場を立ち退こうとしたその時、采女が駆け込んできた。「頼む」と言うやただちに腹を掻っ捌いた。そこで吉川は采女の首も介錯した。右京十六歳、采女十八歳。それを最後に二人は寛永の春の終わり、闇に消えた。
「采女走りかかり、『頼む』とばかり声して、腹掻き切れば、これも首かけて打ちぬ。今年十六・十八を一期(いちご)として、寛永の春の末に闇(やみ)とはなりぬ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.420』小学館)
長年両人に仕えていた家来たちは哀れを催し、互いに思いあまって刀を抜き放ち差し違えて死に、あるいは二人の菩提を弔うため髪を剃り落として出家した。
「年頃召し使はれし家の子ども、この哀れに思ひあひて、指し違へるもあり、また、もとどり切りて世を捨てて、主人の菩提(ぼだい)を弔ひけるとなり」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.420』小学館)
すぐに初七日がやって来た。取り残された格好の志賀左馬之助はこのまま生きていても仕方がないと、思いのたけを書き残し、自害して果てた。
「志賀左馬之助も、世にありてせんかたなしと、思ふ程を書き残して、七日に当り空(むな)しくなりぬ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.420~421』小学館)
江戸時代には切腹一つ取っても形式性あるいは記号化が加速した。西鶴は美貌の少年だけでなく歌舞伎役者や老出家らの間で行われた同性愛の諸相をも様々に取り上げている。とはいえ何も好みの顔立ちばかりが重視されたわけではない。この種の同性愛で最も微妙なポイントは、例えば右京の場合、武道に優れた細野を殺害し采女への愛を貫いたように、「ただ一心の正しきを寵愛」という点にあった。熊楠はいう。
「テーベの聖軍隊は若契に基づく。史家バックルかつて道義学上これもっとも潜心研究を要することながら、一概に避難の声高き社会にあって十分研究を遂ぐる見込みなしと嘆じた。『経国美談』を繙く者誰かかの隊士の忠勇義烈に感奮せざらん。しかるにエバミノンダス討死の際死なば共にと契約の詞違えず二人その尸上に殪れたと聞きて、敵王フィリムポス、この人にしてこの病ありと嘆じた。スパルタ王アゲシラオスは美童メガバテスを思い出づる常盤の山の岩躑躅のたびたびをの念を抑えて事に及ばず。マキシムス・チリウスこれをレオニダスの武烈に勝る大勇と讃し、ジオゲネス・ラエルチウズは特に哲学者ゼノの外色に染まざりしを称揚した(ボール『色痴編』一四二頁。レッキー『欧州道徳史(ヒストリ・オブ・ユーロピアン・モラルス)』五章二節注)。けだしギリシアで肖像を公立された最初の人物がアリストゲイトンとハルモジオスの二若契者だったり、哲学者や詩人でこれを称道すること多かったのを参考すると、初め武道奨励の一途よりこれを善事(よいこと)としたが、もとより天然に背いたことゆえ、これを非とする者も少なくなかったので、わが邦の熊沢先生同様、世間一汎の旧慣でよいところもあれば強いて咎めずに置けくらいの説が多かったと見える。このよいところすなわち節義を研(みが)き志操を高くするほどの若契は特にギリシアとペルシアに限ったようエルシュおよびグリューベルの『百科全書』に書きおるが、そは東洋のことを明らめなんだからで、日本にも支那にもそんな例はたくさんある。『武功雑記』に、小笠原兵部大輔、大坂で打死の刻(とき)、十人の近習九人までもその側らに義を遂げ、一人他所で働き死を共にせざりし島館弥右衛門は、主君父子百日の追善に役義残すところなく勤め済まし見事に書置して追腹を切る。右十人共に小姓達なり。兵部大輔は小姓の容貌を第一と択ばず、ただ一心の正しきを寵愛せられた、とある。これはエバミノンダスの一条に優るとも劣らず」(南方熊楠「鳥を食うて王になった話」『浄のセクソロジー・P.307~308』河出文庫)
さらに右京の死体の上に重なって自害した采女。重なり合うことに何の意味もなかったわけではない。ただ単に抱きついたというわけでもまたない。「太平記」のエピソードから平家蟹をテーマとして熊楠が論じた秦武文(はたのたけぶん)に由来する武文蟹。秦武文は御息所(みやすどころ)を一宮=尊良親王(たかながしんのう)の流刑地へ送り届ける途中で邪魔が入り失敗。腹十文字に掻き切って自害した。その後、事態が急転したため一宮はいったん流刑地から離れ再起することができたのだが、とうとう越前金崎城を最後に全滅することとなる。一宮は新田越後守義顕(にったえちごのかみよしあき)から戦況を聞く。新田義顕は切腹の方法を自分の身をもって一宮に伝える。
「新田越後守義顕(にったえちごのかみよしあき)は、一宮(いちのみや)に向かひまゐらせて、『合戦今はこれまでと覚えて候ふ。われわれは、力なく弓箭(きゅうせん)の名を惜しむべき家にて候ふ間、自害仕(つかまつ)らんずるにて候ふ。上様(うえさま)の御事(おんこと)は、たとひ敵の中へ御出で候ふとも、失ひまゐらすまでの事はよも候はじ。ただかやうにて御座(ござ)候へとこそ存じ候へ』と申されければ、一宮、いつよりも御快(おんこころよ)げにうち笑(え)ませ給ひて、『主上(しゅしょう)、帝都へ還幸(かんこう)なりし時、われを以て元首(げんしゅ)とし、汝(なんじ)を以て股肱(ここう)の臣たらしむ。それ股肱なくして、元首保(たも)つ事を得(え)んや。されば、わが命を白刃(はくじん)の上に縮(しじ)めて、怨(あた)を黄泉(こうせん)の下に酬(むく)はんと思ふなり。そもそも自害をばいかやうにしたるがよきものぞ』と仰せられければ、義顕、感涙(かんるい)を押さへて、『かやうに仕るものにて候ふ』と申しもはてず、左の脇に刀を突き立て、右の小脇のあばら骨三枚懸けて掻き破り、その刀を抜いて宮の御前に差し置き、うつ伏しになつて死ににけり」(「太平記3・第十八巻・9・金崎城落つる事・P.248~249」岩波文庫)
血塗れの刀を手に取った一宮。心変わりする様子もなくぶすりと自分の胸元に刀を突き立て、新田義顕の上に倒れ臥して死んだ。
「一宮、やがてその刀を召されて(御覧ずるに、柄口(つかぐち)に血余つて滑りければ、御衣(ぎょい)の袖を以て、刀の)柄(つか)をきりきりと押し巻かせ給ひて、雪の如くなる御膚(おんはだえ)を顕(あらわ)され、御心(おんむな)もとの辺に突き立てて、義顕が枕の上に臥させ給ふ」(「太平記3・第十八巻・9・金崎城落つる事・P.249」岩波文庫)
さらに家臣らも打ち続く。それを見た「並み居(い)たる兵三百八十人、互ひに差し違へ差し違へ、上が上に重(かさ)なり臥(ふ)す」。
「頭大夫行房(とうのだいぶゆきふさ)、武田五郎(たけだのごろう)、里見大炊助時義(さとみおおいのすけときよし)、気比弥三郎大夫氏治(けひのやさぶろうたゆううじはる)、太田帥法眼賢覚(おおたそつのほうげんけんがく)、御前に候ひけるが、『いざさらば、宮の御供仕らん』とて、前にありける瓦気(かわらけ)に刀の刃をかき合はせ、同音(どうおん)に念仏申して、一度に皆腹を切る。これを見て、庭上(ていしょう)に並み居(い)たる兵三百八十人、互ひに差し違へ差し違へ、上が上に重(かさ)なり臥(ふ)す」(「太平記3・第十八巻・9・金崎城落つる事・P.249~250」岩波文庫)
瓦気(かわらけ)で刀の刃をかき合わせ、とあるのは、城内の瓦で刀の刃を磨くという意味。軍記物の記述とはいえ、「三百八十人」が同時に自害、重なり合って死んでいく。敗北を敗北と認めるほかない時、人間は何を考え、どう行動するのか。もっとも、死ねばいいというわけではない。熊楠はむしろ逆に、追い詰められた場合、ただ単に切腹してお茶を濁してしまうことを許すような人間ではない。熊楠は書きながら問うてもいる。「ただ一心の正しき」とは何かと。さらに年末はもう目の前。
「熊野びくにが、身の一大事の地ごく極楽の絵図を拝ませ、又は息(いき)の根のつづくほどはやりうたをうたひ、勧進(くはんじん)をすれども、腰(こし)にさしたる一升びしやくに一盃(ぱい)はもらひかねける」(井原西鶴「才覚のぢくすだれ」『世間胸算用・巻五・P.147』角川文庫)
熊野比丘尼たちによる「ただ一心の正しき」。戦後日本の新自由主義は彼らに残された最後の血の一滴さえ奪い去っていった。誰も語りたがらないし誰かが語ろうとしても語らせようとしない。江戸時代よりなお一層事態は深刻である。そしてこれからもっと深刻さを増していくだろう。
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「左馬之助方(さまのすけかた)より文いそぎて始終を書き付け、『この曙(あけぼの)に浅草の慶養寺(けいやうじ)にて切腹』と申し遣(つか)はしける」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.418』小学館)
日が昇るまでに浅草へと慌てる采女。海路で何とか浅草へ到着した時すでに「夜も白々と明けぬ」。江戸の町は明け方を迎えたばかりだった。浅草慶養寺の周りには物見高い人々が参集している。そこへ大勢の付き添いを随えた新しい乗物が門前に到着、中から右京が降り立った。慌てる様子一つなく悠々と周囲を眺めている。その衣装は右京がこの世で身にまとう最後の衣装だ。「白うきよらかなる唐綾(からあや)の織物に、あだなる露草の縫尽(ぬひづく)し、浅黄上下(あさぎかみしも)」。浅黄は浅葱(あさぎ)で、藍染の一種。水色にほぼ近い。はかない露草の刺繍でびっしり埋め尽くされている。また門前には数々の卒塔婆(そとば)が立ち並んでいるのが見える。それぞれの家々が出した哀惜の念、涙の数で綴ったものだ。
「新しき乗物、大勢つきづきありて、外門(そともん)にかきすゑてゆたけに出(いで)しけはひ、またなくはなやかなり。白うきよらかなる唐綾(からあや)の織物に、あだなる露草の縫尽(ぬひづく)し、浅黄上下(あさぎかみしも)織目ただしく、うららかにそこらを見渡し給ふに、卒塔婆(そとば)の数の立ちけるは家々の涙ぞかし」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.419』小学館)
次の漢文は「梢に残るを待つとも」と読ませているが本文は誤り。「縦旧年花残梢、待後春是人心」が正しい。境内には咲き遅れ散り残った山桜が見える。右京なき後の采女にことか。悲しいというほかない。
「縦旧年花梢残待後春是人心(たとひきうねんのはなこずゑにのこるをまつともこうしゆんこれじんしん)」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.419~420』小学館)
錦の縁取りした畳に座った右京。吉川勘解由(きちかはかげゆ)が介錯の準備を整えて待っている。当時すでに腹切りでさえ形式が出来上がっていた。戦国時代とはまた違い近世的に構造化された切腹作法が完成されている。切腹するかしないか。それすら上の者の決定に従わねばならない。なおかつ儀式ゆえ式次第があり、定められた順序に則って執行される。右京は介錯役の吉川勘解由を近くへ呼び寄せ、自分の「鬢(びん)の美しげなる、押し切り、畳紙(たたうがみ)に包みて」言う。京都堀川にいる母のもとへ、今はの右京の形見だと言って、送り届けて下さい。
「錦の縁(へり)取りし畳に座して、介錯(かいしやく)の吉川勘解由(きちかはかげゆ)を招き、鬢(びん)の美しげなる、押し切り、畳紙(たたうがみ)に包みて、『これなん都堀川(ほりかは)の母の許(もと)へ、今はの形見と、便(たよ)りに言ひ送り給はれ』とさし置く」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.420』小学館)
そして立ち合いの和尚にこう述べる。長寿を保つ美人であってなお鬢は薄く白髪にもなりましょう。容色が最も新鮮で衰えないうちに誠の心を果たして剣の上に伏すのなら、これこそ成仏だと考えます。
「この世の長生(ちやうせい)をたもつ美人、鬢糸(びんし)をまぬかれず。容色新(あらた)なる本意達して、自(みづか)ら剣(やいば)の上にふす事、これ成仏(じやうぶつ)」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.420』小学館)
辞世の詠。袂から青地の短冊を取り出し硯を借りて書きつける。春秋月花をめでた月日ももはや夢のごとし。
「春は花秋は月にとたはぶれて詠(なが)めし事も夢のまたゆめ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.420』小学館)
辞世を書き置くや間髪入れず右京は腹を掻き切った。吉川勘解由は介錯した。吉川がその場を立ち退こうとしたその時、采女が駆け込んできた。「頼む」と言うやただちに腹を掻っ捌いた。そこで吉川は采女の首も介錯した。右京十六歳、采女十八歳。それを最後に二人は寛永の春の終わり、闇に消えた。
「采女走りかかり、『頼む』とばかり声して、腹掻き切れば、これも首かけて打ちぬ。今年十六・十八を一期(いちご)として、寛永の春の末に闇(やみ)とはなりぬ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.420』小学館)
長年両人に仕えていた家来たちは哀れを催し、互いに思いあまって刀を抜き放ち差し違えて死に、あるいは二人の菩提を弔うため髪を剃り落として出家した。
「年頃召し使はれし家の子ども、この哀れに思ひあひて、指し違へるもあり、また、もとどり切りて世を捨てて、主人の菩提(ぼだい)を弔ひけるとなり」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.420』小学館)
すぐに初七日がやって来た。取り残された格好の志賀左馬之助はこのまま生きていても仕方がないと、思いのたけを書き残し、自害して果てた。
「志賀左馬之助も、世にありてせんかたなしと、思ふ程を書き残して、七日に当り空(むな)しくなりぬ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.420~421』小学館)
江戸時代には切腹一つ取っても形式性あるいは記号化が加速した。西鶴は美貌の少年だけでなく歌舞伎役者や老出家らの間で行われた同性愛の諸相をも様々に取り上げている。とはいえ何も好みの顔立ちばかりが重視されたわけではない。この種の同性愛で最も微妙なポイントは、例えば右京の場合、武道に優れた細野を殺害し采女への愛を貫いたように、「ただ一心の正しきを寵愛」という点にあった。熊楠はいう。
「テーベの聖軍隊は若契に基づく。史家バックルかつて道義学上これもっとも潜心研究を要することながら、一概に避難の声高き社会にあって十分研究を遂ぐる見込みなしと嘆じた。『経国美談』を繙く者誰かかの隊士の忠勇義烈に感奮せざらん。しかるにエバミノンダス討死の際死なば共にと契約の詞違えず二人その尸上に殪れたと聞きて、敵王フィリムポス、この人にしてこの病ありと嘆じた。スパルタ王アゲシラオスは美童メガバテスを思い出づる常盤の山の岩躑躅のたびたびをの念を抑えて事に及ばず。マキシムス・チリウスこれをレオニダスの武烈に勝る大勇と讃し、ジオゲネス・ラエルチウズは特に哲学者ゼノの外色に染まざりしを称揚した(ボール『色痴編』一四二頁。レッキー『欧州道徳史(ヒストリ・オブ・ユーロピアン・モラルス)』五章二節注)。けだしギリシアで肖像を公立された最初の人物がアリストゲイトンとハルモジオスの二若契者だったり、哲学者や詩人でこれを称道すること多かったのを参考すると、初め武道奨励の一途よりこれを善事(よいこと)としたが、もとより天然に背いたことゆえ、これを非とする者も少なくなかったので、わが邦の熊沢先生同様、世間一汎の旧慣でよいところもあれば強いて咎めずに置けくらいの説が多かったと見える。このよいところすなわち節義を研(みが)き志操を高くするほどの若契は特にギリシアとペルシアに限ったようエルシュおよびグリューベルの『百科全書』に書きおるが、そは東洋のことを明らめなんだからで、日本にも支那にもそんな例はたくさんある。『武功雑記』に、小笠原兵部大輔、大坂で打死の刻(とき)、十人の近習九人までもその側らに義を遂げ、一人他所で働き死を共にせざりし島館弥右衛門は、主君父子百日の追善に役義残すところなく勤め済まし見事に書置して追腹を切る。右十人共に小姓達なり。兵部大輔は小姓の容貌を第一と択ばず、ただ一心の正しきを寵愛せられた、とある。これはエバミノンダスの一条に優るとも劣らず」(南方熊楠「鳥を食うて王になった話」『浄のセクソロジー・P.307~308』河出文庫)
さらに右京の死体の上に重なって自害した采女。重なり合うことに何の意味もなかったわけではない。ただ単に抱きついたというわけでもまたない。「太平記」のエピソードから平家蟹をテーマとして熊楠が論じた秦武文(はたのたけぶん)に由来する武文蟹。秦武文は御息所(みやすどころ)を一宮=尊良親王(たかながしんのう)の流刑地へ送り届ける途中で邪魔が入り失敗。腹十文字に掻き切って自害した。その後、事態が急転したため一宮はいったん流刑地から離れ再起することができたのだが、とうとう越前金崎城を最後に全滅することとなる。一宮は新田越後守義顕(にったえちごのかみよしあき)から戦況を聞く。新田義顕は切腹の方法を自分の身をもって一宮に伝える。
「新田越後守義顕(にったえちごのかみよしあき)は、一宮(いちのみや)に向かひまゐらせて、『合戦今はこれまでと覚えて候ふ。われわれは、力なく弓箭(きゅうせん)の名を惜しむべき家にて候ふ間、自害仕(つかまつ)らんずるにて候ふ。上様(うえさま)の御事(おんこと)は、たとひ敵の中へ御出で候ふとも、失ひまゐらすまでの事はよも候はじ。ただかやうにて御座(ござ)候へとこそ存じ候へ』と申されければ、一宮、いつよりも御快(おんこころよ)げにうち笑(え)ませ給ひて、『主上(しゅしょう)、帝都へ還幸(かんこう)なりし時、われを以て元首(げんしゅ)とし、汝(なんじ)を以て股肱(ここう)の臣たらしむ。それ股肱なくして、元首保(たも)つ事を得(え)んや。されば、わが命を白刃(はくじん)の上に縮(しじ)めて、怨(あた)を黄泉(こうせん)の下に酬(むく)はんと思ふなり。そもそも自害をばいかやうにしたるがよきものぞ』と仰せられければ、義顕、感涙(かんるい)を押さへて、『かやうに仕るものにて候ふ』と申しもはてず、左の脇に刀を突き立て、右の小脇のあばら骨三枚懸けて掻き破り、その刀を抜いて宮の御前に差し置き、うつ伏しになつて死ににけり」(「太平記3・第十八巻・9・金崎城落つる事・P.248~249」岩波文庫)
血塗れの刀を手に取った一宮。心変わりする様子もなくぶすりと自分の胸元に刀を突き立て、新田義顕の上に倒れ臥して死んだ。
「一宮、やがてその刀を召されて(御覧ずるに、柄口(つかぐち)に血余つて滑りければ、御衣(ぎょい)の袖を以て、刀の)柄(つか)をきりきりと押し巻かせ給ひて、雪の如くなる御膚(おんはだえ)を顕(あらわ)され、御心(おんむな)もとの辺に突き立てて、義顕が枕の上に臥させ給ふ」(「太平記3・第十八巻・9・金崎城落つる事・P.249」岩波文庫)
さらに家臣らも打ち続く。それを見た「並み居(い)たる兵三百八十人、互ひに差し違へ差し違へ、上が上に重(かさ)なり臥(ふ)す」。
「頭大夫行房(とうのだいぶゆきふさ)、武田五郎(たけだのごろう)、里見大炊助時義(さとみおおいのすけときよし)、気比弥三郎大夫氏治(けひのやさぶろうたゆううじはる)、太田帥法眼賢覚(おおたそつのほうげんけんがく)、御前に候ひけるが、『いざさらば、宮の御供仕らん』とて、前にありける瓦気(かわらけ)に刀の刃をかき合はせ、同音(どうおん)に念仏申して、一度に皆腹を切る。これを見て、庭上(ていしょう)に並み居(い)たる兵三百八十人、互ひに差し違へ差し違へ、上が上に重(かさ)なり臥(ふ)す」(「太平記3・第十八巻・9・金崎城落つる事・P.249~250」岩波文庫)
瓦気(かわらけ)で刀の刃をかき合わせ、とあるのは、城内の瓦で刀の刃を磨くという意味。軍記物の記述とはいえ、「三百八十人」が同時に自害、重なり合って死んでいく。敗北を敗北と認めるほかない時、人間は何を考え、どう行動するのか。もっとも、死ねばいいというわけではない。熊楠はむしろ逆に、追い詰められた場合、ただ単に切腹してお茶を濁してしまうことを許すような人間ではない。熊楠は書きながら問うてもいる。「ただ一心の正しき」とは何かと。さらに年末はもう目の前。
「熊野びくにが、身の一大事の地ごく極楽の絵図を拝ませ、又は息(いき)の根のつづくほどはやりうたをうたひ、勧進(くはんじん)をすれども、腰(こし)にさしたる一升びしやくに一盃(ぱい)はもらひかねける」(井原西鶴「才覚のぢくすだれ」『世間胸算用・巻五・P.147』角川文庫)
熊野比丘尼たちによる「ただ一心の正しき」。戦後日本の新自由主義は彼らに残された最後の血の一滴さえ奪い去っていった。誰も語りたがらないし誰かが語ろうとしても語らせようとしない。江戸時代よりなお一層事態は深刻である。そしてこれからもっと深刻さを増していくだろう。
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